marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第十三章(2)

<tight>も<mean>も、金がからむと、少々意味が下卑る

【訳文】

男はほとんど踊るように入ってきて、かすかに薄笑いを浮かべながら私を見て立っていた。
「飲むかい?」
「ああ」彼は冷ややかに言った。自分でたっぷりとウィスキーを注ぎ、ちょっぴりジンジャーエールを垂らし、ひと息にごくりと飲んで、すべすべした小さな唇に煙草をくわえ、ポケットから取り出しざまにパチンと鳴らしてマッチに火をつけた。そして煙を吐き出しながら私を見続けた。直に見ないで、目の端でベッドの上の金をとらえていた。シャツのポケットの上に、番号の代わりに<キャプテン>という語が縫いつけてある。
「君がレスか?」私は尋ねた。
「そうじゃない」男はいったん言葉を切り、こう付け加えた。「ここで探偵にうろうろされたくないだけだ。自前の探偵も置いていない。ましてや、よその誰かに雇われた探偵なんぞに煩わされたくない」
「ご苦労さん」私は言った。「もう用済みだ」
「なんだと?」気に障ったのか小さな口がよじれた。
「消えな」私は言った。
「俺に会いたいんだとばかり思っていたんだが」男は冷笑を浮かべた。
「君はボーイ長だろう?」
「あたりだ」
「君に一杯おごって、一ドル進呈したかったのさ。ほら」私は一ドル札を差し出した。「来てくれてありがとう」
 彼は礼も言わずに一ドル札を受け取って、ポケットに入れた。鼻から煙をたなびかせ、けち臭い、さもしい目をして、ぐずぐずしていた。
「ここで俺の言うことは通るんだ」彼は言った。
「君の押しが効くところに限ってのことだ」私は言った。「どこでもってわけじゃない。一杯飲んだし、かすりもとった。もう出て行っていい頃合いだ」
 彼はひょいと肩をすくめて身を翻し、音もなくするりと部屋を出て行った。
 四分後、またノックの音がした。とても軽い音だ。長身のボーイがにこにこしながら入ってきた。私は逃げるようにして、もう一度ベッドに腰を下ろした。
「レスのことがお気に召さなかったようですね?」
「たいしてね。あれで満足してたか?」
「そう思います。あなたはキャプテンってものをよくご存じだ。連中は上前をはねずにいられない。わたしのことはレスと呼んでもらう方がいいかもしれない。ミスタ・マーロウ」
「彼女をチェックアウトしたのは君だったのか?」
「いや、あんなのは出まかせだ。あのひとはチェックインすらしちゃいない。でも、パッカードのことなら覚えてる。車を片づけて汽車の時間まで荷物を預かるのに一ドルくれたのでね。ここでは夕食をとっただけです。この街で一ドル振る舞えば記憶に残る。それに、車が長い間置きっぱなしになってるという話もある」
「見かけはどんなだった?」
「黒と白の一揃いで、主に白だった。それに黒と白のバンドのついたパナマ帽。あんたの言った通り、小ざっぱりした金髪のレディだった。時間が来て、駅まではタクシーだ。荷物を積むのを手伝ったよ。荷物にはイニシャルがついてたけど、悪いな、文字は覚えてない」
「覚えてなくてよかったよ」私は言った。「もし覚えていたら出来過ぎというもんだ。一杯飲れよ。で、何歳くらいに見えた?」
 彼はもう一つのグラスをすすぎ、ウィスキーとジンジャーエールを品良く混ぜた。
「近頃は女性の歳をあてるのはなかなか難しい。三十歳をちょい出てるか、少し手前か、というところ」
 上着からクリスタルとレイヴリーが海辺で撮ったスナップショットを取り出して渡した。
 彼は写真をじっと見つめ、目から離したり、近づけたりした。
「法廷で証言するわけじゃないぜ」私は言った。
 彼はうなずいた。「そいつは願い下げだ。こういう小柄な金髪は、どれも似たり寄ったりで、服や照明、メイクを変えると、みんな同じに見えるか、全く違って見えるかのどちらかだ」彼はスナップ写真を見つめながら、ためらっていた。
「何が気になるんだ?」私は尋ねた。
「この写真に写ってる男のことを考えてたんだ。この男も一枚噛んでるのか?」
「続けてくれ」私は言った。
「ロビーで彼女に話しかけ、夕食を一緒にした男じゃないかな。長身のハンサムで、すばしこいライト・ヘビー級の体つきだ。タクシーに一緒に乗ってった」
「間違いないんだな?」
 彼はベッドの上の金を見た。
「オーケー、いくらほしいんだ?」私は訊いた。少々うんざりしていた。
 彼はからだをこわばらせた。写真を下におろし、ポケットから二枚の畳んだドル紙幣を引っ張り出してベッドに放り投げた。
「酒をごちそうさま」彼は言った。「あんたの好きにすればいい」彼は扉口に歩きかけた。
「座れよ。そんなにカリカリするもんじゃない」私はどなった。
 彼は腰を下ろし、厳しい目をして私を見た。
「それと、つまらない南部人気取りはよすことだ」私は言った。「もう長いこと、ホテルのボーイにどっぷりはまってる。もし口から出まかせを言わないボーイに出会ったのなら、それはそれで結構なことだ。が、口から出まかせを言わないボーイに出会えるなんてことはそうそうあることじゃない。そのくらいのことは承知してるだろう」
 彼はゆっくり時間をかけて相好を崩し、それから素早くうなずいた。もう一度手に取った写真越しに私を見た。
「男の方がしっかり写ってる」彼は言った。「あのひとよりずっと。だけど、この男を覚えているのは、もう一つ訳があるんだ。ロビーで近づいてくる男のあけすけな態度が、あのひとは気に入らないみたいだった」
 私はそれについて考えてみたが、たいした意味はないと判断した。時間に遅れたか、以前に約束をすっぽかすかしたんだろう。私は言った。
「何か理由があるのさ。それより、女が身につけていた装身具に何か気がつかなかったか? 指輪、イヤリング、その他、人目を引く、高そうなものだ」
 彼は、気がつかなかった、と言った。
「髪はロングか、ショートか、ストレートか、ウェイブがかかっていたか、それともカールしてたか、ナチュラル・ブロンドか、脱色してたか?」
 彼は笑った。「最後のは返事に困るよ、ミスタ・マーロウ。ナチュラル・ブロンドの女でも、もっと薄くしたがるからね。残りについては、どちらかと言えばロングで、今風に毛先を少し内巻きにカールして、全体としてはストレートだったような気がする。もちろん、まちがってるかもしれない」彼はまたスナップ写真を見た。「この写真では後ろで束ねてる。何とも言えないな」
「その通り」私は言った。「質問した理由はただ一つ。君が頑張りすぎていないか確かめるためだ。細かいところまで見ているのは何も見ていないのと同じくらい信頼性の低い証人だ。そいつはいつも半分くらいは作り話をしてるのさ。状況を考えれば、君のチェックはおおむね正しい。どうもありがとう」
 私はもとの二ドルを返し、それに五ドル上乗せした。彼は礼を言って、グラスの残りを空け、静かに出て行った。私は自分のぶんを飲み、もう一度体を洗い、こんな穴倉で寝るより、運転して家に帰ろうと決めた。再びシャツと上着を着て、バッグを手に階段を下りた。
 いけ好かない赤毛のボーイ長が、ロビーにいるただ一人のボーイだった。バッグをぶら下げて受付の机まで行く間、私の手からバッグを取る気はなさそうだった。インテリぶった受付は私を見ようともせず、二ドル抜き取った。
「こんなマンホールの中で夜を過ごすのに、二ドルもとるのか」私は言った。「ただで寝られる風通しのいいごみ入れが、通りにいくらでも転がっているのに」
 受付の男は欠伸をし、遅ればせながら、明るく言った。「午前三時頃になると、ここはぐっと涼しくなります。それから八時か、時には九時までは、とても過ごしやすいですよ」
 私は首の後ろを拭って、よろよろと車に向かった。真夜中だというのに、車のシートまで火照っていた。
 家に着いたのは二時四十五分だった。ハリウッドは冷蔵庫だった。パサデナでさえ涼しく感じられた。

【解説】

「鼻から煙をたなびかせ、けち臭い、さもしい目をして、ぐずぐずしていた」は<He hung there, smoke trailing from his nose, his eyes tight and mean>。清水訳は「鼻から煙を吐き、目を険(けわ)しくして、つっ立っていた」。田中訳は「鼻からタバコの煙をはきだし、いじわるそうに目をひからせて、まだグズグズしていた」。村上訳は「鼻の穴から煙を出し、そのままそこにじっとしていた。彼の目つきは硬く狭量だった」。

<tight>も<mean>も、「金に細かい、金に汚い」ことをいう時に使われることのある形容詞。それが対句で使われているので、ここは文脈的にそういう意味で使われていると考えた方がいい。本物のレスとの話の中で、ボーイ長の金に汚いことが後で話題になっている。単に、一単語の訳語を辞書から探すのでなく、全体を読み通したうえで、その場にふさわしい訳を考える必要がある。

「ここで俺の言うことは通るんだ」は<What I say here goes>。この<goes>だが、<anything goes>の「何でもあり、何をしても許される」を踏まえている。清水訳は「私がいうことはここでは通るんです」。田中訳は「このホテルでのことなら、なんでもぼくのおもうとおりになる」。ところが、村上訳は「言ったことは聞こえたよな」と訳し、それに続く部分を「ああ、しっかり聞こえたよ…でもただ聞こえたというだけだ」と訳している。

「君の押しが効くところに限ってのことだ…どこでもってわけじゃない」は<It goes as far as you can push it, …And that couldn't be very far>。清水訳は「通るといってもどこまで通るか限度がある…そんなに遠くまではとどかないよ」。田中訳は「きみのおさえ(傍点三字)がきいてるうちはな。しかし、それがいつまでつづくか……」。清水氏は距離と捉え、田中氏は時間と捉えている。<push>は「(人に)強いる」こと。主任風を吹かせているが、それは内輪でのことで、外部の者には通じない、と世故に長けた探偵が言って聞かせている場面なのだが、村上訳では威嚇に対して言い返しただけになる。

「もう長いこと、ホテルのボーイにどっぷりはまってる。もし口から出まかせを言わないボーイに出会ったのなら、それはそれで結構なことだ。が、口から出まかせを言わないボーイに出会えるなんてことはそうそうあることじゃない。そのくらいのことは承知してるだろう」は<I've been knee deep in hotel hops for a lot of years. If I've met one who wouldn't pull a gag, that's fine. But you can't expect me to expect to meet one that wouldn't pull a gag>。

knee deep in ~>は「~にどっぷりはまっている」。<gag>には「だじゃれ、冗談」の他に「ごまかし、ペテン、詐欺」(米俗)の意味がある。<pull a gag>は「人をかつぐ」の意味だ。清水訳は「永年、ホテルのボーイを相手にしている。一言(ひとこと)で話がわかるボーイなんてめったにぶつかったことがない。私にも同じ手が効くと思ったらまちがいだ」。田中訳は「ぼくは、ホテルのボーイとは長年のつき合いだ。そりや、はなしのわからんボーイだっているだろう。しかし、きみは、まさかそうじやあるまい?」。両氏とも、かなり原文を離れている。

村上訳は「もう長いあいだ、いやというほどホテルのボーイとやりあってきたんだ。君が芝居がかったことをしないタイプであれば、それはそれで結構なことだ。しかし、芝居がかったことをしないボーイに出会うなんて、滅多にないことでね。そう甘く見られちゃ困る」。どうやら村上氏は、レスの態度の豹変ぶりを「芝居がかったこと」と取っているようだ。最後の文を直訳すると「しかし、君は私が人をかつごうとしないボーイに会うことを、期待することはできない」となる。

要するに、マーロウは「ボーイとは長いつきあいだが、嘘をつかないボーイに出会ったことがない。用心深くなって当然だろう。君だってよく知ってるじゃないか」と言いたいのだ。つまり、君のことを疑って悪かった。機嫌を直してくれ、と言ってるわけだ。だからこの後、レスの態度は軟化している。それを「私にも同じ手が効くと思ったらまちがいだ」とか「そう甘く見られちゃ困る」と決めつけてしまっては、元も子もない。

いけ好かない赤毛のボーイ長が、ロビーにいるただ一人のボーイだった」は<The redheaded rat of a captain was the only hop in the lobby>。清水訳は「ロビーにいたのは赤い髪のベル・キャプテンだけだった」。田中訳は「ロビイには、赤毛のボーイ長しかいなかった」。両氏とも<rat>はスルーすることに決めたらしい。村上氏は「ベル・キャプテンである鼠に似た赤毛の男が、ロビーにいる唯一のボーイだった」と、あくまでも「鼠に似た」にこだわっている。

「家に着いたのは二時四十五分だった」は<I got home about two-forty-five>。清水訳は「私は二時四十五分ごろに家に着いた」。田中訳は「うちには二時四十五分についた」。ところが、村上訳(初版)では「帰宅したのは、二時四十分だった」になっている。こういうミスを見つけるのは校閲部の仕事じゃないのだろうか?