marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第九章(2)

<open up>には「(店を)開店する」という意味がある

【訳文】

 私は横目で彼女を見た。ふわっとふくらませた茶色の髪の下から、思慮深げな黒い瞳がこちらを見ていた。夕闇がとてもゆっくりと迫りつつあった。それはほんのわずかな光の質の変化に過ぎなかった。
「こういう事件のとき、警察はいつも疑ってみるものだ」私は言った。
「あなたはどうなの?」
「私の意見など何の役にも立たない」
「そうかもしれないけど、念のため」
「ビル・チェスには今日の午後はじめて会った」私は言った。「怒りっぽい男だと思った。本人に言わせれば聖人じゃないそうだ。しかし、奥さんのことは愛していたようだ。桟橋の下の水の中で腐りかけているのを知りながら、ひと月もの間この辺りをうろついていられるとは思えない。陽光を浴びながら小屋から出てきて、柔らかな青い水を眺め、水の中で何が起きているのかを想像していたとはね。それも、自分がそこに沈めたのを知っていながら」
「私も同感」バーディ・ケッペルはそっと言った。「誰だってそう思う。それでも、心の中で気づいてる。そういうことは起きてきたし、また起きるだろうって。お仕事は不動産業なの、ミスタ・マーロウ?」
「いや」
「もしよければ聞かせて。どんなお仕事をしているのか?」
「できることなら言いたくない」
「ほとんど言ったも同然ね」彼女は言った。「あなたがジム・パットンにフルネームを言ってるところをドク・ホリスが傍で聞いてた。私たちの事務所にはL.A.の電話帳がある。私は誰にも漏らしていない」
「それはご親切に」私は言った。「これからも言うつもりはない」彼女は言った。「もしそうして欲しければね」
「いくら払えばいい?」
「何も」彼女は言った。「まったくの無料。私はいっぱしの新聞人だと主張するつもりはない。それにジム・パットンを困らせるような記事を書くつもりもない。ジムは「地の塩」よ。でも、店は開けたんでしょう?」
「誤った結論を引っ張り出しちゃいけない」私は言った。「私はビル・チェスに何の興味もない」
「ミュリエル・チェスにも?」
「どうして私がミュリエル・チェスに興味を持たなきゃならない?」
 彼女はダッシュボードの下の灰皿の中に慎重に煙草の火を消した。「お好きなように」彼女は言った。「でも、あなたが気にしそうなちょっとした情報があるの。まだ、御存じなければということだけど。六週間ばかり前、デソトという名のロサンジェルスの警官がここにやってきた。無骨な大男で礼儀知らずだった。それが気に入らなくて、私たちはあまりしゃべらなかった。新聞社のオフィスにいた私たち三人は、ということ。そいつは写真を持っていて、ミルドレッド・ハヴィランドという女性を探してると言ってた。警察の仕事でね。それは普通のスナップ写真を引き伸ばしたもので、警察の手配写真じゃなかった。女がここにいる情報をつかんでると言ってた。写真はミュリエル・チェスによく似ていた。髪は赤みがかっていて、彼女がここでしていたのとは全く違うヘアスタイルで、眉毛は細いアーチ状に整えられていた。それだけで女は大きく変わるの。それでも、ビル・チェスの奥さんにそっくりだった」
 私は車のドアを指で叩いて、しばらくしてから言った。「その男に何て言ったんだ?」
「何も言わなかった。第一に確信がなかったし、第二に相手の態度が気に入らなかった。第三に、もし確信があって、態度が気に入っていたとしても、多分、警察に報告して彼女を罰してもらうつもりはなかった。なんでそんなことをしなきゃならない? 誰にでも悔やんでも悔やみきれない過去がある。私だって。一度結婚してたことがあるの――レッドランド大学の古典語の教授と」彼女はかすかに笑った。
「ネタになったかもしれないのに」私は言った。
「そうね。でも、私たちはここの暮らしに首まで浸かってるただの人でもあるの」
「そのデソトという男はジム・パットンと会ってるのか?」
「もちろん。そのはず。ジムは何も言わなかったけど」
「そいつはバッジを見せたか?」
 彼女はしばらく考えてかぶりを振った。「どうだったか思い出せない。私たちは彼の言うことを鵜吞みにした。いかにもタフな都会の警官らしく振る舞ってたわ」
「経験上、そんな警官がいるとは思えない。誰かミュリエルにその男のことを話したか?」
 彼女はためらい、黙ってフロントガラスの向こうを長い間見ていた。それから、こちらを向いて肯いた。
「私が話した。余計なお世話だったんでしょうね?」
「彼女は何と言った?」
「何も言わなかった。ちょっと困ったようなおかしな笑いを浮かべてた。まるで私が悪いジョークを口にしたみたいな。それから彼女は立ち去った。でも、その眼にちょっと奇妙な印象を受けた。ほんの一瞬だけど。まだミュリエル・チェスに関心は持てない? ミスタ・マーロウ」
「なぜ関心を持たなきゃならない? 今日の午後ここに来るまで彼女のことは聞いたことがなかった。嘘じゃない。ミルドレッド・ハヴィランドという名前もだ。町まで送ろうか?」
「いえ結構。私は歩くわ。ここから歩いてすぐなの。どうもありがとう。ビルが面倒なことにならないように祈ってる。特に、こんな気持ちの悪い事件で」
 彼女は車から下り、片足を宙に上げたまま、つんと頭をそらして笑った。「私、美容師としてはなかなかの腕だと言われてるの」彼女は言った。「そうありたいと願うわ。インタビュアーとしては下手だもの」と彼女は言った。「おやすみなさい」
  私が、おやすみ、と言うと、彼女は夕暮れに向かって歩き出した。私は座ったまま、彼女が大通りに出て、見えなくなるまで見ていた。それからクライスラーから下りて、電話局の小さな丸太造りの建物に向かった。

【解説】

「ふわっとふくらませた茶色の髪の下」は<under fluffed out brown hair>。清水氏ふわりとした褐色の髪の下」。田中訳は「ふつくらした茶色つぽい髪の下」。村上訳は「ふわふわした茶色の髪の下」。どうでもいいようなことだが、新聞記者のバーディは腕のいい美容師でもある。<fluff (out)>は「ふわっと膨らませる」という意味の他動詞で、髪の様子を描写するときによく使われる語であることに注意を促しておきたい。つまり自然ではなく、手をかけてふっくらさせた髪型なのだ。女の写真を見た時に、彼女がヘアスタイルについて触れるところがある。その伏線になっている。

「それはほんのわずかな光の質の変化に過ぎなかった」は<It was no more than a slight change in the quality of the light>。田中訳は「光が、ほんのちよつとかげつた程度だった」。村上訳は「そこにあるのは、光の質のほんの微(かす)かな変化に過ぎなかった」。清水訳は「ものをはっきり見わけるのはもうほとんどむりだった」となっている。<no more than~>は「たった~、わずかに~」という意味だ。ほんの先刻まで、髪の色やら瞳の色について言及していたというのに、「きわめてゆっくり近づき始め」た夕暮れは、ここに至って急に速度を上げたのだろうか。

「そうかもしれないけど、念のため」は<But for what it's worth>。清水訳は「でも、聞かせていただきたいんです」。田中訳は「でも、おもいついたことがあつたら……」。村上訳は「でも聞いてみたいわ」。<for what it's worth>というフレーズは、「(私が)今から言うことに価値があるかどうかはわかりませんが、念のために」という意味で、文頭に置かれることが多い。つまり、バーディは<for what it's worth>を使って、マーロウの謙遜を受け止めたうえで、その後の内容を話してみるように勧めているわけだ。

「でも、店は開けたんでしょう?」は<But it does open up, doesn't it?>。清水訳は「でも事件はもう明るみに出てるんでしょ」。田中訳は「あなたが私立探偵だつてことはわかるんじゃないかしら?」。村上訳は「でもそのことは多くを物語っている。違うかしら?」。<open up>には「〔秘密を〕打ち明ける」の意味があるので、三氏ともそれに引っ張られているようだ。しかし三氏の解釈では、マーロウがバーディの言ったことを「誤った結論」<wrong conclusions>だと言い切っていることの説明がつかない。

<it>の解釈が訳者によって異なる。清水氏は「事件」。田中氏は「マーロウの職業」。村上氏は「そのこと」と代名詞のままだ。わざわざ新訳を試みておきながら、この始末では手抜きといわれても仕方ないだろう。<it>が何を指すかは、前後の会話から読み解ける。バーディは私立探偵だと知っていて話を聞いている。探偵が現れたなら事件解決に動いている、と考えるのは当然だ。協力できることがあるので、本心を打ち明けてほしい。とすれば、ここは「探偵の仕事」と取るしかない。そう解釈することで、次のマーロウの台詞<Don't draw any wrong conclusions><I had no interest in Bill Chess whatever>と、うまく意味がつながる。<open up>には「(店を)開店する、(商売を)始める」という意味もあるのだ。

「無骨な大男で礼儀知らずだった」は<a big roughneck with damn poor manners>。清水訳は「礼儀をわきまえないやくざふう(傍点五字)の大男でした」。田中訳は「お行儀の悪い、ごつい首筋をした大男の刑事よ」。村上訳は「偉そうな態度の、いかにもタフぶった男よ」。<roughneck>は「乱暴者、荒くれ、武骨者」のことだが、田中氏は文字通りに解している。その前に<a big>とついているので、そう思ったのだろう。ただ、「石油採掘労働者」を指す言葉でもあり、荒くれ者ではあるが、「やくざふう」とか「いかにもタフぶった」というのとは違うのではないか。村上訳は<a big>を忘れている。

「彼女がここでしていたのとは全く違うヘアスタイルで」は<in a very different style than she has worn it here>。清水氏は「ミュリエルがいつも着ていたのとはきわだってスタイルの違う服で」と訳している。<style>と<worn>に引っかかってしまったんだろう。<wear>は髪型にも使う。田中訳は「ヘヤスタイルもうんとかえ」。村上訳は「髪型も今のものとはずいぶん違っていた」。

「多分、警察に報告して彼女を罰してもらうつもりはなかった」は<we likely would not have sicked him on to her>。清水訳は「私たちは彼をミュリエルに近づけるようなことはしたくなかったんです」。田中訳は「犬をけしかけるみたいに、警察にいう必要はないとおもうの」。村上訳は「彼女をそいつに売り渡すようなつもりは私たちにはなかったから」。<sic ~ on>は~のところに<one’s dog>を入れれば「犬をけしかけて」の意味になるし、<the cops>を入れれば「(人)のことを警察に言い付けて罰してもらう」という意味になる。この場合、彼は警官を自称しているので後者の意味になる。

「ネタになったかもしれないのに」は<You might have got yourself a story>。清水訳は「あなた自身の話を聞きたくなったな」。田中訳は「あなた自身にも、なかなかおもしろいストーリイがありそうだ」。村上訳は「なにか興味深いネタを仕入れられたかもしれなかったのに」となっている。<story>は新聞用語にすると「ネタ」のこと。ミュリエルのことを教えたら彼女のことで記事が書けたのに、とマーロウは言ってるのだ。

それは次のバーディの「そうね。でも、私たちはここの暮らしに首まで浸かってるただの人でもあるの」につながっている。原文は<Sure. But up here we're just people>。清水訳は「いろんな話がありますわ。でも、私たちはここではふつうの住民ですのよ」。田中訳は「ええ、だけどここにいれば、ただ、ふつうの人間だわ」。村上訳は「そうね。でもここでは私たちは普通の住民なのよ」。バーディ・ケッペルにどんな離婚歴があろうと普通の住民であることはわざわざ言われなくても分かっている。

<up (to) here>は、顎まで手を挙げる仕種をしながら「ここまで(いっぱい)」という意味を示す言葉だ。バーディはそれまでも記者であるより、ここの住民であることを重視する態度を示してきた。ミュリエルを警察に売れば、記事は書けるかもしれないが、それは同じ地域住民を裏切る行為となる。何をしたかは知らないが、態度の悪いL.A.の警官より、顔見知りの方を選ぶのは、田舎では当然といえば当然のことだ。主語が<we>になっていることからも、<story>がバーディの話ではないことが分かる。

「電話局の小さな丸太造りの建物」は<the telephone company's little rustic building>。清水訳は「電話局の小さな古ぼけた建物」。田中訳は「電話局のちいさな粗末な建物」。村上訳は「電話局の田舎風の小さな建物」。<rustic>には、確かに三氏が書いているような意味があるが、電話局が丸太小屋であるのは章の初めのほうで紹介済みである。ここは「丸太造り」の意味を採るべきだろう。