「毛皮が渦を巻」く? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」
【訳文】
「俺がジェシー・フロリアンを殺したと考えた理由は何だ?」彼は不意に尋ねた。
「首に残っていた指の痕の開き具合だ。君は女から何かを聞き出そうとしていた。そして、その気はないのに人を殺してしまうほど力が強いというのも事実だ」
「警察も俺の仕業と思ってるのか?」
「どうだろうな」
「俺は何を聞き出そうとしてたんだ?」
「女がヴェルマの居所を知っているかも知れない、と君は考えた」
彼は黙ってうなずき、私を凝視し続けた。
「しかし、女は知らなかった」私は言った。「ヴェルマはあの女より抜け目がない」
ドアを軽くノックする音がした。
マロイは少し前屈みになって微笑み、銃をとりあげた。誰かがドアノブを回そうとした。マロイはゆっくり立ち上がり、屈みこんで耳を澄ました。それからドアを見てから私の方を振り返った。
私はベッドに起き上がり、脚を床に下ろして立ち上がった。マロイは黙って身じろぎもせず私を見ていた。私はドアの方に行った。
「誰だ?」私はドアの羽目板に唇をつけて訊ねた。紛れもなく彼女の声だった。「開けなさい、お馬鹿さん。ウィンザー公爵夫人よ」
「ちょっと待って」
私はマロイを振り返った。彼は眉をひそめた。私は彼の傍に寄り、小声で言った。「逃げ場がない。ベッドの裏にある更衣室で待っていてくれ。女を追い払う」
彼は話を聞いて、考えていた。その表情は読めなかった。彼には失うものはほとんどなかった。彼は恐れるもののない男だった。その巨躯に恐怖心は組み込まれていなかった。ついに彼は肯いて帽子とコートをつまみあげ、そっとベッドを回って更衣室の中に入った。ドアが閉まった。しかし、ぴったりと閉まってはいなかった。
私は彼の形跡がないか辺りを見回した。誰かが吸ったであろう煙草の吸殻だけが残っていた。私はドアに行き、錠を開けた。マロイは入った後で、錠をかけ直したのだ。
彼女は半ば微笑を浮かべて立っていた。話に聞いていたホワイト・フォックスのハイネックの袖なし外套を身に着けて。耳から垂れ下がったエメラルドのペンダントは柔らかな白い毛皮にほとんど埋まっていた。指を軽く曲げて小さなイヴニング・バッグを抱えていた。
私を見て、彼女の顔から微笑が消えた。頭から爪先までじろじろ見まわした。視線が冷やかになっていた。
「そういうことだったのね」彼女はにこりともしないで言った「パジャマに部屋着。私に可愛い素敵なエッチングを見せるために。私がばかだったわ」
私は脇に立ってドアを支えた。「そうじゃないんだ。着がえようとしたところへ警官がやってきて、今帰ったところなんだ」
「ランドール?」
私はうなずいた。うなずいただけでも嘘になる。だが、気が咎めない嘘だ。彼女は一瞬ためらった後、馥郁たる毛皮をふわりとなびかせて私の前を通り過ぎた。
私はドアを閉めた。彼女はゆっくり歩いて部屋を横切り、ぼんやりと壁を眺め、それからいきなり振り返った。
「お互い理解し合いましょう」彼女は言った。「私を思い通りにしようなんて無理。廊下みたいなベッドルームでの情事なんか願い下げ。そんな時代もあったけど、過ぎたことよ。何をするにも雰囲気というものがなくてはね」
「出ていく前に一杯どうだい?」私はドアに凭れかかったまま、部屋を隔てて彼女と向き合った。
「私は出ていくの?」
「ここがお気に召さないように思えたのでね」
「言っておきたかったの。それには少し下品にならなきゃ。私はその辺にいる淫乱女じゃない。モノにすることはできる――けど、手を伸ばすだけではだめ。ええ、一杯いただくわ」
私はキチネットに行き、まだ震えの残る手で二つのグラスにスコッチを注ぎ、ソーダで割った。グラスを手に部屋に戻り、一つを彼女に手渡した。
更衣室は無音で、息遣いさえしなかった。
彼女はグラスを取ってひとくち味見し、グラス越しに奥の壁を見た。「パジャマ姿で出迎える男は嫌いなの」彼女は言った。「おかしな話よね。あなたのことは好きだった。それも、かなり。でも、忘れることはできる。そうやっていつも乗り越えてきた」
私はうなずいて酒を飲んだ。
「たいていの男は下劣な獣」彼女は言った。「それどころか、世界そのものかなり下劣。私に言わせれば、だけど」
「金が解決してくれるだろう」
「お金のないときはそう思う。実のところ、それはまた別の面倒を引き起こす」彼女は不思議そうに微笑んだ。「そして、古い方の面倒がいかに厄介だったかを忘れてしまう」
【解説】
「ベッドの裏にある更衣室で待っていてくれ」は<Go in the dressing room behind the bed and wait>。清水訳は「ベッドのうしろに戸棚がある。あそこに入って、待っていてくれ」。村上訳は「ベッドの奥にある化粧室に入っていてくれないか」。<dressing room>は、劇場であれば「楽屋」だが、家庭では「寝室の隣にある着替え用の小さな部屋」のこと。「化粧室」ともいうが、「戸棚」では狭すぎる。ウォークイン・クローゼットの意味で「戸棚」としたのだろうか。
「彼女は一瞬ためらった後、馥郁たる毛皮をふわりとなびかせて私の前を通り過ぎた」は<She hesitated a moment, then moved past me with a swirl of scented fur>。清水訳は「彼女はしばらくためらっていたが、毛皮の匂いを残しながら、私の前を通って部屋に入った」。村上訳は「彼女は少し迷ったが、私のそばを通って中に入った。香水を振った毛皮が、私の鼻先で小さな渦を巻いた」。毛皮が渦を巻くものだろうか? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」の意味だ。
「私を思い通りにしようなんて無理。廊下みたいなベッドルームでの情事なんか願い下げ。そんな時代もあったけど、過ぎたことよ。何をするにも雰囲気というものがなくてはね」は<I'm not this much of a pushover. I don't go for hall bedroom romance. There was a time in my life when I had too much of it. I like things done with an air>。
清水訳は「私、こんなの嫌いよ。すぐベッドが出て来るんじゃ、少しも趣味がないじゃないの。それでよかった時代もあるけれど、いまさら、そんな時代を想い出したくないのよ。火あそびも、ロマンスの匂いが欲しいわ」。語順を入れ替え、解説がいりそうなところはスルーし、それらしい台詞にしている。
村上訳は「私はそんなお手軽な女じゃないの。せせこましい寝室でのどたばたした情事なんてごめんよ。そういうのは昔話、もううんざりなの。ものごとには情緒ってものがなくちゃね」。<pushover>は「騙されやすい(すぐ言いなりになる)人」のことを言う。<hall bedroom>とは<hall>(廊下)のように狭い寝室のことで、マーロウの収納式ベッドを採用した一間きりのアパートの部屋の狭さを揶揄っている。
「言っておきたかったの。それには少し下品にならなきゃ。私はその辺の淫乱女じゃない。モノにすることはできる――けど、手を伸ばすだけではだめ」は<I wanted to make a point. I have to be a little vulgar to make it. I'm not one of these promiscuous bitches. I can be had-but not just by reaching>。
清水訳は「一言(ひとこと)いっておきたかっただけだわ。誰にでも身をまかせる女と思われたくなかったのよ。身をまかせるのはかまわないけれど、抱きさえすれば、いつでもいうことをきくと思われるのが厭なんだわ」。二文目の< I have to be a little vulgar to make it>がカットされているだけでなく、最後の文も少し意味が変わっている。
村上訳は「私は要点を明らかにしておきたかっただけ。そのためにはあまり面白くないことも口にしなくてはならない。私はね、そのへんのやらせ(傍点三字)女とは違うの。男に身を任せることもあるかもしれない。でも、それほどお手軽にはいかない」。意味はその通りだが、これでは<vulgar>「(人が)育ちがよくない、趣味の悪い、粗野な、下品な」という言葉が生きてこない。
「彼女はグラスを取ってひとくち味見し、グラス越しに奥の壁を見た」は<She took the glass and tasted it and looked across it at the far wall>。清水訳は「グレイル夫人はグラスを口に持っていって、ちょっと唇をつけてから、正面の壁に視線を送った」。<looked across it>がカットされている。村上訳は「彼女はグラスを手に取ってそれを味わい、グラス越しに向こうの壁を見た」。<taste>に「味わう」の意味は当然あるが、ここでは「味見」くらいの意味ではないか。清水訳の方がこなれている。
「おかしな話よね」は<It's a funny thing>。ここは、その前の「パジャマ姿で出迎える男は嫌いなの」に続いているのではないだろうか。女をデートに誘っておいて、パジャマ姿で出迎える男はかなりあやしい。それで<It's a funny thing>と言ったのだ。ところが、清水訳は「なぜだかわからないけれど、(私はあんたが好きになったわ)」と、次の文へのつなぎとしている。村上訳も「どうしてかはわからないけど、(あなたのことが気に入ったのよ)」と、旧訳を踏襲している。首をひねりたくなるところだ。