marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

四冊の『長い別れ』を読む

"I'm sorry for ~"は「~して申し訳ない」

4

【訳文】

私たちが最後にバーで飲んだのは五月のことで、時刻はいつもより早く、四時をまわったばかりだった。彼は疲れて痩せているように見えたが、おもむろに笑みを浮かべてあたりを見まわした。

「夕方に開けたばかりのバーが好きなんだ。店の中の空気はまだひんやりときれいで、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡に向かい、ネクタイが曲がっていないか、髪が乱れていないか最後のチェックをしている。カウンターの後ろの棚にきちんと並んだボトルや、美しく輝くグラス、満を持した期待感が好きだ。バーテンダーがその夜の最初の一杯を作り、まっさらなコースターの上に置き、小さくたたんだナプキンを添えるのを見ているのが好きだ。その一杯をゆっくり味わうのも好きだ。静かなバーで静かに飲む最初の一杯――何物にも代えがたい」

私は同意した。

「アルコールは恋愛に似ている」彼は言った。「初めてのキスで魔法にかかり、二度目で懇ろに、三度目で日課になる。それから後は女の服を脱がせるだけだ」

「それのどこがいけない?」私は訊いた。

「興奮を求めるにはいいものだろうが、不純な感情だ。美的な意味で不純だ。何もセックスを嘲笑しようというんじゃない。必要なもので、醜いものである必要もない。しかし、常に大変な努力をしてやりくりしなければならない。それを魅惑的なものにしようとすると、何億ドル規模の産業になり、その分コストもかかる」

彼はあたりを見回して欠伸をした。「近ごろよく眠れていなくてね.。ここはいいところだが、しばらくすると酔っ払いでいっぱいになる。大声で話し、笑い、女どもは手を振り、顔をしかめ、安物のブレスレットをチリンチリン鳴らし、魅力を売り込みにかかるだろう。しかし、夜が更けるにつれ、その魅力はかすかながら紛れもない汗の匂いを放ちはじめる」

「そうむきになるなよ」と私は言った。「女たちだって人間だ。汗もかけば、汚れもするし、トイレにだって行かなきゃならない。きみは何を期待してるんだ。薔薇色の靄の中を舞う金色の蝶々か?」

彼はグラスを空けて逆さにし、ゆっくりとグラスの縁にたまっていった水滴が、震えて落ちるのを見つめた。

「彼女にはすまないと思っている」 と彼はゆっくり言った。「彼女はどうしようもない尻軽女だ。ひょっとしたら、ぼくも心のどこかで彼女のことが好きなのかもしれない。いつか彼女がぼくを必要とするときが来るだろう。そのとき損得抜きで彼女のまわりにいるのはぼくくらいのものだ。でも、そのときには、とうにお払い箱になってることだろう」

私はただ彼を見つめ、ややおいて言った。「君は自分を売り込むことに長けている」

「ああ、たしかに。ぼくは性格が弱い。根性もなければ野望もない。真鍮の指輪を手にして、金でないと知ってショックを受けてる。ぼくのような男は、人生でたった一度だけ、空中ブランコの完璧な離れ業をする瞬間がある。そして、残りの時間は、歩道から側溝に落ちないように過ごすのさ」

「いったい何が言いたいんだ?」私はパイプを取り出し、煙草の葉を詰め始めた。

「彼女は怯えてる。心底怯えてるんだ」

「何を?」

「わからない。この頃はあまり話をしない。父親かもしれない。ハーラン・ポッターはとんでもない冷血漢だ。うわべはヴィクトリア朝風に気どって見せているが、中身はゲシュタポの殺し屋のように無慈悲だ。シルヴィアは身持ちが悪い。彼はそれを知っていて、それを嫌っているが、どうすることもできない。彼は待ってるんだ。もし、シルヴィアがスキャンダルに巻き込まれたら、彼女を真っ二つに引き裂いて、それぞれを千マイル離れた場所に埋めるだろう」

「君は彼女の亭主じゃないか」

彼は空のグラスを持ち上げると、テーブルの縁に強く打ちつけた。びしっという音を立ててグラスは割れた。バーテンダーはそれを見ていたが、何も言わなかった。

「こんなふうにね、きみ、こんなふうに。ああ、お説の通り、ぼくは亭主だ。記録上ではそうなっている。ぼくは三段の白い階段であり、大きな緑の玄関ドアであり、一度長く二度短く鳴らす真鍮製のノッカーであり、客を百ドルの娼館に招き入れるメイドなんだ」

私は立ち上がり、テーブルにいくらか金を置いた。「今日の君はしゃべり過ぎだ」と私は言った。「それにきみが自分について言ったことはあんまりだよ。またいつか会おう」

私は彼をそこに残して店を出た。バーによくある弱い明りでも、彼がショックを受けて蒼ざめているのが分かった。彼が私の背に何やら声をかけたが、私は足をとめなかった。

十分後、私は後悔した。しかし、その時はどこやら別の場所にいた。それ以来彼は私のオフィスに来なくなった。全然、ただの一度も。痛いところを突いてしまったのだ。

その後、ひと月の間、彼に会うことはなかった。朝の五時だった。まだ明るくなり始めたところだった。玄関のベルがしつこく鳴り響き、私はベッドから起き上がった。私は廊下を突っ切り、リビングルームを横切り、ドアを開けた。彼は一週間も眠っていないような顔で立っていた。襟を立てた薄手のコートを着て、震えているようだった。暗いフェルトの帽子を目深に被っている。

手には銃が握られていた。

【解説】

マーロウとテリー・レノックスがバーで酒を飲み交わす最後の夜。いつもより少し早い宵のうちのバー。開店直後のバーの良さを語るレノックスの名セリフが有名だ。これを読んで以来、好きなバーを訪ねるなら開店直後に、と思い定めたものだ。

"I like bars just after they open for the evening. When the air inside is still cool and clean and everything is shiny and the barkeep is giving himself that last look in the mirror to see if his tie is straight and his hair is smooth. I like the neat bottles on the bar back and the lovely shining glasses and the anticipation.I like to watch the man mix the first one of the evening and put it down on a crisp mat and put the little folded napkin beside it. I like to taste it slowly. The first quiet drink of the evening in a quiet bar--that's wonderful,"

 “the anticipation” とは何か。辞書には「予想、予測、予感、期待、希望」とある。清水訳では「酒のびん(傍点二字)がきれいにならび、グラスが美しく光って、客を待っているバーテンが……」と、次の文とからめて「客を待って」と意訳されている 。村上訳では「バーの背に並んでいる清潔な酒瓶や、まぶしく光るグラスや、そこにある心づもりのようなものが僕は好きだ」。

田口訳は「カウンターの中の棚に並んだ洒落たボトルも好きだ。輝く可愛いグラスも。何かを期待させるところもいい」と、原則通り一文を一文で訳すのではなく、三つに分けて訳している。問題の  “the anticipation” に村上氏は「心づもりのようなもの」という含蓄のある訳語をあて、田口氏は辞書にある通りの「期待」をあてている。

“the anticipation” は、やるべきことはすべて終え、あとはその夜の最初の客を待つばかりとなったバーの持つ、期待に満ちた緊張感のことをいうのだろうが、それをボトルやグラスという無機物と並べて、一文にまとめようとすると難しい。村上訳は原文に近いのだが、「心づもりのようなもの」というのではいかにも弱い。田口訳の「何かを期待させるところもいい」となると、今度は期待するのが客の側になってしまう。ここは、「準備はできている。さあ、いつでも来い」と客を待つバー側の期待感と取りたい。

『私の好きなもの』という歌があったが、このレノックスの名ゼリフがそれになっている。“I like”にはじまる文が全部で四つ。後半の二つは “I like to” になっている。つまり、前半には店を開けたばかりのバーの持つ好ましい佇まいが、後半には、そこで自分がとる(好きな)行動が列挙されているわけだ。では、後半の部分をそれぞれの訳で見てみよう。

清水訳はこうだ。「客を待っているバーテンがその晩の最初の一杯をふって、きれいなマットの上におき、折りたたんだ小さなナプキンをそえる。それをゆっくり味わう。静かなバーでの最初の静かな一杯――こんなすばらしいものはないぜ」

村上訳は「バーテンダーがその日の最初のカクテルを作り、まっさらなコースターに載せる。隣に小さく折り畳んだナプキンを添える。その一杯をゆっくり味わうのが好きだ。しんとしたバーで味わう最初の静かなカクテル――何ものにも代えがたい」

田口訳は「バーテンダーがその夜最初のカクテルをつくり、折り畳んだ小さなナプキンが隣に添えられたまっさらなコースターの上に置くのをただ見ているのも。その飲みものをゆっくり味わうのも。静かなバーでの静かな最初一杯――すばらしいのひとことに尽きる」

清水訳は一言の「好きだ」もなく、村上訳はひとつだけ。田口訳は前半の初めと終わりに一度ずつ「好きでね」、「好きだ」と書いた後はそれを使わずに「〜ところもいい」と「も」で終わることで処理している。「好きだ」の繰り返しが鼻についたのだろう。こなれた訳しぶりかもしれないが、愚直なまでに “I like” を、文頭に置くレノックスの口吻が伝わってこないきらいがある。

レノックスがここで言いたいのは、何事も初めは美しいが、時が経つにつれ、そこには厭わしい現実が入り込み、美しかったはずのものが姿を変えてしまう。「ぼく」が好き(I like)なのは、ものごとが始まったばかりの無垢で清潔な瞬間なのだ、ということだ。物語が進行するにつれて、レノックスの胸中にあったものが何であったかが、読者にも分かる仕掛けだが、ここでは、さすがのマーロウも気づいてやれない。

"I haven't been sleeping well. It's nice in here. But after a while the lushes will fill the place up and talk loud and laugh and the goddam women will start waving their hands and screwing up their faces and tinkling their goddam bracelets and making with the packaged charm which will later on in the evening have a slight but unmistakable odor of sweat."

名詞の“lush”は「大酒飲み」のこと。ここで気になるのは“the packaged charm” だ。これまでの訳を見てみると、清水訳は「めずらしくもない魅力を発散しはじめる」。村上訳は「かたどおりの魅力を振りまき始める」。田口訳は「パッケージされた魅力を振り撒きはじめる」となっている。どうやら三氏とも “packaged” を「出来合いの」という意味に解釈しているようだ。「パック旅行」(package tour)からの類推だろうか。

しかし、個性のない手垢にまみれた、という否定的な物言いをした後で、わざわざ、「夜も更ければ、かすかながら汗のにおいが混じる」と、屋上屋を重ねるような否定的な言い方をするだろうか。実は、動詞 “package”には「(人目を引くように〜を)提示する、宣伝する」「(人・商品などを)(…として)見せる、売り込む」という意味がある。“the packaged charm” とは「(宣伝用に用意された)魅力」というような意味ではないか。

そのほか、“packaged” には「酔っ払い(米俗語)」の意味もあり、“charm” は「ブレスレットについている小さな鈴」のことでもある。チリンチリンと鈴を鳴らしながら腕を振り、顔をしかめる、“goddam women” には夜の酒場にたむろする、その手の女性イメージが集約されている。単純な単語にいくつもの意味を重ねる、チャンドラーならではの複層的なレトリックを駆使した文章になっている。

"I'm sorry for her," he said slowly. "She's such an absolute bitch. Could be I'm fond of her too in a remote sort of way. Some day she'll need me and I'll be the only guy around not holding a chisel. Likely enough then I'll flunk out."

"I'm sorry for her," だが、「彼女が気の毒でならない」(清水訳)、「彼女を哀れに思う」(村上訳)、「彼女が哀れでならない」(田口訳)とほぼ三氏とも同じ訳で、どうしようもない女を憐れんでいる、という訳になっている。ただ、“I’m sorry for 〜”は「〜して申し訳ない」という意味があり、すでに起こった出来事に対して使われるものであることを考えると、レノックスの言っているのは少しちがう意味ではないかと思う。

単に、気の毒だ、哀れだ、といった、突き放した物言いではなく、自分だけが力になってやれる一人の人間であるのに、自分の力が必要になるであろうときまで一緒にいてやることができない。それまではもちそうにない、と自分でもわかっているからだ。責任を感じているからこそ、「彼女にはすまないと思っている」という言葉が素直に口から出たのだろう。この時点でレノックスはシルヴィアのもとを去ることを考えている。そうしてさえいれば、その後の展開は変わっていたはずだ。レノックスの優しさが、あの事件を引き起こしたと言えるかもしれない。

テリー・レノックスは、マーロウに自分の置かれた窮状を察してもらいたかった。だからこそ、こうまであけすけに自分の立場を打ち明けたのだ。ところが、それが逆にマーロウを疎ませるもとになった。レノックスの自虐的な仄めかしがマーロウは好きになれなかった。誰であれ、自分の価値を貶める人間は好きになれない。それがマーロウという男だ。であるにせよ、この夜のマーロウは、ちょっと手厳しすぎた。弱っている友人にはもう少しなんとかしようがあったのではないだろうか。

四冊の『長い別れ』を読む



3

【訳文】

クリスマスの三日前、ラスヴェガスの銀行が振り出した百ドルの小切手が送られてきた。ホテルの用箋に書かれた短い手紙が添えられていた。私への感謝があり、メリークリスマスと多幸を祈ると続け、近いうちに会いたいと書いてあった。驚かされたのは追伸だ。「シルヴィアとぼくは二度目のハネムーンを始めたところだ。もう一度やり直したいからといって、どうか腹を立てないで、と彼女は言っている」

その続きは、新聞の社交欄の気取ったコラムに書いてあった。ふだんは目を通したりしないが、嫌いなものが底を突いたときだけ読むことにしている、

「テリーとシルヴィア・レノックスがラスヴェガスでよりを戻したという知らせに、記者は打ち震えています。シルヴィアがサンフランシスコとペブル・ビーチに居を構える大富豪ハーラン・ポッターの末娘であることは言うまでもありません。いま彼女はマルセルとジャンヌのデュオー夫妻に、エンシノの大邸宅を地下から屋根まで、破壊的なまでに最新流行のスタイルで改装させています。この十八室の小さな”小屋“は彼女の前夫カート・ウェスターハイムから結婚祝いに贈られたものであることは皆さんも覚えておられることでしょう。カートに何が起きたのか、気になります? それともお聞き及びでしょうか? 答えはサントロペにあります。氏はかの地に腰を落ち着けたとの噂です。また、きわめて高貴な血筋のフランスの公爵夫人と本当に愛らしい二人のお子さまの噂も聞いています。それから、ハーラン・ポッターは娘の再婚をどう考えているのか、とお尋ねになりたいかもしれませんが、それは推測するしかありません。ポッター氏は決してインタビューに応じないことで知られています。どこまで閉鎖的なのでしょうね、皆さま」

私は新聞を部屋の隅に放り投げ、テレビをつけた。社交欄の犬の反吐の後では、レスラーさえ見映えがした。だが、おそらく記事は事実なのだろう。社交欄は本来そうあるべきだ。

私はポッターが数百万ドルを投じた全十八室の小屋を思い描いてみた。デュオーによる最新の亜男根象徴主義の装飾を加味したのはいうまでもない。しかし、バミューダショーツ姿のテリー・レノックスがプールサイドでごろごろしながら無線電話片手に、シャンパンを冷やして雷鳥を炙るよう、執事に命じている姿はまったく思い浮かばなかった。どうして思い浮かべなきゃならない? ひとが誰かのテディベアになりたいなら、勝手にすればいい。ただ、二度と彼に会いたくなかった。とはいえ、いずれ会うことになるだろうと思っていた。あの忌々しい金の留め具のついた豚革のスーツケースのために。

雨のそぼ降る三月のとある夕べ、時刻は五時。私のつましい知の殿堂に彼がやってきた。彼は変わったように見えた。歳をとり、全くの素面で鹿爪らしく、美しいまでに落ち着いていた。人生に柔軟に対応することを覚えた男のように見えた。生牡蠣色のレインコートを羽織り、手袋をはめ、無帽だった。白髪は鳥の胸毛のようになめらかだった。

「静かなバーでちょっと一杯やらないか」と彼はまるで十分も前からそこにいたかのように言った。「もし、時間があるようなら」

握手はしなかった。二人の間では一度もしたことがなかった。英国人はアメリカ人のようにいつも握手をするわけではない。英国人ではなかったが、彼には彼なりの流儀があった。

私は言った。「家に寄ってきみの派手なスーツケースを取ってこよう。気になってたんだ」

彼は首を横に振った。「預かってくれると助かるんだが」

「どうしてだ?」

「気持ちの問題だ。迷惑かい? あれはぼくがまだ役立たずの穀潰しになっていなかった頃を思い出させるんだ」

「ふざけるな」と私は言った。「だが、それは私には関係のないことだ」

「盗まれるかもしれないことが気になっているのなら…」

「それもまた私には関係ないことだ。さあ、飲みに行こう」

彼が運転する赤錆色のジョウェット・ジュピターに乗って、ヴィクターの店に行った。薄っぺらいキャンヴァス地の幌の下には二人分のスペースしかなかった。内装は淡い色の革張りで、金具は銀製のようだ。車にうるさい方ではないが、こいつには少々そそられるものがあった。セカンドで六十五マイル出る、と彼は言った。ずんぐりしたシフト・レバーはかろうじて彼の膝に届くくらいの小ささだ。

「しかも四速だ」と彼は言った。「こういったものを自動化する技術はまだ発明されていない。本当に必要なんだろうか。上り坂でもサードで発進できるんだし、いずれにせよ混雑する道路でそれ以上のギアを使うことはまずないんだから」

「結婚の贈り物か?」

「ただの  “たまたまショーウィンドウで見かけたものだから” プレゼントさ。ぼくはとっても甘やかされてるんだ」

「いいね」と私は言った。「値札がついていなければ」

彼は私をちらりと見てから、濡れた舗道に視線を戻した。二連のワイパーが小さなフロントウィンドウの上で静かな音を立てていた。「値札? 何にでも値札はついてるさ、きみ。ぼくが幸せじゃないとでも?」

「すまない。言い過ぎた」

「金があるんだ。どうして幸せまで欲しがらなきゃいけない?」彼の声には辛辣さがあった。初めて耳にするものだ。

「酒の方はどうなってる?」

「完璧なまでにエレガントだ。どういうわけか、うまく付き合うことができるようになった。先のことはわからないけどね」

「多分、根っからの酔っ払いじゃなかったんだろう」

私たちはヴィクターの店のバーの片隅に座ってギムレットを飲んだ。「こっちじゃ、作り方を知らないんだ」と彼は言った。「ライムかレモンのジュースとジンに、ほんの少しの砂糖とビターを入れたものをギムレットだと思ってる。本当のギムレットはジンとローズ社のライムジュースが半々で、他には何も入れない。マティーニなんかぐうの音も出ないね」

「酒にうるさかった試しがないんだ。ランディ・スターとの仲はどうなってるんだ? こわもてというのがぴったりな男と聞いているが」

彼は背を後ろに凭せかけ考え込むように私を見た。「その通りだよ。それを言うなら、やつらはみんなそうだ。でも、彼はそれを感じさせない。ハリウッドで同じような稼業の連中を何人か知ってるが、やつらはいかにもそれらしく振舞っている。ランディはそうじゃない。ラスヴェガスでは真っ当なビジネスマンで通っている.。今度行ったら会うといい。仲よくなれるよ」

「それはありえない。ごろつきは嫌いだ」

「ただの言葉の問題だよ、マーロウ。ぼくらはそんな世界にいるんだ。 二度の戦争がああいう連中を生んで、これから先も消えてなくなることはない。 ランディとぼくともう一人は戦争で三人一緒に死にかけた。 それでぼくらの間に絆のようなものが生まれたんだ」

「だったらどうして、助けが必要なときに彼を頼らなかったんだ?」

彼はグラスを空け、ウェイターに合図した。「ぼくが頼めば、彼は断れないからさ」

ウェイターがお代わりを持ってきたとき、私は言った「とりあえず話してみることだ。相手の立場になってみろよ。きみに借りがあるなら。借りを返すチャンスが欲しいだろう」

彼はゆっくり頭を振った。「きみの言うとおりだ。だから、彼に仕事をまわしてもらった。その仕事に就いている間は真面目に働いた。ただし、好意や施しを求めるのはお断りだ」

「赤の他人からなら受け取るだろう」

彼は真っ直ぐに私の目を見た。「赤の他人は、何も聞かないふりをしてつきあってくれる」

二人とも、ギムレットを三杯飲んだ。ダブルではなかったが、彼には何の変化も見られなかった。それだけ飲めば本格的に酔っ払い始めるものだ。どうやら悪習は治ったらしい。

それから、彼は車でオフィスまで送ってくれた。

「八時十五分から晩餐だ」と彼は言った。「そんなことができるのは大金持ちだけだ。今時それに耐えられるのは大金持ちの使用人だけさ。素敵な連中が大勢やってくるよ」


それ以来、彼は五時頃に立ち寄るのが習慣になった。 私たちはいつも同じバーに行くわけではなかったが、他のどこよりもヴィクターの店に行くことが多かった。私の知らない何かを思い出させるものが、あの店にはあったのかもしれない。彼は深酔いすることはなかった。それには自分でも驚いていた。

「三日熱マラリアのようなものだね 」と彼は言った。「発症しているときはきついんだが、発症していないときは、まるで罹っていないみたいだ」

「わからないのは、きみのような特権階級が私立探偵なんかと飲みたがることだ」

「謙虚な性格なのか?」

「いや、とまどっているだけだ。私はそれなりに人懐っこい方だが、我々は同じ世界に住んでるわけじゃない。きみがどこで遊び暮らしているのかさえ、エンシノということしか知らないんだ。家庭生活はさぞ充実してるんだろうな」

「家庭生活なんてもの、ぼくにははないね」

私たちはまたギムレットを飲んだ。客はまばらになっていた。飲まずにいられない連中が例によってバーのあちこちの椅子に陣取り、時間をかけてできあがりつつあった。最初の一杯にそろそろと手を伸ばし、何も倒さないように、その手を注視する類いの連中だ。

「よくわからないな。察しろとでもいうのか?」

「大作だが、中身がない。映画の連中がよく言うやつだ。シルヴィアは充分幸せだと思うよ、ぼくが傍にいなくてもね。僕らの世界じゃそんなことはたいして重要じゃない。そのために働いたり、かかる金の算段をしたりせずに済むのなら、やることは常にあるしね。本当は何も面白くないんだが、金持ちはそれを知らない。本当に楽しいことは何も知らないんだ。せいぜいが他人の女房を欲しがるくらいで、それさえ配管工の女房が居間に新しいカーテンを欲しがるのと比べたら、実にあっさりしたものだ」

私は口をはさまず、彼にしゃべらせておいた。

「たいていの場合ぼくは暇つぶしをしてる」と彼は言った。「これがなかなか大変でね。テニスを少々、ゴルフを少々、水泳と乗馬を少々、そしてこれこそ無上の喜びといえるのが、シルヴィアの友人たちが、迎え酒が飲めるランチタイムまで、二日酔いに耐え続ける様子を眺めることだ」

「きみがヴェガスに発った夜、彼女は、酔っ払いは嫌いだ、と言ってたが」

彼はねじれた笑みを浮かべた。彼の傷痕のある顔に私は慣れてしまっていた。だから、表情の変化がその片側のぎこちない動きを強調したとき、あらためてそれに気づかされた。

「彼女が言うのは金のない酔っ払いのことで、金があれば、ただの大酒飲みだ。ヴェランダで吐かれても、執事が片づけるだけのことだ」

「何もなりゆきにまかせる必要はなかったんじゃないか」

彼は酒を飲み干すと立ち上がった。「もう行くよ、マーロウ。ぼくはきみを退屈させるだけじゃ足りず、どうやら自分まで退屈させているようだ」

「べつに退屈はしていない。話を聴くのが私の生業だ。それにそのうち、きみがどうしてプードルみたいに飼われるのが好きなのかわかるかもしれない」

彼は指先で傷痕にそっと触れ、よそよそしい笑みを浮かべて言った。「きみは、なぜ彼女がぼくを傍に置きたがるのかを考えるべきだよ。ぼくがなぜ彼女の傍にいて、サテンのクッションの上で辛抱強く頭を撫でられるのを待っているのかではなくね」

「きみはサテンのクッションが好きなのさ」私はそう言って、彼と一緒に帰ろうと立ち上がった。「シルクのシーツとか、慇懃な笑みを浮かべた執事を呼ぶためのベルとかがね」

「そうかもしれない。ぼくはソルトレイクシティの孤児院育ちでね」

くたびれた夕暮れの中に繰り出すと、彼は歩きたいと言った。私の車で来ていて、その日に限って私の方が勘定書きに手を伸ばすのが早かった。私は彼が視界から消え去るのを見守った。薄霧の中に消える一瞬、店の窓灯りが彼の白髪の輝きをとらえた。

酔っぱらって、落ちぶれ果て、腹をすかせ、打ちのめされて、それでも誇り高い彼の方が私は好きだった。果たしてそうだろうか? もしかしたら私は自分の方が優位に立つのが好きなだけかもしれない。彼の生きる流儀はわかりづらい。私の仕事では、質問するべきときと、煮え立った相手がふきこぼれるまで待つべきときがある。優れた警官なら誰でも知ってることだ。チェスやボクシングの試合と同じで、攻め立ててバランスを崩さねばならない相手もいれば、ただ相手をしているだけで、勝手に自滅してくれる相手もいる。

尋ねさえすれば、彼は身の上話を聞かせてくれただろう。しかし、私はまだ彼がどうして顔に傷を負ったのかさえ尋ねていなかった。もし私が尋ね、彼が話してくれていれば、二人ばかりの人の命を救えたかもしれない。もしかしたら、の話だが。

【解説】

ヴェガスに行ったテリーから手紙が届き、彼が再婚した顛末を新聞で確認するマーロウ。社交欄の記事の中の一文はこうだ。

And whatever happened to Curt, you ask? Or do you?

清水訳は「そして、諸君はカートはどうなったと訊かれるにちがいない。いや、そんなことはお訊きにならんかもしれないが」。村上訳は「カートはどうしているのか、とみなさまはお尋ねになるかもしれませんね。あるいはお尋ねにならないかもしれませんが」と、清水訳を踏襲した解釈になっている。

田口訳は「では、カートはその後どうしたのか、彼には何があったのか、とみなさんは疑問に思われるかもしれません」と<Or do you?>の部分を省いている。文末に<…, you ask?>とつけ加えるのは、「聞きたい?」くらいのニュアンス。その後に<Or do you? >ときたら、「聞きたくない?」と訳したくなるが、否定形になっていないことに注目。つまり、「聞きたくない」ではなく、「それとも、もう知ってる?」ではないだろうか。

その記者が書いた記事の結びの一文。

How exclusive can you get, darlings?

清水訳はここをカットしている。村上訳は「並の人間にはなかなか真似のできないことですよね、みなさま」。田口訳は「読者のみなさま、氏はプライヴァシーをどこまでも大事になさる方なのです」。いずれもかなりの意訳になる。どうして普通に「どこまで閉鎖的なのでしょうね」と訳さないのか? ポッターは大富豪であるだけでなく新聞社のオーナーでもあるので、同じ業界にいる記者としては配慮した表現にならざるを得ないということか。アメリカの記者や編集者がそこまで忖度するものだろうか。

<exclusive>は「排他的な」という意味のほかに、「特権階級に限られた」という、一部の階層の人々(上流階級)に限定された場所、集団を指す形容詞である。この単語の選択には同じ業界にいながら、コメントの一つももらえない記者の鬱憤が感じられる。村上訳の「並みの人間にはなかなか真似のできない」や田口訳の「プライヴァシーをどこまでも大事になさる方」という言い方にも皮肉が感じられるが、ここは特権階級の排他的な態度に対する不満を読者に共感させたいところだ。

その社交欄の記事を読んだマーロウの感想は酷いものだが、それでも最後にこう呟く。

But the facts were probably right. On the society page they better be.

清水訳はここもカットしている。村上訳は「しかしたぶん書かれていることはすべて事実なのだろう。新聞の社交欄で嘘っぱちを書いたら、ただではすまない」。田口訳は「ただ、書かれていることは事実なのだろう。社交欄で事実を曲げてしまったら大変なことになる」。田口訳が村上訳を踏まえたものであることが見て取れる。

<better be>は<should be>(そうした方がいい)よりも強制力が強い言い方。「そうしなければならない」という意味。社交欄に限らず、新聞はどの紙面も事実を書いたものであるべきだ。とはいうものの、どこの新聞を読んでも事実を知ることのできない日本の現実を思うと、大手の新聞社には<they better be>とつぶやきたくなる。

マーロウが、エンシノの新築なった豪邸で暮らすテリーの姿を想像する場面。

But I had no mental picture at all of Terry Lennox loafing around one of the swimming pools in Bermuda shorts the butler by R/T to ice the champagne and get the grouse atoasting.

「しかしバミューダショーツ姿のテリー・レノックスが、プールの一つに陣取り、一日中ごろごろしながら執事に、シャンパンを冷やして雷鳥を炙るよう、無線電話で命じている姿はまったく思い浮かばなかった」

<loafing around one of the swimming pools>のところだが、清水訳は「プールのまわりをぶらぶら歩きながら」、村上訳は「プールのまわりを歩き」、田口訳は「プールサイドを歩きながら」としている。<loaf>には「ぶらつく」の意味もあるが、ただ歩き回るのではなく「のらくら遊び暮らす」という意味がついて回る。マーロウが思い浮かべているのは、邸宅内にいくつもあるプールのうちの一つに腰を据えて、椅子の上でごろごろしながら、自分は動かずに無線電話で執事にあれこれ命じている、テリーの姿だ。

チャンドラーの巧いなあと思うところは、テリーの豪勢な暮らしぶりをこんなにもくわしく描写しておいて、<I had no mental picture>とあっさり打っちゃりを食わすところだ。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり」と同じ伝で、いくら打ち消してみせても、一度描かれた情景は、読者の頭の中にイメージとして成立してしまう。あざといやり方だ。

テリーの現状に愛想をつかしたマーロウの捨て台詞。

If the guy wanted to be somebody's woolly bear, it was no skin off my teeth.

清水訳は「彼が誰かのおもちゃ(傍点四字)の熊になろうと考えたところで、私はどこも痛いわけではなかった」。<woolly>(羊毛の、もじゃもじゃの)という部分があまり生きていない。村上訳は「もし一人の男が誰かのぬいぐるみの熊になることを望んだとしても、私の知ったことではない」。田口訳は「ひとりの男が誰かのテディベアになりたがろうとどうしようと、私の知ったことではない」だ。

<woolly bear>を辞書で引くと「毛虫(ヒトリガの幼虫)」と出てくる。清水氏がよく「毛虫」としなかったものだ。<somebody's>とあるので、毛虫ではないと考えたのかもしれない。ただ、その前にマーロウが想像しているのは、プールサイドで「ぶらぶらする」テリーなので、「毛虫」説にも捨てがたいものがある。<no skin off my teeth>は「私の知ったことではない」という意味でよく使われるフレーズ。<teeth>のところが<back>や<nose>であったりするが、意味は同じだ。

すっかり様変わりしたテリー・レノックスがマーロウのオフィスを訪ねてくる。

It was five o'clock of a wet March evening when he walked into my down-at-heels brain emporium.

「私のつましい知の殿堂」(my down-at-heels brain emporium)だが、要はマーロウのオフィスのことだ。<down-at-heels>は「かかとがつぶれた(靴)」(みすぼらしい)という意味。<emporium>は「大型百貨店、商業の中心地」を指す。清水訳は「私のオフィス」と、そのものずばり。これでいいようなものだが、こういった大仰な物言いは、チャンドラー一流の皮肉なので、村上訳は「私のつつましい知的労働の職場」、田口訳も「私のみすぼらしい頭脳労働の館(やかた)」と、おつきあいをしている。億万長者の娘婿の座に返り咲いたテリー・レノックスに対する嫌味である。

テリーの様変わりを描写した一文。

He looked like a guy who had learned to roll with a punch.

それまでの彼の人生に対する不器用な対応を踏まえて「人生に柔軟に対応することを覚えた男のように見えた」と訳したが、例によって清水訳はこの部分をカットしている。村上訳は「逆境をやりすごすすべを習得した人物のように見えた」。<roll with a punch>は「(ボクサーが)パンチをかわす」ことから「逆境に耐える、困難を乗り越える」という意味になる。田口訳は「世間のパンチのかわし方を心得た男に見えた」と直訳に近い訳し方だ。

テリー・レノックスが浴びるように酒を飲み、だらしない無様なすがたを見せていたのが何によるのかをこの時のマーロウは知らない。単に金がないだけではないのは豪華なスーツケースを持っていることからも分かる。彼を苦しめていたのは、自業自得という言葉が彼の口から洩れたことがあるように、すべては彼自身の問題である。何かは知らないが酒に溺れることで、それから逃げていたが、酒に頼るのをやめたことはその外見に現れていた。

飲みに行く前にスーツケースを取りに行こうというマーロウを、テリーがとめるところ。

He shook his head. "It would be kind of you to keep it for me."

英語の<shake one's head>は「頭(首)を横に振る」という拒否の意味を表す動作だ。ところが、清水訳は「彼は頭をふった」。村上訳は「彼は首を振った」。田口訳は「彼は首を振って言った」となっている。日本語で「首を振る」という場合、承認、賛成の意味を表す。これはまずいのではないか。辞書には注意書きがあり、「国によっては(例えば、ブルガリア、インド、パキスタンスリランカでは)、首を横に振ると、「はい」(肯定)の意思表示となる」と書いてあった。

この日、テリー・レノックスが乗って来た車が、ジョウェット・ジュピター。『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』の中で松原氏は、「[村上本]は Jowett Jupiterを “ジュピター・ジョウェット” とわざわざひっくりかえしに呼んでいて、さらに “最新の英国製のスポーツカーだ” と丁寧に解説をつけている」と書いているが、手許にある “The Long Goodbye”(Vintage Crime/Black Lizard)はこうなっている。

We went to Victor's. He drove me in a rust-colored Jupiter-Jowett with a flimsy canvas rain top under which there was only just room for the two of us. It had pale leather upholstery and what looked like silver fittings.

清水訳も田口訳も「ジョウェット・ジュピター」となっているので、村上氏は私と同じ版を原本にしていたのだろう。ジョウェット社製のジュピターという名の車なので、この順で呼ぶのが正しい。蛇足ながらもう一つ。“It had pale leather upholstery” を村上訳は「薄緑色の革の内装で」としているが、“pale” に「青白い」の意味はあっても「薄緑色」という意味はない。訳すとすれば「うすい色の(清水訳)」か「淡い色の(田口訳)」だろう。

ジョウェット・ジュピターは、英国製の小型オープン・ツーシーター。設計者はドイツ人のエヴェラン・フォン・エベルホルストで、アウディの前身である旧アウトウニオンでレーシング・カーを設計していた人物。そのせいか個性的な車で、1500cc水平対抗四気筒水冷エンジンを備えていた。ラリーやレースで好成績を上げ、“The Long Goodbye” が発表される少し前、1950〜1952年にかけ、ル・マンで三連覇を成し遂げている。

ヴィクターの店を出て、オフィスに帰る途中、テリーが言う。

"We have dinner at eight-fifteen," he said. "Only millionaires can afford it. Only millionaires' servants will stand for it nowadays. Lots of lovely people coming."

清水訳は「八時十五分に食事なんだ」、村上訳は「八時十五分に我々は夕食をとる」、田口訳は「八時十五分からディナーでね」となっている。ところが、その後にそれぞれ「金持ちじゃなくてはこんなばか(傍点二字)なことはしないよ」、「そんなことができるのは大金持ちだけだ」、「そんなことができるのは大金持ちだけで」と続く意味がよく分からない。

どうして八時十五分に夕食をとることが大金持ちでなくてはかなわないのだろう。どんな貧乏人でも、何を食べるかさえ問わなければ、八時十五分に夕食を食べることくらいできる。
最後に “Lots of lovely people coming.” とあることから、大勢の客が招待されていることがわかる。開始時刻が八時過ぎであることからも、これがただの食事ではなく「晩餐(会)」のことだとわかる。

再婚を契機にすっかり立ち直ったように見えるテリー・レノックスだが、何かを言うたびに言葉に辛辣な響きが混じるようになっていた。心の中にある鬱屈を吐き出すために、マーロウのと飲むのが新たな習慣になっていたのだが、腐るほどの金を持ちながら、鬱々として楽しめないテリーの内心をマーロウはわかってやることができなかった。後から振り返って、そのことを後悔するマーロウの口調には苦いものがある。

四冊の『長い別れ』を読む 

2

【訳文】

彼にまた会ったのは感謝祭の次の週だった。ハリウッド・ブールヴァードの店は、早くも高額の値札をつけたクリスマスのがらくたで埋まりはじめ、新聞は早めにクリスマスの買い物を済ませないと大変なことになると騒ぎ出していた。いずれにせよ酷いことになる。いつものことだ。

私のオフィスのある建物から三ブロックほどのところで、パトカーが二重駐車して、二人の警官がショーウィンドウ近くの歩道上の何かを見つめていた。その何かはテリー・レノックス、もしくは彼の成れの果てで、見られたざまではなかった。

彼は店頭に凭れていた。何かに凭れずにいられなかったのだ。喉元をはだけたシャツは汚れ、一部が上着からはみ出ていた。四、五日髭を剃っていないようだった。鼻はすぼまり、顔色は細く長い傷痕が目立たないほど青白かった。眼は吹き溜まりに空いた穴のようだった。パトカーの警官が今にもしょっぴくつもりでいるのは明らかだったので、急いで駆けつけて彼の腕をとった。

「しゃんとして歩くんだ」私はわざと乱暴な口をきき、横から片眼をつぶって見せた。「歩けるか? 酔ってるのか?」

彼はぼんやりとこちらを見て、片頬に小さな笑みを浮かべた。「今まではね」と言って、彼は一息入れた。「今は、ちょっと腹がへってる」

「わかった、とにかく足を出せ。もうトラ箱に半分入ってるようなものだ」

彼は私に身を任せつつ、自分でも歩こうと務め、舗道にたむろする人々の間を抜けて縁石にたどり着いた。そこがタクシー乗り場だった。私はドアを思いっきり引っ張って開けた。

「あっちが先だ」運転手はそう言って、親指で前のタクシーを指した。そして頭を巡らしてテリーを見て、「もし乗せてくれたらな」と言い足した。

「急を要するんだ。友だちが病気で」

「そうかい」と運転手は言った。「どっかよそで病気になるべきだったね」

「五ドル」と私は言った。「それで、美しい笑顔を見られるだろう」

「まあいいか」と運転手は言い、火星人の表紙の雑誌をバックミラーの裏にはさんだ。私が手を伸ばしてドアを開けてやり、テリー・レノックスを車に押し込むと、パトカーの影が反対側の窓ガラスをふさいだ。白髪の警官が下りてこちらにやってきた。私はタクシーを回り込んで彼と相対した。

「おい、ちょっと待ってくれ。どういうことだ? その汚れた洗濯物の中の紳士は本当にあんたの親友なのか?」

「今は友達を必要としている、とわかるくらいには親しい。そいつは酔っちゃいないよ」

「金がないんだろう、多分な」と警官は言った。彼が差し出した掌の上に、探偵免許証を載せた。彼はそれを見てこちらに返した。「おっと」と彼は言った。「私立探偵が客を拾ったってことか」声の調子が変わり、あたりがきつくなった。「あんたの素性はまあ分かった、ミスタ・マーロウ。で、そいつは誰なんだ?」

「名前はテリー・レノックス。映画業界の人間だ」

「そいつはいいや」彼はタクシーに身を乗り出し、後ろの席の隅にいるテリーをじっと見つめた。「ここのところ仕事をしていないようだな。それに、ここのところ家の中で寝てもいないようだ。浮浪者と言えなくもない。ということで、ご同行を願った方がよさそうだ」

「あんたの逮捕成績はそれほど悪くないはずだ」私は言った。「何しろ、ここはハリウッドなんだから」

彼はまだテリーに見入っていた。「あんたの友だちは何ていう名だ?」

フィリップ・マーロウ」テリーはゆっくり言った。「ローレル・キャニオンのユッカ通りに住んでる」

警官は車の窓から頭をひっこめ、こちらを振り向き、手真似をした。「こいつに教えることもできたはずだ」

「できたよ。でも、していない」

彼は一、二秒、私を見つめていた。「今回は見逃すとしよう」と彼は言った。「だが、通りで寝るのをやめさせろ」彼はパトカーに乗り、行ってしまった。

タクシーに乗り込み、三ブロックほど離れた私の駐車場まで行き、自分の車に乗り換えた。私は運転手に五ドル札を差し出した。彼は硬い表情で首を横に振った。

「メーター通りだ、お客さん。気が済まないのなら、一ドルもらおう。おれも食いつめてたことがある。フリスコでな。誰もタクシーで拾ってくれたりしなかった。つれない街さ」

「サンフランシスコ」私は機械的に返した。

「おれはフリスコって呼ぶ」彼は言った。「少数民族なんかくそ食らえってんだ。これ、ありがとな」彼は一ドル札をとって行ってしまった。

犬も食わないほどでもないハンバーグを作るドライブインに寄り、テリー・レノックスにハンバーガーを二個、ビールを一本あてがってやってから、家に帰った。階段はまだきつそうだったが、彼はにやりと笑い、息を喘がせながら上った。一時間後、髭を剃り、風呂に入った彼は、やっと人間に戻ったように見えた。私たちは座って、ごく弱めの酒でちょっと一杯やることにした。

「私の名前を憶えていたのはラッキーだったな」と私は言った。

「忘れないようにしてた」と彼は言った。「きみのことも調べたよ。できないと思ったのか?」

「それならなんで電話してこない? 私はいつでもここにいる。オフィスだってある」

「どうしてきみの手を煩わさなきゃならない?」

「きみは誰かの手を煩わせずにはいられないようだ。友だちが多いようにも見えない」

「友だちはいる」と彼は言った。「曲がりなりにも、ね」彼はテーブルの上でグラスを回した。「でも、助けを求めるのは簡単じゃない......自業自得の場合には、なおさら」 彼は疲れた笑みを浮かべて見上げた。「そのうち酒をやめられるかもしれない。酒飲みの口癖だね」

「三年はかかる」

「三年?」彼は驚いたようだった。

「たいていは。世界がちがうから。そこの色彩はより淡く、音もより静かで、それに慣れなければならない。逆戻りすることも考えなければならない。よく知っていた人たちがみんな少し変になり出す。きみは彼らのほとんどが気にいらず、彼らもきみのことを好きでなくなる」

「それならたいして今と変わらない」と彼は言った。彼は振り向いて掛け時計を見上げた。「二百ドルはするスーツケースをハリウッドのバスターミナルに預けてある。それを受けだして安いのを買い、元のを質に入れたら、ヴェガスへの旅費くらいにはなるだろう。あそこに行けば仕事につける」

私は何も言わなかった。ただうなずいて、そこに座って酒をちびりちびりやっていた。

「もう少し早く思いつきそうなものだ、と思ってるんだろう」彼は静かに言った。

「何か裏がありそうだが、それは私の知ったことじゃない、と考えてる。仕事は確かなのか、それともただの希望か?」

「確かだ。軍隊で一緒だったやつがあそこで大きなクラブをやっている。ザ・テラピン・クラブ。違法なこともしてる。あそこの連中はみんなそうだ。それ以外の点ではいいやつだ」

「バス代その他は何とでもできる。それでも、しばらくは長続きするもののために使いたい。電話したほうがいいんじゃないか」

「ありがたいが、その必要はない。ランディ・スターはぼくをがっかりさせたりしない。それは請け合うよ。スーツケースは質屋で五十ドルにはなる。前にやったことがあるんだ」

「いいか」私は言った。「必要な分は用立ててやる。私が情にもろい薄ら馬鹿だからじゃない。申し出を受け入れていい子にしててくれ。きみにこれ以上煩わされたくないからだ。どうにもきみのことが気にかかるんだ」

「本当かい?」彼はグラスの中を覗き込んだ。飲み物はなめているだけだった。「ぼくらが会ったのはたったの二度だ。そして、どちらのときもきみは聖人君子のようだった。何がそんなに気にかかるんだ?」

「この次、きみを見つけたら、もう救い出すことができないようなトラブルに見舞われている気がするんだ。どうしてだか知らないが、そんな気がする」

彼は二本の指先でそっと顔の右側に触れた。「たぶんこれのせいだ。ちょっと薄気味悪く見えるかもしれないが、これは名誉の負傷だ。というか、その結果なんだ」

「そんなことじゃない。そんなものは全然気にならない。私は私立探偵だ。きみは私が解決する必要のない問題だ。しかし、きみは問題を抱えている。勘だよ。特上の洗練された言葉がいいなら、先見の明と呼べばいい。ザ・ダンサーズで、あの子はきみが酔っ払ったからって見捨てたわけじゃないだろう。彼女も何か感じるものがあったのかもしれない」

彼はかすかに微笑んだ。「彼女とはかつて結婚していたんだ。名前はシルヴィア・レノックス。金のために結婚したんだ」

私は彼をにらみつけて立ち上がった。「スクランブルエッグでも作るよ。何か腹に入れた方がいい」

「待ってくれ、マーロウ。きみはこう思ってるんだろう。ぼくが食いつめてて、シルヴィアがうなるほど金を持ってるのなら、なぜ数ドルくらい無心できないのかって。きみは、誇りについて聞いたことはあるかい?」

「つき合いきれないよ、レノックス」

「そうなのか? ぼくのいう誇りはみんながいう誇りとはちがっててね。それ以外に何も持っていない人間の誇りなんだ。気に障ったなら謝るよ」

私はキッチンに行き、カナディアン・ベーコンとスクランブルエッグ、それにコーヒーとトーストをこしらえた。私たちはキッチンの近くにある朝食用コーナーで食べた。どこの家にもそういう一画が設けられていた時代に建てられた家だった。

オフィスに行かなくてはならないので、帰りにスーツケースを受け取ってこよう、と私は言った。彼は預かり証を私に渡した。彼の顔には血色が戻り、眼も手探りしなくてはならないほど奥に引っ込んではいなかった。

出て行く前に、カウチの前のテーブルにウィスキーのボトルを置いた。「君の誇りとやらに使うといい」と私は言った。「それと、ヴェガスに電話してくれ、私のためだと思って」

彼はただ微笑んで肩をすくめた。 階段を下りるときもまだ腹が立っていた。理由がわからなかった。服を質に入れるより、腹をすかせて街をほっつき歩く理由を聞かされてもわからなかったのと同じだ。 彼のルールが何であれ、彼はそれに従っていたのだろう。


スーツケースはとんでもない代物だった。色褪せた豚革で、新品時は淡いクリーム色だったろう。金具は純金。英国製で、ここで買うとすれば、二百どころか八百ドルはするだろう。

彼の前にそれをどさりと置いた。私はカクテル・テーブルの上のボトルに目をやった。彼はそれに触れてもいなかった。私と同じくらい素面だった。うまくもなさそうに煙草を吸っていた。

「ランディと話したよ」と彼は言った。「怒ってた。もっと早く電話しなかったから」

「赤の他人がきみを助けるようになってるんだよ」と私は言った。「シルヴィアからのプレゼントか?」私はスーツケースを指差した。

彼は窓の外を見た。「いや、彼女に出会うずっと以前、英国でもらったものだ。古いのを貸してくれたら、それはここに残して置きたい」

札入れから二十ドル札を五枚出し、彼の前に落とした。「質草はとらない」

「そんなつもりじゃなかったんだ。きみは質屋じゃない。ただヴェガスに持って行きたくないんだ。それに、金はこんなにいらない」

「わかった。きみは金を預かり、私はスーツケースを預かるとしよう。ただ、この家は空き巣に狙われやすい」

「構わない」と彼は言った。「そんなもの、どうなったっていいんだ」

彼は服を着替え、我々は五時半にムッソの店で夕食をとった。酒は飲まなかった。彼はカフエンガでバスに間に合い、私はあれこれ考えながら車を走らせて家に帰った。ベッドの上には空になったスーツケースがのっていた。さっき彼が中の荷物を私の安物の鞄に入れ換えたのだ。 金の鍵が錠穴の一つにささっていた。 空っぽのスーツケースに鍵をかけ、鍵をハンドルにくくりつけ、クローゼットの高い棚に置いた。すっかり空になったわけではなさそうだが、中に何が入っていようが私の知ったことではなかった。

静かな夜で、家は普段以上に中身がない気がした。私は盤の上に駒を並べ、スタイニッツ相手に定石のフレンチ・ディフェンスを試した。四十四手で私が負けたが、それでも二度ばかり彼に汗をかかせてやった。

九時半に電話が鳴り、聞き覚えのある声がした。

「ミスタ・フィリップ・マーロウのお宅ですか?」

「はい。私がマーロウです」

「シルヴィア・レノックスです、ミスタ・マーロウ。先月の夜に、ザ・ダンサーズの前でちょっとだけお会いしました。 後で聞いたところでは、ご親切にもテリーを自宅まで送り届けてくださったとか」

「その通りです」

「私たちがもう結婚していないことはお聞き及びだと思いますが、彼のことが少し心配なんです。ウエストウッドのアパートメントを引き払ってから、彼がどこにいるのか誰も知らないみたいなんです」

「あなたがどれだけ彼のことを気にかけておられるか、お会いした夜に気づきましたよ」

「いいこと、ミスタ・マーロウ、私はあの人と結婚してたの。で、酔っ払いには同情しないことにしてる。多分あの時は少し気分が悪かったか、もっと大事な何かがあったのよ。あなたは私立探偵でしょ、あなたさえよければ、これを仕事の手始めにしてもいいのよ」

「何の手始めにもする必要はありません、ミセス・レノックス。 彼はラスヴェガス行きのバスに乗っている。 そこに友達がいて、仕事を世話してくれるそうだ」

彼女は急に明るい声を上げた。「ラスヴェガスですって? なんてセンチメンタルなの。私たちあそこで結婚したのよ」

「だったら、彼は忘れてたんでしょう」と私は言った。「さもなけりゃ、どこか別のところに向かったはずだ」

電話を切る代わりに彼女は笑った。キュートでかわいい笑い声だった。「あなたはいつも依頼人にこんなに無礼な態度をとるの?」

「あなたは依頼人じゃない、ミセス・レノックス」

「いつかそうなるかもしれないじゃない、誰がわかって? じゃあ、女の友達だったら」

「答えは変わらない。その男は落ちぶれ果てて、腹をすかせ、薄汚れ、文なしで街をうろついていた。探す手間さえ惜しまなければ彼は見つかっていたはずだ。あのとき彼はあなたに何も求めなかった。そして、たぶん今も、あなたには何も求めないだろう」

「そのあたりのことは」と彼女は冷やかに言った。「金輪際、あなたにはわかりっこない。 おやすみなさい」 そこで、電話が切れた。

彼女は完全に正しかった。もちろん、私は完全にまちがっていた。しかし、自分がまちがっている気がしなかった。ただ腹立たしかった。もし彼女があと三十分早く電話をかけてきていたら、私はその腹立たしさを武器にスタイニッツを打ち負かしていたかもしれない ―― もっとも、彼は五十年も前に死んでいて、チェスの試合は残された棋譜に基づくものだったわけだが。

【解説】

はみ出してたのは「襟」か「裾」か?

「喉元をはだけたシャツは汚れ、一部が上着からはみ出ていた」は<His shirt was dirty and open at the neck and partly outside his jacket and partly not>。清水訳は「シャツはよごれて、頸のところがはだけていた」と後半をカットしている。村上訳は「シャツは薄汚れ、頸のボタンは外されて、襟は一部がジャケットの中にあり、一部は外に出ていた」。

田口訳は「首元を開いたシャツは汚れ、裾が一部ジャケットの外にはみ出てしまっていた」。問題はジャケットからはみ出しているのは、「襟」なのか、それとも「裾」なのか、ということだ。清水訳はわざとそれに触れなかった。原文を見ただけではわからないからだろう。わからないものはそのままにしておく方がいい。

受身形の<pinch>は「やつれる」

「鼻はすぼまり」は<His nose was pinched>。清水訳は「鼻がはれていた」。村上訳は「鼻は色つやを失い」。田口訳は「鼻孔はすぼめられ」。チャンドラーはこの表現が好きらしく、常套的に使う。<pinch>は「つまむ」の意味の動詞だが、受身形で使われると「(人を)精神的に締めつける。「(苦痛・悩みなどが)(顔・体などを)やつれさせる」という意味になる。レノックスの場合がまさにそれだ。田口訳が正しいが、この時点でマーロウはレノックスの鼻の孔が見えるほど近くにはいない。

ブタ箱ではなく、トラ箱

「もうトラ箱に半分入ってるようなものだ」は<You're halfway into the drunk tank already>。清水訳は「豚箱にぶちこまれるところだった」。村上訳は「このままじゃ豚箱行きだぞ」。田口訳は「このままだとブタ箱行きだぞ」。<drunk tank>は「泥酔者留置場」のことで、日本語に訳すなら「豚箱」ではなく「虎箱」だろう。

<over a couple of drinks>は「ちょっと一杯やる」

「私たちは座って、ごく弱めの酒でちょっと一杯やることにした」は<We sat down over a couple of very mild drinks>。清水訳は「私たちは弱い飲み物を二杯つくって腰をおろした」。村上訳は「我々はそれぞれ、ずいぶん弱くした酒を手に腰を下ろしていた」。田口訳は「私たちは椅子に坐り、どこまでもおとなしい飲みものを二杯ずつ飲んだ」。

<have a talk over a couple of drinks>というフレーズがある。「ちょっと一杯やりながら話す」という意味だ。この一文はそれをひねったものだろう。現に、これ以降の文章を読んでみるとわかるように、話の最中<very mild drink>をマーロウの方は「ちびりちびり」やり、レノックスの方は「なめているだけ」である。「二杯」にこだわるのはおかしい。

<would just as soon>は「むしろ〜したい」

「それでも、しばらくは長続きするもののために使いたい」は<But I'd just as soon it bought something that would stay bought for a while>。清水訳は「だが、余計なお節介になるような気がする」。村上訳は「それはかまわないが、使った金が無駄になるのを目にするのは面白くない」。田口訳は「けれど、用立てたからにはその金はとりあえず君の役に立ってほしい」。<would just as soon>は「むしろ〜したい」という意味だ。マーロウが買いたいものは、<that>以下の<would stay bought for a while>(しばらくは買ったままでいられる)何か。つまりはヴェガスにおけるレノックスの安定した生活のことだ。

俗語の<white>は「道徳的に優れている」

「そして、どちらのときもきみは聖人君子のようだった」は<and you've been more than white to me both times>。清水訳は「二度とも他人とは思えないほど親切にしてもらった」。村上訳は「そしてどちらのときも君は、ひとかたならず親切に僕を扱ってくれた」。田口訳は「その二度ともきみは親切以上のことをしてくれた」。

三氏とも<white>を「親切」と訳しているが、俗語の<white>には「誠実、善意、公明正大」等「道徳的に優れた」という意味はあるが、「親切にする」の意味はない。<(be〜)whiter than white>は「純白である、聖人君子のようである」という意味。ここでの話題はレノックスではなく、マーロウなのだ。

「さらした豚革」はどんな色?

「色褪せた豚革で、新品時は淡いクリーム色だったろう」は<It was bleached pigskin and when new had been a pale cream color>。清水訳は「さらした豚革で、新しいときにはうすいクリーム色だったであろう」。村上訳は「さらした豚革で作られていて、新品のときには淡いクリーム色だったはずだ」。田口訳は「晒した豚革でできていて、留め具は金だった」と、<when new had been a pale cream color>が抜け落ちている。三氏とも「さらした」と訳しているが、わざわざ、「新しいときには」と断り書きがあるのだから、この<bleached>は経年劣化による色褪せだろう。

「英国でもらったものだ」は<That was given- to me in England>。清水訳は「イギリスでもらったんだ」、田口訳も「イギリスでもらったものだ」だが、村上訳だけ「ロンドンで人にもらったものだ」になっている。文庫版の『ロング・グッドバイ』も確かめたが、そのままになっている。村上氏の思い違いだろうか。

<Cahuenga>の読み方

「彼はカフエンガでバスに間に合い」は<He caught the bus on Cahuenga>。清水訳は「彼はカヘンガでバスに乗った」。村上訳は「カーウェンガー通りで彼はバスに乗り」。田口訳は「彼はカウェンガー通りでバスに乗り」と表記が微妙に異なる。<Cahuenga>はもともと、ネイティブ・アメリカンの部族の居留地スペイン語で「山の場所」という意味。グーグル・マップでは「カフエンガ」と表記されている。

四冊の『長い別れ』を読む

<The Long Goodbye>は長い間清水俊二訳が定番だった。村上春樹が単なるハードボイルド小説としてではなく、「準古典小説」として新訳『ロング・グッドバイ』を出したことは当時評判になった。旧訳に欠けていた部分を補填するなど意味のある仕事だったが、新訳の評価は二分した。これはもう原文にあたるしかないと思い、原文と照らし合わせ、新旧訳を読み比べる記事をブログに書き始めた。同じことを考えた人も多かったのだろう。ある日、松原元信氏から『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』という本が送られてきた。著書の中に、私がブログに書いた記事の引用があったので贈ってくれたのだ。

田口俊樹訳『長い別れ』が出た。さて、どうしたものだろう。今度は『四冊の「長い別れ」を読む』を始めるべきなのだろうか? チャンドラーの長篇のなかでも<The Long Goodbye>は全五十三章の大冊である。もう一度、読み比べをする気力が自分にあるだろうか。とりあえず第一章を訳し、三氏の訳と比べてみた。文庫版で、清水訳が482ページ、村上訳が594ページ、田口訳が578ページ。冗長だと評された村上訳とほぼ同量ながら、さすがに訳文はこなれていて格段に読みやすい。これまで気になっていた部分が田口訳ではどうなっているのか、を中心にしてみていくことにしよう。


1

【訳文】

はじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼はザ・ダンサーズのテラスの前に停めたロールスロイス・シルヴァーレイスの中で酔いつぶれていた。車を出してきた駐車場係は開けたドアをずっと支えていた。テリー・レノックスの左足が持ち主に忘れられたみたいに車の外にだらんと垂れているからだ。顔立ちこそ若々しいが、髪は真っ白だった。眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた。
 
傍らに若い女がいた。髪はきれいな濃赤色、唇の上によそよそしい微笑を浮かべている。肩にブルー・ミンクのショールをかけていた。ロールス・ロイスがありきたりの車に見えるような代物だった、と言いたいところだが、ロールスロイスはあくまでロールスロイスである。ありきたりの車になど見えるはずがない。
 
駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた。彼はうんざりしていた。
 
「ねえ、お客さん」彼はとげのある声で言った。「ドアが閉められないんで、脚を車の中に引っ込めてもらえませんか?  それとも、開けたままにしときます? いつでも好きなときに落っこちられるように」
 
女は駐車係にぐさりと刺さり、背中から少なくとも四インチは突き出そうな視線を投げた。それくらいのことで彼が怯むことはなかった。ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった。
 
車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた。男がひとり降り立ち、ダッシュボードのシガーライターを使って細長い煙草に火をつけた。プルオーバーのチェックのシャツに黄色いズボン、乗馬靴といういで立ちで、香料入りの紫煙を燻らせ、ぶらぶら歩いてきたが、ロールスロイスには目もくれなかった。そんなものは陳腐だと思ったのだろう。テラスに上がる階段の下で立ち止まると、眼に片眼鏡をはめた。
 
女は愛嬌を振りまいて言った「いいこと思いついたわ、ダーリン。タクシーであなたの家に行ってコンバーチブルを出さない? モンテシートまで海岸沿いを走るにはもってこいの夜よ。あちらに知ってる人がいて、プールサイドでダンス・パーティーを開いてるの」
 
白髪の青年は丁重に言った。「大変申し訳ないが、もうあれは持っていないんだ。やむなく売ったんだ」彼の声と話し方から、オレンジジュースより強いものを飲んでいたとはわからなかっただろう。

「売ったって、ダーリン? それってどういうこと?」彼女はシートの上で体を滑らせて彼から身を引いた。しかし、声の方はそれよりずっと遠くへ離れていた。

「そうしなきゃならなかった」彼は言った。「食べるためにね」

「そういうことね」今の彼女の舌の上なら、一切れのスプモーニさえ溶けそうにないだろう。
 
駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った。「なあ、あんた」彼は言った。「おれは車をここからどかさにゃならない。またいつか会おう、もし会えたらな」
 
そう言って、支えていた手を離し、ドアが開くに任せた。たまらず酔っ払いはシートから滑り落ち、アスファルトの路面に尻もちをついた。そのまま見捨てても置けず、手を貸すことにした。いつだって酔っ払いにいらぬお節介を焼くのはまちがいだ。たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ。私は彼の脇の下に手を入れ、立ち上がらせることにした。

「どうもご親切にありがとうございます」彼は丁寧に礼を言った。
 
女は運転席に身をすべらせた。「この人ったら酔っぱらうと、すっかり英国人気取りなの」女の声はまるでステンレス・スティールのようだった。「世話をかけるわね」

「後ろの席に乗せよう」私は言った。

「ほんとにごめんなさい。約束に遅れてるの」クラッチが繋がれ、ロールスがすべり出した。「この人は迷い犬みたいなものなの」女は冷やかな笑みを浮かべながらつけ加えた。「家を見つけてあげてちょうだい。下のしつけはできてる――まあ、だいたいのところ」
 
やがてロールスは刻々とエントランスのドライブウェイを進み、サンセット・ブールヴァードに出ると、右に折れて何処へともなく走り去った。それを見送っているところへ駐車係が戻ってきた。私に抱えられたまま、今では男は眠りこけていた。

「ああいうやり方もあるんだなあ」私は白のお仕着せに話しかけた。

「当然さ」彼は皮肉っぽく言った。「あんな体をしてりゃ、酔っ払いの相手をしてる暇はないだろう」

「この男を知ってるか?」

「女はテリーと呼んでたな。どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない。おれはここに来て、わずか二週間なんでね」

「車を出してきてくれないか?」私は駐車券を渡した。

彼が私のオールズを運んできたとき、私はまるで鉛の袋を抱えているような気分だった。白のお仕着せが助手席に乗せるのを手伝ってくれた。客は片眼を開けて我々に礼を言うと再び眠りこんだ。

「こんなに礼儀正しい酔っ払いは見たことがない」私は白のお仕着せに言った。

「酔っ払いというやつは大きさも格好も、物腰もいろいろだ」彼は言った。「けど、みんながみんなぐうたらだ。この人、整形手術をしてるね」
「ああ」一ドル札を出すと、彼は礼を言った。整形手術については彼の言う通りだった。我が新たな友の顔の右側は凍りついたように白っぽく、細い微かな縫合の痕があった。傷跡の近くの皮膚はてらてらしていた。整形手術というには、かなり手荒い仕事ぶりだ。

「この男をどうするつもりで?」

「家に連れて帰って、住所が訊き出せるくらいは酔いを醒まさせてやるよ」
 
白のお仕着せはにやっと笑った。「こりゃまた、ずいぶんとお人好しだね。おれなら側溝に放り込んでとっとと行っちまうがね。飲んだくれに関わっても、煩わされるだけで何の得にもならない。 こういうことについちゃ、おれにはひとつ哲学がある。 世知辛い世の中だ。わが身を守ろうと思ったらクリンチに逃げて、力を蓄えておかなきゃ」

「なるほど、そのせいでここまでのし上がってこれたわけだ」私は言った。彼は最初、訳が分からなかった様子で、それから怒り出したが、その頃には私の車は動き出していた。
 
もちろん男の言うことにも一理あった。 テリー・レノックスは私に多くの面倒をかけてくれた.。 しかし、結局のところ、面倒を引き受けるのが私の仕事だ。
 

その年、私はローレル・キャニオン地区のユッカ通りに住んでいた。小さな丘の中腹にある行き止まりになった通りに建つ家で、玄関までは長いセコイアの階段が続いていて、道路の向こう側にはユーカリの木立ちが生い茂っていた。家具付きで、家主の女性は、未亡人となった娘と暮らすためにしばらくの間、アイダホに行っていた。家賃が安かったのは、家主が急に戻りたくなったときには家を空ける約束になっていたことと、階段のせいもあった。彼女は家に帰るたびに段差と向き合うには年を取り過ぎていた。
 
私はやっとのことで酔っぱらいを運び上げた。彼は面倒をかけまいと努めたが、足はゴムのようで、詫びごとの言葉半ばで眠り込んでしまう有り様だった。私はドアの鍵を開け、彼を中に引きずり込み、長いカウチに寝かせ、上掛けをかけて眠らせてやった。彼は一時間ばかり、海豚のような鼾をかいていた。それから急に目が覚めて、トイレに行きたがった。 戻ってくると彼は私をじっと見詰め、目を細めて、自分がどこにいるのか知りたがった。 私は教えてやった。彼はテリー・レノックスと名乗り、ウエストウッドのアパートに住んでいて、待つ者は誰もいない、と言った。声は明瞭で、舌は縺れていなかった。
 
コーヒーを一杯、ブラックでもらえないか、と彼は言った.。 私がそれを持ってくると、カップの下にソーサーを添えて慎重にすすった。

「ぼくは、どうしてここにいるんだろう?」そう尋ねて、辺りを見回した。

「ザ・ダンサーズに停めたロールスの中で酔いつぶれてた。連れの女性に見捨てられたんだ」

「そうだった」彼は言った。「とはいえ、誰も彼女を責められない」

「きみは英国人か?」 

「住んではいたが、生まれはちがう。タクシーを呼んでくれたら、お暇できるんだが」

「よければ送るよ」
 
彼は階段をひとりで降りた。ウエストウッドへの道中、彼はあまり多くを語らなかった。ただ、親切にしていただいてありがとう、迷惑をかけて申し訳なかったと言う以外は。おそらく何度も何度も、たくさんの人にそう言ってきたのだろう。何となく決まり文句を唱えているようなところがあった。
 
彼のアパートは狭く、息苦しく、味気ないものだった。その日の午後に引っ越してきたみたいだった。頑丈そうな緑の大型ソファの前にコーヒーテーブルがあり、その上には、半分空になったスコッチのボトルと溶けた氷の入ったボウル、炭酸水の空瓶が三本とグラス二個、ガラスの灰皿は口紅つきの吸殻と口紅がついてない吸殻で埋まっていた。写真はおろか、身の回りの品ひとつなかった。出会いや別れのために、酒を酌み交わして話をするために、一夜をともにするために借りるホテルの部屋みたいだった。人が生活を営む場所には見えなかった。
 
酒を勧められたが、断った。腰もおろさなかった。帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった。いささかふらふらしていて、少々恥じ入っているようだったが、とても礼儀正しかった。自動エレベーターが上がってきて、私がそれに乗り込むまで、彼は開いたドアの前に立っていた。無一物ではあるにせよ、行儀作法はしっかり身についていた。

女のことは二度と口にしなかった。職も将来もないことにも触れなかった。彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった。

エレベーターで降りながら、上に取って返して、彼からスコッチの瓶を取り上げたい衝動に駆られた。しかし、私には関係ないことだし、どうせ何の役にも立たない。酒飲みはいつだって、飲みたいとなれば、何としてでも手に入れる方法を見つけるものだ。
 
私は家まで車を走らせながら、いつの間にか唇を噛んでいた。私は感情に流されることなく生きるようにしている。だが、あの男には何か引っかかるものがあった。それが白い髪と傷のある顔、澄んだ声、礼儀正しさでないなら、何なのか知りようがない。それで充分だったのかもしれない。二度と会う理由はないのだ。彼はただの迷い犬だった。あの女が言ったように。 

【解説】

ディナージャケットの持つ意味

「眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた」のところ、原文では<You could tell by his eyes that he was plastered to the hairline, but otherwise he looked like any other nice young guy in a dinner jacket who had been spending too much money in a joint that exists for that purpose and for no other.>

清水訳は「眼つきで泥酔していることがわかるが、酒を飲んでいるというだけで、ほかにはとくに変わったところのないあたりまえの青年だった。金を使わせるために存在している店で金を使いすぎただけのことだった」と<in a dinner jacket>をスルーしている。後で説明するが、ディナージャケットは重要な細部なのだ。

村上訳は「泥酔していることは目を見れば明らかだが、それを別にすれば、ディナー・ジャケットに身を包んだ、当たり前に感じの良い青年の一人でしかない。人々に湯水のごとく金を使わせることを唯一の目的として作られた高級クラブに足を運び、そのとおり金を使ってきた人種だ」。旧訳が捨てて顧みなかったところを掬い取ろうという意気込みが伝わる訳だ。

さて、いよいよ田口訳である。「ディナージャケットを着たテリーの顔は若かった。が、髪はもう真っ白で、その眼を見れば、かなり酔っているのが分かった。それ以外はどこにでもいそうな、気のよさそうな若者だった。客に大金を使わせることだけが目的の店で、そういう店の目的に適(かな)う所業をこれまでに何度もしてきたことがうかがえる、そんな若者だった」

自在な訳しぶりだが一つ気になる点がある。当然テリー自身も着ているだろうが、<he looked like any other nice young guy in a dinner jacket>と、原文ではむしろ、ディナージャケットを着ているのは<any other nice young guy>の方である。つまり、ザ・ダンサーズという店は、夜会服を着ていなければ入れない、そういう店だということを言いたいためのディナージャケットだ。田口訳では、たまたまテリーがそういう服装だったというようにも読めてしまう。

<white coat>は「白のお仕着せ」

「駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた」は<The attendant was the usual half-tough character in a white coat with the name of the restaurant stitched across the front of it in red>。<white coat>は「白衣、業務等において着用する主に白色または淡色の外衣」のことだが、「白衣」と訳すと紛らわしい。清水訳は「白い上衣」「白服」、村上訳は「白い上着」「白服」。「黒服」というのは聞いたことがあるが、「白服」という呼び方は普通にあるのだろうか? 田口訳の「白いコート」はちょっと首をひねる。この男は後々<white coat>と呼ばれることになるので、どう訳すかは大事なことになる。

<golfing money>とはどんな金

「ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった」は<At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.>

清水訳は「<ダンサーズ>では、金にものをいわせようとしても当てがはずれることがあるのだ」。村上訳は「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいことを人に教え、幻滅を与えるために、<ダンサーズ>は、この手の連中を雇い入れているのだ」。村上氏は<the sort of people>を従業員だと考えたため<that>以下を読み誤っている。

ここは片岡義男鴻巣友季子著『翻訳問答』のなかで問題にされていたところで、片岡によれば村上が「英文の構造を理解しないままに意味を取ろうとしているから」こうなるのだそうだ。因みに、片岡の訳では「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」となる。

田口訳は「遊びに大金をはたく人たちは人間的魅力にもあふれている、などという幻想をものの見事に打ち砕いてくれる人種が集まる店が、この<ダンサーズ>という店だ」。<golfing money>は「ゴルフなどの遊びに使う金」というような意味で新聞の見出しにも用いられているらしい。片岡訳と同じで、田口訳も一歩踏み込んだ訳になっている。たしかに、こうすればわかりやすくはなるだろう。だが、原文はそこまでは踏み込んでいない。

<speedster>は「2人乗りのオープンカー」

「車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた」は<A low-swung foreign speedster with no top drifted into the parking lot>。清水訳は「トップがなく車体(ボディ)の低い外国製の高速車が駐車場にすべりこんできて」。村上訳は「車高の低い外国製のスポーツカーが、屋根を開けたまま駐車場に滑り込んできた」。田口訳は「そこへ車高の低い外国製のスポーツカーが幌をおろしたまま駐車場にすべり込んできた」。

時代的には、ポルシェ356 1500 アメリロードスターと思われるが、確かめるすべはない。ロールスロイスを陳腐と見る人間が乗る車なのだから、ライトウェイト・オープン2シーターと見てまちがいない。<speedster>は「2人乗りのオープンカー」のことだ。<with no top>なのだから、幌や屋根についてわざわざ触れず「オープンカー」でいいのではないか。

<low-income bracket>は「低所得層」

「駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った」は<The attendant had the white-haired boy right where he could reach him--in a low-income bracket>。清水訳は「駐車係は白髪の青年が自分と懐具合があまりちがわない男であることを知った」。村上訳は「駐車係はこの白髪の青年が、実は自分とさして変わらぬ境遇にあることを知った――逼迫した財政状態」。田口訳は「白髪の若い男が遠い存在ではなく、むしろ生活に困っている同類であることが駐車係にもわかったのだろう」。

三氏の訳では、駐車場係が青年が自分と同じ生活困窮者であることに気づいた、という解釈になる。まるで、同病相憐れむという感じだが、それはちがうのではないか。それまで駐車係はうんざりしながらも、相手が上客だと思って仕方なくつきあっていた。しかし、食うに困って車を売らねばならない男は、手の出せない階層ではなく<low-income bracket>(低所得層)にいることを知った。だから、それまで我慢していたことをあっさりやめて手を離したのだ。

<in the teeth>は「口に一発」ではない

「たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ」は<Even if he knows and likes you he is always liable to haul off and poke you in the teeth>。清水訳は「よく知っている人間でも、腕力をふるって襲いかかってくるものだ」。簡略ではあるが要を得た訳だ。村上訳は「もし相手が知り合いであっても、あるいはまたこちらに好意を抱いていたとしても、そいつはわけもなくつかみかかってくるかもしれない。顎に一発叩き込まれるかもしれない」。

田口訳は「たとえ相手が知り合いでも、たとえそいつに好かれていても、いきなり殴りかかられ、口に一発食らわないともかぎらない」。村上訳と共通するのが「口に一発」としたところだ。おそらく両氏とも<in the teeth>を訳したつもりだろうが<in the teeth>は「面と向かって、おおっぴらに、公然と」という意味だ。<haul off>は「殴りかかるために後ろに腕をひく」ことで<poke>は「突く」こと。また<liable to>は、「かもしれない、〜ないともかぎらない」という意味ではなく、「人・物などが(欠点・性向として)〜しがちな、悪い傾向がある」という意味である。つまり、清水訳のままでよかったのだ。

<cow's caboose>をどう訳すか

「どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない」は<Otherwise I don't know him from a cow's caboose>。清水訳は「そのほかにはなんにも知りません」と<from a cow's caboose>をスルーしている。村上訳は「それ以上のことは牛のけつ(傍点二字)ほども知らんですね」。田口訳は「それ以外はまるっきり知らない人だね」。<I don’t know him from “something”>というフレーズがあって、“something”の部分には何でもいいが馬鹿げた物が入るらしい。意味としては「彼をまったく知らない」だ。「牛の尻」を何とか生かしたくて「馬の骨」にしてみた。
「平身低頭」して礼を言うだろうか

「帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった」は<When I left he thanked me some more, but not as if I had climbed a mountain for him, nor as if it was nothing at all>清水訳は「私が帰るとき、彼はまた礼を述べたが、私が彼のために大いにつくしたからというふうでもなく、言葉だけの挨拶でもなかった」。<a mountain to climb>は「大量のやるべきこと」という意味。彼の代わりに私がそれをした、ということだ。

村上訳は「帰り際に彼は重ねて礼を言ったが、私の取った労に対して平身低頭するでもなく、かといって口先だけで礼を言ってるのでもなかった」。田口訳は「辞去しかけると、彼はさらに礼を言った。平身低頭するほどでもなかったが、かといって口先だけの礼でもなかった」とほぼ村上訳を踏襲している。「平身低頭」は「ひたすら詫びる、畏れ入る」のような意味で使われる表現で、普通「礼を言う」ことには使わない。

<bit of high class>はどう訳されたか

「彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった」は<and that almost his last dollar had gone into paying the check at The Dancers for a bit of high class fluff that couldn't stick around long enough to make sure he didn't get tossed in the sneezer by some prowl car boys, or rolled by a tough hackie and dumped out in a vacant lot.>

ここは、松原氏の『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』でも言及されていたところで、清水訳は「最後の持ち金を<ダンサーズ>でわずかばかりのあやしげな高級酒にはたいてしまったことも口にしなかった。その高級酒というのは、警察の自動車につかまって豚箱にぶち込まれたり、もうろう(原文傍点つき)タクシーにひかれて空き地にすてておかれたりする心配がないほど永もちしない酒だった」

村上訳は「<ダンサーズ>みたいな高級な店で派手に金を使えば、自分にちっとは箔がついたような気持ちにさせられることはたしかだ。しかしそんな箔はあっという間にはげ落ちてしまう。パトカーの警官に見とがめられて留置場に放り込まれるか、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されるか、そのへんが関の山である」。問題の<bit of high class fluff>は、清水訳では「わずかばかりのあやしげな高級酒」、村上訳では「ちっとは箔がついたような気持ち」とされている。

田口訳は「さっきの高級な女のために<ダンサーズ>で払った金がほぼ最後の一ドルだったことについても。彼がパトロール警官に捕まってブタ箱に放り込まれても、あるいは荒っぽいタクシー運転手に身ぐるみ剥がされて空き地に放り出されても、あの女にはどうでもよかったのだろう」となっている。<bit of high class fluff>は「さっきの高級な女」つまり、テリーの元妻だという解釈だ。原文をよく読めば、これ以外には考えられない。<bit of fluff>は「魅力的な女、セックスの相手」を指す俗語。それに<high class>(高級な)を付け足すことでテリーの連れの女性を表したのだ。

<stick around>は、ロングマン現代英英辞典によれば<to stay in a place a little longer, waiting for something to happen>(物事が起こるのを待ちながら、ひとつの場所に少し長くとどまること)。<make sure>は「確認する」。そうすると<that>以下は「彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりされないかを確認できるだけの時間、ひとつところにとどまることができなかった」となる。そんなことができるのは、彼と同じ車で店にやってきた女しかいないのではないか。

『湖中の女』を訳す 41

<We were waved across the dam>は「ダムの向こうで手が振られた」

41

【訳文】

  ハイウェイを封鎖するため、パットンが何本か電話をかけ終えたとき、ピューマ湖ダムの警備に派遣されている軍曹から電話がかかってきた。我々は外に出てパットンの車に乗り込み、アンディは湖畔の道を恐ろしいスピードで走り、村を通り抜け、湖岸に沿って最後に大きなダムまで戻ってきた。ダムの向こうで手が振られた。本部の小屋脇に停めたジープで待機中の軍曹だった。
 軍曹は腕を振ってジープを発進させ、我々は彼について行った。ハイウェイを二、三百フィートほど行ったところで、数人の兵士が峡谷の端に立って下を覗き込んでいた。何台かの車がそこに止まり、兵士の近くに人だかりができていた。軍曹がジープから降り、パットンとアンディと私は公用車から降りて、軍曹のそばに行った。
「あの男は歩哨が止まれと言ったのに止まらなかった」軍曹が言った。声には苦いものが混じっていた。「歩哨は危うく道から落ちるところだった。橋の中央にいた歩哨はやっとのことで身をかわした。いちばん端にいた歩哨は避けるだけの時間があったので、止まるように命じたが、男は走り続けた」
 軍曹はガムを噛みながら谷底を見下ろした。
「こういう場合には発砲が命じられている」彼は言った。「歩哨は発砲した」彼は絶壁の端にあたる路肩を抉った跡を指差した。「ここから落ちたんだ」
 渓谷の百フィート下で、巨大な花崗岩の巨礫の脇腹にぶつかって小さなクーペがぺしゃんこになっていた。ほとんど仰向けになって少し傾いていた。下には男が三人いた。車を動かして何かを引っぱり出そうとしていた。かつては人間であった何かを。

【解説】

「ダムの向こうで手が振られた。本部の小屋脇に停めたジープで待機中の軍曹だった」は<We were waved across the dam where the sergeant was waiting in a jeep beside the headquarters hut>。田中訳は「番兵は手をふつてとおし、われわれは、監視本部の小屋のちかくでジープにのつてまつている班長のところにいそいだ」。清水訳は「私たちはダムを横切って、警備本部の建物のそばまで行った。軍曹がジープに乗って、私たちを待っていた」。両氏の訳では主語である<we>がダムを横切っている。

しかし、原文を読めば分かるように、この文は受動態で書かれている。両氏はそこを読み違えている。電話した相手が来たら話をしそうなものだが、軍曹は車から降りず、口もきいていない。両者の間には距離があるからだ。もう少し車で走らなければいけないのだから、軍曹はその労を省き、手を振ることでそれに代えた。村上訳は「ダムの向こう側にある監視所のわきに駐めたジープの中で待機していた軍曹が、手を大きく振って我々に合図をした」。

「ハイウェイを二、三百フィートほど行ったところで、数人の兵士が峡谷の端に立って下を覗き込んでいた」は<a couple of hundred feet along the highway to where a few soldiers stood on the edge of the canyon looking down>。田中訳は「ハイウェイを二百フィートばかりすすむと、崖つぷちに、二、三人の兵隊がたつて、下を見おろしていた」。清水訳は「街道に沿って二百フィートほど走り、数人の兵士が渓谷の縁で下をのぞいて立っているところまで行った」。

村上訳は「ハイウェイを百メートルばかり進み、数人の兵隊が渓谷の端に立って下を覗き込んでいるところまで行った」。<a couple of>をどう訳すか、という問題。旧訳のお二人は「二」を、村上氏は「三」を採用したのだろう。村上訳のようにメートル法で書くと日本語にした場合、「六十メートル」というのは、あまり納まりのいい数字とはいえない。そこで<a couple of>(2〜3)の後者と考え、約「百メートル」としたわけだ。

「渓谷の百フィート下で」は<A hundred feet down in the canyon >。田中訳は「二百フィートほど下の谷底で」となっている。さっきの二百フィートに引きずられたのだろう。清水訳は「百フィート下の谷底に」。村上訳は、さっきの大ざっぱな換算とは異なり、今度は「三十メートルばかり下で」と細かく刻んでいる。

やけにあっけない幕切れである。『湖中の女』は、最後の謎解きの場面で、関係者一同が集まり、探偵役が長広舌をふるって真犯人を暴くという謎解きミステリのスタイルを踏襲した、ハードボイルドらしからぬ作風になっている。作品の中を流れる時間は、それまでの長篇と比べれば極端に短い。その割に移動距離が長いのは、もともと別の作品だったものを作り変えて一本の長篇にしたからだ。

田口俊樹氏による新訳が出て、久しぶりに『長い別れ』を読み返したが、『湖中の女』のマーロウとは、ずいぶん感じがちがう。『長い別れ』のマーロウはハードボイルドのヒーローにしてはやや感傷的で熱くなりすぎている。その点『湖中の女』のマーロウはクールで、他者との間に距離を置いている。作者は、この作品を仕上げるのに時間がかかったことを体調や戦争のせいにしているが、仕上げに手こずったことで、作品との間に距離感が生まれたのだろう。そのことが作品に村上氏のいうデタッチメントの雰囲気を与えている。

『湖中の女』を訳す 40

<give me a break>は「勘弁しろよ」

40

【訳文】

デガーモは壁から離れて背筋を伸ばし、うすら寒い笑みを浮かべた。右手がさっと鮮やかに動き、銃を握っていた。手首をゆるめていたので、銃口は目の前の床を指した。 彼は私を見ないで私に話しかけた。
「お前は銃を持っちゃいない」彼は言った。「パットンは一挺持ってるが、俺を仕留めるほど早くは抜けまい。その最後の推測を裏付ける証拠が少しはあるのか。それとも、お前が頭を悩ますほどの値打ちはないのか?」
「証拠なら少しある」私は言った。「そう多くはない。しかし増えつつある。グラナダのあの緑のカーテンの向こうに、誰かが三十分以上物音ひとつ立てずに立っていた。張り込みに馴れた警官にしかできない芸当だ。そいつはブラックジャックを持っていた。そいつは私の後頭部を見なくても、ブラックジャックで殴られていることが分かっていた。ショーティにそう言ったのを覚えているか? そいつは死んだ女がブラックジャックで殴られていることも知っていた。しかし、遺体をじっくり調べる時間はなかったから、分かるわけがない。そいつは女の服を剝ぎ、体に引っ掻き傷を残した。自分をささやかな私的地獄に落としてくれた女に、君のような男が抱くサディスティックな憎しみからだ。そいつの爪の下には、今も化学検査ができるだけの血と表皮が残されている。君は右手の爪をパットンに見せたくないだろう、デガーモ?」
 デガーモは銃を少し持ち上げ、微笑んだ。大きく開いた口から白い歯を覗かせた微笑だ。
「それで、いったい俺はどうやって、あいつの居場所を知ったんだ?」彼は訊いた。
「アルモアが彼女を見たのさ。レイヴァリーの家を出るか、入るかする時に。それで神経質になった彼は私がうろついているのを見て、君を電話で呼び出した。どうやって彼女のアパートメントまで後を尾けたのかは知らない。たいして難しいことじゃないだろう。アルモアの家に隠れて彼女を尾行することもできたし、レイヴァリーを尾行することもできた。どれもみな刑事のルーティン・ワークだ」
 デガーモは黙ってしばらく静かに立って考えていた。表情は険しかったが、メタリック・ブルーの眼には面白がっているような光さえあった。もはや取り返しがつかない災厄に、部屋は暑く、重くなっていた。彼は私たちの誰よりもそれを感じていないようだった。
「俺はここを出て行くよ」彼はやっと言った。「そう遠くまではいけないかもしれないが、田舎のお巡りなんかに捕まるわけにはいかない。何か文句はあるか?」
 パットンは静かに言った。「そうはいかんよ、若いの。承知の通り、私はあんたを連行しないといけない。 何の証拠もないが、そのまま出て行かせるわけにはいかない」
「立派な腹をしてるが、パットン。俺は銃の腕がたつ。どうするつもりだ?」
「考えてるところだ」パットンはそう言って帽子を後ろに押しやって髪をくしゃくしゃにした。「まだ思い浮かばん。腹に穴を開けられたくはないが、自分の縄張りでコケにされるわけにもいかん」
「行かせればいい」私は言った。「この山からは出られない。だからここへ連れて来たんだ」
 パットンはまじめに言った。「誰かが彼を捕まえようとして、怪我をするかもしれない。それはまずい。誰かというなら、私でなければならない」
 デガーモはにやりと笑った。「あんたはいいやつだなあ、パットン」彼は言った。「ほら、銃を脇に戻して初めからやり直しだ。俺はそれで構わんよ」
 彼は銃を脇の下に隠した。 腕を垂らし、顎を少し前に突き出して見ていた。 パットンは活気のない目でデガーモの鮮やかな目を見ながら、静かに顎を動かしていた。
「こっちは座ってる」彼は不平をもらした。「あんたみたいに速くは抜けん。ただ臆病風に吹かれたと思われたくない」彼は悲しげに私を見た。「どうしてこんな面倒をここへ持ち込んだりしたんだ? 私の手を煩わせることでもないのに。おかげでこんな窮地に陥っている」その声は傷つき、困惑し、少し弱弱しく聞こえた。
 デガーモは少し頭を後ろに反らして笑った。笑いながら右手がまた銃に伸びた。
 パットンが動くところは少しも見なかった。部屋は彼のコルト・フロンティアの轟音でどよめいた。
 デガーモの腕はまっすぐ横に伸び、重いスミス・アンド・ウェッソンは彼の手から弾き飛ばされ、背後の節くれだった松材の壁に叩きつけられた。彼は痺れた右手を振って、目に驚きの色を浮かべ、それを見下ろした。
 パットンはゆっくり立ち上がった。ゆっくり部屋を横切り、銃を椅子の下に蹴り飛ばした。彼は悲しげにデガーモを見た。デガーモは指の関節の血を吸っていた。
「勘弁しろよ」パットンは悲しそうに言った。「私みたいな古狸につけ入る隙を与えちゃいかん。こっちはあんたが生まれるずっと前から、銃をいじってきてるんだ。若いの」
 デガーモはうなずいて背筋を伸ばし、ドアのほうに歩き始めた。
「止すんだ」パットンは穏やかに言った。
 デガーモは止まらなかった。ドアに手をかけ、網戸を押した。彼はパットンを振り返ったが、その顔は蒼ざめていた。
「俺はここを出て行く」彼は言った。「止める方法はひとつだけだぜ、あばよ、太っちょ」
 パットンは身動き一つしなかった。
 デガーモはドアを通り抜けて出て行った。ポーチの上に重い足音が響き、やがてそれは階段の上で響いた。私は正面の窓際に行き、外を眺めた。パットンはそれでも動かなかった。デガーモは階段を下り切り、小さなダムの上を渡り始めていた。
「ダムを横切るつもりだ」私は言った。「アンディは銃を持ってるのか?」
「持っていても使うとは思えん」パットンは穏やかに言った「銃を使う理由が見あたらん」
「まいったな」私は言った。
 パットンは溜め息をついた。「あんな風に私に譲歩すべきじゃなかった」彼は言った。「私を完全に支配下に置いていたんだからな。こっちもお返しをしてやらんといかん。わずかの間さ。それで彼がいい目を見ることはないだろう」
「彼は人殺しだ」私は言った。
「根っからの人殺しってわけじゃない」パットンは言った。「車はロックしたのか?」
 私はうなずいた。「ダムの向こう岸からアンディがこちらにやってくる」私は言った。「デガーモが彼を止めて、何やら話しかけている」
「アンディの車をとる気かもしれない」パットンは悲しそうに言った。
「まいったな」私はまた言った。キングズリーの方を見た。彼は頭を抱えて床を見つめていた。私は窓を振り返った。デガーモは丘の向こうに姿を消していた。アンディはダムを半分ほど横切ったところにいて、時々肩越しに振り返りながら、ゆっくりこちらにやってくる。遠くでエンジンがかかる音がした。アンディが小屋を見上げ、それから振り返って、ダム沿いに駆け戻った。
 エンジン音が消えていった。すっかり聞こえなくなったとき、パットンは言った。「さて、そろそろ事務所に戻って電話でもするか」
 キングズリーが突然立ち上がり、台所に行き、ウィスキーのボトルを手にして戻ってきた。彼はグラスにたっぷり注いで立ったまま飲んだ。そして、ウィスキーに手を振って別れを告げ、重い脚を引きずるようにして部屋を出て行った。ベッドのスプリングが軋む音がした。パットンと私は静かに小屋を出た。

【解説】

「勘弁しろよ」は<You give me a break>。田中訳は「油断したのがいけなかつたんだ」。清水訳は「お前さんは私に機会を与えてくれた」。村上訳は「あんたはわたしに余裕を与えた」。<give me a break>は、日常的によく用いられるフレーズで、相手や自分に譲歩を与える場合、不快な出来事にうんざりした場合、信じられない状況に驚いた場合に、「勘弁して」、「いい加減にして」、「よく言うよ」などの意味で用いる。この場合は、自分を赦せと言っている。あれほど、自信のなさそうな素振りをしておいて、相手より早撃ちをして見せたわけだから。

「私みたいな古狸につけ入る隙を与えちゃいかん」は<You hadn't ought ever to give a man like me a break>。同じフレーズが繰り返されるが意味が変わる、チャンドラーお得意のスタイル。田中訳は「わしみたいな男に、ほんのちょつとでもチャンスをくれるのはまずい」。清水訳は「私のような人間に機会を与えちゃいけない」。村上訳は「わたしのような男には余裕を与えるべきじゃないんだ」。

「私を完全に支配下に置いていたんだからな。こっちもお返しをしてやらんといかん。わずかの間さ。それで彼がいい目を見ることはないだろう」は<Had me cold. I got to give it back to him. Kind of puny too. Won't do him a lot of good>。田中訳は「でなかつたら、わしは死んでるところだ。だから、わしのほうもお返しをしなきやいかん。たいしたお返しでもないがね。あの男も、そう遠くまではいけまい」。

<had 〜 cold>は「~(人)を思いのままにする、さんざんやっつける」という意味。清水訳は「彼は私をきめ(傍点二字)つけた。お返しをしなきゃならなかった。後味(あとあじ)がよくない。あの男にとってもいいことじゃなかった」。村上訳は「わたしを好きに料理できたのだから。だからこちらも彼にチャンスを与えなくてはならない。取るに足らないことでもあるし、本人の身のためにはならないにしても」。村上氏は、この「だから」の重なりが気にならないのかしら。

 

『湖中の女』を訳す 第三十九章

<need ~ing>は「受け身」で訳さなければいけない

39

【訳文】

 また別の重苦しい沈黙が訪れた。パットンがその注意深くゆっくりした口調で沈黙を破った。「それはいささか乱暴な言い方だと思わんかね。ビル・チェスは自分の妻の見分けぐらいつくだろう?」
 私は言った。「ひと月も水の中に浸かっていたんだ。それに、妻の服と妻のアクセサリーを着けている。妻の髪のような金髪は水に濡れ、顔はほとんど見分けがつかなかった。どうして彼がそれを疑ったりするんだ? 彼女は遺書とも読める書き置きを残していた。彼女は姿を消した。二人は喧嘩をしていた。彼女の服と車がなくなっていた。彼女が姿を消してからひと月あまり、何の音沙汰もなかった。彼女の行き先に心当たりはなかった。そして、やっとミュリエルの服を着た遺体が上がってきた。妻と同じサイズの金髪の女性だ。もちろん二人には違いがあるだろうし、もしや他人では、という疑いを抱いたなら、違いを見つけて確認したはずだ。しかし、そうした疑いを抱かせそうなものは何もなかった。クリスタル・キングズリーはまだ生きていた。彼女はレイヴァリーと駆け落ちしていた。彼女は車をサン・バーナディーノに乗り捨て、エルパソから夫に電報を打っている。ビル・チェスにしてみたら、彼女とのことはとうに終わっていた。彼女のことなど考えもしなかった。彼にとっては何の関わりもない女だったんだ。当たり前だろう?」
 パットンは言った。「それについては自分で思い至るべきだった。だが、もし思いついたとしても、すぐに捨ててしまうような考えだ。あまりにありそうもない話に思えてな」
「見かけはそうだ」私は言った。「しかし、見かけだけのことだ。 遺体が一年間湖から上がってこなかった、あるいはまったく上がらなかったとしよう。湖を浚わなければ見つからなかったかもしれない。ミュリエル・チェスが消えても、誰も彼女を探すために多くの時間を割こうとしなかった。我々は二度と彼女の消息を聞くことはなかったかもしれない。ミセス・キングズリーの場合はそうはいかない。彼女には金とコネクション、そして心配してくれる夫がいた。彼女は結局そうなったように捜索されただろう。しかし、何らかの疑惑が持たれなければ、捜査はすぐには始まらない。何かが見つかるまでには数ヶ月かかったかもしれない。湖は浚われたかもしれないが、彼女の足跡を調べ、実際には湖を出てサンバーナーディーノまで山を下り、そこから東へ列車で行ったことが分かったなら、湖を浚うようなことはなかっただろう。たとえ遺体が発見されたとしても、遺体が正しく確認されない可能性の方が高い。ビル・チェスは妻の殺人で逮捕された。彼は有罪になったかもしれない。そして湖の死体に関する限り、それで終わりだっただろう。クリスタル・キングズリーはまだ行方不明で、未解決の謎のままだっただろう。やがて、彼女の身に何かが起こり、もう生きていないのだと思われるようになる。だが、どこで何が起きたのか誰にも分からない。もし、レイヴァリーがいなかったら、我々はここでこうして話し合ってはいなかった。レイヴァリーがすべてのできごとの鍵だったんだ。彼はクリスタル・キングズリーがここを出たとされる夜、サン・バーナディーノのプレスコットホテルにいた。彼はそこで一人の女を見た。その女はクリスタル・キングズリーの車に乗り、クリスタル・キングズリーの服を着ていた。もちろん、彼はその女が誰であるか知っていた。しかし、彼は何かがおかしいと気づかなくてよかった。女がクリスタル・キングズリーの服を着ていることも、その女がクリスタル・キングズリーの車をホテルのガレージに入れたことも知らなくてよかった。ミュリエル・チェスに会ったことだけ知っていればよかったのだ。後はミュリエルがうまくやった」
 私はそこで話をやめ、誰かが何か言うのを待った。誰も口をきかなかった。パットンはどっしりと椅子に座り、肉づきのいい毛のない両手を腹の上で気持ちよさそうに組んでいた。キングズリーは、頭を椅子の背にもたせ、目は半ば閉じ、動かなかった。デガーモは暖炉のそばの壁に寄りかかり、張りつめた顔は青ざめて無表情だ。タフな大男はむっつり黙り込み、その考えを心中深く隠していた。
 私は話を続けた。
「もし、ミュリエル・チェスがクリスタル・キングズリーに成りすましているのなら、彼女を殺したにちがいない。至って初歩的なことだ。それでは、考えてみよう。我々は彼女がどんな女だったかを知っている。彼女はビル・チェスと結婚する前にすでに人を殺している。彼女はアルモア医師の診療所の看護師で彼といい仲だったが、アルモアが彼女をかばわなければならないほど巧妙な方法でアルモア博士の妻を殺害した。そして、かつて彼女はベイ・シティー警察の男と結婚していたが、その男もまた彼女をかばって殺人を見逃すようなカモだった。彼女はそんなふうに男たちを思い通りに動かすことができた。男たちは、まるでサーカスのライオンみたいに、跳んで輪をくぐる。長いつき合いではなかったので、どうしてそうなるのかは分からないが、彼女の経歴がそれを証明している。レイヴァリーにやったことがその証拠だ。彼女は自分の邪魔をする者を片端から殺していった。キングズリーの妻も邪魔者の一人だった。こんなことを話すつもりはなかったんだが、今となってはたいしたことじゃない。クリスタル・キングズリーもまた少々、男たちに輪くぐりさせることができた。彼女はビル・チェスを跳び込ませたが、ビル・チェスの妻はそれを笑って見過ごすような女ではなかった.。それに、彼女はここでの生活に心底うんざりして、逃げ出したいと思っていたに違いない。しかし、それには先立つものが必要だ。アルモアからせびろうとしたら、デガーモが彼女を探しにやって来た。それで彼女は少し怖くなった。デガーモは何をしでかすか分からない男だ。彼女が彼を心から信用できずにいたとしても仕方がない。そうだろう、デガーモ?」
 デガーモは床の上で足を動かした。「足もとの砂がどんどん下にこぼれ落ちている」彼はにこりともしないで言った。「立っていられるうちにしゃべられるだけしゃべることだ」
「ミルドレッドはクリスタル・キングズリーの車や服や身分証明書やらが特に必要ではなかったが、あれば役に立つ。彼女が持っていた金は大いに役立ったことだろう。キングズリーの話では、彼女は大金を持ち歩くのが好きだった。また、彼女の宝石はいずれ金に換えることができた。このようなことから、彼女を殺すことは理にかなっており、かつ好都合だった。これで動機は片づいた。次は手段と機会についてだ」
「機会は、お誂え向きにやってきた。彼女はビルと喧嘩し、ビルは飲みに出かけた。彼女はビルが酔っぱらうとどれくらい家を留守にするかを知っていた。時間が必要だった。時間が何よりも重要だった。彼女は時間があることを前提としなければならなかった。さもなければすべてのことが崩れ去る。彼女は自分の服を自分の車でクーン湖まで持って行き、そこに隠さなければならなかった。なぜなら、服と車があってはいけなかったからだ。彼女は歩いて帰らねばならなかった。クリスタル・キングズリーを殺し、ミリュエルの服を着せ、湖に沈めなければいけなかった。すべて時間がかかった。殺人そのものについては、酔わせたか、頭を殴って、この小屋のバスタブで溺死させたと考えられる。それが論理的であり、単純でもある。彼女は看護師で死体をどう取り扱えばいいか心得ている。彼女は泳ぎが得意だった。ビルから彼女は泳ぎが上手だったと聞いている。溺死体は沈むものだ。彼女がすべきことは、それを自分の望む深さの水中へと導くことだった。この中に泳ぎが上手い女にできないことは何ひとつない。彼女はそれをやり、クリスタル・キングズリーの服を着て、他に欲しいものを詰め込み、クリスタル・キングズリーの車に乗り込んで出発した。そして、サン・バーナーディーノで思わぬ障害に初めてぶつかった。レイヴァリーだ。
 レイヴァリーは彼女がミュリエル・チェスだと知っていた。彼が彼女を他の誰かとして知っていたとする証拠も理由もない。彼はここで彼女を見かけたことがあり、彼女に会ったときもまたここに来る途中だったのだろう。彼女はそうさせたくなかった。彼が見つけるのは鍵のかかった小屋だけだろうが、ビルと話をするかもしれない。彼女がリトル・フォーン湖を出たことをビルに絶対知られないようにするのが彼女の計画の一部だった。死体が発見された時に身元を確認させるためだ。だから彼女はすぐにレイヴァリーを引っ張り込んだ。それほど難しいことではないだろう。レイヴァリーについて確かなことが一つあるとすれば、彼は女に手を出さずにいられなかったということだ。多ければ多いほどいい。ミルドレッド・ハヴィランドのような目端の利く女にとって、彼を手玉に取ることなど容易いことだったろう。そこで彼女は彼を口説いて一緒に連れ出した。エルパソに連れて行き、彼に気づかれることなく電報を打った。最後に彼女は彼をベイ・シティに連れ帰った。 おそらくどうしようもなかったのだろう。彼は家に帰りたがり、彼女は彼から眼を離すわけにはいかなかった。彼女にとって彼は命取りだったからだ。レイヴァリーだけが、クリスタル・キングズリーが実際にリトル・フォーン湖を去ったという工作をぶち壊すことができた。いずれクリスタル・キングズリーの捜索が始まれば、レイヴァリーにも捜査の手が伸びるに決まってる。そうなれば、レイヴァリーの命など一文の価値もない。私がそうだったように、事件に関与していないという彼の否定は初めは信じてもらえないかもしれない。だが、あらいざらいぶちまければ、信じてもらえるだろう。調べれば分かることだからだ。捜索が始まるや否や、レイヴァリーは浴室で射殺された。私が話を聞きに行ったまさにその夜に。それがことのあらましだ。翌朝、彼女が家に戻った理由を除けばね。殺人犯がやりそうな、よくあることだ。彼女は彼に金をとられたからだと言ったが、私は信じない。それより、彼がどこかに金を隠していると考えたか、冷静な頭で仕事ぶりを検討して、すべてが整然と正しい方向を指していることを確認した方がいいと思ったか、あるいは、彼女が言ったように、新聞と牛乳を取り込むためだったかもしれない。どれもあてはまる。彼女は戻ってきて、私に見つかった。そこでひと芝居打って、私はまんまと引っかかったというわけだ」
 パットンは言った。「誰があの女を殺したんだ、若いの? キングズリーには似つかわしくない仕事だろう」
 私はキングズリーを見てから言った。「彼女と電話で話さなかった、とあなたは言った。 ミス・フロムセットはどうですか?  彼女は奥さんと話していると思ったのですか?」
 キングズリーは頭を振った。「そうは思わない。 そんなに簡単に騙されるような女性じゃない。 彼女が言ったのは、ひどく声が変わって沈んでいるようだということだけだった。その時は何の疑いも持たなかった。ここに来るまで疑いもしなかった。昨夜この小屋に入ったとき、何かおかしいと感じたんだ。あまりに清潔できちんとしている。クリスタルなら、ここを出て行くとき片づけたりしない。寝室には服が、家中には煙草の吸殻が、台所には瓶やグラスが散らかっているはずだ。洗っていない食器には蟻や蠅がたかっていただろう。ビルの奥さんが掃除したのかもしれないと思ったが、ビルの奥さんにはできなかっただろう、あの特別な日には。ビルと喧嘩して、殺されたのか、自殺したのか、どっちにしてもそんなことをしている暇はなかったはずだ。あれこれ考えてはみたが、こんがらがっていて、何も見つけられていない」
 パットンは椅子から立ち上がりポーチに出た。彼はタン・カラーのハンカチで唇を拭きながら戻ってきた。再び座ったが、右腰に銃のホルスターがあるので、左の尻を椅子に落ち着けた。そして、考え深げにデガーモを見た。デガーモは壁にもたれて、からだを硬くして、身じろぎもせず、石像のように立っていた。右手はだらりと下げたままで指は内側に曲げられていた。
 パットンが言った。「誰がミュリエルを殺したかをまだ聞いてない。それもショーの一部なのか、それともまだ解明されていないのか?」
 私は言った。「彼女は殺されなければならないと思った男、彼女を愛しながら憎んでいた男、 これ以上彼女が人を殺して逃げ続けるのを放っておけない程度には警官であり、彼女を逮捕して全容を明らかにするほどには警官になり切れなかった男。デガーモみたいな男だ」

【解説】

「どうして彼がそれを疑ったりするんだ?」は<Why would he even have a doubt about it?>。田中訳は「ビル・チェスが疑いをもつほうがおかしい」。清水訳は「なぜ彼が疑いもしなかったのか?」。村上訳は「なぜ彼はそのことに疑問を露ほども抱かなかったか?」。この場合の<why would>は「いったいなぜ(そんなことをするわけ?)」という意味だ。清水、村上訳のように考えるなら<why does he>となる。

「彼にとっては何の関わりもない女だったんだ」は<She didn't enter the picture anywhere for him>。田中訳は「そんなことはほんのちょつとも、頭にはうかばなかつたにちがいない」。清水訳は「彼にとって、夫人はまったく登場しない人物なのだった」。村上訳は「彼の視野のどこにも、もう彼女の姿は入ってこなかった」。<enter the picture>は「登場する、姿を見せる」という意味もあるが「(事態に)関わる」という意味もある。

「足もとの砂がどんどん下にこぼれ落ちている」は<The sands are running against you, fellow>。田中訳は「足もとの砂は、どんどんくずれていつてる」(ドガーモはむつつりした顔でいつた)。清水訳は「お前さんだっていつまでも事がうまく運ぶと思ってたらまちがいだよ」(と、彼はおどかすように言った)。村上訳は「おまえさん、このままで済むと思うなよ」(と凄みをきかせて言った)。<sands are running (out)>は「(砂時計の)砂が尽きようとしている」つまり、「残り時間が少なくなる」ということだ。デガーモは脅しているのではない。最後の時が来たと分かっているのだ。

「彼女は殺されなければならないと思った男」は<Somebody who thought she needed killing>。田中訳は「ミルドレッド・ハヴィランドを生かしてはおけないとおもつた者」。清水訳は「犯人はミュリエルは殺されなければならぬと考えた男が殺したんだ」。村上訳は「殺人が彼女の習性になっていると思った誰かです」。

村上訳だけが異なっているが、<need ~ing>は受け身で訳さなければいけない、という約束を村上氏が知らなかったのだろう。普通は<need>の前には「人」ではなく「物」がくる。当の女性が死んでいるので「物」扱いになっているのだろう。また、<she>を田中訳は「ミルドレッド」清水訳は「ミュリエル」としているが、マーロウはパットンに答えている格好で、実はデガーモにも聞かせている。ここでは「彼女」としておくのが順当だろう。