marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第八章(1)

<a batch of mud pies>は「マッド・パイ一窯分」

【訳文】

彼は停車場から道路を隔てた向かい側の白い木造家屋の前で車を止めた。建物の中に入って、すぐ一人の男と出てきた。男は手斧とロープと一緒に後部座席に乗った。公用車が通りを戻って来たので、その後ろについた。スラックスやショートパンツ、セーラー服とバンダナ、節くれだった膝と緋色の唇の間を縫って本通りを通り抜けた。村を過ぎ、埃っぽい丘を上り、一軒の小屋の前で車を止めた。パットンが軽くサイレンを鳴らすと、色褪せたオーバーオールを着た男が小屋のドアを開けた。
「乗れよ、アンディ。仕事だ」
 青いオーバーオールの男はむっつりとうなずいてひょいと小屋の中に戻った。オイスター・グレイのライオン狩りの帽子をかぶって出てきて、パットンが横にずれている間に、ハンドルの下に滑り込んだ。三十前後、浅黒く、しなやかで、先住民のように薄汚れていて、少し栄養不足だった。
 マッド・パイが一窯分焼けるくらいの土埃を食らいながら、リトル・フォーン湖まで行った。五本の板を組んだゲートでパットンが車を降りて門を開け、我々は湖に下りた。パットンがまた車を下りて水際に行き、小さな桟橋の方を見た。ビル・チェスが裸で桟橋の床に座って頭を抱えていた。彼の隣の濡れた板の上に何かが横たえられていた。
「もう少し先まで行けそうだ」パットンが言った。
 二台の車は湖の端まで進み、四人揃ってぞろぞろとビル・チェスの背後から桟橋に下りた。医師は立ち止まってハンカチの中に激しく咳をし、考え込むようにそれを見た。骨ばった目の飛び出た男で悲しげな病人の顔をしていた。
 かつては女だったものが脇の下にロープを巻かれて俯せに横たわっていた。ビル・チェスの服が片側に置かれていた。膝に傷のある強張った足を平らに前に伸ばし、もう片方の足を曲げて額を当てていた。我々が後ろに下りてきても、身動きせず、顔を上げもしなかった。
 パットンが尻ポケットからマウント・ヴァーノンのパイント瓶を取り出し、蓋を開けて渡した。
「ぐっとやれよ、ビル」
 あたり一面にむかつくような臭気が漂っていた。ビル・チェスはそれに気づいていないようだった。パットンも医者も同じだった。アンディという名の男が車から薄汚れた毛布を取り出し、死体に抛った。それから無言で松の木の下に行って吐いた。
 ビル・チェスはぐいっと一息に酒を飲み、曲げた剥き出しの膝にボトルを当てて座っていた。そして、強張った感情のない声で話し始めた。誰の方も見ず、特に誰に向かって話すのでもなかった。喧嘩とその後のことを話したが、喧嘩の原因については話さなかった。ミセス・キングズリーについては一言も口にしなかった。私が出て行ったあとで、彼はロープを取ってきて裸になって水の中に入り、それを引き上げたと話した。浅瀬まで引きずっていき背中に背負って桟橋まで運んだのだ。どうしてそんなことをしたのかは知らない。それからもう一度水の中に入った。理由は聞くまでもなかった。 
 パットンは一切れの噛み煙草を口に入れ、静かに噛んだ。おだやかな眼には何も浮かんでいなかった。それから歯を食いしばり、屈みこんで死体の毛布を剥いだ。まるでばらばらになるのを気遣うように死体をそっと裏返した。遅い午後の日差しが、膨らんだ首に半ば埋め込まれた大きなグリーン・ストーンのネックレスに目配せした。粗雑な彫り方で、光沢がなく、ソープストーンか紛い物の翡翠のようだ。小さなダイヤ付きの鷲の留め具が金色の鎖の両端を繋いでいた。パットンは広い背中を伸ばし、タン色のハンカチで鼻をかんだ。
「見解を聞かせてくれ、ドク」
「何についてのだ?」目の飛び出た男はつっけんどんに聞き返した。
「死因と死亡時刻だ」
「馬鹿を言うなよ。ジム・パットン」
「何も分からないってのか、?」
「ちょっと見ただけでかい? なんとまあ」
 パットンはため息をついた。「見たところ水死のようだ」彼は認めた。「だが、そうとも限らない。ナイフで刺されたり、毒を盛られたりした被害者を、犯人が水に浸けて様子を変えるケースもある」
「この辺でそういうことはちょくちょく起こるのか?」医者は意地悪く聞き返した。
「この辺で起こった、正真正銘の殺人事件といえば」パットンは眼の端でビル・チェスをとらえながら言った。「北岸のミーチャム爺さんの件だけだ。爺さんはシーディー渓谷に小屋を持っていて、夏の間は、少しばかり砂金採りをやっていた。ヘルトップ近くの谷の奥にある古い砂鉱床の採掘権を持ってたんだ。秋も深まったというのに、爺さんが一向に姿を現さない。そこに大雪が降って小屋の屋根の片側がつぶれた。それで、我々はちょっと行って、つっかえ棒を当ててやろうとした。多分爺さんは誰にも言わずに冬が来る前に山を下りたんだろう。年寄りの砂金堀りのやりそうなことだってな。ところがどっこい、爺さんは山を下りてなどいなかった。ベッドに横になっていたんだ。頭の後ろに薪割り用の斧が深々と刺さっていた。とうとう誰がやったのかは分からず仕舞いだ。爺さんは、夏の間に集めた砂金の小袋をどこかに隠してる、と思ったやつがいたんだろう」
 彼は思案気にアンディの方を見た。ライオン狩りの帽子の男は口の中で歯をせせりながら言った。「誰の仕業かは分かってる。ガイ・ポープがやったんだ。ただ、ガイはミーチャム爺さんが見つかる九日前に肺炎で死んでいた」
「十一日前だ」パットンが言った。
「九日だ」ライオン狩りの帽子の男が言った。
「六年も前のことだ、アンディ。好きにすればいい。どうしてガイの仕業だと思うんだ?」
「ガイの小屋には砂金に混じって、三オンスばかりの金塊が見つかったんだ。ガイのところからは砂粒より大きいのが出ることはなかった。爺さんの方は何回もペニーウェイト級の金塊が出てる」
「まあ、そうしたもんだ」パットンはそう言って、私を見て、かすかにほほ笑んだ。「どれだけ気をつけていても誰でも何かを忘れるものだ」

【解説】

「停車場」は<stage depot>。清水訳は「バスの停留場」。田中訳は「バス停留所」。村上訳は「鉄道駅」。こんな山の中まで鉄道が敷かれているのだろうか。星形の銀のバッジをつけた保安官が一人で町を守る山間の土地だ。この<stage>は「駅馬車」のことだろう。昔は町のメインストリートに駅馬車が停まるところがあった。<depot>は「停車場、駅」の意味。

「スラックスやショートパンツ、セーラー服とバンダナ、節くれだった膝と緋色の唇」は<the slacks and shorts and French sailor jerseys and knotted bandannas and knobby knees and scarlet lips>。清水訳は「スラックスとショーツとフランスの水兵服と頸に結んだはで(傍点二字)なスカーフとむき(傍点二字)出しの膝がしら(傍点三字)と真紅の唇」。田中訳は「スラックスやショーツ、それにフランスの水兵が着てるようなジャージイのブラウスを着たり、毛のネッカチーフをかけ、骨っぽいすね(傍点二字)をだし、唇を真赤にぬつた女たち」。

「パンツ」や「ショーツ」は「ズボン」、「半ズボン」のことだが、下着にも使われるので紛らわしい。「バンダナ」を「スカーフ」や「ネッカチーフ」と訳すあたり、さすがに時代を感じる。村上訳は「スラックスやらショートパンツやら、フランス水夫風のジャージーやら、粋に結ばれたバンダナやら、屈強な膝やら、緋色の口紅やら」。「フランス水夫風のジャージー」は、「セーラー服」で通じるのではないだろうか。

「色褪せたオーバーオール」は<faded blue overalls>。清水訳は「色のあせたブルーの仕事着」。田中訳は「色があせたブルーの上下つなぎの作業服」と、これも時代を感じさせる訳になっている。村上訳は「色褪せたオーヴァーオール」。ブルーのデニム地で作られることが多いので、ブルーはカットした。上半身は胸当てと肩紐だけなので、厳密には「つなぎ」ではない。

「三十前後、浅黒く、しなやかで、先住民のように薄汚れていて、少し栄養不足だった」は<He was about thirty, dark, lithe, and had the slightly dirty and slightly underfed look of the native>。清水訳は「年のころはおよそ三十歳、顔が浅ぐろく、からだのしなやかな男で、この土地の人間らしく少々うすよごれていて、栄養がたりない感じだった」。田中訳は「三十ぐらいの男で、色が黒く、動作がしなやかで、ちょっぴり皮膚の色がにごり、栄養不良みたいに見えるのは、きっとインデヤンの血がまじつてるからだろう」。

村上訳は「三十前後で、髪は黒くほっそりとして、土地のものらしくどことなく薄汚れて、どことなく栄養状態が悪そうに見えた」。いくら山に住んでいても、「土地のものだから薄汚れて」いるというのは、言い過ぎというものだろう。この<native>は「先住民」を指すのではないだろうか。それなら、髪も黒いだろうが、顔も白人より黒いに違いない。村上訳のように髪に限定するのはどうだろう。

「マッド・パイが一窯分焼けるくらいの土埃を食らいながら」は<eating enough dust to make a batch of mud pies>。清水訳は「泥のパイをつくれるほどの埃りをまともにかぶった」。田中訳は「泥のパイがうんとつくれるくらい埃をかぶった」。村上訳は「泥饅頭(どろまんじゅう)をいくつもつくれそうなくらい埃をかぶることになった」。<a batch of ~>は「~を一窯分」という意味。また<mud pie>は「泥饅頭」のことだが、アイスクリームと一緒に食べる「マッド・パイ」というチョコレートケーキがある。<eat>を使っていることから考えると、それをかけているのだろう。

「小さなダイヤ付きの鷲の留め具が金色の鎖の両端を繋いでいた」は<A gilt chain with an eagle clasp set with small brilliants joined the ends>。清水訳は「金めっき(傍点三字)をした鎖(くさり)にワシの形の止め金がついていた」と<set with small brilliants>をトバしている。田中訳は「はしのほうにいくにしたがつて粒がちいさくなった緑石を、鷲のかたちをした留金がついた金メッキの鎖がつなぎあわしている」と<set with small brilliants>を「はしのほうにいくにしたがつて粒がちいさくなった緑石」と解しているようだ。村上訳はというと「鎖は金メッキがしてあり、その両端はきらきら光る小さな宝石がついた鷲の頭の留め金になっていた」と、なぜか<eagle>を「鷲の頭」と訳している。

「ライオン狩りの帽子の男は口の中で歯をせせりながら言った」は<The man in the lion hunter's hat was feeling a tooth in his mouth. He said>。清水訳は「狩猟棒をかぶった男は口に指をつっこんで、しきりに歯をいじっていた。彼は言った」。田中訳は「ばかでかいライオン狩りの帽子をかぶったアンディ君は、舌の先で歯をいじつている。アンディーはいつた」。村上訳は「ライオン狩猟用の帽子をかぶったその男は、口の中の歯をゆびでいじっていた。アンディーは言った」。<in his mouth>とある以上、口の中にある舌先で歯を感じていたと考えるのが普通だ。