marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第三章(1)

<burl walnut>というのは、ふし瘤のあるウォールナットのこと

【訳文】

 アルテア・ストリートは、深い峡谷にV字の形に広がる土地のいちばん奥にあった。北は冷たく青い海岸線がマリブあたりの岬までのび、南はコースト・ハイウェイに沿って続く断崖の上にベイ・シティの海に面した市街地が広がっていた。
 せいぜいが三、四ブロックほどの短い通りで、突き当りは大きな地所を取り囲む高い鉄柵になっていた。柵の上につけられた金箔塗りの忍び返しの向こうに、樹木や灌木、芝生やカーブを描く私道の一部は瞥見できたが、邸は見えなかった。アルテア・ストリートの内陸側にある家々はよく手入れされていて、かなりの大きさだったが、渓谷の端に散らばるバンガローはたいしたことはなかった。突き当りの鉄柵の手前、短い半ブロックにあるのはたった二軒で、道を挟んでほぼ向い合うように建っていた。小さい方が六二三番地だった。
 その前を通り過ぎ、行き止まりの半円形に舗装されたところで車を回し、引き返してレイヴァリーの家の隣の空き地の前に車を停めた。家は斜面に蔓が這うように下向きに建てられていた。よくあるタイプだ。玄関扉は道路より少し下がった位置にあり、屋根の上がパティオになっていた。寝室は地階にあり、ガレージはビリヤード台のコーナー・ポケットに似ていた。真紅のブーゲンビリアが玄関の壁でかさこそと音をたて、玄関に続く小径の敷石は苔で縁取られていた。扉は狭く、格子が嵌り、上部は尖頭アーチ型をしていた。格子の下に鉄のノッカーがあった。私はそれを叩いた。
 反応がなかった。扉の横にある呼び鈴を押した。家の中のさほど遠くないところで鳴るのが聞こえたが、やはり何も起きなかった。もう一度ノッカーを試したが答えはなかった。小径に引き返してガレージに行き、サイドが白く塗られたタイヤのついた車が見えるところまでドアを開けた。それから玄関に引き返した。
 向かいのガレージから小ぎれいな黒いキャディラック・クーペがバックで出てきて方向転換し、レイヴァリーの家の前を通り過ぎるとき速度を落とし、サングラスをかけた痩せた男が、まるでそこに私の居場所はないというように鋭く見つめた。冷たい一瞥をくれてやるとそのまま走り去った。
 私はもう一度レイヴァリーの家の小径まで戻り、何回かノッカーを叩いた。今度は結果を出した。「ユダの窓」が開き、格子の横棒越しに輝く眼をしたハンサムな男が見えていた。
「うるさいじゃないか」声が言った。
「ミスタ・レイヴァリー?」
 男は、レイヴァリーだがそれがどうした、と言った。私は格子越しに名刺を突っ込んだ。陽に灼けた大きな手が名刺をつかんだ。輝く茶色の眼が覗き窓に現れ、声が言った。「生憎だが、今のところ探偵は間に合っている」
「私はドレイス・キングズリーに雇われている」
「あいつもあんたも知ったこっちゃない」彼はそう言ってユダの窓をバタンと閉めた。私はドアの横の呼鈴に凭れ、空いた方の手で煙草を取り出し、ドアの縁の木の部分でマッチを擦った。その途端、ドアがぐいと開かれ、水着の上にタオル地のバスローブを羽織り、ビーチサンダルを履いた大男が私に向かってきた。
 私は親指を呼鈴からはなし、にやりと笑って見せた。「どうした?」私は訊いた。「怖いのか?」
「もう一度呼鈴を鳴らしてみろ」彼は言った。「通りの端まで投げ飛ばしてやる」
「子どもじみた真似をするな」私は言った。「よく分かってるはずだ。私は君と話すし、君は私と話すことになる」
 ポケットから青と白の電報用紙を取りだして輝く茶色の眼の前に掲げて見せた。彼はむっつりとそれを読み、唇を噛んでうなるように言った。
「しょうがない、入れよ」
 彼はドアを大きく開け、私はその前を通って仄暗く落ち着いた部屋に入った。値の張りそうな杏子色の中国絨毯、深々とした椅子、白いドラム型のランプ、隅にある大きな家具調蓄音機、淡い黄褐色に暗褐色が混じったモヘアを張った長くて広いダヴェンポート、そして銅の炉格子と白木の化粧枠の着いた暖炉。火は炉格子の後ろで焚かれ、一部は大きなマンザニータの切り花の陰になっていた。花はところどころ黄色くなっていたが、まだきれいだった。ガラス天板の下にバール杢の浮き出たウォールナットの低い丸テーブルの上にはVAT69のボトルとグラスを載せたトレイと銅製の氷入れがあった。部屋は家の裏手まで素通しで、突き当りのアーチの向こうに、三つの細い窓と、下に降りる階段の白い鉄の手すりの上部が数フィートばかり見えていた。

【解説】

「アルテア・ストリートは、深い峡谷にV字の形に広がる土地のいちばん奥にあった」は<Altair Street lay on the edge of the V forming the inner end of a deep canyon>。清水訳は「アルテア通りは深い谷間(たにあい)の内がわのV字型の土地の端にあった」。村上訳は「アルテア・ストリートは深い渓谷(キャニオン)の奥の、V字をなした内側の突き当りにあった」。

両氏の訳は原文にある<the inner end>を忠実に訳そうとするあまり、かえって分かりにくくなってしまった悪い例だ。「内側の端」というのは扇形のかなめにあたる場所のことだろう。田中訳は「アルテア・ストリートは、V字形に深くきれこんだ湾の、いちばん奥のところにあった」だ。<canyon>を「湾」と訳したことは合点がいかないが「湾」を「峡谷」に替えれば最もわかりやすい訳になる。

「家は斜面に蔓が這うように下向きに建てられていた。よくあるタイプだ」は<His house was built downwards, one of those clinging vine effects>。田中訳は「傾斜にそって、上から下にたてているような家で、蔦がいっぱい壁にはっている」となっている。<clinging vine>は直訳すれば「絡みつく蔓」だが、「蔦蔓効果」などという建築様式はないので、こう訳すしかない。斜面にしがみつくように建つ家を蔓性植物に喩えたもので、実際に蔦は生えていない。清水訳は「彼の家は壁を這うツタのように下に向かって建てられ」。村上訳は「家は斜面に沿って、蔦が垂れるように、下方に向かって建てられていた。よくあるスタイルだ」。

「上部は尖頭アーチ型をしていた」は<topped by a lancet arch>。清水訳は「上部が尖頭アーチになっていた」。田中訳は「鋭角的なアーチ型で」。村上訳は「上は円弧を組み合わせた尖ったアーチになっていた」だ。<lancet arch>はゴシック建築につきものの窓の形状で、「尖頭アーチ」は一般的な呼び名になっている。村上氏のように噛みくだく必要が果たしてあるのだろうか。

「ガラス天板の下にバール杢の浮き出たウォールナットの低い丸テーブルの上にはVAT69のボトルとグラスを載せたトレイと銅製の氷入れがあった」は<There was a bottle of Vat 69 and glasses on a tray and a copper icebucket on a low round burl walnut table with a glass top>。清水訳は「盆の上にバット69の壜といくつかのグラス、クルミ材の上にガラスをおいた背の低いテーブルに銅のアイス・バケットがおいてあった」。

田中訳は「ガラス張りの、ひくい、くるみ(傍点三字)の丸テーブルの上には、スコッチウイスキーのVAT69とグラス、それに銅の氷いれがのっている」。村上訳は「グラストップの胡桃材(くるみざい)の低い丸テーブルがあり、その上にはVAT69の瓶と、いくつかのグラスを載せた盆と、銅製のアイスバケットがあった」。

<burl walnut>というのは、ふし瘤のあるウォールナットのことで、単なるクルミ材ではない。銘木と言っていい高価な材である。「グラストップ」や「アイス・バケット」のような訳語のある単語を片仮名にしておきながら、なぜ「ウォールナット」のようによく知られた木の名前をわざわざ「クルミ」に替えてしまうのだろう? 「オーク」もそうだが、間違った訳語が定着したがために別種の木だと思われている木がけっこうある。