marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第十一章(2)

パットンが帽子をとって髪をくしゃくしゃにするのは考え事をするときだ

【訳文】

 パットンは立ち上がり、小屋のドアの鍵を開けた。香ばしい松の匂いが部屋中に流れ込んできた。彼は外にぺっと吐き、また腰を下ろして、ステットソンの下のくすんだ茶色の髪をくしゃくしゃにした。帽子を脱いだ彼の頭は、めったに帽子をとらない人の見苦しいなりをしていた。
「ビル・チェスにはまったく関心がなかったのか?」
「これっぱかしも」
「あんたら探偵は離婚の仕事が多い」彼は言った。「私に言わせりゃ、鼻つまみの仕事だ」
 それは聞き流すことにした。
「キングズリーは、ワイフを探すために警察の手は借りたくなかった、そうだろう?」
「そのようだ」私は言った。「彼女のことをよく知っているんでね」
「いろいろ聞かせてもらったが、ビルの小屋を調べたがることの説明には足りないようだ」分別くさい物言いだった。
「あちこち突っつきまわすのが性分でね」
「おいおい」彼は言った。「もうちっとましなことが言えんのか」
「だったら、ビル・チェスに興味を持った、とでも言っておこうか。ただ、それは彼が厄介ごとに巻き込まれて、とても見ちゃいられないからだ――たとえ、相当のろくでなしだとしても。もし彼が妻を殺したのなら、それを示す何かがここにある。もし彼が殺してないなら、それを示す何かもここにある」
 彼は首を横に向けていた、まるで用心深い鳥のように。「たとえばどんなものだ?」
「衣服、装身具、化粧品。二度と戻る気のない女が家を出るときに持っていきそうなもの」
 彼は悠然と椅子の背にもたれた。「だが、女はどこにも行っておらんよ。若いの」
「それなら、物はまだここにあるはず。もしそれがここにまだあったら、彼女が持ち出していないことにビルは気づいたはずで、彼女が家を出ていないことを知ってたことになる」
「なんと。どちらも気に入らないな」彼は言った。
「しかし、もし彼が殺したのだとしたら」私は言った。「彼女が家を出るときに持ち去るはずの物を処分しなければならなかっただろう」
「どう処分すると思うかね? 若いの」スタンドの黄色い光が彼の顔の片側をブロンズ色に染めていた。
「彼女は自分用のフォードを持っていたそうだ。それ以外は、燃やせるものは燃やし、燃やせないものは森の中に埋めただろう。湖に沈めるのは危険すぎる。しかし、車は燃やすことも埋めることもできなかった。彼にその車が運転できたろうか?」
 パットンは驚いたようだった。「できるさ。彼は右脚の膝を曲げられない。だから、フットブレーキはうまく使えないが、ハンドブレーキで間に合わせられる。ビルのフォードがちがうのは、ブレーキペダルが支柱の左側、クラッチに近い位置につけられていて、片足で両方を踏めるようになっていることだ」
 私は煙草の灰を、小さな青い瓶に振り落とした。小さな金色のラベルによると、かつてはオレンジ蜂蜜が一ポンド入っていたらしい。
「車の処分が彼にとっては大問題になる」私は言った。「どこへ持って行くにせよ、戻ってこなければならないし、戻ってくるところを見られたくない。もし、たとえばサンバーナディノあたりの通りに乗り捨てたとしたら、すぐに発見され誰の車か分かってしまう。彼もそれは望まないだろう。一番いいのは盗難車を扱うディーラーに売り払うことだが、たぶんそんな連中を知らなかっただろう。となると、ここから歩いて行ける範囲の森の中に隠した可能性がある。彼が歩ける範囲ならそう遠くない」
「関心がないと主張する人物について、あんたはかなり綿密に検討していることになる」パットンは冷淡に言った。「車は森の中に隠したとして、その後は?」
「発見される可能性を考えねばならない。森は人里離れてはいるが、時々森林監視員や木こりが歩き回る。もし車が発見されたら、その中からミュリエルの所持品が発見される方がいい。言い訳が二つできる――どちらも大したものではないが、少なくとも口実にはなる。一つは、彼女が見知らぬ誰かによって殺され、犯人は殺人が発覚したとき、ビルを巻き込むために細工した。二つめは、ミュリエルは実際に自殺したが、 ビルに容疑がかかるように細工した 。復讐のための自殺というやつだ」
 パットンはそれらすべてについて落ち着いて注意深く考えていた。またドアのところまで行って噛み煙草を吐き、椅子に座ってまた髪をくしゃくしゃにした。彼は疑り深い目で私を見た。
「一つ目はあんたの言うように可能性がある」彼は認めた。「しかし、それだけのことだ。該当する人物が思い当たらない。それに書き置きという小さな問題を解決する必要がある」
 私は首を振った。「ビルはすでに別の機会に書き置きを手に入れていたとしよう。彼女は出て行った、と彼は考えた。今回メモは残さなかったとしよう。何も告げずに妻が出て行き、ひと月もたてば、誰でも気をもむし不安にもなる。妻に何かあった時、書き置きを見せることが自分の身を守る盾になるかもしれない。口にせずとも、内心ではそう思っていたのかもしれない」
 パットンは首を振った。気に入らないのだ。それは私だって同じだった。彼はゆっくり言った。「もう一つの考えは、まったく馬鹿げている。誰かを告発するために自殺したように見せかけるなど、私の単純な人間観には全くそぐわない」
「人間観が単純すぎるからさ」私は言った。「それは現に起きているし、ほとんどの場合は女によって行われている」
「いや」彼は言った。「私は五十七歳になる。今まで気のふれた連中を大勢見てきたが、その説を採る気はない。そんなもの落花生の殻ほどの値打ちもないよ。私が気に入っているのは、彼女は出て行こうとして書き置きを書いた。だが、逃げ出す前に彼が捕まえ、かっとなって殺してしまった、というものだ。そうなると、彼は私たちが話していたようなことをしなければならなくなる」

【解説】

「ステットソンの下のくすんだ茶色の髪をくしゃくしゃにした」は<rumpled the mousy brown hair under his Stetson>。清水訳は「ステットスン帽の下のくすんだ(傍点四字)茶色の髪をかき上げた」。田中訳は「ソフトの下の、ねずみの毛のように汚い茶色つぽい髪をかきあげた」。村上訳は「くしゃくしゃした茶色の髪をステットソン帽の中に押し込んだ」。

<rumple>は「くしゃくしゃにする、しわくちゃにする」という意味の他動詞。三氏ともに、帽子をとったようには訳していないが、ここは金田一耕助のように帽子をとって、髪をくしゃくしゃにしたのだろう。直後に帽子を脱いだ頭の格好について触れていることから分かる。三氏の訳では、帽子を脱いだところをマーロウはいつ目にしたことになるのだろう。

「たとえ、相当のろくでなしだとしても」は<in spite of being a good deal of a heel>。清水訳は「どう見てもまっとうな(傍点五字)人間とはいえないがね」。田中訳は「チェスにもわるいところはあるだろうが」。ところが、村上訳は「ろくでもない悪党だからというんじゃなくてね」という訳になっている。<in spite of~>は、中学校英語で習った通り「~にもかかわらず」だ。つまり、その後にくることを考慮に入れても、という意味だ。村上訳は、あとに続く部分を考慮に入れない、というのだから、逆の意味になる。

「ブレーキペダルが支柱の左側、クラッチに近い位置につけられていて」は<the brake pedal is set over on the left side of the post, close to the clutch>。清水訳は「ブレーキのペダルがクラッチに近い左側にあって」。田中訳は「ブレーキがレバーの左側、クラッチにくつつけてつくつてあるだけだ」。<post>に「レバー」の訳を当てているが、そんなところにレバーはない。村上訳は「ブレーキペダルは中央より左側、クラッチのそばにつけられている」。いくら改造車とはいえ、ブレーキ自体の位置を変えるのは大がかりだ。おそらく、ペダルを支柱の中央ではなく左寄りにつけてあるのだろう。

「椅子に座ってまた髪をくしゃくしゃにした」は<He sat down and rumpled his hair again>。清水氏訳は「座りこんで、また髪をかきあげた」。田中訳は「椅子に腰をおろし、髪をかきあげた」。村上氏は今度は「それから再び腰を下ろして、髪をくしゃくしゃにした」と訳している。しかし、<again>がくっついているのだから、もし「くしゃくしゃにした」と訳すなら、前の訳もそう直すべきだろう。それとも気づいていないのだろうか。

「その説を採る気はない。そんなもの落花生の殻ほどの値打ちもないよ」は<I don't go for that worth a peanut shell>。清水訳は「そんな南京(なんきん)豆の殻(から)みたいな頭の人間がいるとは思えない」。田中訳は「しかし、その考えは、ピーナッツのカラほども、ほんとらしくない」。村上訳は「そこまで頭のたが(傍点二字)が外れた人間にお目にかかったことはない」。

清水氏と村上氏は<that>をそういうことをしでかす「人間」と捉えている。田中氏は「考え」ととる。私も田中氏に賛成だ。<go for>は「(ある特定のものを)選ぶ、好きである」という意味。そのすぐ後に<What I like is that>が来て、その後に示されているのがパットンの自説であることからも、それが分かる。<a peanut shell>という比喩から考えても、落花生の殻は、バーの床の飾りくらいにしか使えない価値のない物の喩えだ。「復讐のための自殺」などという考えを抱く人物は、頭が空っぽなのではない。むしろ考えすぎるくらい考えている。たとえ、少々ねじくれているとしても。