marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第十一章(3)

<feel bad>は「不愉快」ではなく「同情する、気の毒に思う」

【訳文】

「その女には会ったことがない」私は言った。「だから、何をするか見当もつかない。ビルは一年ほど前にリヴァーサイドのどこかで出会ったと言っていたが、それまでに長く込み入った物語があるのかもしれない。どんな女だった?」
「小柄なブロンドで、めかしこんだときは凄くキュートだ。ちょっとビルに合わせてるようなところがあった。口数の少ない娘で感情を顔に出さない。ビルに言わせると癇癪持ちだそうだが、そういう場面に出くわしたことがない。ビルの方がよっぽど癇癪持ちだ」
「ミルドレッド・ハヴィランドとかいう写真の女に似ていると思ったか?」
 顎のむしゃむしゃが止まり、口が固く結ばれた。それからまたゆっくり噛み始めた。
「これはこれは」彼は言った。「今晩ベッドに潜り込む前に、よくよく注意して下を覗くようにするよ。あんたがいないか確かめるためにな。どこでその情報を聞きつけたんだ?」
「バーディ・ケッペルというかわいい娘が教えてくれた。空き時間に記者をしてて私を取材中に、たまたまデソトというL.A.の警官が写真を見せて回っていたという話が出たんだ」
 パットンは肉厚の膝をぴしゃりと叩き、背中を丸めた。
「あれは私が間違ってた」彼は真面目腐って言った。「数ある私の失敗の一つだ。あのでか物は私に見せる前に町中の誰も彼もに写真を見せて回ったんだ。あれには腹が立った。確かにミュリエルに似ていたが、確信が持てるところまではいかなかった。彼女に何の用があるのかと訊いたら、それは警察の仕事だと言う。で、多少無骨で鄙びているが私自身そういった仕事をしてると言った。すると、女の居所を突き止めろと言われただけで、それ以上は知らんと言う。多分、私をあんな風に軽くあしらったのが間違いだ。そんなわけで、私はそんな写真のような女は知らない、と言ってやった。あれは間違いだったと思う」
 穏やかな大男は微笑みを浮かべてぼんやりと天井の隅を眺め、それから視線を下に落としじっくりと私に目を据えた。
「ここだけの話にしておいてもらえると有り難いな、ミスタ・マーロウ。あんたの考えもいいところを突いている。ひょっとしてクーン湖に行ったことは?」
「聞いたこともない」
「この一マイルほど奥だ」彼はそう言って肩ごしに親指で指し示した。「森の中を細道が西に曲がっている。木と木の間を車で通り抜けられる。一マイル走って五百フィートほど登ればクーン湖に出る。かわいらしいところだ。たまにピクニックに行く者もいるが、タイヤが傷むから、そう度々は出かけない。葦の繁る浅い湖が二つ、三つある。日陰には今でも雪が残ってる。手斧造りの古い丸太小屋がたくさんあるが、私の記憶ではずっと壊れたままだ。それと、モントクレア大学が十年程前にサマーキャンプに使っていた大きな木造の建物の残骸がある。もう長い間使われていない。湖から奥まった深い森の中に建てられていて、裏に回ると古い錆びたボイラーのついた洗濯場がある。その横にローラー式の揚げ戸がついた大きな薪小屋がある。ガレージとして建てられたが、今は薪置き場になっていて、オフシーズンには施錠されている。薪はこの辺りの住人が盗む数少ない物のひとつだが、積んである薪ならともかく、錠を壊してまで盗んだりはしない。その薪小屋で私が何を見つけたかあんたなら分かるだろう?」
「サンバーナディノへ行ったとばかり思っていたんだが」
「気が変わった。車の後部座席に奥さんの遺体を乗せたまま、ビルを連れて行くのは正しいことのように思えなくてな。遺体はドクの救急車で運ばせた。ビルはアンディに送らせた。保安官と検死官に状況を報告する前に、もう少し辺りを見て回った方がいいと思ったんだ」
「ミュリエルの車が薪小屋の中にあったのか?」
「そうだ。それに車の中に鍵のかかっていないスーツケースが二つあった。服が入っていて慌てて詰め込んだみたいだった。女物だ。大事な点はな、若いの。他所者はその場所を知らんということだ」
 私は彼に同意した。彼は胴着の斜めに切ったポケットに手をつっこみ、ティッシュペーパーをひねった小さな包みを取り出した。それを掌の上で開いて、開いた手を差し出した。
「これを見るといい」
 私は近づいてそれを見た。ティッシュペーパーの中にあったのは細い金の鎖で、鎖の環と同じくらい小さな錠がついていた。錠はかかったままで、金の鎖が切られていた。鎖の長さはおよそ七インチ。鎖にも紙にも白い粉末が付着していた。
「これをどこで見つけたと思うね?」パットンが訊いた。
 私は鎖をつまみ上げ、切られた両端をつなぎ合わせた。うまく合わなかった。それについては口を挟まなかったが、指の先を湿らせ、粉に触れて舐めてみた。
「粉砂糖の函か缶だな」私は言った。「鎖はアンクレットだ。ある種の女は結婚指輪と同じで決して外さない。これを外した奴が誰であろうと、そいつは鍵を持っていなかった」
「それをどう考える?」
「特に何も」私は言った。「ビルがミュリエルの足首からそれを切り取っても、首に緑のネックレスをつけたままにしておいたら意味がない。ミュリエル自身が鍵をなくして切ったと仮定しても、見つけてもらうために隠す意味がない。彼女の遺体が最初に発見されない限り、それを見つけるのに十分な調査は行われないだろう。もしビルが切ったのなら、湖に投げたはずだ。しかし、もしミュリエルがビルには隠して、それをとっておきたかったのなら、隠し場所にはそれなりの意味がある」
 パットンは今度は戸惑いを見せた。「どうしてだ?」
「女の隠し場所だからさ。粉砂糖はケーキ作りのアイシングで使うものだ。男は誰もそんなとこを探そうとしない。それを見つけるとは大したものだよ、シェリフ」
 彼はきまり悪そうに苦笑した。「実のところ、箱をひっくり返して砂糖をぶちまけたんだ」彼は言った。「そうでもなきゃ、見つけられなかったろう」彼は紙を丸めて、ポケットに滑り込ませた。これで終わりだ、というように立ち上がった。
「まだここにいるのか、それとも町に帰るのかな、ミスタ・マーロウ?」
「町に帰る。検死審問までいるよ。呼ばれるんだろう?」
「それは、もちろん検死官次第だ。どうにかして壊した窓を閉めてくれ。私は明かりを消して錠を下ろす」
 私は彼の言うとおりにし、彼は懐中電灯をつけてスタンドを消した。我々は外に出て、彼は小屋の錠がしっかりかかっているか確かめた。彼は網戸をそっと閉め、月明かりに照らされた湖を眺めて立っていた。
「ビルに殺意があったとは考えとらん」彼は悲しげに言った。「その気がなくても彼なら難なく女を絞め殺せた。それくらい手の力が強かったんだ。一旦やってしまったら、神から授かった知恵を絞って、したことを隠すしかなかった。本当に気の毒なことだ。しかし、だからといって事実と起こりそうな事態は変わらない。誰でも分かる当たり前のことだ。そして、誰でも分かる当たり前のことが大抵、結果として正しいことが分かる」
 私は言った。「それなら彼は逃げただろう。ここに留まることができたとは思えない」
 パットンは黒いヴェルヴェットの影となったマンザニータの茂みに唾を吐いた。彼はゆっくり言った。「政府から年金をもらっていたからな。逃げたらそれも手放すことになる。それに大抵の男は、耐えねばならん時が近づいてきて正面から見据えられたら耐えられるものだ。世界中で男たちがまさに今やっているように。それじゃ、おやすみ。私はもう一度あの小さな桟橋まで歩いて行って月明かりの下に立ち、遺憾の意を表するつもりだ。お互い、こんないい晩に殺人について考えなきゃならんとはな」
 彼は静かに影の中に歩み去り、自身もまた影になった。私は彼の姿が視界から去るまでそこに立っていた。それから錠の下りたゲートまで戻って柵を乗り越えた。車に乗り込んで、隠れる場所を探して、来た道を引き返した。

【解説】

「今晩ベッドに潜り込む前に、よくよく注意して下を覗くようにするよ」は<I'll be mighty careful to look under the bed before I crawl in tonight>。清水訳は「私は夜寝る前にベッドの下をのぞくくらい用心深いつもりなんだ」。田中訳は「今晩、ベッドにもぐりこむまえには、よっぽど注意して、その下を見なくちゃいかん」。村上訳は「これからは夜寝る前に、ベッドの下をいちいち覗き込まなくてはな」。<in tonight>なのだから「これまで」でも「これから」でもなく「今晩」だろう。

「空き時間に記者をしていて、私を取材中に」は<She was interviewing me in the course of her spare time newspaper job>。清水訳は「アルバイトのリポーターをやってて、私に会いに来たんだ」。田中訳は「アルバイトの記者だそうで、ぼくにインターヴューしたんです」。村上訳は「彼女がパートタイムの記者をしている新聞のために、私の話を聞きにきたときにね」。<spare time>は「空き時間、余暇」の意味だ。「アルバイト」や「パートタイム」というのとはちがう。

「背中を丸めた」は<hunched his shoulders forward>。清水訳は「肩を前に押し出した」。田中訳は「肩をまえにかがめた」。村上訳は「身を屈めた」。パットンは自分のしたことを後悔し、意気消沈している。そういう時の姿勢を日本語で表現するなら、ここは「背(中)を丸める」だろう。

「で、多少無骨で鄙びているが私自身そういった仕事をしてると言った」は<I said I was in that way of business myself, in an ignorant countrified kind of way>。清水訳は「こっちは田舎くさくて幼稚かもしれぬがやっぱり警察の仕事をしてるんだといってやった」。田中訳は「わしだって田舎のばかみたいな副保安官だが、警察官だ、といつてやつた」。村上訳は「山奥の無知な警官ではあるが、こちらも警察の仕事に一応関わっているものなんだが、とわたしは言った」。ここはパットンが自身の風采について言い訳しているのだろう。<in a kind of way>(多少)の中に<ignorant countrified>を挿入しているわけだ。<countrified>は「田舎の」ではなく、「(人・物事などが)田舎じみた、粗野な」という意味。

「手斧造りの古い丸太小屋がたくさんあるが、私の記憶ではずっと壊れたままだ」は<There's a bunch of old handhewn log cabins that's been falling down ever since I recall>。清水訳は「材木を組み立てただけのキャビンがいくつかあったが、どのキャビンもこわれかけてる」。田中訳は「わしがおぼえてる頃から、くずれかかってる粗末な丸太小屋がいくつか」。村上訳は「手作りのログ・キャビンが何軒か建っているが、思い出せる限りの昔から、残らず倒壊している」。

<hand-hewn>とは「手斧掛けした」という意味。丸太小屋はちゃんとした製材所で製材した丸太を使わず、現場近くの森の中から切り出した木の皮を剥ぎ、手斧などで枝を処理した丸太を組んで作る。鉋掛けしないから、表面には跡が残る。それも味のうちだ。だいたいが丸太小屋は丸太を組んで作るもので、重機の入らない森の中に建てるのだから手作りが普通。古いものなら粗末に見えても仕方がない。そんな訳で、三氏の訳は間違いとは言わないが、的を外している。

「その横にローラー式の揚げ戸がついた大きな薪小屋がある」は<along of that there's a big woodshed with a sliding door hung on rollers>。清水訳は「その先にスライディング・ドアのついたまき(傍点二字)小屋がある」。田中訳は「そのとなりは、ローラーで上からぶらさがった戸がついた薪小屋だ」。村上訳は「その並びには、大きな薪小屋があり、スライド式の扉にはローラーがついて、開け閉めできるようになっている」。清水、村上両氏の訳では、横にスライドする引き戸のように読めてしまう。アメリカのガレージによくある、上に揚げて上部に格納する形のドアではないか。

「しかし、だからといって事実と起こりそうな事態は変わらない」は<but that don't alter the facts and the probabilities>。清水訳は「事実をまげるわけにはいかない」。田中訳は「しかし、だからといって、事実をかえることもできんし、どうにもならん」。両氏とも<probabilities>を訳していない。<probabilities>は<probability>の複数形。「ありそうなこと、 起こりそうなこと」という意味。村上訳は「しかしだからといって、その事実や、それによってもたらされるものごとが変更させられるわけではない」。

「誰でも分かる当たり前のことだ。そして、誰でも分かる当たり前のことが大抵、結果として正しいことが分かる」は<It's simple and natural and the simple and natural things usually turn out to be right>。清水訳は「そんなことはわかりきった、あたりまえのことだ。わかりきったあたりまえのことを行っていればまちがいはない」。田中訳は「これは、単純で、つまり自然な犯行だ。そして、たいてい、単純で自然なもののほうが事実の場合がおおい」。村上訳は「単純で当たり前の推理だが、単純で当たり前のことが大方(おおかた)の場合、結局正しいことだったと判明するのだ」。

<it>は何を指しているだろう。田中氏は「犯行」、村上氏は「推理」をあてている。清水氏はその前の「私はそれが哀れでならんのだが、事実をまげるわけにはいかない」を指すと考えているようだ。つまり情を押し殺してパットンが下した判断ということになる。パットンはビルに同情しているが、保安官としての職務を果たすことに躊躇しない。それが<simple and natural >だと思うからだ。そうは思っても内心の葛藤は隠せない。だから、ひとりでもの思いにふけりたいのだろう。

「私はもう一度あの小さな桟橋まで歩いて行って月明かりの下に立ち、遺憾の意を表するつもりだ」は<I'm going to walk down to that little pier again and stand there awhile in the moonlight and feel bad>。清水訳は「私はもういちどあの舟着き場へ行って、あまり愉快なことじゃないが、しばらく月の光を浴びて立っているよ」。田中訳は「わしは、また、あの桟橋のところにいつて、月の光をあびながら、しばらく立つていよう。いやな気持になるだけだろうが……」。村上訳は「わたしはもう一度あの小さな船着き場まで歩いていって、しばらく月光の下に立ち、苦い思いを噛みしめることにする」。

<feel bad>には、三氏のように「不愉快」の意味だけでなく「同情する、気の毒に思う、遺憾とする」のような意味がある。わざわざ<be going to>を使って、死体の上がった現場に出向いて、しばらくの間立っている意志を表しているのだから、死者に哀悼の意を表すとともに、ビルのこれからを案じるつもりなのだろう。それを「いやな気持ち」にしてしまっては折角のパットンの思い入れが台無しになってしまう。

「お互い、こんないい晩に殺人について考えなきゃならんとはな」は<A night like this, and we got to think about murders>。清水訳は「こんな夜に殺人について考えるなんて因果なことさ」。田中訳は「こんないい晩に、人殺しのことを考えなくちゃいかんなんて、なさけない」。村上訳は「こんな美しい夜に、殺人について考えなくちゃならんとはな」。三氏とも<we>をスルーしている。