marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

山羊はビール瓶の破片を食べるか?

13

【訳文】

午前十一時には別館のダイニングルームから入って右側の三番目のブースに座っていた。壁を背にしていたので、出入りする客を見ることができた。よく晴れた朝で、スモッグはなく、上空の霧もなく、眩いばかりの陽光が、バーのガラス窓のすぐ外からダイニング・ルームの一番奥まで続くプールの水面をぎらつかせていた。白いシャークスキンの水着を着た、官能的なスタイルの若い女が飛び込み台の梯子を登っていた。 日に灼けた腿と水着の間に白い肌が帯のようにのぞいているのをそそられる思いで見た。やがて彼女は屋根のオーバーハングに遮られ、視線から消えた。しばらくすると鮮やかに一回転半して水に飛び込むのが見えた。水しぶきは高く上がって太陽を浴び、女と同じくらいきれいな虹ができた。それから彼女は梯子を登って白い帽子の紐を外し、脱色した髪を振りほどいた。 尻をふりながら小さな白いテーブルに向かい、白いツイルのパンツにサングラス姿の木こり風の男の隣に座った。真っ黒に日焼けしていてどう見てもプールの作業員にしか見えなかった。彼は手を伸ばして彼女の太腿を叩いた。彼女は消火バケツのような口をあけて笑った。彼女に対する私の関心は失せた。声は聞こえなかったが、馬鹿笑いで顔にぽっかり空いた穴を目にすれば十分だった。

バーはかなり空いていた。三つ先のブースでは、隙のない身ごなしの二人組が互いに金の代わりに両腕のジェスチャーを使って二〇世紀フォックスに自分を売り込んでいた。二人の間のテーブルの上に電話があり、二、三分おきに、どちらがホットなアイデアを電話でザナックに伝えるか勝負していた。彼らは若く、髪は黒々とし、熱心で、活力に満ちていた。 電話での会話に、私が太った男を階段で四階まで運ぶのと同じくらい筋肉を働かせていた。悲しげな顔をして ストゥールに腰掛けバーテンダーと話している男がいた。バーテンダーはグラスを磨きながら、悲鳴を上げまいとするときに人が見せるあのつくり笑いを浮かべて話を聞いていた。客は中年で、身なりはよく、酔っていた。 彼は話したがっていた。たとえ本当は話したくなかったとしても、止めることはできなかった。 礼儀正しく気さくで、聞こえた限りでは呂律も回っていたが、よくいる、朝起きたら酒瓶に手を伸ばし、夜眠りに落ちるときだけ手から放すタイプだった。きっと一生そうなのだろう。それが彼の人生だった。どうしてそんなことになったのか知るすべもない。もし彼が話したとしてもそれは真実ではない。よくってせいぜい、彼がそう思い込んでいる真実の捻じ曲げられた記憶だ。世界中のどこの静かなバーにも、そういう悲しい男がいる。

時計を見ると、この出版社のお偉方はすでに二十分の遅刻だった。半時間待っても来なかったら帰るつもりだ。客の言いなりになるのは決して得策ではない。言うことを何でも聞くやつは誰の言うことでも聞く、とそいつは考える。そんな人間を雇うやつはいない。生憎だが今のところ、それほど食うに困ってはいない。東部から出てきたうすのろに馬丁扱いされる気はない。その手の重役タイプは、ずらりと並ぶ押しボタンやインターコムのある八十五階のパネル張りのオフィスにいて、ハティ・カーネギーのキャリア・ガールズ・スペシャルを着た末頼もしい大きな瞳の秘書を侍らせ、相手には九時きっかりに来るように言いつけておいて、自分はダブルのギブソンをひっかけて、二時間遅れでふらっと顔を出したとき、相手が愛想笑いを浮かべて畏まっていなければ、怒りによる発作で管理能力を失い、もとのように威圧的な態度に出られるまでに、五週間はアカプルコで静養する必要がある。

年配のウェイターがやってきて、私の薄くなったスコッチの水割りをそれとなく見た。私が首を振ると彼は白髪頭をひょいと下げた。まさにそのとき、夢が入ってきた。バーの中には音もなく、二人組みは動きを止め、ストゥールの酔っぱらいはしゃべるのをやめた。まるで指揮者が譜面台を叩き、両腕を上げて静止した直後のようだった。

彼女はすらりと背が高く、注文仕立ての白いリネンの服を着て、首に黒と白のポルカドットのスカーフを巻いていた。髪は妖精の王女のような淡い金色だった。小さな帽子の中に淡い金色の髪が鳥の巣のように収まっていた。瞳は矢車菊の青という稀に見る色で、睫毛は長く、目に見えないほど淡かった。彼女が向こう側のテーブルにたどり着き、肘までの白い手袋をはずしていると、年配のウェイターが、私のためには絶対にしないであろうやり方でテーブルを引いた。彼女は座り、手袋をバッグのストラップの下に滑り込ませ、どこまでも優しく、この上なく混じりけのない笑みを浮かべて彼に礼を言った。それで彼はほとんど麻痺状態になった。彼女にとても小さな声で何か言われ、彼は前かがみになったままそそくさと立ち去った。人生においてほんとうの使命を持った男がそこにいた。

私はじっと見つめた。 彼女がそれに気づき、視線を半インチほど上げたとき、私はもうそこにいなかった。 しかし、どこにいようと私は息を凝らしていた。

一口にブロンドと言ってもいろいろで、近頃ではうっかりブロンドなどと口にしたらジョーク扱いだ。どんなブロンドにもそれなりの良さがある。たぶん、地毛の色がわからなくなるほど脱色され、舗道のようにソフトな手触りの金属的な髪を別にすれば。小鳥のようにさえずる小柄でキュートなブロンドもいれば、淡青色(アイスブルー)のひと睨みで人を寄せつけない大柄で彫像のようなブロンドもいる。 素敵な香りを漂わせて腕に凭れ、思わせぶりにちらちら目線をくれながら、家まで送っていくと決まって「もうくたくた」と言い出すブロンドがいる。大仰な仕種で頭痛のひどさを訴えられると引っぱたきたくなるが、多くの金と時間と希望を浪費する前に頭痛持ちとわかって良しとするべきなのだろう。なぜなら、頭痛は常に傍にあって、錆つきも目減りもしない、刺客の短剣やルクレツィアの毒瓶同様、命取りの凶器だからだ。

ガードが低くノリのいい酒好きなブロンドもいる。ミンクさえ着ていればそれでよく、《スターライト・ルーフ》のようなドライ・シャンパンがふんだんに飲めるところなら、どこへでも喜んでついてくる。小柄で気立てのいいブロンドがいる。対等な友人関係を好み、陽気で常識を備え、柔道の心得があり、サタデー・レビューの社説を一文たりとも読み落とすことなしにトラック運転手を背負い投げできる。命にかかわるほどではないが治る見込みもない貧血症の淡くはかなげなブロンドがいる。物憂げで影が薄く、その声はどこからともなく聞こえてくる。こんな女には指一本触れられない。なぜなら、第一にそうしたくないし、第二に彼女はいつも『荒地』やダンテの原書、カフカキェルケゴールを読むか、プロヴァンス語を勉強しているからだ。音楽にも造詣が深く、ニューヨーク・フィルヒンデミットを演奏しているとき、六人のコントラバス奏者のうち四分の一拍遅れて入ってきたのは誰かを言い当てることができる。トスカニーニもできるらしい。彼女は二人目だ。

そして最後に、眼のさめるような傑作が待っている。この手のブロンドは三人のギャングのボスを看取り、その後一人頭百万ドルの百万長者二人と結婚し、アンティーブ岬にあるペール・ローズ色の別荘、正副運転手つきのアルファ・ロメオのタウンカーを手にし、零落した貴族たちに取り巻かれるようになる。彼女は誰にでも、老公爵が執事に「おやすみ」を言うような、丁寧だが心のこもらない態度で接することになる。

向かいの席に座っている夢はそのどれでもなく、そのような世界に属してもいなかった。彼女は分類不可能で、山の水のように遠く人里離れて澄んでいて、その色のようにとらえどころがなかった。私がまだ見つめていると、肘のあたりで声がした。

「とんでもなく遅くなった。申し訳ない。こいつの所為でね。私はハワード・スペンサー。きみがマーロウだね」

私は振り返って彼を見た。小太りの中年男で、服装には無頓着のようだが、きれいに髭を剃り、薄くなりかけた髪は耳の間に広がった頭の上で丁寧に後ろになでつけられている。派手なダブルブレストのヴェストを着ていた。おそらくボストンからの旅行者でもなければ、カリフォルニアではめったにお目にかかれない代物だ。 縁なしの眼鏡をかけ、古ぼけたブリーフケースをポンポン叩いていた。どうやら「こいつ」らしい。

「手に入れたばかりの三冊分の原稿でね。フィクションだ。没にする前に失くしでもしたら厄介だからね」彼は年配のウェイターに合図した。ウェイターはちょうど背の高い緑色の何かを夢の前に置いたところだった。「ジン・オレンジに眼がないんだ。実にばかばかしい種類の飲み物だが、一緒にどうかな? 」

私がうなずくと年配のウェイターは立ち去った。私はブリーフケースを指さして言った。「そいつを没にするとどうしてわかるんだ?」

「もしそれが良いものなら、作家が直接私のホテルに置いていくはずがない。ニューヨークのどこかのエージェントがとっくに押さえてる」

「それならなぜ受け取る?」

「一つには相手の感情を傷つけないため。一つには千にひとつのチャンスというものがあるから。すべての出版人はそのために生きてるんだ。だが大抵はカクテルパーティーのせいさ。あらゆる種類の人に紹介されるが、中には小説を書いている人もいる。酒に酔った勢いで、人類への慈悲深い愛に満たされ、その原稿をぜひ見てみたいと言うと、その原稿はうんざりするような速さでホテルに届けられ、読まざるを得ない破目に陥る。 しかし、きみは出版社やその問題に興味などないだろう」

ウェイターが飲み物を運んできた。スペンサーは自分の飲み物を手に取り、ひとくち飲んだ。彼は向かいの黄金の娘(ゴールデン・ガール)には気づかなかった。彼の視線はすべて私に注がれていた。人と接することに長けた男だった。

「仕事の一部なら」と私は言った。「たまには本くらい読むさ」

「うちの最も重要な作家の一人がこの辺りに住んでいるんだ。たぶん、きみも彼の作品を読んだことがあるだろう。ロジャー・ウェイドだ」

「ああ」

「言いたいことはわかる」彼は悲しげに微笑んだ。「きみは歴史ロマンスに興味などない。だが爆発的に売れてるんだ」

「言いたいことなど何もない、ミスタ・スペンサー。彼の本を一度だけ読んだことがある。くだらないと思った。私なんかが言っちゃいけないことかな?」

彼はにやりと笑った。「いや、全然。多くの人がきみに同意するだろう。だが重要なのは、今のところ、彼が出すものは放っておいてもベストセラーになるということだ。そして、どの出版社も、そんな作家を一人二人抱えてる必要があるんだ。今のコスト事情ではね」

私は黄金の娘に目をやった。彼女はライムエードか何かを飲み終え、小さな腕時計とにらめっこしていた。バーは少し満席になりつつあったが、まだ騒々しいほどではなかった。隙のない二人組はまだ手を振っていたし、バーのストゥールに腰かけた一人の酔客には連れが二人いた。私はハワード・スペンサーを振り返った。

「あんたの抱えてる問題と関係があるのか?」私は彼に尋ねた。「ウェイドという男が?」

彼はうなずいた。彼は私を入念にチェックした。「ミスタ・マーロウ、もし差支えなければ、きみのことを少し教えてくれないか」

「どんなことを? 私は免許を持つ私立探偵で、この業界では長いほうだ。一匹狼で、独身、中年になりかけで、金はない。留置場には何度も入ったことがあるし、離婚がらみの仕事は受けない。酒と女とチェスが好きで、他にもいくつか好きなものがある。警官にはあまり好かれていないが、反りが合うのも一人二人いる。生粋のサンタローザ生まれで、両親とは死別、兄弟姉妹もいない。いつか暗い路地で殺されるようなことになったとしても、この業界ではままあることだし、そもそも最近はどんな仕事をしていようが、いなかろうが、誰にでも起こりうることだ。それで悲嘆にくれる者は誰もいない」

「なるほど」と彼は言った。「でも、私の知りたいことのすべてを教えてくれてはいない」

私はジン・オレンジを飲み終えた。私の好みではなかった。私はにやりと笑った。「一つ言い忘れたことがある、ミスタ・スペンサー。私はポケットの中にマディソンの肖像画を持っている」

「マディソンの肖像画? 残念ながら、私には何のことやら――」

「五千ドル札のことさ」と私は言った。「いつも持ってるんだ。幸運のお守りだ」

「それはそれは」彼は囁き声で言った。「危険じゃないのか?」

「誰が言ったのだったかな。ある一点を超えるとすべての危険は均等になる、と」

「ウォルター・バジョットだったと思う。煙突や尖塔の修理工について言ってたんじゃないか」 そしてにやりと笑った。 「すまない、私は出版人なんでね。きみならまちがいなさそうだ、マーロウ。きみに賭けてみよう。もしそうしなかったら、きみは私にくたばれって言うんじゃないか?」

私はにやりと笑い返した。彼はウェイターを呼んで酒のおかわりを注文した」

「実は」 と彼は慎重に言った。「ロジャー・ウェイドの件で大変なことになっている。本を書き終えることができないんだ。何かのせいで仕事に対する意欲を失いつつある。このままでは壊れてしまう。酒と持ち前の気質のせいでひどい発作を起こす。時には何日も姿を消す。少し前には夫人を階下に放り投げて入院させた。肋骨が五本折れていた。二人の間には通常の意味でのトラブルは全くない。様子がおかしくなるのは酒を飲んだときだけだ」スペンサーは椅子の背にもたれ、憂鬱そうに私を見た。「あの本を完成させなければならない。どうしても必要なんだ。私の仕事はそれにかかっていると言っていい。しかし、それ以上に必要なことがある。私たちが救いたいのは、これまでしてきたことよりもはるかに優れたことをなし得る、非常に有能な作家なのだ。何かが非常にまちがっている。今回の旅では、彼は私に会おうとさえしない。精神科医に診てもらった方がいいのだが、夫人は同意しない。彼女は、彼は完全に正気だが、何かが死ぬほど心配なのだと確信している。例えば脅迫者だ。ウェイド夫妻は結婚して五年になる。過去の何かが彼を追いつめているのかもしれない。あるいは――勝手な推測だが――致命的なひき逃げ事故を起こして、誰かに弱みを握られているのかもしれない。それが何なのかはわからない。知りたいのだ。そして、そのトラブルを解決するために、十分な報酬を支払うつもりだ。もしそれが医学的な問題だとわかれば、それでいい。そうでなければ、何か答えがあるはずだ。その間、夫人は保護されなければならない。彼は次に彼女を殺すかもしれない。ひょっとしたらね」

二杯目が来た。私は手をつけず、彼が一口で半分を飲み干すのを見た。私は煙草に火をつけ、ただ彼を見つめた。

「探偵はいらないな」と私は言った。「欲しいのは魔法使いだ。いったい私に何ができる? もし折よくその場に居合わせたとして、私の手に負えないほどタフでなければ、ノックアウトしてベッドに寝かしつけられるかもしれない。しかし、運よく、その場に居合わせなければならない。そんなことは百にひとつもあり得ない。わかってるだろう」

「彼はきみと同じ背格好だ」とスペンサーは言った。「が、コンディションがちがう。それに常駐することだってできる」

「無理な話だ。酔っ払いは狡猾だ。私の隙を見てばか騒ぎをしでかすかも知れない。看護師の仕事がしたいわけじゃない」

「看護師など役に立たない。ロジャー・ウェイドは看護師を受け入れるような男じゃない。非常に才能のある男だが、今は自制心のおさまりが悪くぐらついている。低レベルな読者に合わせて屑みたいな小説を書いて金を稼ぎすぎたんだ。しかし、作家にとっての唯一の救いは書くことだ。彼の中に何か良いものがあれば、それはおのずと出てくるだろう」

「いいだろう。彼のことはわかった」私はぐったりして言った。「恐ろしいほど才能があり、同時にひどく危険でもある。後ろ暗い秘密を抱えていて、それをアルコールで紛らわそうとしている。悪いが、私の出る幕はなさそうだ。ミスタ・スペンサー」

「なるほど」 彼は心配そうに顔をしかめて腕時計を見たが、それは彼の顔をより老けて小さく見せた。 「無駄骨を折らせたが、悪く思わないでくれ」

彼は分厚いブリーフケースを取ろうと手を伸ばした。 私は黄金の娘を遠巻きに眺めた。 彼女は出ていく準備をしていた。 白髪のウェイターが勘定書きを手に彼女の傍をうろついていた。 彼女は彼に金を払い、素敵な笑顔を見せた。彼は神と握手したかのように見えた。 彼女は口紅を直し、白い手袋に手を伸ばした。ウェイターは彼女が外に出られるようにテーブルを部屋の中程まで引いた。

私はちらっとスペンサーを見た。彼は眉を顰めてテーブルの端の空っぽのグラスを見下ろした。ブリーフケースを膝の上に置いていた。

「ほら」と私は言った。「私はその男に会いに行って、品定めしてみるよ、あんたがそうしてほしいならね。奥さんとも話してみる。けど、家から放り出されるのが落ちだろう」

スペンサーではない声がした。「いいえ、ミスタ・マーロウ。そうは思いません。かえって彼はあなたのことが気に入ると思います」

私は菫色の双眸を見上げた。彼女はテーブルの端に立っていた。私は立ち上がりかけてブースの背に尻を押しつけた格好のままでいた。狭いブース席を立つ際には端まで尻を滑らせなければならないことを忘れていた。

「どうぞそのままで」と、彼女は夏の雲に裏地をつけるのに使うような声で言った。「お詫びしなければならないのはわかっていますが、自己紹介をする前に、あなたを一目見ておきたかったんです。私はアイリーン・ウェイドです」

スペンサーは不機嫌そうに言った。「彼は興味がないよ、アイリーン」

彼女は優しく微笑んだ。「私はそうは思わない」

私は自分を取り戻した。それまで狼狽えて中腰で立ったまま、卒業したての初心な少女のようにぽかんと口を開けて息をしていたのだ。ほんとうに美しかった。近くで見る彼女にはほとんど茫然とさせられた。

「興味がないとは言っていない、ミセス・ウェイド。私が言った、あるいは言おうとしたのは、私が役に立てるとは思えない、それに私を頼るのは大間違いで、むしろ大きな犠牲を払うことになるかもしれない、ということだ」

彼女は今や、とても真剣だった。笑顔は消えていた。「結論を下すのが早すぎます。何をするかで人を判断してはいけない。もし判断するとしたら、その人が何であるかということでなければならないのでは」

私はかすかにうなずいた。それはまさに私がテリー・レノックスについて考えていたことだった。事実、塹壕での一瞬の栄光の閃きを除けば彼は何の取り柄もない男だった。それも、メネンデスが真実を語っていたとしての話だ。しかし、どう考えても事実は全てを物語ってはいなかった。彼は憎めない男だった。一生のうちに、そう言える人間に何人出会えるだろう?

「そのためには、その人のことを知らなければならない」と彼女は穏やかに言い添えた。「さようなら、ミスタ・マーロウ。もし気が変わったら―― 」彼女は素早くバッグを開け、私に名刺を差し出した――「それと、来てくれてありがとう」

彼女はスペンサーに軽くうなずいて立ち去った。私は彼女がバーを出て、ガラス張りの別館を抜けてダイニングルームに向かうのを見送った。身ごなしも美しかった。ロビーに通じる拱道の下を曲がるとき、最後に白いリネンのスカートが翻るのが見えた。そして私はブースに身をゆだね、ジン・オレンジを手に取った。

スペンサーが私を見ていた。彼の眼に何やら厳しいものが浮かんでいた。

「上出来だ」と私は言った。「が、たまには彼女のことも見るべきだった。あんな夢のようなものを、部屋の向かい側に置いたまま二十分も気づかずに座っていられるわけがない」

「迂闊だった」彼は笑おうとしていたが、本当に笑いたいわけではなかった。私が彼女を見る目つきが気に入らなかったのだ。「人は私立探偵と聞けば身構えるものだ。ましてやそれが家の中にいると思うと――」

「あんたの家に押しかける気はないよ」と私は言った。 「とにかく、もっと別の話をひねり出すべきだった。酔っていようが素面だろうが、あんなすごい美人を階段から突き落として肋骨を五本も折る人間がいるなんて話を吹き込むより、彼女のためにもっとましなことができたはずだ」

彼は顔を赤くした。ブリーフケースを握る手に力を込めた。「私が嘘をついていると?」

「いいじゃないか。あんたは自分の仕事をしただけさ。あのレディのこととなると、あんたは少し熱が入り過ぎるんだ、たぶん」

彼は急に立ち上がった。「その言い方は気に入らんね」と彼は言った。「きみと馬が合うとは思えない。悪いがこの話はなかったことにしてくれ。これが私が支払うべきだと思う、応分の料金だ」

彼は二十ドル札をテーブルに放り、ウェイターのためにいくらか添えた。

彼はしばらく立ったまま私を見下ろしていた。目は輝き、顔はまだ紅潮していた。「私は結婚していて、四人の子持ちだ」と唐突に言った。

「それはそれはご同慶の至りだ」

彼は一瞬喉声を立てたが、背を向けて立ち去った。かなりの早足だった。私はしばらく見ていたが、やがて見るのをやめた。残りの酒を飲み干し、煙草の箱を取り出して、一本振り出すと口にくわえて火をつけた。年配のウェイターが近づいてきて、金に目をやった。

「何かお持ちしましょうか?」

「もう結構だ。それは全部あんたのものだ」

彼はゆっくり札を手に取った。「二十ドル札です。お連れの方がまちがえられたのでは」

「彼は字が読める。金はすべてあんたのものだ」と私は言った。

「ありがとうございます。ですが、本当にそれでよろしいので――」

「それでいいんだ」

彼は軽くお辞儀をして心配そうな顔のまま立ち去った。 バーは混んできていた。遊びはしても最後の一線は越えない、今流行りの半処女(デミ・ヴァージン)らしき二人が手を振り、ぺちゃくちゃ喋りながら通り過ぎた。ブースの奥にいる二人のやり手の連れらしい。甘ったるい声と真っ赤な爪の色に店の空気が染まり始めていた。

私は煙草を半分吸い、わけもなく顔をしかめ、立ち去ろうとした。置き忘れた煙草を取りに戻ろうとしたとき、後ろから何かが強くぶつかってきた。まさにお誂え向きの獲物だった。振り向くと、たっぷり襞をとったオックスフォード・フランネルに身を包んだ、尻の大きな受け狙いタイプの男の横顔があった。人気者のように腕を広げ、人の気をそらさない商売上手特有の飛び切りの笑みを浮かべていた。

伸ばした腕をつかんで振り向かせた。「どうした? あんたのような大物には通路が狭すぎるってのか?」

彼は腕を振りほどいて強がって見せた。「大口叩いてると、顎を外す羽目になるかもしれんぞ」

「はっは」 私は言った。 「そっちこそ、ヤンキースでセンターを守って、ブレッドスティックでホームランを打てるかもな」

彼は拳を握り固めた。

「ダーリン、マニキュアに気をつけて」と彼に言った。

彼は自分の感情を抑えた。「知ったことか、小生意気な」と彼は鼻で笑った。「また今度相手してやるよ、もっと暇なときにな」

「今より暇になれるのか?」

「とっとと失せろ」彼は怒鳴った。「今度何か言ったら、歯にブリッジが必要になるぞ」

私はにやりと笑いかけた。「その時は電話してくれ。次はもっとしゃれた台詞を頼むぜ」

風向きが変わった。彼は笑った。「映画(ピクチャー)に出てるのか? あんた」

「写真(ピンナップ)だけさ。郵便局に貼ってある類いの」

「じゃあ、また顔写真のファイルの中で」と言って彼は歩き去った。まだ笑っていた。

愚にもつかないやりとりだったが、それで気が晴れた。私は別館を抜け、ホテルのロビーを横切って正面玄関に向かった。途中で立ち止まってサングラスをかけた。アイリーン・ウェイドからもらった名刺を思い出したのは、車に乗ってからだった。浮出し加工されたものだったが、名のみ記された社交用名刺ではなく、住所と電話番号が記されていた。ミセス・ロジャー・スターンズ・ウェイド。アイドル・ヴァレー・ロード一二四七。電話番号アイドル・ヴァレー五ー六三二四。

アイドル・ヴァレーのことはよく知っていた。入り口に門番小屋があり、私設警察がいて、湖にカジノがあり、五十ドルの娼婦がいた頃とはずいぶん変わったことも知っていた。カジノの閉鎖後、静かな金が一帯を引き継いだ。静かな金がそれを小分けの夢にした。湖と湖畔はクラブが所有し、クラブに入らなければ水遊びもできない。単に費用がかさむという意味ではなく、言葉に最後に残された意味で排他的だった。

私などアイドル・ヴァレーでは、バナナ・スプリットに乗ったパール・オニオンみたいなものだ。

午後遅く、ハワード・スペンサーから電話があった。彼は怒りが収まったようで、申し訳なかった、この状況にあまりうまく対処できなかった、と言いたかったようだが、私に考え直してもらいたかったのかもしれない。

「本人が会いたいというなら会うよ、そうでなければお断りだ」

「わかった。それなりのボーナスを考えている」

「いいか、ミスタ・スペンサー」 と私は焦れて言った。「金で運命は買えない。ミセス・ウェイドが夫を怖がっているのなら、家を出ればいいことだ。それは彼女の問題だ。四六時中、夫からその妻を守ることは誰にもできない。そんな保護をしてくれるところは世界のどこにもない。しかし、あんたが望むのはそれだけじゃない。なぜ、どのように、そしていつ、その男が道を外れたのかを知り、そして二度と同じことをしないように修正したいのだ――-少なくとも本を書き終えるまでは。それは彼次第だ。本が書きたいのなら、書き上げるまで酒を断つことだ。あんたは多くを望みすぎだ」

「同じことなんだ」と彼は言った。「すべての問題の根はひとつだ。でも、わかる気がするよ。これはきみに依頼するには少し微妙過ぎる仕事のようだ。では、さようなら。今夜の飛行機でニューヨークに戻るよ」

「よい旅を」

彼はありがとうと言って電話を切った。二十ドルはウェイターにやったというのを忘れていた。かけ直して教えようかと思ったがやめた。彼はすでに十分みじめな思いをしていた。

私はオフィスを閉め、テリーからの手紙にあったように、ギムレットを飲みにヴィクターの店へ向かった。途中で気が変わった。あまり感傷的な気分にはなれなかった。ローリーの店でマティーニを飲み、代わりにプライムリブとヨークシャー・プディングを食べた。

帰宅後、テレビをつけて試合を見た。役立たずどもで、アーサー・マレーの下でダンスを教えているのがお似合いだった。ジャブを繰り出し、ダッキングを使い、フェイントをかけてバランスを崩し合うだけだ。どちらも、うたたね中の祖母が目を覚ますほどの強打は打てなかった。観客はブーイングを浴びせ、レフェリーは手を叩いてファイトを促したが、選手は体を小刻みに動かして防御しつつ、たまに左の長いジャブを出し続けた。私はチャンネルを替え、犯罪ドラマを見た。クローゼット並みの狭いセットで撮られ、役者の顔はくたびれ、見飽きたものばかりで見映えしなかった。台詞は三流映画でさえ使わないような代物だった。探偵にはおどけ役として黒人のハウスボーイが付いていた。そんなものはいらなかった。探偵一人で充分笑えた。コマーシャルはといえば、鉄条網と割れたビール瓶には馴れっこの山羊さえ気分が悪くなりそうな代物だった。

テレビを切り、しっかり巻かれたロングサイズの煙草を吸った。ひんやりとして喉に優しかった。上質の煙草の葉が使われていたが、銘柄は忘れた。そろそろ寝ようと思ったとき、殺人課のグリーン部長刑事から電話があった。

「お友だちのレノックスが二日前に埋葬された。彼が死んだあのメキシコの町だ。知りたいんじゃないかと思ってな。遺族を代表して弁護士が当地に出向き、埋葬に立ち会った。今回はラッキーだったな、マーロウ。この次、国外逃亡する友人を助けようと思ったら、よしにすることだ」

「弾痕はいくつあった?」

「どういうことだ?」と彼の声が大きくなった。しばらく間が開いた。それから、かなり慎重にこう言った。 「一つ、だろう。頭を吹っ飛ばすなら、普通それで足りる。弁護士が指紋一式とポケットの中の何やかやを持ち帰る。他に知りたいことは?」

「いや、だが教えちゃくれまい。誰がレノックスの妻を殺したか、だ」

「おやおや、彼が自白を残した、とグレンツは言わなかったのか? 新聞にも書いてあっただろう。もう新聞は読まないことにしたのか?」

「電話をありがとう、部長刑事。ご親切に感謝するよ」

「いいか、マーロウ」と彼は耳障りな声で言った。「この件に関して妙な考えを抱いてるようだが、下手に騒ぐと自分の首を絞めることになるぞ。事件は一件落着、判子が押されて、お蔵入りだ。幸運だったと思うことだ。この州じゃ、事後従犯は軽くて五年だ。もうひとつ教えといてやろう。長い警官暮らしで、ひとつ学んだことがある。ム所送りになるのは、必ずしもそいつが何かをやったか、で決まるわけじゃない。法廷に持ち込まれたとき、いかにそいつがやったように見せることができるか、で決まるんだ。おやすみ」

電話は受話器がまだ耳元にある間に切れた。受話器を架台に戻しながら思った。正直な警官は良心の呵責を感じると、いつも強面になる。 不正直な警官もそうだ。 それを言うなら、誰もが似たり寄ったりだ。私を含めて。

【解説】

マーロウがアイリーン・ウェイドに初めて会う場面。ブロンドに関する蘊蓄や、バーの客相手の寸劇がいささか煩わしい。事態が自分の思惑通りに進まないことに対する不満の反映であることや、一種の読者サービスであることも分かるが、いくら独白にせよ、主人公の探偵がいたずらに自分の心情を語り過ぎるところがある。それが好きな人は別にして、それを嫌う人の気持ちもわかる。何はともあれ、チャンドラーらしさの横溢した章である。その冒頭部分。

At eleven o'clock I was sitting in the third booth on the right-hand side as you go in from the dining-room annex.

「十一時に、私は食堂から入って右側の三番目のブースに坐っていた」と初訳で書かれて以来、ずっと右側とされてきたマーロウの座ったブースが、市川訳では「一一時、私はホテルのレストランからバーに入って左手奥、三番目のブースに座っていた」と改変されている。それもご丁寧に「リッツ・ビバリー・ホテルのバー」なる挿絵入りで。ホテル名は架空のものだから、モデルとされるホテルを想定しての図だろうが、原文に“right-hand side”とあるのをわざわざ「左手」に変える必要がどこにあるのか。

よく晴れた気持ちのいい朝のホテルは、誰の気分も開放的にする。マーロウは水着姿の若い女に目を留める。プールから上がった女の行方を追うマーロウ。

She wobbled her bottom over to a small white table and sat down beside a lumberjack in white drill pants and dark glasses and a tan so evenly dark that he couldn't have been anything but the hired man around the pool.

気になるのは男が穿いている“white drill pants”だ。清水訳では「白いパンツ」になっている。これなら分かる。村上訳は「ぴったりした白い水着」、田口訳は「白いショートパンツ」、市川訳は「白い短パン」だ。“drill”とは太綾織りの生地で織られた頑丈な織物のことで作業着などに用いられる。日本では葛城(カツラギ)と呼ばれている。そう考えると水着でも短パンでもなく、長ズボンではないか。

これは“the hired man around the pool”とあるので、てっきり「プールの監視員」だと思い込んだ村上訳のせいだ。清水訳は正確に「プールにやとわれている男」となっている。田口訳も村上訳と同じ「プールの監視員」、市川訳の「プール係」がどんな仕事かはよく分からないが、プールの係なら短パンと考えたのだろう。

なぜそこにこだわるのかといえば、“lumberjack”、“drill pants”、“ the hired man”と連ねるあたりに、階級的視点が垣間見えることだ。マーロウが女に興味を失うのは、その女が当のプールに雇われている男と同じ階層の女、つまり、客である自分が相手をする女ではないと見切ったからだ。無論、この後に登場するアイリーンの価値を高めるための対比として引っぱり出されているので、女に責任はない。あまり趣味の良くない対比だと思うが、本人にその意識がないだけ質(たち)が悪い。

バーには客がいた。二人の映画関係者がマーロウの目に留まる。

Three booths down a couple of sharpies were selling each other pieces of Twentieth Century-Fox, using double-arm gestures instead of money.

“shrpie”が曲者だ。ふつうは「抜け目のないやつ、詐欺師」という意味だが、俗語には「いきに着こなした人」という使い方もある。清水訳が「はで(傍点二字)な服装の男」、村上訳が「いかにもやり手風の二人の男」、田口訳が「いかにもやり手といった風情のふたりの男」、市川訳は「はしこそうな二人」だ。電話での話し声がかろうじて聞こえる距離にいる初対面の男たちだ。二人に関する見識がもうひとつある。

They were young, dark, eager and full of vitality.

四人の訳者が“dark”をどう訳しているか見てみよう。「二人とも、若くて、いき(傍点二字)がよく、精力的だった」(清水)。「二人とも若く、日焼けして、意欲まんまん、元気いっぱいだった」(村上)。「ふたりとも若く、髪は黒く、生命力とエネルギーにあふれており」(田口)。「二人とも若く、浅黒く、意欲的で気迫に満ちていた」(市川)。清水訳だけが“dark”を保留している。納得できる訳語が思いつかなかったのだろう。

この二人組に関して、マーロウは自分と比べ、若さと活力に溢れている点を眩しく感じている。そこに、肌や髪の色に関する情報が果たして必要だろうか、と清水氏は思ったにちがいない。そう考えるのもわかる。肌の色はともかく、髪の色なら年齢と関係してくる。マーロウは少し年を取りかけている。そろそろ白髪が気になる頃かもしれない。そうなると、この“dark”、ただの黒髪ではなく、白髪の混じっていない黒々とした髪とも考えられる。

待ち合わせ相手が遅れているので、マーロウはその男がどんな人間か想像を働かせている。自分は遅刻しておきながら、もし約束をすっぽかされたらどんなふうになるか、以下はマーロウの妄想である。

he would have a paroxysm of outraged executive ability which would necessitate five weeks at Acapulco before he got back the hop on his high hard one.

「そうならないと烈火のごとく怒り出す。そんな偉そうなことをやっていればさすがに神経がおかしくなり、アカプルコで五週間ばかり羽をのばす必要が生じる。そうやって活力を取り戻し、また目いっぱい肩肘を張った生活に復帰するのだ」(村上訳)

「発作を起こす。怒りまくったお偉方にしか真似のできない発作だ。こいつはそういうタイプだ。アカプルコで五週間の休暇を取って生気を取り戻し、帰ってきてはひとに不快な思いをさせるタイプ」(田口訳)

「大物ならではの、ものすごい癇癪を破裂させるのだ。そして機嫌を直してその大物さん曰くの、難しく、厳しい相談事を引き受けてもらうには、アカプルコで五週間、なだめたりおだてたりしなければならないのだ」(市川訳)

翻訳をするくらいだから、英語には詳しいのだろうが、その自信があるため、つい辞書を引くことを怠り、よく分からない訳文をこしらえてしまう羽目になる。そのあたり、清水氏はよく心得ており、君子危うきに近寄らず、とばかりトバしてしまう。ここもそうだ。

市川訳の「難しく、厳しい相談事」の原文が“high hard one”。これは野球からきたスラングの一つ。「高めの威力のある球」とは、ストライクゾーンの高い位置、またはそれより上に送られる速球であり、そのスピードと打者の顔や頭への近さのため威圧的な球のこと。そこから、恐ろしいことや苦痛なことを表す表現になった。“hop on”は俗語で「叱る」だから、“before he got back the hop on his high hard one”は「彼が相手に苦痛を与える𠮟り方ができるようになるまで」という意味だ。さすがに田口訳は勘所をおさえている。

The old bar waiter came drifting by and glanced softly at my weak Scotch and water.

市川訳では「ウィスキーのオン・ザ・ロック」になっている“Scotch and water”は「スコッチの水割り」でしかない。わざとやってるのか、と疑いたくなる改変が市川訳にはどうしてこうも多いのだろう。

バーにアイリーンが現れ、マーロウの金髪女(ブロンド)に関する蘊蓄が披露される。

There are blondes and blondes and it is almost a joke word nowadays.

“There are A and A”というのは「よいAもあれば悪いAもある、同じAと言ってもいろいろだ」という意味。「珍しくない(清水)」、「掃いて捨てるほどいる(村上)」、「いくらでもいる(田口)」、「どこにでもいる(市川)」というのとは少しちがう。その悪いブロンドの一例がはじめに登場する。

All blondes have their points, except perhaps the metallic ones who are as blond as a Zulu under the bleach and as to disposition as soft as a sidewalk.

「どの金髪にもそれぞれ特色があった。ただ一つの例外は漂白した金属のような金髪で、その性格は舗道のように味わいがない」(清水訳)

「どの金髪にもそれぞれ長所がある。ただしメタリックな金髪は別だ。そんな漂白したズールー族みたいな色あいのものを金髪と呼べるかどうか怪しいものだし、性格だって舗装道路並みにごつごつしている」(村上訳)

「どんなブロンドにもいいところがある。ただしメタリックなブロンドは別だが。あれは肌を漂白したズールー族みたいなブロンドだ。性格のほうも歩道並みに″ソフト”と相場が決まっている」(田口訳)

「金髪にはそれぞれ個性があってそれぞれ違った魅力がある。但し、車のメタリック塗装みたいなブロンドは別だ。ズールー族が髪を漂白してでっち上げたような金髪でおまけに見た目はふわっとスタイリッシュだが舗装道路みたいにガチガチに固められている」(市川訳)

問題は“Zulu”にある。「ズールー族ズールー人」のことを指すのは言うまでもないが、黒人を軽蔑して言う俗語でもある。原文重視という観点からはそのまま訳すべきなのかもしれないが、清水訳のような先例もある。あえて忠実に訳す必要があるかどうか疑問が残る。もう一つは“disposition”だ。市川訳をのぞいて「性格」と訳されているが、「傾向、質(たち)」ではないか。“Zulu”がアフリカ系アメリカ人のことを指しているとすれば、漂白しても縮毛はそのままだ。これは人の性格ではなく髪質を指しているのではないだろうか。

There is the soft and willing and alcoholic blonde who doesn't care what she wears as long as it is mink or where she goes as long as it is the Starlight Roof and there is plenty of dry champagne.

清水訳では「ガラス天井の下」村上、田口訳では「高級(ナイト)クラブ」、市川訳は「星降るテラス」となっているが、頭文字が大文字であることから考えれば“the Starlight Roof”は実際にある店で、おそらくニューヨークのマンハッタンにあるホテル、ウォルドルフ=アストリアのナイトクラブのことだろう。当時ここの天井は可動式で、暖かい夏の夜には格納され、客は星空を眺めながらマティーニが飲めたという。

金髪談義についてはいろいろな意見もあるだろうが、個人的には冗長に感じられ、正直読んでいて楽しめない。ただ、かつて乗っていたことのある車については一言言っておきたい。

And lastly there is the gorgeous show piece who will outlast three kingpin racketeers and then marry a couple of millionaires at a million a head and end up with a pale rose villa at Cap Antibes, an Alfa-Romeo town car complete with pilot and co-pilot, and a stable of shopworn aristocrats, all of whom she will treat with the affectionate absent-mindedness of an elderly duke saying goodnight to his butler.

「アルファロメロのタウンカー」(市川訳)などという車は存在しない。ローマ字読みで読んでも“Romeo”は「ロメオ」だ。市川訳にはこういう初歩的なミスがやたらと目につく。蛇足ながら、タウンカーとは主にアメリカでの呼び方で、昔の馬車の形式を残した運転手と乗客の間が仕切られた大型車のことである。アルファロメオはもともと競走用に作られた車だ。オーナーが運転を他人に任せて後部に座るなんてことは考えていない。アルファロメオのオーナーなら自分でステアリングを握りたいと思うはずだ。そういう車に正運転手のみならず、控えの運転手まで備えて(complete with pilot and co-pilot)という部分を含め、金の使い方を知らない成りあがりを揶揄ったのだろう。

いよいよアイリーンがマーロウと顔を合わせる時が来た。立ち上がりかけて無様な格好のままでいるマーロウに彼女がかけた言葉。

"Please don't get up," she said in a voice like the stuff they use to line summer clouds with.  

「お立ちにならないで」と、彼女はやわらかい声で言った。(清水訳)

「どうぞお立ちにならないで」と彼女は言った。夏の雲を描くときに使う刷毛を思わせる声だった。(村上訳)

「どうぞ立ち上がらないで」夏雲の輪郭線を描くときに使う画材のような繊細な声だった。(田口訳)

「どうぞそのままで」とその女性は言ったが、その口調はまるで夏の雲に整列、と命令するように、あからさまにどうでもいいといった調子だった。(市川訳)

“line”には村上、田口訳のように「描線、輪郭線」の意味がある。しかし、声の様子を表現するときに画材を持ち出すのは、あまりうまいやり方とは思えない。まだ、市川訳のように“line”を「並べる」と取る方が理に適っている。ただ、「命令するように、あからさまにどうでもいいといった調子」というのは解釈が恣意的で納得がいかない。

“silver lining in the clouds”という言い回しがある。「(地上から見た灰色の)雲の後ろ側で銀色に輝く裏地」という意味で、雲に遮られていてもその裏には陽が指していることをいう。比喩的には「希望の兆し」を表す。“line”と“clouds”が並んでいたら頭に浮かぶのはこの文句だ。“line〜with”は、「(~に)裏をつける、(〜を)裏打ちする」という意味だ。マーロウとスペンサーの話し合いは雲行きが怪しくなりかけていた。そこにアイリーンから声がかかった。あまりの美しさにしびれたようになっているマーロウには、立ちこめた暗雲の裏に銀色の裏地が見えた気がしたのではないか。うまくいけばアイリーンと親しくなれるかもしれない、という希望の兆しを感じさせてくれる声だったのかもしれない。

アイリーン・ウェイドから渡された名刺について。

“It was an engraved card, but not a formal calling card, because it had an address and a telephone number on it.”

「浮きぼりの印刷の名刺だったが、住所と電話番号が刷りこんであるから、訪問用の正式なものではない」(清水訳)

「立派な浮き彫り印刷だったが、社交用のしるし(傍点三字)だけの名刺ではない。住所と電話番号がちゃんと記されていた」(村上訳)

「エンボス加工されたものだったが、書かれているのは住所と電話番号だけのごく普通の名刺だった」(田口訳)

「見ると浮出し印刷の名刺だった。けれどもビジネス用ではなかった。自宅の住所、電話番号と名前が印刷されていた」(市川訳)

電話が普及していない時代、相手の家を訪問する際には名前だけが記された社交用の名刺を訪問先の執事に手渡すのが正式な儀礼とされていた。これが社交用の名刺即ち“formal calling card”だ。時移り、当人同士が名刺交換するようになると、ビジネス用に役職や会社名が印刷されたものが現れる。これがビジネス用名刺“business card”である。時代が変わるにつれ、名刺を取り巻く事情も変化し、名刺が持つ本来の意味が分からなくなってくるのがよく分かる。皮肉なことに清水訳が最も原文に近い。

何をしても心愉しまないマーロウがテレビのコマーシャルについて触れた言葉。

And the commercials would have sickened a goat raised on barbed wire and broken beer bottles.

「そして、あいだにはさまれた広告は鉄条網とビールびん(傍点二字)の破片で育てた山羊でさえ病気になりそうなひどいものだった」(清水訳)

「そして間に入るコマーシャルときたら鉄条網とビール瓶の破片を餌に育てられた山羊たちでさえ身体を壊してしまいそうな代物だった」(村上訳)

「さらにコマーシャルはと言うと、鉄条網とビールびんのかけらを餌にして育てられた山羊すら腹を壊しそうな代物だった」(田口訳)

「合間に入るコマーシャルときたら有刺鉄線とビール瓶のかけらをベッドにして育った筋金入りの鈍感野郎でさえ耐えられないしろものだった」(市川訳)

あらためて、この章を読んで感じたのは、清水訳の精度の高さだった。分からない部分は無理に訳さず、理解できるところは原文に忠実に訳す「述べて作らず」の態度を貫いている。それに比べると、村上訳は本人が作家であるせいもあってよく分からない部分は自分が「作って」しまうところがある。久方ぶりの新訳を謳った村上訳につられたのか、田口訳はもろにその波をかぶっている。市川訳はそれまでの訳から距離を置いているのはわかるが、「作る」点においては村上訳さえかなわない。

“raised on〜”は「〜で育つ」という意味だ。”raised on baseball”なら「野球に親しんで育つ」くらいの意味で、生育環境について語る場合に使われる。清水訳なら「鉄条網とビールびんの破片(の中)で育てた」と読めなくもない。だが、村上訳になると、この山羊は「鉄条網とビールびんのかけら」を食べさせられたことになる。いくら誇張した表現が好きなチャンドラーでもガラス片を餌にしようとは思わない。瓶の破片は土塀の上に埋め込んで
使う、鉄条網の同類。つまり、生き物に対する思いやりを欠いた状況下で育った、という意味だ。市川訳はさすがに食べさせはしないようだが、山羊を飼うのに有刺鉄線と瓶のかけらをベッドにする必要がどこにあるというのか。

テレビを消した後、寝る前に一服するマーロウ。いつもとは違うタイプの煙草らしいが…。

I cut it off and smoked a long cool tightly packed cigarette. It was kind to my throat. It was made of fine tobacco, I forgot to notice what brand it was.

「私はテレビを切って、さわやかな味のする、かたい包装の長いタバコに火をつけた。のどを刺戟しないタバコで、良質の葉からつくられたものだ。名前を見るのは忘れた」(清水訳)

「テレビを消し、密に巻かれたクールな長いシガレットを吸った。それは喉に優しかった。どういうブランドだったか見忘れてしまったが」(村上訳)

「私はテレビを消し、きつく巻かれたメンソール味のロングサイズの煙草を吸った。咽喉にやさしい煙草だ。煙草の葉がいいのだ。ブランド名は忘れたが」(田口訳)

「テレビを消して冷蔵庫に保存してあった新品のタバコを取り出し、封を切り一服した。いがらっぽいところがなく、喉に優しかった。上質なタバコの葉が使われていた。銘柄を見るのを忘れた」(市川訳)

“smoked a long cool tightly packed cigarette”が訳者によってどれほど解釈が異なるかがよく分かる。清水訳の穏当さがよく分かる。村上訳は“It was made of fine tobacco”が抜けているし、田口訳は“cool”が勝手に「メンソール味」にされている。市川訳は“long cool”を「冷蔵庫に保存してあった」、“tightly packed”を、「新品の」(未開封だからぎっしり詰まっている)と解釈したのだろう。なかなかユニークな発想だが、ハードボイルドの探偵が煙草を冷蔵庫に保存する姿は想像し難い。村上訳の「クールな」は翻訳としては安易だと思うが、案外、いちばん原文に忠実な訳かもしれない。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“swing arm”はキツツキの翼か?

12

【訳文】

その手紙は階段の下にある赤と白に塗られた巣箱の形をした郵便受けに入っていた。支柱から張り出した腕木に取り付けた巣箱の屋根の上でいつもは寝ているキツツキが起きていた。それでも、ふだんなら中を覗かなかったかもしれない。自宅に郵便物が届くことなどないからだ。ところが、キツツキの嘴の先がなくなっていた。折れ口は新しかった。どこかのはしっこい子が手製の原子銃で吹っ飛ばしたのだ。

手紙には航空便(Correo Aéreo)と記され、メキシコの切手がべたべた貼られ、手書きの文字が並んでいた。はたと思い当たったのは、最近メキシコのことがずっと気になっていたからかもしれない。手押しの消印はスタンプ台がインク切れ寸前のようで判読できなかった。手紙は分厚かった。私は階段を上り、居間に腰を落ち着けて手紙を読んだ。その夜はとても静かだった。おそらく死者からの手紙は、それ自体が静寂をもたらすのだろう。

手紙は日付も前置きもなしに始まっていた。

あまりきれいとは言えないホテルの二階の部屋の窓辺に座っている。オタトクランという、湖のある山間の町だ。窓のすぐ下に郵便ポストがある。ボーイが注文したコーヒーを持ってきたら、手紙を投函するよう頼むつもりだ。投函口に入れる前に私に見えるよう、手紙をかざすように。そうしたら、百ペソ札が手に入る。ボーイにとってはすごい大金だ。

なぜそんな小細工を? 尖った靴を履き、汚れたシャツを着た色の浅黒い人物がドアの外でこちらを見張っている。そいつは何かを待っている。何を待っているのかわからないが、ぼくを外に出してくれない。手紙さえ投函されれば、どうということはない。このお金はきみに持っていてほしい。ぼくには必要ないし、持っていてもどうせ地元の警察に盗られてしまうから。何かを買うためのものではない。迷惑をかけたことへの謝罪と、まっとうな男への敬意の印だ。例によってぼくはあらゆる下手を打ったが、銃はまだ持っている。ぼくの勘では、きみはおそらくある点について心を決めているのではないかと思う。ぼくが彼女を殺したのかもしれない、多分やったのだろうが、それ以外のことはとてもやれそうにない。あんな残忍なことは、ぼくの柄じゃない。そこのところが非常に苛立たしい。だが、そんなことはどうでもいい。今大事なのは、不必要で無駄なスキャンダルを省くことだ。彼女の父親も妹も、ぼくによくしてくれた。彼らには彼らの人生があり、ぼくは自分の人生に心底うんざりしている。シルヴィアがぼくを屑にしたわけではない。ぼくははじめから屑だった。彼女がなぜぼくを選んだのか、よくわからない。ただの気まぐれだろう。少なくとも、彼女は若くして美しいまま死んだ。よく情欲は男を老けさせ、女を若く保つというが、世迷いごとだ。また、金持ちはいつでも自分の身を守れて、彼らの住む世界は常夏だとも。ぼくは彼らと一緒に暮らしたことがあるが、退屈で孤独な人々だった。

告白文を書いた。 気分がよくないし、かなり怯えてもいる。 このような状況については本で読んだことがあるだろうが、真実は本で読むことはできない。 我が身にそれが起こったとき、残されたものはポケットの中の銃だけで、見知らぬ国の汚い小さなホテルに追い詰められ、そこから出ていく道が一つしかないとき、嘘じゃない、そこに高揚感や劇的なものは一切ない。 あるのは、ごまかしようのない不快、卑しさ、陰鬱さ、惨めさだけだ。

だから忘れてくれ、事件のこともぼくのことも。だが、まずはヴィクターの店でギムレットを飲んでくれ、ぼくのために。次にコーヒーを淹れるとき、ぼくのためにカップに一杯注いでくれ、バーボンも加えて。煙草に火をつけてカップの横に置いてくれ。それが済んだらすべて忘れてくれ。テリー・レノックス、これにて退場。では、さようなら。

ドアにノックの音がする。コーヒーを持ったボーイだろう。さもなければ、銃撃戦になるだろう。概してメキシコ人のことは好きだが、メキシコの監獄は好きになれない。じゃあな。

テリー

それがすべてだ。私は手紙を折りたたみ封筒に戻した。ノックしたのはコーヒーを持ったボーイだったにちがいない。でなければ、この手紙を手にすることはなかっただろう。マディソン大統領の肖像も。マディソン大統領の肖像は五千ドル札だ。

ぱりっとした緑色の紙幣が目の前のテーブルの上にあった。こんなものを目にするのは初めてだ。銀行で働く人々の多くも見たことがないだろう。ランディ・スターやメネンデスのような人物なら持ち歩くこともあるかも知れない。銀行に行って、欲しいと言っても、置いていないだろう。連邦準備銀行から手に入れなければならず、届くのにおそらく数日かかる。アメリカ全土でも千枚ほどしか流通していない。私のはいい輝きを放っていた。自分専用の小さな陽光を創り出していた。

私は座ったまま長い間それを眺めていた。ようやく紙幣をレターケースにしまうと、キッチンにコーヒーを淹れに行った。感傷的であろうがなかろうが、頼まれた通りのことをするまでだ。二つのカップにコーヒーを注ぎ、彼のカップにバーボンを加え、空港に連れて行った朝、彼が座っていたテーブルの脇に置いた。コーヒーが立てる湯気と、煙草から立ち上る細い一筋の煙を見ていた。外の凌霄花ノウゼンカズラ)の繁みの中で一羽の鳥があちこち飛び回り、低い声でさえずったり、時折短く羽ばたいたりしていた。

やがてコーヒーが湯気を立てるのをやめ、煙草の煙も消え、灰皿の端でただの吸い殻になってしまった。吸い殻をシンクの下のごみ入れに捨てた。コーヒーを捨て、カップを洗って片づけた。

それで終わり。とても五千ドルに値する仕事とは思えない。

そのあとレイトショーを観に行った。何の意味もなかった。騒音と顔の大写しばかりで、何が起きているのかほとんどわからなかった。家に帰ってから、だらだらとルイ・ロペスをやりかけたが、それも何の意味もなかった。だからベッドに行って寝ることにした。

だが、眠れなかった。午前三時、部屋の中をうろつきながら、トラクター工場で働くハチャトゥリアンを聴いていた。彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいるが、私なら緩んだファンベルトと呼ぶだろう。うんざりだ。

私にとって眠れない夜というのは太った郵便配達夫と同じくらい珍しい。ミスタ・ハワード・スペンサーとリッツ・ベヴァリーで会うことになっていなければ、ボトルを一本空けて酔いつぶれていたことだろう。そして、今度ロールズロイス・シルヴァー・レイスに乗った礼儀正しい酔っぱらいを見かけたら、急いで姿をくらまそうと思う。自分で自分にかけた罠ほど命取りなものはない。

【解説】

マーロウの家にテリーから手紙が届く。手紙は重要な伏線になっている。その書き出しのパラグラフが難物である。どうってことのない文なのだが、日米の風物の違いがことをわかりにくくしている。

The letter was in the red and white birdhouse mailbox at the foot of my steps. A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised and even at that I might not have looked inside because I never got mail at the house. 

まず、“birdhouse mailbox”は「鳥の巣の形をしている郵便箱(清水訳)」ではなく「鳥の巣箱の形をした郵便受け」のことである。村上、田口訳はそうなっている。ところが、市川訳では「その手紙は道路際、家への外階段ののぼり口にある、赤と白に塗られた郵便受けに入っていた。先っぽにキツツキの飾りがついている蓋の取っ手が上がっていた。これまでは、たとえ蓋が開いていても中を覗き込むようなことはしなかった」と、「鳥の巣箱」に関する言及が抜け落ちているばかりでなく、郵便受けについても勝手な改変がなされている。

“A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised”だが、“was raised”(上げられていた)のは何かといえば“A woodpecker on top of the box attached to the swing arm”(スイングアームに取り付けられた箱の上のキツツキ)である。この「スイングアーム」が日本人にはよく分からない。旧訳でもそこのところが妙な訳になっていた。

「箱の上のきつつき(傍点四字)がひっくりかえっていて蓋があいていた」(清水訳)
「箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているというしるしに、その翼が上に向けられていた」(村上訳)
「郵便受けには造りもののキツツキがのっていて。郵便物があると。その翼を広げた恰好になるのだが」(田口訳)

アメリカの郵便受けは道路脇に立てられた支柱から横に張り出した腕木の上に設置されていることが多い。この水平に張り出した腕木がスイングアームだ。その上に鳥の巣箱の形をした郵便受けがのっている。巣箱には屋根がつきもので、その屋根の上にキツツキがのっている。犬小屋の上で昼寝をしているスヌーピーのように、普段は横になっているのかもしれない。中に郵便物が入ってるときはそれを立てる仕組みなのだろう。村上氏は、スイングアームを鳥の翼だと考え、田口氏もそれを踏襲したのだろうが、キツツキが最もキツツキらしく見えるのは翼を広げた姿ではなく、翼を閉じて足で立ち、木の幹を突っついている立ち姿である。だから“raise”(持ち上げる、引き揚げる)する必要があったわけだ。

郵便受けから取り出した手紙についての描写。訳者によって微妙に解釈が異なる。

The letter had Correo Aéreo on it and a flock of Mexican stamps and writing that I might or might not have recognized if Mexico hadn't been on my mind pretty constantly lately.

「封筒にはメキシコの切手がたくさん貼(は)ってあった。もっとも、メキシコの切手とわかったのは、メキシコのことがずっと頭にあったからかもしれなかった」(清水訳)

「手紙にはスペイン語で「航空郵便(コレオ・アエレオ)」と書いてあり、メキシコの切手がたくさん貼ってあった。もしここのところメキシコがこれほど頻繁に話題にのぼっていなかったなら、私がその筆跡に思い当たることはあるいはなかったかもしれない」(村上訳)

「”航空郵便(コレオ・アエレオ)”と書かれていて、メキシコの切手がいっぱい貼ってあった。このところメキシコのことを始終考えていた。そうでなければ書かれていた文字に何も思い当たらなかったかもしれない」(田口訳)

「封筒には航空便のスタンプと、メキシコの切手がベタベタ貼られ、なにやらスペイン語で書かれていた。このところ頭の隅にいつもメキシコが引っかかっていた。そうでなかったらゴミ郵便として捨ててしまったかもしれない。いや、そんなことはしないかも」(市川訳)

これまでの訳では、“that”の直前にある“writing”がなおざりにされてきた。清水訳では「メキシコの切手とわかった」と、切手しか眼中にない。村上訳では「筆跡」と解されているが、訳文を読む限り「その筆跡」が示しているのは「航空郵便」の文字としか読めない。しかし、市川訳でも分かるように、ふつう「航空郵便」はスタンプで押される。ここでいう“writing”は宛名などの表書きのことだろう。田口訳も同様で、突然「書かれていた文字」と言われても読者には何のことやらよく分からない。ここは一言あってしかるべきだろう。市川訳の「何やらスペイン語で書かれていた」もよく考えてみたら変で、封筒に書かれているのは自分の住所と名前のはずだ。

テリー・レノックスの手紙の中で、追いつめられた現在の心境を吐露している部分。

there is nothing elevating or dramatic about it.

「とても劇的なものなんか感じられない」(清水訳)
「そこには心高ぶるものもないし、ドラマチックなものもない」(村上訳)
「そこには心昂るものもドラマチックなものも何もない」(田口訳)
「そうなったらそれは気分を高揚させるようなものでも大向こうをうならせるものでもない」(市川訳)

市川氏は“dramatic”=劇的=「大向こうをうならせる」と考えたのだろう。しかし、「大向こう」とは、「芝居小屋の向う桟敷の後方、舞台から最も遠い客席のこと(また、そこに座る客)」を指し、安価なため何度でも足を運ぶことができる、そういった席を選ぶ芝居通をも感心させるほどの名演であることを意味する言葉だ。演技の巧拙を論じる言葉であって、状況が劇的であるかどうかとは何の関係もない。訳者はよくわからないままに使ったのではないか。

テリー・レノックスに頼まれた通り、やるべきことをすませてもマーロウの心は晴れない。普段の生活に戻ろうとするマーロだったが、映画にもチェスにも集中できない。

When I got home again I set out a very dull Ruy Lopez and that didn't mean anything either.

清水訳の「家へ帰ると、ルイ・ロペスのものういメロディのレコードをかけたが、やはりなんの感興もおぼえなかった」も、今となっては懐かしいが、村上訳が「再び帰宅し、ひどくだらだらしたルイ・ロペス(チェスの古典的な開始法)にとりかかったのだが、こちらにも集中できなかった」として以来、ルイ・ロペスは定着したものと思っていた。田口訳が、あえてそこを「家に帰ると、チェスの駒を基本的なオープニングの形に並べたものの、それもなんの意味もなかった」としたのは、チェスに疎い日本人読者の事情を考慮してのことだろう。読書の興をそぐので、註はできるだけ使いたくないものだ。

ところが、市川訳は「家に戻ると一番ありきたりなチェスの定石、ルイ・ロペツを並べてみた。並べたはいいがやる気が起きなかった」と、耳になじみのない「ルイ・ロペツ」という名前を出してきた。どこから引いてきたのかは知らないが、チェスのオープニングについて言及する場合、「ルイ・ロペス」の表記が一般的だ。無用な混乱は避けるのが賢明だろう。

珍しく眠りに就けないマーロウは、部屋の中を歩き回りながら音楽を聞くが何を聴いても心休まらない。ここでいうハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲はニ短調だろうが、ひどい言われようだ。

He called it a violin concerto. I called it a loose fan belt and the hell with it.

「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいた。私にいわせればベルトのゆるんだ送風機だが、そんなことはどうでもよかった」(清水訳)

村上訳では「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と称していたが、私としては「緩んだファンベルトと、それがもたらす苦闘」とでも呼びたいところだ」となっていた。逐語訳が好きな村上訳らしい。“the hell with”は「どうなっても構わない、まっぴらだ、うんざりだ」という意味。田口訳では「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいるが、私にはたるんだファンベルトの音にしか聞こえない。そんなものはクソ食らえだ」と元に戻している。市川訳も「彼はそれをバイオリン・コンチェルトと呼んだが、私には緩んだファンベルトの音にしか聞こえなかった。まあ、どうでもいい」だ。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“perfect score”は「満点」のこと

11

【訳文】

朝、髭を剃り直し、服を着て、いつものようにダウンタウンに車を走らせ、いつもの場所に車を停めた。私が時の人であることを駐車場係が知っていたとしたら、素振りさえ見せないプロの仕事だった。私は二階に上がり、廊下を通ってドアの鍵を開けた。色の浅黒い、世なれた風の男がこちらを見ていた。

「マーロウか?」

「だとしたら?」

「ここにいろ」と彼は言った。「あんたに会いたがってる人がいる」彼は壁から背中を引き剥がし、気だるそうに歩き去った。

オフィスに入り、郵便物を拾い上げた。机の上にはもっとあった。夜の掃除婦が置いたのだ。窓を開けてから封を切り、要らないものを捨てた。ほとんど残らなかった。もうひとつのドアのブザーの電源を入れ、パイプに煙草を詰めて火をつけ、ただそこに座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った。

テリー・レノックスについて少し距離を置いて考えてみた。彼はすでに遠のいていた。白髪と傷痕のある顔、あえかな魅力と彼なりの風変わりな銘柄のプライド。批判したり分析したりはしなかった。負傷した経緯も、シルヴィアのような女性と結婚した経緯も訊かなかったのと同じように。たまたま船旅で知り合ってつきあうことになった道連れのようなもので、相手については何も知らない。桟橋で別れ際に、また連絡を取り合おう、と言うのだが、そうしないことはどちらもよくわかっている。おそらくもう二度と会うこともないだろう。もし会ったとしても、そのときはまったく別人で、列車のラウンジに乗り合わせたありふれたロータリ―クラブの一員になっていることだろう。仕事はどうだ? ああ、悪くないよ。元気そうだ。あんたもね。太りすぎた。みんなそうだろ? フランコニア号(だったかな)の旅を覚えてる? ああ、いい旅だったね」

なんと素晴らしい旅だったことか。退屈でたまらなかった。ほかに相手がいなかったから話したまでのことだ。テリー・レノックスと私もそうだったのかもしれない。いや、ちょっとちがうか。私の中にはまだ彼の一部が残っている。私は彼に時間と金を投資し、臭い飯も三日食った。言わずもがなだが顎と首を殴られもした。何か飲み込むたびに毎回痛む。彼が死んだ今となっては、五百ドルさえ返すことができない。それが腹立たしい。いつだって人を苛立たせるのは些細なことだ。

ドアのブザーと電話が同時に鳴った。先に電話に出た。ブザーが鳴るのは、私の小さな待合室に誰かが入ってきたというだけのことだからだ。

「ミスタ・マーロウ? ミスタ・エンディコットから、お電話です。少々お待ちください」

彼が電話に出た。「スーウェル・エンディコットだ」と、まるで秘書が彼の名前をすでに私に伝えていることを知らないかのように言った。

「おはようございます。ミスタ・エンディコット」

「釈放されたそうで何よりだ。抵抗しなかったのは、賢明な考えだったと思うよ」

「考えなんてものじゃありません。強情なだけです」

「これ以上きみにお呼びがかかることはないだろうが、もしそういうことになって助けが必要なら、いつでも連絡してくれ」

「なぜそんなことになるんです?  あの男は死んだ。彼が私に近づいたことを証明するのはかなりの手間だ。そして私が彼の有罪を知っていたことを証明しなければならない。さらに、彼が罪を犯し、逃亡中であることを証明しなければならないんですよ」

彼は咳払いをした。「たぶん」彼は慎重に言った。「彼が完全な自白を残したことを聞いていないんだろうね?」

「聞きましたよ。ミスタ・エンディコット。私は弁護士と話してるんですよね。差し出がましいようですが、自供については、内容が真実であることと告白書そのものが真正なものであることを証明する必要があるんじゃなかったでしょうか?」

「すまないが、法律論議をしてる暇がない」と彼はきっぱり言った。「ちょっと憂鬱な任務を帯びてメキシコに飛ぶところだ。それがどういうものかはわかってるだろう?」

「ああ。あなたが誰の依頼で行くのかによります。あなたは教えてくれなかった。覚えてるでしょう」

「よく覚えてる。では、さようなら、マーロウ。私の申し出はまだ有効だ。少し忠告させてくれ。自分は大丈夫だと過信しないことだ。それでなくても怪我しやすい稼業なんだから」

彼は電話を切った。私は受話器を慎重に架台に戻した。しばらく受話器に手を置き、難しい顔をしていた。そして渋面を拭い去り、待合室に通じるドアを開けようと立ち上がった。

男は窓際に座って雑誌をパラパラめくっていた。ほとんど目に見えない淡いブルーのチェックが入った青みがかったグレーのスーツを着ている。組んだ足には鳩目が二つある紐つきの黒いモカシンを履いていた。散歩用の靴のように快適で、一ブロック歩くたびに靴下が擦り切れることもない。白いポケットチーフはスクエア・フォールドに畳まれ、後ろにサングラスの端が覗いていた。たっぷりとした黒髪が波打ち、よく日に灼けていた。鳥のように明るい眼を上げ、線のように細い口髭の下で微笑んだ。タイは暗い葡萄茶色で、ポインテッドエンドに結ばれ、尖った先端が眩いばかりの白いシャツに映えていた。

彼は雑誌を脇に投げ捨てた。「ボロ雑巾みたいな屑だ」と彼は言った。「コステロの記事を読んでいたんだ。ああ、彼らはコステロのことなら何でもご存じのようだ。おれがトロイのヘレンのことを何でも知ってるようにな」

「何の御用かな?」

彼はゆっくりと私を品定めした。
「大きな赤いスクーターに乗ったターザンってところだな」と彼は言った。

「なんだって?」

「おまえのことさ、マーロウ。大きな赤いスクーターに乗ったターザン。手荒い扱いを受けたか?」

「あちこちでね。それがあんたとどんな関係がある?」

「オルブライトからグレゴリアスに話が行った後か?」

「いや、後じゃない」

彼は軽くうなずいた。「あのへぼに一発かますようにオルブライトに頼むなんざ、厚かましい野郎だ」

「訊いたはずだ、それがあんたとどんな関係がある。ちなみに、私はオルブライト本部長を知らないし、何も頼んでいない。なぜ彼が私のために何かするんだ?」

彼は不機嫌そうに私を見つめた。豹のように優雅に、ゆっくりと立ち上がった。部屋を横切り、私のオフィスを覗き込んだ。ついて来いと顎で合図して中に入った。どこにいようと、自分がいるところは自分が所有者なのだ。私は後に続いてドアを閉めた。彼は机の脇に立ち、面白そうに辺りを見回した。

「おまえは三流だな」と彼は言った。「けちな小者だ」

私は机の背後に回り、待った。

「ひと月いくら稼ぐんだ? マーロウ?」

放っておいて、パイプに火をつけた。

「よくって七百五十ってところだろう? 」と彼は言った。

マッチの燃え殻を灰皿に落とし、煙草の煙をはき出した。

「おまえはけちなやつだ、マーロウ。小遣い稼ぎの信用詐欺師だ。あんまりちっぽけなんで虫眼鏡でも使わなきゃ見えやしない」

私は何も言わなかった。

「おまえは陳腐な感情で動く。いかにも陳腐だ。誰かと気が合い、ひとしきり飲んで騒いで、懐が乏しいと見ればそっと金を滑り込ませ、そして掌をかえす。フランク・メリウェルを読んでる小学生みたいなもんだ。ガッツも頭もコネも機転もないくせに、おためごかしをほのめかしてお涙頂戴をねらう。大きな赤いスクーターに乗ったターザン」。彼はうんざりしたように小さな笑みを浮かべた。「おれに言わせりゃ、おまえは五セント玉(ニッケル)ほどの値打ちもない」

彼は机の上に身を乗り出し、私の顔を手の甲ではたいた。さりげなく、人を小ばかにするように、傷つけるつもりはなく、顔に小さな笑みを浮かべたまま。私がそれに動じないと、彼はゆっくりと腰を下ろし、机に片肘をつき、日に灼けた手で日に灼けた顎を包み込んだ。鳥のように明るい眼が私を見つめた。そこには明るさ以外には何もなかった。

「おれが誰だか知ってるか、安物(チーピー)?」

「あんたの名前はメネンデス。仲間はメンディと呼ぶ。ストリップ界隈を仕切ってる」

「そうか? どうやってここまでのし上がったか知ってるか?」

「知るわけがない。たぶんメキシコ人売春宿のポン引きから始めたんじゃないか」

彼はポケットから金のシガレット・ケースを取り出し、金のライターで茶色の煙草に火をつけた。刺すような匂いの煙を吐いてうなずいた。そして金のシガレット・ケースを机の上に置き、指先で撫でた。

「おれは大物なんだよ、マーロウ。大金を稼ぐ。賄賂のために大金を稼がにゃならず、そのためにはまた別の連中への賄賂のために大金を稼がにゃならん。大金を稼ぐために大金を稼いでるってわけだ。で、ベル・エアに九万ドルの家を手に入れたんだが、改装にそれ以上の金をつぎ込んでいる。プラチナブロンドの美人の女房がいて、二人の子どもは東部の私立学校に通わせている。女房の持ってる宝石は十万五千ドル、毛皮と洋服は七万五千ドルする。執事が一人、メイドが二人、コックが一人、運転手が一人。おれの後ろにくっついてるやつは勘定に入れずにだ。おれはどこへ行ってもちやほやされる。最高の食事、最高の飲み物、最高のホテルのスイートルーム。フロリダに別荘を持ち、クルーが五人いるヨットを持っている。車はベントレー一台、キャデラック二台、クライスラーステーションワゴン一台、息子にはMG一台。二、三年後には娘のためにもう一台。おまえはどうだ? 」

「たいしたことはない」と私は言った。「今年、一軒家を手に入れた。丸ごと独り占めだ」

「女っ気はなしか?」

「私だけだ。それに加えて、ここに見えてるものと、銀行に千二百ドル、債券が数千ドルある。それで質問の答えになってるか?」

「ひとつの仕事で稼いだ最高額は?」

「八百五十」

「なんてこった。どこまで安上がりにできてるんだ? 」

「そろそろいいだろう。望みは何だ」

彼は煙草を半分吸い終わると、間を置かずに次の煙草に火をつけた。椅子に凭れかかり、私に向かって唇をゆがめた。

「おれたち三人はたこつぼの中で食事中だった」と彼は言った。「あたりは一面の雪で、クソ寒かった。罐詰から直に食うんだ。加熱もせずに。砲撃は知れていたが、迫撃砲は半端なかった。おれたちはあまりの寒さに青く(ブルーに)なってた。へこんでたって意味だ。ランディ・スターとおれ、それに、あのテリー・レノックスだ。迫撃砲の砲弾がおれたちの真ん中にどすんと落っこちたんだが、これがなぜか爆発しない。ドイツ兵ってのはやたらと細工しやがる。ひねくれたユーモアのセンスの持ち主でね。不発弾だと思ってたら、三秒後には不発弾じゃなくなるなんてこともある。テリーはそれをひっつかんで、ランディとおれが動き出す前にたこつぼから出て行った。ていうか、凄い早業なんだよ。バスケの名プレイヤー並みだ。やつは地面に伏せて、そいつを遠くへ放り投げた。砲弾は空中で破裂した。大半の破片は頭上を越えていったが、塊のひとつが顔の横を直撃した。その直後、ドイツ軍が一斉攻撃を仕掛けてきて、気がついたらおれとランディはもうそこにいなかった」

メネンデスはそこで話しを止め、ぎらぎら輝く黒い瞳を私に据えた。

「教えてくれてありがとう」と私は言った。

「ひとを揶揄うもんじゃない、マーロウ。まあ、いい。ランディとおれはじっくり話し合って、テリー・レノックスに起きたことは、どんな男の頭も狂わせるのに充分だと判断したんだ。長い間、彼は死んだと思ってた。だが、死んじゃいなかった。ドイツ軍に捕まってたんだ。彼らは一年半というもの、彼を徹底的に搾り上げた。いい仕事をしたが、彼を傷つけすぎた。そこまで調べるのに金がかかった。彼を見つけるにはもっとかかった。だが、戦後の闇市でしこたま儲けたおれたちには余裕があった。おれたちの命を救ってテリーが得たのは、新しい半分の顔と白髪、そして重度の神経症だけだ。東部に戻ると、彼は酒に溺れ、あちこちでサツの厄介になり、いわゆる自制心てやつをなくしちまう。何かを考えているようだが、それが何なのか皆目わからない。気がついたときには、例の金持ちの令嬢と結婚して意気軒高だった。ところが彼は彼女と別れ、またどん底に落ち、同じ女と再婚したと思ったら、女が死んだ。ランディとおれは彼のために何もさせてもらえない、ヴェガスでのちょっとした仕事をのぞけばな。本当に窮地に陥ったときには、おれたちでなく、おまえみたいな安っぽい男に助けを求めるんだ。おまわりに振り回されるような男に。で、おれたちに別れも告げず、金を払うチャンスも与えず、あいつは死んだ。おれならあいつを国外に逃がすこともできた、いかさま師がカードを切るより手早く。だが、あいつはおまえに泣きついた。それがやりきれないんだ。おまわりにこづきまわされるような、ケチな野郎にだ」

「おまわりは誰だってこづきまわせるんだよ。私にどうしてほしいんだ?」

「手を引け」メネンデスはきっぱりと言った。

「何から手を引くんだ?」

「金儲けか売名か知らないが、レノックスの件でおまえがやろうとしていたことさ。もう終わったんだ。お終いにしよう。テリーは死んだ。これ以上あいつを患わせたくない。あいつはもうたっぷり苦しんだ」

「おセンチなごろつきか」と私は言った。「たまらんね」

「口のきき方に気をつけるんだ、安物。口は災いの元だ。メンディ・メネンデスは議論はしない。命じるだけだ。金儲けなら他の方法を見つけろ。わかったか?」

彼は立ち上がった。インタヴューは終わりだ。彼は手袋を手に取った。雪のように白いピッグスキンだ。一度も使われたようには見えなかった。ミスタ・メネンデスは服装に凝るタイプだ。しかし、中身は見かけよりずっと荒っぽい。

「名を売るつもりなどない」と私は言った。「金をやろうと申し出る者もいない。いったい誰が何のためにそんなことをする?」

「ふざけるな、マーロウ。冷凍庫に三日もいたのは、おまえが心優しいからじゃない。金で雇われたんだ。誰とは言わんが心当たりがある。その連中は腐るほど金をもってる。レノックスのケースは解決済みだ。たとえ...」彼は立ち止まり、机の端で手袋をはじいた。

「たとえ、テリーが彼女を殺していなくても」と私は言った。

彼の驚きは、まるで即席の結婚式に間に合わせた指輪の金みたいに薄っぺらかった。 「おれもそうであってほしいよ、安物。 しかし、それでは収まりがつかない。だがな、もしそれで収まりがつき――そしてテリーがそうしておけというのなら――そのままでいいんだ」

私は何も言わなかった。しばらくして、彼はゆっくりと笑った。「大きな赤いスクーターに乗ったターザン」彼は言葉を引き延ばすようにゆっくり言った。「タフガイ、押しかけてきたおれにいいようにあしらわれている。はした金で雇われ、誰にでもこづきまわされる男。金もなけりゃ家族もいない、先行きの見込みも何もないときた。じゃあ、またな、安物」

私はじっと座って奥歯を噛みしめ、机の隅にある彼の金のシガレット・ケースの輝きを見つめていた。 急に年老いて疲れたように感じた。 ゆっくりと立ち上がり、ケースに手を伸ばした。

「これを忘れてる」と私は言って、机のまわりをまわった。

「そんなもの半ダースはある」彼はせせら笑った。

手が届く距離まで来ると、私はそれを差し出した。彼の手は何気なくそれに伸びた。「こいつも半ダースどうだ?」私はそう尋ね、彼の腹の真ん中を思い切り殴った。

彼はうめき声を上げながら体を二つに折った。シガレット・ケースが床に落ちた。彼は壁に凭れ、両手を前後に痙攣させた。肺に空気を吸い込もうとして喘いだ。彼は汗をかいていた。非常にゆっくりと、そして懸命な努力の末、彼は背筋を伸ばし、私たちは再び目と目を合わせた。私は手を伸ばし、彼の顎の骨に沿って指を走らせた。彼はじっと耐えていた。そしてようやく、彼は褐色の顔に微笑みを浮かべた。

「おまえのことを見損なってたよ」と彼が言った。

「次は銃を持ってくるんだな。さもなきゃ、私を安物呼ばわりするな」

「おれには銃を持つ男がついている」

「次はそいつを連れてこい。きっと入り用になる」

「怒らせるのに手のかかるやつだな、マーロウ」

私は金のシガレット・ケースを足で引き寄せ、屈んで拾い上げて渡した。彼はそれを受け取り、ポケットに入れた。

「どうにも腑に落ちない」と私は言った。「わざわざここまで足を運んで私をからかって、それがあんたにとって何の得になる。そのうちにうんざりしてきた。タフガイってのはいつもうんざりさせる。エースばかり並べた手札でゲームしてるようなものだ。何もかも揃ってるようでいて、その実何も持っちゃいない。ただ座って自分の手札を眺めて悦に入ってるだけだ。テリーがあんたに助けを求めないのも当然だ。娼婦に金を借りるようなものだ」

彼は二本の指でそっと腹を押さえた。「つまらんことを言ったな、安物。よせばいいのに軽口が過ぎる」

彼はドアの方へ歩いて行き、ドアを開けた。 外では、ボディーガードが向かいの壁から身を剥がしてこちらを向いた。 メネンデスは顎をしゃくった。 ボディーガードがオフィスに入ってきて、そこに立って無表情に私を見ていた。

「よく見ておけ、チック」とメネンデスは言った。「念のため、面(つら)を覚えておくことだ。そのうちおまえはこいつに用があるかも知れない」

「もう覚えました、チーフ」浅黒く世なれた風の口数の少ない男は、いかにも口数の少ない男が言いそうな口ぶりで言った。「手間はとらせません」

「ボディは打たせるな」とメネンデスは薄笑いを浮かべながら言った。「こいつの右フックは洒落にならない」

ボディガードは私を鼻であしらった。「そこまで近づけませんよ」

「じゃ、またな、安物」とメネンデスは言って出て行った。

「また近いうちに」とボディガードは他人行儀に言った。「名前はチック・アゴティーノ。あんたとはお近づきになれそうだ」

「汚れた新聞紙みたいに」と私は言った。「きみの顔を踏まないよう、思い出させてくれ」

彼の顎の筋肉がもり上がった。それから急に向きを変えるとボスの後を追って出て行った。

ドアは空気圧でゆっくりと閉まる。耳をすましたが、廊下を歩く足音は聞こえなかった。彼らは猫のように歩く。念のため、一分後にもう一度ドアを開けて外を見た。しかし、廊下には誰もいなかった。

私は机に戻り、座って少し時間を過ごした。なぜメネンデスのような、それなりに名の知れた地元のならず者が、私のオフィスに直接来て、おとなしくしてるよう警告する値打ちがあると思うのか。それも言い方こそ違え、スーウェル・エンディコットから同じような警告を受けた数分後に。

いくら考えても答えにたどり着けなかったので、どうせならもう一押しすることにした。 受話器を取り上げ、ラスベガスの<テラピン・クラブ>に、フィリップ・マーロウという者だが、ミスタ・ランディ・スターに直接話したい、と電話した。 無駄だった。 ミスタ・スターは出張しております。ほかの誰かにお繋ぎいたしますか?  やめておいた。どうしても スターと話したいわけではなかったし、ただの思いつきだ。 私を殴るには彼は遠くにいすぎた。

それから三日間、何も起こらなかった。誰も私を殴ったり、銃で撃ったり、おとなしくしてろ、と電話で警告してきたりしなかった。誰も私を雇わなかった。家出少女、浮気した妻、失くした真珠のネックレス、行方不明の遺書を探すために。私はただそこに座って壁を見ていた。レノックス事件は、殆ど起きたときと同じように突然世間から消えた。簡単な審問は開かれたが、私は召喚されなかった。そもそも異例な時間に開かれ、事前の予告も陪審もなかった。検視官が下した評決によると、シルヴィア・ポッター・ウェスターハイム・ディ・ジョルジョ・レノックスの死は、夫のテレンス・ウィリアム・レノックスによる殺人目的により引き起こされたものだが、彼は既に死亡しているため検死官の管轄外である、というものだった。おそらく記録に残すために自白調書が読まれ、検視官を納得させるに足る検証がなされたのだろう。

遺体は埋葬のために家族に渡され、飛行機で北に送られ、一家の地下納骨所に埋葬された。報道陣は招かれなかった。関係者の誰もインタビューに応じなかった。とりわけハーラン・ポッター氏がインタビューに応じることはなかった。彼に会うのはダライ・ラマと同じくらい難しい。一億ドルもの資産家たちは、使用人、ボディーガード、秘書、弁護士、飼い慣らされた重役たちによる遮蔽幕に囲まれ、特別な生活を送っている。おそらく、彼らも食べ、眠り、髪を切り、服を着るのだろう。が、確かなことはわからない。彼らについて見聞きすることはすべて加工処理されている。使い勝手のいい人となり、消毒済みの注射針のように単純で清潔、裏表のない人格を創り上げ、維持するために高級で雇われている広報係の一団によって。真実である必要はない。ただ、周知の事実と一致していればいいのであって、周知の事実など指折り数えられる程でしかない。

三日目の午後遅くに電話が鳴り、私はハワード・スペンサーと名乗る男と話していた。彼はニューヨークの出版社の代表で、カリフォルニアに短期出張中、ある問題を抱えていて相談したいので、翌朝十一時にリッツ・ベヴァリー・ホテルのバーで会えないかと言ってきた。

私はどんな問題なのか訊いた。

「ちょっと込み入った問題で」と彼は言った。「かといって、人道に悖ることではない。話を聞いてもらって断られたとしても、応分の料金を支払いますよ、当然」と彼は言った。

「それはどうも、ミスタ・スペンサー、その必要はありません。知り合いの推薦でしょうか?」

「きみのことを 知っている誰かだ。最近起こった事件も含めてね、ミスタ・マーロウ。私自身、それで興味を惹かれたと言っていい。私の用件はあの悲劇的な事件とは何の関係もない。つまり、その、どうかな、 酒でも飲みながら話せないか、電話じゃなく」

「豚箱に入っていたような男と一緒のところを見られても構わないのかな?」

彼は笑った。 彼の笑い方も声もどちらも心地よかった。 彼はかつてのニューヨーカーのように話した。誰もがブルックリン訛りを身につけるようになる以前のそれだ。

「言わせてもらえれば、ミスタ・マーロウ、そこがきみの取り柄なんだ。いや、補足しておこう、君がいうように、きみが豚箱の中にいた、という事実ではなく、何というか、圧力に屈せず沈黙を貫き通した、というところがだ」

彼は重厚長大な小説のようにコンマを多用して話す男だった。ともかく電話ではそうだ。

「わかった、スペンサー。明朝、伺うよ」

彼は私に礼を言って電話を切った。誰が私を推薦してくれたのだろう。スーウェル・エンディコットかもしれないと思い、電話して確かめた。しかし、彼は一週間ずっと街を離れていたし、今もそうだ。そんなことはどうでもよかった。こんな稼業でも、満足してくれる顧客が時々いるものだ。 仕事もほしかった。食うためには金が要る。そう思っていた。その夜、家に帰ってマディソン大統領の肖像画が同封された手紙を見つけるまでは。

【解説】

ロスアンジェルスの歓楽街、サンセット・ストリップを仕切るギャング、メンディ・メネンデスの派手な登場である。一部の隙もない洒落者だが、過ぎたるは及ばざるがごとしを地で行く、そのキメ方が痛い。チャンドラーは服装の選び方を子細に描くことで、読者の頭の中にその人物像を浮かび上がらせる。ただ、当時のファッションに詳しくないとよくわからないこともある。

子分がボスを呼びに行く間、オフィスで待つマーロウの様子を描写した一文。

I switched on the buzzer to the other door and filled a pipe and lit it and then just sat there waiting for somebody to scream for help.(もうひとつのドアのブザーの電源を入れ、パイプに煙草を詰めて火をつけ、ただそこに座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った)

清水訳は「もう一方のドアのブザーのスイッチを入れて、パイプをつめ、火をつけて、椅子に坐りこみ、誰かが助けてくれと叫ぶのを待った」

村上訳は「ブザーを押してもう一つのドアを開錠し、パイプに煙草を詰めて火をつけた。そして腰を下ろし、誰かが悲鳴を上げて助けを呼ぶのを静かに待った」

田口訳は「ブザーを押してもう一つのドアの鍵も開けると、パイプに煙草を詰めて火をつけ、誰かが叫んで助けを求めにくるのをただ坐って待った」

“I switched on the buzzer to the other door”を「ブザーを押してもう一つのドアを開錠し」としたのは村上氏の誤訳だろう。それに倣った田口訳も同じだ。もとの清水訳が正しい。ただ、清水訳も“scream”を「叫ぶ」と取っている。しかし、“scream”には「(鋭い音が)鳴る」という意味がある。前後の文脈から推測すると、マーロウは、さっき下りていった客が再びやってきてブザーを鳴らすのを待っている、と考えた方が自然だ。

市川訳は「顧客用ドアのブザーの電源をいれ、パイプにタバコを詰めると火をつけ、机の奥の椅子に座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った」だ。原文に“sat there”としか書かれていないのに「机の奥の椅子に」と具体的な描写を差し挿まずにいられないのがこの人らしい。

そういうところが功を奏する場面もないではないが、往々にして馬脚を現すことがある。テリー・レノックスとの出会いを船旅に喩える場面がある。そこでの仮想の対話。

Remember that trip in the Franconia (or whatever it was)?

清水訳は「〈フランコニア〉のときのことを覚えておいでかな。(いや、〈フランコニア〉ではなかったかな)」

村上訳は「フランコニア(だかなんだか、とにかく汽船の名前だ)での旅を覚えているかい?」

田口訳は「フランコニア号(なんでもいい)の船旅は愉しかったね」

三人とも「フランコニア」が船の名前だとしているところを、市川訳は「東ヨーロッパ(どこでもいいのだが)への旅を覚えてます?」と“the Franconia”を「フランケン地方」のことだと強引に変更している。「フランコニア」は二十世紀初頭に大西洋を航行していた客船の名前。それまで船旅の話をしていたのだから。当然、文脈から推し測って然るべきところである。

難を言えばきりがないのだが、次のパラグラフでも同じ誤りを繰り返している。

The hell it was a swell trip. You were bored stiff.

市川訳ではこうなっている。「あなたは素晴らしい旅なんてどうでもよかった。列車で退屈していて体もこわばっていた」。市川氏は、このマーロウが考え出した仮想の挿話の語り手が列車のラウンジ席にいるものと解釈している。おそらく“stiff”にひっかかったせいだろう。形容詞の場合なら「硬い」の意だが、“be bore stiff”と副詞的に使われる場合、「ひどく退屈している、全くうんざりだ」という意味になる。彼は狭い車内ではなく船旅の最中で、体の自由はきく。ただ、まともな話し相手がいないことにうんざりしていたのだ。それが全く読めていない。

メネンデスがマーロウを指して言った言葉が“Tarzan on a big red scooter”。メネンデスはこれだけを繰り返している。他に何も説明をくわえてはいない。ところが、二度目の“Tarzan on a big red scooter”が、市川訳では「象の代わりにド派手なスクーターに、両膝揃えで乗ってるターザン気取りの玉無し野郎って言ってるんだ」になっている。例によって訳者による勝手な書き加えである。これまでの訳者は、原文を尊重して「でかい真っ赤なスクーターに乗ったターザン(田口訳)」としか書いていない。勝手な解釈を付け加えることは誰もしていない。それが訳者としての態度だろう。ここまでの逸脱は許されるべきではない。これはもう翻訳とは言えない。

枚挙に暇がないのでいい加減にしてほしいところだが、次の箇所も放っておくことはできない。メネンデスがマーロウのオフィスに入ってすぐ言った科白だ。

"You're small time," he said. "Very small time."

“small time”は「取るに足らない、重要ではない、三流の」という意味。ここが市川訳では次のようになるから不思議だ。

「雑魚だ」と言った。「チープな奴だ。チーピーって呼んでやる」

「チーピー」というのは、後に出てくる、メネンデスがマーロウを馬鹿にして言う呼び名だ。原文ではここには出てこない。他の旧訳でも同じだ。こうまで勝手に改変を繰り返されると真面目に付き合っていられなくなる。勝手にしてくれ、と放り出したくなる。まあ、誰に頼まれたわけでもない。こちらが勝手にやっているだけの事なので、勝手にするまでのことなのだが。

メネンデスがマーロウのことを“Tarzan on a big red scooter”と言った訳は次のパラグラフで分かる。メネンデスはこう言い換えている。

"You got cheap emotions. You're cheap all over. You pal around with a guy, eat a few drinks, talk a few gags, slip him a little dough when he's strapped, and you're sold out to him. Just like some school kid that read Frank Merriwell. You got no guts, no brains, no connections, no savvy, so you throw out a phony attitude and expect people to cry over you. Tarzan on a big red scooter."(おまえは陳腐な感情で動く。いかにも陳腐だ。誰かと気が合い、ひとしきり飲んで騒いで、懐が乏しいと見ればそっと金を滑り込ませ、そして掌をかえす。フランク・メリウェルを読んでる小学生みたいなもんだ。ガッツも頭もコネも機転もないくせに、おためごかしをほのめかしてお涙頂戴をねらう。大きな赤いスクーターに乗ったターザン)

マーロウにできることは知れている。だから色々親切にしているように見えて、その実最後まで面倒を見ようとしない。それが“cheap”だというのだ。自分にできもしない救出劇を演出するため、人目に付きやすい乗り物を用意するターザンみたいなものだ、とメネンデスは言いたいのだろう。これで十分意は尽くされている。ところが、市川氏はそれでは気が済まない。同じ部分がこういう訳になる。

「動機からして安っぽい。お前のやることなすこと、みんな安っぽいぜ。いっちょマエに男の付き合い気取りでそれらしく酒喰らって、それらしく馬鹿言って、相手が金なくて焦っていると臭い芝居で端した金(ママ)を握らせてバっちり恩売りやがる。まるでヒーローマンガ読みすぎのガキだぜ。お前にゃ度胸もない。脳みそもない。コネも腕もない。それでお前はこれ見よがしにヒーローのサルまねをする。ウケけて(ママ)皆が涙を流すのを狙ってな。お前はでかくて赤いスクーターに乗ったターザンだ」

大筋は外していないが、いちいち物言いが大仰だ。これではメネンデスではなく、子分のチンピラの物言いだ。ちなみにフランク・メリウェルはマンガのキャラクターではない。田口訳の註によれば「ベストセラー作家のバート・バッテンがバート・L・ランディシュのペンネームで創り出したスポーツ万能のキャラクター」だそうだ。

メネンデスはさらにマーロウを侮辱する。手の甲で顔を叩くのだ。原文は以下の通り。

He leaned across the desk and flicked me across the face back-handed,casually and contemptuously, not meaning to hurt me, and the small smile stayed on his face.

清水訳は「彼はデスクの上にからだをのり出して、ほんの気まぐれのように手の甲で私の顔を横にはらった。私を傷つけようとしたのではなく、顔から笑いが消えていなかった」。他の二人も「手の甲で、打つ、はたく」という訳だ。ところが、市川訳はここも異なる。

「机に身体を覆い被さるよう(ママ)して私に近づくと私の顔を叩くように手の甲を左右に振った。実際は叩くつもりはなく団扇をあおぐように、小馬鹿にしたように私の目の前で左右に軽く振った」

“flick”は自動詞の場合、「ひょいと動く、ひらひら飛ぶ」の意味を持つが、“flicked me across the face back-handed”のように、すぐ後に目的格の代名詞がくる場合、他動詞と取るのが正しい。他動詞の“flick”は「軽く打つ、はじく」等の意味だ。原文を読めば、メネンデスの手は一度マーロウの顔の前を横切り、バックハンドで軽く打っているようにしか読めない。何より、その場にそぐわない団扇という不必要な比喩や、「左右に振った」の重複など、訳文としての完成度が低すぎる。誤字脱字も多い。校閲はともかく、訳者以外の誰かの手で校正されているのだろうか。

メネンデスが語る戦時中の体験談。ドイツ軍に捕まったレノックスが受けた処遇についての和訳が気になる。

They worked him over for about a year and a half. They did a good job but they hurt him too much.

清水訳は「一年半、ドイツの病院に入ってた。手術はまずくはなかったが、ずいぶん痛い目にあわせたらしい」。原文に病院を示す言葉はないが、村上氏は清水訳を鵜吞みにし「そしてやつらはテリーを、おおよそ一年半かけて徹底的に治療した。手際はよかったが、それはとんでもなく手荒なものだった」とした。田口訳も「ドイツ野郎は一年半かけてやつを治療した。治療自体は悪くなかったが、ひどい手術痕が残った」だ。

“work over” には「〜をやり直す、〜を作り直す、〜に手を加える」という意味があり、清水氏は、それを「整形手術」と解釈したのだろう。ただ、“work + 目 + over” は<口語>で用いられる場合「(人を)激しく攻撃する、ひどい目にあわせる.」の意味になる。もともと“work over” には「〜を徹底的に調査、研究する」という意味がある。ドイツ軍が単なる捕虜のために一年半もかけて顔の整形手術をするとは考えにくい。ここは、連合国側の情報を訊き出すために拷問も含め、厳しい尋問が行われたと考える方が理に適っている。

市川訳は「一年半の間、奴らはあいつを痛めつけた。顔の手術をしたのはいいとしても奴らはあいつを徹底的に痛めつけた」と原文に近い訳になっている。テリーの負った深い傷を、顔の手術によるものとする解釈は如何なものだろうか。帰国後のテリーの様子から考えると、ドイツ軍は手術を含めてけがの治療はうまくやったが、捕虜の心に負わせた傷は深いものがあったと取るべきだろう。

「たとえ、テリーが彼女を殺していなくても」とマーロウが言ったのを聞いたメネンデスの驚き方について。原文はこうなっている。

His surprise was as thin as the gold on a weekend wedding ring.

清水訳は「べつに驚いた様子はなかった」とにべもない。村上訳は「彼の示した驚きは、即席結婚のための金の指輪くらい薄っぺらなものだった」と丁寧だ。田口訳も「彼の驚いた顔は即席結婚の金の指輪ほどにも薄かった」と村上訳を踏まえている。アメリカでは急に思いついて結婚式を挙げるため、週末を使ってラス・ヴェガスを訪れるカップルが多い。牧師から指輪や衣装まで、一式がすべて用意されているからだ。“weekend wedding”はそのことを言っている。

“thin”には「薄い」の他に「実(じつ)のない、見え透いた」という意味がある。メネンデスの驚いた顔を見て、マーロウはそう感じたということだ。ところが、市川訳は「メネンデスの顔に驚きが浮かんだ。その驚きぶりはまるでインスタント結婚式で使うリングの金メッキほど微かだったが私はそれを見逃さなかった」となっている。これではまるで、メネンデスが自分の感情をうまく秘匿しているのに、人の表情を読むことに長けたマーロウが見破ったかのようだ。喩えとして持ってきたのが、間に合わせの指輪であることが全く読めていない。メネンデスはテリーの無実を知っていることを隠す気などない、ということを表す大事なメッセージが読めないで、どうしてチャンドラーが訳せようか。

ボディに一発喰らったメネンデスがマーロウに言う決め台詞。短いので訳を列挙する。

"You're a hard guy to get sore, Marlowe."

「お前はなかなか怒らない奴だな、マーロウ」(清水訳)
「お前、腹を立てるのにやたら手間のかかるやつだな」(村上訳)
「おまえは妙に腹の立たない男だよ、マーロウ」(田口訳)
「脳天気な野郎だ、マーロウ」(市川訳)

“get sore” は「腹が立つ」なので、マーロウは、そういう状態になり難い男だ、とメネンデスは言っている。田口訳はそれまでの訳に比べると、よく似た言い方だがニュアンスが異なる。これでは、メネンデスがマーロウのことを憎めない奴だ、と言っているように読める。もしかしてそうなんだろうか? 市川訳では、マーロウが馬鹿みたいだ。さんざん相手を挑発しておいて、やっと怒らせるのに成功した当人が吐いた台詞である。あなたならどれを選ぶだろう。

メネンデスの子分、チック・アゴティーノがボスの威を借りて、すごんで見せたのをマーロウが軽くいなす場面がある。

"The name's Chick Agostino. I guess you'll know me."
 "Like a dirty newspaper," I said. "Remind me not to step on your face."

「チック・アゴスティノってんだ。知ってるだろうがね」
「古新聞と間違えられるぞ。踏まれないように気をつけろ」(清水訳)

「俺の名前はチック・アゴティーノだ。そのうち近づきになるだろう」
「昨日の夕刊と間違えて、君の顔を踏みつけないように気をつけなくちゃな」(村上訳)

「おれはチック・アゴティーノだ。おまえにもおれのことはそのうちわかるようになるだろうよ」
「泥だらけの新聞紙みたいに」と私は言った。「今度おまえの顔を私が踏みつけそうになったら教えてくれ」(田口訳)

「私の名はチック・アゴティーノだ。いずれ可愛がってやる」
「エロ新聞みたいな奴だな.」と言ってやった。「私があんたの顔を踏みそうになったら「エロ新聞じゃねえ、俺の顔だ、踏まないでくれ」って叫ぶことだな」(市川訳)

市川訳のマーロウも物言いはいかにも品がない。ハードボイルドを誤解しているのではないだろうか。“dirty”に、その手の意味がないわけではないが、ここでは“step on your face”の意味を踏まえないといけない。“face”は「紙面」にかけているのだろう。踏むためには地面に落ちている必要がある。すでに踏みつけられて「汚れて」いるのだ。人の目に触れたとき、誰もが目を留めるほどの存在ではない(言い換えれば小者だ)とマーロウは言っている。吹けば飛ぶような、という歌詞があるが、ボスの使いっ走りをしているチックのような三下は、街角にたむろしていることが多い。そういう点を“dirty newspaper”に喩えているのだ。

メネンデスたちが部屋を出て行った後、静まり返った廊下に足音がしない。

They walked as softly as cats. Just to make sure, I opened the door again after a minute and looked out. But the hall was quite empty.

市川訳はこうだ。「まるで猫のように忍び足で歩くのか?念のため、一分ほど経ってドアを開け、廊下の様子を見渡した。がらんとして誰もいなかった。やくざにモカシン靴か。

蛇足の一文「やくざにモカシン靴か」は原文にはない。これまでの三氏の旧訳にもない。市川氏による完全な創作である。この訳ではじめてこの作品を読む日本人読者はチャンドラーがこう書いたと思うだろう。こうした逸脱は許されるべきではない。

一つおいて次のパラグラフ。

I didn't get anywhere with that, so I thought I might as well make it a perfect score.

“perfect score”は「満点」のこと。“might as well” の意味は「どうせなら〜した方がいい」。メネンデスがわざわざやってきたことに納得がいかないマーロウは、いろいろ考えても分からなかったので、どうせなら、とランディ・スターに電話することにした。ただ、それだけのことだ。ところが、“score”の意味を「楽譜」と勘違いした市川氏は「そこで、音楽で言えば楽譜に抜けがあればどんな曲かわからない。オタマジャクシを付け加えればちゃんと演奏できるかも、そう考えた」と無駄な解説を付け加えている。

ひとつ分からない点がある。シルヴィアの遺体が家族に返され、空輸されるところ、原文はこうだ。

It was flown north and buried in the family vault.

それまでの邦訳はすべて「北」としか書いていないが、市川訳はここを「サンフランシスコ」と特定している。その根拠がどこにあるのかがよくわからない。市川氏はどうしてポッター家の墓所がある地を知り得たのだろう。たしかに、ポッターの私邸はサンフランシスコにあるが、一族の墓所ともなれば、出身地の近くにあることもある。メキシコから見たら、合衆国は「北」だ。こういうときは原文通りにしておくものだ。

メネンデスが取り出した煙草のこともそうだ。原文には、ただ“brown cigarette”と書いてあるものをわざわざ「シガリロ」と特定してみせる。知識をひけらかしたいなら、どこか別のところでやればいい。他人が書いた作品を踏み台にしてすることではない。とんだ心得違いというものだ。そんなことより、ゲラをしっかり見直すことの方が先だろう。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

10

(turn+目的語+over)は「物事をあれこれ考える、熟考する)という意味

【訳文】

ポケットを探って所持品預かり証の控えを渡し、現物を確認してから原本に受領のサインをした。身の回り品をそれぞれが収まるべきポケットに戻した。受付デスクの端に覆いかぶさるように凭れている男がいた。私がデスクを離れると、背筋を伸ばし、話しかけてきた。背丈は六フィート四インチほどで針金のように痩せていた。

「家まで乗せていこうか?」

わびしい明りの下では、年齢の割に老けた若者のように見える。疲れのせいで皮肉屋っぽいが、詐欺師のようには見えなかった。「いくらだ?」

「金はいらない。《ジャーナル》のロニー・モーガンだ。勤務明けでね」

「ああ、警察に詰めているのか?」私は言った。

「今週だけだ。いつもは市庁舎に詰めている」
私たちは外に出て、駐車場にある彼の車まで歩いた。私は空を見上げた。星は出ていたが、あたりが明るすぎた。涼しくて気持ちのいい夜だった。思うさま夜気を吸い込んだ。私が乗り込むと、彼はすぐに車を出した。

「家はローレル・キャニオンの外れだ」と私は言った。「適当なところで降ろしてくれ」

「連中は乗せてきてはくれる」と彼は言った。「が、どうやって帰るかまでは気遣ってくれない。この事件に興味があるんだ。胸くそが悪くなるくらいにね」

「事件にはならないようだ」私は言った。「テリー・レノックスは拳銃自殺した。今日の午後のことだ。連中の話では、どうもそうらしい」

「実に都合がいい」フロントガラス越しに前を見つめながら、ロニー・モーガンは言った。車は静かな通りを静かに走っていた。「連中にとっちゃ大助かりだ。壁を作るのに役立つ」
「何の壁だ?」

「誰かがレノックス事件のまわりに壁を築きつつあるんだよ、マーロウ。それくらい、察しのつかないあんたでもないだろう? こんなに派手な事件なのに、やけに扱いがお粗末だ。地方検事.は今夜、ワシントンへ向かった。大会か何かだ。自分の名前を売るのに、ここ数年で最高の機会を前にしながら突然身を引いた。なぜだ? 」

「聞くだけ野暮というものだ。冷たくなってたんでね」

「誰かが見返りをくれる。それが理由だ。札束のような野暮なものじゃない。誰かが地方検事にとって重要な何かを見返りに約束したんだ。事件の関係者でそんなことができるのはただ一人、娘の父親しかいない」

私は車の隅に頭をもたせかけた。「ありそうもない話だ」私は言った。「新聞はどうなんだ? ハーラン・ポッター所有の新聞社は限られてる。競争相手だっているだろう? 」

彼はちらっと面白がるような眼でこちらを見てから、運転に集中した。「新聞社にいたことは?」

「ないね」

「新聞というのは金持ち連中によって所有され、発行されている。連中は皆、同じクラブに属している。確かに競争はある。発行部数、縄張り争い、スクープをめぐる、厳しく熾烈な競争がね。ただし、それが経営者たちの名誉、特権、立場を傷つけない限りだ。そして、もしそんなことが起きたら、蓋が落とされる。レノックスの事件は蓋をされたんだよ。レノックス事件が適切に扱われてさえいれば、新聞は飛ぶように売れただろう。 すべてが揃っているんだ。裁判には国中から特集記事用の腕利き記者が集まるはずだった。しかし、裁判は開かれない。ことが動き出す前にレノックスがくたばっちまったからだ。言ったように、非常に都合がいい。 ハーラン・ポッターとその家族のためにはね」

私は体を起こし、彼をまじまじと見た。

「すべて仕組まれていた、というのか?」

彼は皮肉っぽく口を歪ませた。「誰かがレノックスの自殺に手を貸したとも考えられる。逮捕に少し抵抗したとかいう理由でね。メキシコの警官の指は引き鉄を引きたくてむずむずしている。賭けがしたいなら、そっちに有利な率で賭けてもいい。死体に開いた穴の数なんか誰も数えちゃいないってほうにね」

「それはどうかな」と私は言った。テリー・レノックスのことはよく知っている。あの男はとうの昔に自分を見限っている。もし連中が生きたまま連れ帰ったなら、きっと連中の思い通りにさせただろう。過失による殺人の罪に服したにちがいない」

ロニー・モーガンはかぶりを振った。何を言おうとしているかはおおよそ察しがついた。彼はその通り言った。 「それはない。 もし彼がただ彼女を撃ったか、頭を叩き割っただけなら、そうかもしれない。 しかし、やり方があまりにも残忍だった。 ひどく殴られて顔はぐちゃぐちゃだった。 二級殺人で済めば御の字だが、それでさえ一悶着起きるだろう」

私は言った。「君のいう通りかも知れない」

彼はまた私を見た。「あんたはあの男を知ってたという。これはでっちあげなのか?」

「疲れたよ。今夜はもう何かを考える気分じゃない」

長い間があった。そしてロニー・モーガンが静かに言った。 「もし自分がへぼ記者なんかじゃなく、頗るつきの切れ者だったら、彼は彼女を殺ってないと思うかもしれないな」

「それも一つの考えだ」

彼は煙草を口にくわえ、ダッシュボードでマッチを擦って火をつけた。痩せた顔に眉をひそめたまま、黙って煙草を吸っていた。ローレル・キャニオンまで来ると、私はどこで大通りを外れ、私の家のある通りに入るか教えた。彼の車は丘を駆け上がり、セコイアの階段下に止まった。

私は車を降りた。「ありがとう、モーガン。一杯やっていくか?」

「またの機会に。今は一人になりたいだろう」

「一人になる時間ならいくらでもあった。もてあますくらいな」

「あんたには、別れを告げるべき友だちが一人いた」彼は言った。「誰かのために豚箱に入っていたとしたら、そいつは友だちだったにちがいない」

「誰が言った? 私がしたのはそういうことだと」

彼はかすかに微笑んだ。「記事にできなかったからといって、それを知らなかったわけじゃないよ。じゃあ、またな」

私は車のドアを閉めた。車は方向転換して丘を下っていった。テールライトが角を曲がって見えなくなると、私は階段を上り、新聞を拾い上げ、誰もいない家の中に入った。家じゅうの灯りをつけ、窓をすべて開けはなした。空気がよどんでいた。

コーヒーを淹れて飲み、コーヒー缶から五枚の百ドル札を取り出した。札はきつく巻かれ、缶の端の方に突っ込んであった。コーヒーカップを片手に行ったり来たりした。テレビをつけては消し、座っては立ち上がり、また座った。玄関前の階段に山積みされた新聞に目を通した。レノックス事件は、最初の扱いは大きかったが、その日の朝刊では後ろに移されていた。シルヴィアの写真はあったが、テリーの写真はなかった。私のスナップがあった。そんなものがあることを知らなかった。「L.A.の私立探偵、取り調べのため拘留」。エンシノにあるレノックスの家の大きな写真があった。 尖った屋根を多用した擬英国風で、窓掃除だけで百ドルはかかりそうな代物だ。二エーカーの広大な小山の上に建っている。ロス・アンジェルス地区ではかなりの不動産である。ゲストハウスの写真もあった。 本館の縮小版ともいえる建物で、生垣に囲まれていた。 どちらの写真も明らかに遠くから撮影され、その後引き伸ばしてトリミングしたものだ。新聞が「死の部屋」と呼ぶ部屋の写真はなかった。

どれも留置場内で見ていたが、もう一度新たな眼で読み、写真を見た。金持ちの美しい娘が殺され、マスコミが徹底的に排除されたということ以外、何も書かれていなかった。つまり、影響力はかなり早い段階から行使されていたのだ。犯罪担当の記者連中はさぞ無念の歯ぎしりをしたに違いない。当然のことだ。彼女が殺されたその夜、テリーがパサディナの義父と話したなら、警察に通報する前に一ダースほどの警備員が屋敷を固めていただろう。

ひとつ腑に落ちないのは、彼女の酷い殺され方だ。テリーがそんなことをするとは私には思えなかった。

私は灯りを消し、開けっ放しの窓辺に座った。外の茂みでマネシツグミが眠りに就く前にいくつかトリルをおさらいし、自分の声に聞きほれていた。首がかゆかったので、髭を剃り、シャワーを浴びてベッドに入り、仰向けになって耳をすました。あたかも    遠くの暗闇の中から声が聞こえてくるかのように。すべてを明らかにしてくれるような、おだやかで忍耐強い声が。そんな声は聞こえなかったし、聞こえるはずがないとわかっていた。誰も私にレノックスの件を説明しようとはしなかった。説明の必要はなかった。犯人は自白し、彼は死んだ。検死審問すら開かれないだろう。

《ジャーナル》のロニー・モーガンが言ったように、とても都合がいい。テリー・レノックスが妻を殺したのなら、それでいい。彼を裁判にかけて、不快な詳細をすべて明らかにする必要がなくなる。もし彼が妻を殺していなかったら、それもまたよし。誰かに罪をかぶせるなら死人に限る。決して口答えしない。

【解説】

検事局の受付デスクで収監時に取り上げられた所持品を返してもらうマーロウの様子が一筆書きのようにあっさり書かれる。

I dug out the carbon of my property slip and turned it over and receipted on the original. I put my belongings back in my pockets.

清水訳は「私は所持品のリストの写しを渡して、受領書に署名した。身の回りの品をポケットにおさめた」。原文のリズムを活かした名訳だと思うが、惜しいことに“turn it over“が抜けている。

村上訳は「所有物預かりの控えを引っぱり出してそれを渡し、間違いのないことを確認してから、受領書にサインをした。上着のポケットに私物を戻した」。“turn it over“は「間違いのないことを確認してから」と訳されている。(turn+目的語+over)は「物事をあれこれ考える、熟考する)という意味だ。マーロウが何を考えているかといえば、遺漏はないか、ということに決まっている。現物と控えを照合したことを指しているのだろう。田口訳は「所持品預かり証の控えをポケットから引っぱり出し、それを係官に渡し、受取り証にサインして、自分の持ちものをポケットに入れた」と、清水訳を踏襲している。

市川訳は「私物品預かり書のコピーをポケットから取り出し係官に渡した。私物が返されると私物品預かり書の原紙に受領サインした。返された品をポケットにしまった」となっている。原文と比べると、いかにもまだるっこしい訳だと思う。しかも、肝心の“turn it over“は抜け落ちている。いいところもないではない。それまでの訳で「受領書」とされている部分を“receipted on the original”原文通り「私物品預かり書の原紙に受領サインした」としているところだ。ただ「私物品預かり書」や「受領サイン」という訳語が日本語として一般的に使われているかどうかは別だ。

所持品をポケットにしまうところが、村上訳では「上着のポケットに私物を戻した」となっている。原文は“I put my belongings back in my pockets”と“belongings”も“pockets”も複数扱いになっている。ものによってはズボンのポケットに入れたものもあるのではないだろうか。つまらないことのようだが、私立探偵という職業上、マーロウは何をどのポケットに入れて常時携行するというようなことがルーティンになっていたと思われる。そういうディテールを大切にするのも探偵小説のようなジャンルを読む楽しみではないだろうか。

建物の外に出て見上げた、久しぶりの空には星が出ていた。“There were stars but there was too much glare.” 清水訳では「星が出ていたが、あたりが明るすぎた」。村上訳も「星が出ていたが、明かりがまぶしすぎた」となっている。ところが田口訳は「星が出ていたが、さほど輝いてはいなかった」となっている。市川訳は逆に「星が輝いていた。やけに明るく感じた」だ。どうしてこんなことが起きるのか?

引用文の前に“I looked up at the sky.”という一文がある。それに続いて引用文が来る。その前半は「there were + 複数名詞」、後半は「there was + 単数名詞」になっている。つまり、前半は空に出ている「星」についての言及であり、後半は「空」自体についての言及であることがわかる。それでいうと、清水訳が最も原文に近い。村上訳では「明かり」が「星明かり」なのか「街明かり」なのかがよくわからない。田口訳は街明かりのせいで輝きの薄れた星をこう表現したのだろう。一方、市川訳では「(星が)やけに明るく感じた」と読める。これはまずいのではないだろうか。

ロニー・モーガンからレノックス事件の経緯を聞かされるマーロウ。なぜ検事は突然身を引いたかと訊かれて、答えたのが"No use to ask me. I've been in cold storage."。清水訳は「ぼくに訊いても無駄だよ。ぼくは“冷蔵庫”に入ってたんだ」。村上訳は「尋ねられても困る。ずっと檻の中に入れられていたんだぜ」。田口訳は「きみは訊く相手をまちがえてる。私はしばらく留置場に低温貯蔵されてた身なんだから」。市川訳は「私に聞くな。ずーっと豚箱に入っていた」。

“in cold storage”は「冷蔵されて、保留されて、(米俗)死んで」という意味。ニュアンスからいうと、「保留」が最も近いだろう。当局は事件が落着するまでマーロウをブタ箱に放り込んで、何もできないようにしていたわけだ。マーロウが留置場にいたのは記者であるロニー・モーガンは先刻承知だ。あえてブタ箱と訳す必要はない。「聞くだけ野暮というものだ。冷たくなってたんでね」と俗語を活かして訳してみた。

ロニー・モーガンによるその答えは「誰かが見返りをくれる。それが理由だ」。原文は“Because somebody made it worth his while, that's why." “make something worth one's while”というフレーズを分かりやすく言い換えると「何かをするために誰かに金を払うこと」だ。清水訳は「だれかが彼にそれだけのことをしてやってるからさ」。実にすっきりした訳だ。村上訳は「手を引くのとひきかえにもっとおいしいものが与えられるからだよ。さる筋からね」。田口訳は「手を引けば地方検事には誰かからその見返りが与えられる。だからさ」。市川訳は「それは地方検事が留守だと都合がいい奴がいるんだ。それで出張した」。何冊もの新訳を読んでから清水訳を読むと、改めて清水訳の凄さがわかる。

ロニー・モーガンの話を聞いたマーロウにはまだ余裕がある。それは次のパラグラフの冒頭にある“I leaned my head back in a corner of the car.”というマーロウの態度から分かる。“lean back in a ~”は「〜の背にもたれる、〜にふんぞり返る」の意。清水訳は「私は車の隅に頭をくっつけた」。村上訳は「私は車内の角のところに頭をもたせかけた」。田口訳は「私は車の隅に頭を預けて言った」。市川訳は「私は車のピラーに頭を持たれかけた」。“a corner of the car”を「ピラー」と訳すのも気になるが、問題は「持たれかける」だ。「持たれかける」という日本語はない。ここは「もたれる(自動詞)」か「(頭を)もたせかける(他動詞)」とするべきだ。

続いてロニー・モーガンはマーロウの誤りを指摘する。新聞社は社主にまつわるスキャンダルは扱わない、と。そして、こう言う“The trial would have drawn feature writers from all over the country.”。“draw”は「ものを(ある方向に)引き寄せる」。“feature writer” は「特集記事の筆者」。つまり、裁判に引き寄せられるのは、一面トップを飾る特集記事を任される各紙の敏腕記者のことだ。清水訳は「腕ききの記者」。村上訳は「花形記者」。田口訳は「特集記事専門の記者」。市川訳は「特集記者」となっている。市川訳は必要でないことには長い説明を加えるくせに必要なところでは筆を惜しむ。「特集記者」という語は一般に使われているのだろうか。寡聞にして知らない。

ロニー・モーガンの車がローレル・キャニオンに到着する。マーロウの家があるのはその外れなので、道案内が必要になる。

“We reached Laurel Canyon and I told him where to turn off the boulevard and where to turn into my street.”(ローレル・キャニオンまで来ると、私はどこで大通りを外れ、私の家のある通りに入るか教えた)

何の変哲もない文で、清水訳は「車がローレル・キャニオンにたどりついた、私は大通りからまがるところと私の家の路地にまがるところを彼に教えた」。村上訳は「ローレル・キャニオンに着いて、うちまでの道筋を私は教えた」。田口訳は「ローレル・キャニオン大通りにはいると、私はどこで大通りを離れるか指示し、その道から私の家のある通りにはいる道まで教えた」。村上訳が珍しくあっさりとしているのに驚く。田口訳はやけに詳しい。

市川訳は「幹線道路をローレル・キャニオンまで来ると、交差点を示し、そこから坂を上がるよう伝えた」。どうしてここに「坂を上がる」という原文にない指示が入るのかは第一章にその原因がある。マーロウがその年に住んでいた家の説明がそこにあるからだ。市川訳では「その家はこじんまりしていて、丘の中腹で終わる坂道に面していた」とある。原文は“It was a small hillside house on a dead-end street”清水訳は「行き止まりの通りにある丘の中腹の小さな家」。村上訳は「袋小路になった通りの、丘の斜面に建てられた小さな家」。田口訳は丘の斜面を這う袋小路に建つ小さな家」と、どれも坂道についての言及はない。

“hillside house”は、カリフォルニアを舞台にしたアメリカ映画によく登場する、斜面にへばりつくように建てられた家のことだ。マーロウの借りている家は下の道から長い階段を上がるようになっている。丘の中腹というのだから、坂道を上るのは確かだが、「丘の中腹で終わる坂道」というのは正しくない。

ロニー・モーガンは出番は多くないが、マーロウの真意を知る数少ない人物の一人だ。その彼にしてはじめて吐ける名セリフがこれだ。

"You've got a friend to say goodbye to," he said. "He must have been that if you let them toss you into the can on his account."

“toss into the can”は「ブタ箱に放り込む」という意味の俗語。“on one’s account”は「誰かの(利益の)ために」という意味。“he said”の部分を略して引用すると、清水訳は「さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ。彼のために豚箱に入ってたとしたら、それこそほんとうの友だちだったはずだ」。村上訳は「あんたにはさよならを言うべき友だちがいた。彼のために監獄にぶち込まれてもいいと思えるほどの友だちがね」。田口訳は「あんたにはさよならを言わなきゃならない友達がいた。そいつのためなら留置場に入れられてもいいと思えるほどの友達が」と村上訳を踏襲している。

市川訳は「ずっと一人だった?違うだろ、別れを告げなきゃならん友達がいたんだろ。もし誰かのために甘んじて豚箱に入ったのならその誰かだよ、私の言う友達とは」だ。「ずっと一人だった?違うだろ」という突っ込みには少し説明がいるだろう。このロニー・モーガンのセリフの前にマーロウのいかにもハード・ボイルド調のセリフがある。“I’ve got lots of time to be alone. Too damn much.” 市川氏はここを「いままでうんざりするほど一人だった。たっぷりすぎるほどな」と訳している。この訳だと、マーロウが孤独な暮らしを倦んじているように読める。ここは留置場で過ごした時間のことを言っているのではないか。因みに村上訳では「一人になる時間ならたっぷりあったよ。いやというほど」だ。市川訳はやや感傷的過ぎるように思える。

"Who said I did that?" と訊いたマーロウに返したロニー・モーガンの別れの挨拶の訳文にも違和感がある。原文はこうだ。

"Just because I can't print it don't mean I didn't know it, chum. So long. See you around."

“churn” は「おい、君」などの呼びかけの言葉。市川訳は「紙面に出ないから即、ブンヤは知らない、なんて思ったら間違いだ、おっさん。じゃな、またな」 これでは、《ジャーナル》がそこいらのゴシップ紙に思えてくる。後に分かることだが、《ジャーナル》はへたな忖度なんかとは無縁の気骨のある新聞だ。ロニー・モーガンは駆け出し記者かもしれないが、取材相手に対して「おっさん」はないだろう。清水、村上訳は“chum”を訳していない。田口訳は「記事にできないからと言って何も知らないとはかぎらない。それじゃ、探偵さん。また会おう」だ。

家に帰ったマーロウが、たまっていた新聞を読み直す場面がある。

“ It was pseudo English with a lot of peaked roof and it would have cost a hundred bucks to wash the windows.”

ハーラン・ポッターの家について、“peaked roof”を村上、田口両訳が「尖塔」と訳しているのが気になる。「尖塔」は“spire”で、“peaked roof”は「尖った屋根のこと。尖った屋根というのは棟木を持つ屋根のことで、大きな屋敷では単調になりがちな屋根に変化をつけるためのペディメント(入り口や窓などの開口部上の切妻形を形成している三角壁)を設けることがある。“peaked roof”はそれを指しているのではないか。清水訳は「とがった屋根」、市川訳は「とんがった屋根」だ。垢抜けない訳語だが「尖塔」よりはいい。

記事を読んだマーロウがシルヴィアのことをどう書いているか。これには、マーロウのシルヴィアに関する心証が現れていると見なければならない。二度の出会いがあんな具合だから、当然いい印象は抱いていない。それが訳から伝わってくるか。

“It told me nothing except that a rich and beautiful girl had been murdered and the press had been pretty thoroughly excluded.”

“a rich and beautiful girl”を清水訳は「金持の美しい女」と訳している。これが村上訳では「若くて美しい金持ちの女性」に変わる。これを受けた田口訳も「若くてきれいな金持ちの女」だ。いったいどこから「若くて」が出てくるのか? “girl”はこの場合、ハーラン・ポッターの「娘」という意味で使われているだけのことで年齢については関係がない。市川訳は「裕福で美しい女性」と訳されている。まちがってはいないが、マーロウから見たシルヴィアは「裕福で美しい女性」なんかじゃない、と思う。

なぜ新聞は屋敷の写真を撮ることができなかったか、という点についてマーロウはこう推理する。老人が雇った大勢の警備員が屋敷を固めていたはずだ、と。

“If Terry talked to his father-in-law in Pasadena the very night she was killed, there would have been a dozen guards on the estate before the police were even notified.”

“a dozen”は文字通り「一ダース」のことだが、口語では「かなりたくさん」という意味で使われることもある。清水訳は「一ダースぐらいの」。村上訳ではこれが「何十人もの」と激増する。田口訳は「十人を超える」と妥当な線に戻る。市川訳は「一ダースほどの」だ。村上氏は〈〜+s〉の“dozens”(何十の、数十の)と読み違えたのだろうか。

短い章だが、数え上げればまだまだ多くの異同がある。たとえば“Outside in a bush a mockingbird ran through a few trills”を村上訳は「茂みの外で一羽のモノマネドリが何度かトリルのおさらいをし」としているが、「茂みの外」ではなく「家の外の茂みの中」だ。“run through”を「おさらい」と訳したのは村上訳だけなので、これは実に惜しい。

この章を精読して、あらためて思うのは初めて訳した訳者のすごさである。たしかに村上氏のいう通り、何年もたてば言葉も古びてくる。手直しが必要になる部分もあるだろう。それはそれとして、原作者が生み出した登場人物の思惑や言動を英語の文脈を活かしつつ、的確な日本語に置き換えてゆくという難行をみごとにやり遂げた清水訳へのリスペクトを失ってはならないと思う。特に最新訳である市川訳は、今の時代の読者に合わせようとするあまり、当世風の言葉に頼り過ぎているきらいがある。これでは、しばらくしたらまた新しい訳が必要になるのではないか。翻訳というのはもっと長いスパンで考えるべき仕事だと思う。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

 

“up (down) one’s street”は「お手のもの」

【訳文】

早番の夜勤の看守は肩幅の広い金髪の大男で人懐っこい笑みを浮かべていた。中年で、もはや哀れみや怒りからは縁遠くなっていた。何事もなく八時間をやり過ごすことが望みで、たいていのことは卒なくこなしているように見えた。彼が私の房の鍵を開けた。

「お客だ。地方検事局から男が来てる。寝てなかったのか?」

「寝るにはまだ早い。今、何時だ?」

「十時十四分」彼は戸口に立ち、房内を見渡した。下の段には毛布が一枚敷かれ、一枚は枕代わりに折りたたまれていた。ゴミ箱には使用済みのペーパータオルが数枚、洗面台の縁には小さくまるめて水栓代わりにしたトイレットペーパーの塊があった。彼は納得してうなずいた。「何か私物は?」

「身ひとつだ」

彼は監房の扉を開けたままにした。私たちは静まり返った廊下を歩いてエレヴェーターに向かい、受付デスクへと降りた。グレーのスーツを着た太った男がデスクの傍でコーンパイプをふかしていた。指の爪は汚れ、体臭がきつかった。

「地方検事局のスプランクリンだ」彼はどすをきかせて言った。「ミスタ・グレンツが上で待ってる」彼は尻に手を伸ばして手錠を取り出した。「サイズが合うか試そうぜ」

看守と受付係は、楽しくてたまらないという顔でにやにやした。「どうした、スプランク? エレヴェーターで襲われるのが怖いのか?」

「面倒を避けたいだけだ」と彼はうなるように言った。「一度逃げられたことがあってな、その時はこってりしぼられた。行こうぜ、若いの」

受付係が用紙を押しつけると、彼は仰々しい身振りでサインした。「用心するに越したことはない。この街じゃ、何が起こるかわからないからな」

トロールカーの警官が血まみれの耳をした酔っ払いを引っ張ってきた。我々はエレヴェーターに向かった。「厄介なことに巻き込まれたな、あんた」スプランクリンがエレヴェーターの中で言った。「厄介事が山積みだ」人が窮地に陥ることが彼には嬉しくてたまらないようだ。「この街じゃ、厄介事にだけは事欠かないからな」

エレヴェーター係が振り返って私にウィンクした。私はにやりとした。

「妙なまねをするなよ、若いの」スプランクリンが深刻ぶって言った。「前に人を撃ったことがある。逃げようとしたんだ。死ぬほどしぼりあげられた」

「どっちにころんでもしぼられるってわけか?」

彼はしばらく考え込んだ。「ああ」と彼は言った。「どっちにしろ、油をしぼられることになる。生きづらい街だよ。人を人とも思わないんだ」

我々はエレヴェーターを降り、両開き扉から検事局の中に入った。交換台には人気がなく、電話は夜間用回線につながれていた。待合室にも誰もいなかった。 二つのオフィスに明かりがついていた。 スプランクリンは小さい方の部屋のドアを開けた。そこには机、ファイリング・キャビネット、固そうな椅子が一、二脚、そして、硬そうな顎と愚かな眼をしたずんぐりした男がいた。 顔を真っ赤にして机の抽斗に何かを押し込んでいる最中だった。

「ノックくらいしないか」彼はスプランクリンに怒鳴った。

「すみません、ミスタ・グレンツ」スプランクリンはもぐもぐ言った。「囚人に気を取られてたもんで」

彼は私をオフィスの中に押し込んだ。「手錠を外しますか? ミスタ・グレンツ」

「何でまた手錠なんかかけたんだ?」グレンツはぶすっと言った。彼はスプランクリンが私の手首から手錠を外すのを見ていた。鍵束はグレープフルーツほどの大きさだったので、私の手錠の鍵を見つけるのに苦労していた。

「よし、出ていけ」グレンツは言った。「外で待ってて、こいつを連れ帰れ」

「もう非番なんですが、ミスタ・グレンツ」

「おまえの非番は、私が非番だといったときからだ」

プランクリンは顔を赤らめ、太った尻を部屋の外に出し、そろそろと後じさりして出て行った。グレンツは容赦なく彼を目で追い、ドアが閉まると同時に同じ表情でこちらを見た。私は椅子を引いて座った。

「座っていいとは言っておらん」グレンツは怒鳴った。

ポケットからばらで持っていた煙草を取り出し口に咥えた。「煙草を吸っていいとも言っておらん」とグレンツはわめいた。

「監房では許されていた。なぜここは駄目なんだ?」

「なぜならここはおれのオフィスだからだ。ここのルールは俺が決める」生のウィスキーの匂いが机越しに漂ってきた。

「もう一杯やるといい」と私は言った。「それで落ち着くんじゃないか。とんだお邪魔をしたようだ」

彼の背中が椅子の背に強くぶつかった。顔色が赤黒くなった。私はマッチを擦って煙草に火をつけた。

しばらくしてグレンツはおだやかに言った。「いいだろう、タフガイ。一筋縄ではいかないやつってわけか? だが、覚えとくんだな。ここにやってくるやつはサイズも形も色々だが、出て行くときには同じサイズだ。小さくなってる。形も一緒だ。背を丸めている」

「用は何だ、ミスタ・グレンツ? それと一杯ひっかけたかったら遠慮はいらない。疲れたり、いらいらしたり、仕事がきつくなると、私も一杯やるクチだ」

「どうやら自分が窮地に陥ってることに気づいていないようだな」

「窮地に陥ってるとは思ってない」

「今に分かるさ。その間におれとしては遺漏のない供述がほしい」彼は机の端の録音機を指ではじいた。「今録音して、明日口述筆記させる。もし首席検事補がよしと言ったら、街を出ないという約束で、ここから出してやる。さあ、始めよう」彼は録音機のスイッチを押した。その声は冷たく、断定的で、どうやれば底意地が悪く聞こえるか知っている者の声だった。しかし、右手は机の引き出しのほうにじりじりと進んでいた。鼻に静脈が広がるには若すぎる歳だが、すでにその兆候があり、白眼の色も悪かった。

「うんざりしてるんだ」と私は言った。

「何にうんざりだって?」と彼は訊き返した。

「熱心な小者連中が、殺風景な小部屋で、小耳にはさんだそらごとをしゃべり散らすことにさ。重罪犯監房で五十六時間を過ごした。その間、誰も私を小突きまわさず、自分のタフさを証明しようともしなかった。その必要がなかったからだ。やろうと思えばいつでもできるからな。だいたい、どうして私はここに放り込まれたんだ? 嫌疑があるから引っ張られたんだろう。警官の質問に答えなかったからって、人を重罪犯監房に押し込めるような法律がどこにある? 何の証拠があるというんだ? メモ用箋に残された電話番号だけだ。私を拘留して何を証明しようとしたんだ? そうする力を持っているということ以外、何もない。今は今であんたが同じ調子で、自分がどれだけ力を持ってるかを思い知らせようとしているわけだ。あんたが自分のオフィスと呼ぶ、この葉巻入れの中でね。私をここに連れてくるために、夜遅くに気の弱い子守りを送り込んできた。五十六時間、一人で考え事をさせておいたら、固い頭が粥みたいに軟らかくなるとでも? 大きな留置場の中でひどく寂しくなって、あんたの膝の上で頭を撫でてほしがるとでも思ったのか? よせよ、グレンツ。一杯やって人間らしくなれよ。あんたはあんたの仕事をしてるだけだ。そんなことはわかってる。だが、始める前にこけおどしはよせ。あんたの器量が大きいなら脅しは必要ないし、脅しが必要というのなら、あんたは私を小突き回せるほどの器量を持ち合わせちゃいない」

彼はそこに座って耳を傾け、私の顔を見た。そして不機嫌そうににやりと笑った。「いいスピーチだった」と彼は言った。「さて、たわごとを吐き出してもらったところで、陳述をしてもらおうか。一問一答で行くか、それともおまえが好きなように話すか?」

「小鳥に話してただけだ」私は言った。「そよ風が吹くのを聞いてたのさ。私はどんな陳述もするつもりはない。あんたは法律屋だ。私にそんな義務がないことを知ってるはずだ」

「その通り」彼は冷やかに言った。「法律は知っている。警察の仕事ぶりも。おまえに身の潔白を明かす機会を与えてやろうというのさ。その気がないなら、それはそれでいい。明朝十時に予備審問を開いて罪状認否を問うこともできる。保釈が認められるかもしれないが、簡単に通す気はない。覚悟しておくことだな。おまけに金もかかる。まあ、それも一つの方法ではある」

彼は机の上の一枚の紙に目をやり、読んで裏返した。

「容疑は何だ?」私は訊いた。

「三十二条、事後従犯。重罪だ。クエンティンで五年は食らうだろう」

「レノックスの逮捕が先だろう」私は探りを入れるように言った。グレンツは何かを握っている。その態度から感じる。どれくらいかはわからないが、たしかに何かを知っている。

彼は椅子にもたれかかり、ペンを手に取り、両の掌の間にはさんでゆっくり転がした。 それからにやりと笑った。 楽しんでいるのだ。

「レノックスは身を隠すのには不向きな男だよ、マーロウ。大抵の場合写真が必要になる。それも鮮明な写真が。顔の片側のほとんどが傷に覆われている男の場合は別だ。三十五歳をこえていないのに白髪ということもある。目撃者が四人もいる。まだ増えるかも知れない」

「何の目撃者だ?」口の中にグレゴリアス警部に殴られたときのような胆汁の苦さを感じた。それが首の痛みを思い出させた。私はそっとさすった。

「とぼけるなよ、マーロウ。サン・ディエゴ高裁の判事夫妻がたまたま飛行機に乗る息子夫婦を見送りに来ていたんだ。四人全員がレノックスを見ているし、判事の妻は彼が乗って来た車と誰が一緒だったかも見ている。万事休すだ」

「そいつはすごい」私は言った。「どうやって見つけたんだ?」

「ラジオとテレビでニュース速報を流したのさ。レノックスの特徴を説明するだけでよかった。判事が電話してきた」

「いいね」と私は公平を期して言った。「だが、もう少し必要だ、グレンツ。彼を捕まえて、彼が殺人を犯したことを証明しなければならない。そして、私がそれを知っていたことを証明しなければならない」

彼は電報の裏を指ではじいた。「一杯やらせてもらうよ」と彼は言った。「夜勤のし過ぎだ」彼は抽斗を開け、ボトルとショット・グラスを机の上に置いた。グラスの縁までなみなみと注ぐと一息に呷った。「これでよくなった」と彼は言った。「さっきよりずっとよくなった。悪いがあんたにはお勧めできない。拘留中の身だからな」彼はボトルに栓をして遠くに押しやったが、手が届かないほどではない。「そうそう、あんた言ってたな、おれたちが何かを証明しなきゃならんと。そのことだが、もしかしたらすでに自白してるかもしれんぞ。がっかりしたか?」

細く、ひどく冷たい指先が背筋を上から下までつたっていった。凍えた虫が這うみたいに。

「それなら、どうして私の供述を欲しがる?」

彼はにやりと笑った。「びしっとした記録が好きなんだよ。いずれレノックスは連れ戻されて裁判にかけられる。手に入れられるものならすべてほしい。あんたから得たいものはそんなに多くない。あんたはほとんど口をつぐんでいてもやり過ごせる――協力しだいでな」

私は彼を見つめた。手は電報を弄っていた。椅子の上で尻をもぞもぞさせ、ボトルに目をやったが、そちらに手を伸ばさないように意志の力を総動員する必要があった。

「あんたは多分、どういう筋書きになっていたのか、すべて知っておきたいんだろう?」いわくありげな目つきをして突然言った。「いいだろう、自惚れ屋。こちらの手の内をさらしてやろう。かついでいるんじゃないってことを分らせてやるよ。こういうことさ」

私が机の上に身を乗り出すと、ボトルに手を伸ばしたとでも思ったのか、彼はボトルをひったくって抽斗に戻した。私はただ煙草の吸い殻を灰皿に落としたいだけだったのだが。私がまた椅子の背に凭れ、もう一本の煙草に火をつけると、彼は早口にしゃべりだした。

「レノックスはマサトランで飛行機を降りた。飛行機の乗り継ぎに使われる人口三万五千人ほどの町だ。彼はそこで二、三時間ほど姿を消した。やがて、長身で黒髪、浅黒い肌をし、顔に無数のナイフの傷痕のある男が、シルヴァノ・ロドリゲスという名でトレオン行きの便を予約した。流暢なスペイン語ではあったが、その名に見合うほど上手くはなかった。それに、そんな浅黒い肌のメキシコ人にしては背が高すぎた。パイロットは空港に彼のことを報告した。トレオンでの警官の対応は後手を踏んだ。メキシコの警官は概して意気軒高とは言えない。彼らの得意技は銃を撃つことだ。警官が署を出た頃、男は飛行機をチャーターして小さな山間の町に向かっていた。湖のあるひなびた避暑地、オタトクランだ。チャーター機パイロットは、テキサスで戦闘機のパイロットとして訓練を受けていた。彼は英語が堪能だった。レノックスは彼が言ったことを聞き取れないふりをした。

「もしそれがレノックスだったとしたらだ」私は口をはさんだ。

「なあ、ちょっと待てよ。それはまちがいなくレノックスだった。さて、彼はオタクトランで降り、今度はマリオ・デ・セルヴァという名でホテルにチェックインする。彼はモーゼルの七・六五口径の銃を身に着けていたが、銃を持つことなどメキシコでは珍しくもない。しかし、チャーター機パイロットはどこかうさん臭さを覚え、地元の警察に連絡した。彼らはレノックスを監視下に置いた。メキシコ・シティーに確認し、それから踏み込んだ。

グレンツは定規を手に取り、それに視線を沿わせたが、それは私を見ないようにする意味のないジェスチャーだった。

私は言った。「なるほど、何とも気が利くパイロットだ。客に対する心配りも申し分ない。いかにも胡散臭い話だ」

彼は急に私を見上げた。「我々は」と彼は素っ気なく言った。「裁判を早く終わらせたい。第二級殺人を認めるならそれでいい。あまり踏み込みたくない領域もある。結局のところ、あの一族はかなりの影響力を持っているからな」 

「ハーラン・ポッターのことか?」

彼はかるく頷いた。「おれに言わせりゃ、すべてが見立て違いなのさ。スプリンガーはこの一件で大成功を収めることもできたはずだ。セックス、スキャンダル、金、美しくもふしだらな妻、その夫は戦争で負傷した英雄ときた ―― あの傷は戦地で負ったとおれは見ている ―― 何週間も新聞の一面トップを飾るだろう。国じゅうの新聞がこぞって取り上げるだろう。だから我々としちゃ、さっさと片づけてしまいたい。彼は肩をすくめた。「いいさ、地方検事がその気なら、好きにすりゃいい。陳述の方はどうなってる?」彼は録音機を振り返った。それはライトを点灯させながら、ずっと小さな鼻歌を歌っていた。

「切ってくれ」と私は言った。

彼は振り向きざまに、私に悪意のある眼差しを向けた。「刑務所が好きなのか?」

「それも悪くない。相手が悪かったな、けど好き好んで検察側の証人になりたいやつがいるか? 道理をわきまえろよ、グレンツ。あんたは私をタレコミ屋にしようとしているんだ。私は頑固かもしれないし、感傷的かもしれない、だが現実的でもある。もしあんたが私立探偵を雇わなければならないとしたら......ああ、そんなことを考えるだけで虫唾が走るのはわかっているが、それが唯一の解決法だったとしたら、友だちを売るようなやつを選ぶか?」

彼は憎らしそうに私を見つめた。

「ほかにもある。あんたは、レノックスの逃げ方が少々見えすいていやしないか、と思わなかったのか? もし彼が捕まりたかったら、そんなに苦労する必要はなかった。 もし捕まりたくなかったら、メキシコでメキシコ人になりすますなんてことはしない。彼はそんな馬鹿じゃない」

「何が言いたいんだ?」グレンツはもう唸り声になっていた。

「つまり、あんたはただ大量の戯言をでっちあげ、私に詰め込んでいるだけかもしれない。オタトクランには髪を染めたロドリゲスもマリオ・デ・セルヴァもいなかった。レノックスがどこにいるのか、あんたは海賊黒ひげの宝の在り処と同じくらい知らないということさ」

彼はまたボトルを取り出してグラスに一杯注ぎ、前と同じように一気に飲み干した。 次第に緊張がほどけてきた。彼は椅子の上で体の向きを変え、録音機のスイッチを切った。

「おまえを裁判にかけてやりたいよ」と彼は苛立たし気に言った。 「小賢しい野郎だ。おまえみたいなやつは徹底的にしぼりあげてやりたくなる。 今回の容疑はこれからもずっとおまえにかけられたままだ。歩いてるときも、食べてるときも、寝ているときもいっしょだ。それで、この次おまえがちょっとでもおかしな真似をしてみろ、死ぬほどしぼりあげてやる。さてこれから、はらわたがねじくれるようなことをしなきゃならん」

彼は机の上に手を伸ばし、伏せてあった紙を手もとに引き寄せ、表に向けてサインした。ひとが自分の名前を書いているときは、いつもわかるものだ。特別な動き方をするからだ。そして、彼は立ち上がり、机を回り込み、彼の靴箱サイズのオフィスの扉を開けて大声でスプランクリンを呼んだ。

太った男が例の臭いとともに入ってきた。グレンツは男に書類を渡した。

「おまえの釈放命令書にサインした」彼は言った。「これでも公僕でね、ときには意に添わぬ命令にも服さにゃならん。なぜおれがサインしたか知りたいか?」

私は立ち上がった。「話したいなら」

「レノックスの事件はもう終わったからだよ、ミスタ。レノックス事件なるものはもうどこにも存在しない。彼は今日の午後ホテルの部屋にすべてを告白した文書を残して拳銃自殺した。さっき言ったオタクトランでな」

私はそこに呆然と立ち尽くしていた。眼には何も見えていなかった。視界の端にグレンツがゆっくりと後ずさりするのが見えた。まるで私が殴りかかろうとしているとでも思ったかのように。その時、私はよほど険悪な顔をしていたにちがいない。やがて、彼はまた机の後ろにおさまり、スプランクリンが私の腕をつかんだ。

「さあ、行くんだ」とスプランクリンは哀れっぽい声で言った。「人ってのは、たまには夜、家に帰りたくなるものだ」

私は彼といっしょに外に出てドアをそっと閉めた。今誰かがそこで死んだばかりの部屋を後にするかのように。

【解説】

二〇二三年五月に市川亮平氏による新訳『ザ・ロング・グッドバイ』(小鳥遊書房)が刊行されたので、これで邦訳は四冊となった。そこで、タイトルを「五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む」と変更することにした。折を見てこれまでの分も見直していきたい。

“He wanted to put in eight easy hours and he looked as if almost anything would be easy down his street..”(何事もなく八時間をやり過ごすことが望みで、たいていのことは卒なくこなしているように見えた)

文末の “down his street” だが、村上訳、田口訳では「(自分の)受け持ち区域」と訳されている。清水訳は「無事に八時間がすぎることだけが望みで、そのほかには何も屈託がないようだった」と敢えて触れていない。最新の市川訳は「八時間、大過なく勤めるのが望みで、人生は全て平穏無事であると思っているように見える」となっている。“up (down) one’s street”は「好みに合って、お手のもの」という意味の口語表現。この男がものごとに波風を立てないようにして生きることを信条にしていることを言っているだけのことで、「受け持ち区域」は関係がない。

“There were a couple of used paper towels in the trash bucket and a small wad of toilet paper on the edge of the washbasin.”(ゴミ箱には使用済みのペーパータオルが数枚、洗面台の縁には小さくまるめて水栓代わりにしたトイレットペーパーの塊があった)。この“small wad”だが、清水訳で「トイレットペイパーを巻いたの」と訳されていたのを、村上訳では「トイレット・ペーパーを水栓代わりに小さく丸めたもの」と補われ、田口訳もトイレットペーパーを丸めて栓がわりにしたもの」と踏襲されていた。ところが、市川訳では「小さなトイレット・ペーパーのロール」と先祖返りしている。

“wad”は辞書では、「(柔らかいものを丸めた)詰め物、当て物、パッキング (荷造り・穴ふさぎなどに用いる)」(名詞)。動詞の場合でも「〈穴などを〉(詰め物などで)ふさぐ」という意味だと書かれている。留置場内では、洗面台のゴム栓をつないでいるチェーンも、何らかの道具に使われることを懸念して外されているのだろう。この”wad”をわざわざ「ロール」に変える意味がわからない。

地方検事局のグレンツはケチな権力をひけらかす小心者だ。対抗姿勢をあらわにしたマーロウは、相手の言葉に構わず椅子に座り、煙草を取り出す。

“I got a loose cigarette out of my pocket and stuck it in my mouth.”(ポケットからばらで持っていた煙草を取り出し口に咥えた)。この“loose cigarette”だが、清水訳では「よれよれ(傍点四字)のタバコ」。村上訳は「ばら(傍点二字)で持っている煙草」。田口訳では「剥き出しで持っていた煙草」になっていた。市川訳では「巻きの緩んだタバコ」になっている。“loose”には「ゆるい」の意味もあるが「ばらの、包装されていない」の意味もある。収監時に所持品検査でパッケージごと取り上げられたものの、何本かはお目こぼしに預かったのでは、と推察される。ポケットから取り出すときに「巻きの緩んだ」と認識するのはいくらマーロウでも難しかろう。

マーロウの胆の据わっているのを見て、グレンツはお気に入りの決め科白を吐く。“They're all sizes and shapes when they come in here, but they all go out the same size--small. And the same shape--bent."(ここにやってくるやつはサイズも形も色々だが、出て行くときには同じサイズだ。小さくなってる。形も一緒だ。背を丸めている)。グレンツは“They're all sizes and shapes when they come in here”とだけ言っており、具体的な格好やサイズには触れていない。これまでの訳は「サイズも恰好もいろんな(清水)」、「格好も違えば、サイズも違っている(村上)」、「サイズも形も様々だ(田口)」。

ところが、市川訳ではこうなっている。「ここには色んな奴が来る、でかいの細いの、威勢のいいの、しぶといの。だがな、出てくときにはみんなおんなじ大きさになる――ちっこくな。そしてみんなおんなじ格好だ――うなだれてな」。下線を施した部分は原文にはない。訳者の創作である。市川訳は一見こなれた訳に見えるが、随所に訳者の補説が入る。これまでの訳者は、それなりに原作に忠実に訳そうとしてきた。かなり噛みくだいた訳に見える村上訳でも、そこは変わらない。原文にないものを翻訳者がつけ加えることをどこまで許容するのかは議論が分かれるところだが、分かりづらい部分を解きほぐすのと、勝手に文章をつけ加えるのはわけがちがう。ここに、市川氏が挿入した文が必要かどうか。私見ではさして必要とも思えない。訳者としての分をわきまえるべきではないだろうか。

"Hard little men in hard little offices talking hard little words that don't mean a goddam thing.”(熱心な小者連中が、殺風景な小部屋で、小耳にはさんだそらごとをしゃべり散らすことにさ)は、チャンドラーお得意の同じ言葉を使って異なる意味を表現するレトリックだ。“hard”も“little”も、よく使われる形容詞なので、三度繰り返されるここをどう訳すかは訳者の腕が問われるところだ。

清水訳は「殺風景な部屋でくだらない人間がくだらないことをしゃべることさ」と例によってあっさり意訳してすませている。これもありかも知れない。

村上訳は「きりきりしたちっぽけなオフィスに、きりきりしたちっぽけな男がいて、きりきりしたちっぽけな言葉で、中身のない話をすることにだよ」

田口訳は「めんどうくさいけちなオフィスで、めんどうくさいけちな男たちに、めんどうくさいけちなたわごとを聞かされることにだ」

市川訳は「不愉快な小物共に不愉快な小部屋で空っぽで不愉快な話をだらだらと聞かされることにだ」

清水氏以外の訳者は“hard little”を、それぞれ「きりきりしたちっぽけな」、「めんどうくさいけちな」、「不愉快な小~」と、あくまで一続きの二語を三度使うことに固執しているが、翻訳の文章は言葉そのものよりも文意を大事にするべきだ。“little”は後に来る名詞の大きさを表しているので、あまり無理のない訳になっているが、“hard”は、後に続く名詞によって訳し方を変える必要がある。村上訳の「きりきりした(ちっぽけな)オフィス」も田口訳の「めんどうくさい(けちな)オフィス」も、じつのところどんなオフィスなのかよくわからない。解釈を読者に委ねている、というより訳者としての仕事の放棄ではないか。市川訳の「不愉快な」は、訳語を練ること自体を放棄しているとしか思えない。

グレンツの話のなかに、レノックスらしき人物が英語がわからないふりをした、というくだりが出てくる。マーロウがすかさず口をはさむ。"If it _was_ Lennox,"と。これだけのところが市川訳だとこうなる。「もしその男がレノックスなら「ふり」というのは正しい」。「『ふり』というのは正しい」とありもしないマーロウの科白をつけ加える必要があるだろうか? こういうのを蛇足という。

もうひとつ、市川訳は、これまでの訳で踏襲されてきた地名、人名などの固有名詞をいくつも改変している。たとえば、レノックスが飛行機を降りた町の名は、これまで「オタトクラン」(Otatoclán)だったが、市川訳では「オクトクラン」になっている(一度きりではないので、単なる誤植ではない)。また「シルヴァノ・ロドリゲス(Silvano Rodriguez)」(村上、田口訳ではシルバノ・ロドリゲス)が、「シルビオ・ロドリゲス」になっている。市川氏が参考にしたと書いているブラック・リザード版で確認したが、原文は上記の綴りになっている。改変のわけが知りたいところだ。

まだある。拳銃のことだ。「訳者あとがき」で市川氏は村上訳と田口訳を参考にしたと記している。実はレノックスがメキシコに逃亡する際に持っていた拳銃は原文では“Mauser 7.65”と書かれている。しかし、後にハーラン・ポッターがこの銃のことを「PPK」と呼んでいることから、これはモーゼルではなくワルサーだったことが明らかだ。村上訳までは原文通り「モーゼル」となっていたのを、原著者の誤りだとし、「ワルサー」に書き換えたのが田口訳だった。ところが、市川氏はそれを元に戻し、あろうことか、原文にあった「PPK」という表記のほうを削除してしまった。村上訳には「PPK」という記述が残っている。これは、原作者の誤りは誤りとしてそのままにしたということだろう。銃器に詳しい読者なら、これは「ワルサー」のことだとわかる。しかし、「PPK」を削除してしまったら、それさえ分からなくなる。訳者として不誠実な態度ではないか。

録音機を切ってくれ、というマーロウに、グレンツは"You like it in jail?"(刑務所が好きなのか?)と訊き返す。それに対するマーロウの答えが"It's not too bad. You don't meet the best people, but who the hell wants to?” 清水訳は「それほど居心地はわるくないからね。たしかにりっぱな人間には会えないが、りっぱな人間なんかに会いたいとは思わない」。村上訳は「とくに悪くはない。立派な人間に会える機会はまずないが、今更立派な人間に会ってどうなるっていうんだ?」。田口訳は「ああ、悪くはない。この上ない善人には会えないが。しかし、誰がそんなやつらに会いたがる?」と、ほぼ同じ訳だ。

市川訳ではこうだ。「それもいいかもな。私は言いなりになる証人なんかじゃない。誰がおいそれと検察の言いなり証人になんかなるもんか」。“best people”を「立派な人間」と捉えるか、「(誰かにとって)最適な人間」と捉えるかのちがいだ。“not too bad”は「捨てたもんじゃない」という意味の常套句。話はそこで終わり、そこから話題はグレンツがほしがっているマーロウの陳述についてに移っている、というのが市川氏の解釈だ。コンテクストというものがある。「文脈」でもいい。ここで、留置場での人との出会いに話を持っていく必要はない。それより、検察側の証人としての自分の不適格性について語るほうが文脈上よほど自然だ。

腹の虫の収まらないグレンツの最後の恨み節。“This rap will be hanging over you for a long long time, cutie.”(今回の容疑はこれからもずっとおまえにかけられたままだ)。清水訳では「この事件はいつまでもお前にくっついてまわるぞ」。村上訳は「この容疑はこれから長い間、あんたの頭の上に剣のようにぶらさがることになる」。田口訳は「今回の容疑はこれからもずっとおまえの首にかけられたままになる」だ。市川訳では「ここでの会話はお前にいつまでも付きまとう」と新しく「会話」の語をあてているが、“rap "は「おしゃべり」の意味もあるが「犯罪容疑」等を指す俗語でもある。容疑者死亡で幕引きとなってはいるものの、マーロの事後従犯容疑は限りなく黒に近い。ここは「容疑」でいいのでは。蛇足ながら、“hang over”は「(事態・状態・問題などが)以前からそのまま残っている、未決のままである、持ち越される」の意味。「剣」だの「縄」だのという物騒な言葉を持ち出す必要はないように思う。

マーロウを迎えに来たスプランクリンの科白。"Man likes to get to home nights once in a while."(人ってのは、たまには夜、家に帰りたくなるものだ)。“likes”と三人称単数現在の“s”がついていることからわかるように、この”Man”は、人間一般のことである。清水訳は「おれもたまには家で夜をすごしたいからな」と「人間一般」をスプランクリン自身に引き寄せている。村上訳も「たまには人間らしく家に帰って眠りたいんだ」と同様。田口訳は「人間はたまには夜、家に帰りたくなるもんだ」と人間一般という解釈。市川訳は「たまには家に帰らなくっちゃ」と、主語をはっきりさせない。一晩中明かりが灯る部屋を出るにあたり、スプランクリンは「(仕事中毒のグレンツとちがって、おれたち普通の)人間は」と言いたかったのだろう。

第九章だけを見ても、最新の市川訳がかなり大胆な改訳を試みていることがわかる。いかにもプロといった田口訳が出たことで、これが今後の定本かと思ったものだったが、面白い展開になってきた。新訳に対する評価はともかく、もう一度あらためて原文を読み直す機会を与えてくれたことには礼を言いたいと思う。

四冊の『長い別れ』を読む

“get a lot of business”は「もうかる」という意味

【訳文】

重罪犯監房棟の三号監房には寝台が二つ、寝台車(プルマン)スタイルでついていたが、混みあっていないようで房を独り占めできた。重罪犯監房の待遇は上々だ。特に不潔でも清潔でもない毛布が二枚と格子状に交差した金属板の上に敷かれた厚さ二インチほどのごつごつしたマットレス。水洗式便器、洗面台、ペーパータオル、ざらざらした灰色の石鹸もある。監房は清潔で消毒臭もしない。模範囚の仕事だ。模範囚の成りてはいくらでもいる。

新入りをチェックする看守たちの眼は確かだ。酔っ払いや異常者、あるいはその手の振る舞いをしない限り、マッチと煙草は持っていていい。予審までは私服だが、その後はお仕着せのデニムを着せられ、ネクタイもベルトも靴ひももなしだ。寝台に座って待つ。それ以外にすることはない。

トラ箱のほうはこれほどよくない。寝台もなく椅子もなし、毛布も何もない。コンクリートの床で寝る。便器に腰掛け、自分の膝で吐く。みじめ極まりない。前に見たことがある。

昼間だというのに、天井には明かりがついていた。監房の鉄扉には覗き穴があり、籠状に編んだ鉄格子で蓋われている。明かりは鉄扉の外側で点滅される。それは午後九時に消えた。誰かがやってきて、声をかけたりもしない。新聞や雑誌を読んでいて、文章の途中で消えることもある。警告もスイッチの音もなく、いきなり闇が訪れる。その後は夏の夜明けが迫るまで、眠るより他にすることはない。眠れればの話だ。煙草を持っていたら吸うのもいい。考えごとをするのもいい。何も考えないより、まだましだと思うようなことがあればだが。

留置場のなかでは、人は人格を持たない。些細な処理問題であり、報告書に記載されているいくつかの項目でしかない。誰に愛されていようが憎まれていようが、どんな顔をしていて、どんな人生を送ってきたかなどということは、誰も気にしない。面倒を起こさない限り、放っておかれる。虐待もされない。求められているのは、おとなしく定められた監房に行き、そこに着いたら静かにしていることだけだ。争う相手もいなければ、腹を立てることもない。看守たちは穏やかで、敵意や嗜虐趣味とは無縁な人たちだ。よく本に書いてある、男たちが怒鳴ったり叫んだり、鉄格子を叩いたり、格子に沿ってスプーンを滑らせたり、看守が警棒を持って駆けつけたりするのは、すべて大きな刑務所の話だ。ちゃんとした留置場は世界中で最も静かな場所のひとつだ。夜中に平均的な監房棟を歩いていて、鉄格子の隙間から見ることができるのは、茶色い毛布のかたまりや、頭と髪の毛、何も見ていない一対の目くらいのものだ。いびきが聞こえるかもしれない。ごくまれに悪夢にうなされるうめき声を耳にするかもしれない。留置場のなかの人生は宙ぶらりんで、目的と意味を欠いている。他の房では、眠れない者や、眠ろうとさえしない者を目にするかもしれない。そういうのは寝台の端に、何もしないで腰掛けている。こっちが見れば、向こうも見返してくるかもしれない。しかし、向こうも何も言わないし、こっちも何も言わない。話すことがないのだ。

監房棟の隅にもうひとつ鉄扉がある場合がある。それは面通し用の小部屋に通じている。一方の壁には黒く塗られた金網が張られている。背後の壁には身長を示す線が引いてある。頭上には投光照明がついている。通例、朝が来て夜勤の主任が非番になる直前、そこに入れられる。身長をはかる線を背にして立ち、まばゆい光を浴びる。金網の向こうに明かりはないが、そこには多くの人々がいる。警官、刑事、強盗や暴行を受けたり、詐欺にあったり、銃で脅されて車を奪われたり、老後の貯えを騙し取られたりした人々だ。こちらからは何も見えず、聞こえもしない。聞こえるのは夜勤の主任の大きくはっきりとした声だ。まるで芸をするために仕込まれた犬の能力を試すように人を扱う。疲れていて冷笑的で有能だ。史上最長のロングラン公演の舞台監督なのだが、本人はとうに仕事に興味を失くしている。

「よし、おまえ。まっすぐ立て。腹を引っ込めろ。顎を引け。背筋を伸ばせ。頭を起こせ。まっすぐ前を見ろ。左を向け。右を向け。もう一度前を見て両手を広げろ。手のひらを上に。手のひらを下に。袖をまくれ。傷跡はなし。髪はダークブラウン、一部に白髪あり。眼は茶色。身長は六フィート二分の一インチ。体重およそ百九十ポンド。名前はフィリップ・マーロウ。職業は私立探偵。これはこれは、はじめまして、マーロウ。行ってよし。次」

どうもありがとう、主任。時間を割いてくれたことに感謝する。が、あんたは私の口を開かせるのを忘れた。私の歯の詰め物はどれも上等で、そのうちの一本にはセラミックの歯冠をかぶせてある。八十七ドルもするポーセレンの歯冠だ。鼻の中をのぞくのも忘れたな、主任。たいそうな量の瘢痕組織があんたを待ってたんだが。鼻中隔手術を受けたんだが医者がへぼだった。当時は二時間かかった。今では二十分で済むそうだ。フットボールの試合でやったんだ、主任。パントをブロックしようとしてちょっとタイミングを誤った。ブロックしたのはキッカーの脚でね、ボールを蹴ったすぐ後だ。十五ヤードのペナルティで、手術の翌日、鼻から 一インチずつ引き抜かれた血まみれのごわごわした包帯がちょうど同じくらいだった。自慢してるわけじゃない、主任。本当なんだって。そういう細々したことが大事なんだ。

三日目の午前中に看守がやってきて、私は監房から出された。

「おまえの弁護士が来ている。煙草を消せ――床で踏み消すんじゃないぞ」

私は吸い殻を便器に流した。面会室に連れて行かれた。長身で色白、黒髪の男が立って窓の外を見ていた。テーブルの上に膨らんだ茶色のブリーフケースがのっている。男がこちらを振り向いた。彼は扉が閉まるのを待った。そして、疵だらけのオーク材のテーブルの向こう側、ブリーフケースの近くに腰を下ろした。ノアの箱舟から引っ張り出してきたような代物だ。ノアは中古で買ったのだろう。弁護士は打ち出し細工の銀のシガレット・ケースを開いて自分の前に置き、私を見た。

「かけたまえ、マーロウ。煙草はどうかな? 私の名前はエンディコット。スーウェル・エンディコットだ。きみの代理人を務めるように指示された。きみは一切の費用を払わなくていい。こんなところはさっさと出たいだろう?」

私は腰を下ろし、煙草を一本取った。彼はライターを差し出した。

「またお会いできて何よりです。ミスタ・エンディコット。以前にもお会いしたことがあります。あなたが地方検事だったときに」

彼はうなずいた。「覚えていないが、そんなこともあったかもしれない」彼はかすかに微笑んだ。「あの仕事は私に向いていなかった。私にはどうも覇気が足りないようだ」

「誰があなたを差し向けたんですか?」

「それは明かせない。私を弁護士として受け入れてもらえれば、費用は向こうが払う」

「彼が捕まったということですね」

彼は私をじっと見つめた。私は煙草をふかした。フィルターつきの煙草にありがちな、高地の霧を脱脂綿で濾したような味がした。

「レノックスのことなら」と彼は言った。「もちろんそうにちがいないだろうが、いや、彼は捕まっていない」

「よくわからないな、ミスタ・エンディコット。だったら誰があなたを寄越したんだ」

「本人は匿名を望んでいる。それが依頼人の特権でね。私を受け入れるかな?」

「どうかな」と私は言った。「テリーが捕まっていないなら、なぜ私をここに留めておくんだ? 誰も私に何も訊かないし、近寄ってさえ来ない」

彼は眉をひそめ、長くて白い繊細な指を見おろした。「この件は、スプリンガー地方検事が個人的に担当している。彼は忙しすぎて、まだきみを尋問していないのかもしれない。しかし、きみには罪状認否と予備審問を受ける権利がある。人身保護手続きによる保釈も可能だ。きみは法律がどういうものか知っているだろう」

「私は殺人の容疑で拘束されている」

彼は苛立たし気に肩をすくめた。「そんなものはどうとでもなる。たとえばピッツバーグへ移動したという容疑で逮捕するとか、いろいろな罪状が考えられる。おそらく彼らが考えてるのは事後従犯だろう。きみはレノックスをどこかに連れて行った、そうじゃないか?」

私は何も答えなかった。味のしない煙草を床に捨て、足で踏んだ。エンディコットはまた肩をすくめ、眉をひそめた。

「話を進めるうえで、仮にきみがそうしたとしよう。事後従犯とするには意図を証明しなければならない。この場合、犯罪が行われ、レノックスが逃げたことを、きみが知っていたことを意味する。いずれにしても保釈可能だ。もちろん、本当のところきみは重要参考人だ。しかし、この州では、裁判所の命令なくしては重要参考人として拘留することはできない。判事がそう認めない限り誰も重要参考人ではない。しかし、法執行機関に属する連中は、いつでもやりたいことをやる方法を見つけることができる」

「ああ」私は言った。「デイトンという刑事は私を殴った。殺人課課長のグレゴリアスはコーヒーを浴びせ、動脈が切れそうになるくらい首を強打した。 まだ腫れているのがわかるだろう。そしてオルブライト本部長から電話がかかってきて、 私をやつの言う解体業者に引き渡せなくなると、やつは私の顔に唾を吐いた。あなたの言う通りだ。ミスタ・エンディコット。警察の連中はいつでもやりたい放題だ」

彼はわざとらしく腕時計に目をやった。「保釈金を払って出たいんじゃないのか?」

「ありがたいが、保釈はやめておこう。保釈で出た男は世間では半分有罪だ。後で釈放されても、腕のいい弁護士の手柄にされてしまう」

「そいつは馬鹿げている」と彼は苛立たしげに言った。

「なるほど、馬鹿げている。私は馬鹿だ。そうでなければ、こんなところにいやしない。レノックスと連絡を取っているなら、 私のことで気を使わないように言ってくれ。私は彼のためにここにいるんじゃない。自分のためにここにいるんだ。文句はない。仕事の一部だ。私の仕事は、人々がトラブルを抱えて私のところに来ることで成り立っている。大きなトラブルも小さなトラブルもあるが、どれも警察には相談したくないトラブルだ。警察のバッジをつけたごろつきに脅されて何もかも吐いたりしたら、誰が私を頼ってくれる?.」

「言いたいことはわかった」と彼はゆっくり言った。「ただひとつだけ訂正しておきたい。私はレノックスと連絡を取っていない。彼のことはよく知らない。私はすべての弁護士がそうであるように法の番人だ。もしレノックスの居場所を知っていたら、地方検事にその情報を隠すことはできない。私にできることは、指定された時間と場所で身柄を引き渡すことを取り決めた後で、彼と会って話すことぐらいだ」

「私を助けるためにわざわざあなたをここに寄越す者を他には思いつかない」

「私を嘘つき呼ばわりするのか?」彼は手を下に伸ばし、テーブルの裏側で煙草の吸い殻を揉み消した。

「たしかあなたはヴァージニアの出身でしたね、ミスタ・エンディコット。この国にはヴァージニア人に関して昔から強い思い入れがある。我々はヴァージニア人を南部の騎士道精神と名誉の精粋であると思っています」

彼は微笑んだ。「よく言った。それが本当だといいのだが。しかし、私たちは時間を無駄にしている。もしきみにこれっぽっちでも分別があれば、ここ一週間はレノックスと会っていないということもできた。事実でなくても構わない。宣誓をしたらいくらでも事実が言える。警官に嘘を言ってはならないという法はない。彼らもそうしてほしいはずだ。黙秘されるより嘘を言われる方がましだろう。黙秘は権威に対する直接的な挑戦だ。そんなことをして何が得られると思っているんだ?」

私はそれには答えなかった。本当のところ答えの持ち合わせがなかった。彼は立ち上がり、帽子に手を伸ばすと、シガレット・ケースの蓋をぱちんと閉じてポケットに入れた。

「きみとしては派手に立ちまわる必要があった」と彼は冷やかに言った。「権利を振りかざし、法を説いた。ずいぶんとうぶなまねをするじゃないか、マーロウ。きみのような男ならもっと他にやりようがあったろうに。法は正義ではない。きわめて不完全なメカニズムだ。まちがえずに正しいボタンを押して、そのうえ運がよければ、正義が姿を現すかも知れない。メカニズムが法の意図するすべてなのだ。察するに、きみは助けがいるような気分じゃなさそうだ。今日のところは帰るとするよ。気が変わったらいつでも連絡をくれ」

「あと一日か二日、がんばってみます。もしテリーを捕まえたら、彼がどうやって逃げたかなど問題にもならない。彼らが気にかけるのは裁判を派手なショーに仕立てることだ。ハーラン・ポッターの娘が殺されたとなれば国じゅうで話題騒然だ。スプリンガーのような受け狙いは、そのショーで検事総長に名乗りを上げ、そこから知事の椅子を窺い、さらに――」私は話すのをやめ、残りは宙に漂わせた。

エンディコットは人を小馬鹿にしたような笑みをゆっくりと浮かべた。「きみはハーラン・ポッターという人物をよくわかっていないようだね」と彼は言った。

「レノックスを捕まえられなかったら、彼がどうやって逃げたかを知りたがるとは思えません、ミスタ・エンディコット。連中はすぐにでも奇麗さっぱり忘れてしまいたいでしょう」

「すべてお見通しってわけか、マーロウ?」

「時間だけはたっぷりあって。ハーラン・ポッターについて私が知っているのは一億ドルの資産家で、九つか十の新聞社を所有していることくらいだ。報道はどうなってるんです?」

「報道?」そう言う彼の声は氷のように冷たかった。

「ああ、どの新聞も私にインタビューしにこない。この件で新聞が大騒ぎすると思っていたのに。客が押し寄せるぞって。私立探偵、仲間を裏切るより、あえて監獄行きを選ぶ」

彼はドアのところに歩いて行き、ノブに手をかけた。「きみは愉快な男だな、マーロウ。幾らか子どもっぽいところはあるにせよ、その通り、一億ドルあれば大量の報道が買える。ねえきみ、それはまた、抜け目なく使えば大量の沈黙を買えるということだよ」

彼はドアを開けて出て行った。そのあと、看守が来て、私を重罪監房棟三号監房に連れ戻した。

「エンディコットがついてるなら、ここにいるのも長くないだろう」彼は扉に鍵をかけながら明るく言った。だといいな、と私は言った。

【解説】

第八章は収監されたマーロウによる留置場の説明が続く。その中に“The jail deputy”あるいは単に“deputy”と呼ばれる役職名がたびたび登場する。清水、村上訳では「看守」、田口訳では「保安官補」となっている。“deputy”は「副(官)、代理(人)」を表すので、こう訳したのだろうが、「保安官代理」は“deputy sheriff”である。警察官と刑務官では職業上の領域が異なる。留置場の看守を保安官補が務めるというのもおかしな話だ。「看守」でいいのではなかろうか。

一通り留置場の説明がおわると、面通し用の部屋で演じられる一幕劇に移る。その際にマーロウが聞く命令の冒頭だ。

"All right. you. Stand straight. Pull your belly in. Pull your chin in. Keep your shoulders back.”

清水訳では「こんどはお前だ。からだをまっすぐに。腹をへこませろ。あご(傍点二字)をひいて。肩をそらせろ」になっている。

村上訳は「よし、お前。背筋を伸ばせ。腹を引っ込めろ。顎をまっすぐ引くんだ。肩はもっと後ろに」。田口訳は「よし、おまえ。背筋を伸ばして立て。腹を引っ込めろ。顎を引け。猫背になるな」

“Stand straight”は、「まっすぐに立つ」ことだ。それを村上、田口両氏の訳に「背筋を伸ばせ」とするから、後に出てくる“Keep your shoulders back”が、「肩をそらせろ」、「肩はもっと後ろに」、「猫背になるな」のような訳になる。ふつう“Keep your shoulders back”は「背筋を伸ばす」ことをいう。身長測定用の線が引かれた壁の前に立っているのだから、正確を期すためにいろいろ注文が飛ぶ。まずはまっすぐ立たせるはずだ。細かい指示はそれからだろう。

それに続く部分で、マーロウの身長は“Height six feet, one half inch.”と書かれている。

清水訳は「身長六フィート一インチ半」になっているが、“one half inch”は「半インチ」であって、「一インチ半」ではない。村上訳は「身長はおおよそ一八四センチ」、田口訳は「背は六フィート」になっている。細かいことを言うようだが“six feet, one half inch”をメートル法に換算すると「184.15㎝」。村上訳はメートル法に換算するのがお約束なので「身長はおおよそ一八四センチ」とせざるを得ない。ただ原文は正確に“one half inch”となっているので、端数を切り捨てるのはおかしい。田口訳は端から不正確である。

エンディコットがマーロウに言う。“How ingenuous can a man get, Marlowe?”

清水訳は「りこう(傍点三字)なやり方とはいえないじゃないか」。村上訳は「たいしたものじゃないか、マーロウ」。田口訳は「人間というのはどこまで機略縦横になれるものなのか」。“ingenuous”は「純真な、お人好しの、うぶな」という意味で、飾り気のない誠実な態度を言う。直訳すれば「人はどこまで無邪気になれるものだろうな、マーロウ?」。

くだけて訳せば「そこまでやるか?」くらいか。エンディコットの科白は反語表現である。かつて地方検事局に勤めていたこともあるマーロウが無邪気に法を説いて見せるのは、腹に一物あるに決まっていると見ているのだ。清水訳はそこを読み誤っている。一方、田口訳は踏み込み過ぎているように思える。村上訳では何が「たいしたもの」なのかわからない。

エンディコットが「報道?」と訊き返したのに対して、マーロウが「この件で新聞が大騒ぎすると思っていたのに。客が押し寄せるぞって」と答えた部分。

“I expected to make a big noise in the papers out of this. Get lots of business.”

清水訳は「ぼくは特ダネに扱ってもらえると思っていた。お客がふえると思っていたんです」。村上訳は「この件で新聞が騒ぎ立てることを私としては期待していました。だって格好のネタじゃありませんか」。田口訳は「こっちは紙面が大賑わいするようなネタを提供してやろうと思ってたのに。とびきりのネタなんだから」。

“get a lot of business”は「もうかる」という意味だ。なぜ、村上、田口両氏は「格好のネタ」、「とびきりのネタ」のように「もうかる」のが新聞社と考えたのだろう。“publicity”は「宣伝、広告/世間の注目、評判」のことだ。広報業界では「報道」や「メディアへの露出」を意味する。マーロウは投獄されたことについて「私は彼のためにここにいるんじゃない。自分のためにここにいるんだ。文句はない。仕事の一部だ」と言っている。彼にとって今回の事件が大きく報道されれば、探偵仕事の格好の宣伝になる。“Get lots of business”はそのことを言っているのではないだろうか。

四冊の『長い別れ』を読む

“ice cream cone”は「アイスクリーム」のことではないかもしれない

【訳文】

その年の殺人課の課長はグレゴリアスという警部で、稀少になりつつあるが絶滅することはないタイプの警官だった。眩しい電球、しなやかな棍棒、腎臓への蹴り、股間への膝蹴り、鳩尾への拳、首のつけ根への警棒の一振りで犯罪を解決するタイプだ。半年後、彼は大陪審偽証罪で起訴され、裁判を受けることなく解任され、その後ワイオミングの自分の牧場で大きな種馬に踏みつぶされて死ぬことになる。

今は私が餌食だった。机の向こうに座り、上着を脱いでシャツの袖を肩のあたりまでまくり上げていた。つるつるの禿げ頭で、筋肉質の中年男にありがちなことだが、胴まわりがだぶついていた。眼は魚のような灰色で、大きな鼻には切れた毛細血管が網状に浮き出ていた。ずるずると音を立ててコーヒーを啜り、ずんぐりした頑丈そうな手の甲には剛毛が密生し、耳からは白髪が房状に突き出ている。彼は机の上の何かを突っつき、グリーンを見た。

グリーンは言った。「わかったことは、この男には何も言う気がないということです、課長。電話番号から浮かび上がってきたんですが、どこかに車で出かけていながら、行先を言いません。レノックスをよく知っていますが、最後にいつ会ったのか言おうとしません」

「タフぶってるんだろう」グレゴリアスは冷淡に言った。「そういう態度はあらためてやれる」まるでどうでもいいような言い種だった。おそらくそうなんだろう。彼の前でタフぶるやつはいなかったに違いない。「問題はこの件が新聞の大見出しになりそうだと地方検事が嗅ぎつけたことだ。娘の親父が誰かを考えたら無理もない。検事のために、こいつは気長に責めた方がよさそうだな」

彼は私のことを、まるで煙草の吸い殻か、空っぽの椅子みたいに見た。ただ視界に入るだけで、何の興味もないのだ。

デイトンは恭しく言った。「ずっとこういう態度を取っているのは話を拒否できる状況を作り出すためであることは明らかです。こいつは法律を引用して私を挑発し、殴るように仕向けました。不適切な態度でした、警部」

グレゴリアスは殺伐とした眼で彼を見た。「こんなチンピラにできるのなら、おまえだって挑発くらいできなくてどうする。誰が手錠を外したんだ?」

グリーンが自分がやったと言った。「元に戻せ」とグレゴリアスは言った。「きつくしろ。こいつには何かシャンとさせるものがいる」

グリーンがまた手錠をかけようとした。「後ろ手にだ」とグレゴリアスが吠えた。グリーンは手錠を後ろ手にかけた。私は硬い椅子に座っていた。

「もっときつく」グレゴリアスが言った。「手首に嚙ませるんだ」

グリーンがきつくした。両手がしびれてきた。

グレゴリアスはようやく私を見た。「これで話す気になったろう、さっさと済ませ」

私は返事しなかった。彼はふんぞり返り、にやりと笑った。彼の手がカップにそっと伸び、その周りをまわった。彼は少し身を乗り出した。カップが急に動いたが、私は椅子から横に体を倒してかわした。肩から着地し、転がってからゆっくり身を起こした。両手はかなり麻痺して何も感じなくなっていた。手錠の上の両腕はずきずきしはじめていた。

グリーンが椅子に座るのを助けてくれた。コーヒーの湿った匂いが背もたれと座面についていたが、ほとんどは床にこぼれた。

「コーヒーが嫌いらしい」グレゴリアスは言った。「素早いやつだ。速く動く。反射神経がいい」

誰も何も言わなかった。グレゴリアスはうさんくさそうに私を見た。

「ここじゃな、だんな、探偵の免許なんてものは名刺ほどの意味もない。さて、供述を聞こう。最初は口頭でいい。後で書き留める。署名も添えてな。先ずは、昨夜十時からの行動を洗いざらい話してもらうか。細大漏らさずだ。ここでは殺人事件を捜査中で、その最重要容疑者が行方不明ときた。 おまえはそいつとつながってる。 浮気現場を押さえた亭主が女房の頭を殴って、それを肉と骨と血まみれの髪にする。 おなじみのブロンズの彫像でな。独創的とは言えんが、役には立つ。この件についてクソ探偵風情がおれに法律を説いて聞かせようなどと考えてると、だんな、ひどい目に遭うぜ。この国では、法律書通りに動く警察などどこを探してもありはしない。おまえは情報を握ってる。おれはそれがほしい。おまえは何も知らないということもできたし、おれもそんな戯言は信じられないと言うこともできた。だが、おまえは知らないとさえ言わなかった。おれの前でだんまりを決め込むってのははじめから無理な相談なんだよ。やるだけ無駄ってもんだ。さあ、はじめようぜ」

「手錠を外してくれるか、警部?」と私は訊いた。「供述したら、ということだが」

「かもしれない。手短にな」

「もし私がこの二十四時間以内にレノックスに会っておらず、彼と話もしておらず、 どこにいるかもわからないと言ったら――それで満足するか、警部? 」

「かもしれない、もしおまえの言うことが信じられたら」

「もし私が彼をどこでいつ見たかを話したとして、彼が誰かを殺害したことも、犯罪が行われたことも知らず、さらに彼が今どこにいるかも知らなかったとしたら、あんたは全く満足できないのでは?」

「もっと詳しく、いつ、どこで会って、やつはどんな様子だったのか、何が話題になったのか、どこに向かったのかなどを聞かせてもらえれば、何とかなるかもしれん」

「あんたの手にかかったら」私は言った。「私は事後従犯に仕立てられるんじゃないか」

彼の顎の筋肉が盛り上がった。両眼は汚れた氷のようだ。「だから何だ?」

「どうしたものかな」と私は言った。「法的な助言が必要だ。協力は惜しまない。地方検事局から誰か来てもらうってのはどうだ?」

彼は短く耳障りな笑いをもらした。それはすぐやんだ。彼はゆっくりと立ち上がり、机の周りを歩いた。私の方に身を乗り出し、片方の大きな手を机に置いて、微笑んだ。それから表情を変えず、私の首の横を鉄の塊みたいな拳で殴った。

拳が動いたのは八インチか十インチで、それ以上ではない。それでも首がもげそうだった。口のなかに苦いものが滲み出してきた。血の混じった味がした。頭の中ががんがん鳴り響き、何も聞こえない。彼はまだ微笑みながら私の上に身を乗り出し、左手を机の上に置いたままだ。彼の声は遠くから聞こえてくるようだった。

「昔はもっとタフだったが、おれも年をとった。今のパンチもけっこう効いたんじゃないか、だんな、おれからの挨拶はこれぐらいにしておく。市の拘置所では人より牛を相手にするのが向いている連中がわんさといる。そんな連中を雇うべきではないかもしれんが、やつらはこのデイトンみたいなへなちょこパンチャーじゃない。グリーンのように四人の子どもや薔薇園を育ててもいない。連中にはまた違った娯楽があってね。人手が足りなくて、いろんな仕事をする働き手がいるんだ。そういうわけで、その気があるなら、もう少し気の利いた科白を思いつけないか?」

「手錠をかけられていては無理だ、警部」それだけ言うのも苦痛だった。

彼は私の方に大きく身を乗り出し、私は汗と腐敗臭を嗅がされた。それから彼は背筋を伸ばし、机の周りに戻り、椅子にしっかりとした尻をつけ、三角定規を手に取ると、まるでナイフのように親指を一辺に走らせ、グリーンを見た。

「何を待ってるんだ、部長刑事?」

「命令です」グリーンは自分の声の響きが気に入らないかのように歯を軋らせて言った。

「言われなきゃできないのか? 記録にはおまえは経験豊富な男だとあるがな。この男の過去二十四時間の動きを詳細に記録するんだ。もっと長いのが必要かもしれんが、最初はそれくらいでいい。毎分ごとに何をしたのか知りたい。署名させ、立会人の連署も添えて正式なものにしろ。二時間以内だ。それからここに連れ戻せ。小ざっぱりと、なりを整え、何の跡もついてない状態で。それからもう一つ、部長刑事」

彼はそこでいったん言葉を切り、グリーンを見た。焼きたてのベイクドポテトでも凍りつきそうな視線だった。

「この次、おれが容疑者に丁寧に質問している間、まるでおれがこいつの耳でも削いだかのような顔をしてそこに突っ立ってるんじゃない」

「イエス・サー」グリーンは私のほうを向いて「行くぞ」とぶっきらぼうに言った。

グレゴリアスは歯を剥き出して私を見た。かなり歯磨きが必要だった。「退場の科白を聞こう、相棒」

「イエス・サー」私は慇懃に言った。「おそらく気がついてもいないだろうが、あんたは私に手を貸してくれたよ。私の問題を解決してくれた。デイトン刑事の助けも借りてね。誰しも友だちを裏切りたくはないが、たとえ仇だって私はあんたの手には渡したくないね。あんたはゴリラであるだけでなく、無能だ。簡単な捜査のやり方も知らない。私はナイフの刃先でバランスを取っているようなものだった。あんたは私をどちらにも振り落とすことができた。しかし、あんたは私を罵倒し、逃れる術がない状態の私の顔にコーヒーを投げつけ、殴打した。今後は壁の時計の時間をきかれても口をきく気はない」

なぜかは知らないが、私がそれを言うのを彼はじっと坐って聴いていた。そして、にやりと笑った。「おまえはただ警官が嫌いなだけだ。それがおまえだ、探偵。単なる警官嫌いなんだよ」

「警官が嫌われないところもあるが、警部、そういう所じゃあんたはなろうったって警官になれないだろうよ」

彼はそれも受け止めた。余裕だったのだと思う。おそらくもっとひどいことを何度も言われてきたんだろう。そのとき、彼の机の上の電話が鳴った。彼はそれを見て身振りで示した。デイトンはそつなく机の周りを歩き、受話器を取り上げた。

「グレゴリアス警部のオフィスです。デイトン刑事です」

彼は耳を傾けた。ハンサムな顔を少ししかめ、両眉を寄せた。「少々お待ちください」

彼はグレゴリアスに電話を差し出した。「オルブライト警察委員長(コミッショナー)です」

グレゴリアスは眉をひそめた。「なんだと? あの威張り屋がおれに何の用があるんだ?」彼は受話器を取り、しばらく持った後、表情を取り繕った。「グレゴリアスです。コミッショナー

彼は耳を傾けた。「ええ、その男なら私のオフィスに来ています、コミッショナー。私は彼にいくつか訊きたいことがあって。協力的ではありません。全くといっていいほど協力的ではありません...何ですって? 」突然の凶暴なしかめ面が、彼の顔を黒い結び目にねじ曲げた。血で彼の額は黒ずんだ。しかし、彼の声の調子は微塵も変わらなかった。「もしそれが直接の命令なら、本部長を通すべきです、コミッショナー。もちろん、承認されるまでそのように対応します。もちろん... いや、誰も彼には指一本触れてません。..はい。ただちに」

彼は受話器を架台に置いた。彼の手が少し震えているように思った。両眼がまず私の顔を見て、それからグリーンの方に向き直った。「手錠を外せ」と彼は素っ気なく言った。

グリーンが手錠の鍵を外した。私は両手をこすり合わせ、血が巡り、感覚が戻ってくるのを待った。

「こいつを郡留置場に連れて行け」 グレゴリアスはゆっくりと言った。「殺人容疑だ。検察はこの事件を俺たちの手からかっさらったんだ。まったくよくできたしかけだな」

誰も動かなかった。グリーンは私の近くで息を荒くしていた。グレゴリアスはデイトンを見上げた。

「何をぼんやり待ってるんだ、オカマ野郎? ソフトクリームみたいにしゃぶってほしいのか?」

デイトンは危うく息を詰まらせそうになった。「まだ命令を頂いておりません、課長」

「おれには、サーと言うんだ、くそったれが! 俺を課長と呼んでいいのは部長刑事以上だ。おまえはそうじゃない、小僧、おまえはちがう、とっとと出て行け」

「イエス・サー」デイトンはさっさとドアまで歩いて行った。グレゴリアスは体を起こして窓際に移動し、部屋に背を向けて立っていた。

「さあ、行くぞ」グリーンが耳打ちした。

「俺がそいつの面に蹴りを入れる前にさっさと連れていけ」とグレゴリアスは窓に向かって言った。

グリーンは戸口に行きドアを開けた。私が通り抜けかけたところで、グレゴリアスが突然吠えた。「待て! ドアを閉めろ」

グリーンはドアを閉め、背をもたせかけた。

「こっちに来い、おまえ」グレゴリアスは私に吠えた。

私は動かなかった。そこに立って彼を見た。グリーンも動かなかった。重苦しい沈黙が続いた。やがて、グレゴリアスがゆっくり歩いて部屋を横切り、爪先と爪先が触れるようにして私と顔を見合わせて立った。ごつい両手をポケットに突っ込み、踵に重心を乗せて体を前後に揺らした。

「彼には指一本触れてません」彼は独り言のように小声で言った。両眼は遠くを見ているようで、表情というものを欠いていた。痙攣するように口が動いた。

それから私の顔に唾を吐いた。

彼は後退りした。「これで用済みだ。ありがとよ」

彼は後ろを向いて窓際に引き返した。グリーンがまたドアを開けた。

私はハンカチに手を伸ばしながらそこを抜けた。

【解説】

チャンドラーの作品には、ちらっとしか登場しないくせに妙に印象に残る人物が登場する。たたき上げの警官である、グレゴリアス警部もその一人だ。尋問の技術として恫喝と暴力しか持ち合わせのない古参の刑事の描写は、ほとんどカリカチュアの域に達している。

細かいことだが、グレゴリアス警部が解任されるのは“six months later”。つまり「六か月後」で、清水、村上両氏の訳でもそうなっていたが、田口訳では「この半月後」となっている。誤訳とも言えないほどのケアレスミスで、校閲等で何とかならなかったのだろうか。

そのグレゴリアスの言葉にこんなのがある。

“I guess we better pick this fellow's nose for him."

清水訳は「検事のためにもこいつに口を割らせなければならん」。村上訳は「検事殿のためにも、こいつをこってりとしぼりあげてみようぜ」。田口訳は「検事のためにもこいつの鼻くそをとことんほじくってやろうぜ」。“pick one’s nose”は文字通り「鼻くそをほじる」という意味だが、そこから敷衍して「何もしないでだらだらと無駄に時間を浪費する」という意味のスラングとして使われることがある。つまり、グレゴリアスはこの件に必要以上に時間をかけ、本来なら必要のないつまらないことまで細大漏らさず調べ上げて検事に恩を売ってやろうという腹づもりでいるのだ。

“Nobody said anything. Gregorius looked me over with fish eyes.”

この“with fish eyes”だが、清水訳は「魚のような眼で」、村上訳は「その魚のような目で」と直訳している。田口訳は「とくと(見て)」としている。“fish eye”は、相手を信じられなくて「冷たい目で」「疑いの眼で」じろりと睨むという意味のイディオムだ。“give 人 fish eye”という形で使われることが多い。少し前のところでグレゴリアスの眼の色を“His eyes were fish gray.”と描写しているので、それにかけたのだろう。

"Whatcha waiting for, cream puff? An ice-cream cone maybe?"

グレゴリアスがデイトンにかけた言葉だ。清水訳は「何を待ってるんだ。アイスクリームでもほしいのか?」。村上訳は「おい、なにをそこでうろうろ待っているんだ、極楽とんぼ? アイスクリームでもほしいのか?」。田口訳は「何を待ってる、このふにゃまら。いっちょまえにゴムをつけてもらいたいのか?」

"Whatcha”は、“what are you”の省略形。こういう言葉の使い方でグレゴリアスがどういう階層の出身かを表している。“cream puff”は「シュークリーム」のことだが、「意気地なし、弱虫、同性愛の男」という意味で使われる場合もある。“ice-cream cone”は「ソフトクリーム」のようにコーンに入ったアイスクリームのことだが、「コーンの外側に滴り落ちたアイスクリームをなめるように、男性の陰茎を玉から頭まで一気になめる行為」を指すスラングもある。マッチョなグレゴリアスの目には大学出のお坊ちゃんであるデイトンが、ゲイっぽく見えてるんだろう。田口訳のいかにもエンタメ風な訳が生きるところだが、ちょっと惜しかった。