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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

チャンドラー『湖中の女』を訳す 第一章(1)

【はじめに】

 ずぶの素人がまるまる一冊、長篇小説を訳してみようと無謀な試みを思い立ったには訳がある。村上春樹氏がチャンドラーの長篇の新訳を出したことで、新訳について様々な意見が巻き起こった。旧訳でなじんできた読者に新訳が違和感を持って迎えられたのはよく判るが、村上訳そのものの是非については、本当のところは原文を読まないと分からない。それで、清水潔訳の『長いお別れ』文庫版と村上訳の『ロング・グッドバイ』単行本、それにブラック・リザード版の<The Long Goodbye>原文を用意して比べ読みから始めた。
 これがなかなか面白くて、次に『大いなる眠り』を比べ読みし、その次に『さらば愛しき女よ』を読みだしたが、もうその頃には、自分ならどう訳すだろうという好奇心が強くなっていて、試訳を始めたら病みつきになってしまった。
 最近の自動翻訳は、以前とは比べ物にならないほど精度がよく、著名な翻訳家も下訳になら使えるとお墨付きを出すほどだ。もっとも、チャンドラーの使う凝った比喩や、俗語、スラングには対応していないので、参考程度にしか使えない。やはり、こつこつと複数の辞書を引くことになる。ネットの情報も頼りになる。ロサンジェルス市庁舎の正面階段の高さもそれで確認した。
 さて、今回の『湖中の女』だが、原題は<The Lady in the Lake>。ウォルター・スコット叙事詩<The Lady of the Lake>(湖上の美人)に因んでいるのだろう。一語だけ違うのは、女が舟の上ではなく、死体となって水中にいるからだ。しかし、錘をつけて水底に沈められた訳ではないので、村上訳の『水底の女』は、あまり相応しい訳とは思えない。
 『湖中の女』には、清水潔訳、村上春樹訳の他に、田中小実昌訳があり、他に長篇のもとになった中篇小説を稲葉明雄氏が訳した「湖中の女」が晶文社刊『マーロウ最後の事件』に収められている。私訳にあたり、これらを参考にしたことをあらかじめことわっておく。

第一章

【訳文】

 トレロア・ビルディングは、今と同じように市の西側、六番街に近い、オリーヴ・ストリートにあった。ビルの前の歩道には黒と白のゴム・ブロックが敷かれていた。戦時で政府に供出するために掘り出されている最中だったが、ビルの管理人らしい青白い顔をした無帽の男が傷心の面持ちでそれを見ていた。
 男の前を通り過ぎ、専門店の並ぶアーケードを抜け、黒と金色の広大なロビーに入った。ギラ―レイン社は七階の正面側、プラチナに縁どられたガラスの両開きのドアが揺れる、その向こうにあった。応接室には中国製の敷物、鈍い銀色の壁、無骨ながらが手の込んだ家具、幾つかの台座に据えられた鋭く光る抽象彫刻、隅に置かれた三角形のショーケースには背の高い陳列棚が収まっていた。輝く鏡ガラスの階段の各層、島、張り出しには、これまでにデザインされたあらゆる意匠を凝らした壜や箱が置かれているようだった。すべての季節や場に応じたクリームやパウダー、石鹸、化粧水があった。香水の入った細長い瓶は一吹きで倒れそうだった。かわいいサテンで蝶結びされたパステル・カラーの小瓶に入った香水は、まるでダンス教室に通う少女たちのようだ。中でも最高級品は、ずんぐりした琥珀色の瓶に入った何か特別なとても小さいシンプルな品のようだ。目の高さにある棚の真ん中で、広いスペースを独占していた。ラベルには<ギラ―レイン・リーガル、香水のシャンパン>とあった。何としてでも手に入れるべき一品だった。喉の窪みに一滴たらせば、粒揃いのピンク・パールが夏の雨のように降りかかることだろう。
 きちんとした小柄な金髪娘が、危険地帯から遠く離れた柵の後ろ、小さな電話交換台の隅に坐っていた。奥の両扉の前には平机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた。机上の傾いた打ち出しの名札によると、名前はミス・エイドリアン・フロムセットだった。
 スチール・グレイのビジネス・スーツを着て上着の下はダーク・ブルーのシャツに明るい色の男物のタイを締めていた。胸のポケットチーフの角はパンが切れそうなほど鋭く折られていた。チェーンのブレスレット以外、アクセサリーは身につけていなかった。黒い髪は両側にゆるやかに垂らしていたが、ウェイブは手がかかっていた。滑らかな象牙色の肌で、かなりきつめに引いた眉と、大きな黒い瞳は時と場所さえ間違えなければ熱くなりそうに見えた。私は肩書き抜きの名刺、隅に機関銃が描いてないやつを彼女の机に置いて、ミスタ・ドレイス・キングズリーに会いたいと言った。彼女は名詞を見て言った。
「約束はおありでしょうか?」
「約束はしていない」
「約束なしにミスタ・キングズリーにお会いになることは大変難しいのです」
 それは私がどうこう言うことではなかった。
「どんなご用向きでしょう?」
「個人的なことだ」
「なるほど。ミスタ・キングズリーはあなたのことを存じ上げておりますでしょうか、ミスタ・マーロウ?」
「そいつはどうかな。名前くらいは聞いてるかもしれない。マッギー警部補に言われてきたと言った方がいいかもしれない」
「ミスタ・キングズリーはマッギー警部補を存じ上げておりますでしょうか?」
 彼女はタイプしたばかりのレターヘッド付き用箋の山の横に私の名刺を置いた。からだを後ろにそらし、片腕を載せた机を、小さな金色の鉛筆で軽くたたいた。
 私はにやっと笑って見せた。交換台の小柄なブロンドが貝殻のような耳をそばだてて、小さくふわりとした微笑を浮かべた。ふざけたくてたまらないらしいが、どうしたらいいのか分からないのだ。子猫のことなぞ構いもしない家に貰われてきた子猫のようだった。
「だといいのだが」私は言った。「彼に訊くのが一番かもしれない」
 彼女は私にペンセットを投げつけるのをやめて、三通の手紙に素早くイニシャルを書き留めた。そして顔も上げずに言った。
「ミスタ・キングズリーは会議中です。折を見て名刺をお取り次ぎします」
 私は礼を言って、クロームと革でできた椅子に腰をおろした。見かけよりずっと座り心地がよかった。時が過ぎその場に沈黙が立ちこめた。出入りする者は誰もいなかった。
 ミス・フロムセットのエレガントな手が書類の上で動き、交換台の子猫が時折立てる小さな話し声と、プラグを抜き差しする音が微かに聞こえてきた。
 私は煙草に火をつけ、灰皿スタンドを椅子の傍に引き寄せた。時は忍び足で、唇に指をあてて過ぎて行った。私はあたりを見渡した。こういうところは見かけだけでは何もわからない。儲けは何百万ドルになるかもしれず、後ろの部屋に雇われシェリフがいて、金庫に椅子の背を凭せて張り番をしているかもしれない。

【解説】

「トレロア・ビルディングは、今と同じように市の西側、六番街に近い、オリーヴ・ストリートにあった」は<The Treloar Building was, and is, on Olive Street, near Sixth, on the west side>。<on the west side>はL.Aの西側を意味すると思われるが、清水氏は「トレロア・ビルはいまとおなじオリーヴ通りの西がわの、六番通りに近いところにあった」と訳している。村上訳は「市西部の」、田中訳は「ロサンジェルスの西側」だ。

「輝く鏡ガラスの階段の各層、島、張り出しには」は<On tiers and steps and islands and promontories of shining mirror-glass>。清水訳は「きらきら輝いているミラー・ガラスの棚に」と<steps and islands and promontories>を例によってカットしている。田中訳は「たて、よこにかさなり、あるいはポツンと島のようにはなれ、また、岬みたいにつきだした、ピカピカひかる鏡ばりの陳列棚の上には」。村上訳は「きらびやかな鏡面ガラスでできた棚やステップや浮島(アイランド)や出っ張りの上には」。田中訳が読者には親切だが<tiers>も<steps>も上下の階段の意味だ。「たて、よこにかさなり」の訳がひっかかる。

「奥の両扉の前には平机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた」は<At a flat desk in line with the doors was a tall, lean, darkhaired lovely>。清水訳は「ドアから正面の飾りのないデスクには背が高く、ほっそりした、薄い色の髪の娘が座っていて」だ。<darkhaired>がどうして「薄い色の髪」になったのかは分からない。田中訳は「奥のドアに並んで、大きな飾りのない机があり、やせてすらっとした黒髪の美人がいた」。村上訳は「ドアとドアとを結ぶ線上に置かれたフラットなデスクの前には、ほっそりとした長身黒髪の美人が座っていた」。

<in line with ~>は「~に沿って」という意味だ。つまりガラスのスイング・ドアを入ると、その向こうにも二枚のドアが待っている造りで、奥のドアを守るように受付用のデスクが置かれているのだろう。それが訳者によって「飾りのないデスク」になったり「大きな飾りのない机」になったりし、「デスクに座っていた」り、「デスクの前に座っていた」りするのだから可笑しい。マーロウの視点から見れば、黒髪の女はデスクの向こう側にある椅子に座っているのでないと変だ。

「私は肩書き抜きの名刺、隅に機関銃が描いてないやつを彼女の机に置いて」は<I put my plain card, the one without the tommy gun in the corner, on her desk>。清水訳は「私は固書きのついていない名刺を彼女のデスクにおいて」。田中訳も「私立探偵の肩書がついたのではなく、ふつうの名刺をエイドリン・フラムセットの机の上に置き」と<the one without the tommy gun in the corner>をカットしている。村上訳は「私は名前だけの名刺を彼女のデスクに置いた。隅っこに機関銃の絵が描かれていないやつだ」。

「交換台の子猫が時折立てる小さな話し声」は<the muted peep of the kitten at the PBX was audible at moments>。清水訳は「交換台の子ネコちゃんの視線がときどき私に向けられ」。村上訳は「電話交換台の子猫ちゃんがが時折こっそりこちらを覗き見する音まで、しっかり耳に届いた」。両氏とも<peep>を「覗き見」と解しているようだ。しかし、これは、「ひな鳥などがピーピー鳴く、ネズミがチューチュー鳴く、音」の方ではないか。因みに田中氏は「交換台の仔猫がちいさな声でしゃべるのが、時々きこえ」と訳している。