五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む
“shake one’s head”は(落胆・悲しみなどを表すために)首を横に振る
21
【訳文】
翌朝、前の晩に稼いだ思わぬ報酬を理由にいつもより寝過ごした。コーヒーを一杯余分に飲み、煙草を一本余分に吸い、カナディアン・ベーコンを一切れ余分に食べ、電気カミソリは二度と使わない、と三百回目の誓いを立てた。それでその日は普通の一日になった。十時にオフィスに行き、郵便物を拾い集め、封を切って机の上に置いた。窓を大きく開けて、夜の間に溜まった埃と薄汚れた匂いを追い出した。それは静まり返った空気の中、部屋の隅に、ベネチアン・ブラインドの隙間に漂っていた。蛾が一匹、机の隅で翅を広げて死んでいた。窓枠ではぼろぼろの羽根の蜂が木枠に沿って這いずりまわり、かすかにくたびれた羽音を立てていた。まるで、自分はもう手遅れで、終わりを迎えつつあり、あまりにも多くの任務をこなしてきて、二度と巣に戻ることはない、と観念しているかのように。
とんでもない厄日になりそうな気がしていた。誰にでもそういう日がある。そんな日に飛び込んでくるのは、頭のねじの緩んだやつ、ガムと一緒に脳みそをどこかに置き忘れてきたぼんくら(ディンゴ)、患者(ナッツ)を見つけられない精神科医(スクワーレル)、いつも歯車をひとつ戻し忘れる修理工とかいった連中だ。
一人目は、金髪の粗野な大男で名前はクイッセネンとかいうフィンランド人だった。客用の椅子にでかい尻をねじ込み、大きなごわごわした両手を机に置くと、自分はパワーショベルの運転手で、カルバー・シティに住んでるが、隣に住むクソ女が俺の犬に毒を盛ろうとしている、と言った。毎朝、裏庭に犬を放す前に、隣からツルハナナスの垣根越しにミートボールが投げ込まれていないか、隅から隅まで探し回らなければならない。これまで見つけた九個のミートボールには、彼によれば、砒素入りの除草剤と思しき緑色の粉が塗されていた、とも。
「彼女を捕まえるのにいくらかかる?」 彼は水槽の中の魚のように、まばたきもせずに私を見つめた。
「自分でやったらどうかな?」
「生活のために働かなくちゃいけないんだよ、ミスタ。ここに頼みに来るだけで、一時間に四ドル二十五セントも無駄にしてるんだ」
「警察には?」
「警察にも行くさ。来年には何とかしてくれるかもしれない。今はMGMの ご機嫌取りで忙しいんだ」
「S.P.C.A(動物保護団体)は? テイルワガーズ(愛犬協会)は?」
「なんだそれ?」
私はテイルワガーズのことを話した。彼はまったく興味を示さなかった。S.P.C.A.のことは知っていた。S.P.C.A.は及びじゃない。あいつらは馬より小さいものは見えてないんだ。
「ドアに調査員だって書いてある」と彼は喧嘩腰で言った。「いいから、さっさと調査しに行け。彼女を捕まえたら五十ドルだ」
「悪いが」と私は言った。「今は忙しい。それに、あんたの家の裏庭に身をひそめて何週間か張り込むなんてのは私の専門外だ――たとえ五十ドルもらってもね」
彼は唸りながら立ち上がった。「大物なんだな」と彼は言った。「はした金はいらないってか。ちっぽけな犬の命なんかにかかずりあっちゃいられないというわけか。くたばっちまえ、何様だってんだ」
「こちらにもいろいろ事情があってね。ミスタ・クイッセネン」
「女を捕まえたら、素っ首ねじ切ってやる」と彼は言った。まちがいない。彼なら象の後ろ肢だってもぎ取ることもできるだろう。「だから、他の誰かの助けが欲しかったんだ。家の前を車が通るとあの子が吠えるからって、あの仏頂面のくそ婆が」
彼はドアに向かった。「本当に犬なのか? 彼女が毒を盛ろうとしてるのは」私は彼の背中に声をかけた。
「そうに決まってるだろう」ドアに手がとどく手前で、彼はようやく気づいた。素早く振り返った。「もういっぺん言ってみろ、この野郎」
私はただ首を振った。彼と争う気はない。彼なら机で私の頭をぶっ叩くことだってできるだろう。彼は鼻を鳴らして出て行った。もう少しでドアまで持っていきそうな勢いで。
次の客は女性だった。年寄りでもなく、若くもなく、清潔でもなく、あまり汚れてもいない、明らかに貧しく、みすぼらしく、愚痴っぽく、愚かだった。同室の女の子が ―― 彼女の中では、外で働く女はみんな女の子なのだ ――- 財布から金を抜き取っているという。ここで一ドル、あそこで五十セント、それが塵も積もれば山となって、全部で二十ドルほどになる。見過ごせるほどの余裕はなく、引っ越す余裕もなかった。探偵を雇う余裕もない。私なら名前を言わずに電話でルームメイトを怖がらせられるだろうと考えたのだ。
そこまで話すのに二十分以上かかった。それを話しながら、しきりにバッグをこねくり回していた。
「君の知り合いにでもできることだ」と私は言った。
「ええ、でもあなたは探偵をやってるんだから」
「見ず知らずの人を脅す資格は持っていない」
「あなたに会いに来たと言うわ。彼女の名前は出さないで。ただ、探偵がそれを調べているというだけ」
「私だったらそんなことはしないな。もし私の名前を言ったら電話をかけてくるかもしれない。電話があったら私は事実を伝えることになる」
彼女は立ち上がり、みすぼらしいバッグを腹に叩きつけた。「あなたは紳士じゃない」と彼女は声を荒げた。
「私が紳士であるべきだなんて、どこに書いてあった?」
彼女はぶつぶつ言いながら出て行った。
昼食後に会ったのはミスタ・シンプソン・W・エーデルワイス。彼は名刺を携えていた。ミシン代理店の店長だ。歳は四十八から五十くらい。小柄で疲れた顔をした男で、手足は小さく、袖の長すぎる茶色のスーツを着て、硬い白襟の下に紫地に黒いダイヤ柄を浮かせたネクタイを締めていた。落ち着いた様子で椅子の端に座り、悲しげな黒い目で私を見つめていた。髪も黒く、濃く、もじゃもじゃで、白髪の気配は全くなかった。赤みがかった口ひげを短く刈り込んでいた。手の甲を見なければ、三十五歳くらいに見えたかもしれない。
「馬鹿(シンプ)と呼んでください」と彼は言った。「みんなそう呼ぶんで。自業自得です。ユダヤ人のくせに異教徒の女性と結婚しました。歳は二十四で美人。彼女は前にも二度ほど家出してます」
彼は彼女の写真をとりだして私に見せた。彼にとっては美しいのかもしれない。私にとっては、締まりの無い口をした大きなだらしない牛のような女でしかなかった。
「どんな御用でしょう? ミスタ・エーデルワイス。こちらでは離婚がらみの仕事はしていませんが」写真を返そうとしたが、彼はそれを振り払った。「私はいつも依頼人には敬称をつけます」と付け加えた。「嘘八百を並べ立てられるまではね」
彼は微笑んだ。「嘘を言っても始まらない。離婚がらみじゃありません。メイベルに戻ってきてほしいだけです。でも、私が見つけ出すまで戻ってきません。彼女にとってこれはゲームみたいなものなんです」
彼は恨みつらみをまじえず、辛抱強く彼女のことを話した。酒好きで、浮気性、彼の目から見れば良妻とは言えなかった。ただ、それは自分が厳格な躾けを受けたせいかもしれない。彼女は家のように大きな心を持っていた、と彼は言った。それに彼女を愛していた、自分が理想の男だなんて思ってはいない。ただ、やるべき仕事をして稼ぎを家に持ち帰る勤め人に過ぎない。二人は共同の銀行口座を持っていた。彼女は全額引き出していたが、それについては覚悟していた。彼女が誰と浮気をしたのかについては見当がついている。もし予想通りなら、そいつは彼女を放り出し、置き去りにするだろう。
「名前はケリガン」と彼は言った。「モンロー・ケリガン。カトリック教徒を批難するつもりはない。悪いユダヤ人もたくさんいます。このケリガンの生業は床屋です。床屋を批難しているわけではありません。ですが、たいていは流れ者で競馬場に通い詰めているような輩です。素っ堅気とはいえません」
「金が切れたら連絡してくるのでは?」
「ひどく恥じ入って、自殺を図るかもしれない」
「これは警察の仕事だ、ミスタ・エーデルワイス。失踪人捜索願を出すべきだ」
「警察のことを批難するつもりはないが、その方法はとりたくない。そんなことをしたらメイベルに恥をかかせることになる」
世界はミスタ・エーデルワイスが批難したくない人びとで溢れているらしい。彼は机の上に金を置いた。
「二百ドル」と彼は言った。「手付金です。できれば私なりのやり方で片をつけたい」
「また同じことが起きますよ」と私は言った。
「わかっています」彼は肩をすくめ、穏やかに両手を広げた。「でも、彼女は二十四で、私はもうすぐ五十。こればかりはどうしようもない。もう少ししたら彼女も落ち着くでしょう。問題は、子どもがいないことです。彼女は子どもを産めない。ユダヤ人は家族を持つことを好む。メイベルもそれを分かっている。彼女は負い目を感じているんです」
「あなたはとても寛容な方だ、ミスタ・エーデルワイス」
「まあ、私はキリスト教徒ではありません」と彼は言った。「キリスト教徒を批難する気はないんです。お分かりですよね。でも、私にとって寛容というのは言葉じゃない。現実です。口にするんじゃなくて行動で示すものです。おっと、一番大事なことを忘れるところだった」
彼は絵葉書を取り出し、机の向こうの金の後ろに押しやった。「ホノルルから送ってきました。ホノルルでは金に羽が生えるらしい。叔父の一人が現地で宝石店を営んでいたんです。今は引退してシアトルに住んでいますが」
私はもう一度写真を手に取った。「これは外部に委託しなければなりません」と私は言った。「複写する必要がありますね」
「ミスタ・マーロウ、そうおっしゃるだろうと予想して、ここに用意して来ました」彼が封筒を取り出すと、そこにはさらに五枚の写真が入っていた。「ケリガンのもあります、スナップ写真ですが」彼は別のポケットに手を入れて、また別の封筒を出した。私はケリガンを見た。案にたがわず、のっぺりした誠意の感じられない顔だった。ケリガンの写真は三枚あった。
ミスタ・シンプソン・W・エーデルワイスは別の名刺をくれた。そこには名前、住所、電話番号が書いてあった。あまり費用がかからないことを望んでいるが、追加の資金が必要な場合はすぐに対応するので、連絡を待っていると言った。
「もし、まだホノルルにいるなら、二百ドルもあれば十分でしょう」と私は言った。「今必要なのは、電報に載せられるような、二人の詳細な身体的特徴です。身長、体重、年齢、肌の色、目立つ傷跡やその他の身元を示す特徴、彼女が着ていた服や持ち物、そして彼女が空にした口座の金額。ミスタ・エーデルワイス、以前に似たような経験をされているなら、私が何を必要としているかお分かりのはずだ」
「このケリガンには何か奇妙な予感がするんです。不安で仕方がない」
私はさらに三十分ほど、彼の話を聞きながらメモを取り続けた。それから彼は静かに立ち上がり、静かに握手をし、お辞儀をして、静かにオフィスを出て行った。
「メイベルにすべて大丈夫だと伝えてください」と彼は外へ出る際に言った。
結局、事はいつも通りに進んだ。ホノルルの同業者に電報を送り、その後に写真と電報で省略した情報を同封した航空便を送った。彼女は見つかった。豪華ホテルで客室係の助手として働いており、浴槽や浴室の床を磨いていた。ミスタ・エーデルワイスが予想した通り、ケリガンは彼女が寝ている間に彼女の財産を全て奪って逃げ去った。彼女はホテル代を支払うために指輪を質入れした。さすがにケリガンも手荒い真似をせずに指環を奪うことはできなかったのだろう。それでホテル代は支払ったが、帰りの運賃には足りなかった。そこでミスタ・エーデルワイスが飛行機に乗って彼女を迎えにいった。
彼女には過ぎた夫だ。私は彼に経費二十ドルと長文電報の費用の請求書を送った。二百ドルはホノルルの探偵社がさらっていった。オフィスの金庫にマディソンの肖像画を保管していると、格安料金で仕事を受けられる。
こうして、私立探偵の一日が過ぎた。典型的な一日とは言い難いが、全く典型的でないわけでもない。なぜこの仕事を続けるのか、誰も知らない。金持ちにもならず、楽しいこともほとんどない。時には殴られたり、撃たれたり、ブタ箱に入れられたりする。まれに死ぬこともある。二ヶ月に一度くらい、まだ首を立ててしゃんとして歩けるうちに、看板を下ろしてもっとまともな職を探そうと決心する。その時、ドアのブザーが鳴り、待合室の内扉を開けると、そこには新たな問題と新たな悲しみを抱えた、新たな顔が立っている。わずかばかりの金を手にして。
「お入りください、ミスタ・シンガミー。どんなご用件でしょう?」
何かしら理由があるはずだ。
三日後の昼下がり、アイリーン・ウェイドから電話があって、翌日の晩に家に飲みに来ないかと誘われた。夫妻はカクテル・パーティーに友人を招いていた。ロジャーは私と会って、ちゃんとお礼を言いたいそうだ。それから請求書を送っていただけますか?
「あなたは私に借りなどありませんよ、ミセス・ウェイド。何かをしたにせよ、報酬は頂いています」
「ヴィクトリア朝風に振る舞ったりして、すごく馬鹿げてた」と彼女は言った。「最近はキスに大した意味がないみたいね。あなたも来てくれるでしょう?」
「おそらく。不本意ながら」
「ロジャーはまた元気になりました。書いています」
「何よりです」
「今日はなんだか真面目そう。人生をやけに真剣に考えているみたい」
「そういう日もあります。おかしいですか?」
彼女はとても優しく笑って、さよならを言うと電話を切った。私はしばらくそこに座って、人生を真剣に考えていた。それから、何か面白いことを考えて、大笑いしようとした。どちらの方法もうまくいかなかったので、金庫からテリー・レノックスの別れの手紙を取り出して、もう一度読んだ。それを読んで、ヴィクターの店に行って、彼に頼まれたギムレットをまだ飲んでいなかったことを思い出した。バーが静かになるのにちょうどいい時間帯だった。彼が私と一緒に行くことができたなら、彼自身もそう望んだだろう。私は漠然とした悲しみと、すがるような苦さで彼のことを思った。ヴィクターの店に着いたとき、私はもう少しでそのまま通り過ぎようとした。もう少しだったが、そうはいかなかった。彼から金をもらいすぎていた。彼は私に愚かなまねをさせたが、その特権に見合うだけの代償を払っていたのだ。
【解説】
第二十一章は、いわば幕間劇。片時も眼を離すことができない展開が続くので、ちょっと一息というところか。小説になりそうな出来事がそう毎日、探偵に起きるわけではない。作家はそんな何事も起きない探偵の一日をアイロニカルにスケッチしてみせる。
“I drank an extra cup of coffee, smoked an extra cigarette, ate an extra slice of Canadian bacon, and for the three hundredth time I swore I would never again use an electric razor.”(コーヒーを一杯余分に飲み、煙草を一本余分に吸い、カナディアン・ベーコンを一切れ余分に食べ、電気カミソリは二度と使わない、と三百回目の誓いを立てた。)
マーロウの朝のルーティンをさりげなく紹介するパラグラフだが、電気カミソリへの不満を漏らす部分で、それまでの訳者が逐語的に訳しているところに、市川訳は説明を加えずにいられない。
「…もう二度と電気カミソリは使わない、とその日で三百回目の誓いをたてた。顎に触れるとざらっときたのだ。シェーバーで仕上げをした」後半の二文は訳者が付け加えた説明で原文にはない。発表当時とちがい、こういう小説を読む読者層も広がったこともあり、成人男性読者なら言わずもがなの説明が必要になったのかもしれない。それでも、ここまで書き加えるともう翻訳とはいえないのではないか。
書き出しこそ景気が良かったが、電気カミソリでけちがつき、その後オフィスに行ってからは、ひと気のない部屋に付き物の饐えた匂いや塵埃、蠅の死骸や死に際の蜂といったろくでもない顔なじみが探偵を待ちうけていた。そうそう良いことなど続くわけがない。自分を待ち受けているのは、蠅や蜂のようなみじめな最期がせいぜいだろう、という厭世的な気分がマーロウを襲う。
その日が“crazy days”(とんでもない日)になりそうな予感に襲われたマーロウは、そんな日にやって来る依頼者の見当をつける。
“Days when nobody rolls in, but the loose wheels, the dingoes who park their brains with their gum, the squirrels who can't find their nuts, the mechanics who always have a gear wheel left over.”(そんな日に飛び込んでくるのは、頭のねじの緩んだやつ、ガムと一緒に脳みそをどこかに置き忘れてきたぼんくら(ディンゴ)、患者(ナッツ)を見つけられない精神科医(スクワーレル)、いつも歯車をひとつ戻し忘れる修理工とかいった連中だ。)
この依頼者に対する悪態が訳によって微妙に異なる。
「脳みそをおき忘れてきた犬、椎(しい)の実を捜すことのできないりす(傍点二字)、いつもギアをつけちがえる職工」(清水)
「脳みそを糊でかろうじて貼り合わせているぼんくら、木の実の隠し場所を忘れてしまったリス、いつも歯車をひとつ入れ忘れる機械工」(村上)
「嚙みおえたガムを捨てるのと一緒に脳味噌もどこかに忘れてくるぼんくら(ディンゴ)、患者(ナッツ)を見つけられない精神科医(スクワーレル)とか、いつも歯車をひとつ戻し忘れてしまう修理工とか」(田口)
「脳みそをガムでくっつけた野良犬みたいな奴、木の実をどうしても見つけられないリスのような奴、機会を組み上げるといつも歯車が一個余ってしまう修理工のような奴』(市川)
“the dingoes who park their brains with their gum”だが、“dingo”は「オーストラリアにいる野生の犬」のこと。それが俗語では「裏切者、臆病者」等の意味になる。また、“park”という動詞は、これも俗語で「重い物などを一時置いておく」という意味だ。田口訳のように「噛み終えたガム」なら、おき忘れるというより捨てるというほうが相応しい。これは、何かを思案中にガムを噛む癖があり、ガムを噛み終えると同時に考えていたことも忘れてしまうようなぼんやり屋さんのことだろう。
“the squirrels who can't find their nuts”が厄介だ。文字通り訳せば、清水、村上、市川氏のような意味になる。ただし。“nut” には「木の実」の他に「変人、狂人(俗語)」の意味がある。また、“squirrel”には「リス」のほかに、俗語として「変人」の意味がある。また、動詞だと「(将来使うために〜を)蓄える、隠しておく」という意味もある。そう考えると、「狂人をたくわえる、隠しておく」という意味で、田口氏のいう「精神科医」という読みもありだ。何より作中にそれっぽい人物が登場しているではないか。
一人目の客は肉体労働者らしく大男で、大きな手の持ち主だ。そのしぐさを原文は“planted two wide horny hands on my desk”(大きなごわごわした両手を机に置くと)と書いている。訳は次の通り。
「はば(傍点二字)のひろい、ごつごつした両手をデスクにおき」(清水)
「ごわごわした大きな両手を私の机にどっさりと据えた」(村上)
「大きな角(つの)みたいな手を私の机の上にでんとのせて」(田口)
「仕事で荒れたでかい両手を、まるで太い幹が根を張るように指を広げて私の机に置いた」(市川)
“horny hands”は、そのままで「荒れて硬くなった手」と辞書にある。田口訳の「角みたいな」は“horn”(つの)の形状からきたのだろうが、むしろここは「角質」を意味しているのではないだろうか。市川訳は相変わらず説明が過剰。ここはあっさりすませていいところだろう。
ミートボールが投げ込まれる場所を「隣からツルハナナスの垣根越しに」と訳したところ、原文は“meatballs thrown over the potato vine from next door.”。この“potato vine”(ポテトヴァイン)だが、ナス科の植物で観賞用として人気があり、庭やフェンスなどに這わせるようにして育てられる。清水訳では「隣から投げこまれる」と、無視されていたが、村上訳で「つるの絡んだ垣根越しに隣家から」と訳されるようになった。ところが、田口訳では「垣根越しに」と、また蔓性植物であることが無視される羽目に。市川訳で「蔓草の生け垣越しに」と再び復活するというなかなか浮き沈みの激しい生を送ってきた。植物に関心のない向きにはどうでもいいところだが、わざわざ“potato vine”と記されている以上、無視するにはしのびない。
他を頼ったらどうか、と関係機関の名を挙げる探偵。
“S.P.C.A.? The Tafiwaggers?”(S.P.C.A(動物保護団体)は? テイルワガーズ(愛犬協会)は?)
清水訳はここを「動物虐待防止協会へは?」と“ The Tafiwaggers”をトバしている。当然、それに対するマーロウの説明部分“I told him about the Tailwaggers. He was far from interested.”についてはカットされている。省いても問題ないと考えたのだろう。村上訳以降、「動物愛護局は? 犬猫愛好会は?」と併記されるようになった。
昼食後に登場した客のプロフィールにちょっとした異同がある。まず彼の服装だが、「袖の長すぎる茶色のスーツを着て、硬い白襟の下に紫地に黒いダイヤ柄を浮かせたネクタイを締めていた」と訳したところ(原文では“wearing a brown suit with sleeves too long, and a stiff white collar behind a purple tie with black diamonds on it.”)。
ここが、清水訳では「袖が長すぎる茶色の服を着て、白い堅いカラーに紫色のネクタイを結び、黒ダイヤのピンをさしていた」となっている。村上訳は「茶色の背広を着ていたが、袖が長すぎた。糊のきいた白いシャツに、黒いダイヤ柄の紫色のネクタイを締めていた」と、“black diamonds”をダイヤを柄と捉えている。田口訳も「黒いダイアモンド柄をあしらったネクタイ」と村上訳を踏襲している。ところが、最新訳である市川訳では「紫のネクタイで黒ダイヤのピンで留められていた」と、旧訳に戻っている。
原文では“diamonds ”と、ダイアモンドは複数形である。一個のダイヤならともかく、ネクタイピンに複数のダイアモンドをあしらうのはこの人物には似つかわしくない。ここは、紫の地にダイヤ柄を散らしたネクタイと考えるのが穏当というものだ。市川氏は既に複数の訳のある作品を新しく訳すにあたって、先人の訳業を参考にするという手間すら惜しむのだろうか。
市川訳には他にも気になるところがある。依頼者が妻の行状を説明するところで、“But she don't come back until I find her. Maybe it's a kind of game with her.”(でも、私が見つけ出すまで戻ってきません。彼女にとってこれはゲームみたいなものなんです)が市川訳では「だけど、私が見つけないと返ってこない。マーブル(原文ママ)はたぶんたぶらかされたんじゃないかと思います」となっている。それまでの訳では、メイベル自身がゲームのようなものととらえているという解釈で、浮気相手の関与をうかがわせるものではない。この段階では相手の男のことは話に上がってきていないのでこの訳には違和感がある。
ミスタ・エーデルワイスがオフィスを去る時の様子にも異同がある。“Then he stood up quietly, shook hands quietly, bowed and left the office quietly.”(それから彼は静かに立ち上がり、静かに握手をし、お辞儀をして、静かにオフィスを出て行った)。清水訳にも村上訳にも「お辞儀をして」が入っているのだが、田口訳と市川訳からは抜け落ちている。さすがの田口氏も上手の手から水が漏れたのだろうが、そこは真似をする必要はないのだが。
一日を振り返ったマーロウが、探偵稼業についてあらためて思いを致す場面に気になる箇所がある。
“Every other month you decide to give it up and find some sensible occupation while you can still walk without shaking your head.”(二ヶ月に一度くらい、まだ首を立ててしゃんとして歩けるうちに、看板を下ろしてもっとまともな職を探そうと決心する)の後半部、“while you can still walk without shaking your head”をこれまではどう訳してきたか、という点である。
「頭をふるわせないで歩けるうちに」(清水)、「まだ頭をしっかり上げて歩けるうちに」(村上)、「頭をふらふらさせなくてもちゃんと通りを歩けるうちに」(田口)、とあまり意味がよく分からない訳になっている。市川訳は「なんでこんなうらぶれた人生に、と首を振りながら歩く羽目に陥る前に」と、ずいぶん突っ込んだ訳になっている。いつもなら、勝手な解釈を、と文句のひとつも言いたくなるところだが、今回に限っては金星かもしれない。
というのも“shake one’s head”には「(疑念・不信・落胆・悲しみ・恥ずかしさなどを表すために)頭(首)を横(左右)に振る」という意味があるからだ。村上訳には、その意味が感じられないこともないが、清水、田口両氏の訳には、それまでに痛い目に遭うことが強調されているので、頭を殴られた後の様子と読んだのだろう。心情ではなく肉体的な反応ととらえているようだ。
十年ほど前、村上訳が出たとき、清水訳と読み比べたことがある。その時ブログに書いたことを再掲しておく。
「さて、この章だが、最後の場面をのぞけば、三人の依頼人の部分は、あってもなくても小説に大きな変化はなさそうだ。自分の中短編から一部分を ピックアップしては長編を作っていくチャンドラーの小説作法から見て、このような「つなぎ」の場面は、中短編として考えたものを長編小説に作り変えるため の必要悪なのかもしれない。
その一方で、三つのアネクドートに見られるテーマは、隣人や同居人が自分を裏切ったり、害をなしたりするという疑惑や、夫婦の一方が相手を裏切り、失踪するというもので、これは『ロング・グッドバイ』を貫く通奏低音になっている。シェイクスピアの『ハムレット』の中で旅芸人によって演じられる 「ゴンザーゴ殺し」の劇が、『ハムレット』のテーマの反復になっているように、劇中劇の果たす意味合いは結構重いものがある。一見すると、ただのジョイント 部分に見えるこの章も、そういうふうに考えると興味深いものがあるといえよう。」