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"Leave someone holding the bag"の誰かは、必ずしも鞄を抱えているわけではない
【訳文】
彼がドアを開けると、居間のざわめきが我々の顔に炸裂した。以前よりもさらに大きくなったように感じた。まるでグラス二杯分くらい飲んだ後のような、そんな感じだった。ウェイドはあちこちで挨拶し、人々は彼に会えて喜んでいるようだった。しかし、その頃には、いま目にしてる男が、特注のアイスピックを手にしたピッツバーグ・フィルだったとしても喜んでいただろう。人生とは、ただの大きなヴォードヴィル・ショーに過ぎない。
バーへ向かう途中、ドクター・ローリングとその妻と顔を合わせた。ドクターは立ち上がり、ウェイドに向き合った。その表情は、まるで憎しみに苛まれているかのようだった。
「ようこそ、ドクター」ウェイドは親しげに言った。「やあ、リンダ。ここんとこ、ごぶさただったじゃないか? いや、聞くも愚かなことだった。こっちが――」
「ミスタ・ウェイド」ローリングは震える声で言った。「きみに言うことがある。とても単純なことで、これっきりにしたい。妻に近づくな」
ウェイドはけげんな顔で彼を見つめた。「ドクター、お疲れのようだ。それに飲んでもいない。一杯持ってこよう」
「私は飲まない、ミスタ・ウェイド。知っての通り。私がここへ来たのは目的があってのことで、それは今果たした」
「まあ、言いたいことは分かった」ウェイドは相変わらず愛想よく言った。「それにあなたはこの家の客だから、私としては、あなたは何か見当違いをしているようだ、としか言いようがない」
近くの話し声が途絶えた。男も女も皆、聞き耳を立てていた。こいつは見ものだ。ドクター・ローリングはポケットから手袋を取り出し、まっすぐに伸ばすと、片方の指先をつかみ、ウェイドの顔に思い切り振り下ろした。
ウェイドは瞬きひとつしなかった。「夜明けにピストルとコーヒーかい?」彼は静かに訊いた。
私はリンダ・ローリングを見た。怒りで顔が真っ赤になっていた。ゆっくり立ち上がるとドクターに向き合った。
「まったく、なんて大げさな人なの、ダーリン。いい加減馬鹿げた真似はやめてくれない? それとも、誰かに引っぱたかれるまでここに居座るつもり?」
ローリングは彼女の方を振り向き、手袋を構えた。ウェイドが割って入った。「落ち着くんだ、ドク。この辺りじゃ、妻に手を上げるのは人目のないところでだけだ」
「きみ自身のことを話してるのか? それならよく分かるが」ローリングは嘲笑った。「きみからマナーを教えてもらう気はない」
「見込みのある弟子しかとらないんでね」ウェイドは言った。「こんなに早くお帰りとは残念だ」それから声を張り上げた。「キャンディ! Que el Doctor Loring salga de aqui en el acto!(ドクター・ローリングを今すぐここから連れ出せ)」そしてドクターに向き直った。「スペイン語が不案内なら、ドクター、今のは、お帰りはあちら、という意味だ」と言って指さした。
ローリングは微動だにせず彼を見つめた。「警告したぞ、ミスタ・ウェイド」と彼は氷のような声で言った。「何人もの人が私の言葉を聞いている。二度と警告はしない」
「それがいい」とウェイドはぶっきらぼうに言った。「でも、どうしてもやるなら、中立の場所でやれ。そうすれば、私の行動の自由がもう少し広がる。すまん、リンダ。だが、彼と結婚したのはきみだ」彼は、手袋の分厚い部分で殴られた頬をそっとさすった。リンダ・ローリングは苦々しい笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「失礼する」ローリングは言った。「来るんだ、リンダ」
彼女は座り直してグラスに手を伸ばし、夫に静かな侮蔑の眼を向けた。「あなたは帰って」と彼女は言った。「いくつか往診の予定が入ってたはずよ、忘れないで」
「一緒に帰るんだ」と彼は激怒して言った。
彼女は彼に背を向けた。彼は突然手を伸ばし、彼女の腕をつかんだ。ウェイドは彼の肩をつかみ、くるりと振り向かせた。
「落ち着けよ、ドクター。何だって思い通りになるわけじゃないさ」
「手を放せ!」
「わかった、ちょっと落ち着こう」ウェイドは言った。「いい考えがある、ドクター。いい医者に診てもらったらどうかな?」
誰かが大声で笑った。ローリングは今にも飛びかかろうとする獣のように身構えた。ウェイドはそれを察し、さりげなく背を向けて立ち去った。ドクター・ローリングは窮地に立たされた。ウェイドを追いかければ、今以上に滑稽に見えるだろう。彼に残された道は立ち去ることだけだった。そして彼はそうした。キャンディがドアを開けているところまでまっすぐ前を見つめながら、彼は足早に部屋を横切った。彼が出て行くと、キャンディは無表情でドアを閉め、バーに戻った。私はそこへ行き、スコッチを頼んだ。ウェイドがどこへ行ったのかは分からなかった。彼は忽然と姿を消した。アイリーンも見当たらなかった。私は湧きかえる部屋に背を向け、素知らぬ顔でスコッチを飲んだ。
泥のような色の髪の、額にバンドを巻いた小柄な娘が私のそばにひょっこり現れ、グラスをカウンターに置いて哀れっぽい声を出した。キャンディはうなずき、お代わりをつくった。
小柄な娘は私の方を向いた。「共産主義に興味ある?」と彼女は尋ねた。とろんとした目をして、まるでチョコレートのかけらを探すかのように、小さな赤い舌を唇に這わせていた。「みんな興味を持つべきだと思う」と彼女は続けた。「でも、ここにいる男の人に聞いても、みんなただ触りたがるだけなの」
私は頷き、グラスごしに彼女の低い鼻と日焼けで荒れた肌を見た。
「まあ、うまくやってくれれば、それほど気にしないわ」と彼女は言い、新しい飲み物に手を伸ばした。彼女はそれを半分ほど飲み干すとき、臼歯まで見えた。
「ご期待にはそえない」と私は言った。
「何て名前?」
「マーロウ」
「後ろにeはつく、つかない?」
「つく」
「嗚呼、マーロウ」と彼女は詠うように言った。「なんて悲しくも美しい名前」。彼女はほとんど空っぽになったグラスを置き、目を閉じ、頭を後ろに反らせて両腕を広げた。その腕が、私の目に当たりそうになった。彼女の声は感情で震えながら、こう言った。
これが、千隻の船を送り出し
イリウムのいと高き塔を焼き払った顔なのか?
愛しきヘレネよ、その接吻もて我に不死を与えよ
彼女は目をあけ、グラスをつかみ、私にウィンクした。「あれはなかなかの出来よ。近頃、詩は書いてないの?」
「あんまり」
「キスしてもいいよ、したかったら」と彼女ははにかみながら言った。
シャンタン地のジャケットに開襟シャツを着た男が彼女の後ろに近づき、その頭越しに私に向かってにやりと笑った。短い赤毛で、空気の抜けた肺みたいな顔をしていた。今まで見た中で一番の醜男だった。彼は娘の頭を軽く叩いた。
「さあ、仔猫ちゃん。家に帰る時間だよ」
彼女は怒り狂って男に食ってかかった。「つまりあんたはあのろくでもない球根ベゴニアにまた水をやらなきゃいけないの?」と彼女は怒鳴った。
「まあ聞いてくれ、仔猫ちゃん」
「手を離せ、この強姦犯!」彼女は叫び、グラスに残っていた酒を彼の顔にぶちまけた。残っていたのはティースプーン一杯分と氷の塊二つだけだったが。
「おいおい、ベイビー、おれはおまえの夫だぞ」と彼は叫び返すと、ハンカチをつかんで顔を拭いた。「わかるか? おまえの夫なんだぞ」
彼女は激しく泣きじゃくり、彼の腕の中に飛び込んだ。私は二人の間をすり抜け、その場を立ち去った。カクテルパーティーはどこも同じだ。会話さえも。
家からは客たちが夕闇の中へと漏れ出していた。話し声は次第に遠ざかり、車のエンジンがかかり、別れの挨拶はゴムボールのように飛び交っていた。フランス窓へと歩み寄り、石敷きのテラスへと出た。地面は湖に向かって緩やかに傾斜しており、湖面は眠る猫のように微動だにしなかった。湖畔には短い木製の桟橋があり、一艘の手漕ぎボートが白い舫い綱でつながれていた。それほど遠くない対岸の方へ、一羽のオオバンがスケーターのようにゆったりとした弧を描いて泳いでいた。その動きは、かすかな波紋さえ立てないようだった。
私はクッション付きのアルミ製長椅子に身を横たえ、パイプに火をつけてのんびりと煙草をくゆらせながら、一体ここで何をしているんだと考えた。ロジャー・ウェイドは、本気でやろうと思えば、自分一人でどうにかなるだけの自制心を持っているようだった。ローリング相手にも、彼はうまくやってのけていた。もし彼がローリングのとがった小さな顎に一発食らわせていたとしても、さほど驚かなかっただろう。ルールからは外れていただろうが、ローリングの外れ方ははるかに度を越していた。
もしルールにまだ何らかの意味があるとするなら、男を脅して手袋で頬を張る場として人で溢れかえった部屋を選ぶべきではない。まして妻がすぐ隣にいて、事実上その浮気を責めている状況ならなおさらだ。深酒との闘いでふらふらの男にしては、ウェイドはよくやった。それどころか、それ以上だった。もちろん、私は彼が酔っ払っているところを見たことがなかった。酔っ払った彼がどんな風になるのかも知らなかった。彼がアルコール依存症だということさえ知らなかった。そこには大きな違いがある。たまに飲みすぎる男は、酔っていない時と変わらない。だが、アルコール依存症、本物のアルコール依存症の男は、全く別人だ。彼が以前会ったことのない人物になるということ以外、彼について確実に予測できることは何もない。
背後から軽い足音が聞こえ、アイリーン・ウェイドがテラスを横切ってやって来て、長椅子の端に腰を下ろした。
「それで、どう思ったの?」彼女は静かに尋ねた。
「あの、手袋を気ままにさせる紳士のことかな?」
「まさか」彼女は眉をひそめた。それから笑った。「あんな大げさな芝居を打つ人って大嫌い。彼が悪い医者だと言ってるわけじゃない。彼はヴァレーの男の半分を相手に、あんな場面を演じてきた。リンダ・ローリングは身持ちの悪い女じゃない。見た目も、話し方も、振る舞いも、そんな風じゃない。ドクター・ローリングが、まるで彼女がそんな女であるかのように振る舞うのか、私にはさっぱり分からない」
「改心した酔っ払いなのかもしれない」と私は言った。「そういう人物はかなり禁欲的になりがちだ」
「あり得るわね」と彼女は言い、湖の方を見た。「ここはとても静かな場所。作家ならきっとここで幸せになれると思う――もし作家がどこかで幸せになれるとしたら、だけど」彼女は私の方を向いた。「それで、あなたはロジャーの頼みを聞き入れないのね」
「意味がない、ミセス・ウェイド。私にできることは何もない。前にも言ったが、ちょうどいいタイミングでそばにいられる保証がない。常にそばにいなければならない。たとえ他に何もすることがなかったとしても、それは不可能だ。たとえば、彼が暴れだしたとしても、それは一瞬の出来事だ。それに、彼が暴れる兆候は今のところ見当たらない。私には、彼はかなりしっかりしているように見える」
彼女は自分の手に目を落とした。「本を書きあげることができたら、何もかもずっとよくなると思う」
「その手伝いはできない」
彼女は顔を上げ、隣の長椅子の縁に両手を置いた。そして少し身を乗り出した。「彼があなたにできると思えば、できるのよ。それが肝心な点なの。私たちの家に客として招かれて、報酬をもらうことが気に入らないの?」
「ミセス・ウェイド、彼には精神科医が必要だ。もし、怪しげでない医者を知っているなら」
彼女は驚いたようだ。「精神科医? どうして?」
パイプの灰を払い落とし、それを手に持ちながら、ボウルが冷めるのを待ってから片付けることにした。
「素人考えが聴きたいなら、こうだ。彼は自分の心のなかに秘密が埋もれていて、自分では見つけられないと思っている。自分自身についてのやましい秘密かもしれないし、他人に関することかもしれない。それが何かわからないから酒を飲むのだと思っている。おそらく何が起きたにせよ、泥酔している間に起きたと考えていて、それを見つけるには、酔っ払いなら誰でも向かうところに行くしかないと思っているのだろう――彼が陥ったようなひどい泥酔状態になるしかない、と。そんなのは精神科医の仕事だ。ここまではいい。もしそれがまちがってたら、彼はしたいから、あるいはせずにはいられないから酔うのであって、秘密だのなんだのはただの言い訳ということになる。彼は本が書けない、あるいは少なくとも書き終えられない。なぜなら、酔っ払ってしまうから。つまり、彼が本を書き終えられないのは、酒に溺れて意識を失っているからだという前提があるようだ。実際は逆かもしれない」
「いいえ、それはない」と彼女は言った。「ロジャーには素晴らしい才能がある。彼の最高傑作はこれから生まれると確信してる」
「素人考えだって言っただろう。きみは先日の朝、彼が妻への愛を失ったのかもしれないと言っていた。それもまた、逆かもしれない」
彼女は家の方を見て、それから家に背を向けた。私も同じ方を見た。ウェイドがドアの内側に立って、私たちを見ていた。私が見ていると、バーカウンターの後ろに回り込み、ボトルに手を伸ばした。
「口出ししても無駄」と彼女は早口で言った。「私は決してしない。絶対に。ミスタ・マーロウ、あなたの言う通り。彼がやりたいようにさせるしかないみたい」
パイプが冷えたのでしまった。「どうせ引き出しの奥を手探りで探しているんだ。さっきの逆についてはどう思う?」
「私は夫を愛してる」と彼女は淡々と言った。「若い娘が愛するような感じではないかもしれない。でも、愛してる。女が若い娘でいられるのは、一度きりだから。あの頃愛していた人はもう死んでしまった。戦争で死んだの。奇妙なことに、彼のイニシャルはあなたと同じだった。今はもうどうでもいいことだけど――ただ、ときどき、彼が本当に死んだなんて信じられないことがある。遺体は見つからなかった。でも、そんなことは多くの男性に起こったことだから」
彼女は探るようにじっと私を見つめた。「ときどき――もちろんめったにないけど――静かなカクテルラウンジや品のいいホテルのロビーに人けのない時間帯に行ったり、客船のデッキを早朝や深夜に歩いたりすると、どこかの薄暗い片隅で彼が私を待っているような気がするの」彼女は言葉を切り、目を伏せた。「馬鹿げている。恥ずかしい。私たちは深く愛し合っていた――一生に一度きりしか訪れない、激しく、神秘的で、あり得ないような愛を」
彼女は話をやめ、半ば放心状態でそこに座って湖面を眺めていた。私は再び家の方を見た。ウェイドが開け放たれたフレンチ・ウィンドウのすぐ内側に立っていて、グラスを手に持っていた。私は再びアイリーンを見た。彼女にとって、私はもうそこにいなかった。私は立ち上がり、家の中に入った。ウェイドはそこに立って、飲み物を手にしていた。かなり強い酒のようだった。彼の目はどこかおかしかった。
「妻といちゃついてたのか、マーロウ?」口元を歪めてそう言った。
「口説いてなどいない。そういう意味なら」
「まさにそういう意味だよ。この前彼女にキスしたんだろ? きっと手際がいいと思ってるんだろうが、時間の無駄なんだよ。たとえあんたがその方面の手管にどれだけ長けていたとしても」
彼を避けようとしたが、頑丈な肩で行く手をはばまれた。「そんなに急がなくてもいいだろう。きみがいてくれるとありがたいんだ。うちには私立探偵なんてめったに来ないからね」
「適量より一杯多い酒というものがある。私がそれだ」と私は言った。
彼はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。グラスを下ろすと、横目で私を見た。
「もう少し時間をかけて、抵抗力をつけるべきだ」と私は彼に言った。「余計なお世話か?」
「オーケイ、コーチ。ちょっとした人格形成術でもやってるつもりか? 酔っ払いに説教なんてしようとするなんて、もっと分別があるべきだ。酔っ払いは人を教育なんかしない、友よ。彼らは崩壊していくんだ。そしてその過程のいくつかは、実に楽しいものさ」彼は再びグラスに口をつけ、ほとんど空になるまで飲み干した。「そしてその過程の一部は、ひどく辛いものだ。だが、あの黒鞄を持ったろくでなしのドクター・ローリングの輝かしい言葉を引用させてもらおう。マーロウ、妻に近づくな。気があるのは知ってる。みんなそうだ。寝たいんだろう。みんなそうだ。彼女の夢を分かち合い、彼女の思い出の薔薇の香りを嗅ぎたいだろう。私もそうかもしれない。だが、分かち合うものなど何もないのだ、友よ――何も、何ひとつ、これっぽっちも。きみは暗闇の中に一人取り残される」彼は飲み干し、グラスを逆さまにした。「こうやって空っぽになるんだ、マーロウ。何も残っていない。私はそれを知る者だ」
彼はグラスをバー・カウンターの端に置き、ぎこちない足取りで階段まで歩いて行った。手すりにつかまりながら十二段上り、そこで立ち止まって手すりに寄りかかった。そして、不機嫌そうな笑みを浮かべながら私を見下ろした。
「つまらない当てこすりを言ってすまなかったな、マーロウ。きみはいいやつだ。君に何かあるといけないと思ってね」
「どんなことが?」
「たぶん、彼女はまだ初恋相手にかけられた忘れがたい魔法から抜けきれていないんだろう。ノルウェイで行方不明になったという男のことだ。きみだって行方不明になりたくはないだろう? きみは私のための特別な私立探偵だ。セプルヴェダ・キャニオンの野蛮な光輝のなかに迷い込んだとき、きみが私を見つけてくれる」彼は磨き上げられた木製の手すりの上で、手のひらを円を描くように動かした。「きみが行方不明になったら、骨の髄まで傷つくよ。イギリス人水兵といっしょに出かけたあの男みたいにね。あいつはあまりにも影が薄くなってしまい、時には本当に存在したのかさえ疑わしくなるほどだった。もしかして、彼女はただのおもちゃとして、あいつをでっち上げただけなんじゃないか?」
「どうしてそんなことが私に分かるんだ?」
彼は私を見下ろした。眉間には深い皺が刻まれ、口元は苦々しさで歪んでいた。
「そんなこと誰にわかる? もしかしたら彼女自身もわかっていないのかもしれない。ベイビーは疲れた。壊れたおもちゃで遊びすぎた。ベイビーはもうバイバイしたいんだ」
彼は階段を上がっていった。
キャンディが入ってきて、バーの周りを片付け始めるまで私はそこに立っていた。彼はグラスをトレイに載せ、ボトルを確かめて残量を確認し、私には全く構わない様子だった。少なくとも、そう思っていた。すると彼は言った。「セニョール。いい酒がまだ一杯分残ってます。無駄にするのはもったいない」彼はボトルを掲げた。
「きみが飲めばいい」
「グラシアス、セニョール、no me gusta (好きじゃない). Un vaso de Cerveza, no más.( ビール一杯が限度です)」
「賢いな」
「家に酔っ払いは一人で十分」と彼は私をじっと見つめながら言った。「私は英語が上手ですか?」
「ああ、いいね」
「でも、俺はスペイン語で考える。時にはナイフで考えることもある。ボスは俺のものだ。誰の助けもいらない、オンブレ。俺が面倒を見る、わかるな」
「立派な仕事ぶりだな、チンピラ(punk)」
「Hijo de la flauta(フルートの息子)」と彼は白い歯の間から言った。彼は山盛りのトレイを持ち上げ、肩の縁と手のひらで支えた。給仕スタイルだ。
私は玄関まで歩いて行き、外へ出た。なぜ「フルートの息子」という意味の表現が、スペイン語では侮蔑語になってしまったのか、不思議に思いながら。だが、そのことを長く考え続けることはなかった。他にも考えなければならないことが山ほどあったからだ。ウェイド家には、アルコール以上の何かがあった。アルコールは、偽装された反応に過ぎなかったのだ。
その夜遅く、九時半から十時の間に、ウェイド家の番号に電話をかけた。八回コールが鳴った後、受話器を置いたが、電話を切った途端、また鳴り出した。アイリーン・ウェイドだった。
「さっき誰かから電話があって」と彼女は言った。「なんとなくあなたかもしれないって気がしたんだけど、ちょうどシャワーを浴びようとしていたところだったので」
「私がかけたんだが、たいしたことじゃない、ミセス・ウェイド。お宅から帰るときに、ちょっとぼんやりしていたようだったので――そう、ロジャーのことだ。今になって、私にも少しばかり責任があるような気がしてきて」
「彼なら大丈夫」と彼女は言った。「ベッドでぐっすり眠ってる。ドクター・ローリングは、見た目よりずっと彼を動揺させたようね。あなたにもきっといろんな馬鹿げたことを話したんでしょう」
「疲れたので寝たいと言っていた。なかなか分別がある、と思った」
「もし彼が言ったのがそれだけなら、そうね。では、おやすみなさい、わざわざ電話をありがとう、ミスタ・マーロウ」
「言ったのがそれだけだとは言っていない。ただ、彼がそう言ったと言っただけだ」
少し間があった。それからこう言った「誰だってたまにはとんでもないことを思いつくものよ。ロジャーのことをあまり真に受けないで、ミスタ・マーロウ。結局のところ、彼の想像力はかなり豊かだから。当然といえば当然だけれど。前回から間もないのに、また酒を飲むべきじゃなかった。どうかこの件はすっかり忘れて。あなたに対して、他にも失礼なことをしたと思うけど」
「いや失礼なことなどしなかった。彼はとても理にかなっていた。あなたの夫は、自分自身をじっくりと見つめ、そこに何があるのかを見極めることができる人だ。それは滅多にない才能だ。たいていの人は、持ってもいない威厳を守ろうと、人生の半分ものエネルギーを費やして過ごしているのだから。おやすみ、ミセス・ウェイド」
彼女が電話を切ったので、私はチェス盤を広げた。パイプに煙草を詰め、閲兵のためにチェスの駒を整列させ、髭が剃られているか、緩んだボタンがないか点検し、ゴルチャコフ対メニンキンの選手権トーナメントの対局を再現した。七十二手で引き分け。静止物体が不可抗力に遭遇する見事な実例、甲冑なき戦い、流血なき戦争、広告代理店以外ではどこにも見られないほど精巧な、人間の知性の無駄遣い。
【解説】
ウェイド邸で開かれているパーティーに参加したマーロウは、ドクター・ローリングの奇矯な振舞いを目にする。ウェイドにいいようにあしらわれたドクターが帰った後、ウェイド夫妻と話したマーロウは夫妻が何かを隠しているような様子を感じる。
" if possible"は「もし可能なら」
It seemed louder than before, if possible. About two drinks louder.(以前よりもさらに大きくなったように感じた。まるでグラス二杯分くらい飲んだ後のような、そんな感じだった)
" if possible"は、「もし可能なら」「できれば」を意味し、相手に無理をさせず、控えめに願望や希望を伝える際に非常に便利なフレーズで、文頭や文末にコンマを置いて使う。このちょっとしたフレーズを清水は例によってカット。村上は「信じ難いことだが、音量は前より更に上がっているみたいだ。おおよそ酒の二杯分、騒ぎが大きくなっている」。田口は「ざわめきは先ほどより大きくなっていた。そういうこともありうるとすれば。グラス約二杯分大きくなっていた」。市川は「そしてその騒音は以前にもまして騒々しくなったようだった。まあ実際は同じなのだろうけれど。とにかく、カクテル二杯を余計に飲んでわめかれるぐらいうるさく聞こえた」といつものように言葉を使い惜しみせず、読者にそのニュアンスを伝えようとしている。
"Pistols at dawn"は「決闘」
"Pistols and coffee at dawn?"(「夜明けにピストルとコーヒーかい?」)とウェイドはローリングに訊くのだが、どうしてそこにコーヒーが並ぶのかがよく分からない。だからこれまでの訳者はそのまま訳しているのだが、市川だけが「暁の決闘状か、どうせあんたのことだ、決闘じゃなくコーヒー味がする「暁の決闘」銘柄のビールが飲みたいんだろう?」と、とんでもない珍説を披露している。この訳者はよく分からないものが出てくるとネット検索するのが癖のようだ。因みに(コーヒー味がするかどうかは知らないが)、ネット上には"Pistols at dawn"という名のビールが存在する。ただし、2026年に発売されたばかりというから、ウェイドが知ってるはずがない。
"Dear God, what a ham you are, darling. Stop acting like a damn fool, will you, darling? Or would you rather stick around until somebody slaps your face?"(まったく、なんて大げさな人なの、ダーリン。いい加減馬鹿げた真似はやめてくれない? それとも、誰かに引っぱたかれるまでここに居座るつもり?)
“ham”は「演技が大げさ過ぎる、大根役者」
“what a ham”は、誰かが人前で大げさな態度をとったり、わざと目立つような振る舞いをしたりしたときに、使われる英語の慣用句だ。しかし、清水も村上も「なんというばか(傍点二字)なことをなさるの」、「まったくもう、いい加減にしてよ」、と、ぼかした訳になっている。田口がはじめて「まったく。たいした役者さんなのね」と訳したが、市川は「全く、なんてことするの!皆さん見てるじゃない!」と元に戻している。ここは、ドクター・ローリングがどんな人物で、妻がそれをどう見ているかが他者の前で明かされる大事な場面である。ローリングが「大げさな演技をする大根役者」みたいな人間であるとはっきりさせるほうがいい。
“call to make”は「ちょっと立ち寄る」
She gave her husband a glance of quiet contempt. "You are," she said, "You have a number of calls to make, remember."(「あなたは帰って」と彼女は言った。「いくつか往診の予定が入ってたはずよ、忘れないで」)
清水訳は「一人でお帰りなさい。往診の約束がいくつもありましたわ」。“call to make”は「ちょっと立ち寄る」といった短い時間の滞在で、特に医者や営業の人などが仕事として行う公式な訪問を指す。村上も「いくつか往診の予定が入っていたはずよ」とほぼ同じ。ところが、田口は「あちこち電話をかけなくちゃならないんじゃなかった? 忘れたの?」と訳している。市川も「あなたには電話して様子を聴かなきゃならない患者さんが何人もいるのよ、忘れたの?」だ。医者が電話で診療するなどあり得ない。
"Leave someone holding the bag"の誰かは、必ずしも鞄を抱えているわけではない
Loring tensed like an animal all set to spring. Wade sensed it and neatly turned his back and moved away. Which left Dr. Loring holding the bag. If he went after Wade, he would look sillier than he looked now. There was nothing for him to do but leave, and he did it.(ローリングは今にも飛びかかろうとする獣のように身構えた。ウェイドはそれを察し、さりげなく背を向けて立ち去った。ドクター・ローリングは窮地に立たされた。ウェイドを追いかければ、今以上に滑稽に見えるだろう。彼に残された道は立ち去ることだけだった。そして彼はそうした)
“Which left Dr. Loring holding the bag.”を村上は「ドクター・ローリングは鞄を抱えたままそこに取り残された」と訳している。田口も「鞄を持ったままその場に残された」と村上訳を踏襲している。英語で"Leave someone holding the bag"といえば、「(問題や責任を)一人に押し付ける」「尻拭いをさせる」「貧乏くじを引かせる」という意味の慣用句。他の人が逃げたり責任を放棄したりした後に、取り残された人が不公平にすべての責任を負わされる状況を指す。
市川訳は「いきり立ったはいいが突然相手を失ったドクターはぽかんとした、その間抜け面を晒すしかなかった」と意訳しているが、鞄については言及していない。清水訳は「ローリング博士は機先を制されて、取り残された」と訳している。旧訳のままでよかったのではないか。