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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

四冊の『長い別れ』を読む

<The Long Goodbye>は長い間清水俊二訳が定番だった。村上春樹が単なるハードボイルド小説としてではなく、「準古典小説」として新訳『ロング・グッドバイ』を出したことは当時評判になった。旧訳に欠けていた部分を補填するなど意味のある仕事だったが、新訳の評価は二分した。これはもう原文にあたるしかないと思い、原文と照らし合わせ、新旧訳を読み比べる記事をブログに書き始めた。同じことを考えた人も多かったのだろう。ある日、松原元信氏から『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』という本が送られてきた。著書の中に、私がブログに書いた記事の引用があったので贈ってくれたのだ。

田口俊樹訳『長い別れ』が出た。さて、どうしたものだろう。今度は『四冊の「長い別れ」を読む』を始めるべきなのだろうか? チャンドラーの長篇のなかでも<The Long Goodbye>は全五十三章の大冊である。もう一度、読み比べをする気力が自分にあるだろうか。とりあえず第一章を訳し、三氏の訳と比べてみた。文庫版で、清水訳が482ページ、村上訳が594ページ、田口訳が578ページ。冗長だと評された村上訳とほぼ同量ながら、さすがに訳文はこなれていて格段に読みやすい。これまで気になっていた部分が田口訳ではどうなっているのか、を中心にしてみていくことにしよう。


1

【訳文】

はじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼はザ・ダンサーズのテラスの前に停めたロールスロイス・シルヴァーレイスの中で酔いつぶれていた。車を出してきた駐車場係は開けたドアをずっと支えていた。テリー・レノックスの左足が持ち主に忘れられたみたいに車の外にだらんと垂れているからだ。顔立ちこそ若々しいが、髪は真っ白だった。眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた。
 
傍らに若い女がいた。髪はきれいな濃赤色、唇の上によそよそしい微笑を浮かべている。肩にブルー・ミンクのショールをかけていた。ロールス・ロイスがありきたりの車に見えるような代物だった、と言いたいところだが、ロールスロイスはあくまでロールスロイスである。ありきたりの車になど見えるはずがない。
 
駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた。彼はうんざりしていた。
 
「ねえ、お客さん」彼はとげのある声で言った。「ドアが閉められないんで、脚を車の中に引っ込めてもらえませんか?  それとも、開けたままにしときます? いつでも好きなときに落っこちられるように」
 
女は駐車係にぐさりと刺さり、背中から少なくとも四インチは突き出そうな視線を投げた。それくらいのことで彼が怯むことはなかった。ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった。
 
車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた。男がひとり降り立ち、ダッシュボードのシガーライターを使って細長い煙草に火をつけた。プルオーバーのチェックのシャツに黄色いズボン、乗馬靴といういで立ちで、香料入りの紫煙を燻らせ、ぶらぶら歩いてきたが、ロールスロイスには目もくれなかった。そんなものは陳腐だと思ったのだろう。テラスに上がる階段の下で立ち止まると、眼に片眼鏡をはめた。
 
女は愛嬌を振りまいて言った「いいこと思いついたわ、ダーリン。タクシーであなたの家に行ってコンバーチブルを出さない? モンテシートまで海岸沿いを走るにはもってこいの夜よ。あちらに知ってる人がいて、プールサイドでダンス・パーティーを開いてるの」
 
白髪の青年は丁重に言った。「大変申し訳ないが、もうあれは持っていないんだ。やむなく売ったんだ」彼の声と話し方から、オレンジジュースより強いものを飲んでいたとはわからなかっただろう。

「売ったって、ダーリン? それってどういうこと?」彼女はシートの上で体を滑らせて彼から身を引いた。しかし、声の方はそれよりずっと遠くへ離れていた。

「そうしなきゃならなかった」彼は言った。「食べるためにね」

「そういうことね」今の彼女の舌の上なら、一切れのスプモーニさえ溶けそうにないだろう。
 
駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った。「なあ、あんた」彼は言った。「おれは車をここからどかさにゃならない。またいつか会おう、もし会えたらな」
 
そう言って、支えていた手を離し、ドアが開くに任せた。たまらず酔っ払いはシートから滑り落ち、アスファルトの路面に尻もちをついた。そのまま見捨てても置けず、手を貸すことにした。いつだって酔っ払いにいらぬお節介を焼くのはまちがいだ。たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ。私は彼の脇の下に手を入れ、立ち上がらせることにした。

「どうもご親切にありがとうございます」彼は丁寧に礼を言った。
 
女は運転席に身をすべらせた。「この人ったら酔っぱらうと、すっかり英国人気取りなの」女の声はまるでステンレス・スティールのようだった。「世話をかけるわね」

「後ろの席に乗せよう」私は言った。

「ほんとにごめんなさい。約束に遅れてるの」クラッチが繋がれ、ロールスがすべり出した。「この人は迷い犬みたいなものなの」女は冷やかな笑みを浮かべながらつけ加えた。「家を見つけてあげてちょうだい。下のしつけはできてる――まあ、だいたいのところ」
 
やがてロールスは刻々とエントランスのドライブウェイを進み、サンセット・ブールヴァードに出ると、右に折れて何処へともなく走り去った。それを見送っているところへ駐車係が戻ってきた。私に抱えられたまま、今では男は眠りこけていた。

「ああいうやり方もあるんだなあ」私は白のお仕着せに話しかけた。

「当然さ」彼は皮肉っぽく言った。「あんな体をしてりゃ、酔っ払いの相手をしてる暇はないだろう」

「この男を知ってるか?」

「女はテリーと呼んでたな。どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない。おれはここに来て、わずか二週間なんでね」

「車を出してきてくれないか?」私は駐車券を渡した。

彼が私のオールズを運んできたとき、私はまるで鉛の袋を抱えているような気分だった。白のお仕着せが助手席に乗せるのを手伝ってくれた。客は片眼を開けて我々に礼を言うと再び眠りこんだ。

「こんなに礼儀正しい酔っ払いは見たことがない」私は白のお仕着せに言った。

「酔っ払いというやつは大きさも格好も、物腰もいろいろだ」彼は言った。「けど、みんながみんなぐうたらだ。この人、整形手術をしてるね」
「ああ」一ドル札を出すと、彼は礼を言った。整形手術については彼の言う通りだった。我が新たな友の顔の右側は凍りついたように白っぽく、細い微かな縫合の痕があった。傷跡の近くの皮膚はてらてらしていた。整形手術というには、かなり手荒い仕事ぶりだ。

「この男をどうするつもりで?」

「家に連れて帰って、住所が訊き出せるくらいは酔いを醒まさせてやるよ」
 
白のお仕着せはにやっと笑った。「こりゃまた、ずいぶんとお人好しだね。おれなら側溝に放り込んでとっとと行っちまうがね。飲んだくれに関わっても、煩わされるだけで何の得にもならない。 こういうことについちゃ、おれにはひとつ哲学がある。 世知辛い世の中だ。わが身を守ろうと思ったらクリンチに逃げて、力を蓄えておかなきゃ」

「なるほど、そのせいでここまでのし上がってこれたわけだ」私は言った。彼は最初、訳が分からなかった様子で、それから怒り出したが、その頃には私の車は動き出していた。
 
もちろん男の言うことにも一理あった。 テリー・レノックスは私に多くの面倒をかけてくれた.。 しかし、結局のところ、面倒を引き受けるのが私の仕事だ。
 

その年、私はローレル・キャニオン地区のユッカ通りに住んでいた。小さな丘の中腹にある行き止まりになった通りに建つ家で、玄関までは長いセコイアの階段が続いていて、道路の向こう側にはユーカリの木立ちが生い茂っていた。家具付きで、家主の女性は、未亡人となった娘と暮らすためにしばらくの間、アイダホに行っていた。家賃が安かったのは、家主が急に戻りたくなったときには家を空ける約束になっていたことと、階段のせいもあった。彼女は家に帰るたびに段差と向き合うには年を取り過ぎていた。
 
私はやっとのことで酔っぱらいを運び上げた。彼は面倒をかけまいと努めたが、足はゴムのようで、詫びごとの言葉半ばで眠り込んでしまう有り様だった。私はドアの鍵を開け、彼を中に引きずり込み、長いカウチに寝かせ、上掛けをかけて眠らせてやった。彼は一時間ばかり、海豚のような鼾をかいていた。それから急に目が覚めて、トイレに行きたがった。 戻ってくると彼は私をじっと見詰め、目を細めて、自分がどこにいるのか知りたがった。 私は教えてやった。彼はテリー・レノックスと名乗り、ウエストウッドのアパートに住んでいて、待つ者は誰もいない、と言った。声は明瞭で、舌は縺れていなかった。
 
コーヒーを一杯、ブラックでもらえないか、と彼は言った.。 私がそれを持ってくると、カップの下にソーサーを添えて慎重にすすった。

「ぼくは、どうしてここにいるんだろう?」そう尋ねて、辺りを見回した。

「ザ・ダンサーズに停めたロールスの中で酔いつぶれてた。連れの女性に見捨てられたんだ」

「そうだった」彼は言った。「とはいえ、誰も彼女を責められない」

「きみは英国人か?」 

「住んではいたが、生まれはちがう。タクシーを呼んでくれたら、お暇できるんだが」

「よければ送るよ」
 
彼は階段をひとりで降りた。ウエストウッドへの道中、彼はあまり多くを語らなかった。ただ、親切にしていただいてありがとう、迷惑をかけて申し訳なかったと言う以外は。おそらく何度も何度も、たくさんの人にそう言ってきたのだろう。何となく決まり文句を唱えているようなところがあった。
 
彼のアパートは狭く、息苦しく、味気ないものだった。その日の午後に引っ越してきたみたいだった。頑丈そうな緑の大型ソファの前にコーヒーテーブルがあり、その上には、半分空になったスコッチのボトルと溶けた氷の入ったボウル、炭酸水の空瓶が三本とグラス二個、ガラスの灰皿は口紅つきの吸殻と口紅がついてない吸殻で埋まっていた。写真はおろか、身の回りの品ひとつなかった。出会いや別れのために、酒を酌み交わして話をするために、一夜をともにするために借りるホテルの部屋みたいだった。人が生活を営む場所には見えなかった。
 
酒を勧められたが、断った。腰もおろさなかった。帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった。いささかふらふらしていて、少々恥じ入っているようだったが、とても礼儀正しかった。自動エレベーターが上がってきて、私がそれに乗り込むまで、彼は開いたドアの前に立っていた。無一物ではあるにせよ、行儀作法はしっかり身についていた。

女のことは二度と口にしなかった。職も将来もないことにも触れなかった。彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった。

エレベーターで降りながら、上に取って返して、彼からスコッチの瓶を取り上げたい衝動に駆られた。しかし、私には関係ないことだし、どうせ何の役にも立たない。酒飲みはいつだって、飲みたいとなれば、何としてでも手に入れる方法を見つけるものだ。
 
私は家まで車を走らせながら、いつの間にか唇を噛んでいた。私は感情に流されることなく生きるようにしている。だが、あの男には何か引っかかるものがあった。それが白い髪と傷のある顔、澄んだ声、礼儀正しさでないなら、何なのか知りようがない。それで充分だったのかもしれない。二度と会う理由はないのだ。彼はただの迷い犬だった。あの女が言ったように。 

【解説】

ディナージャケットの持つ意味

「眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた」のところ、原文では<You could tell by his eyes that he was plastered to the hairline, but otherwise he looked like any other nice young guy in a dinner jacket who had been spending too much money in a joint that exists for that purpose and for no other.>

清水訳は「眼つきで泥酔していることがわかるが、酒を飲んでいるというだけで、ほかにはとくに変わったところのないあたりまえの青年だった。金を使わせるために存在している店で金を使いすぎただけのことだった」と<in a dinner jacket>をスルーしている。後で説明するが、ディナージャケットは重要な細部なのだ。

村上訳は「泥酔していることは目を見れば明らかだが、それを別にすれば、ディナー・ジャケットに身を包んだ、当たり前に感じの良い青年の一人でしかない。人々に湯水のごとく金を使わせることを唯一の目的として作られた高級クラブに足を運び、そのとおり金を使ってきた人種だ」。旧訳が捨てて顧みなかったところを掬い取ろうという意気込みが伝わる訳だ。

さて、いよいよ田口訳である。「ディナージャケットを着たテリーの顔は若かった。が、髪はもう真っ白で、その眼を見れば、かなり酔っているのが分かった。それ以外はどこにでもいそうな、気のよさそうな若者だった。客に大金を使わせることだけが目的の店で、そういう店の目的に適(かな)う所業をこれまでに何度もしてきたことがうかがえる、そんな若者だった」

自在な訳しぶりだが一つ気になる点がある。当然テリー自身も着ているだろうが、<he looked like any other nice young guy in a dinner jacket>と、原文ではむしろ、ディナージャケットを着ているのは<any other nice young guy>の方である。つまり、ザ・ダンサーズという店は、夜会服を着ていなければ入れない、そういう店だということを言いたいためのディナージャケットだ。田口訳では、たまたまテリーがそういう服装だったというようにも読めてしまう。

<white coat>は「白のお仕着せ」

「駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた」は<The attendant was the usual half-tough character in a white coat with the name of the restaurant stitched across the front of it in red>。<white coat>は「白衣、業務等において着用する主に白色または淡色の外衣」のことだが、「白衣」と訳すと紛らわしい。清水訳は「白い上衣」「白服」、村上訳は「白い上着」「白服」。「黒服」というのは聞いたことがあるが、「白服」という呼び方は普通にあるのだろうか? 田口訳の「白いコート」はちょっと首をひねる。この男は後々<white coat>と呼ばれることになるので、どう訳すかは大事なことになる。

<golfing money>とはどんな金

「ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった」は<At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.>

清水訳は「<ダンサーズ>では、金にものをいわせようとしても当てがはずれることがあるのだ」。村上訳は「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいことを人に教え、幻滅を与えるために、<ダンサーズ>は、この手の連中を雇い入れているのだ」。村上氏は<the sort of people>を従業員だと考えたため<that>以下を読み誤っている。

ここは片岡義男鴻巣友季子著『翻訳問答』のなかで問題にされていたところで、片岡によれば村上が「英文の構造を理解しないままに意味を取ろうとしているから」こうなるのだそうだ。因みに、片岡の訳では「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」となる。

田口訳は「遊びに大金をはたく人たちは人間的魅力にもあふれている、などという幻想をものの見事に打ち砕いてくれる人種が集まる店が、この<ダンサーズ>という店だ」。<golfing money>は「ゴルフなどの遊びに使う金」というような意味で新聞の見出しにも用いられているらしい。片岡訳と同じで、田口訳も一歩踏み込んだ訳になっている。たしかに、こうすればわかりやすくはなるだろう。だが、原文はそこまでは踏み込んでいない。

<speedster>は「2人乗りのオープンカー」

「車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた」は<A low-swung foreign speedster with no top drifted into the parking lot>。清水訳は「トップがなく車体(ボディ)の低い外国製の高速車が駐車場にすべりこんできて」。村上訳は「車高の低い外国製のスポーツカーが、屋根を開けたまま駐車場に滑り込んできた」。田口訳は「そこへ車高の低い外国製のスポーツカーが幌をおろしたまま駐車場にすべり込んできた」。

時代的には、ポルシェ356 1500 アメリロードスターと思われるが、確かめるすべはない。ロールスロイスを陳腐と見る人間が乗る車なのだから、ライトウェイト・オープン2シーターと見てまちがいない。<speedster>は「2人乗りのオープンカー」のことだ。<with no top>なのだから、幌や屋根についてわざわざ触れず「オープンカー」でいいのではないか。

<low-income bracket>は「低所得層」

「駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った」は<The attendant had the white-haired boy right where he could reach him--in a low-income bracket>。清水訳は「駐車係は白髪の青年が自分と懐具合があまりちがわない男であることを知った」。村上訳は「駐車係はこの白髪の青年が、実は自分とさして変わらぬ境遇にあることを知った――逼迫した財政状態」。田口訳は「白髪の若い男が遠い存在ではなく、むしろ生活に困っている同類であることが駐車係にもわかったのだろう」。

三氏の訳では、駐車場係が青年が自分と同じ生活困窮者であることに気づいた、という解釈になる。まるで、同病相憐れむという感じだが、それはちがうのではないか。それまで駐車係はうんざりしながらも、相手が上客だと思って仕方なくつきあっていた。しかし、食うに困って車を売らねばならない男は、手の出せない階層ではなく<low-income bracket>(低所得層)にいることを知った。だから、それまで我慢していたことをあっさりやめて手を離したのだ。

<in the teeth>は「口に一発」ではない

「たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ」は<Even if he knows and likes you he is always liable to haul off and poke you in the teeth>。清水訳は「よく知っている人間でも、腕力をふるって襲いかかってくるものだ」。簡略ではあるが要を得た訳だ。村上訳は「もし相手が知り合いであっても、あるいはまたこちらに好意を抱いていたとしても、そいつはわけもなくつかみかかってくるかもしれない。顎に一発叩き込まれるかもしれない」。

田口訳は「たとえ相手が知り合いでも、たとえそいつに好かれていても、いきなり殴りかかられ、口に一発食らわないともかぎらない」。村上訳と共通するのが「口に一発」としたところだ。おそらく両氏とも<in the teeth>を訳したつもりだろうが<in the teeth>は「面と向かって、おおっぴらに、公然と」という意味だ。<haul off>は「殴りかかるために後ろに腕をひく」ことで<poke>は「突く」こと。また<liable to>は、「かもしれない、〜ないともかぎらない」という意味ではなく、「人・物などが(欠点・性向として)〜しがちな、悪い傾向がある」という意味である。つまり、清水訳のままでよかったのだ。

<cow's caboose>をどう訳すか

「どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない」は<Otherwise I don't know him from a cow's caboose>。清水訳は「そのほかにはなんにも知りません」と<from a cow's caboose>をスルーしている。村上訳は「それ以上のことは牛のけつ(傍点二字)ほども知らんですね」。田口訳は「それ以外はまるっきり知らない人だね」。<I don’t know him from “something”>というフレーズがあって、“something”の部分には何でもいいが馬鹿げた物が入るらしい。意味としては「彼をまったく知らない」だ。「牛の尻」を何とか生かしたくて「馬の骨」にしてみた。
「平身低頭」して礼を言うだろうか

「帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった」は<When I left he thanked me some more, but not as if I had climbed a mountain for him, nor as if it was nothing at all>清水訳は「私が帰るとき、彼はまた礼を述べたが、私が彼のために大いにつくしたからというふうでもなく、言葉だけの挨拶でもなかった」。<a mountain to climb>は「大量のやるべきこと」という意味。彼の代わりに私がそれをした、ということだ。

村上訳は「帰り際に彼は重ねて礼を言ったが、私の取った労に対して平身低頭するでもなく、かといって口先だけで礼を言ってるのでもなかった」。田口訳は「辞去しかけると、彼はさらに礼を言った。平身低頭するほどでもなかったが、かといって口先だけの礼でもなかった」とほぼ村上訳を踏襲している。「平身低頭」は「ひたすら詫びる、畏れ入る」のような意味で使われる表現で、普通「礼を言う」ことには使わない。

<bit of high class>はどう訳されたか

「彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった」は<and that almost his last dollar had gone into paying the check at The Dancers for a bit of high class fluff that couldn't stick around long enough to make sure he didn't get tossed in the sneezer by some prowl car boys, or rolled by a tough hackie and dumped out in a vacant lot.>

ここは、松原氏の『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』でも言及されていたところで、清水訳は「最後の持ち金を<ダンサーズ>でわずかばかりのあやしげな高級酒にはたいてしまったことも口にしなかった。その高級酒というのは、警察の自動車につかまって豚箱にぶち込まれたり、もうろう(原文傍点つき)タクシーにひかれて空き地にすてておかれたりする心配がないほど永もちしない酒だった」

村上訳は「<ダンサーズ>みたいな高級な店で派手に金を使えば、自分にちっとは箔がついたような気持ちにさせられることはたしかだ。しかしそんな箔はあっという間にはげ落ちてしまう。パトカーの警官に見とがめられて留置場に放り込まれるか、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されるか、そのへんが関の山である」。問題の<bit of high class fluff>は、清水訳では「わずかばかりのあやしげな高級酒」、村上訳では「ちっとは箔がついたような気持ち」とされている。

田口訳は「さっきの高級な女のために<ダンサーズ>で払った金がほぼ最後の一ドルだったことについても。彼がパトロール警官に捕まってブタ箱に放り込まれても、あるいは荒っぽいタクシー運転手に身ぐるみ剥がされて空き地に放り出されても、あの女にはどうでもよかったのだろう」となっている。<bit of high class fluff>は「さっきの高級な女」つまり、テリーの元妻だという解釈だ。原文をよく読めば、これ以外には考えられない。<bit of fluff>は「魅力的な女、セックスの相手」を指す俗語。それに<high class>(高級な)を付け足すことでテリーの連れの女性を表したのだ。

<stick around>は、ロングマン現代英英辞典によれば<to stay in a place a little longer, waiting for something to happen>(物事が起こるのを待ちながら、ひとつの場所に少し長くとどまること)。<make sure>は「確認する」。そうすると<that>以下は「彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりされないかを確認できるだけの時間、ひとつところにとどまることができなかった」となる。そんなことができるのは、彼と同じ車で店にやってきた女しかいないのではないか。