marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“mourning dove”は、ただの「鳩」ではなく「ナゲキバト」

19

【訳文】

噛みしだかれてちぎれた紐みたいに寸足らずな気分で車を走らせ、ハリウッドに戻った。食事をするには早すぎたし暑すぎた。オフィスの扇風機をつけた。それで涼しくはならなかったが、空気が少し爽やかに感じられるようになった。外の大通りでは車の騒音が鳴りやまなかった。頭の中では蠅取り紙の上の蠅のように様々な思いがくっつきあっていた。

三発撃って、三発はずれ。私がしていたのは、やたらと医者に会うことだけだ。

ウェイドの家に電話した。メキシコ訛りの声が、ミセス・ウェイドは家にいないと答えた。ミスタ・ウェイドはいるかと訊いた。ミスタ・ウェイドも同じように留守だという。私は名前を告げた。それで通じたようだ。自分はハウスボーイだと彼は言った。

カーン協会のジョージ・ピーターズに電話した。他にも医者を知っているかもしれない。留守だった。私は適当な名前と正しい電話番号を伝えた。一 時間が病気のゴキブリのようにのろのろと過ぎていった。私は忘却の砂漠に横たわる砂粒だった。弾丸を撃ちつくしたばかりの二挺拳銃のカウボーイだった。三発撃って三発はずれ。二度あることは三度、というのが嫌いだ。ミスタ・A を訪ねる。成果なし。ミスタ・B を訪ねる。成果なし。ミスタ・C を訪ねる。同じく。一 週間後、ミスタ・Dを訪ねるべきだったとわかる。そんなやつのいることすら知らず、知ったときには、依頼人の気が変わり、調査は打ち切りとなる。

ドクター・ヴカニックとヴァーリーの二人はリストから外れた。ヴァーリーはアル中患者に手を出すほど金に不自由してない。ヴカニックは自分の診察室で静脈注射を打つようなちんぴらだ。助手は知っているはずだ。少なくとも患者の何人かは知っているにちがいない。何かで腹を立てた男が電話の一本もすれば一巻の終わりだ。酔っていようと素面であろうと、ウェイドは近づかなかっただろう。彼は世界一聡明な男ではないかもしれない――-成功者の多くは天才とはほど遠い――が、ヴカニックに関わるほど馬鹿ではない。

可能性があるのはドクター・ヴァリンジャーだけだ。彼は人里離れたところに施設を持っている。辛抱強さもありそうだった。しかし、セパルヴェダ・キャニオンはアイドル・ヴァレーから遠く離れている。二人の接点がどこにあったのか、どうやって知り合ったのか、ヴァリンジャーが土地の所有者で、もう買い手が決まっているのなら、まもなく大金を手にするはず。そこで一つ思いついた。土地の状況を調べるために、登記調査会社にいる知り合いに電話した。誰も出なかった。会社はその日の業務を終えていた。

そこで、私も店仕舞いすることにして、ラ・シエナガのルディーズ・バーベキューまで車を走らせた。給仕長に名前を告げ、眼の前にウィスキーサワーを置き、マレク・ウェーバーのワルツに耳を傾けながら、バー・ストゥールの上で大事な瞬間を待った。しばらくしてヴェルベットのロープをくぐり抜けて中に入り、ルディーの「世界的に有名な」ソールズベリーステーキを食べた。これは、焦げた板の上にハンバーグを載せて、周りに焼き色のついたマッシュポテトを添えたもので、フライドオニオン・リングとミックス・サラダが添えられていた。このサラダ、男性がレストランではまったく従順に食べるが、家で妻が食べさせようとしたら叫び出すであろう類の代物だ。

その後、私は車で家に帰った。玄関のドアを開けると、電話が鳴り出した。

「アイリーン・ウェイドです、ミスタ・マーロウ。何か御用でしたか」

「そちらに何か進捗があったか知りたかっただけです。こちらは一日中医者と会っていて、結局誰とも親しくなれず仕舞いです」

「そうですか、残念です。彼はまだ戻りません。もう気が気じゃなくて。それでは、あなたの方も何も進展はなかったということね」彼女の声は低く、元気がなかった。

「ここは人でごった返している郡(カウンティ)ですよ、ミセス・ウェイド」

 「今夜で丸 四 日になります」

 「ええ、でもそんなに長くはない」 

「私には長い」 彼女はしばらく黙っていた。「ずっと考えていたの、何か思い出せないかと」彼女は続けた。「何かあるはず。手がかりになるヒントなり記憶なりが。ロジャーは、いろんなことをそれはたくさん話すんです」

「ヴァリンジャーという名前に何か心当たりはありませんか、ミセス・ウェイド?」

「いいえ、残念ながら。私の知ってる人?」

「以前、ミスタ・ウェイドが、カウボーイ姿の背の高い若い男に連れられて帰宅した、とおっしゃいましたね。その背の高い男をもう一度見たら分かりますか?」

「分かるかもしれない」彼女はためらいがちに言った。「条件が同じなら。でもちらっと見ただけです。彼の名前がヴァリンジャーなの?」

「いや、ミセス・ウェイド。ヴァリンジャーはがっしりとした体格の中年男で、セパルヴェダ・キャニオンで滞在型牧場のようなものを経営している、正確に言うと、経営していた。そこにアールという着飾るのが大好きな若いのが働いている。そして、ヴァリンジャーはドクターを自称している」

「素晴らしい」と彼女は温かく言った。「正しい方向に向かっているという気がしないの?」

「全くの見当はずれかもしれません。何か分かったら電話します。ロジャーが家に帰ってきてないか、あなたが何かはっきりしたことを思い出していないかを確かめたかっただけなので」

「あまりお役に立てなかったようで申し訳ありません」と彼女は悲しそうに言った。「どんなに遅くなっても、いつでも電話してください」

そうすると言って電話を切った。今回は銃と電池三本入りの懐中電灯を携行した。銃はタフで小さな短銃身の三二口径。装弾はフラットポイント。ドクター・ヴァリンジャーのところのアールは、ブラスナックルの他にも玩具を持っているかもしれない。持っていたらそれで遊びかねない程度の間抜けだ。

再び高速道路に出て、全速力で車を走らせた。月のない夜で、屋敷の入り口に着く頃には暗くなっていた。暗闇こそが私が必要とするものだった。

門はチェーンと南京錠で施錠されたままだった。その前を通り過ぎ、ハイウェイからかなり離れた場所に車を停めた。木陰にはまだ光が残っていたが、長くは続かないだろう。私はゲートをよじ登り、丘の中腹までハイキング用の小径を探しに行った。谷のはるか奥で鶉の鳴き声が聞こえた気がした。一羽のナゲキバトが人生の悲惨さを訴えていた。ハイキング用の小径はなかった。あるいは見つけることができなかったのかもしれない。仕方がないので道路に戻り、砂利道の端を歩いた。ユーカリの木がオークに取って代わられ、尾根を越えると、遠くにちらほら明かりが見えた。プールとテニスコートの裏手、道の端にある本館を見下ろせる場所まで四十五分かかった。本館はライトアップされ、そこから音楽が聞こえてきた。さらにその奥の木立の中にも、明かりが灯った小屋があった。木々のあちこちに小さな暗い小屋が点在していた。小径を進んでいくと、突然、本館の裏手で投光器が点灯した。私は思わず凍りついた。投光器は何かを探しているわけではなかった。まっすぐ下を向き、裏のポーチとその向こうの地面に広い光だまりを作った。するとドアが音立てて開き、アールが出てきた。それで自分がうってつけの場所にいることを知った。

今宵のアールはカウボーイだった。ロジャー・ウェイドを家に連れ帰ったのもカウボーイだった。アールはロープをくるくる回していた。白のステッチが入った黒っぽいシャツを着て、水玉模様のスカーフをゆるく首に巻いていた。銀の飾りがたっぷりついた幅広の革のベルトに型押しされた一対の革のホルスターをつけ、その中には象牙のグリップの拳銃が二挺収まっていた。エレガントな乗馬ズボンを履き、白のクロスステッチが施されたブーツは新品のように輝いていた。頭の後ろには白いソンブレロ、シャツの下には銀で編まれた紐のようなものが結ばれることなく、だらんと垂れ下がっていた。

彼は白い投光照明の下にひとり佇み、からだの周りにロープをくるくる回しながら、ロープの輪の中を出たり入ったりしていた。観客のいない役者、背が高く、細身で、ハンサムなめかし込んだ牧童が、たったひとりでショーを披露し、その一分一秒を楽しんでいた。二挺拳銃のアール、コチース郡の恐怖。電話番の女の子までが乗馬ブーツを履いて出勤するような、とんでもなく馬好きな連中が集まるそんな観光牧場が彼には似つかわしかった。

突然、彼は何かの音を聞いた、あるいは聞いたふりをした。ロープが地に落ち、両手はホルスターから二挺の銃を引き抜き、水平に構えたときには鈎状に曲げた親指が撃鉄の上にあった。彼は暗闇を覗き込んだ。私は動く勇気がなかった。銃に弾丸が込められているかもしれない。しかし、投光器の光で目がくらみ、何も見えなかったはず。彼は銃をホルスターに戻し、ロープを大雑把に掻き集め、家の中に戻った。照明が落ち、それを潮に私も席を立った。

樹々の間を縫って、丘の斜面に建つ小さな明かりのともる小屋に近づいた。そこからは何の音も聞こえなかった。私は網戸のはまった窓にたどり着き、中を覗いた。明かりはベッド脇のナイトテーブルの上のスタンドのものだった。男はベッドに仰向けにしどけなく横たわり、パジャマ姿の両腕を布団の外に出し、大きく見開いた眼で天井を見つめていた。大柄な男だ。顔の一部は影になっていたが、顔色が悪く、髭を剃る必要があることが見て取れた。髭の伸び具合を見る限り、計算が合う。両手の指は開いたままベッドの外でぴくりとも動かなかった。まるで何時間もそうしているように見えた。

小屋の向こう側の小径を歩いてくる足音が聞こえた。網戸がきしみ、ドクター・ヴァリンジャーが姿を現した。トマトジュースらしきものが入った大きなグラスを持っていた。彼はフロアランプのスイッチを入れた。アロハシャツが黄色く光った。ベッドの男は彼を見ようともしなかった。

ドクター・ヴァリンジャーはグラスをナイトテーブルに置き、椅子を引いて座った。片方の手首に手を伸ばし、脈を取った。「ご気分はいかがですか、ミスタ・ウェイド?」彼の声は優しく、気遣いが窺われた。

ベッドの男は返事もせず顔を見もしなかった。ずっと天井を見つめていた。

「さあ、さあ、ミスタ・ウェイド。機嫌を直して。脈拍がいつもより少し速いだけです。弱っているようですが、それ以外は――」

「テジー」とベッドの上の男が突然言った。「具合がわかっているなら、わざわざ尋ねる必要はない、とこのクソ野郎に言ってやれ」声は明瞭だったが、口調は辛辣だった。

「テジーというのは誰のことかな?」ドクター・ヴァリンジャーは辛抱強く言った。

「私の広報係だ。あそこの隅にいる」

ドクター・ヴァリンジャーは上を見上げた。「小さなクモがいる」彼は言った。「芝居はやめるんだ。ミスタ・ウェイド。そんな真似は必要はない」

「テジェナリア・ドメスティカ、普通のハエトリグモだよ。クモは好きだ。アロハシャツなど着ないからな」

ドクター・ヴァリンジャーは唇を湿らせた。「私にはふざけてる暇などない、ミスタ・ウェイド」

「テジーにおふざけは通じない」 ウェイドは重いものでも動かすかのように頭をゆっくりと回し、ドクター・ヴァリンジャーを軽蔑の眼差しで見つめた。「テジーは真剣そのものだ。そっと忍び寄ってくる。あんたがよそ見をしているとき、音もなくひょいと跳ぶ。しばらくすると、すぐ傍に来ている。そして最後のジャンプをする。あんたは吸い尽くされるんだ、ドクター。テジーはあんたを食べはしない。ただ汁を吸い、皮膚だけが残る。そのシャツを着続けるつもりなら、ドクター、遠からずそういう目に遭うことになる」

ドクター・ヴァリンジャーは椅子の背に凭れかかった。「五千ドル要るんだ」彼は穏やかに言った。「いつになったら調達できる?」

「六百五十ドル払ったはずだ」ウェイドは意地悪く言った。「手持ちの小銭も。この売春宿では一体いくらかかるんだ?」

「はした金だ」ドクター・ヴァリンジャーは言った。「料金は上がったと言ったはずだ」

「ウィルソン天文台まで跳ね上がったとは聞いていない」

「はぐらかすんじゃない、ウェイド」とドクター・ヴァリンジャーは素っ気なく言った。「きみはそんな横柄な態度に出られる立場じゃない。それに、きみは私の信頼を裏切った」

「そんなものがあんたにあったとは知らなかった」

ドクター・ヴァリンジャーは椅子の肘掛をゆっくりと叩きながら「きみは真夜中に電話してきた」彼は言った。「絶望的な状態だった。私が来なければ自殺すると言った。私は気が進まなかった。知っての通り、私はこの州で医師免許を持っていない。元も子もなくす前に私はここを処分しようと考えている。アールの面倒も見なければならないし、あの子にはそろそろ悪い兆候が現れてきている。大金がかかると言ったはずだ。それでもどうしてもと言うから、私は行ったんだ。五千ドル欲しい」

「私はひどく酔っぱらっていた」ウェイドは言った。「そんな状態で交わした約束で人を縛ろうとしても無理だ。金ならもう充分払った」

「それに」ドクター・ヴァリンジャーはゆっくりと言った。「きみは奥さんに私の名前を言った。私がきみを迎えに来ると」

ウェイドは驚いたようだった。「そんなことはしていない」彼は言った。「彼女とは顔を合わせてもいない。彼女は眠っていた」

「なら、別のときだろう。私立探偵がきみのことを訊きに来ている。誰かに教えられない限り、ここを探し当てられるはずがないんだ。追い払いはしたが、またやって来るかもしれない。きみは家に帰るべきだ、ミスタ・ウェイド。しかし、まずは五千ドル払ってもらおう」

「あんたは世界一賢い男でもないようだな、ドク? もし私の居場所を妻が知っていたら、なぜ彼女は探偵を雇う? 自分で来たらいいじゃないか。それほどおれのことを気にかけているならな。キャンディを連れて来たらいい。うちのハウスボーイでね。キャンディなら、あんたの秘蔵っ子を千切りにしてしまうだろうよ。あんたの秘蔵っ子が、今日の主演映画はどれにしよう、と思案している間に」

「ずいぶん下卑た口をきくじゃないか、ウェイド。それに心も下卑ている」

「下卑た五千ドルも持ってるぜ、ドク。とってみたらどうだ」

「小切手を書くんだ」ドクター・ヴァリンジャーはきっぱり言った。「今すぐ。それから服を着ろ、アールに家まで送らせる」

「小切手?」ウェイドは吹き出しそうになった。「いいだろう、小切手を渡すよ。上等だ。で、どうやって換金するんだ?」

ドクター・ヴァリンジャーは静かに微笑んだ。「支払いを止めるつもりだろう、ミスタ・ウェイド。しかしきみはそうしない。断言してもいい、そうはしない」

「このでぶの悪党め」ウェイドは怒鳴った。

ドクター・ヴァリンジャーはかぶりを振った。「ある点ではそうだが、それがすべてではない。私の中にはいろいろな性格が混在している。ほとんどの人と同じようにね。アールが家まで送ってくれるだろう」

「いやだね、あいつを見るとおぞ毛が立つ」

ドクター・ヴァリンジャーはそっと立ち上がり、ベッドの上の男の肩に手を伸ばして軽く叩いた。「私にとってアールは全く無害だ、ミスタ・ウェイド。私は彼の扱い方を心得ている」

「ひとつ挙げてみてくれ」と新たな声が聞こえ、ロイ・ロジャースの衣装で決めたアールがドアから入ってきた。ドクター・ヴァリンジャーは笑顔で振り返った。

「そのキ印をどこかへやってくれ」とウェイドは叫んだ。はじめて恐怖をあらわにした。

アールは装飾が施されたベルトに手をかけた。彼の顔は無表情だった。歯と歯の間から軽い口笛のような音がした。彼はゆっくりと部屋に入った。

「それは禁句だ」とドクター・ヴァリンジャーは慌てて言い、アールの方を向いた。「いいんだ、アール。ミスタ・ウェイドは私に任せておけ。着替えは私が手伝う。車を回してきてくれ、できるだけ小屋の近くまで。ミスタ・ウェイドはかなり弱っている」

「これからもっと弱るだろうな」アールは口笛みたいな声で言った。「どけよ、でぶ」

「ほら、アール」彼は手を伸ばし、ハンサムな若者の腕をつかんだ。「カマリロには戻りたくないだろう? 私がひとこと言えば...」

そこまでだった。アールは腕を振りほどき、右手を振り上げた。ブラスナックルが一閃し、装甲された拳がドクター・ヴァリンジャーの顎を一撃した。彼は心臓を撃ち抜かれたかのように倒れた。その衝撃で小屋が震えた。私は走り出した。

ドアに手を伸ばし、勢いよく開けた。アールはくるりと振り返り、少し身を乗り出して、こちらを見たが、私だとは気づかなかったようだ。唇から泡立つような音がした。私に向かって足を速めた。

私は銃を引き抜いてかざした。何の意味もなかった。彼の銃には弾が入っていなかったのか、あるいは銃のことなぞ忘れていたのか。ブラスナックルさえあれば事足りるというわけか。どんどん近づいてきた。

私はベッドの向こうの開いた窓に向けて撃った。狭い部屋で聞く銃声は、思いのほか大きかった。アールの動きが止まった。頭を巡らし、窓の網戸の穴を見た。そして私の方を振り返った。ゆっくりと顔に生気が戻り、にやりと笑った。

「何があった?」彼は明るく訊いた。

「ナックルを捨てろ」私は彼の眼を見ながら言った。

彼は驚いて自分の手を見下ろした。彼はその手にあったものをそっと外し、何気なく隅に投げた。

「次はガンベルトだ」私は言った。「銃には触れるな、バックルだけだ」

「弾は入っていない」空は微笑みながら言った。「銃ですらない、ただの小道具だ」

「ベルトだ。急げ」

彼は短銃身の三二口径を見た。「それ、本物? そうにちがいない。網戸が。そうだよ。網戸が」

ベッドの男はもうベッドの上にはいなかった。アールの後ろにいた。彼は素早く手を伸ばし、輝く銃を一挺抜いた。アールはそれが気に入らなかった。彼の顔にはそれが表れていた。

「手を出すな」私は怒って言った。「元に戻すんだ」

「こいつの言った通りだ」ウェイドは言った。「これは玩具だ」彼は後退りしてきらきら光る銃をテーブルの上に置いた。「くそっ、からだにまるで力が入らない」

「ベルトを外せ」私は三度(みたび)言った。アールのようなタイプと何かを始めたら、最後までやり遂げなければならない。シンプルに、そして考えを変えないように。

彼はようやく言われた通りにした。それもきわめて友好的に。それからベルトを持ってテーブルまで歩いていき、もう 一挺の銃を取り出してホルスターに収め、すぐにベルトを締め直した。私はしたいようにさせておいた。そのときになって初めて、彼はドクター・ヴァリンジャーが壁に凭れるようにして床に倒れているのに気づいた。彼は心配そうな声をあげ、急いで部屋の反対側のトイレに行き、ガラスの水差しを持って戻ってきた。彼はドクター・ヴァリンジャーの頭に水をかけた。ドクター・ヴァリンジャーは咳き込むようにぶつぶつ言いながら身をよじり腹ばいになった。それからうめき声をあげ、顎に手を当て、起き上がろうとした。アールが手を貸した。

「ごめんよ、ドク。相手が誰か分からず、キレちまったみたいだ」

「もういい、骨は折れていない」とヴァリンジャーは言い、彼を振り払った。「車をまわしてくれ、アール。下の南京錠の鍵も忘れずに」

「車だね、すぐとってくる。南京錠の鍵。わかった。すぐやるよ、ドク」

彼は口笛を吹きながら部屋を出て行った。

ウェイドはベッドの端に座っていた。震えているようだ「あんた、あいつの言っていた探偵か?」と訊いてきた。「どうやって見つけた?」

「聞いて回っただけだ。この手のことに詳しい連中に」と私は言った。「家に帰りたいなら、服を着たほうがいい」

ドクター・ヴァリンジャーは壁にもたれながら顎をさすっていた。「手伝うよ」彼はしゃがれ声で言った。「人助けをしては、泣きを見ている」

「よく分かる、その気持ち」と私は言った。

私は外に出た。あとはふたりに任せた。

【解説】

第19章では、ついにマーロウがウェイドを見つけ出す。その冒頭に有名な直喩が出てくる。

I drove back to Hollywood feeling like a short length of chewed string.(噛みしだかれてちぎれた紐みたいに寸足らずな気分で車を走らせ、ハリウッドに戻った)

“a short length of chewed string”は、直訳すれば「噛みしだかれた短い紐」のことだ。アメリカ小説における比喩を論じた本の中に、チャンドラーのこの文がよく出てくる。有名な比喩らしい。「くちゃくちゃに嚙んで繊維がもろくなって切れてしまった紐のような気分」というのがどんなものなのか正確に説明できる者はいないだろうが、何となくその気分は分かるような気がする。

他動詞“chew”は「(〜を)かむ」ことだが、形容詞“chewed”には「打ちのめされた、疲れた(米俗)」という意味がある。“(be) chewed (out)”だと「(人)にかみつかれる(非難される)(米俗)」の意味になる。また“string”には「紐、糸」の他に「(引き続いて起きる)一連の出来事」という意味がある。一日のうちに三人の医者を慌ただしく訪問し、三人ともに罵倒され、結局徒労に終わった。さすがに労多くして益少なしといった気分を“feeling like a short length of chewed string”と喩えたのではないか。

因みに清水訳は「私は車を走らせて、ハリウッドへもどった」と比喩のところをトバしている。せっかくの凝った比喩が勿体ない。村上訳は「くたびれ果てた身体で」と比喩はなし。田口訳は「すり切れたひもみたいにくたびれて」と原文を活かした直喩だ。市川訳は「気分はまるで猫に散々噛まれて短くなった猫じゃらしの紐のようだった」だ。「猫じゃらしの紐」というのは面白いが、これではマーロウの気分を何に喩えているのかよくわからない。

I turned on the fan in my office. It didn't make the air any cooler, just a little more lively.

暑いので扇風機をつけたが、空気が涼しくなったわけではなく、少し“lively”になっただけだったという部分。清水訳は「ただ動いただけだった」。村上訳は「空気が多少かきまわされただけだった」。市川訳は「だが動くものがあることだけでも少しはましだ」と、チャンドラー一流の皮肉な言い回しにつられた感がある。“lively”には「(空気・風などが)さわやかな、すがすがしい」という意味がある。田口訳では「空気がさわやかに感じられるようにはなった」と肯定的に訳されている。外の通りでは車の騒音が止まらないが、マーロウは考え事に集中している。オフィス内は外より快適なようだ。これでいいのでは。

アイリーン・ウェイドから電話があり、進捗のないことを告げる。ウェイドは戻っておらず彼女も元気がない。マーロウが慰めるように言う台詞。

"It's a big crowded county, Mrs. Wade."(ここは人でごった返している郡(カウンティ)ですよ、ミセス・ウェイド)

田口訳は「アメリカは広くて人口の多い国ですからね(後略)となっている。“county”を“country”と読み違えたのだろうか? 清水訳では「郡はひろいし、人間も大勢いるんですよ、奥さん」と正しく訳されていた。村上訳で「広くて人口の多い土地なのです(略)」と曖昧にされたことが誤読を招いたのだろうか。市川訳は「そう気落ちしないで。探す範囲はえらく広く、人はやたらと多い。奧さん」となっている。なぜ“county”をぼかすのだろう。“county”は“state”(州)の下位の行政区画のことで、アラスカ、ルイジアナ以外の州では“county”が用いられている。

ドクター・ヴァリンジャーの牧場でカウボーイ姿の背の高い男を見たというマーロウに、アイリーンは喜びの声を上げる。「正しい方向に向かっているという気がしないの?」と訊くアイリーンにマーロウが答えるのが、

"I could be wetter than a drowned kitten."(全くの見当はずれかもしれません)

直訳すれば「溺れさせられた仔猫よりもっとぐっしょり濡れているかもしれない」だ。”drown a kitten”(仔猫を溺れさせる)というのは「悪い結果を予期して、議論や討論を止めること」をいうスラング。ヴァリンジャーを追及することは、ひょっとしたら墓穴を掘る結果になるかもしれない。それは予測可能である。つまりすでに、この計画は中止するべきだ。そのうえで、追及をやめないのは「溺れさせられる仔猫」よりもっとずぶ濡れ(より悪い)ことになるかもしれない、とマーロウは考えている。

清水訳は「まだわからんのです」。村上訳は「まったくの見込み違いだったということになるかもしれません」。田口訳は「いや、まったくの空振りということもありうる」。市川訳は「そう言われるともう一度調べる気になってきました。でも無駄に折った骨をまた折ることになりそうです」。やはり、「溺れさせられる仔猫」という言葉はうまく訳せないということなのだろうか。

夜闇の中をヴァリンジャーの牧場に向かうマーロウの耳に鳥の鳴き声が聞こえてくる。

Far back in the valley I thought I heard a quail. A mourning dove exclaimed against the miseries of life.(谷のはるか奥で鶉の鳴き声が聞こえた気がした。一羽のナゲキバトが人生の悲惨さを訴えていた)

この“mourning dove”だが、ただの「鳩」ではなく、悲しげな鳴き声で知られる米国の野生の鳩「ナゲキバト」のことだ。ところが、これまでの訳ではただの「鳩」になっている。視覚のきかない闇の中で情景描写をしようと思えば音やその他の感覚を用いるほかない。ナイチンゲールはじめ小説によく登場する鳥には鳴き声にそれぞれ特徴がある。ところが、市川訳ではその前の“quail”(ウズラ)までが「ツグミ」と誤訳されている。名詞“quail”は「ウズラ」だが、動詞の“quail”には「おじけづく、ひるむ、気後れする」等の意味がある。深読みかも知れないが「嘆き、死への哀悼」の意味を持つ“mourning”と重ねることで、勝算のない賭けに出ている私立探偵の寄る辺ない思いが伝わってくるようだ。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

18

“turn”は「(木などが)ろくろ(旋盤)にかかる」こと

【訳文】

ドクター・エイモス・ヴァーリーの場合はまったく違っていた。彼は、大きな古い庭に大きな古いオークの木が陰を落とす大きな古い家を持っていた。どっしりした骨組み構造で、ポーチの張り出し屋根に沿って凝った唐草模様が施され、白い手摺りには古めかしいグランドピアノの脚のように轆轤加工され縦溝が彫られた手摺子が並んでいた。ポーチの長椅子によぼよぼの老人が数人、毛布にくるまって座っていた。

入り口のドアは両開きで、ステンド・グラスのパネルが嵌っている。中のホールは広くて涼しく、寄木細工の床は磨き上げられ、敷物は一枚もなかった。アルタデナの夏は暑い。丘の麓にへばりついているので、風は上空を吹き抜けていく。八十年前、人々はこの気候に適した家の建て方を知っていた。

ぱりっとした白衣を着た看護師に名刺を渡してしばらく待たされたあと、ドクター・エイモス・ヴァーリーが面会に応じてくれた。禿げ頭の大男で陽気な笑顔の持ち主だ。長い白衣はしみひとつなく、靴はゴム底で音もなく歩いてきた。

「どうしました、ミスタ・マーロウ?」痛みを和らげ、不安な心を慰める豊かで柔らかい声をしていた。さあ医者が来ましたよ、心配することは何もありません、すべてがうまくいきます。彼は患者への接し方を心得ていた。甘く心地よい蜂蜜の層を幾重にも重ねていた。彼は素晴らしかった―そして、装甲板のように手強かった。

「ドクター、ウェイドという男を探しています。裕福なアルコール依存症患者で、自宅から姿を消しましてね。前歴からするとその手の治療を扱うどこか目立たない場所に潜伏しているようだ。唯一の手がかりは、ドクター・Ⅴということだけ。あなたは私にとって三人目のドクター・Ⅴで、正直、くじけそうになっています」

彼は穏やかに微笑んだ。「まだ三人目ですか、ミスタ・マーロウ? ロスアンジェルスとその周辺には、Vで始まる名前の医者が百人はいるはずですよ」

「確かに、でも、格子窓のある部屋を持つ者は多くない。この家の二階の脇に、いくつかありましたよ」

「老人たちです」ドクター・ヴァーリーは悲しげに言ったが、それは豊かで満ち足りた悲しみだった。「孤独な老人、意気消沈した老人、不幸な老人。ときどき――」彼は片手で意味深長な仕種をした。外側に向かって弧を描き、いったん止め、それから枯葉がひらひらと地面に舞い落ちるようにゆっくり下ろした。「ここではアルコール依存症は扱っていません」と彼はきっぱりと言い添えた。「では、失礼して――」

「すみませんでした、ドクター。たまたまリストに載っていたんです。おそらく間違いでしょう。数年前に麻薬捜査官とやり合ったとか」

「そうなんですか?」彼は困惑した表情を浮かべたが、しばらくすると何かを思い出したように、「ああ、そうだ。私がうっかり雇ったアシスタントです。ほんの短い間だった。彼は私の信頼をひどく裏切った。ええ、たしかにそんなことがあった」

「私が聞いたのとは違う」と私は言った。「私の聞き間違いだったようだ」

「どんなふうにお聞きになったんですか、ミスタ・マーロウ?」彼は相変わらず、その微笑みとまろやかな口調で、私を手厚くもてなしていた。

「麻薬の処方記録を提出しなければならなかったと」

少々こたえたようだ。顔をしかめこそしなかったが、愛嬌の層が数枚剥がれ落ちた。青い眼が冷たく光った。「その根も葉もない情報の出所は?」

「大手の探偵事務所です。その手のファイルを作成する設備を備えている」

「安っぽいゆすり屋の集まりに違いない」

 「安くはない、ドクター。基本料金は一日百ドル。元憲兵大佐が経営している。小商いではない、ドクター。彼はかなり高く評価されている」

「その男に一言文句を言わねばなるまい」とドクター・ヴァーリーは冷やかな嫌悪感を込めて言った。「そいつの名前は?」ドクター・ヴァーリーのマナーの中で陽が沈んだ。肌寒い夜になりつつあった。

「それは言えない、ドクター。あまり気にしないで。よくあることです。それより、ウェイドという名前に心当たりはないんですね?」

「出口はご存じのはずだ、ミスタ・マーロウ」

彼の背後で小さなエレヴェーターのドアが開いた。看護師が車椅子を押し出した。その椅子には、壊れた老人の残骸が収まっていた。目は閉じられ、肌は青みがかっていた。体は毛布で申し分なく包まれていた。看護師は、磨き上げられた床を静かに横切り、脇のドアから出て行った。ドクター・ヴァーリーが静かに言った。

「老人たち。病んだ老人たち。孤独な老人たち。二度と来ないでくれ、ミスタ・マーロウ。きみにはいらいらさせられる。私はいらいらするとかなり不快になる。しごく不快だと言ってもいい」

「わかった、ドクター。時間を割いてくれて感謝する。なかなかしゃれた終の棲家だ」

「どういう意味だ?」彼は私に向かって一歩踏み出し、残っていた蜂蜜の層をはがした。顔の柔らかい線が、硬い隆起になっていた。

「どうかしたか?」と私は訊いた。「私の捜してる男がここにいないのは分かった。私は抵抗することもできないほど弱った人間を探してるわけじゃない。病んだ老人たち。孤独な老人たち。ドクター、あんた自身が言ったんだ。愛されていない老人たち、ただし金と飢えた遺産相続人つきの。おそらくその大半が裁判所によって禁治産者と判断されているんだろう」

「いらいらしてきたよ」とドクター・ヴァーリーは言った。

「軽い食事、軽い鎮静剤、しっかりした治療。彼らを太陽の下に出したり、ベッドに戻したり。まだ元気が残っているかもしれないので、窓の一部に鉄格子をつけてやる。彼らは皆、ドクターを愛している。彼らはあんたの手を握り、あんたの眼に浮かぶ悲しみを見ながら死んでいく。その悲しみも嘘ではない」

「そのとおりだ」と彼は喉の奥から絞り出すような低い声で言った。彼の手は今や拳になっていた。そのあたりでやめておくべきだった。しかし、私は彼に吐き気を催し始めていた。

「そうだろうとも」と私は言った。「金払いのいい上客を失うのは誰だって辛い。機嫌を取る必要もない客ならなおさらだ」

「誰かがやらねばならない」彼は言った。「誰かがこれらの哀れな老人たちの世話をしなければならないんだ、ミスタ・マーロウ」

「誰かが汚水溜めを掃除しなきゃならん。考えてみれば、それは公正で真っ当な仕事だ。じゃあな、ドクター・ヴァーリー。自分の仕事が汚く思えるときには、あんたのことを思い出すよ。きっと気が晴れる」

「この薄汚いシラミが」ドクター・ヴァーリーは大きな白い歯の間から声を出した。「背骨を叩き折られたいか。私がやっていることは名誉ある職業の名誉ある一部門なんだ」

「ああ」私はうんざりして彼を見た。「よく分かるよ。ただ、死臭がするだけだ」

殴られなかったので、彼をそこに残して外へ出た。私は広い両開きのドアから振り返った。彼は動いていなかった。彼にはやるべきことがあった。剥がれ落ちた蜂蜜の層を元に戻すという仕事が。

【解説】

アルタデナに向かったマーロウは、ドクター・ヴァリーに会う。人物の衣服や住まいを詳しく描写するのはチャンドラーの常套手段だ。探偵であるマーロウにはそれで相手がどんな人間かが会話する前から分かるからだ。夏の暑さをいかに快適に過ごすか工夫されたその屋敷だが、今までの訳に少し疑問がある。ポーチの手すりについて触れた部分だ。

the white porch railings had turned and fluted uprights like the legs of an old-fashioned grand piano.(白い手摺りには古めかしいグランドピアノの脚のように轆轤加工され縦溝が彫られた手摺子が並んでいた)

“had turned and fluted”のところが、清水訳は「そりかえっていて、こまかい溝がきざんであった」となっている。村上訳は「くねって、優雅な溝が刻まれていた」。田口訳は「曲がり」だけだ。市川訳は「優雅な曲線を描いて垂直に立っていた」だ。「曲線を描いて垂直に立つ」というのは論理矛盾だと思うがそれはさておき、“turn”には「軸または中心の周りを 1 回・半回・数回ぐるりと回す」という意味があるが、そりかえったり、くねったりする意味はない。これは“old-fashioned grand piano”の脚をチッペンデール風の猫脚と考えた清水氏に責任があるようだ。

“uprights”とあるのだから、手摺子は垂直に立っているわけだ。だとすれば“turn”は「(金属・木などが)ろくろ(旋盤)にかかる」の意味と取るべきだ。古いグランドピアノの画像を調べれば、そういう脚がいくらでも出てくる。いくら豪邸でもベランダの手摺子一本一本を猫脚に加工する手間はかけられない。ましてここはアメリカだ。大量生産の轆轤加工と採るのが普通ではないだろうか。

Altadena is a hot place in summer. It is pushed back against the hills and the breeze jumps clear over it.

次のパラグラフにある文だが、前の文を受ける代名詞の“it”を何と考えるかで意味が真逆になる。田口訳を除く三つの訳では、それをアルタデナという場所ととらえている。ふつうそうだろう。ところが田口訳は「アルタデナの夏は暑い。が、その屋敷は丘にへばりつくようにして建っているので、風が頭上をさわやかに吹き抜ける」と“it”を「屋敷」と取ったために前後の文が逆接の関係になっている。

“jumps clear over”だが“jump over”は「飛び越す、(ページを)飛ばす」という意味だから、この“clear”は「さわやかに」ではなく「完全に、まったく、すっかり」の意味で、せっかくの風がこの土地を頭越しに吹き抜けることを言っている。そんな暑い夏をやり過ごすための家の建て方を八十年前の人々はよく知っていたというのだ。市川訳が最新訳だが、この分野で名の通った翻訳家である田口氏の訳が定番となるのは必定。ささいなことだが、一言言っておく必要があると思う。

ドクター・ヴァーリーは初対面のマーロウの眼から見てもなかなかの医者に見えた。

He had that bedside manner, thick, honeyed layers of it. He was wonderful--and he was as tough as armor plate.(彼は患者への接し方を心得ていた。甘く心地よい蜂蜜の層を幾重にも重ねていた。彼は素晴らしかった―そして、装甲板のように手強かった)

“honeyed”とは「(言葉が口先だけで)お世辞の、(声などが)甘い、柔らかくて心地良い」という意味。“layers of honey”は「蜂蜜の層」のこと。つまり、この男は心にもない甘言が次から次へと繰り出されるタイプの人間だということだ。清水訳は「この人物とこの態度なら、病人に信頼される」。村上訳は「彼は医師として、患者との接し方を心得ていた。声に深みがあり、この上なく愛想が良い」。田口訳は「患者との甘くてやさしい接し方を何通りも心得ていそうだった」。市川訳は「これが入院患者への接し方だ。愛想のいい応対が厚く何層に重なっていて、患者が苦痛、苦情、不安を訴えても愛想良くいなされこの何重もの蜜のような層を突き破ることは難しい」。

問題は、章の終わりで、この医者は剥がれ落ちた蜜の層をつけ直していることだ(He had a job to do, putting back the layers of honey.)。第十八章は、マーロウとのやり取りを通じて、ドクター・ヴァーリーの顔から笑顔と甘言の層が一枚一枚剥がれ落ちていく過程を描いている。であるからには、“layers of honey”という言葉をきちんと訳す必要があるのでは、と思う。

ちなみに章末の訳は以下の通りだ。「魅力をとりもどさなければならなかったのだ(清水)」。「彼には大事な仕事があったのだ。にこやかで柔和な仮面をかぶりなおすという仕事が(村上)。「このあと仕事があるのだろう。その仕事のためにはまず魅力の皮を何枚かかぶり直さなければならない(田口)」。「彼には仕事がある。何重もの蜜のような層をまたかぶり直すという仕事が(市川)」田口訳だけが“a job to do”を「(このあとの)仕事」のことだと捉えている。「魅力の皮を何枚かかぶり直す」のは、その仕事のためだと。これは誤りだ。ここでいう仕事とは、いまそこに立ち止まって意識を集中し、自分を常態に戻すことだ。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

17

“That's no way to”は「そのやり方はない」

【訳文】

二〇マイルほど車を運転して街に戻り、昼食を食べた。食べているうちに、ますますすべてが馬鹿らしく思えてきた。私がやっていたようなやり方では、人は見つからない。アールやドクター・ヴァリンジャーのような興味深い人物には出会えても、目当ての男には出会えない。報われることのないゲームで、神経とタイヤをすり減らし、言葉とガソリンを無駄遣いしている。ミニマム・ベットで四通り、黒の二八に張るようなものだ。Vで始まる三つの名前で目当ての男を探し当てるチャンスは、伝説の勝負師ニック・ザ・グリークに骰子博打で勝つくらいの割合しかない。

いずれにせよ、一発目がハズレというのはよくあること、行き止まり、頼みの綱は予告もなしに突然切れるものだ。しかし、ウェイドの代わりにスレイドと言うべきではなかった。彼は頭のいい男だ。そんなに簡単に忘れたりしないだろう。それに、もし忘れたのなら、忘れたままでいるはず。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。長い付き合いとは言えない。コーヒーを飲みながら、ドクター・ヴカニックとドクター・ヴァーリーについて考えた。イエスかノーか? もし行くとすれば、午後の大半はつぶれるだろう。無駄足を踏んでから、アイドル・ヴァレーのウェイド邸に電話したら、当主は自分の家に戻り、当分の間は万事順調と聞かされるかもしれない。

ドクター・ヴカニックは簡単だった。ここから六ブロック先だ。しかし、ドクター・ヴァーリーは遠く離れたアルタデナ・ヒルズにいる。長く、暑く、退屈なドライヴになる。イエスかノーか?

思案の末、行くことにした。理由は三つ。一つは、裏社会とそこに生きる人々について、いくら知っても知りすぎることはないということ。二つ目は、ピータースが私のために出してくれたファイルに付け加えるものを何か見つけたら、それだけで彼の好意に報いることができる。三つ目の理由は、これといって他にすることがなかったからだ。

勘定を済ませ、車を置いたまま通りの北側を歩いてストックウェル・ビルに向かった。骨董品物のビルで、エントランスにはシガー・カウンターがあり、手動式のエレベーターは揺れが激しく、水平になるのを嫌った。六階の廊下は狭く、どのドアにもすりガラスが嵌っていた。

私のオフィスのあるビルよりも古く、はるかに汚かった。 そこに巣食っているのは、医師、歯科医、あまり流行っているとは言い難いクリスチャン・サイエンスの施術者、相手側についてくれることを期待したくなる類の弁護士と言った連中だ。医師や歯科医と言っても食っていくのがやっとというレベル。腕もなければ、清潔ともいえず、目端も利かない。三ドルです、看護師にお支払いください。 自分の立場を弁えていて、どんな患者が訪れるか、いくらくらいなら金が払えるかを正確に知っている、疲れて意気消沈した男たちだ。現金払いに限ります。診療中、休診。ミセス・カジンスキー、奥歯がかなりぐらついていますね。 もし、この新しいアクリルの詰め物が欲しいなら、あらゆる点で金歯と同じものが、十四ドルで作れます。ノヴォカインをご所望であれば二ドル増しになります。診療中、休診。三ドルになります。看護師にお支払いください。

この手のビルには、本当に稼いでいる連中が必ず数人はいるものだが、傍目にはそうは見えない。みすぼらしい背景に溶け込み、それが保護色の役割を果たしているからだ。副業で保釈保証業の共同経営者を務める悪徳弁護士(没収された保釈保証金のうち、回収されるのはわずか二パーセント程度)。仕事に使う器具を説明するためなら何屋にもなる堕胎医。泌尿器科医や皮膚科医、あるいは頻繁に治療が行われ、局所麻酔薬の常用が不自然に感じられない分野の診療医の看板を掲げている麻薬の売人。

ドクター・レスター・ヴカニックの待合室は狭く、椅子の数も足りず、一ダースほどいる患者はみな居心地の悪さを感じていた。誰もが普通の人のように見えた。特に目立つところはなかった。とはいえ、抑制のきいたヤク中なら、菜食主義者の簿記係と見分けがつかない。四十五分待たされた。患者は二つのドアから中に入る。やり手の耳鼻咽喉科医なら、それだけのスペースがあれば一度に四人の患者を診ることができる。

ようやく呼ばれて。茶色の革の椅子に座った。横に白いタオルで覆われたテーブルがあり、その上に道具一式が置いてあった。壁際に置かれた殺菌キャビネットが泡立っていた。ドクター・ヴカニックは白衣を着て丸い鏡を額につけてきびきびと入ってきて、私の前のストゥールに座った。

「副鼻腔の頭痛でしたね? かなりひどいんですか?」 彼は看護師から渡されたフォルダーを見た。

ひどく痛い、眼がくらむほど、特に朝起きたとき、と言った。彼は訳知り顔にうなずいた。

「特徴的だ」と彼は言い、万年筆のようなものにガラスのキャップをかぶせた。

彼はそれを私の口に押し込んだ。「口を閉じて、でも、歯で嚙まないように」 そう言いながら手を伸ばして電気を消した。窓はなかった。どこかで換気扇が鳴っていた。

ドクター・ヴカニックはガラス管を取り出し、電気をつけ、入念に私を見た。

「鼻づまりはまったくありませんよ、ミスタ・マーロウ。もし頭痛があるなら、それは副鼻腔によるものではありません。当て推量ですが、あなたはこれまで一度も副鼻腔の病気にかかったことはないはず。過去に鼻中隔の手術を受けてますね」

「はい、ドクター。フットボールをやっていて、蹴られたんです」

彼はうなずいた。「切り取ったはずの骨がわずかに残っています。しかし、呼吸を妨げるほどではない」

彼はストゥールの上で上体を起こし、膝に手をおいた。 「いったい私にどうしろと?」 と彼は尋ねた。 細面で、退屈で生気のない青白い顔をしていた。 結核に罹った白ネズミを思わせた。

「友人のことで相談があるんです。彼は体調を崩している。作家で、たんまり儲けているんですが、神経が参ってて、助けが必要です。もう何日も酒浸りです。ちょっとした特別なものが必要ですが、彼の主治医はもうこれ以上協力してくれそうにありません」

「協力というのは具体的にはどういうことです?」とドクター・ヴカニックは訊いた。

「たまに注射を打って落ち着かせてくれるだけでいいんです。ここなら何とかしてくれるのでは、と思って。金のことなら心配ありません」

「すまないが、ミスタ・マーロウ。私はお役に立てない」彼は立ち上がった。「言わせてもらえば、なんとも無礼な申し出だ。ご友人が望むなら、相談してもらってかまわない。が、治療が必要な何かの問題がある方がいいでしょう。十ドルになります、ミスタ・マーロウ」

「とぼけるのはよせ、ドク。あんたの名前はリストに載ってるんだ」

ドクター・ヴカニックは壁にもたれて煙草に火をつけた。様子を見ようというのだ。彼は煙草の煙を吹きかけ、それを眺めた。私は代わりに私の名刺を一枚渡した。彼はそれを見た。

「何のリストだ?」と彼は訊いた。

「鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)。私の友人を先刻ご承知なのでは。名前はウェイド。あんたが小さな白い部屋のどこかに隠しているんじゃないのか。そいつは家を出て行方不明なんだ」

「ばかばかしい」ドクター・ヴカニックは言った。「私は四日間断酒治療みたいなけちな稼ぎはやらない。どうせ何の役にも立たないんだ。私のとこには小さな白い部屋もないし、きみが言っている友人とは面識もない―たとえ実在していたとしてもな。十ドル、現金で、今すぐ。それとも警察に電話して、きみに麻薬をせびられたと苦情を申し立てようか?」

「そいつはいい」私は言った。「やってみようや」

「とっとと出て行け、この三文詐欺師が」

私は椅子から立ち上がった。 「どうやら見当はずれだったようだ、ドクター。この前そいつが行方をくらましたとき、名前がVで始まるドクターのところに隠れていた。これが完全に隠密作戦でね。深夜に連れ出され、治療が終わると同じようにして連れ戻された。彼が家の中に入るのを見届けようとさえしなかった。それで、彼がまた行方をくらまして、しばらく帰ってこなかったので、当然、私たちは手がかりを求めてファイルをチェックした。で、Vで始まるドクターが三人いたってわけだ」

「面白い」と彼は言って寒々とした笑みを浮かべた。まだ様子見を決め込んでいた。「何を決め手にして選んだんだ?」

私は彼を見つめた。彼の右手は左上腕部の内側をそっと行きつ戻りつしていた。顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。

「悪いが、ドクター。それは企業秘密でね」

「ちょっと失礼、ほかの患者が待って―」

彼は言葉を最後まで言うことなく出て行った。彼がいない間に、看護師がドアの隙間から顔を出し、私をちらっと見て引っ込んだ。

やがてドクター・ヴカニックがぶらぶら戻ってきた。幸せそうに、顔に微笑みを浮かべ、見るからにくつろいでいた。眼が輝いていた。

「なんだ、まだいたのか?」と明らかに私を見て驚いているようだった。あるいはそんなふりをした。「話は済んだと思っていたんだが」

「帰るところだ。そちらにはまだ用があるかと思ったのでね」

彼はほくそ笑んだ。「知ってるか? ミスタ・マーロウ。われわれは異常な時代を生きている。五百ドルも出せばきみの骨を何本か折って病院送りにすることもできる。笑えるだろう?」

「実に面白い」私は言った。「静脈に一本打ってきたんだろう、ドク? やけに元気になったもんだ」

私は部屋を出かけた。「元気でな(アスタ・ルエゴ)、アミーゴ」彼は甲高い声で言った。「十ドルをお忘れなく。看護師に払ってくれ」

彼はインターホンの前に移動し、私が立ち去ると、インターホンに向かって話しかけた。 待合室ではさっきと同じ十二人が、あるいは同じような十二人が居心地悪そうにしていた。 看護師はちゃんと仕事をした。

「十ドルになります、ミスタ・マーロウ。当院は現金払いに限らせていただいています」

私は混雑した足の間を抜けてドアに向かった。 彼女は椅子から飛び起きて机の周りを走った。 私はドアを引いて開けた。

「払わなかったらどうなるんだ?」と私は訊いた。「今に分かる」と彼女は腹立たし気に言った。「そうか。きみはきみの仕事をしてるだけだ。私もそうだ。置いてきた名刺を見れば、私の仕事が何か分かる」

私はそのまま出て行った。待合室の患者たちは咎めるような眼で私を見た。医者に向かってあれはない。

【解説】

ヴァリンジャ―のところから街に帰ってきたマーロウは、さてこれからどうするか、と思い悩む。最初のパラグラフの後半部分が分かりづらいのか、清水氏は例によってトバしている。ここのところだ。

You're not even betting table limit four ways on Black 28. With three names that started with V. I had as much chance of paging my man as I had of breaking Nick the Greek in a crap game.(ミニマム・ベットで四通り、黒の二八に張るようなものだ。Vで始まる三つの名前で目当ての男を探し当てるチャンスは、伝説の勝負師ニック・ザ・グリークにさいころ博打で勝つくらいの割合しかない)

村上訳では「出るあてもない目にせっせと金を張っているようなものだ。Vで始まる名前を持つ三人、そんな手がかりだけで人を捜し出せるチャンスなんて、クラップ・ゲームで名手ニック・ザ・グリークを打ち負かすよりも難しいだろう」となっているが、少し文意がちがう。

田口訳は「ルーレットでリスクを分散させてミニマムベットで黒の28に賭けるほどの興奮すらない。イニシャルがVの三人の名前だけが手がかりというのでは、めあての相手が見つかる可能性などないに等しい。伝説のギャンブラー、ニコラス・ダンドロスをサイコロ賭博で負かす確率と変わらない」だが、「興奮すらない」というのも少しちがう。

市川訳は「ルーレットのテーブルで黒二八[ルーレットに黒の二八はない]に大金を四回は張る必要はない。だが三回までは賭ける気なのか? 頭文字Vの三人を頼りにウェードを見つけるのは伝説のギャンブラー、ニック・ザ・グリークとクラップ賭博で勝つくらいのチャンスしかない」となっているが、ルーレットに黒の二八はある。また、テーブル・リミットには上限と下限があるが、上限に四度も張るとは考え難い。“four ways”は「四通り」の意味で、ルーレットの賭け方を言う。残念ながら市川訳は空回りのようだ。

原文では引用文の前に“You waste tires, gasoline, words, and nervous energy in a game with no pay-off.”(報われることのないゲームで、神経とタイヤをすり減らし、言葉とガソリンを無駄遣いしている)という文がある。たいした報酬が期待できるわけでもない仕事にタイヤとガソリン、言葉と神経(四つある)を擦り減らすことをルーレットでの賭けに喩えているのだ。

マーロウがドクター・ヴカニックの診療所を訪れたとき、狭い待合室にはすでに患者がいた。

Dr. Lester Vukanich had a small and ill-furnished waiting room in which there were a dozen people, all uncomfortable.(ドクター・レスター・ヴカニックの待合室は狭く、椅子の数も足りず、一ダースほどの患者はみな居心地の悪さを感じていた)

その数だが、清水訳が十二人、村上訳では十人余り、市川訳では一ダース。ところが、田口訳だけが、六人ほどとなっている。後の方で、マーロウが待合室を出るとき、“In the waiting room the same twelve people or twelve just like them were being uncomfortable.”(待合室では同じ十二人が、あるいは同じような十二人が居心地悪そうにしていた)と再び人数が確認されるが、田口氏はここを「まえと同じ人間が十人ばかり」とやってしまっている。ケアレスミスだが、校閲でなんとかならなかったのだろうか。

田口訳のまちがいがもう一つ。ドクター・ヴカニックに協力の意味を問われたマーロの科白。

"All the guy needs is an occasional shot to calm him down. I thought maybe we could work something out. The money would be solid."(たまに注射を打って落ち着かせてくれるだけでいいんです。ここなら何とかしてくれるのでは、と思って。金のことなら心配ありません)

田口訳では出だしの文が「どんな男も神経を静めるには時々注射を打ってもらわなきゃならない」となっている。これではすべての男が麻薬中毒だと言ってるようなものだ。もちろんちがう。清水訳は「神経をおちつかせるために、ときどき注射が必要なんです」となっている。村上訳も市川訳もほぼ同じ意味の訳だ。ビートルズの歌に“All You Need Is Love”というのがある。邦訳は「愛こそはすべて」だ。直訳すれば「君に必要なのは愛だけだ」となる。“the guy”がウェイドを指しているのは自明なので、他の訳は主語をトバしている。田口氏は主語を取り違えたのだろう。上手の手から水、というやつか。

チャンドラーの文章は章末の切れがいいのが特徴だ。

I went on out. The waiting patients looked at me with disapproving eyes. That was no way to treat Doctor.(私はそのまま出て行った。待合室の患者たちは咎めるように私を見た。医者に向かってあれはない)

文末の一文は清水訳では「医師にこんな態度をとるのはまちがいだ」。村上訳は「医師に対してそのような態度をとるべきではないのだ」。田口訳は「そう、私が今取ったような態度はおよそ医師に対する態度とは言いがたい」としだいに長ったらしくはなるがほぼ同じ文意といえる。ところが、最新訳の市川訳では「その目つきは医師じゃ治せない」と全く異なる訳になっている。

“That's no way to〜”は「それは〜するための正しい方法ではない、それは〜するためのひどい方法である、そのような〜のやり方はとんでもない」という意味で、最後の文は、待合室にいる患者たちの気持ちを代弁したものだ。市川訳の斬新さは認めるが、どうしてそうなるのかと首をかしげたくなる訳が多い。コンテクストというものがよく分かっていないのではないだろうか。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

16

マーロウはアールの何を“phony”(いんちき)と言ったのか?

【訳文】

セパルヴェダ・キャニオンの麓、ハイウェイから引っ込んだところに、黄色く塗られた二本の四角い門柱があった。木枠に五本の横木を張った門扉の片方が開いたままになっていた。入り口には「 私道につき、立ち入り禁止」と書いた看板が針金で吊るされていた。空気は暖かく静かで、猫の嫌うユーカリの木の匂いでいっぱいだった。

私道に入って、丘の中腹を廻る砂利道をたどって、緩やかな斜面を上り、尾根を越えて反対側を下りて浅い谷に入った。谷間は暑く、ハイウェイより華氏十度か十五度高かった。砂利道は、石灰塗料を塗った石で縁取られた芝生の周りをループ状に回って終わっていた。左側には空っぽのプールがあったが、空っぽのプールほど空虚に見えるものはない。プールの三方は以前は芝生だったようで、色あせたパッドがついたアカスギ材の寝椅子が点在していた。パッドはもとは青、緑、黄色、橙、赤錆色と多彩だったようだ。縁の縫い目がところどころほつれたり、ボタンがはじけ飛んだりしたところでは詰め物が膨れ上がっていた。残る一方はテニスコートの高い金網に面していた。誰もいないプールの上の飛び込み台は膝をついて疲れているように見えた。粗い織りのカバーはずたずたに垂れ下がり、金具は錆びて剥がれ落ちていた。

方向転換用のループに入り、シングル葺きの屋根と広い玄関ポーチを持つアカスギ材の建物の前で止まった。入り口には両開きの網戸があった。大きな黒い蠅が何匹か網戸の上でうとうとしていた。常緑で常に埃っぽいカリフォルニア・オークの木の間を縫うように小径が伸び、丘の斜面には丸太小屋がちらほら散らばり、中にはほとんど完全に隠れているものもあった。季節外れの荒涼とした雰囲気が漂っていた。ドアは閉ざされ、窓は斜子織りか何かで誂えたカーテンで覆われている。窓枠には厚い埃が積もっているのが感じられるほどだった。

私はエンジンを切り、ステアリングに手を置いて耳をすました。音はしなかった。そこはファラオのように死んでいるみたいだったが、やがて両開きの網戸の向こうのドアが開き、奥の部屋の薄暗がりの中で何かが動いた。そのとき、軽く正確な口笛が聞こえ、男の人影が網戸を背にして現れ、網戸を押し開き、階段を下りてきた。そいつは見ものだった。

平べったい黒いガウチョハットをかぶり、顎の下で革編みの紐を結んでいる。白い絹のシャツにはしみひとつなく、喉元がはだけ、タイトな袖口の上にゆったりとしたパフスリーブがついていた。首の周りには黒いフリンジのついたスカーフが不揃いに結ばれ、片方の端は短く、もう片方はほとんど腰まで垂れていた。黒い幅広のサッシュを締め、黒いズボンを履いていた。腰の部分が肌にぴったりと張りついたズボンは、石炭のように黒く、両サイドが切り込みのあるところまで金糸で縫い取りが施され、ゆったりと広がる切り込みの両側には金ボタンが並んでいた。足には黒のエナメル革のダンス用パンプスを履いていた。

彼は階段の下で立ち止まり、まだ口笛を吹きながら私を見ていた。身のこなしは鞭のようにしなやかだった。絹のような長い睫毛の下には、見たこともないような大きくて虚ろなくすんだ瞳があった。顔立ちは繊細で、弱々しさのない完璧なものだった。鼻はまっすぐで細かったが、細過ぎるというほどではない。口を器用に尖らせている。顎には小さなくぼみがあり、小さな耳は頭に優雅に寄り添っていた。肌は一度も陽の光を浴びたことがないかのようにひどく蒼白かった。

勿体ぶって左手を腰に当て、右手で空中に優雅なカーブを描いてみせた。

「ご機嫌よう」と彼は言った。「いい日和だね?」

「私にはちょっと暑すぎるが」

「ぼくは熱いのが好きだ」ぶっきらぼうで取り付く島がなく話の接ぎ穂がなかった。私が何を好きかは彼の知るところではなかった。彼は階段に腰を下ろし、どこからか長いやすりを取り出して、爪にやすりをかけ始めた。「銀行の人?」彼は顔を上げずに訊いた。

「ドクター・ヴァリンジャーを探している」

彼はやすりをかけるのをやめ、熱気の漂う遠くに目をやった。「誰だって?」と彼は気がなさそうに訊いた。

「ここの持ち主だ。ずいぶん口が堅いじゃないか? まるで知らないかのようだ」

彼は爪のやすりかけに戻った。「何かの聞き違いだろう。ここの持ち主は銀行だ。抵当流れになったか、第三者預託か何かの手続き中だ。詳しいことは忘れた」

彼は、細かいことはどうでもいいといった表情で私を見上げていた。私はオールズから降り、熱いドアにもたれたが、すぐにそこを離れて息のつけるところに移動した。

「どこの銀行だ?」

「知らないってことは、銀行から来たんじゃない。銀行から来たんじゃないなら、ここには何の用もない。なあ、出て行けよ。とっとと失せろ」

「ドクター・ヴァリンジャ―に会わなければならない」

「ここはもうやっていない。看板に書いてあるように、ここは私道なんだ。どこかのセールスマンがゲートを閉め忘れたんだ」

「きみは管理人か?」

「みたいなものだ。これ以上の質問はお断りだ。我慢にも限界がある」

「頭にきた時はどうするんだ。地リスとダンスでも踊るのか?」

彼はいきなり立ち上がった。優雅な身のこなしだった。一瞬笑みを浮かべたが虚ろな笑みだった。「あんたがその型落ちのコンヴァーティブルに戻るにはぼくの手が要るようだ」と彼は言った。

「それは後だ。今は、どこに行けばドクター・ヴァリンジャーが見つかるか? だ」

彼はやすりをシャツのポケットにしまうと、別の物を手にした。素早い動きだった。右手の拳にブラスナックルが光っていた。頬骨の上の皮膚が引き締まり、大きなくすんだ眼の奥に炎が宿っていた。

彼はぶらぶらと私に向かって歩いてきた。私は後ずさりして足場を確保した。彼は口笛を吹き続けていたが、その口笛は甲高く耳障りなものになっていた。

「やりあうことはない」私は彼に言った。「やりあわなきゃならないことなど何もないんだ。それにその見事なズボンが裂けるかもしれない」

あっという間だった。彼は滑らかにひと跳びして距離を詰めると、左手を素早く蛇のようにくねらせた。ジャブを予期して頭を振ってよけたが、彼の狙いは私の右手首だった。つかむ力もなかなかのものだった。腕をぐいと引っ張って私のバランスを崩したところへ、ブラスナックルをはめた手が弧を描いて飛んできた。そんなものを後頭部に食らえば、病院行きは免れない。身を引けば、顔の側面か肩のすぐ下の二の腕に食らう。腕が駄目になるか顔が潰れるかのどちらかだ。となれば、やるべきことは一つしかない。

引かれるままに身を任せ、すれちがい様に彼の左足を後ろからブロックし、彼のシャツをつかむと、生地が裂ける音がした。何かが首の後ろに当たったが、金属ではなかった。私が左に身をよじると、彼は横っ飛びして猫のように着地し、私がバランスを取る前に再び立ち上がった。にやにやしていた。何もかもが愉快でならない様子。こういう仕事が大好きなのだ。速攻で向かってきた。

どこからか野太い声が聞こえた。「アール、すぐにやめろ! すぐにだ。聞こえたか?」

ガウチョ小僧は動きを止めた。顔には薄気味の悪い笑みのようなものを浮かべていた。 素早い動きで、ブラスナックルはズボンの上の幅広いサッシュの中に消えた。

振り返ると、アロハシャツを着たがっしりとした体格の男が、腕を振りながら小径のひとつを急いでこちらに向かってくるのが見えた。近くまでくると、少し息が上がっていた。

「気でも狂ったのか、アール?」

「その言い方はよしてくれ、ドク」とアールは穏やかに言った。それから微笑んで背を向け、家の階段に座った。そしててっぺんの平たい帽子を脱いで櫛を取り出し、無表情で濃い黒髪を梳き始めた。ほどなくして、静かに口笛を吹き始めた。

派手なシャツを着たがっしりした男は突っ立ったまま私を見た。私も彼を見返した。

「いったい何事だ?」彼は唸った。「きみは誰だ?」

「名前はマーロウ。ドクター・ヴァリンジャ―を訪ねてきた。あんたがアールと呼んだ若造がゲームをしたがってね。思うにここはちょっと暑すぎるようだ」

「私がドクター・ヴァリンジャ―だ」彼は威厳を込めて言った。そして後ろを振り向いた。「家の中に入っていなさい、アール」

アールはゆっくりと立ち上がった。ドクター・ヴァリンジャ―をいわくありげに探るように見つめたが、大きなくすんだ眼は表情というものを欠いていた。それから彼は階段を上がり、網戸を開けた。一群れの蠅が怒ってブンブンと音を立て、ドアが閉まると再び網戸に止まった。

「マーロウ?」ドクター・ヴァリンジャ―は私の方に再び注意を向けた。「それで、どういったご用件かな、ミスタ・マーロウ?」

「アールの話では、あなたはここを閉めたそうだが」

「その通り。引っ越す前にある種の法的手続きを待っているところでね。ここはアールと私だけだ」

「そいつはがっかりだ」私はさもがっかりした口ぶりで言った。「ウェイドという男が厄介になってると思ったんだが」

彼はフラー・ブラシの社員なら興味を持ちそうな両の眉を持ち上げた。「ウェイド? その名前なら知ってるかもしれない、ありふれた名前だ。で、どうしてその男が私のところにいるはずだと?」

「治療を受けるためだ」

彼は眉をひそめた。彼みたいな眉毛の男は本人にその気がなくてもしかめっ面になる。「私は医療に携わる者だが、もう治療はしていない。どのような治療を考えておられたのかな?」

「そいつはアル中でね。時々正気を失って行方をくらます。自力で帰ってくることもあれば、連れ戻されることもあるし、ときには捜さなければならないこともある」私は名刺を取り出し、彼に手渡した。

彼は面白くもなさそうにそれを見た。

「アールはどうなってる?」と私は訊いた。「自分をヴァレンティノか何かだと思ってるのか?」

彼はまた眉をひそめた。何とも魅惑的な眉だ。眉毛の一部が一インチ半ほども勝手に丸まってしまうのだ。 彼は肉付きのいい肩をすくめた。

「アールは全くもって無害だよ、ミスタ・マーロウ。時々、夢見がちで、芝居の世界に入り込んでしまう、とでも言えばいいのかな」

「言ってくれるね、ドク。私に言わせれば、彼の芝居は荒っぽ過ぎる」

「ちょっと、ミスタ・マーロウ。それは言い過ぎだ。アールは着飾るのが好きでね。その点ではまるで子どもだ」

「要するにいかれてるってことだ」と私は言った。「ここはある種のサナトリウムなんだろう。あるいは以前はそうだったか?」

「とんでもない。運営されていた当時は芸術家のコロニーだった。私は彼らに食事、宿泊施設、運動や娯楽のための施設、そして何にも増して人目を避けて暮らせる隠れ家を提供した。しかも、適度な料金で、ご存知のように芸術家に裕福な人はそうそういないからね。芸術家という言葉には、もちろん作家や音楽家なども含まれる。私にとってやりがいのある仕事だった。うまくいっている間は」

そう言ったとき、彼は悲しそうな顔をした。眉毛の外端は口角に合わせて垂れ下がり、もう少し伸びれば、口の中に入りそうだ。

「それは知っている」と私は言った。「ファイルに書いてあった。ちょっと前にここで起きた自殺事件もね。麻薬がらみだったんだろ?」

彼はうなだれるのをやめ、いきり立った。
「何のファイルだ?」と彼は語気鋭く訊いた。

「バード・ウィンドウ・ボーイズ、と呼ばれるファイルがあるんだよ、ドクター。振戦譫妄に襲われても窓から飛び降りられない施設を持つ医者のリストだ。小さな個人経営のサナトリウムか何かで、アルコール中毒者や薬物依存症、軽度の躁病を扱っている」

「そういうところは法律で認可を受ける必要がある」とドクター・ヴァリンジャ―は厳しく言った。

「そう、とにかく理論上はそうなる。人は時々そのことを忘れてしまうんだ」

彼は態度を硬化させた。おまけに、この男にはある種の威厳があった。「その物言いは侮辱的だ、ミスタ・マーロウ。きみの言う、その類のリストにどうして私の名前が載らなきゃならんのか、私には見当もつかん。お引き取り願おう」

「ウェイドの話に戻ろう。彼は別の名前でここにいるのかな?」

「ここにはアールと私以外、誰もおらん。われわれだけだ。では、失礼して―」

「あたりを見て回りたいのだが」

.場合によっては、怒らせることで、思いもかけぬ発言を引き出すこともある。 しかし、ドクター・ヴァリンジャーは違った。 彼は威厳を保っていた。眉一つ動かさなかった。 私は家のほうを見た。 中から妙なる調べが聞こえてきた。ダンスミュージックだ。 そして非常に微かに指を鳴らす音も。

「踊ってるな」と私は言った。「あれはタンゴだ。彼はあそこで一人で踊っている。たいしたものだ」

「そろそろ帰ってもらえるかな、ミスタ・マーロウ? それともここから放り出すのにアールの手を借りなきゃいけないのかな?」

「分かった、帰るよ。悪く思わないでくれ、ドクター。Vで始まる名前は三人だけで、その中であんたが一番有望株だった。ドクターV。それが唯一の手がかりでね。彼は姿を消す前に紙に書き留めた。ドクターV、と」

「何十人もいるだろう」とドクター・ヴァリンジャ―は落ち着いて言った。

「もちろん。だが、バード・ウィンドウ・ボーイズのファイルには何十人もいない。時間を割いてくれてありがとう、ドクター。アールのことはちょっと気になるね」

背を向けて車に乗り込んだ。ドアを閉めた時には、ドクター・ヴァリンジャ―がドアの向こうにいた。彼は楽しそうな表情で身を乗り出した。

「われわれが角突き合わせる必要はないよ。ミスタ・マーロウ。多少押しつけがましくなるのは職業柄というものだろう。アールの何が気になるのかね?」

「あれは明らかにいんちきだ。ひとついんちきを見つけると、他にもあるのではと勘ぐりたくなる。あいつは躁鬱病なんだろう? 今は躁状態にあるようだが」

彼は黙って私を見つめた。重々しく真面目くさって言った。「ミスタ・マーロウ、私のところには興味深く、才能のある人がたくさん滞在していた。皆が皆きみのように分別があるわけではなかった。才能のある人は神経症的傾向を持つことが多い。しかし、私のところには精神異常者やアルコール中毒者のケアをする施設がない。たとえそういう仕事が好きだったとしても。アール以外にスタッフはいないし、彼は病人のケアをするタイプではない」

「じゃあ、彼はどんなタイプだと言いたいんだ、ドクター? ダンスとかは別として?」

彼はドアに寄りかかった。内緒話をする時のように声を低くした。「アールの両親は私の大切な友人だった、ミスタ・マーロウ。誰かがアールの面倒を見なければならない。彼の両親はもういない。アールは都会の騒音や誘惑から離れて、静かな生活を送らなければならない。彼は不安定だが、基本的には無害だ。見ての通り、私の言うことには素直に従う」

「あなたはとても勇気がある」と私は言った。

彼はため息をついた。眉が怪しい虫の触角のように揺れた。「犠牲を払った。かなり大きな犠牲だ。ここでの仕事をアールが手伝ってくれると思った。テニスは見事な手並みだし、泳ぎも、飛び込みも一流で、一晩中踊ることができる。大抵の場合上機嫌で過ごしている。だが、ときどき事件が起きた」辛い思い出を背景に押しやるように、彼は大きく手を振った。「結局、アールを諦めるか、ここでの私の居場所を諦めるかのどちらかだった」

彼は両の手のひらを上にして広げ、ひっくり返して脇に落とした。眼は、今にも涙が溢れそうだった。

「ここを売り払った」と彼は言った。「この静かな小さな渓谷は不動産屋の手で開発されるだろう。歩道が整備され、街灯が立ち、スクーターに乗った子どもたちがラジオを鳴らす」と彼は寂しそうにため息をついた。「テレビだってあるだろう」彼は大きく手を振った。「樹々を残してくれることを願っているが、残念ながらそうはならないだろう」と彼は言った。「樹木の代わりに尾根沿いにはテレビのアンテナが立ち並ぶだろう。だが、アールと私は遠く離れたところにいるはずだ」

「さようなら、ドクター。あなたのことを思うと心が痛むよ」

彼は手を差し出した。しっとりしていたが、とてもしっかりしていた。「あなたの同情と理解に感謝する、ミスタ・マーロウ。そして、ミスタ・スレイドを探す役に立てないことを残念に思う」

「ウェイド」と私は言った。

「失礼、ウェイド、そうだった。さようなら、幸運を祈る」

私は車を走らせ、来た道を砂利道に沿って戻った。気落ちしたが、ドクター・ヴァリンジャ―が期待したほどではなかった。

私はゲートを抜けて外に出てしばらく進み、ハイウェイのカーブを曲がって入り口から見えないところに車を停めた。車から降り、境界に沿って張り巡らされた鉄条網越しにゲートが見えるところまで舗装道路の路肩を歩いて戻った。そこに立ち、ユーカリの木の下で待った。

五分かそこらが過ぎた。すると、砂利をかき分けながら私道を下ってくる車があった。私のいる位置からは見えないところで止まった。私はさらに奥の茂みに引っ込んだ。軋むような音がして、それから重い掛け金の下りる音とじゃらじゃらと鳴る鎖の音が聞こえた。車のエンジンがかかり、車は道を戻っていった。

その音が消えると、私はオールズに戻り、Uターンして街の方に戻った。ドクター・ヴァリンジャ―の私道の入り口を通り過ぎると、ゲートに南京錠がかかっていた。今日はもう客は来ないよ、お世話様。

【解説】

マーロウがセパルヴェダ・キャニオンにあるヴァリンジャ―のランチを訪れる場面。ハイウェイの奥に入り口の門を見つけた彼は車をそちらに向けた。

A five-barred gate hung open from one of them.(木枠に五本の横木を張った門扉の片方が開いたままになっていた)

“five-barred gate” というのは、牧場などで見かける、木枠に五本の横木を張った扉のことだ。映像ではよく見るが適当な訳語が見つからない。旧訳では「横木を五本わたした門(清水)」、「横木を五本通したゲート(村上)」、「横木が五本あるゲート(田口)」となっていた。市川訳は「有刺鉄線が五本横に張られた扉」になっているが、これは誤り。

同じパラグラフでもう一つ異同がある。

“The air was warm and quiet and full of the tomcat smell of eucalyptus trees.”(空気は暖かく静かで、猫の嫌うユーカリの木の匂いでいっぱいだった)

この“the tomcat smell”だが、これまでは「牡猫(おすねこ)を思わせる匂い」と訳されていたが、市川訳では「ハッカに似た猫の嫌う匂い」と訳されている。ユーカリの香りには独特の清涼感があるが「牡猫を思わせる匂い」という訳は紛らわしい。チャンドラーはタキという名の黒猫を飼っていた。猫好きなら、猫がユーカリの香りを嫌うことは知っていてもおかしくない。それで、ユーカリの匂いを“the tomcat smell”とストレートに表現したのではないだろうか。

マーロウの前に現れた伊達男を紹介した旧訳の中に、誤訳と思われる部分を見つけた。

 He wore a white silk shirt, spotlessly clean, open at the throat, with tight wristlets and loose puffed sleeves above.(白い絹のシャツにはしみひとつなく、喉元がはだけ、タイトな袖口の上にゆったりとしたパフスリーブがついていた)

清水訳は「シャツはまっ白な絹で、のどがひらき、腰がきつくしまって、袖はゆるやかにふくらんでいた」で、“wrist”(手首)が「腰」になっている。村上訳は「白いシルクのシャツにはしみひとつなく、首のボタンが外されている。手首にはきちきちの腕輪、袖は上の方で大きく膨らみを持っている」。田口訳は「咽喉元を開けて、袖がゆったりとふくらんだ、しみひとつないシルクの真っ白なシャツを着て、きちきちの腕輪をはめていた」と“wristlets”を「腕輪」と訳している。村上訳のように、シャツについて述べている途中で突然、腕輪に言及するのは変だ。田口氏はそれに気づいて語順を入れ替えているが、これでは一連の袖の中での“tight”と“loose”の対比が成立しない。

“with tight wristlets and loose puffed sleeves above”はシャツの属性について述べている。色は白、繊維は絹、襟は喉元が開いている、と来て袖の形状について言及している。タイトな手首の上の方がゆったりとした袖、というのは要するにパフスリーブのことだ。だとすれば、この“wristlets”は「腕輪」ではなく「袖口」ではないか。辞書によっては「腕輪(ブレスレット)」の他に「手首飾り」を挙げているものもある。市川訳は「シャツは真っさらな白い絹で第一ボタンを外していた。ゆったりとしたスリーブは手首でピシッと閉じられていた」となっている。

男の容貌に触れた部分にも一つ気になるところがある。“ his mouth was a handsome pout”(口を器用に尖らせている)のところだが、清水訳は「口もとに魅力があり」、村上訳は「口元は適度に見栄えよく膨らんでいた」、田口訳は「口は優美にふっくらとして」、市川訳は「口笛を吹くその唇は格好よかった」となっている。

このパラグラフは、“He stopped at the foot of the steps and looked at me, still whistling”と書き出されている。つまり、男はまだ口笛を吹いているわけだ。市川訳はそれについて触れているが、他の訳では無視されている。“pout”は「唇を突き出す、口をとがらす」という意味だ。口笛を吹いていれば、当然そういう形になるはず。ところが、これまでの訳者たちは“handsome”に引っかかってそれを忘れたのだろう。この場合の“handsome”は通常の「ハンサム」の意味ではなく、主に米国で用いられる「(人・行為などが)器用な、じょうず」の意味ではないだろうか。

喧嘩をしかけてくる相手をいなすマーロウの言葉。

"We don't have anything to fight about. And you might split those lovely britches."(やりあわなきゃならないことなど何もないんだ。それにその見事なズボンが裂けるかもしれない)

ズボンと訳した単語は“britches”(ひざ上で留める男子用の半ズボン、乗馬用ズボン)と辞書にはあるが、ズボンの略語という意味もある。清水訳は「そのきれいな縫いとり」になっているが、これは誤り。村上訳、田口訳は「かわいらしい(可愛い)半ズボン」、市川訳は「しゃれた乗馬ズボン」だ。しかし、男が穿いているのは“pants”だとすでにマーロウ自身が述べている。だとすると、ここはわざと挑発的な言い方をしていると考えられる。それで三氏のような訳になるのだろう。マーロウが言いたいのは、男のズボンが尻にぴたりと張りついていることだ。実は“britches”には「ズボン下」の意味もある。ほんとうはこう言いたかったのかもしれない。

ドクター・ヴァリンジャーの眉毛について、気になる点がある。以下に原文(と拙訳)を示す。

He frowned. When a guy has eyebrows like that he can really do you a frown. "I am a medical man, sir, but no longer in practice. What sort of cure did you have in mind?"(彼は眉をひそめた。彼みたいな眉毛の男は本人にその気がなくてもしかめっ面になる。「私は医療に携わる者だが、もう治療はしていない。どのような治療を考えておられたのかな?」)

清水訳は〈彼は眉をしかめた。「私は医師だが、もう診療はしていない。どんな治療をうけるためですか」〉と、二番目の文をカットしている。何より「眉をしかめる」はおかしい。“frown”は「眉をひそめる、顔をしかめる」という意味だが、それを混同している。清水氏は、文中の“you”の扱いをどうするか迷ったのではないか。

清水訳でカットされた箇所は、村上訳では「これくらい立派な眉毛を持った人間が眉をひそめると、見事な迫力が生まれる」だ。“he can really do you a frown”を「彼は本当に威圧感を与えることができる」と読むことで「見事な迫力が生まれる」と意訳している。

田口訳は「眼のまえでこれだけ立派な眉をひそめられると、こっちもつられてついつい眉をひそめたくなる」となっている。それを受けたのだろう、市川訳も「彼のような眉毛の男を見るとそれこそ眉をひそめたくなる」となっている。

この二人の訳は如何なものだろうか。“When a guy has eyebrows like that ”は「男がそのような眉毛を持っているとき」としか読めない。ここでは主語はあくまでもそういう眉毛を持つ男であり、それはこの場合ドクター・ヴァリンジャーでしかありえない。つまり、“he can really do you a frown”は、「彼は本当にあなた(任意の人、不特定の人々)に威圧感を覚えさせることができる」という意味で、マーロウは主体ではなく、威圧される客体に過ぎない。それを「眉をひそめたくなる」と主体のように訳すのはおかしい。何よりも次にくるドクターの科白とつながらない。

ドクター・ヴァリンジャーに「アールの何が気になるのか」と訊かれたマーロウの答え。

"He's so obviously a phony. Where you find one thing phony you're apt to expect others. The guy's a manic-depressive, isn't he? Right now he's on the upswing."(あれは明らかにいんちきだ。ひとついんちきを見つけると、他にもあるのではと勘ぐりたくなる。あいつは躁鬱病なんだろう? 今は躁状態にあるようだが)

この“phony”(にせもの、まがいもの、ぺてん師、詐欺師)の訳が、四人の訳者によって少し異なる。それによって文意が異なってくる。

「明らかにまとも(傍点三字)じゃないですね。まとも(傍点三字)でないことが一つあれば、ほかにもまとも(傍点三字)でないことがあると思うのが当然でしょう。あの男は精神分裂症じゃないんですか。どうしてもじっとしていられないらしいですよ」(清水訳)

「彼は明らかに何かになりきっている。何かのふりをする人間は、いろいろとほかのふりもするものです。躁鬱症なんでしょう。違いますか? 今は陽気に騒ぎたい時期のようだが」(村上訳)

「明らかに彼は別世界にいる。そういう人間は、別世界のものをひとつ見つけると、さらにもっと見つけたくなるものだ。彼は躁鬱病なんだろ? 今は躁状態にあるようだが」(田口訳)

「彼が自分を偽っていることは見え見えです。人間誰しも仮面かぶりを一人見つけると他にも仮面かぶりがいると思ってしまうものです。だからそういう目であなたを見ざるを得なかった。アールは躁鬱病だ。そうでしょ?いま鬱から躁に向かっている」(市川訳)

清水訳はわかる。しかし、村上訳と田口訳は第二の文の主語を取り違えている。また、市川訳のように「仮面かぶり」という造語を使うのはいただけない。マーロウの頭の中にあるのはアル中のウェイドであって、アールではない。マーロウが言いたいのは、アールには明らかに躁鬱病の兆候があるということだ。そんな男を放置していることを“phony”(いんちき)と言っているのだ。治療を要する人間が一人いるなら、他にもいるのではないか、と考えるのは当たり前だ。「木を見て森を見ず」ということわざがあるが、三氏は“phony”の語釈にこだわるあまり、コンテクストを見失っているように思われる。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

キャンディピンク色のビルは「よくある」のだろうか?

15

【訳文】

どんなに腕に自信があろうと動き出すには出発点が必要だ。名前、住所、地域、経歴、雰囲気といった何らかの基準になるものが。私が持っていたのは、くしゃくしゃになった黄色い紙にタイプされた文字だけだった。「きみが嫌いだ、ドクター・V。だが、今はきみが頼りだ。」これでは、太平洋に狙いを定め、ひと月かけて五、六 か所の郡医師会のリストを調べてみても収穫はほぼゼロだろう。我々の町では、もぐりの医者はモルモットのように繁殖する。市役所から百マイル圏内には八つの郡があり、そのどの町にも医者がいる。本物の医者もいれば、魚の目を削ったり背骨の上で飛び跳ねたりする免許を通信販売で取ったいかさま師もいる。本物の医者の中にも、繁盛している医者も貧乏医者もいる。道徳的な医者もいれば、なりふり構っていられない医者もいる。禁断症状が出てきた金持ちのアル中患者は、ビタミンや抗生物質の業界で遅れをとっている多くの老いぼれ医者にとって、またとない金づるだ。しかし、手がかりがなければ、どこから手をつけていいのかわからない。 私には手がかりがなく、アイリーン・ウェイドも持っていないか、持っていても気づいていなかった。 それに、たとえイニシャルがぴったり合う誰かを見つけたとしても、ロジャー・ウェイドに関する限り、結局架空の人物だったということになりかねない。紙切れの文句は、煮詰まったときにたまたま頭の中をよぎったものかもしれない。スコット・フィッツジェラルドの引喩が、単なる風変わりな別れの挨拶かもしれないのと同じように。

こんなとき、小物は大物の知恵を借りようとする。そこで、ベヴァリーヒルズにあるけばけばしい興信所にいる知り合いに電話した。カーン協会(オーガニゼーション)は富裕層の顧客の保護が専門だ。「保護」というのは、法の内側に片足を突っ込んでさえいればほぼ何でもやる、といった意味合いだ。男の名前はジョージ・ピーターズ、さっさと済ませるなら十分間だけ時間をやる、と言った。

カーン協会はキャンディピンクに塗られた四階建てのビルの二階の半分を使っていた。エレヴェーターのドアは自動で開き、廊下はひんやりとして静かで、駐車場にはすべての区画に名前が書いてあり、正面ロビー脇の薬局の薬剤師は調合した睡眠薬を瓶に詰めるので手首をいためていた。

ドアの外側はフレンチ・グレイで、金属製の文字が浮き出ていた。新品のナイフのように切れ味鋭い字体で「カーン協会、代表取締役、ジェラルド・C・カーン 」。その下に小さく「入り口」とある。以前は投資信託会社だったのかもしれない。

中は狭くて醜い応接室になっていたが、その醜さは意図的で金がかかっていた。家具は緋色と濃緑色、壁は平板な暗緑色、それより三段階ほど暗い色調の緑色の額に入れた絵が壁にかかっていた。どれも大きな馬に乗った赤い上衣の男たちが、狂ったように高い障害物を飛び越えている絵だ。縁なしの鏡が二つかかっていた。かすかだが、胸が悪くなるのに充分なローズピンクの色がつけてある。磨き上げられたプリマヴェラ材のテーブル上に置かれた雑誌は最新号で、どれも透明なビニールのカバーがかかっていた。この部屋の内装をした男は、色に対する恐れというものを知らない。たぶんそいつは、赤唐辛子色のシャツを着て、暗赤紫色のズボン、縞馬柄の靴、鮮やかな蜜柑色のイニシャルを入れた朱色のズボン下を履いているのだろう。

すべては見せかけに過ぎない。カーン協会の顧客は最低でも一日百ドル取られ、顧客は自宅でのサーヴィスを期待していた。待合室に座って待つような真似はしない。カーンは憲兵隊の元大佐で、ピンクと白い肌の大男で厚板のごとく頑丈だった。一度仕事をオファーされたことがあったが、私はそれを受けるほど困ってはいなかった。くそ野郎になるには百九十の方法があるが、カーンはそのすべてを知っていた。

擦りガラスの仕切りがするりと開いて、受付係が私を見た。彼女は鉄のような笑みを浮かべ、眼は尻ポケットの財布の中の金を数えることができそうだった。

「おはようございます。ご用件は?」

「ジョージ・ピーターズに会いたい。名前はマーロウだ」

彼女は緑の革の帳面を棚に置いた。「ご予約は頂いておりますでしょうか、ミスタ・マーロウ。予約リストにお名前がありませんが」

「個人的な要件でね。さっき電話で話した」

「わかりました。お名前のスペルは? ミスタ・マーロウ。それと、ファーストネームをお願いします」

私は彼女に言った。彼女はそれを細長い用紙に書き留め、端を打刻機の下に滑り込ませた。

「誰の気を引くつもりだ?」私は訊いてみた。

「ここでは細部にこだわっています」と彼女は冷ややかに言った。 「些細なことがいつ最重要事項になるか分からない、とカーン大佐は言っています」

「逆もまた真なり」 と私は言ったが、彼女には分らなかった。事務手続きを終えると、彼女は顔を上げて言った。

「ミスタ・ピーターズに知らせます」

それは重畳、と彼女に言った。一分後、鏡板の間のドアが開き、ピーターズが私を軍艦色(バトルシップ・グレイ)に塗られた廊下に招き入れた。そこには監房を思わせる小さなオフィスが並んでいた。彼のオフィスの天井には防音対策が施され、グレイのスチール製のデスクとそれに合わせた椅子が二脚、グレイのスタンドにグレイのディクタフォン、壁や床と同色の電話とペンセットがあった。壁には額装された写真が二枚飾られていた。一枚は憲兵隊のヘルメットをかぶった制服姿のカーン、もう一枚は机の後ろに座り、神妙な面持ちの私服姿のカーンだった。また、額装された小さな社訓が壁にかかっていた。グレイの地に堅苦しい書体でこう書かれていた。

カーン協会員は、いついかなる場でも、紳士の如く装い、話し、振る舞う。この規則に例外はない。

ピーターズは部屋を大股の二歩で横切り、額のひとつを脇に押しやった。その後ろのグレイの壁には、グレイのマイクが仕掛けられていた。彼はそれを引き抜き、配線を外して元の位置に戻した。そしてまた額をその前に動かした。

「たった今、おれは失業したところだ」と彼は言った。「ただし、飲酒運転で起訴されそうになった俳優のため、御大自ら事件のもみ消しにお出ましとなれば話は別だ。マイクのスイッチ類はすべて野郎のオフィスにある。マイクはどの部屋にもついている。先日の朝、待合室の薄手の鏡の裏に赤外線を使ったマイクロフィルム・カメラを設置するよう提案した。そのアイデアはあまり気に入らなかったようだ。誰かがすでにやっていたからかもしれない」

彼は硬めのグレイの椅子のひとつに腰を下ろした。私は彼を見つめた。ぎごちなく動く脚の長い男で、骨ばった顔の髪の生え際が後退しかけていた。肌は、長時間あらゆる天候に晒されてきた男らしくざらついていた。眼は窪んでいて、鼻の下が鼻と同じくらい長い。にやりと笑うと、顔の下半分が鼻翼から大きな口の端まで続く二本の巨大な溝のなかに消えた。

「こんな扱い、どうやったら我慢できるんだ?」私は彼に訊いた。

「座れよ、相棒。一息ついて声を落とすんだ。それと、おまえみたいなけちな探偵にとってカーンの調査員は、手回しオルガン弾きの猿にとってのトスカニーニと同じだってことを忘れるな」彼は間を置いてにやりと笑った。「我慢も何も、そんなことおれはちっとも気にしちゃいない。いい金になるしな。それに、カーンが戦時中にイギリスで仕切ってた厳重警戒刑務所の囚人みたいにおれのことを考えはじめた時には、いつでも小切手を受け取っておさらばするよ。どうかしたか? ちょっと前、ひどい目に遭ったらしいな」

「いつものことさ。『鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)』に関するファイルを見たい。持っているのは知っている。エディ・ダウストがここを辞めた後に教えてくれた」

彼はうなずいた。「エディはカーン協会にいるには、ちょっと繊細すぎたんだ。おまえのいうファイルは最高機密だ。いかなる機密情報も部外者に漏らしてはならない。すぐに持ってきてやる」

彼が出て行くと、私はグレイの屑かご、グレイのリノリウム、そしてデスク・ブロッターの角を縁取るグレイの革をじっと見つめた。 ピーターズはグレイの板紙表紙のファイルを手に持って帰ってきた。 彼はそれを置いて開けた。

「勘弁してくれ、ここにグレイでないものはないのか?」

「スクールカラーだよ。当協会の精神だ。ああ、グレイでないものもある」

彼は机の抽斗を開けて八インチほどの長さの葉巻を取り出した。

「アップマン・サーティ」と彼は言った。「年配の英国紳士からのプレゼントだ。カリフォルニアに住んで四十年になるが、いまだにラジオのことをワイアレスと呼ぶ。素面のときはうわべだけの魅力を振り撒くただの年寄りのオネエだが、おれにはどうだっていい。たいていの男はうわべだけであろうとそうでなかろうと魅力なんてものを持ち合わせてはいないからだ。カーンも含めてな、あいつは錬鉄職人の下穿きくらいの魅力しか持ち合わせていない。ところがこの依頼人、素面じゃないときは見ず知らずの銀行の小切手を振り出す変わったくせがある。いつもきちんと金を払うし、おれの助けもあってブタ箱入りは免れている。彼がこれをくれた。いっしょにやろうや。大虐殺を企てている二人のインディアンの酋長みたいに」

「葉巻はやらないんだ」

ピーターズは巨大な葉巻を悲しそうに見た。「おれもだ」と彼は言った。「カーンにやろうと思ったんだ。しかし、あきらかにこれは一人用の葉巻(ワンマン・シガー)じゃない。いくらカーンがワンマンだとしてもな」彼は眉をひそめた。「気づいたか? おれはカーンのことをしゃべり過ぎてる。いらついてるしるしだ」彼は葉巻を抽斗に戻し、ファイルを開いて見た。「それで、どうしたいんだ? これ」

「金持ちのアル中を捜してる。そこに名を連ねる輩を喜ばせるのが何より好きという金のかかる趣味の持ち主だ。今のところ、不渡り小切手は出していない。とにかくそうは聞いてない。暴力癖があり、夫人はそっちを心配している。彼女は、夫がどこかのアル中の矯正施設に潜伏していると考えているが、確証はない。唯一の手がかりはドクター・Vがどうのこうのという戯言だけ。頭文字だけだ。いなくなってもう三日になる」

ピーターズは私の顔を思慮深げに見つめた。「そんなに経ってない」と彼は言った。「何が気になるんだ?」

「先に見つけたら、金になる」

彼はさらに私を見て、かぶりを振った。「 解せないが、まあいい。見てみよう」 彼はファイルのページをめくり始めた。「簡単なことじゃないんだ。この連中は絶えず入れ替わる。頭文字だけじゃ、たいした手がかりにならない」。彼はフォルダーからあるページを抜き取り、さらにページをめくり、別のページを抜き取り、最後に三枚目を抜き取った。「ここに三人いる。ドクター・エイモス・ヴァーリー、整骨医。アルタデナに大きな施設がある。五十ドルで夜間に往診する、あるいはしていた。正規の看護師が二人いる。数年前に州の麻薬捜査官と揉めて、処方記録を押収されている。ただしこの情報は最新ではない」

私はアルタデナの住所と名前を書き写した。

「次にドクター・レスター・ヴカニック。耳鼻咽喉科、ハリウッド・ブールヴァードのストックウェル・ビル。こいつは大物だ。オフィス診療が中心で、慢性副鼻腔炎を専門にしているようだ。手際が良すぎる。患者が副鼻腔炎による頭痛を訴えると、鼻の穴の洗浄をしてくれる。まずノボカインで麻酔をする。だが、相手の出方次第では必ずしもノボカインである必要はない。わかるか?」

「もちろん」 私はそれを書き留めた。

「こいつはいい」ピーターズはさらに読み進めた。「彼の問題は明らかに物資の供給面だろう。そこで、われらがドクター・ヴカニックは、しょっちゅうエンセナーダまで釣りに出かける。それも自家用機で」

「自分でヤクを持ち込めば、長くはもたないだろう」と私は言った。

ピーターズはそれについて考え、かぶりを振った。「そうとも限らない。欲をかきすぎなければ、永遠に続けられるだろう。唯一の危険は、不満を持つ顧客-―失礼、つまり患者―だが、彼はおそらくその扱い方を心得ている。十五年も同じオフィスで働いているんだ」

「どこからこんな情報を手に入れるんだ?」私は彼に訊いた。

「おれたちは組織だ。おまえのような一匹狼じゃない。依頼人自身から得たものもあれば、内部から得たものもある。カーンは金を使うことを恐れない。その気になれば、社交家にもなれる」

「この話を聞いたら彼は大喜びだろう」

「あいつなんかくたばるがいい。本日、最後に提供できるのはヴェリンジャーという男だ。こいつをファイルに入れた調査員はとうにやめている。ある女性詩人がセパルヴェダ・キャニオンのヴェリンジャーの牧場で自殺したことがあるようだ。彼は、隠遁と和やかな雰囲気を求める作家などのための芸術家コロニーのようなものを運営している。料金は控え目だ。まともに見える。ドクターを自称しているが、医療に携わってはいない。博士号を持っているのかもしれない。正直言って、なぜここに入っているのかわからない。この自殺に何かあったのでなければ」彼は白紙に貼られた新聞の切り抜きを手に取った。「ああ、モルヒネの過剰摂取だ。ヴェリンジャーがそれに関与していたことを示唆するものはない」

「ヴェリンジャ―が気に入った」私は言った。「大いに気に入った」

ピーターズはファイルを閉じ、ぴしゃりと叩いた。「おまえはこれを見ていない」と彼は言った。彼は立ち上がり、部屋を出て行った。彼が戻ってきたとき、私は立ち去ろうとしていた。私は彼に礼を言おうとしたが、彼はそれをさえぎった。

「いいか」と彼は言った。「おまえの捜している男がいそうな場所は何百もあるはずだ」

わかっている、と私は言った。

「ところで、お友だちのレノックスについて、興味を引きそうな話を聞いた。五、六年前、うちの調査員がニューヨークで、その人相にそっくりな男に出くわしたんだ。しかし、その男の名前はレノックスではなかったそうだ。マーストンだ。もちろん、人違いかもしれん。あいつはいつも酔っ払っていたから、確かなことは言えない」

私は言った。「人違いだろう。なぜ名前を変える? 軍歴を調べればわかることだ」

「それは知らなかった。そいつは今シアトルにいる。その気があるなら、帰ってきたら話してみてくれ。名前はアシュターフェルトだ」

「いろいろ世話になった、ジョージ。長い十分間だった」

「いつかこっちが世話になるかもしれん」

「カーン協会は」と私は言った。「いかなる相手からもいかなる援助も必要としない」

彼は親指で下品な仕種をした。私は彼をメタリック・グレイの監房に残し、待合室を通り抜けた。今は何の問題もないように見える。監房の後では派手な色彩も理にかなっていた。

【解説】

大手の探偵社であるカーン協会を訪ね、旧知の間柄であるジョージ・ピーターズを通じて、もぐりの医者のファイルを手に入れようとするマーロウ。

 With that I could pinpoint the Pacific Ocean, spend a month wading through the lists of half a dozen county medical associations, and end up with the big round 0.

「これでは、太平洋に狙いを定め、ひと月かけて五、六 か所の郡医師会のリストを調べてみても収穫はほぼゼロだろう」

ウェイドを探す手がかりとしてマーロウが手にしているのは、しわくちゃになった紙片に書かれたドクター・Vというイニシャルのみ。これだけでは雲をつかむような話だという喩えとして挙げたのが上記の文である。清水訳では「これだけの手がかりでは、一ヵ月かかって各郡の医師組合のリストをあさっても、結果はゼロにきまっている」と、一読して分かるように“I could pinpoint the Pacific Ocean”をトバしている。

これは村上訳でも「これだけではまさに五里霧中だ。一ヵ月かけて五つか六つの郡(カウンティー)の医師協会のリストを調べまくって、その結果収穫はゼロというのが関の山だろう」となっていて、「五里霧中」という意訳になっている。

田口訳になって初めて「それだけの情報をもとにできることと言えば、大西洋を指差してここが大西洋だと言える程度のことだろう。ひと月かけて五つか六つの郡の医師協会のリストを調べても、収穫はおそらくゼロだろう」と、「太平洋」を「大西洋」と取り違えてはいるものの、場所に関する言及がなされることになる。

市川訳は「これを頼りに太平洋に狙いを定め、ひと月の間、半ダースもの郡医師会名簿をしらみつぶしに調べたとしても結局得られるのはでっかい円だけ、つまりゼロだ」とめずらしく(と言っては悪いが)いい仕事をしている。“pinpoint”は「(的などを)正確に狙う」という意味の他動詞。マーロウが本拠地にしているロスアンジェルスは太平洋に面した都市だ。次にくるのが時間だから、その前にあるのは場所と考えれば「太平洋(側)に狙いを定め」というのはよくわかる。これがなぜこれまで普通に訳されてこなかったのか理由がよくわからない。

They had half the second floor of one of these candy-pink four-storied buildings where the elevator doors open all by themselves with an electric eye, where the corridors are cool and quiet, and the parking lot has a name on every stall, and the druggist off the front lobby has a sprained wrist from filling bottles of sleeping pills.

「カーン協会はキャンディピンクに塗られた四階建てのビルの二階の半分を使っていた。エレヴェーターのドアは自動で開き、廊下はひんやりとして静かで、駐車場にはすべての区画に名前が書いてあり、正面ロビー脇の薬局の薬剤師は調合した睡眠薬を瓶に詰めるので手首をいためていた」

マーロウの眼で見たカーン協会の外観である。冒頭の部分、清水訳は「オフィスは四階のビルの二階を半分つかっていた。このへんでよく見かけるお菓子のようなピンク色のビルで」。村上訳は「よくあるキャンディー・ピンクの四階建てビルにその会社はあった。二階の半分を占めている」。さらに田口訳でも「〈カーン・オーガニゼーション〉はよくあるキャンディピンクの四階建ての建物の二階の半分を占めていた」となっている。

市川訳では「カーン協会はケバケバしいピンクに塗られた四階建てのビルの二階半分を使っていた」とそれまでの訳にあった「よくある」が抜けている。これはどういうことかというと、清水訳が“one of these”(どちらか一つ)を“one of those”(よくある)と誤読したのを、村上、田口両氏が原文をよく確かめることなく旧訳を踏襲したことから起きたと思われる。キャンディーピンクという色は、ちょっとビルの色としてはあり得ないほど派手な色で、いくらハリウッドの近くでもそうそうは見かけない色だ。これを「よくある」と訳すのはいかにもまずい。

The door was French gray outside with raised metal lettering, as clean and sharp as a new knife.

「ドアの外側はフレンチ・グレイで、金属製の文字が浮き出ていた。新品のナイフのように切れ味鋭い字体で」

オフィスの前にやってきたマーロウがまず目にするのがこれだ。清水訳は「ドアの外がわはフレンチ・グレイに塗られていて、新しいナイフのようにあざやかな金属製の文字がうき出ていた」。“clean and sharp”は「あざやかな」の一言にまとめられている。

村上訳は「ドアの外側はフレンチ・グレーで、金属のレタリングが浮き上がっていた。ナイフみたいに鋭く光っている」。田口訳は「ドアは外側が緑がかったグレーで、新品のナイフみたいにきらきらして、角の鋭い金属のレタリングが貼りつけてあった」

市川訳は「カーン協会のドアはしゃれたグレーでそこには鋭くはっきりした真新しいメタリックで会社名などが記されていた」。ナイフの喩えが消えているだけでなく、マーロウが見ているのが(ドアの)外側であることも、レタリングがドアから浮かび上がっていることも消えている。ちなみに「フレンチ・グレー」は、別に「しゃれたグレー」ではない。落ち着いた標準的な灰色のことだ。 

チャンドラーは一体何を「新しいナイフ」に喩えたのだろう。それは“as clean and sharp as”の前にある“raised metal lettering”(浮き彫りにされた金属製のレタリング)である。その表面が滑らかで、角が鋭く立ち上がっているのをナイフに喩えているのだ。おそらくフォントはうろこ状のセリフを持つローマン体だろう。無機的な灰色の地に、触れたら切れそうな感じがする金色の文字が浮かび上がっているところにカーン協会の持つ非情さがよく現れている。

受付係がマーロウの名前を書いた用紙の端を打刻機に挿むのを見て、マーロウが言う台詞。

"Who's that supposed to impress?" 

「誰の気を引くつもりだ?」

清水訳は「仰々しいですな?」。村上訳は「そういうことをして誰か喜ぶのかな?」。田口訳は「今のはどういうやつを感心させるための作業なんだね?」。市川訳は「これ見てさすが!って思う客はいるのかな?」とそれぞれ苦労して訳している。

受付係がタイム・レコーダーで客の名と来訪時刻を印字する。ただそれだけのことだ。マーロウはいったいその作業の何が気になったのか。四人の訳者もそれがよく分からないので、それぞれ知恵を絞ったにちがいない。実は、“impress”には「人を感動させる」という意味とともに、文字通り「刻印する」という意味がある。チャンドラー得意のダブル・ミーニングだ。掛詞を使うことで、カーン協会のトリビアリズムをちょっと揶揄ってみたのだろう。その意味では清水訳が最適解かもしれない。

受付係に呼ばれたピーターズが顔を出す場面。

A minute later a door in the paneling opened and Peters beckoned me into a battleship-gray corridor lined with little offices that looked like cells.

「一分後、鏡板の間のドアが開き、ピーターズが私を軍艦色(バトルシップ・グレイ)に塗られた廊下に招き入れた。そこには監房を思わせる小さなオフィスが並んでいた」

“a door in the paneling”が市川訳では「二枚の鏡の間にあるドア」になっている。これはおかしい、少し前のところで「二枚の鏡」は“two frameless mirrors”と複数形で書かれている。“paneling”とは「鏡板、羽目板」と呼ばれる壁などに張る一枚板のことだが、板というより壁そのものを指す。この部屋の場合、板張りの壁にドアが設置されていると考えられる。清水訳は「しきり(傍点三字)の一部にあるドア」、村上訳は「パネル張りの壁についたドア」、田口訳は「パネル張りの壁と壁とのあいだのドア」になっている。

待合室の色について書かれたパラグラフの中に“the walls were a flat Brunswick green”と書かれていた。つまり、壁全面がブランズウィック・グリーンに塗られているわけだ。外側から見たときフレンチ・グレイだったドアも内側はブランズウィック・グリーンに塗られているのだろう。だから、マーロウはわざわざ“a door in the paneling”と書いたのだ。つまり開くまでは、ピーターズが顔を出したドアもただの一枚の壁のように見えていたにちがいない。“outside”と“inside”と書いたのにはそういう意味があったのだ。

マーロウが部屋に入ると、ピーターズは部屋に仕かけられていた盗聴器の配線を遮断してから口を開く。

"Right now I'd be out of a job," he said, "except that the son of a bitch is out fixing a drunk-driving rap for some actor.

「たった今、おれは失業したところだ」と彼は言った。「ただし、飲酒運転で起訴されそうになった俳優のため、御大自ら事件のもみ消しにお出ましとなれば話は別だ。(拙訳)

「いま、べつに仕事はないんだ」と彼はいった。「ある俳優の酔っぱらい運転のもみ消しだけなんだ」(清水訳)

これはおかしい。盗聴器を切ったことと話がつながっていない。村上訳はこうだ。

「これで僕は職を失いかねない」と彼は言った。「もっとも大将は今、酔っぱらい運転で告訴されているさる俳優の面倒を見るために外出しているから、心配はない」

侮蔑表現である“son of a bitch”を「大将」と訳すのは穏便に過ぎるが、文意は通っている。田口訳は「こういうことをすると馘(くび)になってもおかしくないんだけど、ボスは今、ある俳優が酔っぱらい運転で起訴されそうになっている件で外出中でね」と、こちらは「ボス」に昇格している。

「これは馘もんだ」と言った。「まあ、あいつは今、ある映画スターがしでかした飲酒交通事故の後始末に出かけているから問題ない」(市川訳)

“drunk-driving rap”を「飲酒(による)交通事故」にしてしまうのは問題だが、意味的には先の二人とよく似た訳になっている。ただし、どの訳も“Right now”に込められた切実さが今一つ伝わってこないきらいがある。元憲兵がつくり上げた監視装置でガチガチに固められた組織に属する一員が、フリーの私立探偵にその非人間的な扱いを愚痴ってるところだ。もっと自虐的な表現にしてもいいのではないか。

以下は、ピーターズの容貌をカリカチュア風に描写している部分なのだが、どうにも頭に絵が浮かんでこない。

He had deep-set eyes and an upper lip almost as long as his nose. When he grinned the bottom half of his face disappeared into two enormous ditches that ran from his nostrils to the ends of his wide mouth.

「眼はふかくくぼんでいて、上唇が鼻とおなじくらい長かった。笑うと、顔の下半分が鼻孔から大きな口の両端にとどく二本のふとい溝のなかに消えた」(清水訳)

「目はくぼんでいて、上唇が鼻とほとんど同じくらい前に突き出している。にやりと笑うと、顔の下半分は、鼻の穴から大きな口の両端にかけて生まれる二つの巨大な溝の中に消えてしまう」(村上訳)

「眼は奥まっていて、上唇が鼻と同じくらい横に長い。だから笑うと、小鼻の脇から広い口の両端に延びる二本のほうれい線が深い溝となって、顔の下半分が消えてしまう」(田口訳)

「目は落ちくぼんでいて鼻の下は非常に長く、ほとんど鼻自体の長さと同じくらいだった。笑うと顔の下半分は大きく開いた口と二列の歯だけとなり、顎なんかは消えてしまう」(市川訳)

問題は“an upper lip almost as long as his nose”である。ある辞書に、こういう例文があった。“Your upper lip is the part of your face between your mouth and your nose.”つまり、“upper lip”とは、上唇ではなく、鼻から口に至る部分を指す場合があるということだ。市川訳にある「鼻の下」がそれである。“upper lip”を「上唇」とした時点でそれまでの訳は意味がよく分からない訳になっていた。訳者自身もイメージが描けていなかったからだ。

鼻の下が長い顔ならイメージできる。伊藤雄之助嶋田久作のような顔である。容貌魁偉とでも言えばいいのだろうか。この点は市川訳のお手柄だが、後がいけない。“two enormous ditches that ran from his nostrils to the ends of his wide mouth.”を「笑うと顔の下半分は大きく開いた口と二列の歯だけとなり」と訳すことには無理がある。

“nostrils”も「鼻の穴、鼻孔」ではなく、「小鼻、鼻翼」と考えた方がいい。そこから口の両端に刻まれる二本の溝は、年齢のせいでできる「ほうれい線」ではなく、笑ったときにできる「笑いじわ」である。鼻の下が長いことで、小鼻から口の両端まで延びる「笑いじわ」もまた異様に長くなるのだ。笑う道化師の顔を思い浮かべてもらえば、マーロウが伝えたかったピーターズの容貌が理解できるだろう。

自分のオフィスを盗聴されてることについて「よく我慢できるな」と訊いたマーロウに、ピーターズが答えた決め台詞。

"Sit down, pal. Breathe quietly, keep your voice down, and remember that a Carne operative is to a cheap shamus like you what Toscanini is to an organ grinder's monkey."

「座れよ、相棒。一息ついて声を落とすんだ。それと、おまえみたいなけちな探偵にとってカーンの調査員は、手回しオルガン弾きの猿にとってのトスカニーニと同じだってことを忘れるな」

“an organ-grinder's monkey”とは、「(手回しオルガン奏者が連れている猿のように指示されたことだけをする)重要でない人、取るに足りない人」のことをいう決まり文句。街頭で手回しオルガンを弾くのはあくまでも人間であり、猿は金を集める係だ。オルガンを弾くわけではない。ところが、最新の市川訳ではこうなっている。

「まあ座れ。落ち着け。声を落とせ。我々カーン協会にとってあんたみたいなしがない探偵は、トスカニーニから見たオルガンを弾こうとして挽いちまう猿みたいなもんだ」

どうしてこんなことになったのか? これまでの訳を見て推理してみよう。

「かけろよ。カーン協会の人間が君のような安っぽい探偵と話をするのは、トスカニーニが街頭オルガン弾きの猿と話してるようなもんだぜ」(清水訳)

「まあ座れ。一息ついて、声を落とせ。カーン機関の調査員から見た君のような安物探偵は、トスカニーニから見たオルガン弾きの猿みたいなものだ」(村上訳)

「坐れよ、相棒。そして、静かに息をして、声は低くしろ。そうして思い出すんだ。<カーン>の調査員にしてみれば、おたくみたいな貧乏探偵はトスカニーニから見たオルガン弾きの猿みたいなものだということを」(田口訳)

清水訳では「街頭オルガン弾きの猿」だったものが、村上訳で、ただの「オルガン弾きの猿」に変わり、田口訳もそれを踏襲したことにより、市川訳に至っては、とうとう猿がオルガンを弾くことになってしまっている。“an organ-grinder's monkey”が「重要でない人、取るに足りない人」を指す常套句であることを、清水氏はともかく、他の訳者は知っていたのだろうか。辞書には“organ grinder”は「(街頭、大道の)手回しオルガン奏者」と載っている。“grinder”となっているのは、「手回し」だからだ。これを村上訳のように「オルガン弾き」と訳すのは適切ではない。

マーロウはカーン協会を訪れた要件をピーターズに話す。

I'd like to look at your file on the barred-window boys.(『鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)』に関するファイルを見たい)

“barred-window”は「格子のはまった窓」のこと。鉄格子といえば監獄だが、この”boys“は檻の中にいるのか、それとも外にいるのか。清水訳は、ずばり「もぐり(傍点三字)の医者」だが、格子との関係は詳らかではない。村上訳は『カゴの鳥ファイル』と「格子」を活かしている。「籠の鳥」なら、“boys”は鳥籠の中に入っていると考えられる。警察の厄介になったことがある医者という意味か。田口訳は「監禁部屋所有医(バ-ド・ウィンドウ・ボーイズ)」、市川訳は『格子窓持ちの紳士録』で、この場合”boys“は格子窓のついた部屋を持つ医者という意味だ。ただ、ファイルにある医者が監禁部屋を持っているという事実は本文では明らかにされていない。“the barred-window boys”という名称には「監禁部屋所有医」というより「拘禁待ちの野郎ども」というニュアンスが近いと感じられるが、どうだろう。

そのファイルをどうしたいんだ、とピーターズに訊かれたマーロウが答えて言う。

"I'm looking for a well-heeled alcoholic with expensive tastes and money to gratify them.”(金持ちのアル中を捜してる。そこに名を連ねる輩を喜ばせるのが何より好きという金のかかる趣味の持ち主だ)

“gratify”は「喜ばせる、満足させる」の意。清水訳は「もぐり(傍点三字)の医者を満足させる趣味を持っている金持ちのアル中患者の行方を捜しているんだ」と“them”を医者と採っている。ところが、村上訳は「酒浸りの男を捜している。金のかかる趣味を持っていて、それを満足させるだけの金を持っている」と、“them”が「それ(趣味)」に変わっている。田口訳も「金のかかる趣味を持っていて、その趣味に興じられるだけの金を持っている酒びたりの金持ちだ」と村上訳と同じだ。市川訳は「金持ちのアル中を探している。その男はこのリストの中の誰かさんに金と贅沢品をたっぷり貢いでるはずだ」とリストに言及している。リストにあるのはウェイドが潜んでいそうな施設を持つ医者の名だ。マーロウがいう“them”とは彼らのことでなければ会話が成立しない。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

”Desert Rose”は薔薇ではない。砂漠で採れる石だ。

14

【訳文】

翌朝、耳たぶについたタルカム・パウダーを拭いているとベルが鳴った。 玄関に行ってドアを開けると、一対のバイオレット・ブルーの瞳があった。 彼女は茶色のリネンを着て、赤唐辛子(ピメント)色のスカーフを巻いていた。イヤリングや帽子はなかった。 少し青ざめていたが、階段から突き落とされたようには見えなかった。 彼女はためらいがちな笑みを浮かべた。

「お邪魔するべきでないことは知っています、ミスタ・マーロウ。まだ朝食もとっていないでしょう。でも、オフィスには行きたくなかったし、私ごとを電話で話すのも憚られて」

「どうぞお入りください、ミセス・ウェイド。コーヒーでもいかがですか?」

彼女は居間に入ると他に目をやることもなくダヴェンポートに腰を下ろした。バッグを膝の上にのせ、両脚を揃えて座った。やけにとりすましているように見えた。私は窓を開け、ブラインドを上げ、彼女の前のカクテルテーブルから汚れた灰皿を片づけた。

「ありがとう。コーヒーをブラックでいただきます。砂糖抜きで」

私はキッチンに行き、緑色の金属トレイの上に紙ナプキンを広げた。セルロイドのカラーのように安っぽく見えた。私はそれをくしゃくしゃにして、小さな三角形のナプキンとセットになっている縁飾りのついたものを取り出した。ほとんどの家具と同じように、この家についてきたものだ。私はデザートローズのコーヒーカップを二つ並べ、コーヒーを入れてトレイを運んだ。

彼女は一口飲んで「とてもおいしい」と言った。「コーヒーを淹れるのがお上手なのね」

「最後に誰かと一緒にコーヒーを飲んだのはブタ箱入りの直前で」と私は言った。「私が留置場にいたのはご存じですよね、ミセス・ウェイド」

彼女はうなずいた。「もちろん。逃亡を手助けした疑いがかけられていたんですよね?」

「彼らは言わなかった。警察は私の電話番号が書かれたメモ・パッドを彼の部屋で見つけた。で、あれこれ質問してきたわけだが、私が答えられなかったのは、主にその質問の仕方のせいだ。でも、こんなことあなたは興味ないでしょう」

彼女は慎重にカップを下ろし、椅子に背をもたせ、笑みを浮かべた。私は煙草を勧めた。

「お構いなく、吸わないので。もちろん興味があります。隣人がレノックス家の知り合いなんです。彼は正気じゃなかったんだわ。そんなことができる人だとは思えません」

私はブルドッグ・パイプに煙草を詰めて火をつけた。 「そうですね」と私は言った。 「そうだったにちがいない。彼は戦争でひどい傷を負った。だが、彼は死んだ。すべて済んだことだ。それに、あなたがそのことを話すためにここに来たとも思えない」

彼女はゆっくりとかぶりを振った。 「彼はあなたの友人でした、ミスタ・マーロウ。 あなたははっきりした意見をお持ちのはず。あなたには確信があるように見えます」

私は火皿の中の煙草を押し固め、火をつけ直した。そうして手間をかけながら、パイプの火皿越しに彼女を見つめた。

「いいですか、ミセス・ウェイド」私はようやく言った。「私の意見など何の意味もない。毎日起きていることだ。ありえない人がありえない犯罪を犯す。穏やかな老婦人が一家全員を毒殺する。きちんとした青年が強盗や発砲事件を起こす。二十年間経歴に染みひとつなかった銀行の支店長が、長きにわたって横領していたことが発覚する。成功し、人気があり、幸せであるはずの小説家が酔っ払って妻を病院送りにする。私たちは、たとえ親友であっても、何が人の心を動かすのか、ほとんど知らない」

私の物言いが彼女をかんかんに怒らせるだろうと思ったが、彼女は唇を固く結び、目を細めただけだった。

「ハワード・スペンサーはあなたにあの話をすべきじゃなかった」彼女は言った。「あれは私のせい。近づかないように気をつけるべきだった。あれでひとつ教訓を得ました。飲み過ぎている男を止めようとしてはいけない。そんなことあなたのほうが私よりよくご存知でしょうけれど」

「たしかに言葉では止めることはできない」と私は言った。 「運が良くて、力があれば、時には本人や他の誰かを傷つけないようにすることもできる。 だとしても、運次第だ」

彼女は静かにコーヒーカップとソーサーに手を伸ばした。彼女の手は、他の部分と同様、美しかった。爪は美しく磨かれ、ほんのわずか色がついていた。

「ハワードは今回、夫に会っていないことを言いました?」

「ええ」

 彼女はコーヒーを飲み終えると、カップを慎重にトレイに戻した。しばらくのあいだスプーンをいじっていた。それから私のほうを見ることもなく話しだした。

「彼はその理由を言わなかった。なぜなら知らないから。私はハワードのことをとても気に入っているけど、彼は管理するタイプで、すべてを仕切りたがる。自分にそういう力があると思っている」

私は何も言わずに待った。また沈黙が訪れた。彼女は私をじっと見て、また目をそらした。彼女はささやくように言った。「夫は三日前から行方不明です。どこにいるのかわかりません。夫を見つけて連れ帰ってほしいとお願いするためにここに来ました。前にもあったんです。はるばるポートランドまで自分で車を運転して、そこのホテルで具合が悪くなって、素面にするのに医者を呼ばなければならなかった。どうやってトラブルに巻き込まれずにそこまで行けたのか不思議です。三日間何も食べていませんでした。別の時にはロングビーチにあるトルコ式浴場にいました。スウェーデン式の大腸洗浄をするようなところです。そして最後は、ある種の小さな民間の、おそらくあまり評判の良くない衛生施設でした。三週間も前のことです。彼は名前も場所も教えてくれず、ただ治療を受けていて大丈夫だと言っていました。しかし、彼は死にそうなほど青白く弱々しく見えた。私は彼を家に連れてきた男をちらっと見ました。舞台やテクニカラーミュージカル映画でしか見られないような、手の込んだカウボーイ服を着た背の高い若者です。彼はロジャーを私道に降ろすや否や車をバックさせてすぐに走り去りました」

「観光牧場だったのかもしれない」 と私は言った。「お抱えのカウボーイの中には、稼いだ金をすべてそのような派手な衣装に使うやつもいる。女性たちは彼らに夢中になる。やつらはそのために雇われている」

彼女はバッグを開け、折りたたんだ紙を取り出した。 「ミスタ・マーロウ、五百ドルの小切手を用意しました。依頼料として受け取ってもらえますか?」

彼女は折りたたんだ小切手をテーブルに置いた。私はそれを見たが、手はつけなかった。「どうして?」私は彼女に尋ねた。「家を空けて三日になると言いましたね。酔いを醒まし、食事を摂るには三、四日かかる。以前と同じように戻ってくるのでは? それとも、今回は何かがちがうんですか?」

「彼はこれ以上耐えられません、ミスタ・マーロウ。こんなことが続いたら死んでしまいます。間隔がどんどん短くなっている。とても心配で、心配というより怖ろしい。不自然です。 私たちは結婚して五年になります。ロジャーはいつもよく飲む人でしたが、病的なほどではなかった。何かがおかしい。彼を見つけたい。昨夜は一時間も眠れませんでした」

「彼が酒を飲む理由に心あたりは?」

菫色の瞳はじっと私を見ていた。彼女は今朝少し弱っているように見えたが、手の施しようがないというほどではなかった。彼女は唇をかんでかぶりを振った。「私のことを除けば」 彼女はほとんど小声でやっと言った。「男の人は妻に嫌気がさすのでは」

「私はただの素人心理学者です、ミセス・ウェイド。こんな稼業をしていれば、少しはそうでなければなりません。彼は自分の書いている物に嫌気がさした可能性の方が高いのでは」

「それはあるかもしれません」彼女は静かに言った。 「すべての作家がそのような呪縛に陥っていると思います。彼が執筆中の本を書き終えることができないように見えるのは事実です。しかし、家賃のためにそれを完成させなければならないわけではない。それだけでは十分な理由とは思えません」

「素面のときはどんな人ですか?」

彼女は微笑んだ。「まあ、かなり偏った見方になりますが、本当にいい人だと思います」

「酔っ払っているときは?」

「身の毛がよだつ。頭が冴えて、刺々しく残酷。気の利いたことを言ってるつもりが、ただ意地悪なだけ」

「暴力的、が抜けている」

彼女は黄褐色の眉を上げた。「たった一度です、ミスタ・マーロウ。そして、そのことがあまりにも独り歩きしすぎた。私はハワード・スペンサーに話したことはありません。ロジャーが自分で話したんです」

私は立ち上がって部屋の中を歩き回った。暑い日になりそうだった。すでに暑かった。私は日差しを防ぐために窓にあるブラインドをひとつ閉めた。そして、率直に言った。

「昨日の午後、紳士録で彼を調べました。彼は四十二歳、あなたとは初婚で子どもはいない。ニューイングランド出身で、アンドーヴァーとプリンストンに行った。戦歴もある。セックスと剣戟の歴史小説を十二作書いて、そのどれもがベストセラーリストに載った。さぞ儲かったにちがいない。もし妻に嫌気がさしたのなら、そう言って離婚するタイプのようだ。もし他の女と浮気していたとしても、あなたならそれに気づくはず。いずれにせよ、良心の咎めを証明するために酒を飲む必要はない。結婚して五年ということは、当時彼は三十七歳。その頃には女性について知っておくべきことはほとんど知っていたはずだ。ほとんどと言うのは、すべてを知っている人なんていないからです」

そこで話すのを止めて彼女を見た。彼女は微笑みを浮かべていた。感情を害してはいないようだ。話を続けた。

「ハワード・スペンサーは、こんなことを意っていた――何を根拠にしてかは知りません――ロジャー・ウェイドの問題は、あなたが結婚するずっと前に起こったことであり、それが今になって彼に追いつき、これまでよりもさらに激しく苛んでいるのではないかと。スペンサーは脅迫を考えているようだが、何か心あたりは?」

彼女はゆっくりとかぶりを振った。 「もし、ロジャーが誰かに多額の金を支払っていたかどうか知っていたかということなら、私は知りませんでした。 私は彼のお金に口出ししません。 彼は私が知らないうちに大金を払うことができます」

「なるほど。私はミスタ・ウェイドを知らない。強請られた彼がどう反応するか、見当もつかない。気性が荒ければ、誰かの首をへし折るかもしれない。秘密が、何であれ、彼の社会的または職業的地位を傷つけ、極端な場合、警察沙汰になる類いのものなら、彼は支払いに応じるかもしれない――少なくとも当座の間は。 しかし、あれこれ思案したところでどこにも行き着かない。 あなたは彼を見つけたいし、心配している。心配では済まないくらい彼の身を案じている。 それで、どうやって彼を見つけたらいいでしょうか?  金は要りません、ミセス・ウェイド。 とりあえず、今のところは」

彼女は再びバッグに手を突っ込み、黄色い紙を二枚取り出した。 書簡用紙のようだ。折りたたまれていて、そのうちの一枚はくしゃくしゃになっていた。 彼女はしわを伸ばして私に手渡した。

「一枚は彼の机の上で見つけたものです」と彼女は言った。 「夜遅く、というかもう明け方でした。彼が酒を飲んでいたことも、二階に来ていないことも知っていました。二時ごろ、下に行きました。彼が大丈夫か、もしくは比較的大丈夫で、床かカウチかどこかで酔いつぶれていないか確かめるために。彼はどこにもいなかった。もう一枚の紙は屑籠に入っていたというか、端に引っかかっていたので、中に落ちてはいませんでした」

私はくしゃくしゃにされていない最初の一枚を見た。そこには短い文章がタイプされ、こう書かれていた。

「私は自分に恋する気はないし、私が恋する相手はもはやどこにもいない。署名 ロジャー(F・スコット・フィッツジェラルド)・ウェイド。 追伸。これが私が『ラスト・タイクーン』を書き終えられなかった理由だ」

「何の意味かわかりますか、ミセス・ウェイド?」

「気取っているだけです。 彼はずっとスコット・フィッツジェラルドの大ファンでした。 フィッツジェラルドは、阿片中毒だったコールリッジ以来の最高の酔っぱらい作家だ、と彼は言います。 タイピングを見てください、ミスタ・マーロウ。 きれいでむらなく、タイプミスもありません」

「たしかに。酔っぱらったら大抵は自分の名前すらまともに書けない」くしゃくしゃになった方の紙を開けた。やはり誤字脱字のないタイピングでこう書いてあった。「きみが嫌いだ、ドクター・V。だが、今はきみが頼りだ」

私がまだそれを見ている間に彼女は話した。 「ドクター・Vが誰なのか全く分かりません。そのような名前で始まる医師を私たちは知りません。ロジャーが最後にいた場所の人でしょうか」

「カウボーイが彼を家に連れ帰ったときの? 何も聞いてないんですか?  場所とか施設名とか?」

彼女はかぶりを振った。「何も。電話帳を調べました。名前が V で始まる何らかの医者が何十人もいます。それに、姓ではないかもしれません」

「医者ですらない可能性が高い」と私は言った。 「その場合、まとまった現金が必要になる。まともな医者なら小切手を受け取るだろうが、もぐりの医者は受け取らない。それが証拠になりかねない。それに、連中の料金は安くない。提供される部屋と食事は高いものにつく。注射については言うまでもない」

彼女は不可解な顔になった。「注射?」

「怪しげな連中はみんな、客に麻薬を使う。一番簡単な方法だ。十時間でも十二時間でも眠らせておけば、目覚めたときにはいい子になる。しかし、無許可で麻薬を使えば、アンクル・サムに部屋代と食費を取られることになる。そして、それは実に高くつく」

「なるほど。ロジャーはおそらく数百ドルは持っているでしょう。彼はいつも机の中にそれだけのお金を保管しています。理由はわかりません。ただの気まぐれでしょう。今は何もありません」

「わかりました」と私は言った。「ドクター・Vを探してみます。方法はわかりませんが、できるだけやってみます。 小切手はしまってください、ミセス・ウェイド」

「でもどうして? あなたに仕事を――」

「あとでいいので、ありがとう。それに、私としてはミスタ・ウェイドからもらいたい。いずれにせよ、 彼は私のすることを気に入らないでしょう」

「でも、もし彼が病気でどうしようもなかったら」

「自分で医者を呼ぶこともできたし、あなたに頼むこともできた。彼はそうしなかった。つまり、そうしたくなかったのです」

彼女は小切手をバッグに戻し、立ち上がった。彼女はとても頼りなげに見えた。「かかりつけ医には、治療を断られました」と彼女は苦々しげに言った。

「医者なんて星の数ほどいますよ、ミセス・ウェイド。 誰でも一度は診てくれます。ほとんどの医者はしばらくはつきあってくれるでしょう。近頃は医者の世界も競争が激しい」

「なるほど、おっしゃるとおりです」彼女はゆっくりドアに向かった。私もついて行き、ドアを開けた。

「あなた自身が医者を呼ぶこともできたはず。どうしてそうしなかったんです?」

彼女はまっすぐに私を見た。両の眼が輝いていた。ほのかに涙を浮かべていたかもしれない。掛け値なしの美女だ。

「夫を愛しているからです。ミスタ・マーロウ。 私は彼を助けるためなら何でもします。 でも、彼がどんな男かも知っています。 お酒を飲み過ぎるたびに医者を呼んでいたら、夫は早晩私のもとを去っていくでしょう。 大人になった男を、喉が痛い子どものように扱うことはできません」

「酔っ払い相手ならできる。そうしなければならないことがしばしばある」 。彼女は私の近くに立っていた。彼女の香水の匂いを嗅いだ。あるいはそんな気がした。吹きつけたものではなかった。夏の日のせいかもしれない。

「彼の過去に何か恥ずべきことがあったとしましょう」と、彼女は言葉を引きずるようにして言った。まるでそのひとつひとつが苦い味でもするかのように。「たとえ犯罪に関わるようなものであったにせよ、私にはどうでもいいことです。だからといって、それを明るみに出すことに手を貸そうとは思いません」

「しかし、ハワード・スペンサーがそれを明るみに出すために私を雇うのは構わなかった?」 

彼女はとてもゆっくり微笑んだ。「あなたがハワードの依頼を受けるだろう、と私が踏んでいたとでも? 友人を裏切るくらいなら留置場に入る方がまし、と考えるような人が」

「お褒めに預かり恐縮です。だが、それで留置場に入れられたわけじゃない」

しばしの沈黙の後、彼女はうなずき、別れを告げると、セコイアの階段を下り始めた。私は彼女が車に乗り込むのを見た。スリムなグレイのジャガーで、とても新しそうだった。彼女はその車を通りの端まで走らせ、方向転換用のサークルで向きを変えた。車が丘をくだっていくとき、彼女の手袋が私に手を振り、小さな車はさっと角を曲って行ってしまった。

家の正面の壁の一部に赤い夾竹桃の茂みがある。その中で羽ばたく音がして、マネシツグミの雛が心配そうに鳴き始めた。てっぺんの枝に止まり、バランスを保つのに苦労しているかのように羽ばたいていた。塀の角の糸杉から、厳しい警告の鳴き声が一度だけ聞こえた。鳴き声はすぐに止み、丸々した小鳥は静かになった。

私は中に入ってドアを閉め、雛に飛ぶ稽古をさせてやった。鳥も学ばなければならない。

【解説】

第十四章は、アイリーン・ウェイドがマーロウの自宅にやって来て帰るまでの一幕。姿を消した夫の捜索にマーロウを引き入れようとする彼女の腕の見せ所。その登場シーンに、彼女の装いを描写した一文がある。

She was in brown linen this time, with a pimento-colored scarf, and no earrings or hat.

「ピメント」とは赤唐辛子のことだ。清水訳は「とうがらし(傍点五字)色」、村上訳は「朱色」。田口訳は「真紅」、そして市川訳は「パプリカ色」である。青唐辛子というのもあるが、普通「とうがらし」といえば「鷹の爪」のような赤を思い浮かべる。だから「真紅」はいいとしても「朱色」はいただけない。ましてや「パプリカ」は問題だ。近頃ではパプリカには黄色や朱色をしたものがある。「パプリカ色」で読者に正しく伝わるだろうか。

マーロウはキッチンに行き、コーヒーの支度をするが、紙ナプキンが気に入らない。

I went out to the kitchen and spread a paper napkin on a green metal tray. It looked as cheesy as a celluloid collar. I crumpled it up and got out one of those fringed things that come in sets with little triangular napkins. They came with the house, like most of the furniture. I set out two Desert Rose coffee cups and filled them and carried the tray in.

“cheesy”は「安っぽい」という意味の俗語。そこで取り換えるのが“one of those fringed things that come in sets with little triangular napkins”だ。ひとつ気になることがある。“one of those fringed things”の訳が「ふちに飾りのついたの(清水)」、「縁飾りのついたやつ(村上)」、「縁飾りのあるナプキン(田口)」と、これまでの訳では「ナプキン」と考えられていたものが、市川訳では「縁飾りのあるトレー」に代わっているのだ。

そこで、市川訳を読み返すと「キッチンへ行き、緑色のトレーにペーパー・ナプキンを敷いた。改めて見るといかにも安っぽい。プラスチックによくある色だったので、それはやめにして小さな三角ナプキンと組になっている縁飾りのあるトレーを出した」と書かれていることに気がついた。市川氏は“collor”(襟)を“color”(色)と読みまちがえたのだ。それだけではない。“metal”もトバしているし、“crumple up”(くしゃくしゃにする)も訳していない。ナプキンならくしゃくしゃにすることもできるが、金属製のトレイならそうはできない。そこで“crumple up”を「それはやめにして」と勝手に解釈してしまった。一つのケアレスミスが誤訳の連鎖を生んでいることがよく分かる。

もうひとつ気になる個所がある。それは“Desert Rose coffee cups”についてだ。清水訳では「上等のコーヒーカップ」とされていたが、村上訳で「デザート・ローズのコーヒーカップ」になった。それでよかったものを、田口訳が「デザート・ローズ柄のカップ」にし、市川訳も「デザート・ローズが描かれたコーヒーカップ」にしている。ここでいう「デザート・ローズ」は、カリフォルニアのフランシスカンというメーカーが当時販売していたテーブル・ウェアのシリーズ名だ。更に言うなら「デザート・ローズ」というのは、薔薇の名前ではなく砂漠地帯で採れる薔薇の花に似た形状を持つ石の名前である。

マーロウがこの日手にしているパイプは“bulldog pipe”。清水訳はただの「パイプ」。村上、田口訳は「ブルドッグ・パイプ」。ところが市川訳では「チェコ製の凝ったパイプ」になっている。パイプにはその材質や形状によってそれぞれ名前がついている。ブルドッグ・パイプもそのひとつだ。市川訳の「チェコ製の凝ったパイプ」がどこから来たのかは知らないが、ブルドッグ・パイプなら今でも市販されている。

訪問の真の理由を語り出すときのアイリーンの様子がマーロウの視点で描かれる。

She reached quietly for her coffee cup and saucer. Her hands were lovely, like the rest of her. The nails were beautifully shaped and polished and only very slightly tinted.

どうということのない一文だが、アイリーン・ウェイドという女性の所作にマーロウがよく目を留めているのが分かる。「彼女はコーヒーのカップと皿にそっと手をのばした」(清水)。「彼女は静かにコーヒーカップに手を伸ばした」(村上)。「彼女はコーヒーに手を伸ばした」(田口)。「彼女はすーっとコーヒーカップとソーサーに手を伸ばした」(市川)。ミセス・ウェイドが座っているのはダヴェンポートと呼ばれる大型のソファだ。コーヒーが置かれたのはカクテル・テーブルで、少し距離がある。こぼしたりしないようにソーサーを添えるのはちょっとした気遣いというものだ。マーロウの目にそう映っているのなら、ここはそのまま訳すべきところだろう。

別れ際、二人の距離が近くなり、マーロウは気のせいか、香水の香りを嗅いだ気がした。

She was standing close to me. I smelled her perfume. Or thought I did. It hadn't been put on with a spray gun. Perhaps it was just the summer day.

“just the summer day”とはどういう意味なのか? 

「噴霧器でふりかけているはずはなかった。夏の日だからだったかもしれない(清水)」。「香水をふんだんにふりかけるタイプではない。夏の日にわずかに忍ばせるだけだ(村上)」。「いずれにしろ、ふんだんにかけられていたわけではない。夏に咲く花のように軽やかな香りだった(田口)」。「香水だとしてもスプレーで吹き付けたんじゃない。夏の日にだけほんのすこし匂うくらいだ(市川)」

汗と混じると香水の香りは悪くなるから、夏はつける場所に気をつける。また、香水は気温が高いほどよく香るので、夏に冬と同じ量の香水をつけると、強く香りすぎてしまう、という。ミセス・ウェイドは季節を考えて量やつけ方に気を配っているのだろう。空気中にひと吹きして、その中をくぐるという方法がお勧めだそうだ。それだと香りが強くなりすぎるのを防げるらしい。いずれにせよ、この場面のアイリーンは、好感度の高い女性として描かれている。

彼女がジャガーに乗って帰るとき、一度通りの端まで行き、方向転換してくる。

She drove it up to the end of the street and swung around in the turning circle there. Her glove waved at me as she went by down the hill, The little car whisked around the corner and was gone.

田口訳は「彼女は通りのつきあたりまで走ると、方向転換サークルで向きを変えた。坂道をくだって戻ってきた彼女の小さな車は角を軽快に曲がると姿を消した」となっている。残念なことに、“Her glove waved at me”が抜け落ちている。何度も言及されている手袋をあえてトバすはずがない。ケアレスミスだろう。最後に手を振るのは見送る相手に対する親愛の情の表現である。あるとないとでは、マーロウの気持ちの持ち方も変わってくる。清水訳でも村上訳でも、手袋は振られている。最後の見直しで気づかなかったのだろうか。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

山羊はビール瓶の破片を食べるか?

13

【訳文】

午前十一時には別館のダイニングルームから入って右側の三番目のブースに座っていた。壁を背にしていたので、出入りする客を見ることができた。よく晴れた朝で、スモッグはなく、上空の霧もなく、眩いばかりの陽光が、バーのガラス窓のすぐ外からダイニング・ルームの一番奥まで続くプールの水面をぎらつかせていた。白いシャークスキンの水着を着た、官能的なスタイルの若い女が飛び込み台の梯子を登っていた。 日に灼けた腿と水着の間に白い肌が帯のようにのぞいているのをそそられる思いで見た。やがて彼女は屋根のオーバーハングに遮られ、視線から消えた。しばらくすると鮮やかに一回転半して水に飛び込むのが見えた。水しぶきは高く上がって太陽を浴び、女と同じくらいきれいな虹ができた。それから彼女は梯子を登って白い帽子の紐を外し、脱色した髪を振りほどいた。 尻をふりながら小さな白いテーブルに向かい、白いツイルのパンツにサングラス姿の木こり風の男の隣に座った。真っ黒に日焼けしていてどう見てもプールの作業員にしか見えなかった。彼は手を伸ばして彼女の太腿を叩いた。彼女は消火バケツのような口をあけて笑った。彼女に対する私の関心は失せた。声は聞こえなかったが、馬鹿笑いで顔にぽっかり空いた穴を目にすれば十分だった。

バーはかなり空いていた。三つ先のブースでは、隙のない身ごなしの二人組が互いに金の代わりに両腕のジェスチャーを使って二〇世紀フォックスに自分を売り込んでいた。二人の間のテーブルの上に電話があり、二、三分おきに、どちらがホットなアイデアを電話でザナックに伝えるか勝負していた。彼らは若く、髪は黒々とし、熱心で、活力に満ちていた。 電話での会話に、私が太った男を階段で四階まで運ぶのと同じくらい筋肉を働かせていた。悲しげな顔をして ストゥールに腰掛けバーテンダーと話している男がいた。バーテンダーはグラスを磨きながら、悲鳴を上げまいとするときに人が見せるあのつくり笑いを浮かべて話を聞いていた。客は中年で、身なりはよく、酔っていた。 彼は話したがっていた。たとえ本当は話したくなかったとしても、止めることはできなかった。 礼儀正しく気さくで、聞こえた限りでは呂律も回っていたが、よくいる、朝起きたら酒瓶に手を伸ばし、夜眠りに落ちるときだけ手から放すタイプだった。きっと一生そうなのだろう。それが彼の人生だった。どうしてそんなことになったのか知るすべもない。もし彼が話したとしてもそれは真実ではない。よくってせいぜい、彼がそう思い込んでいる真実の捻じ曲げられた記憶だ。世界中のどこの静かなバーにも、そういう悲しい男がいる。

時計を見ると、この出版社のお偉方はすでに二十分の遅刻だった。半時間待っても来なかったら帰るつもりだ。客の言いなりになるのは決して得策ではない。言うことを何でも聞くやつは誰の言うことでも聞く、とそいつは考える。そんな人間を雇うやつはいない。生憎だが今のところ、それほど食うに困ってはいない。東部から出てきたうすのろに馬丁扱いされる気はない。その手の重役タイプは、ずらりと並ぶ押しボタンやインターコムのある八十五階のパネル張りのオフィスにいて、ハティ・カーネギーのキャリア・ガールズ・スペシャルを着た末頼もしい大きな瞳の秘書を侍らせ、相手には九時きっかりに来るように言いつけておいて、自分はダブルのギブソンをひっかけて、二時間遅れでふらっと顔を出したとき、相手が愛想笑いを浮かべて畏まっていなければ、怒りによる発作で管理能力を失い、もとのように威圧的な態度に出られるまでに、五週間はアカプルコで静養する必要がある。

年配のウェイターがやってきて、私の薄くなったスコッチの水割りをそれとなく見た。私が首を振ると彼は白髪頭をひょいと下げた。まさにそのとき、夢が入ってきた。バーの中には音もなく、二人組みは動きを止め、ストゥールの酔っぱらいはしゃべるのをやめた。まるで指揮者が譜面台を叩き、両腕を上げて静止した直後のようだった。

彼女はすらりと背が高く、注文仕立ての白いリネンの服を着て、首に黒と白のポルカドットのスカーフを巻いていた。髪は妖精の王女のような淡い金色だった。小さな帽子の中に淡い金色の髪が鳥の巣のように収まっていた。瞳は矢車菊の青という稀に見る色で、睫毛は長く、目に見えないほど淡かった。彼女が向こう側のテーブルにたどり着き、肘までの白い手袋をはずしていると、年配のウェイターが、私のためには絶対にしないであろうやり方でテーブルを引いた。彼女は座り、手袋をバッグのストラップの下に滑り込ませ、どこまでも優しく、この上なく混じりけのない笑みを浮かべて彼に礼を言った。それで彼はほとんど麻痺状態になった。彼女にとても小さな声で何か言われ、彼は前かがみになったままそそくさと立ち去った。人生においてほんとうの使命を持った男がそこにいた。

私はじっと見つめた。 彼女がそれに気づき、視線を半インチほど上げたとき、私はもうそこにいなかった。 しかし、どこにいようと私は息を凝らしていた。

一口にブロンドと言ってもいろいろで、近頃ではうっかりブロンドなどと口にしたらジョーク扱いだ。どんなブロンドにもそれなりの良さがある。たぶん、地毛の色がわからなくなるほど脱色され、舗道のようにソフトな手触りの金属的な髪を別にすれば。小鳥のようにさえずる小柄でキュートなブロンドもいれば、淡青色(アイスブルー)のひと睨みで人を寄せつけない大柄で彫像のようなブロンドもいる。 素敵な香りを漂わせて腕に凭れ、思わせぶりにちらちら目線をくれながら、家まで送っていくと決まって「もうくたくた」と言い出すブロンドがいる。大仰な仕種で頭痛のひどさを訴えられると引っぱたきたくなるが、多くの金と時間と希望を浪費する前に頭痛持ちとわかって良しとするべきなのだろう。なぜなら、頭痛は常に傍にあって、錆つきも目減りもしない、刺客の短剣やルクレツィアの毒瓶同様、命取りの凶器だからだ。

ガードが低くノリのいい酒好きなブロンドもいる。ミンクさえ着ていればそれでよく、《スターライト・ルーフ》のようなドライ・シャンパンがふんだんに飲めるところなら、どこへでも喜んでついてくる。小柄で気立てのいいブロンドがいる。対等な友人関係を好み、陽気で常識を備え、柔道の心得があり、サタデー・レビューの社説を一文たりとも読み落とすことなしにトラック運転手を背負い投げできる。命にかかわるほどではないが治る見込みもない貧血症の淡くはかなげなブロンドがいる。物憂げで影が薄く、その声はどこからともなく聞こえてくる。こんな女には指一本触れられない。なぜなら、第一にそうしたくないし、第二に彼女はいつも『荒地』やダンテの原書、カフカキェルケゴールを読むか、プロヴァンス語を勉強しているからだ。音楽にも造詣が深く、ニューヨーク・フィルヒンデミットを演奏しているとき、六人のコントラバス奏者のうち四分の一拍遅れて入ってきたのは誰かを言い当てることができる。トスカニーニもできるらしい。彼女は二人目だ。

そして最後に、眼のさめるような傑作が待っている。この手のブロンドは三人のギャングのボスを看取り、その後一人頭百万ドルの百万長者二人と結婚し、アンティーブ岬にあるペール・ローズ色の別荘、正副運転手つきのアルファ・ロメオのタウンカーを手にし、零落した貴族たちに取り巻かれるようになる。彼女は誰にでも、老公爵が執事に「おやすみ」を言うような、丁寧だが心のこもらない態度で接することになる。

向かいの席に座っている夢はそのどれでもなく、そのような世界に属してもいなかった。彼女は分類不可能で、山の水のように遠く人里離れて澄んでいて、その色のようにとらえどころがなかった。私がまだ見つめていると、肘のあたりで声がした。

「とんでもなく遅くなった。申し訳ない。こいつの所為でね。私はハワード・スペンサー。きみがマーロウだね」

私は振り返って彼を見た。小太りの中年男で、服装には無頓着のようだが、きれいに髭を剃り、薄くなりかけた髪は耳の間に広がった頭の上で丁寧に後ろになでつけられている。派手なダブルブレストのヴェストを着ていた。おそらくボストンからの旅行者でもなければ、カリフォルニアではめったにお目にかかれない代物だ。 縁なしの眼鏡をかけ、古ぼけたブリーフケースをポンポン叩いていた。どうやら「こいつ」らしい。

「手に入れたばかりの三冊分の原稿でね。フィクションだ。没にする前に失くしでもしたら厄介だからね」彼は年配のウェイターに合図した。ウェイターはちょうど背の高い緑色の何かを夢の前に置いたところだった。「ジン・オレンジに眼がないんだ。実にばかばかしい種類の飲み物だが、一緒にどうかな? 」

私がうなずくと年配のウェイターは立ち去った。私はブリーフケースを指さして言った。「そいつを没にするとどうしてわかるんだ?」

「もしそれが良いものなら、作家が直接私のホテルに置いていくはずがない。ニューヨークのどこかのエージェントがとっくに押さえてる」

「それならなぜ受け取る?」

「一つには相手の感情を傷つけないため。一つには千にひとつのチャンスというものがあるから。すべての出版人はそのために生きてるんだ。だが大抵はカクテルパーティーのせいさ。あらゆる種類の人に紹介されるが、中には小説を書いている人もいる。酒に酔った勢いで、人類への慈悲深い愛に満たされ、その原稿をぜひ見てみたいと言うと、その原稿はうんざりするような速さでホテルに届けられ、読まざるを得ない破目に陥る。 しかし、きみは出版社やその問題に興味などないだろう」

ウェイターが飲み物を運んできた。スペンサーは自分の飲み物を手に取り、ひとくち飲んだ。彼は向かいの黄金の娘(ゴールデン・ガール)には気づかなかった。彼の視線はすべて私に注がれていた。人と接することに長けた男だった。

「仕事の一部なら」と私は言った。「たまには本くらい読むさ」

「うちの最も重要な作家の一人がこの辺りに住んでいるんだ。たぶん、きみも彼の作品を読んだことがあるだろう。ロジャー・ウェイドだ」

「ああ」

「言いたいことはわかる」彼は悲しげに微笑んだ。「きみは歴史ロマンスに興味などない。だが爆発的に売れてるんだ」

「言いたいことなど何もない、ミスタ・スペンサー。彼の本を一度だけ読んだことがある。くだらないと思った。私なんかが言っちゃいけないことかな?」

彼はにやりと笑った。「いや、全然。多くの人がきみに同意するだろう。だが重要なのは、今のところ、彼が出すものは放っておいてもベストセラーになるということだ。そして、どの出版社も、そんな作家を一人二人抱えてる必要があるんだ。今のコスト事情ではね」

私は黄金の娘に目をやった。彼女はライムエードか何かを飲み終え、小さな腕時計とにらめっこしていた。バーは少し満席になりつつあったが、まだ騒々しいほどではなかった。隙のない二人組はまだ手を振っていたし、バーのストゥールに腰かけた一人の酔客には連れが二人いた。私はハワード・スペンサーを振り返った。

「あんたの抱えてる問題と関係があるのか?」私は彼に尋ねた。「ウェイドという男が?」

彼はうなずいた。彼は私を入念にチェックした。「ミスタ・マーロウ、もし差支えなければ、きみのことを少し教えてくれないか」

「どんなことを? 私は免許を持つ私立探偵で、この業界では長いほうだ。一匹狼で、独身、中年になりかけで、金はない。留置場には何度も入ったことがあるし、離婚がらみの仕事は受けない。酒と女とチェスが好きで、他にもいくつか好きなものがある。警官にはあまり好かれていないが、反りが合うのも一人二人いる。生粋のサンタローザ生まれで、両親とは死別、兄弟姉妹もいない。いつか暗い路地で殺されるようなことになったとしても、この業界ではままあることだし、そもそも最近はどんな仕事をしていようが、いなかろうが、誰にでも起こりうることだ。それで悲嘆にくれる者は誰もいない」

「なるほど」と彼は言った。「でも、私の知りたいことのすべてを教えてくれてはいない」

私はジン・オレンジを飲み終えた。私の好みではなかった。私はにやりと笑った。「一つ言い忘れたことがある、ミスタ・スペンサー。私はポケットの中にマディソンの肖像画を持っている」

「マディソンの肖像画? 残念ながら、私には何のことやら――」

「五千ドル札のことさ」と私は言った。「いつも持ってるんだ。幸運のお守りだ」

「それはそれは」彼は囁き声で言った。「危険じゃないのか?」

「誰が言ったのだったかな。ある一点を超えるとすべての危険は均等になる、と」

「ウォルター・バジョットだったと思う。煙突や尖塔の修理工について言ってたんじゃないか」 そしてにやりと笑った。 「すまない、私は出版人なんでね。きみならまちがいなさそうだ、マーロウ。きみに賭けてみよう。もしそうしなかったら、きみは私にくたばれって言うんじゃないか?」

私はにやりと笑い返した。彼はウェイターを呼んで酒のおかわりを注文した」

「実は」 と彼は慎重に言った。「ロジャー・ウェイドの件で大変なことになっている。本を書き終えることができないんだ。何かのせいで仕事に対する意欲を失いつつある。このままでは壊れてしまう。酒と持ち前の気質のせいでひどい発作を起こす。時には何日も姿を消す。少し前には夫人を階下に放り投げて入院させた。肋骨が五本折れていた。二人の間には通常の意味でのトラブルは全くない。様子がおかしくなるのは酒を飲んだときだけだ」スペンサーは椅子の背にもたれ、憂鬱そうに私を見た。「あの本を完成させなければならない。どうしても必要なんだ。私の仕事はそれにかかっていると言っていい。しかし、それ以上に必要なことがある。私たちが救いたいのは、これまでしてきたことよりもはるかに優れたことをなし得る、非常に有能な作家なのだ。何かが非常にまちがっている。今回の旅では、彼は私に会おうとさえしない。精神科医に診てもらった方がいいのだが、夫人は同意しない。彼女は、彼は完全に正気だが、何かが死ぬほど心配なのだと確信している。例えば脅迫者だ。ウェイド夫妻は結婚して五年になる。過去の何かが彼を追いつめているのかもしれない。あるいは――勝手な推測だが――致命的なひき逃げ事故を起こして、誰かに弱みを握られているのかもしれない。それが何なのかはわからない。知りたいのだ。そして、そのトラブルを解決するために、十分な報酬を支払うつもりだ。もしそれが医学的な問題だとわかれば、それでいい。そうでなければ、何か答えがあるはずだ。その間、夫人は保護されなければならない。彼は次に彼女を殺すかもしれない。ひょっとしたらね」

二杯目が来た。私は手をつけず、彼が一口で半分を飲み干すのを見た。私は煙草に火をつけ、ただ彼を見つめた。

「探偵はいらないな」と私は言った。「欲しいのは魔法使いだ。いったい私に何ができる? もし折よくその場に居合わせたとして、私の手に負えないほどタフでなければ、ノックアウトしてベッドに寝かしつけられるかもしれない。しかし、運よく、その場に居合わせなければならない。そんなことは百にひとつもあり得ない。わかってるだろう」

「彼はきみと同じ背格好だ」とスペンサーは言った。「が、コンディションがちがう。それに常駐することだってできる」

「無理な話だ。酔っ払いは狡猾だ。私の隙を見てばか騒ぎをしでかすかも知れない。看護師の仕事がしたいわけじゃない」

「看護師など役に立たない。ロジャー・ウェイドは看護師を受け入れるような男じゃない。非常に才能のある男だが、今は自制心のおさまりが悪くぐらついている。低レベルな読者に合わせて屑みたいな小説を書いて金を稼ぎすぎたんだ。しかし、作家にとっての唯一の救いは書くことだ。彼の中に何か良いものがあれば、それはおのずと出てくるだろう」

「いいだろう。彼のことはわかった」私はぐったりして言った。「恐ろしいほど才能があり、同時にひどく危険でもある。後ろ暗い秘密を抱えていて、それをアルコールで紛らわそうとしている。悪いが、私の出る幕はなさそうだ。ミスタ・スペンサー」

「なるほど」 彼は心配そうに顔をしかめて腕時計を見たが、それは彼の顔をより老けて小さく見せた。 「無駄骨を折らせたが、悪く思わないでくれ」

彼は分厚いブリーフケースを取ろうと手を伸ばした。 私は黄金の娘を遠巻きに眺めた。 彼女は出ていく準備をしていた。 白髪のウェイターが勘定書きを手に彼女の傍をうろついていた。 彼女は彼に金を払い、素敵な笑顔を見せた。彼は神と握手したかのように見えた。 彼女は口紅を直し、白い手袋に手を伸ばした。ウェイターは彼女が外に出られるようにテーブルを部屋の中程まで引いた。

私はちらっとスペンサーを見た。彼は眉を顰めてテーブルの端の空っぽのグラスを見下ろした。ブリーフケースを膝の上に置いていた。

「ほら」と私は言った。「私はその男に会いに行って、品定めしてみるよ、あんたがそうしてほしいならね。奥さんとも話してみる。けど、家から放り出されるのが落ちだろう」

スペンサーではない声がした。「いいえ、ミスタ・マーロウ。そうは思いません。かえって彼はあなたのことが気に入ると思います」

私は菫色の双眸を見上げた。彼女はテーブルの端に立っていた。私は立ち上がりかけてブースの背に尻を押しつけた格好のままでいた。狭いブース席を立つ際には端まで尻を滑らせなければならないことを忘れていた。

「どうぞそのままで」と、彼女は夏の雲に裏地をつけるのに使うような声で言った。「お詫びしなければならないのはわかっていますが、自己紹介をする前に、あなたを一目見ておきたかったんです。私はアイリーン・ウェイドです」

スペンサーは不機嫌そうに言った。「彼は興味がないよ、アイリーン」

彼女は優しく微笑んだ。「私はそうは思わない」

私は自分を取り戻した。それまで狼狽えて中腰で立ったまま、卒業したての初心な少女のようにぽかんと口を開けて息をしていたのだ。ほんとうに美しかった。近くで見る彼女にはほとんど茫然とさせられた。

「興味がないとは言っていない、ミセス・ウェイド。私が言った、あるいは言おうとしたのは、私が役に立てるとは思えない、それに私を頼るのは大間違いで、むしろ大きな犠牲を払うことになるかもしれない、ということだ」

彼女は今や、とても真剣だった。笑顔は消えていた。「結論を下すのが早すぎます。何をするかで人を判断してはいけない。もし判断するとしたら、その人が何であるかということでなければならないのでは」

私はかすかにうなずいた。それはまさに私がテリー・レノックスについて考えていたことだった。事実、塹壕での一瞬の栄光の閃きを除けば彼は何の取り柄もない男だった。それも、メネンデスが真実を語っていたとしての話だ。しかし、どう考えても事実は全てを物語ってはいなかった。彼は憎めない男だった。一生のうちに、そう言える人間に何人出会えるだろう?

「そのためには、その人のことを知らなければならない」と彼女は穏やかに言い添えた。「さようなら、ミスタ・マーロウ。もし気が変わったら―― 」彼女は素早くバッグを開け、私に名刺を差し出した――「それと、来てくれてありがとう」

彼女はスペンサーに軽くうなずいて立ち去った。私は彼女がバーを出て、ガラス張りの別館を抜けてダイニングルームに向かうのを見送った。身ごなしも美しかった。ロビーに通じる拱道の下を曲がるとき、最後に白いリネンのスカートが翻るのが見えた。そして私はブースに身をゆだね、ジン・オレンジを手に取った。

スペンサーが私を見ていた。彼の眼に何やら厳しいものが浮かんでいた。

「上出来だ」と私は言った。「が、たまには彼女のことも見るべきだった。あんな夢のようなものを、部屋の向かい側に置いたまま二十分も気づかずに座っていられるわけがない」

「迂闊だった」彼は笑おうとしていたが、本当に笑いたいわけではなかった。私が彼女を見る目つきが気に入らなかったのだ。「人は私立探偵と聞けば身構えるものだ。ましてやそれが家の中にいると思うと――」

「あんたの家に押しかける気はないよ」と私は言った。 「とにかく、もっと別の話をひねり出すべきだった。酔っていようが素面だろうが、あんなすごい美人を階段から突き落として肋骨を五本も折る人間がいるなんて話を吹き込むより、彼女のためにもっとましなことができたはずだ」

彼は顔を赤くした。ブリーフケースを握る手に力を込めた。「私が嘘をついていると?」

「いいじゃないか。あんたは自分の仕事をしただけさ。あのレディのこととなると、あんたは少し熱が入り過ぎるんだ、たぶん」

彼は急に立ち上がった。「その言い方は気に入らんね」と彼は言った。「きみと馬が合うとは思えない。悪いがこの話はなかったことにしてくれ。これが私が支払うべきだと思う、応分の料金だ」

彼は二十ドル札をテーブルに放り、ウェイターのためにいくらか添えた。

彼はしばらく立ったまま私を見下ろしていた。目は輝き、顔はまだ紅潮していた。「私は結婚していて、四人の子持ちだ」と唐突に言った。

「それはそれはご同慶の至りだ」

彼は一瞬喉声を立てたが、背を向けて立ち去った。かなりの早足だった。私はしばらく見ていたが、やがて見るのをやめた。残りの酒を飲み干し、煙草の箱を取り出して、一本振り出すと口にくわえて火をつけた。年配のウェイターが近づいてきて、金に目をやった。

「何かお持ちしましょうか?」

「もう結構だ。それは全部あんたのものだ」

彼はゆっくり札を手に取った。「二十ドル札です。お連れの方がまちがえられたのでは」

「彼は字が読める。金はすべてあんたのものだ」と私は言った。

「ありがとうございます。ですが、本当にそれでよろしいので――」

「それでいいんだ」

彼は軽くお辞儀をして心配そうな顔のまま立ち去った。 バーは混んできていた。遊びはしても最後の一線は越えない、今流行りの半処女(デミ・ヴァージン)らしき二人が手を振り、ぺちゃくちゃ喋りながら通り過ぎた。ブースの奥にいる二人のやり手の連れらしい。甘ったるい声と真っ赤な爪の色に店の空気が染まり始めていた。

私は煙草を半分吸い、わけもなく顔をしかめ、立ち去ろうとした。置き忘れた煙草を取りに戻ろうとしたとき、後ろから何かが強くぶつかってきた。まさにお誂え向きの獲物だった。振り向くと、たっぷり襞をとったオックスフォード・フランネルに身を包んだ、尻の大きな受け狙いタイプの男の横顔があった。人気者のように腕を広げ、人の気をそらさない商売上手特有の飛び切りの笑みを浮かべていた。

伸ばした腕をつかんで振り向かせた。「どうした? あんたのような大物には通路が狭すぎるってのか?」

彼は腕を振りほどいて強がって見せた。「大口叩いてると、顎を外す羽目になるかもしれんぞ」

「はっは」 私は言った。 「そっちこそ、ヤンキースでセンターを守って、ブレッドスティックでホームランを打てるかもな」

彼は拳を握り固めた。

「ダーリン、マニキュアに気をつけて」と彼に言った。

彼は自分の感情を抑えた。「知ったことか、小生意気な」と彼は鼻で笑った。「また今度相手してやるよ、もっと暇なときにな」

「今より暇になれるのか?」

「とっとと失せろ」彼は怒鳴った。「今度何か言ったら、歯にブリッジが必要になるぞ」

私はにやりと笑いかけた。「その時は電話してくれ。次はもっとしゃれた台詞を頼むぜ」

風向きが変わった。彼は笑った。「映画(ピクチャー)に出てるのか? あんた」

「写真(ピンナップ)だけさ。郵便局に貼ってある類いの」

「じゃあ、また顔写真のファイルの中で」と言って彼は歩き去った。まだ笑っていた。

愚にもつかないやりとりだったが、それで気が晴れた。私は別館を抜け、ホテルのロビーを横切って正面玄関に向かった。途中で立ち止まってサングラスをかけた。アイリーン・ウェイドからもらった名刺を思い出したのは、車に乗ってからだった。浮出し加工されたものだったが、名のみ記された社交用名刺ではなく、住所と電話番号が記されていた。ミセス・ロジャー・スターンズ・ウェイド。アイドル・ヴァレー・ロード一二四七。電話番号アイドル・ヴァレー五ー六三二四。

アイドル・ヴァレーのことはよく知っていた。入り口に門番小屋があり、私設警察がいて、湖にカジノがあり、五十ドルの娼婦がいた頃とはずいぶん変わったことも知っていた。カジノの閉鎖後、静かな金が一帯を引き継いだ。静かな金がそれを小分けの夢にした。湖と湖畔はクラブが所有し、クラブに入らなければ水遊びもできない。単に費用がかさむという意味ではなく、言葉に最後に残された意味で排他的だった。

私などアイドル・ヴァレーでは、バナナ・スプリットに乗ったパール・オニオンみたいなものだ。

午後遅く、ハワード・スペンサーから電話があった。彼は怒りが収まったようで、申し訳なかった、この状況にあまりうまく対処できなかった、と言いたかったようだが、私に考え直してもらいたかったのかもしれない。

「本人が会いたいというなら会うよ、そうでなければお断りだ」

「わかった。それなりのボーナスを考えている」

「いいか、ミスタ・スペンサー」 と私は焦れて言った。「金で運命は買えない。ミセス・ウェイドが夫を怖がっているのなら、家を出ればいいことだ。それは彼女の問題だ。四六時中、夫からその妻を守ることは誰にもできない。そんな保護をしてくれるところは世界のどこにもない。しかし、あんたが望むのはそれだけじゃない。なぜ、どのように、そしていつ、その男が道を外れたのかを知り、そして二度と同じことをしないように修正したいのだ――-少なくとも本を書き終えるまでは。それは彼次第だ。本が書きたいのなら、書き上げるまで酒を断つことだ。あんたは多くを望みすぎだ」

「同じことなんだ」と彼は言った。「すべての問題の根はひとつだ。でも、わかる気がするよ。これはきみに依頼するには少し微妙過ぎる仕事のようだ。では、さようなら。今夜の飛行機でニューヨークに戻るよ」

「よい旅を」

彼はありがとうと言って電話を切った。二十ドルはウェイターにやったというのを忘れていた。かけ直して教えようかと思ったがやめた。彼はすでに十分みじめな思いをしていた。

私はオフィスを閉め、テリーからの手紙にあったように、ギムレットを飲みにヴィクターの店へ向かった。途中で気が変わった。あまり感傷的な気分にはなれなかった。ローリーの店でマティーニを飲み、代わりにプライムリブとヨークシャー・プディングを食べた。

帰宅後、テレビをつけて試合を見た。役立たずどもで、アーサー・マレーの下でダンスを教えているのがお似合いだった。ジャブを繰り出し、ダッキングを使い、フェイントをかけてバランスを崩し合うだけだ。どちらも、うたたね中の祖母が目を覚ますほどの強打は打てなかった。観客はブーイングを浴びせ、レフェリーは手を叩いてファイトを促したが、選手は体を小刻みに動かして防御しつつ、たまに左の長いジャブを出し続けた。私はチャンネルを替え、犯罪ドラマを見た。クローゼット並みの狭いセットで撮られ、役者の顔はくたびれ、見飽きたものばかりで見映えしなかった。台詞は三流映画でさえ使わないような代物だった。探偵にはおどけ役として黒人のハウスボーイが付いていた。そんなものはいらなかった。探偵一人で充分笑えた。コマーシャルはといえば、鉄条網と割れたビール瓶には馴れっこの山羊さえ気分が悪くなりそうな代物だった。

テレビを切り、しっかり巻かれたロングサイズの煙草を吸った。ひんやりとして喉に優しかった。上質の煙草の葉が使われていたが、銘柄は忘れた。そろそろ寝ようと思ったとき、殺人課のグリーン部長刑事から電話があった。

「お友だちのレノックスが二日前に埋葬された。彼が死んだあのメキシコの町だ。知りたいんじゃないかと思ってな。遺族を代表して弁護士が当地に出向き、埋葬に立ち会った。今回はラッキーだったな、マーロウ。この次、国外逃亡する友人を助けようと思ったら、よしにすることだ」

「弾痕はいくつあった?」

「どういうことだ?」と彼の声が大きくなった。しばらく間が開いた。それから、かなり慎重にこう言った。 「一つ、だろう。頭を吹っ飛ばすなら、普通それで足りる。弁護士が指紋一式とポケットの中の何やかやを持ち帰る。他に知りたいことは?」

「いや、だが教えちゃくれまい。誰がレノックスの妻を殺したか、だ」

「おやおや、彼が自白を残した、とグレンツは言わなかったのか? 新聞にも書いてあっただろう。もう新聞は読まないことにしたのか?」

「電話をありがとう、部長刑事。ご親切に感謝するよ」

「いいか、マーロウ」と彼は耳障りな声で言った。「この件に関して妙な考えを抱いてるようだが、下手に騒ぐと自分の首を絞めることになるぞ。事件は一件落着、判子が押されて、お蔵入りだ。幸運だったと思うことだ。この州じゃ、事後従犯は軽くて五年だ。もうひとつ教えといてやろう。長い警官暮らしで、ひとつ学んだことがある。ム所送りになるのは、必ずしもそいつが何かをやったか、で決まるわけじゃない。法廷に持ち込まれたとき、いかにそいつがやったように見せることができるか、で決まるんだ。おやすみ」

電話は受話器がまだ耳元にある間に切れた。受話器を架台に戻しながら思った。正直な警官は良心の呵責を感じると、いつも強面になる。 不正直な警官もそうだ。 それを言うなら、誰もが似たり寄ったりだ。私を含めて。

【解説】

マーロウがアイリーン・ウェイドに初めて会う場面。ブロンドに関する蘊蓄や、バーの客相手の寸劇がいささか煩わしい。事態が自分の思惑通りに進まないことに対する不満の反映であることや、一種の読者サービスであることも分かるが、いくら独白にせよ、主人公の探偵がいたずらに自分の心情を語り過ぎるところがある。それが好きな人は別にして、それを嫌う人の気持ちもわかる。何はともあれ、チャンドラーらしさの横溢した章である。その冒頭部分。

At eleven o'clock I was sitting in the third booth on the right-hand side as you go in from the dining-room annex.

「十一時に、私は食堂から入って右側の三番目のブースに坐っていた」と初訳で書かれて以来、ずっと右側とされてきたマーロウの座ったブースが、市川訳では「一一時、私はホテルのレストランからバーに入って左手奥、三番目のブースに座っていた」と改変されている。それもご丁寧に「リッツ・ビバリー・ホテルのバー」なる挿絵入りで。ホテル名は架空のものだから、モデルとされるホテルを想定しての図だろうが、原文に“right-hand side”とあるのをわざわざ「左手」に変える必要がどこにあるのか。

よく晴れた気持ちのいい朝のホテルは、誰の気分も開放的にする。マーロウは水着姿の若い女に目を留める。プールから上がった女の行方を追うマーロウ。

She wobbled her bottom over to a small white table and sat down beside a lumberjack in white drill pants and dark glasses and a tan so evenly dark that he couldn't have been anything but the hired man around the pool.

気になるのは男が穿いている“white drill pants”だ。清水訳では「白いパンツ」になっている。これなら分かる。村上訳は「ぴったりした白い水着」、田口訳は「白いショートパンツ」、市川訳は「白い短パン」だ。“drill”とは太綾織りの生地で織られた頑丈な織物のことで作業着などに用いられる。日本では葛城(カツラギ)と呼ばれている。そう考えると水着でも短パンでもなく、長ズボンではないか。

これは“the hired man around the pool”とあるので、てっきり「プールの監視員」だと思い込んだ村上訳のせいだ。清水訳は正確に「プールにやとわれている男」となっている。田口訳も村上訳と同じ「プールの監視員」、市川訳の「プール係」がどんな仕事かはよく分からないが、プールの係なら短パンと考えたのだろう。

なぜそこにこだわるのかといえば、“lumberjack”、“drill pants”、“ the hired man”と連ねるあたりに、階級的視点が垣間見えることだ。マーロウが女に興味を失うのは、その女が当のプールに雇われている男と同じ階層の女、つまり、客である自分が相手をする女ではないと見切ったからだ。無論、この後に登場するアイリーンの価値を高めるための対比として引っぱり出されているので、女に責任はない。あまり趣味の良くない対比だと思うが、本人にその意識がないだけ質(たち)が悪い。

バーには客がいた。二人の映画関係者がマーロウの目に留まる。

Three booths down a couple of sharpies were selling each other pieces of Twentieth Century-Fox, using double-arm gestures instead of money.

“shrpie”が曲者だ。ふつうは「抜け目のないやつ、詐欺師」という意味だが、俗語には「いきに着こなした人」という使い方もある。清水訳が「はで(傍点二字)な服装の男」、村上訳が「いかにもやり手風の二人の男」、田口訳が「いかにもやり手といった風情のふたりの男」、市川訳は「はしこそうな二人」だ。電話での話し声がかろうじて聞こえる距離にいる初対面の男たちだ。二人に関する見識がもうひとつある。

They were young, dark, eager and full of vitality.

四人の訳者が“dark”をどう訳しているか見てみよう。「二人とも、若くて、いき(傍点二字)がよく、精力的だった」(清水)。「二人とも若く、日焼けして、意欲まんまん、元気いっぱいだった」(村上)。「ふたりとも若く、髪は黒く、生命力とエネルギーにあふれており」(田口)。「二人とも若く、浅黒く、意欲的で気迫に満ちていた」(市川)。清水訳だけが“dark”を保留している。納得できる訳語が思いつかなかったのだろう。

この二人組に関して、マーロウは自分と比べ、若さと活力に溢れている点を眩しく感じている。そこに、肌や髪の色に関する情報が果たして必要だろうか、と清水氏は思ったにちがいない。そう考えるのもわかる。肌の色はともかく、髪の色なら年齢と関係してくる。マーロウは少し年を取りかけている。そろそろ白髪が気になる頃かもしれない。そうなると、この“dark”、ただの黒髪ではなく、白髪の混じっていない黒々とした髪とも考えられる。

待ち合わせ相手が遅れているので、マーロウはその男がどんな人間か想像を働かせている。自分は遅刻しておきながら、もし約束をすっぽかされたらどんなふうになるか、以下はマーロウの妄想である。

he would have a paroxysm of outraged executive ability which would necessitate five weeks at Acapulco before he got back the hop on his high hard one.

「そうならないと烈火のごとく怒り出す。そんな偉そうなことをやっていればさすがに神経がおかしくなり、アカプルコで五週間ばかり羽をのばす必要が生じる。そうやって活力を取り戻し、また目いっぱい肩肘を張った生活に復帰するのだ」(村上訳)

「発作を起こす。怒りまくったお偉方にしか真似のできない発作だ。こいつはそういうタイプだ。アカプルコで五週間の休暇を取って生気を取り戻し、帰ってきてはひとに不快な思いをさせるタイプ」(田口訳)

「大物ならではの、ものすごい癇癪を破裂させるのだ。そして機嫌を直してその大物さん曰くの、難しく、厳しい相談事を引き受けてもらうには、アカプルコで五週間、なだめたりおだてたりしなければならないのだ」(市川訳)

翻訳をするくらいだから、英語には詳しいのだろうが、その自信があるため、つい辞書を引くことを怠り、よく分からない訳文をこしらえてしまう羽目になる。そのあたり、清水氏はよく心得ており、君子危うきに近寄らず、とばかりトバしてしまう。ここもそうだ。

市川訳の「難しく、厳しい相談事」の原文が“high hard one”。これは野球からきたスラングの一つ。「高めの威力のある球」とは、ストライクゾーンの高い位置、またはそれより上に送られる速球であり、そのスピードと打者の顔や頭への近さのため威圧的な球のこと。そこから、恐ろしいことや苦痛なことを表す表現になった。“hop on”は俗語で「叱る」だから、“before he got back the hop on his high hard one”は「彼が相手に苦痛を与える𠮟り方ができるようになるまで」という意味だ。さすがに田口訳は勘所をおさえている。

The old bar waiter came drifting by and glanced softly at my weak Scotch and water.

市川訳では「ウィスキーのオン・ザ・ロック」になっている“Scotch and water”は「スコッチの水割り」でしかない。わざとやってるのか、と疑いたくなる改変が市川訳にはどうしてこうも多いのだろう。

バーにアイリーンが現れ、マーロウの金髪女(ブロンド)に関する蘊蓄が披露される。

There are blondes and blondes and it is almost a joke word nowadays.

“There are A and A”というのは「よいAもあれば悪いAもある、同じAと言ってもいろいろだ」という意味。「珍しくない(清水)」、「掃いて捨てるほどいる(村上)」、「いくらでもいる(田口)」、「どこにでもいる(市川)」というのとは少しちがう。その悪いブロンドの一例がはじめに登場する。

All blondes have their points, except perhaps the metallic ones who are as blond as a Zulu under the bleach and as to disposition as soft as a sidewalk.

「どの金髪にもそれぞれ特色があった。ただ一つの例外は漂白した金属のような金髪で、その性格は舗道のように味わいがない」(清水訳)

「どの金髪にもそれぞれ長所がある。ただしメタリックな金髪は別だ。そんな漂白したズールー族みたいな色あいのものを金髪と呼べるかどうか怪しいものだし、性格だって舗装道路並みにごつごつしている」(村上訳)

「どんなブロンドにもいいところがある。ただしメタリックなブロンドは別だが。あれは肌を漂白したズールー族みたいなブロンドだ。性格のほうも歩道並みに″ソフト”と相場が決まっている」(田口訳)

「金髪にはそれぞれ個性があってそれぞれ違った魅力がある。但し、車のメタリック塗装みたいなブロンドは別だ。ズールー族が髪を漂白してでっち上げたような金髪でおまけに見た目はふわっとスタイリッシュだが舗装道路みたいにガチガチに固められている」(市川訳)

問題は“Zulu”にある。「ズールー族ズールー人」のことを指すのは言うまでもないが、黒人を軽蔑して言う俗語でもある。原文重視という観点からはそのまま訳すべきなのかもしれないが、清水訳のような先例もある。あえて忠実に訳す必要があるかどうか疑問が残る。もう一つは“disposition”だ。市川訳をのぞいて「性格」と訳されているが、「傾向、質(たち)」ではないか。“Zulu”がアフリカ系アメリカ人のことを指しているとすれば、漂白しても縮毛はそのままだ。これは人の性格ではなく髪質を指しているのではないだろうか。

There is the soft and willing and alcoholic blonde who doesn't care what she wears as long as it is mink or where she goes as long as it is the Starlight Roof and there is plenty of dry champagne.

清水訳では「ガラス天井の下」村上、田口訳では「高級(ナイト)クラブ」、市川訳は「星降るテラス」となっているが、頭文字が大文字であることから考えれば“the Starlight Roof”は実際にある店で、おそらくニューヨークのマンハッタンにあるホテル、ウォルドルフ=アストリアのナイトクラブのことだろう。当時ここの天井は可動式で、暖かい夏の夜には格納され、客は星空を眺めながらマティーニが飲めたという。

金髪談義についてはいろいろな意見もあるだろうが、個人的には冗長に感じられ、正直読んでいて楽しめない。ただ、かつて乗っていたことのある車については一言言っておきたい。

And lastly there is the gorgeous show piece who will outlast three kingpin racketeers and then marry a couple of millionaires at a million a head and end up with a pale rose villa at Cap Antibes, an Alfa-Romeo town car complete with pilot and co-pilot, and a stable of shopworn aristocrats, all of whom she will treat with the affectionate absent-mindedness of an elderly duke saying goodnight to his butler.

「アルファロメロのタウンカー」(市川訳)などという車は存在しない。ローマ字読みで読んでも“Romeo”は「ロメオ」だ。市川訳にはこういう初歩的なミスがやたらと目につく。蛇足ながら、タウンカーとは主にアメリカでの呼び方で、昔の馬車の形式を残した運転手と乗客の間が仕切られた大型車のことである。アルファロメオはもともと競走用に作られた車だ。オーナーが運転を他人に任せて後部に座るなんてことは考えていない。アルファロメオのオーナーなら自分でステアリングを握りたいと思うはずだ。そういう車に正運転手のみならず、控えの運転手まで備えて(complete with pilot and co-pilot)という部分を含め、金の使い方を知らない成りあがりを揶揄ったのだろう。

いよいよアイリーンがマーロウと顔を合わせる時が来た。立ち上がりかけて無様な格好のままでいるマーロウに彼女がかけた言葉。

"Please don't get up," she said in a voice like the stuff they use to line summer clouds with.  

「お立ちにならないで」と、彼女はやわらかい声で言った。(清水訳)

「どうぞお立ちにならないで」と彼女は言った。夏の雲を描くときに使う刷毛を思わせる声だった。(村上訳)

「どうぞ立ち上がらないで」夏雲の輪郭線を描くときに使う画材のような繊細な声だった。(田口訳)

「どうぞそのままで」とその女性は言ったが、その口調はまるで夏の雲に整列、と命令するように、あからさまにどうでもいいといった調子だった。(市川訳)

“line”には村上、田口訳のように「描線、輪郭線」の意味がある。しかし、声の様子を表現するときに画材を持ち出すのは、あまりうまいやり方とは思えない。まだ、市川訳のように“line”を「並べる」と取る方が理に適っている。ただ、「命令するように、あからさまにどうでもいいといった調子」というのは解釈が恣意的で納得がいかない。

“silver lining in the clouds”という言い回しがある。「(地上から見た灰色の)雲の後ろ側で銀色に輝く裏地」という意味で、雲に遮られていてもその裏には陽が指していることをいう。比喩的には「希望の兆し」を表す。“line”と“clouds”が並んでいたら頭に浮かぶのはこの文句だ。“line〜with”は、「(~に)裏をつける、(〜を)裏打ちする」という意味だ。マーロウとスペンサーの話し合いは雲行きが怪しくなりかけていた。そこにアイリーンから声がかかった。あまりの美しさにしびれたようになっているマーロウには、立ちこめた暗雲の裏に銀色の裏地が見えた気がしたのではないか。うまくいけばアイリーンと親しくなれるかもしれない、という希望の兆しを感じさせてくれる声だったのかもしれない。

アイリーン・ウェイドから渡された名刺について。

“It was an engraved card, but not a formal calling card, because it had an address and a telephone number on it.”

「浮きぼりの印刷の名刺だったが、住所と電話番号が刷りこんであるから、訪問用の正式なものではない」(清水訳)

「立派な浮き彫り印刷だったが、社交用のしるし(傍点三字)だけの名刺ではない。住所と電話番号がちゃんと記されていた」(村上訳)

「エンボス加工されたものだったが、書かれているのは住所と電話番号だけのごく普通の名刺だった」(田口訳)

「見ると浮出し印刷の名刺だった。けれどもビジネス用ではなかった。自宅の住所、電話番号と名前が印刷されていた」(市川訳)

電話が普及していない時代、相手の家を訪問する際には名前だけが記された社交用の名刺を訪問先の執事に手渡すのが正式な儀礼とされていた。これが社交用の名刺即ち“formal calling card”だ。時移り、当人同士が名刺交換するようになると、ビジネス用に役職や会社名が印刷されたものが現れる。これがビジネス用名刺“business card”である。時代が変わるにつれ、名刺を取り巻く事情も変化し、名刺が持つ本来の意味が分からなくなってくるのがよく分かる。皮肉なことに清水訳が最も原文に近い。

何をしても心愉しまないマーロウがテレビのコマーシャルについて触れた言葉。

And the commercials would have sickened a goat raised on barbed wire and broken beer bottles.

「そして、あいだにはさまれた広告は鉄条網とビールびん(傍点二字)の破片で育てた山羊でさえ病気になりそうなひどいものだった」(清水訳)

「そして間に入るコマーシャルときたら鉄条網とビール瓶の破片を餌に育てられた山羊たちでさえ身体を壊してしまいそうな代物だった」(村上訳)

「さらにコマーシャルはと言うと、鉄条網とビールびんのかけらを餌にして育てられた山羊すら腹を壊しそうな代物だった」(田口訳)

「合間に入るコマーシャルときたら有刺鉄線とビール瓶のかけらをベッドにして育った筋金入りの鈍感野郎でさえ耐えられないしろものだった」(市川訳)

あらためて、この章を読んで感じたのは、清水訳の精度の高さだった。分からない部分は無理に訳さず、理解できるところは原文に忠実に訳す「述べて作らず」の態度を貫いている。それに比べると、村上訳は本人が作家であるせいもあってよく分からない部分は自分が「作って」しまうところがある。久方ぶりの新訳を謳った村上訳につられたのか、田口訳はもろにその波をかぶっている。市川訳はそれまでの訳から距離を置いているのはわかるが、「作る」点においては村上訳さえかなわない。

“raised on〜”は「〜で育つ」という意味だ。”raised on baseball”なら「野球に親しんで育つ」くらいの意味で、生育環境について語る場合に使われる。清水訳なら「鉄条網とビールびんの破片(の中)で育てた」と読めなくもない。だが、村上訳になると、この山羊は「鉄条網とビールびんのかけら」を食べさせられたことになる。いくら誇張した表現が好きなチャンドラーでもガラス片を餌にしようとは思わない。瓶の破片は土塀の上に埋め込んで
使う、鉄条網の同類。つまり、生き物に対する思いやりを欠いた状況下で育った、という意味だ。市川訳はさすがに食べさせはしないようだが、山羊を飼うのに有刺鉄線と瓶のかけらをベッドにする必要がどこにあるというのか。

テレビを消した後、寝る前に一服するマーロウ。いつもとは違うタイプの煙草らしいが…。

I cut it off and smoked a long cool tightly packed cigarette. It was kind to my throat. It was made of fine tobacco, I forgot to notice what brand it was.

「私はテレビを切って、さわやかな味のする、かたい包装の長いタバコに火をつけた。のどを刺戟しないタバコで、良質の葉からつくられたものだ。名前を見るのは忘れた」(清水訳)

「テレビを消し、密に巻かれたクールな長いシガレットを吸った。それは喉に優しかった。どういうブランドだったか見忘れてしまったが」(村上訳)

「私はテレビを消し、きつく巻かれたメンソール味のロングサイズの煙草を吸った。咽喉にやさしい煙草だ。煙草の葉がいいのだ。ブランド名は忘れたが」(田口訳)

「テレビを消して冷蔵庫に保存してあった新品のタバコを取り出し、封を切り一服した。いがらっぽいところがなく、喉に優しかった。上質なタバコの葉が使われていた。銘柄を見るのを忘れた」(市川訳)

“smoked a long cool tightly packed cigarette”が訳者によってどれほど解釈が異なるかがよく分かる。清水訳の穏当さがよく分かる。村上訳は“It was made of fine tobacco”が抜けているし、田口訳は“cool”が勝手に「メンソール味」にされている。市川訳は“long cool”を「冷蔵庫に保存してあった」、“tightly packed”を、「新品の」(未開封だからぎっしり詰まっている)と解釈したのだろう。なかなかユニークな発想だが、ハードボイルドの探偵が煙草を冷蔵庫に保存する姿は想像し難い。村上訳の「クールな」は翻訳としては安易だと思うが、案外、いちばん原文に忠実な訳かもしれない。