marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

29

“September Morn”(九月の朝)とは何か?

【訳文】

バルコニーでは明かりのついたドアが二つとも開いていた――アイリーンのと彼のと。彼女の部屋は空だった。彼の部屋から争うような音が聞こえたので飛び込むと、彼女がベッドにのしかかり、彼ともみ合っているのが目に入った。黒光りする銃が空中に突き出し、二つの手、大きな男の手と女の小さな手がそれを握っていたが、どちらも尻の方ではなかった。ロジャーはベッドに上体を起こし、前かがみになって力を入れていた。彼女は淡青色の、よくあるキルティングの部屋着姿で、髪が顔におおいかぶさっていた。彼女は両手で銃をつかんだとみるや、素早くひねるようにして彼から銃を奪い取った。いくら相手がぼんやりしていたにせよ、彼女にそんな力があるとは驚きだった。彼は睨み、あえぎながら後ろに倒れ、彼女は後退りして私にぶつかった。

彼女は私に寄りかかって立ち、両手で銃を抱きかかえ、胸に押し当てている。息を切らし、すすり泣いていた。私は後ろから手を回し、銃をつかんだ。

彼女は私がいることにやっと気づいたかのようにくるりと振り返った。瞳を大きく見開き、私にもたれかかった。彼女は銃を放した。重くて扱いにくい武器、ウェブリー・ダブルアクション・ハンマーレスだった。銃身は熱を帯びていた。片腕で彼女を抱き寄せ、銃をポケットに落とし込んでから、彼女の頭越しに彼の方を見た。誰も何も言わなかった。

彼は眼を開き、唇にはあの疲れたような笑みが浮かんだ。「誰もけがはしていない」彼はぼそりと言った。「天井に向けて撃っただけだ」

彼女がからだを強張らせた。そして、身を引いた。澄んだ目でこちらを見ていた。私は彼女を放した。

「ロジャー」と彼女は言った。病人が囁くような声だ。「あんなこと、しなきゃいけなかったの?」

彼はしかつめらしい顔でじろりと見て、唇を舐め、何も言わなかった。彼女は化粧台に寄りかかった。手が機械的に動いて、顔にかかった髪を後ろへかき上げた。頭から足先まで一度ぶるっと身震いし、かぶりを振った。「ロジャー」ともう一度囁いた。「かわいそうなロジャー。かわいそうでみじめなロジャー」

彼は天井をまっすぐ見上げていた。「悪夢を見たんだ」とゆっくり言った。「ナイフを持った誰かがベッドの上に身を乗り出していた。誰かはわからない。ちょっとキャンディに似ていた。でも、キャンディのはずがない」

「あり得ないわ、ダーリン」と彼女は優しく言った。化粧台を離れ、ベッドの端に腰を下ろした。そして手を伸ばして彼の額を撫ではじめた。「キャンディはとっくに寝た。それに、キャンディがなぜナイフなんて持っているの?」

「あいつはメキシコ人だ。連中はみんなナイフを持ってる」と、ロジャーは感情のこもらない、よそよそしい声で言った。「ナイフが好きなんだよ。それに、あいつは私のことが気に入らない」

「あんたを好きなやつなんていない」私は容赦なく言った。

彼女はさっと振り向いた。「ちょっと、やめて、そんな言い方はしないで。彼は知らなかったの。夢を見て――」

「銃はどこにあった?」と私は怒鳴り、彼女を見たが、彼には注意を払わなかった。

「ナイト・テーブル。抽斗のなか」彼は頭をめぐらし、私と視線を合わせた。抽斗のなかに銃はなかったし、私がそれを知っていることを彼も知っていた。そこには薬や雑多な小物が入っていたが、銃などなかった。

「枕の下だったかも知れない」と彼はつけ足し「よく覚えていない。一発撃った」とだるそうに手を上げて指さした。「あそこに」

上を見た。たしかに天井の漆喰に穴が開いているようだ。よく見上げられるところまで動いた。そう、銃弾が通ったような穴だ。あの銃からなら、天井を貫通し、屋根裏まで抜けただろう。私はベッドのそばに戻り、彼を見下ろしながら、鋭い眼差しを向けた。

「くだらん。あんたは自殺しようとしたんだ。悪夢なんて見てない。自己憐憫の海に溺れてた。抽斗にも枕の下にも銃なんてなかった。起き上がって銃を取りに行き、ベッドに戻って、ごたごたにおさらばするつもりだった。だが、度胸がなかった。何かに当てるつもりのない一発を撃ったんだ。そしたら妻が駆けつけてきた――あんたはそれがほしかった。同情と憐れみ、ただそれだけ。それ以外は何もない。もみ合いにしたって見せかけだ。あんたがその気になれば、彼女は銃を取り上げることなんてできなかった」

「私は病人なんだ」彼は言った。「だが、きみの言う通りかもな。それがどうした?」

「こういうことだ。あんたは精神科の病棟に放り込まれる。言っておくが、あそこの連中ときたら、思いやりのかけらもない。ジョージアの囚人作業班(チェーンギャング)の看守と同じくらいな」

アイリーンが急に立ち上がった。「もうたくさん」と彼女ははっきり言った。「彼は病人、あなたも知っての通り」

「病人になりたがっているんだ。私はただ、そんなことをしてたらどういうことになるかを思い出させているだけだ」

「今彼にそんなこと言わなくてもいいじゃない」

「部屋に戻るんだ」

彼女の碧い眼に閃光が走った。「よくもそんなことを――」

「部屋に戻りなさい。警察を呼ばれたくなかったら。こういうことは報告することになっている」

彼はあやうくにやりと笑いそうになった。「ああ、警察を呼ぶといい」と彼は言った。「テリー・レノックスの時みたいにな」

私はそれにはかまわなかった。じっと彼女を見ていた。彼女は今では疲れ果てているようで、脆く、そして美しかった。一瞬の怒りの閃きは消え去った。私は手を伸ばし、彼女の腕に触れた。「大丈夫」と私は言った。「二度とこんなことはしない。もう寝なさい」

彼女は長いこと彼を見つめてから部屋を出て行った。開いたドアの向こうに彼女の姿が見えなくなると、私は彼女が座っていたベッドの端に腰を下ろした。

「薬がいるか?」

「いや、いらない。眠れなくてもどうってことはない。気分はよくなった」

「発砲の件は、図星だったろう? 芝居にしても、ちょっとどうかしてると思わないか?」

「まあ、そんなところかな」彼は顔を背けた。「頭がふらついていたんだろう」

「本当に自殺したいと思ってるやつを止めることはできない。私はそれを知ってる。きみも同じだ」

「ああ」彼はまだ視線をそらしたままだった。「頼んだことはやってくれたか――あのタイプライターの件だ」

「へえ、覚えていたとはね。かなりぶっ飛んだ文章だった。面白いことに、きれいにタイプされていた」

「いつだってできるさ――酔っていようがいまいが――もっとも、ある程度までは、だが」

「キャンディについては心配いらない」と私は言った。「きみの勘違いだ。彼は嫌ってない」それに、きみのことを好きなやつはいないと言ったのもまちがいだ。アイリーンを揺さぶってみた。怒らせたかったんだ」

「なぜ?」

「今夜一度失神してる」

彼はかすかにかぶりを振った。「アイリーンは失神したりしない」

「それじゃふりをしたんだ」

彼はそれも気に入らなかった。

「どういう意味だ――善き男がきみのために死んだ、というのは?」

彼は眉をひそめ、考え込んだ。「ばかばかしい。夢を見たと言ったろうが」

「きみがタイプで打ったあの寝言のことだ」

枕の上の頭がさも重いものでもあるかのように動かして、彼はこちらを見た。「別の夢だ」

「もう一度訊く。キャンディは何をつかんでるんだ?」

「くそくらえ」彼はそう言って眼を閉じた。

私は立ち上がり、ドアを閉めた。「いつまでも逃げ回るわけにはいかないぞ、ウェイド。キャンディなら強請ぐらいやりかねない。ありそうな話だ。あいつなら、愛想を振り撒きながら金をせびることくらい朝飯前だ。で、何なんだ?  女か?」

「あのばか、ローリングのことを信じるのか」と彼は眼を閉じたまま言った。

「ちょっとちがうかな。妹のほうはどうだ――死んだとかいう」

すっぽ抜けといってもいい球が、たまたまプレートをかすめたようだ。両眼が大きく見開かれ、唇には唾液の泡が見えた。

「それが――きみがここにいる理由か?」と彼はゆっくり、囁き声で訊いた。

「わかってるはずだ。私は招待された。きみが呼んだんだ」

枕の上で頭が揺れた。セコナールも昂った神経を鎮められなかった。顔が汗まみれだった。

「善き夫でいながら別に女のいる男はいくらでもいる。放っておいてくれ、くそっ。放っておいてくれ」

私は浴室からタオルを取ってきて彼の顔を拭いた。そして、嘲るようににやりと笑いかけた。私はとことん卑劣な悪党になれる。相手が倒れるのを待ち、そこへ何度も蹴りを入れ続ける。彼は弱っている。抵抗することも蹴り返すこともできない。

「それについては、またそのうちに話し合おう」と私は言った。

「私は狂ってなどいない」と彼は言った。

「そう思いたいだけだ」

「地獄の中で生きているんだ」

「ああ、もちろん。それは確かだ。面白いのはその理由だ。さあ、これを受け取れ」私はナイトテーブルからセコナールをもう一錠取り出し、水をもう一杯注いだ。彼は片肘をついて体を起こし、グラスをつかもうとしたが、四インチほど届かなかった。私はそれを彼の手に押しつけた。彼はなんとか水といっしょに錠剤を飲みこんだ。それから仰向けに寝転がり、まるで空気が抜けたかのように萎んでしまった。顔からは感情が消え失せ、鼻筋は鋭く尖って見えた。まるで死人のようだった。今夜、彼は誰かを階段から突き落とすような真似はしなかった。おそらく、どんな夜だってそんなことはしそうにない。

目蓋が重くなったのを見て、私は部屋を出た。尻でウェブリーの重みがポケットを引っ張っていた。階段を降りかけると、アイリーンの部屋のドアは開いていた。部屋の中は暗かったが、月明かりが戸口に立つ彼女の姿を浮かび上がらせていた。彼女が呼びかけた。名前か何かのようだが、私の名前ではなかった。私は彼女に歩み寄った。

「声を落として」と私は言った。「今寝入ったところだ」

「あなたが戻ってくると、ずっとわかっていた」と彼女は優しく言った。「たとえ十年経っても」

私は彼女を覗き込んだ。ふたりのうちどっちかがどうかしているんだ。

「ドアを閉めて」と、彼女は同じような、優しく愛撫するような声で言った。「長い間、私はあなたのためにだけ生きてきたの」

私は振り返り、ドアを閉めた。その時はそれがいい考えのように思えたのだ。彼女の方を向くと、彼女はすでに私の方へ倒れかかってきていた。だから私は彼女を受け止めた。そうするしかなかったのだ。彼女は強く私に身を寄せ、その髪が私の顔をかすめた。彼女は唇を差し出し、キスを求めてきた。彼女は震えていた。唇が開き、歯が開き、舌が素早く動いた。やがて彼女の手が下がり、何かを引っぱると、着ていたローブがはだけた。その下は「九月の朝」のように裸だったが、はるかに恥じらいがなかった。

「ベッドへ連れていって」と、彼女は息を荒げて言った。

そうした。私は彼女に手を回した。その腕が、むき出しの肌、柔らかな肌、柔らかくしなやかな肉に触れた。私は彼女を抱き上げ、数歩先のベッドまで運んで、そっと寝かせた。

彼女は私の首に腕を回したままだった。喉の奥で、何か口笛のような音を立てている。やがて彼女は身をよじり、うめき声​​を上げた。こいつは命取りだ。私は種馬のように昂ぶり、自制心を失いかけていた。このような女性から、このような誘いを受けることなど、どこへ行ったって滅多にあることではないのだ。

キャンディに助けられた。かすかなきしむ音がして、とっさに振り向くとドアノブが動いているのが見えた。私は身を振りほどいてドアに飛びついた。ドアを開けて外に飛び出すと、メキシコ人は廊下を駆け抜け、階段を駆け下りていった。階段の途中で彼は立ち止まり、振り返って私を睨みつけた。そして、彼は姿を消した。

私はドアのところに戻り、今度は外側からドアを閉めた。ベッドの上の女性から何か奇妙な物音が聞こえてきたが、もはやそれは単なる奇妙な音にすぎなかった。魔法は解けていたのだ。

急いで階段を駆け下り、書斎に入ってスコッチのボトルをつかみ、それをあおった。もうこれ以上飲み込めなくなると、壁に寄りかかって荒い息をつき、アルコールの刺激が体内を焼き、その酔いが脳に達するに任せた。

夕食からずいぶん時間が経っていた。まともなことなど何ひとつないまま、長い時間が過ぎていた。ウイスキーの酔いが猛烈な勢いで襲ってきた。私はひたすら飲み続けた。部屋がぼやけ始め、家具がすべてあるべき位置からずれ、スタンドの光が野火や夏の稲妻のように見えるまで。それから、革張りのカウチに仰向けになり、胸の上でボトルのバランスを取ろうとしていた。ボトルは空のようだった。それは転がり落ちて、床にドスンと音を立てた。それが、私がはっきりと意識した最後の出来事だった。

【解説】

ウェイドの発砲騒ぎにはじまる、アイリーンのらしからぬ狂態が印象的な一夜。マーロウも普通の男性なんだ、と気づかされる珍しい一幕。

“butt”は「尻」

“The black gleam of a gun shot up into the air, two hands, a large male hand and a woman's small hand were both holding it, neither by the butt.”(黒光りする銃が空中に突き出し、二つの手、大きな男の手と女の小さな手がそれを握っていたが、どちらも尻の方ではなかった)

清水は「くろく光る拳銃が空中にさし上げられ、大きな男の手と小さな女の手がそれを握っていた」と、“neither by the butt”を訳していない。“butt”は村上が「銃把」と訳して以来、ほぼそれが定着している。「銃把」とは引き金を引く手が握る「グリップ」のことだ。“butt”は「尻」の意味だが、銃でいえば「台尻(銃床の後端)」にあたる。ここで「銃把」(英語では“grip”)ではなく、“butt”を使っているのは、銃の先端ではなく、後端であることを言いたいからではないのだろうか。

市川は「その両方の手が銃を支えるように握っていた。銃把を避けて、暴発しないように」と書いているが、“neither by the butt”と書かれているのは、どちらも銃を撃つ気がないということを暗に示しているわけで、それに「暴発しないように」とつけ加えるのは蛇足というものではないだろうか。

“stare owlishly”は「しかつめらしい顔をして、じろりと見る」

“He stared owlishly, licked his lip and said nothing.”(彼はしかつめらしい顔でじろりと見て、唇を舐め、何も言わなかった)

清水訳は「彼は放心したように彼女を見つめて、唇をなめ、何もいわなかった」。ところが、村上が“owlishly”を「フクロウのような目で」と訳して以降、続く新訳のどれも「フクロウのよう」を採用している。

「放心したように」という清水訳には疑問を感じるものの、「フクロウのように」という、いかにも辞書そのままの訳というのもどんなものか。たしかに“owlish”には「フクロウに似た 」という語義があるが、辞書の中には「丸顔で通例眼鏡をかけた大きい目の人にいう」と括弧書きがつくものもある。

“stare owlishly”には「しかつめらしい顔をして〜をじろりと見る」という用例もある。フクロウは、ローマ神話の知恵の女神ミネルヴァの従者であり、知恵や学問の象徴とされている。そこから、フクロウに似た(賢そうな)という連想から出た表現だろう。

ウェイドは、少し気を取り直したのだろう。妻だけでなく第三者もいる場でつまらない真似をしたことを恥じながら、体面を保つために精一杯正気であることを見せねばならない。それがこの表情になったのではないだろうか。

“ September Morn”(九月の朝)とは何か?

“ Then her hands dropped and jerked at something and the robe she was wearing came open and underneath it she was as naked as September Morn but a darn sight less coy. ”(やがて彼女の手が下がり、何かを引っぱると、着ていたローブがはだけた。その下は「九月の朝」のように裸だったが、はるかに恥じらいがなかった)

清水は「それから、両手が下げられて、何かをひっぱると、部屋着の前がはだけて、その下は九月の朝のように何もまとっていないはだかだった」と“but a darn sight less coy”の部分を訳していない。もしかしたら、「九月の朝」が何のことかわかっていなかったのかもしれない。

村上は単行本で「それから手が下におろされて素早く何かをいじり、着ていたローブの前が開かれた。その下はまったくの裸だった。九月の暁のごとく遮るものもなかったが、その露な眺めには九月の暁の持つはにかみの色はなかった」と、“but a darn sight less coy”の部分を訳してはいるが、清水同様に「九月の朝」の出所を知らない気配がある。

同じく村上の文庫では「それから手が下におろされて素早く何かをいじり、着ていたローブの前が開かれた。その下はまったくの裸だった。『九月の暁』のごとく遮るものもなかったが、絵画にあるようなはにかみの色はなかった」と二重鍵括弧を使って、それがタイトルであることを示し、「絵画」という言葉を用いていることから見て、単行本を出してから「九月の朝」が絵画であることを知ったのではないか。そこで、文庫版が出る機会に訳を改めたのだろう。

田口は「そこで手を下にやり、何かを引っぱった。彼女が着ているローブのまえがはだけた。ローブの下は裸だった。フランスの画家シャバが描いた『九月の朝』の裸婦のように素っ裸だった。それでいて恥じらいが少しもなかった。それも忌々しいほどに」と説明を加えて訳している。

市川は「すると身につけていたローブが開いた。彼女は九月の朝を想わせる裸身だったが、そこにはまったく恥じらいはなかった。(「九月の朝」とは湖に佇む恥じらいを含んだ若い女性のヌード画。ニューヨーク メトロポリタン・アートミュージアム所蔵)」と註をつけている。

山形は「そして手が下がり何かを引っ張ると、着ていたローブが開いて、その下の彼女は『九月の朝』のように素っ裸だが、恥じらい成分ずっと控えめ」と訳した上で「1912 年にわいせつ物として訴えられ、エロ作品として一世を風靡したそうな。だから当時の感じでは高尚さよりエッチな言及で、マーロウの教養を示すものではない。既訳はこれがシャパの絵だという説明はつけても(田口訳)、その意味合いまでは触れていない」と脚注で触れている。

一昔前の話になるが、シャバの「九月の朝」は、日本でも要望があったのか大手の新聞に複製画の広告が出る時など、必ずと言っていいほど写真が掲載されていたものだ。山形訳の脚注を読んで、そういう曰くつきの絵だったのだな、とあらためて知った次第。当時のアメリカの読者なら“ September Morn”だけで、「ああ、あの絵ね」とわかったのだろう。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

28

“wall eye”は、もしかして“walleye”(白目)?

【訳文】

満月から四日経った月が、壁に四角いつぎをあて、盲人の大きな白濁した目みたいにこっちを見ている。外斜視(ウォールアイ)、くだらない。ばかげた直喩だ。物書きは、何であれ何かに喩えないと気が済まない。私の頭はホイップクリームみたいにふわふわしているが、それほどあまくない。また直喩。あのクソみたいな仕事の話を考えるだけで吐きそうになる。どのみち吐きそうだ。たぶん吐くだろう。そうせかすな。時間をくれ。鳩尾の中の虫が這いずり回る。ベッドに入ったほうがましだが、ベッドの下には黒い獣がいて、黒い獣がガサゴソ音を立てて這いずり回り、腰を振っては背をベッドの裏にぶつけてきて、私は叫び声を上げるが、それは他の誰にも聞こえない。夢の中の叫び、悪夢の中の叫び。怖いものなどない、私は怖がっていない。怖がるものがないからだ。それでも、かつてベッドでそんなふうに寝ていたとき、あの黒い獣が私にそれをし、ベッドの下に体をぶつけてきて、私は絶頂に達してしまった。これまでにしてきたどんな淫らなことより、それは私をむかつかせた。

からだが汚れている。ひげを剃らないと。手が震えてる。汗だくだ。自分でも臭う。シャツの脇の下や胸、背中がべとつく。肘まで折り返した袖が濡れている。テーブルの上のグラスは空だ。今では注ぐのに両手が要る。気つけにボトルから一口やるのもいいかもしれない。いやな味がして、何の役にも立たないだろうが。挙句、眠ることさえできず、神経が苛まれて、世界全体が恐怖のうめき声に包まれることになるだろう。いい感じだ、ウェイド? 続きは。

最初の二、三日はいいが、それからだめになる。苦し紛れに一杯やると、しばらく気が治まるが、代価は高くなる一方で、得るものは目減りしていく。そして、ついには吐き気しか感じなくなるときがやってくる。そこで、ヴェリンジャーに電話だ。よし、ヴェリンジャー、行くぞ。ヴェリンジャーはもういない。キューバへ行ったか、死んだか。おかまに殺されたんだ。かわいそうなヴェリンジャー、なんたる運命。あんなおかまとベッドで死ぬなんて。さあ、ウェイド、起き上がってどこかへ行こう。まだ行ったことがない、一度行けば二度と戻れないところへ。この文章、意味が通じるか? 通じない。まあいいか、別に金を取るわけじゃない。ここで、長い広告のための短い中断。

とうとうやった。起き上がった。たいしたものだ。カウチの方へ行って、今はカウチの横にひざまずき、カウチの上にのせた両手に顔を埋めて泣いている。それから祈ったが、祈った自分を軽蔑した。自己嫌悪に陥るのは三流の酔っ払いだ。一体何に祈ってるんだ?  このばか。健康な人が祈るなら、それは信仰だ。病人が祈るのは、ただ怖がっているだけだ。祈りなんてくだらん。これはおまえが作った世界で、すべて独力で作ったんだ。外から受けたわずかな助けだって――まあ、それもおまえが作り出したものさ。祈るのをやめろ、ばかやろう。立ち上がって、ぐいっと呷れ。今さら何をしても手遅れだ。

さあ、つかんだぞ。両手で。グラスにも注いだ。ほとんど一滴もこぼさなかった。あとは、吐き気をこらえられるかどうか。水を少し足そうか。さあ、ゆっくり持ち上げる。焦らず、一気に呷らないように。温くなってきた。暑くなってきた。汗をかくのをとめられたら。グラスは空になった。またテーブルの上に置いた。

月明かりに靄がかかっているにも拘わらず、グラスを置いた。背の高い花瓶に薔薇の一枝を挿すように、慎重に、そっと。薔薇は露に濡れてうなだれている。私が薔薇なのか、ほら、露がついてる。さあ、二階へ行こう。旅のはなむけに生(き)で一杯飲ろうか。いらない? オーケイ、好きにするさ。二階で飲ろう。もし着けたら、お楽しみが待っている。二階までたどり着けたら、報酬をもらう資格がある。自分へのご褒美だ。私は自分自身をこんなに愛している――しかも、都合のいいことに、ライヴァルがいない。

ダブルスペース。上がって、また降りてきた。二階は気に入らなかった。高さで心臓がどきどきする。それでもこうしてタイプライターのキーを叩き続けている。潜在意識というのは、なんと魔術師のようなものだろう。こいつが定期的に働いてくれさえすればいいんだが。上の階にも月明かりが差していた。たぶん同じ月だ。月に変種なんてない。やって来ては去っていく牛乳配達みたいに、月のミルクだっていつも同じ。ミルクの月はいつも――おい、待てよ。こんがらがってるぞ。今は月の病歴なんかに深入りしている場合じゃない。おまえは、このクソッタレ・ヴァレー全体の面倒を見るだけの病歴を抱えているんだ。

彼女は音も立てず横向きに眠っていた。膝を折り曲げて。静かすぎると思った。眠るときには何らかの音を立てるものだ。もしかすると眠っているのではなく、ただ眠ろうとしているだけなのかもしれない。近づけばわかるだろう。転ぶかもしれないけど。彼女の片目が開いた――開いてないのか?  私を見たのか?―― いや、見ていない。もし見ていたなら、身を起こしてこう言ったはずだ。具合でも悪いの、ダーリン? ああ、具合が悪いんだ、ダーリン。でも気にしないでいい、ダーリン。具合が悪いのは私で、きみじゃないから。静かにぐっすり眠って何も思い出しさえしなければ、私からきみへ、汚れたものが移ることもないし、陰鬱で灰色で醜い何かがきみに近づくこともない。

最低だな、ウェイド。形容詞三つとは、このへぼが。いいかげん「意識の流れ」くらい、形容詞を三つ並べることなしに扱えないのか? 手すりにつかまりながら、また階下に降りてきた。一段降りるたびに臓物が揺れ動いたが、約束を担保にしてなんとか一つにまとめた。一階に着き、書斎へ行き、カウチにたどり着き、心臓の鼓動が落ち着くのを待った。ボトルは手の届くところにある。ウェイドの手配についてひとつ言えることは、ボトルがいつも手の届くところにあるということだ。誰もそれを隠したり、鍵をかけたりしない。もう十分飲んだじゃない、ダーリン? からだによくないわ、ダーリン。なんて言う者もいない。誰もそんなことは言わない。ただ、薔薇のようにそっと横になって眠るだけだ。

キャンディに金をやりすぎた。失敗だ。ピーナッツ一袋から始めて、バナナ一本へと進むべきだった。それから少しずつ小銭を渡し、ゆっくりと、焦らず、いつもがっつかせておくべきだった。はじめからまとまった金を渡すと、すぐに足元を見るようになる。ここの一日分のかかりで、メキシコならひと月は、気ままにしたい放題できる。で、大金を手に入れたら、何をする? もっとしぼりとれると思ったら、手にした金で満足するやつがいるだろうか? それならそれでいい、たぶん。私はあの目を輝かせたクソ野郎を殺すべきなんだろう。かつて、私のために善き男が死んだ。白いジャケットを着たゴキブリが死んで何が悪い?

キャンディのことは忘れろ。針先を鈍らせる方法はいくらでもある。忘れられないのはもう一つのほうだ。それは緑の炎となって、肝臓に刻み込まれている。

電話したほうがいい。抑えが効かない。奴らが跳ね回るのを感じる、跳ねて、跳ねて、跳ね回ってる。あのピンク色の連中が顔を這い上がってくる前に、誰かに電話したほうがいい。電話だ、電話。スー・シティ・スーに電話しよう。もしもし、交換手、長距離につないでくれ。もしもし、長距離、スー・シティ・スーにつないでくれ。番号? 番号は知らない、名前だけだ、交換手。十番街で見つかるはず、日陰側、穂を広げた背の高い玉蜀黍の下……。わかった、交換手、わかったよ。通話は全部キャンセルだ。ちょっと話が。いや、聞きたいことがある。もし長距離電話をキャンセルしたら、ギフォードがロンドンで開いているあの派手なパーティーの費用は、一体誰が払うつもりなんだ? ああ、きみは自分の仕事が安泰だと思っているな。そうだろう。なら、ギフォードと直に話したほうがよさそうだ。彼につないでくれ。彼の召使がちょうどお茶を持って来たところだ。もし彼が話せないなら、話せる誰かを送り込むさ。

一体何のために、あんなことを書いたんだろう? 何について考えまいとしていたんだ? 電話だ。今すぐ電話しなきゃ。ひどくまずいことになってきた。ひどく、ひどく……

それだけだった。私はその紙を小さく折りたたみ、財布の裏にある上着の内ポケットに押し込んだ。フレンチ・ウィンドウのところへ行って大きく開け放ち、テラスへと足を踏み出した。月明かりは少しばかり損なわれていた。だが、そこはアイドル・ヴァレーの夏であり、夏というものは決して完全には台無しにならないものだ。私はそこに立ち、色もなく静まり返った湖を眺めながら、あれこれと思いを巡らせていた。そのとき、銃声が聞こえた。

【解説】

眠りに落ちる前、ウェイドがマーロウに始末してくれと頼んだ、タイプライターに残された書きかけの原稿がそのまま引用されている。いかにもアル中の作家が度を過ごした際に書きそうな自己憐憫の臭う愚痴っぽい文章だが、美しい妻に見捨てられた寂しさや、キャンディの取り扱いを過った悔いやら、内心を吐露した部分は重要な手がかりとなる内容を含んでいる。「私のために善き男が死んだ」という一文が意味深だが、テリー・レノックスを指すのだろうか。

“The moon's four days off the full”は、満月に四日「足りない」のか、満月から「四日経った」のか?

“The moon's four days off the full and there's a square patch of moonlight on the wall and it's looking at me like a big blind milky eye, a wall eye. Joke. Goddam silly simile.”(満月から四日経った月が、壁に四角いつぎをあて、盲人の大きな白濁した目みたいにこっちを見ている。外斜視(ウォールアイ)、くだらない。ばかげた直喩だ)

冒頭の文を清水は「満月から四日経って」と書き出している。ところが、村上が「満月に四日ぶん足りない月」として以降、田口も市川も「満月に四日足りない月」、「満月の四日前」としている。満月という区切りがあるから、それから四日後という言い方が成立する。月に対して特別な感慨を抱いている文化なら「十三夜」などと呼びならわすこともあるだろうが、特に取り立てていうべきことのない月を「満月に四日足りない月」というだろうか? “day off”は「非番の日、(平日)に取る休日」の意。“The moon's four days off the full”なら、「満月から四日顔を見(せ)なかった月」でいいのでは。

もう一つ、“a wall eye”について。ここはどの訳を見ても「壁の眼」か「壁の目」となっている。しかし、その前の文に“like a big blind milky eye”という表現が唐突に出てくる。壁にあたった月の光は四角いはずなのに、なぜ、このような喩えが出てくるのか。これがよく分からなかった。辞書で調べてみたら、“wall”と“eye“という二つの単語を結合した連語である“walleye”には「外斜視、(外斜視による)白目 (角膜が大きくなる)」という意味があった。作家であるウェイドは、この連語を知っており、月の光で白く輝く壁を見たとき、それを連想したのではないか。単なる推測だが、そう考えると納得できる。

“hamp”は「セックスする」

“I would be better off in bed but there would be a dark animal underneath the bed and the dark animal would crawl around rustling and hump himself and bump the underside of the bed, then I would let out a yell that wouldn't make any sound except to me.”(ベッドに入ったほうがましだが、ベッドの下には黒い獣がいて、黒い獣がガサゴソ音を立てて這いずり回り、腰を振っては背をベッドの裏にぶつけてきて、私は叫び声を上げるが、それは他の誰にも聞こえない)

文中の“hump himself and bump the underside of the bed”だが、清水は「背中をまるくしてベッドの裏にどすん(傍点三字)とぶつかると」と訳している。村上も「背中を丸くし、ベッドの下にどすんどすんと身体をぶっつける」、田口も「背中を丸め、体をベッドの裏側にどすんどすんとぶつけながら」、市川も「背中を丸めてその背中をベッドの底板にぶつけてゴツンゴツンと音を立てる」だ。

しかし、“hamp”には一般的な「背を丸くする」という意味の他に、卑語として「セックスする」という意味がある。“hump oneself”なら「自慰」を意味する。すぐ後に「叫び声を上げ」たり、“I had an orgasm”とある以上、ここに性的な意味があることは明らかだ。露骨な表現を避けたいという訳者の気持ちはわかるが、この文章は発表を意図した原稿ではない。ウェイドの内心の吐露のようなものだ。「背中を丸くする」という訳語ではその意図を伝えることはできないのではないか。

“good stuff”には、「いいもの」と「才能に恵まれている」の二つの意味がある

“Good stuff,- huh, Wade? More.”という文末が、清水訳は「どうだ、うまいか、ウェイド。もっと飲め」となっている。この“good stuff”を「酒」だと考えているわけだ。村上も「どうだ、酒はいいだろう、ウェイド。もっと飲もう」、田口も「それでもこの一杯は悪くない。だろ、ウェイド? もっと飲め」。市川も「最高じゃないか、え、ウェード。もう一杯やるか?」だ。この酒はほんとうに「いいもの」なんだろうか? その前に「いやな味がして、何の役にも立たない」と書いているのに、だ。

ここは、山形訳では「いい文だな、ウェイド。もっと」となっている。第28章のほとんどは、ウェイドのプライヴェートな文章の引用であって、他の章のそれとはスタイルが異なる。売り物ではなく、自分のために書いている体裁をとっているので、「酔っぱらって自意識を喪失しているウェイド」を高みから見物している「自意識を保持している覚めた作家のウェイド」が常に傍にいて口をはさむ。特にパラグラフの末尾にそれが挿み込まれることが顕著だ。ここもそれである。

“A short pause here for a long commercial.”は決まり文句

“A short pause here for a long commercial.”は、番組放映中にCMをはさむ時の決まり文句。その場を離れるウェイドの、ちょっとした挨拶。お遊びである。清水は「ここで長い広告放送のために短い休憩」と、文意を理解した訳になっている。ところが、村上はその前の文も含め「これは金のために書いている文章ではない。長いコマーシャルのための短い中断に過ぎない」とシャレの通じない訳になっている。田口も「この文で金をくれとは頼まない。これは長いコマーシャルのための短い中断みたいなものだ」と村上の轍を踏んでいる。市川に至っては「これで稼ぐつもりはないさ。長編小説を書く合間の本の息抜きさ」と、決まり文句そのものを消してしまう。これではウェイドの遊び心が浮かばれない。せっかく清水が原文の意図を理解して訳したものを、新訳でだめにしてしまうなら、いったい何のための新訳なのか。

“hold it”は「(そのままの状態を)保つ」

Now if I can hold it without vomiting.(あとは、吐き気をこらえられるかどうか)。清水訳は「吐き気をもよおさなければいいのだが」と“hold it”の意味をよく理解した訳だ。村上は「さて、吐かずにそれを手に持っていられるだろうか」と、わざわざ「それを手に持(つ)」と直訳している。例によって、田口も「あとは吐かずに持っていられればいいのだが」と村上の直訳調に少し手を入れながらも「持(つ)」を残している。市川は、というと「飲んでも吐かずにいられるだろうか?」と旧訳に近い。

“hold it”は「(そのままの状態で) 待つ、待機する」という意味で、必ずしも何か(この場合はグラス)を「持つ」必要はない。だいたい、やっとグラスに注いだばかりの酒を、まだ口にもしていないのに「吐く」ことはできない相談だ。ここは、それ(“it”)を口に含むことを想定して“vomit”(吐く)が使われているのであって、ウェイドにとって大事なことは、グラスを手に持っていられるかどうかより、やっとグラスに注いだ酒を、飲んでも吐かないでいられることの方が大事なはず。何を“hold”(保持)するのかを取り違えてはいけない。

“stream-of-consciousness”は「意識の流れ」

“You're a louse, Wade. Three adjectives, you lousy writer. Can't you even stream-of-consciousness you louse without getting it in three adjectives for Chris-sake?”(最低だな、ウェイド。形容詞三つとは、このへぼが。いいかげん「意識の流れ」くらい、形容詞を三つ並べることなしに扱えないのか?)

清水は、ここを「君はいやらしい奴だぞ、ウェイド。いやらしい作家なのだ」と「意識の流れ」に関する部分をカットしている。ハードボイルド探偵小説の読者に「意識の流れ」について講釈するのもはばかられると考えたのかもしれない。当時としては無理もない判断だったろう。

村上は「お前は最悪だよ、ウェイド。三連の形容詞なんてな、このへぼ作家。お前は内的独白を三つの形容詞に分散することなく、すんなりまともに書くこともできないのか。へたくそめ」と時代にあわせて訳している。そこはいいのだが、“stream-of-consciousness”(意識の流れ)を「内的独白」と訳している。この二つの用語は深い関係にあるものの意味は異なる。彼がなぜこう訳したのか、その理由は分からない。

田口は「おまえはクズだ、ウェイド。三連の形容詞とはな、この三文文士。三つの形容詞に分けることでしか意識の流れを書くこともできないとはな、まったく」と、“stream-of-consciousness”を「意識の流れ」と訳している。

市川は「あんたは碌でなしだ、ウェード。形容詞が三つ。邪悪、醜い、色あせた。あんたはダメ作家だ。この三つの形容詞なしにはあんたがダメにした意識の流れをまともに戻せないのか?」と、例によって言葉を補って説明を試みてはいるが、「あんたがダメにした意識の流れをまともに」戻す、というのが、どこから出てくるのかが分からない。

 

 

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

27

“two sides”は「両側」ではなく、「となり合っている」のではないか

【訳文】

アイリーンの部屋のドアの前に立って耳をすました。中に人の気配はなかったのでノックはしなかった。彼がどうしているか知りたければ、それは彼女次第だ。階下の居間は明るく、がらんとしていた。いくつか明かりを消した。玄関の近くからバルコニーを見上げた。居間の中央部分は吹き抜けになっており、バルコニーを支える役割も兼ねた梁が渡されていた。バルコニーは広く、高さ三フィート半ほどもありそうな頑丈な手すりで二面が縁取られている。手すりの笠木と子柱は梁に合わせて矩形にカットされていた。ダイニングルームへは四角いアーチをくぐって入るようになっていて、両開きの鎧戸は閉じられていた。上は使用人の部屋になっているのだろう。二階のこの部分は壁で仕切られており、家のキッチン部分からそこへ通じる別の階段があるにちがいない。ウェイドの部屋は角部屋で彼の書斎の真上にあたる。開いたドアから漏れる明かりが高い天井に反射するのが見え、ドアの上端が一フィートほど見えていた。

フロアランプ以外の明かりをすべて消し、書斎へと向かった。ドアは閉まっていたが、ランプが二つついていた。革張りのカウチの端にあるフロアランプと、僧帽状の覆いがついたデスクランプだ。その下には、重厚なスタンドに載ったタイプライターがあり、その横の机の上に黄色い用箋が乱雑に散らばっていた。私はクッションのついた椅子に座り、その配置をじっくりと観察した。知りたかったのは、彼がどうやって頭を切ったのかということだった。私はデスク・チェアに座り、左手を電話に置いた。椅子のスプリングは弱めに設定されていた。もし後ろにのけぞって倒れたら、頭を机の角にぶつけるかもしれない。ハンカチを湿らせて、机の角をこすってみた。血痕も、何もなかった。机の上には物がたくさん置かれていた。ブロンズ製の一対の象の間に並べられた本や、昔ながらの四角い硝子のインク壺などだ。それらも調べてみたが、何も見つからなかった。どのみち無意味なことだった。もし誰かが彼を殴ったとしても、凶器が部屋にあるとはかぎらない。それに、そんなことをするやつなどいなかった。私は立ち上がり、コーニスの照明をつけた。光が薄暗い隅々まで届き、思った通り、答えは簡単だった。四角い金属製の屑籠が壁際に転がっており、中からこぼれ出た紙が散らばっていた。屑籠がそこまで歩けるはずがないので、投げられるか、蹴られるかしたのだ。濡らしたハンカチで、とがった角を拭ってみた。今度は赤褐色の血痕が見つかった。謎なんかない。ウェイドは転んで、屑籠のとがった角に頭をぶつけたのだ――おそらくかすった程度だろう――そして立ち上がると、そのくそったれを部屋の向こうまで蹴り飛ばした。それだけのこと。

そのあと、軽く一杯ひっかけたんだろう。飲んでいた酒がカウチの前のカクテル・テーブルの上にあった。空のボトルが一本、四分の三ほど残ったボトルが一本、水の入った魔法瓶、そしてかつては氷だった水が入った銀のボウル。グラスは一つだけ、それも徳用大型サイズだった。

酒をひと口飲むと、少し気分が楽になった。ぼんやりとした意識の中で、受話器が外れていることに気づいたが、おそらくそれまで受話器をどうしていたのか、もう覚えていなかったのだろう。そこで、彼はただ歩いて行って、受話器を架台に戻した。時間的にもほぼ合致する。電話にはどこか強制的なところがある。機械に支配された現代人は、電話を愛し、嫌悪し、そして恐れている。しかし、たとえ酔っ払っていても、常に電話を敬意を持って扱う。電話は呪物(フェティッシュ)なのだ。

まともな男なら、念のために受話器に向かって「もしもし」と声をかけてから電話を切っただろう。しかし、酒に酔って目がかすみ、ついさっき転んだばかりの男なら話は別だ。いずれにせよ、どうでもいいことだ。妻かもしれない。転ぶ音や、屑籠が壁にぶつかって跳ね返る音を聞いて、書斎に駆け込んできたのかもしれない。ちょうどその頃、最後の一杯が効いてきて、彼はよろめきながら家を出て、前庭を横切り、私が見つけた場所で気を失ったのだろう。誰かが彼を迎えに来ようとしていた。ただその時はそれが誰かは知らなかった。もしかしたら、ドクター・ヴェリンジャーかもしれない。

ここまではいい。では、彼の妻はどうするだろうか? 彼女は夫を相手にすることも、説得することもできず、そもそもそうすることを恐れているかもしれない。だから、誰かに助けを求めるだろう。使用人は皆外出中だったから、電話で頼むしかない。そう、彼女は誰かに電話をかけていた。あの親切なドクター・ローリングに電話したのだ。私は、自分が到着した後に電話したのだと勝手に思い込んでいた。彼女はそうは言っていなかった。

ここから先、どうにも辻褄が合わない。ふつうなら、彼を探し出して、怪我をしていないか確かめるだろう。暖かい夏の夜、しばらく地面に横たわっていても害はないはずだ。彼女には彼を動かすことなどできなかった。私でさえやっとだったのだ。しかし、彼がどこにいるのか、よくわからないまま、彼女が戸口に立って煙草を吸っている姿を見かけるとは、正直なところ予想外だった。いや、そういうこともあるのか?  彼女が彼とどんな経験をしてきたのか、あの状態の彼がどれほど危険なのか、彼女が彼に近づくことをどれほど恐れているのか、私にはわからなかった。「私のできることはすべてやった。これ以上はもう無理」私が到着したとき、彼女はそう言った。「あなたがやって」そう言うと、彼女は家の中へ入っていき、気を失ってしまった。

気にはなったが、そのままにしておくことにした。何度も同じような目にあって、放っておく以外に手立てがないと彼女が悟ったなら、そうするだろうと思うしかなかった。放っておくこと、ただそれだけだ。彼をどうにかできる体力を持つ誰かがやってくるまで、そのまま地面に寝かせておくのだ。

それでも、何かが引っかかっていた。キャンディと私が彼を上の寝室へ連れて行く間、彼女がその場を離れて自分の部屋へ行ってしまったことだ。彼女はやつを愛していると言った。彼は彼女の夫であり、結婚して五年になる。素面の時は本当にいい人なのだ――彼女自身の言葉だ。だが酔うと別人のようになり、危険だから近づかないほうがいい相手になる。まあいい、忘れることだ。それでもやはり、何かが心に引っかかっていた。もし本当に怯えていたのなら、開いた戸口に立って煙草を燻らせたりはしなかっただろう。もし単に苦々しい思いを抱え、心を閉ざし、むかついていただけなら、気絶などしなかったはずだ。

他にも何かあった。別の女、おそらく。彼女はそれを知ったばかりだった。リンダ・ローリング? もしかすると。ドクター・ローリングはそう考えており、それを公然と口にしていた。

私はそのことを考えるのをやめ、タイプライターのカバーを外した。それはそこにあった。タイプ打ちされた黄色い用箋が数枚、ばらばらの状態で。アイリーンに見つからないよう、私が処分することになっていたものだ。それを手に取ってカウチへ向かい、読みながら一杯やるくらいは許されるだろうと考えた。書斎の脇には小さな洗面所があった。背の高いグラスをさっと洗い、酒を注いでから、それを片手に読み始めた。そして、そこに書かれていた内容は実に突飛なものだった。こんなふうに――

【解説】

ウェイドを寝かしつけたマーロウは、彼がどうして怪我をしたのか階下にある書斎を調べる。わけはすぐ分かった。壁際に転がった金属製の屑籠に血がこびりついていた。酒に酔ったウェイドが椅子を倒して、下にあった屑籠の角で頭を切り、蹴っ飛ばした後、外に出て倒れたのだ。分からないのは、夫人のとった態度だ。夫を探しもせず、煙草をふかしていたのはなぜか。第27章のマーロウは、いかにも探偵らしい調査と推理を行うのだった。

冒頭、流行作家の邸宅の内部が細密に描写される。この居間のバルコニーの形状については終盤で重要な役割を果たすことになる。ところが、これまでに明らかにされた日本語訳からは、いまひとつ、その様子が浮かび上がってこない。原文は以下の通り。

“The middle part of the living room rose to the full height of the house walls and was crossed by open beams that also supported the balcony.The balcony was wide and edged on two sides by a solid railing which looked to be about three and a half feet high.”

清水訳は「居間の中央部は家と同じ高さまで空間になっていて、むき出しの梁が横に渡してあった。バルコニーははばがひろく、三フィート半はあろうと思われる頑丈な手すりがついていた」。例によって清水は、自身が納得できないことについては適当に訳すのでなく、あえて訳さないという方針を貫いているようで、“edged on two sides”だけでなく、続く“The top and the uprights were cut square to match the cross beams.”もカットしている。

村上訳「居間の中央部分は、屋根まで吹き抜けになっており、むき出しの梁が交差して、その梁がオープンのバルコニーを支えていた。バルコニーは広く、高さ一メートル以上あるしっかりした手すりが両側についていた」

田口訳「居間の中央部分は屋根までの吹き抜けになっており、交差した剥き出しの梁がバルコニーを支えていた。バルコニーは広くて、がっしりとして三フィート半ぐらい高さがありそうな手すりが両側に設えられていた」

市川訳「居間は吹き抜けになっていてその壁にはバルコニーも支えている梁が交差していた。バルコニーは広く、居間の両端まで伸びており、そこには高さ一メートルほどのがっしりした欄干が備えられていた」

マーロウは、玄関のドア近くに立ってバルコニーを見上げている。居間の中央部分は吹き抜けで、夫妻の私室のある二階の通路部分がバルコニーになっているのだろう。バルコニーは広いというのだが、村上、田口他の「両側」というのは、どの部分を指すのだろう。ふつうは、平面図で凸状に突起した部分の両側を思い浮かべる。ところが、それでは、両側をつなぐ一番広い正面部分には頑丈な手すりはついていないのだろうか。市川訳によれば、バルコニーは居間の両端まで伸びており、がっしりした欄干がついていることになる。これだと、安心してよりかかることができるが、この訳だと、“edged on two sides by a solid railing ”の“two sides”は居間の壁にあたることになり、手すりの意味をなさない。

この“two sides”だが、チャンドラーがあえて“both sides”(両側)という語を使わなかったことに意味がある。村上が「両側」と訳したことが前例となって、続く訳者が皆同じ訳語を踏襲してきたのは果たして正しかったのか、ということだ。“two sides”には、「両方、両面、表裏」という意味の他に「(三角形の)二辺」という意味がある。三角形なら、この二辺はとなり合うしかない。つまり、この手すりの“two sides”は「両側」ではなく、となり合っているのではないか。

ここで、第26章を思い出してみよう。マーロウとキャンディはふたりでウェイドを二階まで運んだのだが、階段を昇りきるとオープン・バルコニー沿いに進み、アイリーンの部屋の前を通り過ぎて、ウェイドの部屋に入っている。つまり、バルコニーは玄関と向かい合う壁の左側に(どういうふうにかは分からないが)取り付けられた階段とつながっているのだ。そう考えれば、手すりの“two sides”の意味が分かってくる。一面は階段上部から続いているバルコニー正面部分を指し、もう一面はバルコニー部分が終わり、そこで直角に折れる側面部分を指しているものと考えられる。

これに続く部分でマーロウは、一階のダイニング・ルームについて触れ、その上が壁で仕切られた使用人の部屋になっており、そこに行くにはキッチンから伸びる別の階段を使うらしい、とわざわざ述べている。これは謎解き探偵小説でお馴染みの事件現場の間取り図の役割を果たしている。つまり、使用人はバルコニー沿いの通路をつかって直接、ウェイドとアイリーンの部屋を行き来することはできない設計になっており、使用人たちが主人夫妻の部屋を訪れるためには、一度キッチン部分につながる階段を下りて居間に入り、そこからあらためて上階に通じる階段をのぼって主人夫妻の私室にたどりつくという仕組みになっている。考えようによっては実に煩瑣だが、富裕層にあってはそれくらい使用人と主人は差別化されているものなのだろう。

結論として言えるのは、ウェイド邸の間取りが訳者の頭の中ではっきりしていないのがこの章の日本語訳が分かりづらい原因ではないか、ということである。ただ、清水訳についていえば、わからないことがわかっている、ということだけは言っておきたい。

 

 

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

26

“Let's put this to bed"は「さっさと片づけよう」

【訳文】

メキシコ人は白黒のチェック柄のスポーツシャツに、やたらタックの入ったベルトなしの黒ズボン、それに、しみひとつない白黒コンビのバックスキンの靴という出で立ちだった。豊かな黒髪はまっすぐ後ろに撫でつけられ、ヘアオイルかクリームで艶やかに光っていた。

「セニョール」と彼は言い、人を小馬鹿にしたようなお辞儀をしてみせた。

「キャンディ、ミスタ・マーロウが夫を二階へ運ぶのを手伝って。転んでちょっとけがをしたの。手間を取らせて悪いわね」

「De nada(どういたしまして)、セニョーラ」とキャンディは微笑んで言った。

「おやすみなさいを言った方が良さそう」と彼女は私に言った。「もうくたくた。用があればキャンディがお世話します」

彼女はゆっくりと階段を上がっていった。キャンディと私は彼女を見送った。

「すこぶるつきの美人だろ」と、彼はさも親し気に言った。「今夜は泊まりかい?」

「まさか」

「Es lástima(それは残念)。彼女はとても孤独なのに、あの人は」

「妙な目つきはやめろ、さっさと片づけよう」

彼はカウチでいびきをかいているウェイドを悲しげに見つめた。「Pobrecito(かわいそうに)」と、心からそう思っているかのように呟いた。「Borracho como una cuba(まるで樽みたいに酔っ払ってる)」

「豚みたいに酔っ払ってるかもしれないが、小さくないのは確かだ」と私は言った。「おまえは脚の方を持て」

私たちは彼を運んだが、二人がかりでも鉛の棺桶のように重かった。階段を上りきると、開け放しのバルコニーを通り、閉まったドアの前を通り過ぎた。キャンディはそのドアを顎で指し示した。

「La señora(セニョーラ)」と彼は囁いた。「そっとノックするといい。部屋に入れてくれるかも」

手伝いが必要だったから、私は何も言わなかった。私たちは物言わぬ身体を引きずりながら進み、別のドアから中に入り、彼をベッドに放り投げた。それから、キャンディの肩のすぐ上、指が食い込めば痛む箇所をつかんで力を入れ、痛い目を見せてやった。彼は少し顔をしかめたが、すぐに表情を硬くした。

「名は何という、チョロ?」

「手を放せ」と彼は噛みつくように言った。「それに、チョロなんて呼ぶな。俺は不法移民じゃない。俺の名はフアン・ガルシア・デ・ソト・イ・ソトマヨール。チリ人だ」

「オーケイ、ドン・ファン。ただ、この界隈じゃ、身の程をわきまえることだ。雇い主の話をするときは、余計なことに口をはさむな」

彼は身をふりほどき、後ずさった。黒い瞳は怒りに燃えていた。手がシャツの中に滑り込み、細長いナイフを取り出した。そして、ほとんど目もやらず、切っ先を手のひらの付け根に乗せてバランスをとった。やがて手を下ろすと同時に宙に浮いたナイフの柄を素早くつかみ取った。動作は極めて素早く、何の苦もなく行われたように見えた。彼の手が肩の高さまで上がり、鋭く前方に突き出されると、ナイフは空を切り、窓枠の木部に突き刺さって小刻みに震えた。

「Cuidado(気をつけな)、セニョール」彼は嘲りを浮かべ、鋭く言った。「自分の頭の上の蠅を追ってろ。おれを甘く見ない方がいい」

彼はしなやかな足取りで部屋を横切り、窓枠からナイフを引き抜くと、空中に放り投げ、爪先を軸にくるりと身を翻して背後で受け止めた。一瞬の間にそれはシャツの下へと消えた。

「見事なものだ」と私は言った。「が、ちょっと見映えに凝り過ぎるきらいがある」

彼は嘲るような笑みを浮かべながら、私の方へ歩み寄ってきた。

「それに、肘を折られかねない」と私は言った。「こんなふうに」

私は彼の右手首をつかみ、バランスを崩させると、彼の斜め後ろに回り込み、曲げた前腕を彼の肘関節の裏に下から当てがい、前腕をてこの支点にして力を入れた。

「もうひとひねりすれば」と私は言った。「肘の関節がぽきんと鳴る。ぽきんと鳴るだけで充分だ。そうすれば、数ヶ月間はナイフ投げの仕事は食い上げ。もう少し強くひねれば、永久におさらばだ。さあ、ミスタ・ウェイドの靴を脱がせるんだ」

私は彼から手を離した。彼はにやりと笑って言った。「うまい手だ。覚えておくよ」

彼はウェイドの方を向き、靴の片方に手を伸ばしかけて、動きを止めた。枕に血の跡がついていた。

「誰がやった?」

「私じゃない。自分で転んで、何かで頭を切ったんだ。傷は浅い。さっきまで医者もいた」

キャンディはゆっくり息を吐いた。「転ぶところを見たのか?」

「私がここに来る前のことだ。おまえはこいつのことが好きなんだな?」

彼は私に答えず、靴を脱がせた。私たちは少しずつウェイドの服を脱がせ、キャンディが緑と銀色のパジャマを引っ張り出してきた。私たちはウェイドにそれを着せ、ベッドに寝かせて、しっかりと布団をかけてやった。彼はまだ汗をかいており、いびきをかいていた。キャンディは悲しげな様子で彼を見下ろし、その手入れの行き届いた頭をゆっくりと左右に振った。

「誰かが彼の世話をしなきゃならない」と彼は言った。「服を着がえてくる」

「もう寝ていい。彼の面倒は私が見る。何かあれば呼ぶ」

彼は私の方を向いた。「しっかり面倒見ててくれ」と、彼は静かな声で言った。「くれぐれもな」

彼は部屋を出ていった。

バスルームへ行き、濡らしたフェイスタオルと厚手のタオルを持ってきた。ウェイドの体を少し横向きにして枕にタオルを敷き、再び出血させないよう慎重に頭の血を拭き取った。すると、二インチほどの、鋭いが浅い切り傷が見えた。大したことはなかった。ドクター・ローリングの言った通りだった。縫ってもいいように思えたが、おそらくそこまでの必要はなかったのだろう。鋏を見つけて、絆創膏が貼れる程度に髪の毛を切り取った。それから仰向けにして顔を洗った。思うにそれがいけなかったのだろう。

彼は目を開けた。最初は視界がぼやけていて焦点が定まらなかったが、やがてはっきりとし、ベッド脇に立っている私に気づいた。彼の手が動いて頭に触れ、そこに貼られた絆創膏の感触を確かめた。唇が何かを呟き、やがて声もはっきりとしたものになった。

「誰がやった? きみか?」手で絆創膏を触っていた。

「誰がやったのでもない。自分でひっくり返ったんだ」

「ひっくり返った? いつ? どこで?」

「どこだか知らないが、あんたが電話をかけていたところだ。私に電話してきた。倒れる音が聞こえた。電話越しに」

「きみに電話した?」彼はゆっくりと笑みを浮かべた。「常時利用可能っていうわけか、きみは? 今何時だ?」

「夜中の一時過ぎだ」

「アイリーンはどこに?」

「寝た。さすがにこたえたようだ」

彼は黙ってそのことを考えていた。眼には苦痛が満ちていた。「もしかして、俺は――」彼は言葉を切り、顔をしかめた。

「私の知る限り、あんたは彼女に触れていない。気にしてるのがそのことなら。あんたはふらふらと外に出て行って垣根の傍で倒れた。話はやめだ。眠るんだ」

「眠る」と、彼は子どもが教わったことを暗唱するように、静かにゆっくりと言った。「眠りとはいったい何だ?」

「薬でも飲めば眠れるかもしれない。あるか?」

「抽斗のなか。ナイトテーブルだ」

抽斗を開け、赤いカプセル入りのプラスティック瓶を見つけた。セコナール、一・五グレイン。処方ドクター・ローリング。親切なドクター・ローリング。ミセス・ロジャー・ウェイドのための処方箋だ。

私は二錠を振り出し、瓶を元に戻すと、ナイトテーブルの上の魔法瓶からグラスに水を注いだ。彼は、カプセル一錠で十分だと言った。彼はそれを飲み、水を少し口にすると、再び仰向けになって天井を見つめた。時間が過ぎていった。私は椅子に座り、彼を眺めていた。彼は眠くなる様子もなかった。やがて、彼はゆっくりと言った。

「思い出したことがある。頼みがあるんだ、マーロウ。つまらないことを書いてしまったが、アイリーンに見られたくない。タイプライターのカバーの下の一番上に置いてある。破り捨ててくれないか」

「いいとも、思い出したのはそれだけか?」

「アイリーンは大丈夫なんだな、本当に?」

「ああ、ちょっと疲れただけだ。そっとしておこう。考えるのはよせ。尋ねたのがいけなかった」

「考えるのはよせ、と男は言う」彼の声は、今や少し眠たげだった。まるで独り言を言うように話していた。「考えるのはよせ、夢を見るのもよせ、愛するのもよせ、憎むのもよせ。おやすみ、優しい王子様。もう一錠飲んだほうがよさそうだ」

私は薬に加え、水を少し飲ませた。彼はまた横になったが、今度は私が見えるように頭を向けていた。「いいか、マーロウ。アイリーンには知られたくないことをいくつか書いたんだが……」

「さっきも聞いた。あんたが寝たら始末しておく」

「ありがとう。きみがいてくれてとても助かる」

また少し長い沈黙が続いた。彼のまぶたが重くなってきた。

「人を殺したことはあるか、マーロウ?」 

「ある」

「嫌な気分になるだろう?」

 「それを好む連中もいる」

目蓋がすっかり閉じられた。それから再び開いたが、その眼差しは虚ろだった。「どうしてそんなことが?」

私は答えなかった。目蓋が再び、劇場の幕がゆっくりと下りていくかのように、じわじわと閉じていった。彼はいびきをかき始めた。私はもう少しだけ待った。それから部屋の明かりを暗くして、その場を後にした。

【解説】

電話で呼ばれたマーロウがウェイド邸で見たものは、ショック状態のアイリーンと、頭に傷を負ったウェイドだった。マーロウはキャンディと二人で泥酔状態のウェイドを二階に運ぶが、作家は何かの思念にとらわれているようだった。

キャンディの出で立ちは

“The Mex had a black and white checked sport shirt, heavily pleated black slacks without a belt, two-tone black and white buckskin shoes, spotlessly clean.(メキシコ人は白黒のチェック柄のスポーツシャツに、やたらタックの入ったベルトなしの黒ズボン、それに、しみひとつない白黒コンビのバックスキンの靴という出で立ちだった)

清水訳は「メキシコ人のキャンディは黒と白の格子縞(こうしじま)のスポーツ・シャツにひだ(傍点二字)の多い黒のスラックス、ベルトはなく、きれいに磨かれた黒と白のバックスキンの靴をはいていた」

“Mex”は「メキシコ人」のことだが、初対面ではないキャンディを、なぜこの呼称で呼んだのだろう。お仕着せではなく、洒落のめした格好で着飾っている使用人に対する、ある種の違和感の表明か。村上は原文通り「メキシコ人」、田口は「キャンディ」、市川は、その曰く言い難いニュアンスを「メキシカンのあんちゃん」と表現している。名訳とは言えないが苦労の跡はうかがえる。

シャツに関しては特段に異同はないが、“heavily pleated black slacks without a belt”については、いろいろある。村上は「たっぷりとプリーツのついたベルトなしの黒いズボン」。田口は「やたらとプリーツのついたベルトなしのズボン」と、「黒い」を忘れている。市川は「ピシッと折り目のついた黒のベルトレス・スラックス」だ。「たっぷりと」「やたら」といってもタックはふつう、多くても三本までだろう。ズボンに折り目が効いていることを“heavily”とまでいうだろうか? これといった決め手はない。ただ、ベルト通しがないのなら、サスペンダー用の造りで、チェックのスポーツシャツとはちぐはぐだ。

“two-tone black and white buckskin shoes, spotlessly clean”についてだが、「バックスキン」というのは牡鹿の表皮を起毛させたもので、村上のいう「スエード靴」(牛等の革の裏面を毛羽立てたもの)とは別物である。“spotlessly clean”を「きれいに磨かれた(清水)」と訳すのは、バックスキンの靴というイメージには合わない気がする。ここは「しみひとつない(村上)」「汚れひとつない(田口)」「一点の汚れもない(市川)」の方が無難だろう。

“Let's put this to bed"は「さっさと片づけよう」

"Let's put this to bed"を、清水は「ベッドに運ぶんだ」。村上は「この男をベッドまで運ぼうじゃないか」。田口は「この御仁をベッドに運ぼう」。市川は「ほら、彼をベッドまで運ぶぞ」と訳している。これでまちがいはない。しかし、“Let's put this to bed”は、ベッドとは関係なく「この件に決着をつけよう」という意味でよく使われるイディオムだ。ウェイドを運ぶ先がベッドだったので、マーロウはこの慣用句を使うことにしたのだろう。あまり、うまくハマっているので、シャレに気づかない。

酔っ払いの喩えは、樽や雌豚

"He may be drunk as a sow but he sure ain't little" (豚みたいに酔っ払ってるかもしれないが、小さくないのは確かだ)

清水訳は「酔っぱらってることはたしかだが、小さな人間じゃない」。だが「酔っ払い」と「小さな人間」とがどう関係するのかがよく分からない。村上は「ひどく酔っぱらってはいるが、だからといって軽くはないぜ」、田口も「酔ってはいるかもしれないが、だからといって軽くはないぜ」。市川は「へべれけに酔っているだろうが運ぶのは楽じゃないぞ」と訳している。

これには少々説明が必要だ。キャンディの言う「Borracho como una cuba」は、スペイン語で「ひどく酔っ払ってる」ことをいう時に使われる表現だ。ハワード・ホークス監督の映画『リオ・ブラボー』で、ディーン・マーティン演じる酒に溺れた副保安官が「ボラーチョ」と呼ばれていたことを思い出す。内側に酒がいっぱい詰まっているのが樽と同じ、という意味らしい。

同じく「ひどく酔っぱらっている」ことを英語では“drunk as a sow”(雌豚のように酔っ払う)と言う。由来は諸説あるらしいが、雌豚をスカンクに置き換えるなど、よく似た表現はいくつもある。キャンディのスペイン語による表現をアメリカのスラングで言い換えて、樽にしても豚にしても「小さくはない」と落ちをつけるあたり、こんなときでも、マーロウの口の減らないところがたのもしい。

軸になったのは爪先か、踵か

“He walked lithely across the room and plucked the knife out of the wood, tossed it in the air, spun on his toes and caught it behind him.”(彼はしなやかな足取りで部屋を横切り、窓枠からナイフを引き抜くと、空中に放り投げ、爪先を軸にくるりと身を翻して背後で受け止めた)

“spun on his toes”は清水訳では「爪先でくるりとまわって」だ。ところが、村上訳は「かかとを軸にくるりと回転し」、田口訳も「踵を軸にくるりと半回転して」になっている。市川訳は「と同時にくるっと背を向けると」と軸足については言及していない。“on one's toes”は「爪先で」の意味だから、これは旧訳が正しい。田口が新訳として村上訳を参照するのは理解できるが、清水訳と突き合わせてみることをおざなりにしたのが悔やまれてならない。

“It wouldn't hurt to 〜”は「〜しても悪くはない、しても損はない」

“It wouldn't have hurt to stitch it but it probably was not really necessary.”(縫ってもいいように思えたが、おそらくそこまでの必要はなかったのだろう)

“It wouldn't have hurt to〜″を直訳すると「〜しても痛みを伴わない(傷つかない)」という意味になる。そこから、「やっておいても損はない」という軽い提案を表すことになる。村上は「縫ってもそれほどの痛みはないだろうが、あえて縫う必要もなさそうだった」と直訳そのままである。田口も「縫ってもさほど痛くはなさそうだが、わざわざ縫うほどのこともないように思えた」と、例のごとく村上の後を追っている。

軽い切り傷にしろ、そのまま縫えば痛いにちがいない。その痛みで酔っ払いが目を覚ますと何かと面倒だ。麻酔くらいはかける必要がある。ドクター・ローリングにしてみれば、ウェイドのためにそんな手間はかけたくなかったのだろう。清水は「縫ってもよさそうに思えたが、おそらく、その必要はなかったのであろう」と正しく訳している。市川は「縫合してもいいが多分その必要もないだろう」と清水訳を踏まえている。

 

 

 

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

25

“go about one's business”は「自分のすべきことをする」

【訳文】

一週間は何も起こらなかった。いつものように仕事をこなしていたが、その頃の私には仕事というほどの仕事はなかった。ある朝、カーン・オーガニゼーションのジョージ・ピーターズから電話があり、たまたまセプルヴェダ・キャニオン方面を通りかかった際、好奇心からドクター・ヴェリンジャーの邸宅を覗いてみたが、ドクター・ヴェリンジャーはそこにはいなかったという話だった。六組ほどの測量士のチームが宅地造成のための地図作成を行っていた。彼が話を聞いた者たちは、ドクター・ヴェリンジャーのこ​​となど聞いたこともなかった。

「哀れなやつだ、信託証書を書かされて放り出されたんだ」とピーターズは言った。「調べてみた。連中はヴェリンジャーに千ドルやって、土地の権利放棄証書にサインさせた。時間と費用を節約するためだ。土地を分割して住宅用地に売りさばくことで、誰かが百万ドルを丸儲けすることになる。それが犯罪とビジネスのちがいだ。ビジネスには資本が必要なんだ。時には、それが唯一のちがいなんじゃないかと思うこともあるよ」

「皮肉を飛ばすにしちゃずいぶんお行儀のいいことだ」と私は言った。「とはいえ、犯罪も規模が大きくなると資本が必要になる」

「で、その資本はどこから来るんだ?  酒屋を襲うような連中からじゃない。じゃあ、またな」

木曜日の夜十一時十分前、ウェイドから電話がかかってきた。声はくぐもっていて、ごほごほと喉を鳴らすような音さえ混じっていたが、それでも私はそれが誰だかすぐに分かった。受話器越しに、荒く激しい息遣いも聞こえてきた。

「具合が悪いんだ、マーロウ。かなりひどい。箍がはずれそうだ。すぐに来てくれないか?」

「いいとも――だが、その前にミセス・ウェイドと話させてくれ」

返事はなかった。何かが壊れる音がして、その後、完全な沈黙、しばらくすると、何かを叩きまわるような音が聞こえてきた。私は電話に向かって何か叫んだが、返事はない。時間が過ぎた。やがて、受話器が置かれるかすかな音のあと、通話の終わりを意味する機械音が聞こえた。

五分後にはもう車を走らせていた。半時間ほどで到着したが、どうやったのか自分でもわからない。飛ぶような勢いで峠を越え、ベンチュラ・ブールバードに出たときは信号を無視して左折し、二台のトラックの間をすり抜けるなど、我ながらとにかく愚かな真似をした。車から急に降りようとする者の動きを封じるために駐車中の車列にスポットライトを当てながら、時速六十マイルでエンシーノを走り抜けた。もうどうでもいいと開き直った者だけが恵まれる類いのツキだった。警官も、サイレンも、赤い点滅灯もなかった。ただ、ウェイド邸で今まさに何が起きているのかという想像だけが頭の中を駆け巡り、その想像は決して心地よいものではなかった。彼女は気のふれた酔っ払いと二人きりで家にいる。首の骨を折られて階段の下に横たわっている。鍵をかけたドアの内側にいて、外で誰かが吠え立て必死にドアを破ろうとしている。月明かりに照らされた道を裸足で駆け下りる彼女を、肉切り包丁を持った黒人の大男が追いかけている。

実際はそんなことはなかった。オールズを私道に滑り込ませると、家中の明かりがついていて、彼女は開け放たれた扉口に煙草をくわえて立っていた。私は車から降り、石畳を歩いて彼女のところへ近づいた。彼女はスラックスに、襟の開いたシャツを着ていた。彼女は穏やかに私を見つめていた。もしそこに何か興奮のようなものがあったとすれば、それは私が持ち込んだものだった。

私が最初に口にした言葉は、それ以外の私の振る舞いと同様、馬鹿げたものだった。「煙草は吸わないと思っていた」

「えっ? そうね、ふだんは吸わない」彼女は煙草を口から外して眺めると、それを落とし、足で踏みつけた。「ごくたまにね。彼がドクター・ヴェリンジャーに電話したの」

どこか遠くから聞こえてくるような穏やかな声だった。夜、水面越しに聞こえてくるような声だ。完全にくつろいだ響きだった。

「それは無理だ」と私は言った。「ドクター・ヴェリンジャーはもうあそこには住んでいない。電話を受けたのは私だ」

「ほんとに? 彼が誰かに電話してすぐ来てくれというのを聞いて、きっとドクター・ヴェリンジャーだと思った」

「彼は今どこに?」

「倒れてる」彼女は言った。「椅子を後ろに傾け過ぎたのね。前にもやったことがある。何かで頭を切って、少し血が出てる。たいした傷じゃない」

「それはよかった」と私は言った。「血塗れというのは願い下げだ。で、今はどこに、と訊いたんだが」

彼女は真面目くさった顔で私を見てから指差した。「どこかその辺。道路脇か、垣根沿いの茂みの中か」

私は身を乗り出して彼女を見つめた。「何だって、見てなかったのか?」そこでようやく、彼女がショック状態にあることに気がついた。それから、芝生の向こうに目をやった。何も見えなかったが、垣根の近くに黒々とした影があった。

「そう、見ていない」と彼女はいたって冷静に言った。「あなたが探して。私のできることはすべてやった。これ以上はもう無理。あなたがやって」

彼女はそう言い置いて背を向け家の中に入っていった。ドアは開けっ放しだ。が、そう長くは歩けなかった。ドアから一ヤードほど中に入ったところで頽れ、床に横たわった。私は彼女を抱き上げ、白くて細長いカクテルテーブルを挟んで向かい合うように置かれた二つの大きなダヴェンポートの一つに横たえた。脈を測ってみたが、それほど弱くも不規則でもないようだった。彼女は目を閉じており、まぶたは青ざめていた。私は彼女をそこに残し、外へ戻った。

彼はまさしく彼女が言ったところにいた。ハイビスカスの陰に横向きに寝転がっていた。脈は速く激しく打っており、呼吸も不自然だった。後頭部には何かがべっとりと付着していた。私は彼に声をかけ、少し揺さぶってみた。何度か頬を叩いた。彼は何かを呟いたが、意識は戻らなかった。私は彼を引き起こして座らせ、片腕を自分の肩に回し、背を向けて彼を担ぎ上げようと、その脚をつかんだ。だが、持ち上げられなかった。彼はまるでセメントの塊のように重かった。ふたりで芝生の上にへたり込み、私は少し息を整えてからもう一度挑戦した。ようやく消防士がするように肩にかつぎ上げ、開いた玄関ドアの方へよろよろと芝生を横切った。その距離がシャムへの往復と同じくらいに感じられた。ポーチの二段の階段は高さが十フィートもあるように思えた。私はよろめきながらカウチまで行き、膝をついてその上に彼を転がした。再び立ち上がったとき、背骨に少なくとも三か所は罅が入ったような気がした。

アイリーン・ウェイドの姿はもうなかった。部屋には私一人きりだ。誰がどこにいようと気にする余裕などないほど、私は疲れ切っていた。腰を下ろして彼を見つめ、息を整える。それから彼の頭に目をやった。血がべっとりと付着し、髪の毛も血で濡れて粘ついていた。見たところそれほどひどい傷には見えなかったが、頭部の傷というのは油断できないものだ。

気がつくと、アイリーン・ウェイドが私の傍に立っていた。さっきと同じ心ここにあらずといった表情で彼を見おろしていた。

「ごめんなさい、気を失ってしまって」彼女は言った。「どうしたのか、わけが分からない」

「医者を呼んだ方がいい」

「ドクター・ローリングに電話した。私のかかりつけ医なの。でも、来たがらなかった」

「じゃ、誰か他の医者を」

「もう、こちらへ向かってる」彼女は言った。「気は進まないが、できるだけ急いで来てくれるそうよ」

「キャンディはどこ?」

「今日は非番、木曜日は。コックもキャンディも木曜日は休み。このあたりではどこもそう。ベッドに運べる?」

「一人じゃ無理だ。膝掛けか毛布を用意したほうがいい。今夜は暖かいが、こんなときは肺炎にかかりやすいから」

彼女は膝掛けを持ってくると言った。なんて親切なんだ、と思った。だが、頭がまともに働いていなかった。彼を抱えて運んだせいで、ひどく疲れ切っていたせいだ。

彼に旅行用の膝掛けを掛けてやると、十五分ほどでドクター・ローリングがやってきた。糊のきいた襟に縁なし眼鏡という出で立ちで、犬のゲロの始末を頼まれた男のような表情を浮かべていた。

彼はウェイドの頭部を調べた。「浅い切り傷と打撲だ」と彼は言った。「脳震盪の恐れはない。息の匂いを嗅げば、容体は一目瞭然だろう」

彼は帽子に手を伸ばし、鞄を取り上げた。

「温かくしておくことだ」彼は言った。「そっと頭を洗って血糊を落とすといい。寝ればよくなる」

「私ひとりじゃ二階に運び上げることができないんだが、ドクター」と私は言った。

「それなら、そのままにしておけばいい」彼は無関心な様子で私を見た。「おやすみなさい、ミセス・ウェイド。ご承知の通り、私はアルコール依存症の患者は扱わない。仮に扱ったとしても、あなたの夫が私の患者になることはない。よくお分かりだと思うが」

「治療してくれと頼んだわけじゃない」と私は言った。「二階の寝室まで運ぶのを手伝ってくれと言ってるだけだ。そうすれば着替えさせられる」

「きみは誰だ?」ドクター・ローリングはぞっとするほどよそよそしく私に尋ねた。「名前はマーロウ。一週間前にもここにいて、きみの妻が引き合わせてくれた」

「面白い」と彼は言った。「妻とはどういう関係で知り合ったのかな?」

「それがどうした。私が今頼んでいるのは――」

「きみがどう思おうと興味がない」と、彼は私の言葉を遮った。アイリーンの方を向いて軽く頷くと、彼は歩き出した。私は彼とドアの間に割って入り、背中でドアを塞いだ。

「ちょっと待ってくれ、ドク。ヒポクラテスの誓い、と呼ばれるあの一節を目にしてからずいぶん時が経ってしまったようだな。私はこの男に電話で呼ばれたんだが、住まいは遠くてね。声の様子が剣呑だったから、州の交通法規を片っ端から破る勢いで車を飛ばしてきた。着いてみたら彼が地面に倒れていて、ここまで抱えて運んだんだ。一言言わせてもらうが、中身は羽毛じゃない。ハウスボーイは留守で、ウェイドを二階へ運ぶのを手伝ってくれる人間もいない。そういう状況をあんたはどう思う?」

「そこをどけ」と彼は歯の間から言葉を押し出すように言った。「さもなければ保安官の分署に電話して、保安官代理を寄こしてもらうぞ。医療のプロとして――」

「医療のプロとしちゃあ、あんたは蚤の糞ほども役に立たない」と私は言って、道をあけてやった。

彼は顔を赤らめた――ゆっくりと、だがはっきりと。彼は込み上げる怒りを飲み込んだ。それからドアを開けて外へ出た。彼は丁寧にドアを閉めた。閉めながら、私を振り返った。それは私がこれまでに向けられた中で最も不快な眼差しであり、これまでに見た中で最も不快な顔つきだった。

ドアから離れると、アイリーンが微笑んでいた。

「何がおかしい?」と、私は歯を剥き出して言った。

「あなたよ。あなたは人にものを言うとき歯に衣を着せない、でしょ? ドクター・ローリングが誰か知らないの?」

「いや、知ってる。彼が何者かは」

彼女は腕時計をちらっと見た。「キャンディが家に戻ってるころかもしれない」彼女は言った。「見てくる。ガレージの裏に住んでるの」

彼女がアーチ状の通路を通って出ていくと、私は腰を下ろし、ウェイドに目をやった。偉大な巨匠は、いびきをかき続けていた。顔には汗が浮かんでいたが、私は掛けた膝掛けをそのままにしておいた。一、二分もしないうちにアイリーンが戻ってきた。キャンディを連れて。

【解説】

一週間何事もなく過ごしていたマーロウに、ある夜ウェイドから電話がかかってきた。電話の声に異変を感じたマーロウはウェイド邸に急行する。ウェイドは椅子から落ちて怪我をしていたが、心配していたアイリーンは無事だった。マーロウは嫌々様子を見に来たドクター・ローリングの医者らしからぬ態度に腹を立てる。

“go about one's business”は「自分のすべきことをする」

Nothing happened for a week except that I went about my business which just then didn't happen to be very much business.(一週間は何も起こらなかった。いつものように仕事をこなしていたが、その頃の私には仕事というほどの仕事はなかった)

何も起きない日々の探偵の日常を語るこの一文。清水訳は「私は大して仕事にならないことに追いまわされていた」。これでいいようなものだが、村上は「ひとつ仕事にとりかかったのだが、途中で立ち消えになってしまった」と思わせぶりな訳になっている。それを受けたのだろう、田口訳も「ひとつ仕事はしたのだが、結局、仕事とも言えない結果に終わってしまった一件があっただけだった」と訳している。

“go about one's business”は「自分のすべきことをする、自分の仕事にとりかかる」というイディオム。“didn't happen to be very much business”についてだが、否定文の中での very much は「あまり〜ない」「それほど〜ない」という意味で、「仕事というほどの仕事ではない」ということだろう。村上、田口訳のように「ひとつ仕事をした」というほどの特筆すべき仕事があったのかどうか疑問に思う。市川は「といっても、一応仕事はした。といってもろくな稼ぎにはならない仕事だ」と訳している。短い文のなかに同じ言葉が繰り返されるのはどうかと思うが、「半端仕事をした」という訳になっていないのが救いか。ここも旧訳のままでよかったのではないか。

“the buzz of an open line”はどんな音なのか?

Time passed. Finally the light click of the receiver being replaced and the buzz of an open line.(時間が過ぎた。やがて、受話器が置かれるかすかな音のあと、通話の終わりを意味する機械音が聞こえた)

清水は「やがて、受話器をかける音がして、電話が切れた」。村上は「やがて受話器の戻されるかちっという軽い音が聞こえ、接続が切れた。あとにはぶううんという音が残った」。田口は「そのうち受話器が戻された軽く乾いた音が聞こえて電話が切れ、あとはツーという機械音になった」としている。市川は「そうこうするうちに受話器が架台に置かれる、かすかなクリック音がすると続いて回線が切れたブーブーという音がした」だ。

受話器を置いた時点で電話は切れている。その後に聞こえる“the buzz of an open line”は、むしろ回線がつながっていることを示す音ではないだろうか。“an open line”を「切れた回線(接続)」と訳すのは無理があるように思う。

“blond cocktail table”は何色?

I scooped her up and spread her out on one of the two big davenports that faced each other across a long blond cocktail table.(私は彼女を抱き上げ、白くて細長いカクテルテーブルを挟んで向かい合うように置かれた二つの大きなダヴェンポートの一つに横たえた)

“blond(e)”は一般的には「金髪」と訳されることが多いが、家具や車等に使う場合、いわゆる「シャンパン・ゴールド(白やベージュを含んだやわらかく上品な金色)」を指すことが多い。清水訳では「金色」とされていたが、村上訳で「淡い色合いの」に変わり、田口訳では「薄い色の」、市川訳では「白い」に変わっている。夜の室内であることを考えれば、純白ではないにしても「白い」で問題ないだろう。残念なことに市川訳では形状を表す「細長い」が抜け落ちているが。

“rug”は「膝掛け」

“Better get a rug or blanket”(膝掛けか毛布を用意したほうがいい)の“rug”だが、清水はちゃんと「膝かけ(傍点二字)か毛布を持っていらっしゃい」と訳している。ところが、村上訳で「上掛けとか毛布とか」になって以来、田口も市川も“rug”に「上掛け」という訳語を踏襲している。村上訳ではアイリーンが持ってきたのが、「膝掛け毛布」となっているが、田口、市川はそこも「上掛け」で通している。原文ではアイリーンが持ってきたのは“steamer rug”となっている。蒸気船の船旅で、デッキチェアに寝転んだ乗客が上に羽織る厚手のウール地の膝掛けだ。広辞苑によれば「上掛け」とは「こたつぶとんなどの上にかけて覆う布」とある。村上訳が出た頃、かなり批判されたことを覚えている。当時は詳しく読んでいなかったので不思議に思ったが、読み比べをしてみてよく分かった。清水訳のままでよかったのでは、と思う箇所がけっこう多いのだ。

マーロウはなぜ、“dirt”を、“ flea dirt”と言い換えたか

“As a professional man you're a handful of flea dirt,"(医療のプロとしちゃあ、あんたは蚤の糞ほども役に立たない)。マーロウがドクター・ローリングに向けて放った台詞だが、“a handful of dirt”(一握りの土)はよく使われる表現で、イーヴリン・ウォーにも“a handful of dust”(『一握の塵』)という作品がある。“a handful of ~”は「僅かな、少量の〜」という意味で、「~」に入る“dirt”は「不潔物、泥、ほこり、ごみ、垢、排泄物、くそ、ふん、土」など、あまり価値のないものが多い。直訳すれば「専門家として、あんたは一つかみの蚤の糞だ」。

それではあんまり不親切なので、清水訳は「のみ(傍点二字)のくそ(傍点二字)にも劣る人間さ」とマーロウの気持ちを忖度して意訳した。それが後を引いたのか、「あなたには蚤の糞ひとつかみほどの値打ちもない(村上)」、「おたくにはノミのクソほどの値打ちもないよ(田口)」、「あんたは蚤のフン溜りだ(市川)」とマーロウの、ドクター・ローリングに対する毒舌が過熱してゆく。

しかし、ここはドクター・ローリングの人間としての値打ちを評したのではなく、日本でも「くその役にも立たない」というように、力の足しにならない連中のことをいう「十把一絡げ」に似た“a handful of dirt”を持ち出したのではないだろうか。そして、その前にわざわざ「蚤の」とつけ加えることで、卑小さを際立たせている。一介の探偵風情が体を張って人を助けようとしているのに、医療のプロを自認する男が肩ひとつ貸そうとしないことに対するマーロウの皮肉なのだ。だが、ドクター・ローリングに限らず、医者などという知的な仕事に携わる人々は、特に理由がなければ、力仕事に手を貸したりはしないものだ。宿敵ともいえるウェイドに手を触れたくないドクター・ローリングの気持ちは分からないでもない。

この場面もそうだが、この章のマーロウは少し常軌を逸しているように思う。交通規則の無視もそうだが、ウェイドに呼ばれたのに、心配はアイリーン一人に向けられ、その妄想の広がりようもかなりのものだ。ドクター・ローリングに対する態度にしても、第三者としては立ち入り過ぎている。よくマーロウは騎士道物語の騎士に喩えられるが、さしづめアイリーンは騎士マーロウの思い姫なのだろう。早く目を覚まして冷静に自分の置かれた状況を客観視しなければ、ウェイドの心配が現実化しかねない。そんな気にさせる第二十五章である。

 

 

 

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

24

"Leave someone holding the bag"の誰かは、必ずしも鞄を抱えているわけではない

 

【訳文】

彼がドアを開けると、居間のざわめきが我々の顔に炸裂した。以前よりもさらに大きくなったように感じた。まるでグラス二杯分くらい飲んだ後のような、そんな感じだった。ウェイドはあちこちで挨拶し、人々は彼に会えて喜んでいるようだった。しかし、その頃には、いま目にしてる男が、特注のアイスピックを手にしたピッツバーグ・フィルだったとしても喜んでいただろう。人生とは、ただの大きなヴォードヴィル・ショーに過ぎない。

バーへ向かう途中、ドクター・ローリングとその妻と顔を合わせた。ドクターは立ち上がり、ウェイドに向き合った。その表情は、まるで憎しみに苛まれているかのようだった。

「ようこそ、ドクター」ウェイドは親しげに言った。「やあ、リンダ。ここんとこ、ごぶさただったじゃないか? いや、聞くも愚かなことだった。こっちが――」 

「ミスタ・ウェイド」ローリングは震える声で言った。「きみに言うことがある。とても単純なことで、これっきりにしたい。妻に近づくな」

ウェイドはけげんな顔で彼を見つめた。「ドクター、お疲れのようだ。それに飲んでもいない。一杯持ってこよう」

「私は飲まない、ミスタ・ウェイド。知っての通り。私がここへ来たのは目的があってのことで、それは今果たした」

「まあ、言いたいことは分かった」ウェイドは相変わらず愛想よく言った。「それにあなたはこの家の客だから、私としては、あなたは何か見当違いをしているようだ、としか言いようがない」

近くの話し声が途絶えた。男も女も皆、聞き耳を立てていた。こいつは見ものだ。ドクター・ローリングはポケットから手袋を取り出し、まっすぐに伸ばすと、片方の指先をつかみ、ウェイドの顔に思い切り振り下ろした。

ウェイドは瞬きひとつしなかった。「夜明けにピストルとコーヒーかい?」彼は静かに訊いた。

私はリンダ・ローリングを見た。怒りで顔が真っ赤になっていた。ゆっくり立ち上がるとドクターに向き合った。

「まったく、なんて大げさな人なの、ダーリン。いい加減馬鹿げた真似はやめてくれない? それとも、誰かに引っぱたかれるまでここに居座るつもり?」

ローリングは彼女の方を振り向き、手袋を構えた。ウェイドが割って入った。「落ち着くんだ、ドク。この辺りじゃ、妻に手を上げるのは人目のないところでだけだ」

「きみ自身のことを話してるのか? それならよく分かるが」ローリングは嘲笑った。「きみからマナーを教えてもらう気はない」

「見込みのある弟子しかとらないんでね」ウェイドは言った。「こんなに早くお帰りとは残念だ」それから声を張り上げた。「キャンディ! Que el Doctor Loring salga de aqui en el acto!(ドクター・ローリングを今すぐここから連れ出せ)」そしてドクターに向き直った。「スペイン語が不案内なら、ドクター、今のは、お帰りはあちら、という意味だ」と言って指さした。

ローリングは微動だにせず彼を見つめた。「警告したぞ、ミスタ・ウェイド」と彼は氷のような声で言った。「何人もの人が私の言葉を聞いている。二度と警告はしない」

「それがいい」とウェイドはぶっきらぼうに言った。「でも、どうしてもやるなら、中立の場所でやれ。そうすれば、私の行動の自由がもう少し広がる。すまん、リンダ。だが、彼と結婚したのはきみだ」彼は、手袋の分厚い部分で殴られた頬をそっとさすった。リンダ・ローリングは苦々しい笑みを浮かべ、肩をすくめた。

「失礼する」ローリングは言った。「来るんだ、リンダ」

彼女は座り直してグラスに手を伸ばし、夫に静かな侮蔑の眼を向けた。「あなたは帰って」と彼女は言った。「いくつか往診の予定が入ってたはずよ、忘れないで」

「一緒に帰るんだ」と彼は激怒して言った。

彼女は彼に背を向けた。彼は突然手を伸ばし、彼女の腕をつかんだ。ウェイドは彼の肩をつかみ、くるりと振り向かせた。

「落ち着けよ、ドクター。何だって思い通りになるわけじゃないさ」

「手を放せ!」

「わかった、ちょっと落ち着こう」ウェイドは言った。「いい考えがある、ドクター。いい医者に診てもらったらどうかな?」

誰かが大声で笑った。ローリングは今にも飛びかかろうとする獣のように身構えた。ウェイドはそれを察し、さりげなく背を向けて立ち去った。ドクター・ローリングは窮地に立たされた。ウェイドを追いかければ、今以上に滑稽に見えるだろう。彼に残された道は立ち去ることだけだった。そして彼はそうした。キャンディがドアを開けているところまでまっすぐ前を見つめながら、彼は足早に部屋を横切った。彼が出て行くと、キャンディは無表情でドアを閉め、バーに戻った。私はそこへ行き、スコッチを頼んだ。ウェイドがどこへ行ったのかは分からなかった。彼は忽然と姿を消した。アイリーンも見当たらなかった。私は湧きかえる部屋に背を向け、素知らぬ顔でスコッチを飲んだ。

泥のような色の髪の、額にバンドを巻いた小柄な娘が私のそばにひょっこり現れ、グラスをカウンターに置いて哀れっぽい声を出した。キャンディはうなずき、お代わりをつくった。

小柄な娘は私の方を向いた。「共産主義に興味ある?」と彼女は尋ねた。とろんとした目をして、まるでチョコレートのかけらを探すかのように、小さな赤い舌を唇に這わせていた。「みんな興味を持つべきだと思う」と彼女は続けた。「でも、ここにいる男の人に聞いても、みんなただ触りたがるだけなの」

私は頷き、グラスごしに彼女の低い鼻と日焼けで荒れた肌を見た。

「まあ、うまくやってくれれば、それほど気にしないわ」と彼女は言い、新しい飲み物に手を伸ばした。彼女はそれを半分ほど飲み干すとき、臼歯まで見えた。

「ご期待にはそえない」と私は言った。

「何て名前?」

「マーロウ」

「後ろにeはつく、つかない?」

「つく」

「嗚呼、マーロウ」と彼女は詠うように言った。「なんて悲しくも美しい名前」。彼女はほとんど空っぽになったグラスを置き、目を閉じ、頭を後ろに反らせて両腕を広げた。その腕が、私の目に当たりそうになった。彼女の声は感情で震えながら、こう言った。

これが、千隻の船を送り出し

イリウムのいと高き塔を焼き払った顔なのか?

愛しきヘレネよ、その接吻もて我に不死を与えよ

彼女は目をあけ、グラスをつかみ、私にウィンクした。「あれはなかなかの出来よ。近頃、詩は書いてないの?」

「あんまり」

「キスしてもいいよ、したかったら」と彼女ははにかみながら言った。

シャンタン地のジャケットに開襟シャツを着た男が彼女の後ろに近づき、その頭越しに私に向かってにやりと笑った。短い赤毛で、空気の抜けた肺みたいな顔をしていた。今まで見た中で一番の醜男だった。彼は娘の頭を軽く叩いた。

「さあ、仔猫ちゃん。家に帰る時間だよ」

彼女は怒り狂って男に食ってかかった。「つまりあんたはあのろくでもない球根ベゴニアにまた水をやらなきゃいけないの?」と彼女は怒鳴った。

「まあ聞いてくれ、仔猫ちゃん」

「手を離せ、この強姦犯!」彼女は叫び、グラスに残っていた酒を彼の顔にぶちまけた。残っていたのはティースプーン一杯分と氷の塊二つだけだったが。

「おいおい、ベイビー、おれはおまえの夫だぞ」と彼は叫び返すと、ハンカチをつかんで顔を拭いた。「わかるか? おまえの夫なんだぞ」

彼女は激しく泣きじゃくり、彼の腕の中に飛び込んだ。私は二人の間をすり抜け、その場を立ち去った。カクテルパーティーはどこも同じだ。会話さえも。

家からは客たちが夕闇の中へと漏れ出していた。話し声は次第に遠ざかり、車のエンジンがかかり、別れの挨拶はゴムボールのように飛び交っていた。フランス窓へと歩み寄り、石敷きのテラスへと出た。地面は湖に向かって緩やかに傾斜しており、湖面は眠る猫のように微動だにしなかった。湖畔には短い木製の桟橋があり、一艘の手漕ぎボートが白い舫い綱でつながれていた。それほど遠くない対岸の方へ、一羽のオオバンがスケーターのようにゆったりとした弧を描いて泳いでいた。その動きは、かすかな波紋さえ立てないようだった。

私はクッション付きのアルミ製長椅子に身を横たえ、パイプに火をつけてのんびりと煙草をくゆらせながら、一体ここで何をしているんだと考えた。ロジャー・ウェイドは、本気でやろうと思えば、自分一人でどうにかなるだけの自制心を持っているようだった。ローリング相手にも、彼はうまくやってのけていた。もし彼がローリングのとがった小さな顎に一発食らわせていたとしても、さほど驚かなかっただろう。ルールからは外れていただろうが、ローリングの外れ方ははるかに度を越していた。

もしルールにまだ何らかの意味があるとするなら、男を脅して手袋で頬を張る場として人で溢れかえった部屋を選ぶべきではない。まして妻がすぐ隣にいて、事実上その浮気を責めている状況ならなおさらだ。深酒との闘いでふらふらの男にしては、ウェイドはよくやった。それどころか、それ以上だった。もちろん、私は彼が酔っ払っているところを見たことがなかった。酔っ払った彼がどんな風になるのかも知らなかった。彼がアルコール依存症だということさえ知らなかった。そこには大きな違いがある。たまに飲みすぎる男は、酔っていない時と変わらない。だが、アルコール依存症、本物のアルコール依存症の男は、全く別人だ。彼が以前会ったことのない人物になるということ以外、彼について確実に予測できることは何もない。

背後から軽い足音が聞こえ、アイリーン・ウェイドがテラスを横切ってやって来て、長椅子の端に腰を下ろした。

「それで、どう思ったの?」彼女は静かに尋ねた。

「あの、手袋を気ままにさせる紳士のことかな?」

「まさか」彼女は眉をひそめた。それから笑った。「あんな大げさな芝居を打つ人って大嫌い。彼が悪い医者だと言ってるわけじゃない。彼はヴァレーの男の半分を相手に、あんな場面を演じてきた。リンダ・ローリングは身持ちの悪い女じゃない。見た目も、話し方も、振る舞いも、そんな風じゃない。ドクター・ローリングが、まるで彼女がそんな女であるかのように振る舞うのか、私にはさっぱり分からない」

「改心した酔っ払いなのかもしれない」と私は言った。「そういう人物はかなり禁欲的になりがちだ」

「あり得るわね」と彼女は言い、湖の方を見た。「ここはとても静かな場所。作家ならきっとここで幸せになれると思う――もし作家がどこかで幸せになれるとしたら、だけど」彼女は私の方を向いた。「それで、あなたはロジャーの頼みを聞き入れないのね」

「意味がない、ミセス・ウェイド。私にできることは何もない。前にも言ったが、ちょうどいいタイミングでそばにいられる保証がない。常にそばにいなければならない。たとえ他に何もすることがなかったとしても、それは不可能だ。たとえば、彼が暴れだしたとしても、それは一瞬の出来事だ。それに、彼が暴れる兆候は今のところ見当たらない。私には、彼はかなりしっかりしているように見える」

彼女は自分の手に目を落とした。「本を書きあげることができたら、何もかもずっとよくなると思う」

「その手伝いはできない」

彼女は顔を上げ、隣の長椅子の縁に両手を置いた。そして少し身を乗り出した。「彼があなたにできると思えば、できるのよ。それが肝心な点なの。私たちの家に客として招かれて、報酬をもらうことが気に入らないの?」

「ミセス・ウェイド、彼には精神科医が必要だ。もし、怪しげでない医者を知っているなら」

彼女は驚いたようだ。「精神科医? どうして?」

パイプの灰を払い落とし、それを手に持ちながら、ボウルが冷めるのを待ってから片付けることにした。

「素人考えが聴きたいなら、こうだ。彼は自分の心のなかに秘密が埋もれていて、自分では見つけられないと思っている。自分自身についてのやましい秘密かもしれないし、他人に関することかもしれない。それが何かわからないから酒を飲むのだと思っている。おそらく何が起きたにせよ、泥酔している間に起きたと考えていて、それを見つけるには、酔っ払いなら誰でも向かうところに行くしかないと思っているのだろう――彼が陥ったようなひどい泥酔状態になるしかない、と。そんなのは精神科医の仕事だ。ここまではいい。もしそれがまちがってたら、彼はしたいから、あるいはせずにはいられないから酔うのであって、秘密だのなんだのはただの言い訳ということになる。彼は本が書けない、あるいは少なくとも書き終えられない。なぜなら、酔っ払ってしまうから。つまり、彼が本を書き終えられないのは、酒に溺れて意識を失っているからだという前提があるようだ。実際は逆かもしれない」

「いいえ、それはない」と彼女は言った。「ロジャーには素晴らしい才能がある。彼の最高傑作はこれから生まれると確信してる」

「素人考えだって言っただろう。きみは先日の朝、彼が妻への愛を失ったのかもしれないと言っていた。それもまた、逆かもしれない」

彼女は家の方を見て、それから家に背を向けた。私も同じ方を見た。ウェイドがドアの内側に立って、私たちを見ていた。私が見ていると、バーカウンターの後ろに回り込み、ボトルに手を伸ばした。

「口出ししても無駄」と彼女は早口で言った。「私は決してしない。絶対に。ミスタ・マーロウ、あなたの言う通り。彼がやりたいようにさせるしかないみたい」

パイプが冷えたのでしまった。「どうせ引き出しの奥を手探りで探しているんだ。さっきの逆についてはどう思う?」

「私は夫を愛してる」と彼女は淡々と言った。「若い娘が愛するような感じではないかもしれない。でも、愛してる。女が若い娘でいられるのは、一度きりだから。あの頃愛していた人はもう死んでしまった。戦争で死んだの。奇妙なことに、彼のイニシャルはあなたと同じだった。今はもうどうでもいいことだけど――ただ、ときどき、彼が本当に死んだなんて信じられないことがある。遺体は見つからなかった。でも、そんなことは多くの男性に起こったことだから」

彼女は探るようにじっと私を見つめた。「ときどき――もちろんめったにないけど――静かなカクテルラウンジや品のいいホテルのロビーに人けのない時間帯に行ったり、客船のデッキを早朝や深夜に歩いたりすると、どこかの薄暗い片隅で彼が私を待っているような気がするの」彼女は言葉を切り、目を伏せた。「馬鹿げている。恥ずかしい。私たちは深く愛し合っていた――一生に一度きりしか訪れない、激しく、神秘的で、あり得ないような愛を」

彼女は話をやめ、半ば放心状態でそこに座って湖面を眺めていた。私は再び家の方を見た。ウェイドが開け放たれたフレンチ・ウィンドウのすぐ内側に立っていて、グラスを手に持っていた。私は再びアイリーンを見た。彼女にとって、私はもうそこにいなかった。私は立ち上がり、家の中に入った。ウェイドはそこに立って、飲み物を手にしていた。かなり強い酒のようだった。彼の目はどこかおかしかった。

「妻といちゃついてたのか、マーロウ?」口元を歪めてそう言った。

「口説いてなどいない。そういう意味なら」

「まさにそういう意味だよ。この前彼女にキスしたんだろ?  きっと手際がいいと思ってるんだろうが、時間の無駄なんだよ。たとえあんたがその方面の手管にどれだけ長けていたとしても」

彼を避けようとしたが、頑丈な肩で行く手をはばまれた。「そんなに急がなくてもいいだろう。きみがいてくれるとありがたいんだ。うちには私立探偵なんてめったに来ないからね」

「適量より一杯多い酒というものがある。私がそれだ」と私は言った。

彼はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。グラスを下ろすと、横目で私を見た。

「もう少し時間をかけて、抵抗力をつけるべきだ」と私は彼に言った。「余計なお世話か?」

「オーケイ、コーチ。ちょっとした人格形成術でもやってるつもりか? 酔っ払いに説教なんてしようとするなんて、もっと分別があるべきだ。酔っ払いは人を教育なんかしない、友よ。彼らは崩壊していくんだ。そしてその過程のいくつかは、実に楽しいものさ」彼は再びグラスに口をつけ、ほとんど空になるまで飲み干した。「そしてその過程の一部は、ひどく辛いものだ。だが、あの黒鞄を持ったろくでなしのドクター・ローリングの輝かしい言葉を引用させてもらおう。マーロウ、妻に近づくな。気があるのは知ってる。みんなそうだ。寝たいんだろう。みんなそうだ。彼女の夢を分かち合い、彼女の思い出の薔薇の香りを嗅ぎたいだろう。私もそうかもしれない。だが、分かち合うものなど何もないのだ、友よ――何も、何ひとつ、これっぽっちも。きみは暗闇の中に一人取り残される」彼は飲み干し、グラスを逆さまにした。「こうやって空っぽになるんだ、マーロウ。何も残っていない。私はそれを知る者だ」

彼はグラスをバー・カウンターの端に置き、ぎこちない足取りで階段まで歩いて行った。手すりにつかまりながら十二段上り、そこで立ち止まって手すりに寄りかかった。そして、不機嫌そうな笑みを浮かべながら私を見下ろした。

「つまらない当てこすりを言ってすまなかったな、マーロウ。きみはいいやつだ。君に何かあるといけないと思ってね」

「どんなことが?」

「たぶん、彼女はまだ初恋相手にかけられた忘れがたい魔法から抜けきれていないんだろう。ノルウェイで行方不明になったという男のことだ。きみだって行方不明になりたくはないだろう? きみは私のための特別な私立探偵だ。セプルヴェダ・キャニオンの野蛮な光輝のなかに迷い込んだとき、きみが私を見つけてくれる」彼は磨き上げられた木製の手すりの上で、手のひらを円を描くように動かした。「きみが行方不明になったら、骨の髄まで傷つくよ。イギリス人水兵といっしょに出かけたあの男みたいにね。あいつはあまりにも影が薄くなってしまい、時には本当に存在したのかさえ疑わしくなるほどだった。もしかして、彼女はただのおもちゃとして、あいつをでっち上げただけなんじゃないか?」

「どうしてそんなことが私に分かるんだ?」

彼は私を見下ろした。眉間には深い皺が刻まれ、口元は苦々しさで歪んでいた。

「そんなこと誰にわかる? もしかしたら彼女自身もわかっていないのかもしれない。ベイビーは疲れた。壊れたおもちゃで遊びすぎた。ベイビーはもうバイバイしたいんだ」

彼は階段を上がっていった。

キャンディが入ってきて、バーの周りを片付け始めるまで私はそこに立っていた。彼はグラスをトレイに載せ、ボトルを確かめて残量を確認し、私には全く構わない様子だった。少なくとも、そう思っていた。すると彼は言った。「セニョール。いい酒がまだ一杯分残ってます。無駄にするのはもったいない」彼はボトルを掲げた。

「きみが飲めばいい」

「グラシアス、セニョール、no me gusta (好きじゃない). Un vaso de Cerveza, no más.( ビール一杯が限度です)」

「賢いな」

「家に酔っ払いは一人で十分」と彼は私をじっと見つめながら言った。「私は英語が上手ですか?」

「ああ、いいね」

「でも、俺はスペイン語で考える。時にはナイフで考えることもある。ボスは俺のものだ。誰の助けもいらない、オンブレ。俺が面倒を見る、わかるな」

「立派な仕事ぶりだな、チンピラ(punk)」

「Hijo de la flauta(フルートの息子)」と彼は白い歯の間から言った。彼は山盛りのトレイを持ち上げ、肩の縁と手のひらで支えた。給仕スタイルだ。

私は玄関まで歩いて行き、外へ出た。なぜ「フルートの息子」という意味の表現が、スペイン語では侮蔑語になってしまったのか、不思議に思いながら。だが、そのことを長く考え続けることはなかった。他にも考えなければならないことが山ほどあったからだ。ウェイド家には、アルコール以上の何かがあった。アルコールは、偽装された反応に過ぎなかったのだ。

その夜遅く、九時半から十時の間に、ウェイド家の番号に電話をかけた。八回コールが鳴った後、受話器を置いたが、電話を切った途端、また鳴り出した。アイリーン・ウェイドだった。

「さっき誰かから電話があって」と彼女は言った。「なんとなくあなたかもしれないって気がしたんだけど、ちょうどシャワーを浴びようとしていたところだったので」

「私がかけたんだが、たいしたことじゃない、ミセス・ウェイド。お宅から帰るときに、ちょっとぼんやりしていたようだったので――そう、ロジャーのことだ。今になって、私にも少しばかり責任があるような気がしてきて」

「彼なら大丈夫」と彼女は言った。「ベッドでぐっすり眠ってる。ドクター・ローリングは、見た目よりずっと彼を動揺させたようね。あなたにもきっといろんな馬鹿げたことを話したんでしょう」

「疲れたので寝たいと言っていた。なかなか分別がある、と思った」

「もし彼が言ったのがそれだけなら、そうね。では、おやすみなさい、わざわざ電話をありがとう、ミスタ・マーロウ」

「言ったのがそれだけだとは言っていない。ただ、彼がそう言ったと言っただけだ」

少し間があった。それからこう言った「誰だってたまにはとんでもないことを思いつくものよ。ロジャーのことをあまり真に受けないで、ミスタ・マーロウ。結局のところ、彼の想像力はかなり豊かだから。当然といえば当然だけれど。前回から間もないのに、また酒を飲むべきじゃなかった。どうかこの件はすっかり忘れて。あなたに対して、他にも失礼なことをしたと思うけど」

「いや失礼なことなどしなかった。彼はとても理にかなっていた。あなたの夫は、自分自身をじっくりと見つめ、そこに何があるのかを見極めることができる人だ。それは滅多にない才能だ。たいていの人は、持ってもいない威厳を守ろうと、人生の半分ものエネルギーを費やして過ごしているのだから。おやすみ、ミセス・ウェイド」

彼女が電話を切ったので、私はチェス盤を広げた。パイプに煙草を詰め、閲兵のためにチェスの駒を整列させ、髭が剃られているか、緩んだボタンがないか点検し、ゴルチャコフ対メニンキンの選手権トーナメントの対局を再現した。七十二手で引き分け。静止物体が不可抗力に遭遇する見事な実例、甲冑なき戦い、流血なき戦争、広告代理店以外ではどこにも見られないほど精巧な、人間の知性の無駄遣い。

【解説】

ウェイド邸で開かれているパーティーに参加したマーロウは、ドクター・ローリングの奇矯な振舞いを目にする。ウェイドにいいようにあしらわれたドクターが帰った後、ウェイド夫妻と話したマーロウは夫妻が何かを隠しているような様子を感じる。

" if possible"は「もし可能なら」

 It seemed louder than before, if possible. About two drinks louder.(以前よりもさらに大きくなったように感じた。まるでグラス二杯分くらい飲んだ後のような、そんな感じだった)

" if possible"は、「もし可能なら」「できれば」を意味し、相手に無理をさせず、控えめに願望や希望を伝える際に非常に便利なフレーズで、文頭や文末にコンマを置いて使う。このちょっとしたフレーズを清水は例によってカット。村上は「信じ難いことだが、音量は前より更に上がっているみたいだ。おおよそ酒の二杯分、騒ぎが大きくなっている」。田口は「ざわめきは先ほどより大きくなっていた。そういうこともありうるとすれば。グラス約二杯分大きくなっていた」。市川は「そしてその騒音は以前にもまして騒々しくなったようだった。まあ実際は同じなのだろうけれど。とにかく、カクテル二杯を余計に飲んでわめかれるぐらいうるさく聞こえた」といつものように言葉を使い惜しみせず、読者にそのニュアンスを伝えようとしている。

"Pistols at dawn"は「決闘」

"Pistols and coffee at dawn?"(「夜明けにピストルとコーヒーかい?」)とウェイドはローリングに訊くのだが、どうしてそこにコーヒーが並ぶのかがよく分からない。だからこれまでの訳者はそのまま訳しているのだが、市川だけが「暁の決闘状か、どうせあんたのことだ、決闘じゃなくコーヒー味がする「暁の決闘」銘柄のビールが飲みたいんだろう?」と、とんでもない珍説を披露している。この訳者はよく分からないものが出てくるとネット検索するのが癖のようだ。因みに(コーヒー味がするかどうかは知らないが)、ネット上には"Pistols at dawn"という名のビールが存在する。ただし、2026年に発売されたばかりというから、ウェイドが知ってるはずがない。

"Dear God, what a ham you are, darling. Stop acting like a damn fool, will you, darling? Or would you rather stick around until somebody slaps your face?"(まったく、なんて大げさな人なの、ダーリン。いい加減馬鹿げた真似はやめてくれない? それとも、誰かに引っぱたかれるまでここに居座るつもり?)

“ham”は「演技が大げさ過ぎる、大根役者」

“what a ham”は、誰かが人前で大げさな態度をとったり、わざと目立つような振る舞いをしたりしたときに、使われる英語の慣用句だ。しかし、清水も村上も「なんというばか(傍点二字)なことをなさるの」、「まったくもう、いい加減にしてよ」、と、ぼかした訳になっている。田口がはじめて「まったく。たいした役者さんなのね」と訳したが、市川は「全く、なんてことするの!皆さん見てるじゃない!」と元に戻している。ここは、ドクター・ローリングがどんな人物で、妻がそれをどう見ているかが他者の前で明かされる大事な場面である。ローリングが「大げさな演技をする大根役者」みたいな人間であるとはっきりさせるほうがいい。

“call to make”は「ちょっと立ち寄る」

She gave her husband a glance of quiet contempt. "You are," she said, "You have a number of calls to make, remember."(「あなたは帰って」と彼女は言った。「いくつか往診の予定が入ってたはずよ、忘れないで」)

清水訳は「一人でお帰りなさい。往診の約束がいくつもありましたわ」。“call to make”は「ちょっと立ち寄る」といった短い時間の滞在で、特に医者や営業の人などが仕事として行う公式な訪問を指す。村上も「いくつか往診の予定が入っていたはずよ」とほぼ同じ。ところが、田口は「あちこち電話をかけなくちゃならないんじゃなかった? 忘れたの?」と訳している。市川も「あなたには電話して様子を聴かなきゃならない患者さんが何人もいるのよ、忘れたの?」だ。医者が電話で診療するなどあり得ない。

"Leave someone holding the bag"の誰かは、必ずしも鞄を抱えているわけではない

 Loring tensed like an animal all set to spring. Wade sensed it and neatly turned his back and moved away. Which left Dr. Loring holding the bag. If he went after Wade, he would look sillier than he looked now. There was nothing for him to do but leave, and he did it.(ローリングは今にも飛びかかろうとする獣のように身構えた。ウェイドはそれを察し、さりげなく背を向けて立ち去った。ドクター・ローリングは窮地に立たされた。ウェイドを追いかければ、今以上に滑稽に見えるだろう。彼に残された道は立ち去ることだけだった。そして彼はそうした)

“Which left Dr. Loring holding the bag.”を村上は「ドクター・ローリングは鞄を抱えたままそこに取り残された」と訳している。田口も「鞄を持ったままその場に残された」と村上訳を踏襲している。英語で"Leave someone holding the bag"といえば、「(問題や責任を)一人に押し付ける」「尻拭いをさせる」「貧乏くじを引かせる」という意味の慣用句。他の人が逃げたり責任を放棄したりした後に、取り残された人が不公平にすべての責任を負わされる状況を指す。

市川訳は「いきり立ったはいいが突然相手を失ったドクターはぽかんとした、その間抜け面を晒すしかなかった」と意訳しているが、鞄については言及していない。清水訳は「ローリング博士は機先を制されて、取り残された」と訳している。旧訳のままでよかったのではないか。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

ジャガーはマーロウの車を追いこしたのか?

23 

【訳文】

車高の低いジャガーが目の前の丘を回り込み、花崗岩の粉塵で私の車が埃塗れにならないように速度を落とした。アイドル・ヴァレーの入口に続く半マイルの道は、高速道路での気ままなドライブに慣れた日曜ドライバーを遠ざけるため、わざと荒れたままに放置しているようだ。鮮やかなスカーフとゴーグルがちらりと見えた。お隣同士というようにさりげなく手が振られた。すると粉塵が道路を滑るように流れ、すでに灌木や日に灼けた草の上を蔽っていた白い膜に重なった。岩の露頭を回り込むと舗装はきちんと整備され、すべてが滑らかで手入れが行き届いていた。道沿いにオークの木々が通り過ぎる者を覗き見るように群生していた。赤い頭の雀が跳ね回り、雀だけがつつく価値があると思うようなものをつついていた。

それからハコヤナギが数本現れたがユーカリは見あたらなかった。鬱蒼と生い繁るクロヤマナラシの向こうに見え隠れする白い家。路肩に沿って馬を歩かせている少女。ジーンズに派手なシャツを着て、小枝を噛んでいる。馬は暑そうだが汗はかいておらず、少女は優しく馬に歌いかけていた。自然石を積んだ塀の向こう、大きく波打つ芝生の上で庭師が動力式芝刈り機を動かしていた。芝生は遥か遠くに建つウィリアムズバーグ・コロニアル風邸宅の特大サイズのポルティコまで続いていた。どこかで誰かがグランドピアノで左利きのための練習曲を弾いていた。

やがて、こうしたことのすべては消え去り、湖面のきらめきが暑く眩く見えてきて、私は門柱の番号に注意し始めた。ウェイド邸を見たのは一度きり、しかも暗闇の中でだった。夜見たほど大きくはなかった。私道は車でいっぱいだったので、道路脇に車を停めて中に入った。白い上着を着たメキシコ人の執事がドアを開けてくれた。細身でこざっぱりしたハンサムなメキシコ人で、上着をエレガントに着こなしていた。週五十ドルもらっていながら、額に汗する仕事などしそうにないタイプのメキシコ人に見えた。

彼は「Buenas tardes(いらっしゃいませ)、セニョール」と言い、揶揄ってでもいるかのようににやりと笑った。「Su nombre de Usted,por favor?(お名前をお伺いできますでしょうか?)」

「マーロウ」と私は言った。「いやにすましてるじゃないか、キャンディ? 電話で話したろう、忘れたのか?」

彼はにやりと笑って私を通した。いつものカクテルパーティーだった。誰もが大声で話し、誰もが耳を傾けず、誰もが必死に酒のグラスにしがみつき、目を輝かせ、頬は飲んだアルコールの量と個人の許容量によって赤らんでいたり、青白く汗ばんでいたりする。そのとき、アイリーン・ウェイドが淡い青色の何かを纏って私のそばに現れた。それは彼女の美しさを損なうものではなかった。グラスを手にしていたが、単なる小道具にしか見えなかった。

「来てくれて本当に嬉しいわ」と彼女は真面目くさって言った。「ロジャーが書斎であなたに会いたいって。彼はカクテルパーティーが嫌いなの。今は仕事中」

「こんな騒ぎの中で?」

「全然気にしていないみたい。キャンディに飲み物を持って来させましょう。それともバーに行く方がよければ」

「そうしよう」と私は言った。「この間の夜はすまなかった」

彼女は微笑んだ。「たしか、もう謝っていただいたはず。何でもないことだし」

「何でもないってことはないだろう」

彼女は頷くのに十分なだけ微笑みを保つと振り返って立ち去った。バーは部屋の隅の馬鹿でかいフランス窓のそばにあった。よくある移動式のバーだ。誰かにぶつからないように気をつけて部屋の真ん中まで歩いた時、声がした。「あら、ミスタ・マーロウ」

振り返ると、ミセス・ローリングがカウチに座っていた。隣には縁なし眼鏡をかけた気取った風貌の男がいて、顎に山羊鬚なのか染みなのか判然としない何かがついていた。彼女は飲み物を手に退屈そうにしていた。男は腕を組んだままじっと座り、しかめっ面をしていた。

私はそちらへ行った。彼女は微笑みながら手を差し出した。「こちらは私の夫、ドクター・ローリング。エドワード、こちらはミスタ・フィリップ・マーロウ」

山羊髭の男は私を一瞥し、それよりさらに短く頷いた。それ以外は動かなかった。より良きことのためにエネルギーを温存しているようだった。

「エドワードはとても疲れてるの」とリンダ・ローリングは言った。「エドワードはいつもとても疲れてるの」

「医師にはありがちなことだ」私は言った。「何か飲み物でも取って来ようか、ミセス・ローリング? ドクター、あなたは?」

「彼女はもう充分だ」男はふたりのどちらの顔も見ずに言った。「私は酒を飲まない。飲む人を見れば見るほど、飲まないでよかったと思う」

「愛しのシバよ帰れ」と、ミセス・ローリングは夢見るように言った。

彼は振り返って妻の顔を凝視した。私はそこから立ち去り、バーにたどり着いた。夫と一緒にいると、リンダ・ローリングはまるで別人のようだった。声には棘が感じられ、表情には嘲りが浮かんでいた。怒っている時でさえ、私には決して見せなかったような表情だった。

キャンディがバーの向こうにいた。何を飲むか訊いてきた。

「今はいい、ありがとう。ミスタ・ウェイドが私に会いたがってる」

「Es muy occupado (すごくお忙しいのです)、セニョール。とても忙しい」

キャンディのことは好きになれそうになかった。黙って見返すと、彼はつけ加えた。「でも、見てきます。De pronto (今すぐ)、セニョール」

彼は群衆の中を巧みにかき分け、あっという間に戻ってきた。「オーケイです、行きましょう」と彼は機嫌よく言った。

私は彼を追いかけ、奥まで続く長い部屋を横切った。彼がドアを開け、私は中へ入り、彼が後ろでドアを閉めると、騒音の多くが消えた。そこは角部屋で、広くて涼しく静かだった。フランス窓の外には薔薇が咲き、片側の窓にはエアコンが設置されていた。湖が見え、ウェイドが白い革張りの長いカウチにぐったりと寝そべっているのが見えた。大きな白木の机にはタイプライターが置かれ、その横には黄色い用箋の山が積まれていた。

「よく来てくれたな、マーロウ」と彼は気だるげに言った。「座ってくれ。もう一、二杯飲ったか?」

「いや、まだ」私は座って彼を見た。まだ少し蒼ざめてやつれてみえた。「仕事の方は進んでるか?」

「進んでるが、すぐ疲れてしまう。四日酔いからの回復がこんなに辛いとはな。宿酔あけに傑作をものしたことは多いんだ。この稼業じゃ、つい力が入り過ぎて、堅苦しく、造り物っぽくなってしまうことがある。そうなるといいものはできない。いいものは自然に流れ出るようにできるものだ。逆のことを読んだり聞いたりしたら、そんなものは戯言の寄せ集めだ」

「作家によるんじゃないか」私は言った。「フローベールは書くのに苦労してるが、作品は素晴らしい」

「オーケイ」とウェイドは言って、上体を起こした。「つまり、きみはフローベールを読んだ。ということは、きみはインテリで、批評家で、文学界の碩学ってことだ」彼は額を揉んだ。「断酒しててね、それが嫌でならない。酒を手にしてるやつらが嫌でならない。外に出て行って、あの気味の悪い連中に笑顔を振り撒かなきゃならないんだ。やつらはみんな全員、おれがアル中だと知ってる。だから、おれが何から逃げてるのか詮索する。フロイト派のどっかのクソ野郎がそういうことを常識にしてしまったせいだ。十歳の子どもなら誰でも知ってる。もし私に十歳の子がいたら――そんなことあってたまるか――ガキは私にこう訊いてくるだろう。『父さん、飲んだくれてるとき、何から逃げてるの?』ってな」

「聞いたところじゃ、こうなったのはつい最近のことだとか」と私は言った。

「よりひどくはなったが、昔から酒は強かった。若く頑健な時はどんなに辛い目にあっても耐えてみせるが、四十歳を目前にすると、昔のようには立ち直れない」

私は背もたれに寄りかかり、煙草に火をつけた。「で、私に話というのは?」

「私は何から逃げてるんだと思う、マーロウ?」

「わからんね。情報が足りない、それに誰しも何かから逃げている」

「誰もが酔っぱらうわけじゃない。きみは何から逃げているんだ? 若さからか、罪の意識からか、それともケチな稼業のケチなやり手だという自覚からか?」

「わかったよ」と私は言った。「あんたは誰か侮辱できる相手がほしいんだ。好きなだけやればいい。辛くなってきたら教えるよ」

彼はにやりと笑い、もじゃもじゃの巻き毛をぐしゃぐしゃにかき回した。人差し指で胸を刺すように指さした。「きみは今まさにケチな稼業のケチなやり手を見ているんだ、マーロウ。作家なんて皆ろくでなしで、おれはその中でも最もろくでなしだ。ベストセラーを十二冊書いた。机の上のあの山積みの原稿を書き終えたら、十三冊目も書けるかもしれない。だが、そのどれ一つとして、何の値打ちもない。このあたりは限られた者だけが知る億万長者の地所で、部外者の立ち入りが厳しく制限されている。おれはそこに立派な屋敷を構えている。おれを愛してくれる素敵な妻と、おれを愛してくれる素敵な出版社がいる。そして何よりも、おれ自身が自分を愛している。エゴイストのクソ野郎で、文芸に通じた娼婦かヒモか、好きな言葉を選べばいい。そして三拍子そろった下司野郎だ。で、きみは何をしてくれるんだ?」

「さあ、何だろう?」

「なぜ、腹を立てない?」

「腹を立てることなんか何もない。ただあんたの自己嫌悪を傾聴しているだけだ。退屈だが、傷つきはしない」

彼は大仰に笑った。「きみが気に入ったよ」彼は言った。「さあ、一杯やろう」

「ここじゃだめだ。ふたりきりのところでは。あんたが最初の一杯をやるところを見たくない。誰もあんたを止められないし、止めようともしないだろう。だとしても、私が手を貸す義理はない」

彼は立ち上がった。「ここで飲まなくてもいいさ。部屋を出て、あぶく銭を稼いだらお近づきになれそうな、選りすぐりの人々をちらりと見てみようじゃないか」

「よさないか」私は言った。「いい加減にしろ。彼らだって他の連中とたいして変わらない」

「ああ」彼は固い口調で言った。「だが変わっていてしかるべきだ。でなきゃ何の役に立つ? 彼らは郡の上流階級なのに、安ウイスキーで酔っ払ったトラック運転手どもと変わらない。むしろそれ以下だ」

「やめておけ」私は繰り返した。「酔っ払いたければ勝手に酔っ払えばいい。だがな、酔っ払ったからといって、ひとに八つ当たりするんじゃない。連中は酔っ払っていてもドクタ・ヴェリンジャーに診てもらったり、頭がおかしくなって妻を階段から突き落としたりしない」

「たしかに」と彼は言い、急に落ち着きを取り戻し、考え込んだ。「試験は合格だ、相棒。しばらくここに住んでみてはくれないだろうか? きみがここにいてくれるだけで、大いに助かる」

「どうしてそうなるのか、さっぱり分からない」

「私にはわかる。いてくれるだけでいい。月に千ドルでどうだ?  私は酔っ払うと危険になる。危険になんかなりたくないし、酔っ払いたくもない」

「私にはあんたを止められない」

「試しに三カ月。あの忌々しい本を書き終えたら、しばらく遠くへ行く。スイスの山奥で静養して、酒を抜くんだ」

「本を書き終える? そんなに金が必要なのか?」

「そうじゃない。何かを始めたら最後までやり遂げるべきだ。それができなければ、私はもう終わりだ。友人として頼んでいるんだ。きみはレノックスのために、それ以上のことをしたじゃないか」

私は立ち上がり、彼に近づいて睨みつけた。「そのせいでレノックスは死んだ。私が殺したようなものだ」

「ふん、おれのことなら手加減無用だ、マーロウ」彼は手を横にして喉に当てた。「何にでも限度というものがある、腫れ物あつかいに反吐が出そうだ」

「手加減?」私は訊いた。「ただの親切心じゃないのか?」

彼は後ずさりしてカウチの端につまずいたが、バランスを崩すことはなかった。

「勝手にしろ」彼はさらりと言った。「取引はなしだ。もちろん、きみのせいじゃない。私には知りたいことがある、知らなきゃならないことがある。きみにはそれが何かわからないし、私にも確信はない。ただ――確かなのは、何かがあるということだ。そして私ははそれを知らなきゃならない」

「誰のこと? 妻のことか?」

彼は唇を上下に動かした。「私のことだと思う」と彼は言った。「飲み物を取りに行こう」

彼はドアまで歩いて行き、勢いよく開け放ち、私たちは外に出た。

もし私を気まずくさせるのが彼のねらいだったとしたら、見事な仕事ぶりだった。

【解説】

アイドルヴァレーにあるウェイド邸を訪ねるマーロウ。高級住宅地の入り口は部外者を遠ざけるためにわざと一部舗装していない。これだけでどういう人々が住んでいるところなのかよく分かるしかけだ。

ジャガーはマーロウの車を追いこしたのか?

A low-swung Jaguar swept around the hill in front of me and slowed down so as not to bathe me in the granite dust from the half mile of neglected paving at the entrance to Idle Valley.(車高の低いジャガーが目の前の丘を回り込み、花崗岩の粉塵で私の車が埃塗れにならないように速度を落とした)

冒頭から、訳者によって解釈がちがう。ジャガーが「私の車」を追い越してから速度を落とした、というのが清水訳と市川訳。はじめから「私の車」の前を走っていた、とするのが、村上訳と田口訳、それとこの前の第二十二章でコメントをいただいた読者に紹介してもらった山形浩生訳だ。今後はこの最新訳を交えて解説していきたい。ただ、新訳が出るたびに「五冊のザ・ロンググッドバイを読む」という表題の冊数を変えることは煩わしいので、数が合わないことは承知の上で、このままで続けていきたい。

ジャガーに乗った女性は、後続車を埃塗れにしないよう心配りのできるドライバーだ。そんな人が、わざわざダート・ロードに入る直前に相手の車を追い越したりするだろうか。“sweep around〜”は「〜を大きく回る」という意味。おそらくそれまでは舗装されていたのだろうが、小高い丘を回り込んだ付近からダートになっている。この住宅地に住む女性はそれを知っているから、丘を回り込んだところで減速したのだ。

その読みで行くと、「一台のジャガーがアイドル・ヴァレーの入口にかかったところで私の車を追いこして(清水)」も、「車高の低いそのジャガーは丘の斜面を軽快に走ってから、花崗岩の粉塵を私の車にかぶらせないようスピードを落とした(田口)」も、「丘をぐるりと巡る道を後ろから走ってきた低重心のジャガーが私の車を追い抜いて行った(市川)」も状況を読めていないと思われる。

要は“sweep around〜”が読めているかどうかという点にかかっている。丘を「大きく回り込む」まで、丘が邪魔をしていて、マーロウにも道が未舗装であることはわからなかったということだ。ただ、村上、田口両氏がなぜ「軽快に」という原文にない一語をわざわざ挿入しているのかは解せない。

夫は、どちらを向いたのだろう

“He swung around and did a take”(彼は振り返って妻の顔を凝視した)だが、訳者によってかなり異なる。「彼はむっ(傍点二字)として、夫人をにらんだ(清水)」。「彼はくるりと顔を背けることで、それに対応した(村上)」。「エドワードは彼女に背を向けることでその言葉に応じた(田口)」「彼はギクッとして妻のほうに向き直って睨みつけた(市川)」。「彼はキッと横を見てすごい形相になった(山形)」。

“do a double take”という表現がある。「(非常に驚いたので)二度見をする(もう一回見る、見直す)」という意味だ。“swing around”は「振り返る、振り回す」の意味なので、妻から顔を背けていた夫はすでに一度妻の顔を見ている。だから、通常なら“do a double take”のところを“and did a take”としたのではないだろうか。つまり、夫は妻の顔を見ている。村上、田口は誤りで、清水、市川が正しい。山形訳では、どちらの方を向いたのかがよく分からない。

因みに、この諍いのもとになった夫人の言葉"Come back, little Sheba"(愛しのシバよ帰れ)は、1952年にパラマウント映画が制作した映画で、アル中をテーマにしている。小説が発表される前年の作品なので、おそらく映画のタイトルの引用だと思われるが、どの訳者も「愛しのシバよ帰れ」と訳していない。清水は「いとし」とひらがな表記、村上は「シバよ、」と読点を入れている。田口は「帰ってきてくれ、愛しいシバよ」、市川は「愛しのシバ、戻っておくれよ」、山形は「愛しのシバよ帰ってきてー」だ。著作権の問題か、他に何か理由があるのだろうか。

ウェイドが寝そべっているカウチの色は?

“Wade lying flat out on a long blond leather couch.”(ウェイドが白い革張りの長いカウチにぐったりと寝そべっているのが見えた)とあるのだが、この“blond”が曲者で、清水は「金色」、村上は「うす茶色」、田口は「ブロンド色」、市川は「白っぽい」、山形は「ブロンド」と訳している。辞書は「金髪」としているのが多く、皮革の色については説明がない。そこで“blond leather”で検索をかけると、ボルボのシートが引っかかった。まったくの白ではないらしいが、白に近いうすいベージュというところか。さすがに「金色」は駄目だが、「ブロンド」という訳語では誤解を生むのではないだろうか。

“county”と“country”は誤読するかも

They're the class of the county(彼らは郡の上流階級なのに)も、訳者によって扱いがちがう。“class”はもともとそれだけで「上流階級」を指す言葉だったが、清水は「人間だけをくらべたら」と「上流階級」という言葉も「カウンティ(郡)」という言葉も使わずにすませている。例によってややこしいところはトバしたのか。村上と田口は「この国の特権階級」としているが、原文の“county(郡)”を“country(国)”と誤読しているようだ。市川は「ただの田舎者で」と訳しているが、こちらは“county(郡)”を“country(田舎)”と誤読している。山形訳は「この郡の上流階級と称して」だ。

“soft”をどう訳すか

"Phooey. Don't go soft on me, Marlowe." He put the edge of his hand against his throat. "I'm up to here in the soft babies."(「ふん、おれのことなら手加減無用だ、マーロウ」彼は手を横にして喉に当てた。「何にでも限度というものがある、腫れ物あつかいに反吐が出そうだ」)

マーロウはレノックスの死に責任を感じている。だから、レノックスを引き合いにして、自分の面倒を見てくれと頼まれることにとまどいを感じる。“soft on〜”は「~に対して軟弱である、〜に寛大である、〜に甘い、〜に手加減する」という意味。ウェイドが、“Don't go soft on me”というのは、たしかに今は弱っているが、過剰な心配は必要ないと言いたいのだろう。

清水は「ばか(傍点二字)な、君までがぼくをそんないくじ(傍点三字)のない人間と思うのか」と、かなり意訳している。“up to here”というフレーズと同時に手を水平にして首にあてるのは「もう我慢できない、我慢もここまで来ている」というレベルの高さを意味する。後半部分は「ぼくはここまで、そんな連中のなかにつかってるんだ」という解釈だ。妻や自分が仲間入りしたくない連中に意気地なしだと見られているという自虐意識が見て取れる。だから、それに対するマーロウの返答<"Soft?" I asked. "Or just kind?">を「みんな君のためを考えているんだろう」と訳している。

村上は「よしてくれよ。何もやわ(傍点二字)に扱ってもらう必要はないんだ」(略)「すでに十分ここまで甘やかされているからね」と甘やかしているのは、夫人という解釈だ。だから、同じ箇所を<「甘やかす?」と私は尋ねた。「ただの親切心と取り違えちゃいないか?」>と訳す。夫人のウェイドに対する態度は、この小説のなかでは重要な意味が与えられているので、“soft on〜”の主体が誰かは無視できない問題である。

田口は「ふん、そんな甘ったるいことばは私には要らないよ」(略)「そういうことばにはもうこのあたりまでどっぷり浸かってるんでね」という解釈だ。田口も村上と同じ解釈と見ていいだろう。例の個所をこう訳している。<「甘ったるいことば? あるいは、あんたを死なせたくないと思うがゆえのひたすら親切なことばか」>

市川は「ぶへー、依頼人が死んだのはみんな私のせいです、ってか。なんともお優しいこった。だがな、こっちはお優しいひとなんか願い下げだ、マーロウ」(略)「私はここまでどっぷりお優しい方々に浸かっているんだ」とはじめの“soft on”の主体はマーロウだが、二つ目の“soft babies”は、妻や近隣住民という清水に似た解釈だ。問題の三つ目の“soft”は、こうだ。<「本当に優しいのか?」と訊いた。「ただ親切なだけじゃないのか?」>マーロウは、誰の「優しさ」に疑問を呈しているのか?

山形は「くだらん。甘っちょろいこと言うんじゃないよ、マーロウ」(略)「ヤワな甘ちゃんどもには、ここまで吐き気がたまるくらいうんざりしきってるんだ」/「甘ちゃん? それとも親切なだけ?」だ。“soft”を「甘ちゃん?」と訳すのは、ウェイドが「甘ちゃん」と思い込んでいる周囲の態度を弁護するニュアンスが感じられる。ウェイドがこの言葉で態度を翻したのは、マーロウに取り巻き連中と同じ匂いを嗅ぎつけたからかもしれない。

マーロウの返答に自分への無理解を感じたのか、ウェイドは、やけにあっさりと自分の提案を引っ込める。最後のウェイドの長台詞に引っかかるものを感じるのは、マーロウだけではないだろう。