marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『湖中の女』を訳す 第十五章(2)

knee crack>は膝の立てる間接音のこと

【訳文】

 銃を取ろうと手を伸ばしたが、私の手は卵の殻のようにこわばって、今にも壊れてしまいそうだった。私は銃を受け取った。女はさも嫌そうに銃把に巻きついていた手袋の臭いを嗅いだ。そして、それまでと同じように、変に理屈が通っているような調子で話し続けた。私の膝がぽきっと音を立て、緊張がほぐれた。
 「ええ、もちろん、あなたの方が簡単」彼女は言った。「車のことよ。いざとなれば、取り上げてしまえばいい。でも、上等の家具付きの家を取り上げるのは、そう簡単にはいかない。借り手を追い出すのは金と時間がかかるの。恨みを買うこともあるし、家具を傷つけられることもある。時にはわざと。この床に敷いた敷物は二百ドル以上もする、それも中古で。ただのジュートの敷物だけど、色が素敵だと思わない? 中古のジュートだなんて誰も気づかない。でも、ばかげてるわね。だって、一度使ってしまえば何でも中古なんだから。政府のためにタイヤを節約しようとここまで歩いてきたわ。途中までバスに乗ることもできたけど、待っててもなかなかやって来ないの。反対方向に行くバスばかりで」
 女の言うことはほとんど聞こえなかった。それはある地点の向こうで波が砕けて見えなくなるようなものだった。私の興味は銃にあった。
 弾倉を引き抜いてみた。空だった。銃をひっくり返して銃尾の中を覗き込んだ。そこも空だった。銃口の匂いを嗅いだ。臭かった。
 私は銃をポケットに落とし込んだ。六連発、二五口径オートマチック。弾倉は空だ。撃ち尽くされている。それも遠い昔のことではない。だが、ここ三十分以内でもない。
「撃たれてるの?」ミセス・フォールブロックは愛想よく尋ねた。「でないといいけど」
「撃たれたと思う理由があるんですか?」私は訊いた。声はしっかりしていたが、脳味噌はまだ跳ね回っていた。
「だって階段に落ちてたんだから」彼女は言った。「どのみち銃は、撃つものでしょう」
「言い得て妙だ」私は言った。「だが、ミスタ・レイヴァリーのポケットに穴が開いていた、ということもある。彼はここにいないんですね?」
「そう、いないの」彼女はかぶりを振った。がっかりしているようだった。「あんまりじゃないの。 小切手をくれるという約束だったから、ここまで歩いてきたのに――」
「彼に電話したのはいつのことです?」私は訊いた。
「あら、昨日の夕方よ」いろいろ訊かれるのが気に入らないらしく、眉をひそめた。
「急に呼び出しがかかったんでしょう」私は言った。
 女は私の二つの大きな茶色い瞳の間にある一点を見つめた。
「ねえ、ミセス・フォールブロック」私は言った。「もうおふざけは終わりにしましよう。ふざけるのは嫌いじゃないし、こんなことは言いたくないんだが、まさか、あなたが撃ったんじゃないでしょうね? ――たかが家賃を三か月分溜めたからという理由で」
 彼女は非常にゆっくりと椅子の端に座り、舌先を口の緋色の切れ目に沿って動かした。
「どうしたらそんなにひどいことが言えるの」彼女は怒って言った。「あなたってずいぶんひどい人ね。銃は発射されてないって言わなかった?」
「すべての銃はいつかは発射される。すべての銃はいつかは弾丸が込められる。この銃は今は弾丸が入っていない」
「それじゃ――」彼女はじれったそうな仕種をし、油じみた手袋の臭いを嗅いだ。
「オーケー。考え違いでした。ただのつまらない冗談です。ミスタ・レイヴァリーは外出中で、あなたは家の中を調べた。家主であるあなたは鍵を持っている。これでいいですか?」
「邪魔するつもりはなかったのよ」彼女は言った。「多分、そうするべきじゃなかったんだわ。でも、私には物事がちゃんと管理されているかを調べる権利がある」
「それであなたは調べた。彼がここにいないのは確かなんですか?」
「ベッドの下までは覗いてみなかった。冷蔵庫の中もね」彼女は冷たく言った。「呼鈴に返事がなかったので、階段の上から声をかけたの。それから、下のホールに降りて、また声をかけた。寝室も覗いてみた」。彼女は恥ずかしそうに目を伏せ、膝の上で手をくねらせた。
「それで終わりですか」私は言った。
 女は明るい顔で頷いた。「そう、それで終わり。それで、あなた、お名前はなんとおっしゃったかしら?」
「ヴァンス」私は言った。「ファイロ・ヴァンス」
「それでどんな会社に雇われているの? ミスタ・ヴァンス」
「今は失業中でね」私は言った。「警察本部長が再び窮地に陥るまでは」
 彼女はびっくりしたようだった。「でも、車の支払いの件で立ち寄ったと言わなかった?」
「ただのアルバイトです」私は言った。「穴埋め仕事でね」
 彼女は立ち上がり、私をじっと見つめ、冷たい声で言った。「そういうことなら、もう帰ってちょうだい」
 私は言った。「差し支えなければ、まずはざっと見て回りたい。なにか見落としたものがあるかもしれない」
「その必要はないと思います」彼女は言った。「ここは私の家です。もうお帰りください。ミスタ・ヴァンス」
 私は言った。「もし私が出て行かなかったら、誰かを呼んでそうさせることになる。まあ、お掛けなさい、ミセス・フォールブルック。ちらっと見るだけです。この銃ですが、ちょっと変なんです」
「言ったでしょう。階段で見つけたって」彼女は腹立たし気に言った。「それについては何も知らないと。銃のことは全然わからない。私――私は生まれてこの方、銃を撃ったことなんて一度もない」女は大きな青いバッグを開けてハンカチを引っ張り出して鼻をすすった。
「それはあなたの話だ」私は言った。「私がそれにどうこうされる筋合いはない」
 彼女は哀れなしぐさで左手を私に差し出したが、それはまるで『イースト・リン』の芝居に出てくる、過ちを犯した妻のようだった。
「ああ、入ってくるんじゃなかった」彼女は叫んだ 「忌まわしいこと。 こうなると分かっていたのに。 ミスタ・レイヴリーはカンカンになる」
「あなたがすべきでなかったのは、私に銃が空だと教えたことだ。それまでは手札をすべて握っていたんだから」
 彼女は地団太を踏んだ。それだけが欠けていた場面だった。それで完璧になった。
「まったく忌々しい奴」女は金切り声で言った。「触らないで! 一歩でも私に近づくんじゃない! あんたとはもう片時もこの家にはいられない。よくもまあ、そんな無礼な真似が――」
 女は空中で輪ゴムがプチンと切れるように声を途切らせた。それから頭を下げて紫色の帽子をかぶり、 ドアの方へ走った。私の前を通り過ぎる時、女は私を制止するように手を突き出したが、距離があったので、私は動かなかった。女はぐいとドアを大きく開き、そこから外に飛び出して、通りまで駆け上がった。ゆっくりと閉まるドアの音をかき消すように、女の気忙しい足音が聞こえた。
 私は歯に沿って爪を滑らせ、顎の先を指の関節で叩き、耳を澄ました。どこからも何も聞こえてこなかった。撃ちつくされた、六連発オートマチック。
「何かある」私は声に出して言った。「この現場は完全にまちがっている」
 家の中が異様に静まり返ったようだった。私は杏子色の敷物の上を進み、アーチを通って階段の上にたどり着いた。私はそこにしばらく立ち、再び耳を澄ました。
 肩をすくめてから、静かに階段を下りて行った。

【解説】

「私の膝がぽきっと音を立て、緊張がほぐれた」は<My knees cracked, relaxing>。清水訳は「私の膝は緊張がとけて、かるくなった」。田中訳は「おれは膝の力がガクン、ガクンとゆるみ、やつと気がしずまった」。村上訳は「私の膝は緊張がとけて、がくがくしていた」。<crack>は「砕ける、割れる」の他に「鋭い音を立てる」という意味がある。<knee crack>は膝の立てる間接音のことだ。おそらく何かの拍子で、膝が鳴ったのだろう。村上訳のように「緊張がとけて、がくがくし」たのではなく、間の抜けた音のせいで、緊張がとけたのだ。原因と結果が逆になっている。

「銃をひっくり返して銃尾の中を覗き込んだ」は<I turned the gun and looked into the breech>。<breech>は「銃尾」のこと。清水訳は「銃を折って、銃尾をのぞいてみた」。リヴォルバーじゃないので、銃を折ることはまずないと思う。田中訳は「おれはピストルをひっくりかえし、銃身をのぞいてみた」。「銃身」は<barrel>。銃を使い慣れた人間が、残弾を確認するのに銃身を覗き込むことはないだろう。村上訳は「後ろ側から銃尾のなかを覗いてみた」。弾倉が空でも、薬室に弾丸が残っている場合がある。それを確かめたのだろう。

「ふざけるのは嫌いじゃないし、こんなことは言いたくないんだが」は<Not that I don't love it. And not that I like to say this>。清水訳は「おしゃべりがきらいだからではないんです。そして、こんなことをいうのが好きだからではないんです」。田中訳は「ぼくは、ふざけるのはきらいでね。それにこんなことはいいたかないが」と、「ふざけるのがきらい」だと言っている。それは誤りだ。村上訳は「私はそういうのが嫌いなわけじゃないし、こんなことを口にしたいわけでもありません」。

「警察本部長が再び窮地に陥るまでは」は<Until the police commissioner gets into a jam again>。清水訳は「市の警察本部長がまた問題を起こすまでは」。田中訳は「公安委員会から、事件を解決してくれと頼みにくるまではね」。<get into a jam>は「窮地に陥る」という意味。言うまでもないが、チャンドラーはここで、ヴァン・ダインに皮肉な挨拶を贈っている。警察が事件を解決できないときにしゃしゃり出てくるのが、名探偵ファイロ・ヴァンスだからだ。村上訳は「市警本部長がもう一度窮地に陥るまではということですが」。

「女は空中で輪ゴムがプチンと切れるように声を途切らせた」は<She caught her voice and snapped it in mid-air like a rubber band>。清水訳は「彼女は自分の声をとらえて、ゴムバンドのように空中にはじき飛ばした」だが、これでは何のことやらよく分からない。<catch one’s voice>は「声を途切らせる」ことだ。田中訳は「ミセズ・フォールブルックはハッと口をつぐんだが、まるでゴムバンドをピシッといわせたように、言葉のはしがきれた感じだった」。村上訳は「女はそこではっと声を詰まらせ、話を輪ゴムのように空中でぷつんと断ち切った」。

「私の前を通り過ぎる時、女は私を制止するように手を突き出した」は<As she passed me she put a hand out as if to stiff arm me>。清水訳は「私のそばを通るとき、私の腕をねじまげようとでもするように手を突き出した」。田中訳は「おれの前を走りぬける時、腕をつきだしたが、パンチでもくらわすつもりだったのか……」。< stiff arm>は<straight-arm>と同義で「腕を肩から完全に伸ばし、ひじをロックした状態で、手のひらで押すことにより、人や物を追い払う行為」(Merriam-Webster)。村上訳は「私のそばを通り抜けるときに、タックルを防ぐフットボール選手のように、片手をぐいと外に向けて突き出した」。

「ゆっくりと閉まるドアの音をかき消すように、女の気忙しい足音が聞こえた」は<The door came slowly shut and I heard her rapid steps above the sound of its closing>。清水訳は「ドアがゆっくり閉まり、彼女のせわしない足音がドアの閉まる音を消した」。田中訳は「ドアはゆつくりしまり、その音よりもつと高く、ミセズ・フォールブルックが大いそぎで走つていく足音がきこえた」。村上訳は「ドアはゆっくり閉まった。彼女の速い足音が、ドアの閉まる音に重なって耳に届いた」。

<above>は「~より上に」を表す前置詞。建付けの悪いドアが閉まるときにはさぞかし耳障りな音を立てるのだろう。その低音に対して、女の駆け去る足音は確かに高く聞こえるはずだ。田中氏の「その音よりもつと高く」は、そういう意味だろう。拙訳や清水訳は<her rapid steps>が、数量・程度で<the sound of its closing>より上回ると捉えている。村上氏は、ドアの閉まる音の上に被さるように、女の足音が聞こえたと解しているようだ。

「私は歯に沿って爪を滑らせ、顎の先を指の関節で叩き、耳を澄ました」は<I ran a fingernail along my teeth and punched the point of my jaw with a knuckle, listening>。清水訳は「私は指の爪で歯をこすり、拳(こぶし)であご(傍点二字)の先を叩いて、聞き耳を立てた」。田中訳は「おれは、爪のさきを歯にそつてうごかし、指の関節で顎のさきをつまんで、耳をすました」。村上訳は「私は爪を歯に沿って走らせ、顎の先を拳でとんとんと叩き、耳を澄ませていた」。

まず<a knuckle>だが、通常、単数の場合は「指の付け根の関節」を表す。「拳」の場合は<the knuckles>と<the ~ s >の形になる。このシーンだが、親指の爪で歯をこすりあげ、返す刀で指の関節で顎を叩いたのだろう。何かを考えるときに人が見せる仕種だ。田中氏はちゃんと「指の関節」としながら、どうして<punch>を「つまむ」と訳したのだろう。もしかしたら<pinch>と見まちがえたのだろうか。

蛇足ながら、村上氏の訳文に続出する「耳を澄ませた」について、翻訳家の田口俊樹氏の近刊『日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年』(本の雑誌社)の中にこう書かれている。

このところ「耳をすませて」が主流のようなのでひとこと。「すまして」は五段活用の「すます」の連用形で、「すませて」は「すむ」に「せる」という使役の助動詞がついた形だ。とすると、「すませて」とする場合、「耳がすむ」という言い方がそもそもなければならないわけだが、そういう言い方はあまり聞いたことがない。ゆえに、「すまして」が正しい、というのが持論なのだが、「すませて」と書いておられて、今のこの私の説明で「なるほど」と思われたら、すまして教に今日から宗旨替えしていただけたら、教主としてはちょっと嬉しい。「なるほど」と思わなければ、どうぞご随意に。

特に村上氏にあてて書かれたわけではないだろうが、影響力の大きさからいえば、村上春樹のそれは、かなりのものがある。今後、村上氏の訳文に注目したいところだ。また、田口氏のこの本には、ミステリやハードボイルドを翻訳するにあたっての注意点が、自身の経験を踏まえたうえで、惜しみなく披露されている。興味のある方は是非ご一読のほどを。