marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

ジャガーはマーロウの車を追いこしたのか?

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【訳文】

車高の低いジャガーが目の前の丘を回り込み、花崗岩の粉塵で私の車が埃塗れにならないように速度を落とした。アイドル・ヴァレーの入口に続く半マイルの道は、高速道路での気ままなドライブに慣れた日曜ドライバーを遠ざけるため、わざと荒れたままに放置しているようだ。鮮やかなスカーフとゴーグルがちらりと見えた。お隣同士というようにさりげなく手が振られた。すると粉塵が道路を滑るように流れ、すでに灌木や日に灼けた草の上を蔽っていた白い膜に重なった。岩の露頭を回り込むと舗装はきちんと整備され、すべてが滑らかで手入れが行き届いていた。道沿いにオークの木々が通り過ぎる者を覗き見るように群生していた。赤い頭の雀が跳ね回り、雀だけがつつく価値があると思うようなものをつついていた。

それからハコヤナギが数本現れたがユーカリは見あたらなかった。鬱蒼と生い繁るクロヤマナラシの向こうに見え隠れする白い家。路肩に沿って馬を歩かせている少女。ジーンズに派手なシャツを着て、小枝を噛んでいる。馬は暑そうだが汗はかいておらず、少女は優しく馬に歌いかけていた。自然石を積んだ塀の向こう、大きく波打つ芝生の上で庭師が動力式芝刈り機を動かしていた。芝生は遥か遠くに建つウィリアムズバーグ・コロニアル風邸宅の特大サイズのポルティコまで続いていた。どこかで誰かがグランドピアノで左利きのための練習曲を弾いていた。

やがて、こうしたことのすべては消え去り、湖面のきらめきが暑く眩く見えてきて、私は門柱の番号に注意し始めた。ウェイド邸を見たのは一度きり、しかも暗闇の中でだった。夜見たほど大きくはなかった。私道は車でいっぱいだったので、道路脇に車を停めて中に入った。白い上着を着たメキシコ人の執事がドアを開けてくれた。細身でこざっぱりしたハンサムなメキシコ人で、上着をエレガントに着こなしていた。週五十ドルもらっていながら、額に汗する仕事などしそうにないタイプのメキシコ人に見えた。

彼は「Buenas tardes(いらっしゃいませ)、セニョール」と言い、揶揄ってでもいるかのようににやりと笑った。「Su nombre de Usted,por favor?(お名前をお伺いできますでしょうか?)」

「マーロウ」と私は言った。「いやにすましてるじゃないか、キャンディ? 電話で話したろう、忘れたのか?」

彼はにやりと笑って私を通した。いつものカクテルパーティーだった。誰もが大声で話し、誰もが耳を傾けず、誰もが必死に酒のグラスにしがみつき、目を輝かせ、頬は飲んだアルコールの量と個人の許容量によって赤らんでいたり、青白く汗ばんでいたりする。そのとき、アイリーン・ウェイドが淡い青色の何かを纏って私のそばに現れた。それは彼女の美しさを損なうものではなかった。グラスを手にしていたが、単なる小道具にしか見えなかった。

「来てくれて本当に嬉しいわ」と彼女は真面目くさって言った。「ロジャーが書斎であなたに会いたいって。彼はカクテルパーティーが嫌いなの。今は仕事中」

「こんな騒ぎの中で?」

「全然気にしていないみたい。キャンディに飲み物を持って来させましょう。それともバーに行く方がよければ」

「そうしよう」と私は言った。「この間の夜はすまなかった」

彼女は微笑んだ。「たしか、もう謝っていただいたはず。何でもないことだし」

「何でもないってことはないだろう」

彼女は頷くのに十分なだけ微笑みを保つと振り返って立ち去った。バーは部屋の隅の馬鹿でかいフランス窓のそばにあった。よくある移動式のバーだ。誰かにぶつからないように気をつけて部屋の真ん中まで歩いた時、声がした。「あら、ミスタ・マーロウ」

振り返ると、ミセス・ローリングがカウチに座っていた。隣には縁なし眼鏡をかけた気取った風貌の男がいて、顎に山羊鬚なのか染みなのか判然としない何かがついていた。彼女は飲み物を手に退屈そうにしていた。男は腕を組んだままじっと座り、しかめっ面をしていた。

私はそちらへ行った。彼女は微笑みながら手を差し出した。「こちらは私の夫、ドクター・ローリング。エドワード、こちらはミスタ・フィリップ・マーロウ」

山羊髭の男は私を一瞥し、それよりさらに短く頷いた。それ以外は動かなかった。より良きことのためにエネルギーを温存しているようだった。

「エドワードはとても疲れてるの」とリンダ・ローリングは言った。「エドワードはいつもとても疲れてるの」

「医師にはありがちなことだ」私は言った。「何か飲み物でも取って来ようか、ミセス・ローリング? ドクター、あなたは?」

「彼女はもう充分だ」男はふたりのどちらの顔も見ずに言った。「私は酒を飲まない。飲む人を見れば見るほど、飲まないでよかったと思う」

「愛しのシバよ帰れ」と、ミセス・ローリングは夢見るように言った。

彼は振り返って妻の顔を凝視した。私はそこから立ち去り、バーにたどり着いた。夫と一緒にいると、リンダ・ローリングはまるで別人のようだった。声には棘が感じられ、表情には嘲りが浮かんでいた。怒っている時でさえ、私には決して見せなかったような表情だった。

キャンディがバーの向こうにいた。何を飲むか訊いてきた。

「今はいい、ありがとう。ミスタ・ウェイドが私に会いたがってる」

「Es muy occupado (すごくお忙しいのです)、セニョール。とても忙しい」

キャンディのことは好きになれそうになかった。黙って見返すと、彼はつけ加えた。「でも、見てきます。De pronto (今すぐ)、セニョール」

彼は群衆の中を巧みにかき分け、あっという間に戻ってきた。「オーケイです、行きましょう」と彼は機嫌よく言った。

私は彼を追いかけ、奥まで続く長い部屋を横切った。彼がドアを開け、私は中へ入り、彼が後ろでドアを閉めると、騒音の多くが消えた。そこは角部屋で、広くて涼しく静かだった。フランス窓の外には薔薇が咲き、片側の窓にはエアコンが設置されていた。湖が見え、ウェイドが白い革張りの長いカウチにぐったりと寝そべっているのが見えた。大きな白木の机にはタイプライターが置かれ、その横には黄色い用箋の山が積まれていた。

「よく来てくれたな、マーロウ」と彼は気だるげに言った。「座ってくれ。もう一、二杯飲ったか?」

「いや、まだ」私は座って彼を見た。まだ少し蒼ざめてやつれてみえた。「仕事の方は進んでるか?」

「進んでるが、すぐ疲れてしまう。四日酔いからの回復がこんなに辛いとはな。宿酔あけに傑作をものしたことは多いんだ。この稼業じゃ、つい力が入り過ぎて、堅苦しく、造り物っぽくなってしまうことがある。そうなるといいものはできない。いいものは自然に流れ出るようにできるものだ。逆のことを読んだり聞いたりしたら、そんなものは戯言の寄せ集めだ」

「作家によるんじゃないか」私は言った。「フローベールは書くのに苦労してるが、作品は素晴らしい」

「オーケイ」とウェイドは言って、上体を起こした。「つまり、きみはフローベールを読んだ。ということは、きみはインテリで、批評家で、文学界の碩学ってことだ」彼は額を揉んだ。「断酒しててね、それが嫌でならない。酒を手にしてるやつらが嫌でならない。外に出て行って、あの気味の悪い連中に笑顔を振り撒かなきゃならないんだ。やつらはみんな全員、おれがアル中だと知ってる。だから、おれが何から逃げてるのか詮索する。フロイト派のどっかのクソ野郎がそういうことを常識にしてしまったせいだ。十歳の子どもなら誰でも知ってる。もし私に十歳の子がいたら――そんなことあってたまるか――ガキは私にこう訊いてくるだろう。『父さん、飲んだくれてるとき、何から逃げてるの?』ってな」

「聞いたところじゃ、こうなったのはつい最近のことだとか」と私は言った。

「よりひどくはなったが、昔から酒は強かった。若く頑健な時はどんなに辛い目にあっても耐えてみせるが、四十歳を目前にすると、昔のようには立ち直れない」

私は背もたれに寄りかかり、煙草に火をつけた。「で、私に話というのは?」

「私は何から逃げてるんだと思う、マーロウ?」

「わからんね。情報が足りない、それに誰しも何かから逃げている」

「誰もが酔っぱらうわけじゃない。きみは何から逃げているんだ? 若さからか、罪の意識からか、それともケチな稼業のケチなやり手だという自覚からか?」

「わかったよ」と私は言った。「あんたは誰か侮辱できる相手がほしいんだ。好きなだけやればいい。辛くなってきたら教えるよ」

彼はにやりと笑い、もじゃもじゃの巻き毛をぐしゃぐしゃにかき回した。人差し指で胸を刺すように指さした。「きみは今まさにケチな稼業のケチなやり手を見ているんだ、マーロウ。作家なんて皆ろくでなしで、おれはその中でも最もろくでなしだ。ベストセラーを十二冊書いた。机の上のあの山積みの原稿を書き終えたら、十三冊目も書けるかもしれない。だが、そのどれ一つとして、何の値打ちもない。このあたりは限られた者だけが知る億万長者の地所で、部外者の立ち入りが厳しく制限されている。おれはそこに立派な屋敷を構えている。おれを愛してくれる素敵な妻と、おれを愛してくれる素敵な出版社がいる。そして何よりも、おれ自身が自分を愛している。エゴイストのクソ野郎で、文芸に通じた娼婦かヒモか、好きな言葉を選べばいい。そして三拍子そろった下司野郎だ。で、きみは何をしてくれるんだ?」

「さあ、何だろう?」

「なぜ、腹を立てない?」

「腹を立てることなんか何もない。ただあんたの自己嫌悪を傾聴しているだけだ。退屈だが、傷つきはしない」

彼は大仰に笑った。「きみが気に入ったよ」彼は言った。「さあ、一杯やろう」

「ここじゃだめだ。ふたりきりのところでは。あんたが最初の一杯をやるところを見たくない。誰もあんたを止められないし、止めようともしないだろう。だとしても、私が手を貸す義理はない」

彼は立ち上がった。「ここで飲まなくてもいいさ。部屋を出て、あぶく銭を稼いだらお近づきになれそうな、選りすぐりの人々をちらりと見てみようじゃないか」

「よさないか」私は言った。「いい加減にしろ。彼らだって他の連中とたいして変わらない」

「ああ」彼は固い口調で言った。「だが変わっていてしかるべきだ。でなきゃ何の役に立つ? 彼らは郡の上流階級なのに、安ウイスキーで酔っ払ったトラック運転手どもと変わらない。むしろそれ以下だ」

「やめておけ」私は繰り返した。「酔っ払いたければ勝手に酔っ払えばいい。だがな、酔っ払ったからといって、ひとに八つ当たりするんじゃない。連中は酔っ払っていてもドクタ・ヴェリンジャーに診てもらったり、頭がおかしくなって妻を階段から突き落としたりしない」

「たしかに」と彼は言い、急に落ち着きを取り戻し、考え込んだ。「試験は合格だ、相棒。しばらくここに住んでみてはくれないだろうか? きみがここにいてくれるだけで、大いに助かる」

「どうしてそうなるのか、さっぱり分からない」

「私にはわかる。いてくれるだけでいい。月に千ドルでどうだ?  私は酔っ払うと危険になる。危険になんかなりたくないし、酔っ払いたくもない」

「私にはあんたを止められない」

「試しに三カ月。あの忌々しい本を書き終えたら、しばらく遠くへ行く。スイスの山奥で静養して、酒を抜くんだ」

「本を書き終える? そんなに金が必要なのか?」

「そうじゃない。何かを始めたら最後までやり遂げるべきだ。それができなければ、私はもう終わりだ。友人として頼んでいるんだ。きみはレノックスのために、それ以上のことをしたじゃないか」

私は立ち上がり、彼に近づいて睨みつけた。「そのせいでレノックスは死んだ。私が殺したようなものだ」

「ふん、おれのことなら手加減無用だ、マーロウ」彼は手を横にして喉に当てた。「何にでも限度というものがある、腫れ物あつかいに反吐が出そうだ」

「手加減?」私は訊いた。「ただの親切心じゃないのか?」

彼は後ずさりしてカウチの端につまずいたが、バランスを崩すことはなかった。

「勝手にしろ」彼はさらりと言った。「取引はなしだ。もちろん、きみのせいじゃない。私には知りたいことがある、知らなきゃならないことがある。きみにはそれが何かわからないし、私にも確信はない。ただ――確かなのは、何かがあるということだ。そして私ははそれを知らなきゃならない」

「誰のこと? 妻のことか?」

彼は唇を上下に動かした。「私のことだと思う」と彼は言った。「飲み物を取りに行こう」

彼はドアまで歩いて行き、勢いよく開け放ち、私たちは外に出た。

もし私を気まずくさせるのが彼のねらいだったとしたら、見事な仕事ぶりだった。

【解説】

アイドルヴァレーにあるウェイド邸を訪ねるマーロウ。高級住宅地の入り口は部外者を遠ざけるためにわざと一部舗装していない。これだけでどういう人々が住んでいるところなのかよく分かるしかけだ。

ジャガーはマーロウの車を追いこしたのか?

A low-swung Jaguar swept around the hill in front of me and slowed down so as not to bathe me in the granite dust from the half mile of neglected paving at the entrance to Idle Valley.(車高の低いジャガーが目の前の丘を回り込み、花崗岩の粉塵で私の車が埃塗れにならないように速度を落とした)

冒頭から、訳者によって解釈がちがう。ジャガーが「私の車」を追い越してから速度を落とした、というのが清水訳と市川訳。はじめから「私の車」の前を走っていた、とするのが、村上訳と田口訳、それとこの前の第二十二章でコメントをいただいた読者に紹介してもらった山形浩生訳だ。今後はこの最新訳を交えて解説していきたい。ただ、新訳が出るたびに「五冊のザ・ロンググッドバイを読む」という表題の冊数を変えることは煩わしいので、数が合わないことは承知の上で、このままで続けていきたい。

ジャガーに乗った女性は、後続車を埃塗れにしないよう心配りのできるドライバーだ。そんな人が、わざわざダート・ロードに入る直前に相手の車を追い越したりするだろうか。“sweep around〜”は「〜を大きく回る」という意味。おそらくそれまでは舗装されていたのだろうが、小高い丘を回り込んだ付近からダートになっている。この住宅地に住む女性はそれを知っているから、丘を回り込んだところで減速したのだ。

その読みで行くと、「一台のジャガーがアイドル・ヴァレーの入口にかかったところで私の車を追いこして(清水)」も、「車高の低いそのジャガーは丘の斜面を軽快に走ってから、花崗岩の粉塵を私の車にかぶらせないようスピードを落とした(田口)」も、「丘をぐるりと巡る道を後ろから走ってきた低重心のジャガーが私の車を追い抜いて行った(市川)」も状況を読めていないと思われる。

要は“sweep around〜”が読めているかどうかという点にかかっている。丘を「大きく回り込む」まで、丘が邪魔をしていて、マーロウにも道が未舗装であることはわからなかったということだ。ただ、村上、田口両氏がなぜ「軽快に」という原文にない一語をわざわざ挿入しているのかは解せない。

夫は、どちらを向いたのだろう

“He swung around and did a take”(彼は振り返って妻の顔を凝視した)だが、訳者によってかなり異なる。「彼はむっ(傍点二字)として、夫人をにらんだ(清水)」。「彼はくるりと顔を背けることで、それに対応した(村上)」。「エドワードは彼女に背を向けることでその言葉に応じた(田口)」「彼はギクッとして妻のほうに向き直って睨みつけた(市川)」。「彼はキッと横を見てすごい形相になった(山形)」。

“do a double take”という表現がある。「(非常に驚いたので)二度見をする(もう一回見る、見直す)」という意味だ。“swing around”は「振り返る、振り回す」の意味なので、妻から顔を背けていた夫はすでに一度妻の顔を見ている。だから、通常なら“do a double take”のところを“and did a take”としたのではないだろうか。つまり、夫は妻の顔を見ている。村上、田口は誤りで、清水、市川が正しい。山形訳では、どちらの方を向いたのかがよく分からない。

因みに、この諍いのもとになった夫人の言葉"Come back, little Sheba"(愛しのシバよ帰れ)は、1952年にパラマウント映画が制作した映画で、アル中をテーマにしている。小説が発表される前年の作品なので、おそらく映画のタイトルの引用だと思われるが、どの訳者も「愛しのシバよ帰れ」と訳していない。清水は「いとし」とひらがな表記、村上は「シバよ、」と読点を入れている。田口は「帰ってきてくれ、愛しいシバよ」、市川は「愛しのシバ、戻っておくれよ」、山形は「愛しのシバよ帰ってきてー」だ。著作権の問題か、他に何か理由があるのだろうか。

ウェイドが寝そべっているカウチの色は?

“Wade lying flat out on a long blond leather couch.”(ウェイドが白い革張りの長いカウチにぐったりと寝そべっているのが見えた)とあるのだが、この“blond”が曲者で、清水は「金色」、村上は「うす茶色」、田口は「ブロンド色」、市川は「白っぽい」、山形は「ブロンド」と訳している。辞書は「金髪」としているのが多く、皮革の色については説明がない。そこで“blond leather”で検索をかけると、ボルボのシートが引っかかった。まったくの白ではないらしいが、白に近いうすいベージュというところか。さすがに「金色」は駄目だが、「ブロンド」という訳語では誤解を生むのではないだろうか。

“county”と“country”は誤読するかも

They're the class of the county(彼らは郡の上流階級なのに)も、訳者によって扱いがちがう。“class”はもともとそれだけで「上流階級」を指す言葉だったが、清水は「人間だけをくらべたら」と「上流階級」という言葉も「カウンティ(郡)」という言葉も使わずにすませている。例によってややこしいところはトバしたのか。村上と田口は「この国の特権階級」としているが、原文の“county(郡)”を“country(国)”と誤読しているようだ。市川は「ただの田舎者で」と訳しているが、こちらは“county(郡)”を“country(田舎)”と誤読している。山形訳は「この郡の上流階級と称して」だ。

“soft”をどう訳すか

"Phooey. Don't go soft on me, Marlowe." He put the edge of his hand against his throat. "I'm up to here in the soft babies."(「ふん、おれのことなら手加減無用だ、マーロウ」彼は手を横にして喉に当てた。「何にでも限度というものがある、腫れ物あつかいに反吐が出そうだ」)

マーロウはレノックスの死に責任を感じている。だから、レノックスを引き合いにして、自分の面倒を見てくれと頼まれることにとまどいを感じる。“soft on〜”は「~に対して軟弱である、〜に寛大である、〜に甘い、〜に手加減する」という意味。ウェイドが、“Don't go soft on me”というのは、たしかに今は弱っているが、過剰な心配は必要ないと言いたいのだろう。

清水は「ばか(傍点二字)な、君までがぼくをそんないくじ(傍点三字)のない人間と思うのか」と、かなり意訳している。“up to here”というフレーズと同時に手を水平にして首にあてるのは「もう我慢できない、我慢もここまで来ている」というレベルの高さを意味する。後半部分は「ぼくはここまで、そんな連中のなかにつかってるんだ」という解釈だ。妻や自分が仲間入りしたくない連中に意気地なしだと見られているという自虐意識が見て取れる。だから、それに対するマーロウの返答<"Soft?" I asked. "Or just kind?">を「みんな君のためを考えているんだろう」と訳している。

村上は「よしてくれよ。何もやわ(傍点二字)に扱ってもらう必要はないんだ」(略)「すでに十分ここまで甘やかされているからね」と甘やかしているのは、夫人という解釈だ。だから、同じ箇所を<「甘やかす?」と私は尋ねた。「ただの親切心と取り違えちゃいないか?」>と訳す。夫人のウェイドに対する態度は、この小説のなかでは重要な意味が与えられているので、“soft on〜”の主体が誰かは無視できない問題である。

田口は「ふん、そんな甘ったるいことばは私には要らないよ」(略)「そういうことばにはもうこのあたりまでどっぷり浸かってるんでね」という解釈だ。田口も村上と同じ解釈と見ていいだろう。例の個所をこう訳している。<「甘ったるいことば? あるいは、あんたを死なせたくないと思うがゆえのひたすら親切なことばか」>

市川は「ぶへー、依頼人が死んだのはみんな私のせいです、ってか。なんともお優しいこった。だがな、こっちはお優しいひとなんか願い下げだ、マーロウ」(略)「私はここまでどっぷりお優しい方々に浸かっているんだ」とはじめの“soft on”の主体はマーロウだが、二つ目の“soft babies”は、妻や近隣住民という清水に似た解釈だ。問題の三つ目の“soft”は、こうだ。<「本当に優しいのか?」と訊いた。「ただ親切なだけじゃないのか?」>マーロウは、誰の「優しさ」に疑問を呈しているのか?

山形は「くだらん。甘っちょろいこと言うんじゃないよ、マーロウ」(略)「ヤワな甘ちゃんどもには、ここまで吐き気がたまるくらいうんざりしきってるんだ」/「甘ちゃん? それとも親切なだけ?」だ。“soft”を「甘ちゃん?」と訳すのは、ウェイドが「甘ちゃん」と思い込んでいる周囲の態度を弁護するニュアンスが感じられる。ウェイドがこの言葉で態度を翻したのは、マーロウに取り巻き連中と同じ匂いを嗅ぎつけたからかもしれない。

マーロウの返答に自分への無理解を感じたのか、ウェイドは、やけにあっさりと自分の提案を引っ込める。最後のウェイドの長台詞に引っかかるものを感じるのは、マーロウだけではないだろう。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“The next move”は、チェスなどの「次の指し手」

22

【訳文】

ヴィクターの店はとても静かで、ドアを開けると気温が下がるのが聞こえてくるようだった。バー・ストゥールには、黒いテーラー仕立ての服を着た女が座っていた。季節を考えるなら、オーロンのような合成繊維に違いない。淡緑色の飲み物を前に、翡翠の長いホルダーに差した煙草を吸っていた。神経過敏のせいか、セックスに飢えているのか、あるいは極端なダイエットの結果なのか、繊細で洗練された面立ちに張りつめた表情を浮かべていた。

二つ離れたストゥールに腰を下ろすとバーテンダーはうなずいたが、愛想笑いはなかった。

ギムレット」と私は言った。「ビター抜きで」

彼は小さなナプキンを私の前に置き、じっと私を見ていた。「ちょっといいですか」とうれしそうな声で言った。「この前の晩、あなたとお友だちが話しているのをお聞きして、ローズ社のライムジュースを一本仕入れておいたんです。ところが、それから二人ともお見限りで、今夜たまたまその一本を開けたところなんです」

「あの友だちは街を出たんだ」私は言った。「できたらダブルでもらおうか。心遣いに感謝するよ」

バーテンダーは向こうへ行った。黒衣の女はちらっとこちらを見て、グラスに目を落とした。「このあたりでは飲む人はほとんどいない」とても静かに言ったので、最初は私に話しかけているとは気づかなかった。それから彼女は再びこちらを見た。とても大きな黒い瞳をしていた。見たこともない真っ赤な爪の色だった。しかし、客待ちの女には見えず、声にも誘うようなところは微塵もなかった。「ギムレットのことよ」

「ひとに教えてもらってね」と私は言った。

「英国人でしょう?」

「どうして?」

「ライムジュース。まるで料理人が血を流したかのような、あのひどいアンチョヴィソースをかけた煮魚と同じくらい英国風。だから『ライミー』と呼ばれるのよ。英国人のこと――魚ではなくて」

「どちらかといえばトロピカル・ドリンクだと思っていた、暑い気候の、マラヤとかそのあたりの」

「お説の通りかも」彼女はまた背を向けた。

バーテンダーが飲み物を私の前に置いた。ライムジュースが入っているため、淡い緑がかった黄色の靄のような色合いをしていた。味見してみた。甘さと切れが同居していた。黒衣の女が私を見ていた。それから彼女は自分のグラスを私に向けて掲げた。ふたりして同時に飲んだ。彼女が手にしているのも同じものだと、そのとき気づいた。

次の手は定跡だったので、やめておいた。ただそこに座っていた。「英国人じゃない」と少し間を置いて言った。「おそらく戦争中、あちらにいたんだろう。彼と時々、今のように早い時間にここに来ていた。騒がしくなる前に」

「くつろげる時間」と彼女は言った。「バーでくつろげるのは、今ごろだけ」彼女はグラスを空にした。「あなたのお友だちを知ってるかもしれない」と彼女は言った。「何ていうの? 彼の名前」

私はすぐには答えなかった。煙草に火をつけ、彼女が翡翠のホルダーから吸い殻を叩き出し、新しい煙草を差し込むのを見ていた。手を伸ばしてライターを差し出した。「レノックス」と、私は言った。

彼女は火の礼を言い、探るような一瞥をくれた。そして頷いた。「ええ、彼のことならよく知ってる。ちょっと知りすぎてるくらい」

バーテンダーが近づいてきて、私のグラスをちらりと見た。「同じのをもう二杯」と私は言った。「ブースで」

私はストゥールから降りて立ち、待っていた。彼女は誘いを拒むかもしれないし、そうでないかもしれない。特に気にはしなかった。この性的なことに過度に敏感な国では、時折、男と女がベッドルームの話を持ち出さずに会って話すことができる。これがその機会かもしれないし、彼女は単に私が誘惑しようとしているだけだと考えるかもしれない。もしそうなら、どうとでもなれだ。

彼女は躊躇したが、そう長くはなかった。黒い手袋と金色のフレームと留め金付きの黒いスウェードのバッグを手に取り、無言で角のブースまで歩いていき、座った。私は小さなテーブルの向かいに座った。

「私はマーロウ」

「私はリンダ・ローリング」彼女は落ち着いて言った。「ちょっとセンチメンタルなところがあるようね? ミスタ・マーロウ」

「こんなところへやってきてギムレットを飲んでるから? きみはどうなんだ?」

ギムレットが好きなだけかも」

「私だってそうかもしれない。でも、ちょっと偶然がすぎるかな」

彼女は曖昧な笑みを浮かべた。エメラルドのイヤリングとエメラルドのラペルピンをつけていた。どちらも本物のように見えるのは、平らな切り口に縁を面取りしただけのカットのせいだ。バーの薄暗い光の中でも、内側から光を放っていた。

「で、あなたがその人なのね」彼女は言った。

ウェイターが飲み物を持ってきて、テーブルに置いた。彼が去るのを待って私は言った。「私はテリー・レノックスと知り合って、彼のことが気に入り、たまに酒の相手をした。それは一種のおまけのようなもので、思いがけない友情だった。彼の家に行ったこともなければ、彼の妻を知ってるわけでもない。駐車場で一度見かけはしたが」

「もっと何かあったんじゃないの?」

彼女はグラスに手を伸ばした。指には、ダイヤモンドの巣に収まったエメラルドの指輪が光っていた。その隣には、結婚していることを示す細いプラチナの指輪が輝いていた。三十代後半、それも後半に入ったばかり、と踏んだ。

「かもしれない」私は言った。「ずいぶん手を焼かされた。いまでもそうだ。きみの方は?」

彼女は肘をついて、特に何の表情もなく私を見上げた。「言ったわよね、彼のこと、よく知ってるって。彼に何が起きたとしても驚かないと思えるくらい、よく知ってた。金持ちの妻がいて、あらゆる贅沢を彼に与えていた。その見返りに彼女が求めたのは、ただ放っておいてほしいということだけだった」

「妥当な話だな」と私は言った。

「皮肉はやめて、ミスタ・マーロウ。そういう女もいる。自分ではどうしようもないの。彼だってそんな話は聞いていないというふうでもなかった。プライドを保つ必要があるなら、ドアは開いていた。殺す必要なんてなかった」

「同感だ」

彼女は背筋を伸ばし、私をじっと見つめた。唇が歪んだ。「それで彼は逃げた。もし聞いた話が本当なら、あなたが手を貸した。きっと誇りに思っているんでしょう」

「ちがうね」私は言った。「金のためにしたまでさ」

「ちっとも面白くない、ミスタ・マーロウ。正直言って、どうしてあなたとここで飲んでいるのか分からない」

「いやならよせばいいだけのことだ、ミセス・ローリング」私はグラスに手を伸ばし、中身を飲み干した。「テリーについて、私が知らないことを教えてくれるかもしれないと思ったんだ。テリー・レノックスが妻の顔を血まみれのスポンジのように殴りつけた理由について推測する気はない」

「ずいぶんあけすけに言うのね」と彼女は怒って言った。

「私の物言いが気に入らない?  私だって同じだ。もし彼がそんなことをしたと信じていたら、今ここでギムレットを飲んでたりしない」

彼女はじっと見つめた。しばらくして、ゆっくりと言った。「彼は自殺して、すべてを自白した。それ以上何がいるわけ?」

「彼は銃を持っていた」と私は言った。「メキシコなら、それだけで不安に駆られた警官が彼に弾を撃ち込む十分な理由になる。アメリカの警察官も同様の手口で殺人を犯してきた——中には、ドア越しに撃たれた例もある。思った通りに早くドアが開かなかったからと。自白については、私は見ていない」

「メキシコ警察のでっち上げよ、そうに決まってる」と彼女は辛辣に言った。

「オタトクランみたいな小さな町では、そんな器用な真似はできそうにない。自白はたぶん本物なんだろう。だけどそれが、彼の妻殺しの証拠にはならない。少なくとも私にはそう思えない。わかるのは、彼には逃げ道がなかったということだけだ。ああいう状況では、ある種の男は――弱虫だの軟弱だの感傷的だの、好きに呼べばいいが――うるさい世間の目から誰かをかばおうとするかもしれない」

「あり得ない」と彼女は言った。「些細なスキャンダルを避けるために自殺したり、わざと自分を殺させたりする人なんていない。シルヴィアはもう死んでいた。彼女の姉と父親は、自分たちで何とかやっていけるはずよ。ミスタ・マーロウ、お金があれば、いつでも自分の身は自分で守れるわ」

「オーケイ、動機については私のまちがいだ。もしかしたら、あらゆる点でまちがっているのかもしれない。さっききみは私に腹を立てた。お邪魔なら引き上げるよ。ひとりでギムレットを味わえるように」

突然、彼女は微笑んだ。「ごめんなさい。あなたは誠実なのかもしれないと思い始めているの。さっきまで、あなたが自分を正当化しようとしていると思っていた、テリーというよりも自分を。でも、どうもそうじゃないみたいね」

「そんなことは思ってもいない。私はばかな真似をして、その報いを受けた。少なくともある程度は。彼の自白のおかげで、もっとひどい目に遭わずに済んだことは否定しない。もし彼を連れ戻して裁判にかけられたら、きっと私も罪に問われていたはず。そうなったら、控え目に見ても私の稼ぎでは裁判費用は賄えなかっただろう」

「探偵免許は言うに及ばず」彼女は皮肉っぽく言った。

「かもしれない。二日酔いの警官が気まぐれで私を逮捕できた時代もあった。今は少し違う。州の免許局の委員会で審問を受ける。あの連中は市警にあまり好意的じゃないんだ」

彼女は飲み物を一口飲み、ゆっくりとこう言った。「あれこれ考えると、あれが最良の結末だと思わない? 裁判もなし、センセーショナルな見出しもなし、売らんがための誹謗中傷もなかったのだから。新聞というのは真実や公正さ、無実の人々の感情など一切顧みないから」

「さっき私がそう言わなかったか? きみはあり得ない、と言ったじゃないか」

彼女は背もたれに寄りかかり、ブースの背もたれのパッド上部の曲線に頭を預けた。「テリー・レノックスがあなたのいう目的を遂げるために自殺するというのはあり得ない。裁判がない方が関係者全員にとって良かったということはあり得ると言ってるの」

「もう一杯飲みたくなった」と言って、ウェイターに手をふった。「首筋に冷たい息がかかったような気がする。もしかして、ポッター家と関わりがあるんじゃないのか、ミセス・ローリング?」

「シルヴィア・レノックスは私の妹よ」と彼女はあっさり言った。「あなたなら知っているだろうと思ったの」

ウェイターがやってきたので、手早く注文した。ミセス・ローリングは首を振って、もう結構と言った。ウェイターが立ち去ってから、私は言った。

「ポッター親父——失礼、ミスタ・ハーラン・ポッター——がこの件について緘口令を敷いているので、テリーの妻に姉がいたことが分かっただけでも勿怪の幸いと言えるだろうな」

「大げさね。父にそんな力はないわ、ミスタ・マーロウ。それにそれほど冷たい人でもない。ただ、プライヴァシーについては極めて古風な考えを持っていることは認める。インタヴューは一切受けない、自分の新聞社であってもね。写真を撮らせることも、演説をすることもなく、移動はもっぱら車か自前のクルーを伴った飛行機で。それでも、とても人間味のある人。彼はテリーを気に入っていた。テリーは二十四時間ずっと紳士だと言ってた。パーティーに到着してから最初のカクテルを飲むまでの十五分間だけではなくね」

「最後にちょっと足をすべらせた。そのテリーがね」

ウェイターが足早に私の三杯目のギムレットを運んできた。一口味見をしてから、グラスの丸いプレートの縁に指を乗せたまま座っていた。

「テリーの死は父にとって大きな打撃だった、ミスタ・マーロウ。また皮肉のひとつも言おうと考えているのならやめておいて。父には分かってた、ある人々にとってはすべてがあまりにも都合よく見えると。父にしてみれば、テリーがただ消えてしまった方がむしろよかった。もし、テリーが助けを求めていたら、父はきっと助けていたと思うわ」

「それはどうかな、ミセス・ローリング。殺されたのは実の娘だ」

彼女はいらっとした仕種を見せ、冷たい目で私を見た。

「素っ気ない言い方になるけど、他意はないの。父はとうの昔に妹のことを見限っていた。顔を合わせてもほとんど口をきかなかった。もし父が本音を口にしていたら、今もしていないし、しようともしないだろうけど、きっとテリーのことはあなたと同じくらい疑っているはず。だけど、テリーが死んだ今となっては、それに何の意味がある? 飛行機事故や火事、高速道路の事故で死んでたかもしれない。死ぬ運命だったとしたら、妹はいい時を選んだ。もう十年もすれば、ハリウッドのパーティーで見かける、あるいは数年前までよく見られたような、セックス漬けの醜い老嬢になっていたでしょう。国際的な社交の場の残りかすよ」

突然、わけもなく腹が立った。立ち上がってブースを見渡した。隣のブースはまだ空いていた。その向こうのブースでは、男が一人で静かに新聞を読んでいた。私はどすんと腰を下ろし、グラスをどかしてテーブル越しに身を乗り出した。声を抑えるだけの分別はあった。

「いい加減にしてくれ、ミセス・ローリング、いったい私に何を信じ込ませたい? ハーラン・ポッターは人間味あふれる好人物で、政治的野心を持つ地方検事に圧力をかけて殺人事件の捜査を隠蔽し、殺人事件の幕引きを図ることなど夢にも思わないと? テリーの有罪に疑念を抱いていたにもかかわらず、真犯人が誰か明らかにするために、誰にも何一つさせなかったとでも? 自分の新聞が持つ政治力や財力、そして彼自身が何を望んでいるかを知る前に、彼の意向を推測しようと必死になる九百人の部下たちさえも利用しなかったと? 地方検事局や市警の誰一人連れずに子飼いの弁護士ひとりをメキシコに差し向けたのは、どっかのインディアンが面白半分で撃ったわけではなく、テリーが本当に自分で頭に撃ち込んだのだとお膳立てするためじゃなかったのか? ミセス・ローリング、きみの親父さんは一億ドルの資産家だ。どうやってそれを手に入れたのかは知らないが、まあ、かなり広範囲に及ぶ組織を築き上げなければ、手にはできなかっただろうことは確かだ。決してやわではない。手強くタフな男だ。今の時代にそんな金を稼ぐには、そういう人間でなければならない。それに、怪しい連中と仕事をすることもある。実際に会ったり、握手をしたりすることはないかもしれないが、彼らは末端にいて仕事をしている」

「ばかばかしい」彼女は怒って言った。「もうたくさん」

「ああ、そうだろうな。きみが聴きたくなるような音楽は作らないから。いいことを聞かせよう。テリーはシルヴィアが死んだ夜、きみの親父さんと話してる。それについてはどう思う? 親父さんは彼に何と言ったんだろう? 『メキシコへ逃げて自分で自分を撃つんだ。この件は家族だけのことにしよう。娘があばずれだったのはわかってる。どこかの酔っ払ったろくでなしがカッとなって、あの可愛い顔を喉まで叩き込んだのかもしれん。ありがちなことだ。そいつだって酔いが覚めたら後悔するさ。君はいままで見て見ぬふりをしてきた。そのつけを払うときだ。我々が望むのは、美しいポッター家の名をマウンテン・ライラックのように清らかに保つことだ。あれは体裁を取り繕うために君と結婚した。死んだ今はこれまで以上にそれを必要としている。そして、君こそがそれだ。もし君が姿を消して、そのまま姿を消したままでいられるなら、それで構わない。だが、もし見つかったら、一巻の終わり。死体置き場で会おう』」

「本当にそう思うの?」黒衣の女はドライアイスのような声で尋ねた。「父がそんなことを言うとでも?」

私は椅子の背に凭れ、面白くもなさそうに笑った。「お望みなら、台詞にもう少し磨きをかけてもいいかもしれない」

彼女は荷物をまとめ、席をすべるように移動した。「ひとつ警告しておくわ」と彼女はゆっくりと、そしてとても慎重に言った。「とても簡単な警告。もしあなたが私の父をそんな男だと思って、今私に言ったような考えを公言し続けるなら、この街でのあなたの仕事、どんな仕事であれ、あなたのキャリアは極めて短命に終わり、突然に幕が下りるようなことになりそう」

「これで揃った、ミセス・ローリング、申し分ない。その手の警告は司法当局から受けている。ギャングの手下からも受けている、金持ち連中からも。言葉はちがえど意味は同じ。手を引け。ここにギムレットを飲みに来たのはある男に頼まれたからだ。それがどうだ。まるで墓場に足を踏み入れたも同然だ」

彼女は立ち上がり軽くうなずいた。
ギムレットを三杯、ダブルで。たぶん酔いが回ってる」

テーブルの上に多すぎる金を置いて、彼女の脇に立った。「きみだって一杯半飲んでる、ミセス・ローリング。なぜそんなに飲んだんだ? どこかの男に頼まれて? それとも自分の考えなのか。きみは少ししゃべり過ぎた」

「誰にわかるの、ミスタ・マーロウ? そんなの誰にわかるの? 何かを本当にわかっている人なんているの? カウンターのところにいる男の人が私たちを見ている。もしかして、知り合い?」

私はあたりを見回し、彼女が気づいていたことに驚いた。ドアに一番近い端の椅子に、痩せた浅黒い男が座っていた。「名前はチック・アゴスティーノ」と私は言った。「メネンデスって賭博師の用心棒だ。跳びかかってのしちまおうか」

「確かに酔ってるわね」と彼女は早口で言い、歩き始めた。私は彼女の後を追った。椅子に座っていた男はくるりと振り返り、前を見た。私は彼の横に並び、後ろに歩み寄り、両腕の下に素早く手を伸ばした。少し酔っていたのかもしれない。

彼は腹立たし気にこちらに向き直り、椅子から滑り降りた。「何しやがる」とうなった。視界の端で、彼女がドアのすぐ手前で立ち止まり、振り返っているのが見えた。

「丸腰とはね、ミスタ・アゴスティーノ? 無鉄砲すぎるぜ。もう少しで暗くなる。ひょっこりとタフな小人に出くわしでもしたらどうする?」

「失せろ!」彼は激怒して言った。

「ああ、その科白、『ニューヨーカー』からパクったな」

口は動かしたものの、からだは動かさなかった。私は彼をその場に残し、ミセス・ローリングの後を追ってドアから日覆いの下に出た。白髪の黒人運転手が駐車場係の若い男と立ち話をしていた。彼は帽子に手をやって立ち去ると、けばけばしいキャディラックのリムジンを運転して戻ってきた。彼がドアを開けると、ミセス・ローリングが乗り込んだ。彼は宝石箱の蓋を閉めるかのようにドアを閉め、車の周りを回って運転席へ収まった。

彼女は車の窓を下ろすと微かに笑みを浮かべて私を見た。

ごきげんよう、ミスタ・マーロウ。愉しかった――でしょう?」

「派手にやり合ったが」

「あなたの方はね――ほとんど自分自身とやり合ってた」

「性分でね。おやすみなさい、ミセス・ローリング。住まいはこのあたりじゃないだろう?」

「ええ、そう。住まいはアイドルヴァレイ。湖の向こう岸。夫は医師をしてる」

「ウェイドという名の人物を知らないかな?」

彼女は眉をひそめた。「ええ、ウェイド夫妻なら知ってるけれど。どうして?」

「なぜ訊いたかといえば、アイドルヴァレイで知ってるのは彼らだけなんだ」

「そういうことね。ではあらためてごきげんよう、ミスタ・マーロウ」

彼女がシートに身をもたせると、キャディラックは優雅な音を立て、滑るように大通りを行き交う車列のなかにのみこまれていった。

振り返ると、危うくチック・アゴスティーノにぶつかりそうになった。

「あの上玉は誰だ?」と彼はうすら笑いを浮かべた。「それと、この次ふざけたまねをしたら、命は保証しない」

「誰でもいい。お前には無縁の御仁だ」と私は言った。

「オーケイ、お利口さん。ナンバーは覚えた。メンディはこういったちょっとしたことを知りたがるんだ」

車のドアが勢いよく開き、身長7フィート、幅4フィートほどの男が飛び出してきた。アゴスティーノをひと目見るや、大きく一歩踏み出し、片手で彼の喉をつかんだ。

「何度言えばわかるんだ? お前みたいなけちなチンピラが、俺が飯を食うところに出入りするんじゃない」彼は怒鳴った。

彼はアゴスティーノを揺さぶり、歩道の向こうの壁に向かって投げ飛ばした。チックは咳き込み、その場にへたり込んだ。

「この次は」と大男は怒鳴った。「まちがいなく撃ち殺す。おれは噓は言わねえ、死体で収容されるとき、おまえは銃を握っているだろう」

チックは首を振り、何も言わなかった。大男は私をちらりと見てにやりとした。「いい夜だな」と言い、ヴィクターの店へと入っていった。

チックが立ち上がり、落ち着きを取り戻すまで見ていた。「誰だ、あいつ?」と私は尋ねた。

「ビッグ・ウィリー・マグーン」と彼はかすれた声で言った。「風紀課のまぬけだ。自分はタフだと思っている」

「そうじゃないってことか?」と私は丁寧に尋ねた。

彼はうつろな目で私を見て、立ち去った。私は駐車場から車を出し、家へと向かった。ハリウッドでは何が起きてもおかしくない。本当に何でもありだ。

【解説】

第二十二章は、マーロウが久しぶりに訪れた「ヴィクターの店」で、リンダ・ローリングと初めて出会う場面。その書き出しは「ヴィクターの店はとても静かで、ドアを開けると気温が下がるのが聞こえてくるようだった」

It was so quiet in Victor's that you almost heard the temperature drop as you came in at the door

この“ the temperature”(温度)を「気温」ととるか「体温」ととるか。ちなみに、清水訳は「体温」、村上訳は「温度」、田口訳は「気温」で、最新訳である市川訳は「皮膚の温度」となっている。ひっそり閑とした開店間際のバーの空気と外気の差をチャンドラー一流の比喩で表したのだろう。ドアを開けた途端に全身で体感するのは、ドアによって隔てられていた外と内との空気の温度の差だろう。体温の方は、それから徐々に下がっていくはずだ。

黒衣の女として初登場するミセス・ローリングの姿が印象的だ。「神経過敏のせいか、セックスに飢えているのか、あるいは極端なダイエットの結果なのか、繊細で洗練された面立ちに張りつめた表情を浮かべていた」

She had that fine-drawn intense look that is sometimes neurotic, sometimes sex-hungry, and sometimes just the result of drastic dieting.

“fine-drawn intense look”というのが微妙で、“fine-drawn”は「極細に引き伸ばした、精細を極めた」の意で、文末に“drastic dieting”とある以上、痩せているのは確かだがただの痩せっぽちではなく繊細を極めた美しさを保持していなければならない。清水訳は「しずんだ魅力のある表情」、村上訳は「細部までくっきり締まった顔立ち」、田口訳は「細部の整った強い面構えの女性」、市川訳では「一分の隙もなく整った顔に浮かんでいるその表情は張り詰めていた」と、運命の女、リンダ・ローリングにそれぞれのイメージを託している。

「“A gimlet,” I said. “No bitters.”」という一行が清水訳では省かれている。顔なじみの客で、これしか頼まないのを知っていることを示すためだろうか。ギムレットというカクテルは、ジンとローズ社のライムジュースだけで作るのがほんとうで、ビターや砂糖を加えるのはまちがっている、というのがテリー・レノックス流のこだわりだった。わざわざテリーのためにヴィクターの店にやってきたマーロウが、この文句を言わないという手はない。

そのあと、バーテンダーからローズ社のライムジュースを用意していると聞いたマーロウが、レノックスのいうところの本物のギムレットを味わっていると、黒衣の女の視線を感じるのだが、そこが田口訳では「黒い服の女は私をまた見ていた。ふたりで一緒に飲んだ」となっており、二つの文の間にある“Then she lifted her own glass towards me. ”(それから彼女は自分のグラスを私に向けて掲げた)というところが抜け落ちている。女の乾杯の素振りがなかったら、“We both drank.”という具合にはいかないはずで、ここは田口氏にはめずらしいケアレスミスだろう。

“The next move was routine, so I didn't make it. I just sat there.”(次の手は定跡だったので、やめておいた。ただそこに座っていた)。“The next move”は、チェスなどの「次の指し手」のこと。マーロウの趣味のひとつがチェスであることは、よく知られている。これまでの訳者は“move”を「行動」と解釈し、「次の行動は定石だが、私は定石にしたがわなかった」(清水)、「定石どおりの行動をとるのは、好むところではない。だから私は席を移らなかった」(村上)、「男が次に取る行動はもう定石(じょうせき)みたいなものなので、私はあえて定石は打たなかった」(田口)と訳している。市川訳は「普通はそれを合図に女の隣に席を移る。だから普通じゃなくスツールを二つ空けたままにした」と、原文を離れて、読者に分かりやすく説明している。あえて「定石」を使うなら、“The next move”は「次の(差し)手」と訳したいところ。

"I'm a fellow who knew Terry Lennox, liked him, and had an occasional drink with him. It was kind of a side deal, an accidental friendship. I never went to his home or knew his wife. I saw her once in a parking lot."(私はテリー・レノックスと知り合って、彼のことが気に入り、たまに酒の相手をした。それは一種のおまけのようなもので、思いがけない友情だった。彼の家に行ったこともなければ、彼の妻を知ってるわけでもない。駐車場で一度見かけはしたが)

"So you're the man,"(で、あなたがその人なのね)と、リンダ・ローリングに訊かれたマーロウが答えたのが上記の科白。ここにはたっぷり思い入れが入っている。特に気になるのが、“ It was kind of a side deal, an accidental friendship.”という一文。“side deal”には「裏取引」という意味がある。また、“accidental”という形容詞は「偶然の」という意味だが、通常、(偶然または不慮のよくない)出来事、事故、災難、等々に使われることが多い。友情であることにちがいはないが、それによって自分には厄介事が降りかかってきた、というマーロウの複雑な心情がにじみ出た文句である。

ここを、清水訳はあっさりと「ほんとのつきあいとはいえないかもしれません」で済ませている。村上訳は「つきあいというほどのものでもない。ちょっとした偶然で知り合っただけです」、田口訳は「たまたま知り合っただけで、きちんとしたつながりがあるわけでもない」と、ひたすら「友情」という言葉を避けて言い訳につとめている。市川訳は「別に仕組んだわけじゃない。たまたま知り合い、友情が芽生えた」と、「友情」をちゃんと言葉にしている。“side deal”や“an accidental friendship”という語句には、うっすらと韜晦の匂いが感じられるが、マーロウが二人の間に友情があったことを疑ってはいない。

"Okay, bright boy. I got the license number. Mendy likes to know little things like that."(オーケイ、お利口さん。ナンバーは覚えた。メンディはこういったちょっとしたことを知りたがるんだ)

ここでいう“ license number”だが、これまでの訳では「車のナンバー」とされてきた。市川訳では「おまえの探偵許可番号」となっている。ここで唐突に私立探偵の許可証が登場することに首をひねる。辞書にも「自動車のバックナンバー」とある。チックの関心は美しい女性にあるのだから、とっさにその車のナンバーを覚えたと考える方が自然だ。

"Next time," the enormous man yelled, "I sure as hell put the blast on you, and believe me, boy, you'll be holding a gun when they pick you up."(「この次は」と大男は怒鳴った。「まちがいなく撃ち殺す。おれは噓は言わねえ、死体で収容されるとき、おまえは銃を握っているだろう」)

“pick up”には「(犯人を)逮捕する、連行する」という意味がある。なので、清水訳の「つかまるときはどうせピストルを持ってるだろうからな」をはじめ、「お前はいつか銃を手にしているところをひっつかまえられるぜ(村上訳)」、「この次はおまえが銃を手にしてるところをとっ捕まえてやるからな(田口訳)」と訳されてきた。

ところが、市川訳は「そのときおまえの死体は拳銃をしっかり握ってる、わかったか」となっている。実は、その前の方に出てくる“ put the blast on ”がくせもので、辞書には「〈米俗〉(人)をげんこつで殴る」と載っている。だから、これまでの訳は「この次はただじゃおかないぞ(清水訳)」、「次はこんな半端じゃすまんぞ(村上訳)」、「この次はこんな程度じゃすまないぞ(田口訳)」と、脅し文句で済ませている。

“blast”には 「《俗語》(〜を)撃つ、 (人を)射殺する」という意味があるので、「間違いなく鉛玉をぶち込んでやる」という市川訳も成立する。これまでの訳は“Next time”の意味を読み誤っているのではないだろうか。"I sure as hell put the blast on you, and believe me, boy, you'll be holding a gun when they pick you up."は、いつか先のことではなく、“Next time”に起きることを言っているのだと思う。だから、大男はチックを撃つつもりだから、その時は銃を肌身離さず持っていろよ、という警告を発していると読むのが正しい。「丸腰とはね」というマーロウの言葉が、ここで生きてくる仕掛けだ。

この章は、ほとんどがマーロウとリンダ・ローリングの対話に終始している。その訳し方だが、清水、村上、市川の三氏は、互いに丁寧な言葉遣いをし、ふたりの間に距離を置いているのに対し、田口訳は特にマーロウの言葉が直截的だ。リンダの方も次第にくだけた物言いになってくる。つまり、派手な喧嘩を契機に二人の距離が縮まっていくのがよく分かる。それに何よりテンポがいい。たしかに1953年に発表された小説ではあるが、せっかく新しく訳すのだから今読んでも古臭くない小説であってほしい。自分の訳もそう心がけている。

 

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

 

“shake one’s head”は(落胆・悲しみなどを表すために)首を横に振る

21

【訳文】

翌朝、前の晩に稼いだ思わぬ報酬を理由にいつもより寝過ごした。コーヒーを一杯余分に飲み、煙草を一本余分に吸い、カナディアン・ベーコンを一切れ余分に食べ、電気カミソリは二度と使わない、と三百回目の誓いを立てた。それでその日は普通の一日になった。十時にオフィスに行き、郵便物を拾い集め、封を切って机の上に置いた。窓を大きく開けて、夜の間に溜まった埃と薄汚れた匂いを追い出した。それは静まり返った空気の中、部屋の隅に、ベネチアン・ブラインドの隙間に漂っていた。蛾が一匹、机の隅で翅を広げて死んでいた。窓枠ではぼろぼろの羽根の蜂が木枠に沿って這いずりまわり、かすかにくたびれた羽音を立てていた。まるで、自分はもう手遅れで、終わりを迎えつつあり、あまりにも多くの任務をこなしてきて、二度と巣に戻ることはない、と観念しているかのように。

とんでもない厄日になりそうな気がしていた。誰にでもそういう日がある。そんな日に飛び込んでくるのは、頭のねじの緩んだやつ、ガムと一緒に脳みそをどこかに置き忘れてきたぼんくら(ディンゴ)、患者(ナッツ)を見つけられない精神科医(スクワーレル)、いつも歯車をひとつ戻し忘れる修理工とかいった連中だ。

一人目は、金髪の粗野な大男で名前はクイッセネンとかいうフィンランド人だった。客用の椅子にでかい尻をねじ込み、大きなごわごわした両手を机に置くと、自分はパワーショベルの運転手で、カルバー・シティに住んでるが、隣に住むクソ女が俺の犬に毒を盛ろうとしている、と言った。毎朝、裏庭に犬を放す前に、隣からツルハナナスの垣根越しにミートボールが投げ込まれていないか、隅から隅まで探し回らなければならない。これまで見つけた九個のミートボールには、彼によれば、砒素入りの除草剤と思しき緑色の粉が塗されていた、とも。

「彼女を捕まえるのにいくらかかる?」 彼は水槽の中の魚のように、まばたきもせずに私を見つめた。

「自分でやったらどうかな?」

「生活のために働かなくちゃいけないんだよ、ミスタ。ここに頼みに来るだけで、一時間に四ドル二十五セントも無駄にしてるんだ」

「警察には?」

「警察にも行くさ。来年には何とかしてくれるかもしれない。今はMGMの ご機嫌取りで忙しいんだ」

「S.P.C.A(動物保護団体)は? テイルワガーズ(愛犬協会)は?」

「なんだそれ?」

 私はテイルワガーズのことを話した。彼はまったく興味を示さなかった。S.P.C.A.のことは知っていた。S.P.C.A.は及びじゃない。あいつらは馬より小さいものは見えてないんだ。

「ドアに調査員だって書いてある」と彼は喧嘩腰で言った。「いいから、さっさと調査しに行け。彼女を捕まえたら五十ドルだ」

「悪いが」と私は言った。「今は忙しい。それに、あんたの家の裏庭に身をひそめて何週間か張り込むなんてのは私の専門外だ――たとえ五十ドルもらってもね」

彼は唸りながら立ち上がった。「大物なんだな」と彼は言った。「はした金はいらないってか。ちっぽけな犬の命なんかにかかずりあっちゃいられないというわけか。くたばっちまえ、何様だってんだ」

「こちらにもいろいろ事情があってね。ミスタ・クイッセネン」

「女を捕まえたら、素っ首ねじ切ってやる」と彼は言った。まちがいない。彼なら象の後ろ肢だってもぎ取ることもできるだろう。「だから、他の誰かの助けが欲しかったんだ。家の前を車が通るとあの子が吠えるからって、あの仏頂面のくそ婆が」

彼はドアに向かった。「本当に犬なのか? 彼女が毒を盛ろうとしてるのは」私は彼の背中に声をかけた。

「そうに決まってるだろう」ドアに手がとどく手前で、彼はようやく気づいた。素早く振り返った。「もういっぺん言ってみろ、この野郎」

私はただ首を振った。彼と争う気はない。彼なら机で私の頭をぶっ叩くことだってできるだろう。彼は鼻を鳴らして出て行った。もう少しでドアまで持っていきそうな勢いで。

次の客は女性だった。年寄りでもなく、若くもなく、清潔でもなく、あまり汚れてもいない、明らかに貧しく、みすぼらしく、愚痴っぽく、愚かだった。同室の女の子が ―― 彼女の中では、外で働く女はみんな女の子なのだ ――- 財布から金を抜き取っているという。ここで一ドル、あそこで五十セント、それが塵も積もれば山となって、全部で二十ドルほどになる。見過ごせるほどの余裕はなく、引っ越す余裕もなかった。探偵を雇う余裕もない。私なら名前を言わずに電話でルームメイトを怖がらせられるだろうと考えたのだ。

そこまで話すのに二十分以上かかった。それを話しながら、しきりにバッグをこねくり回していた。

「君の知り合いにでもできることだ」と私は言った。

「ええ、でもあなたは探偵をやってるんだから」

「見ず知らずの人を脅す資格は持っていない」

「あなたに会いに来たと言うわ。彼女の名前は出さないで。ただ、探偵がそれを調べているというだけ」

「私だったらそんなことはしないな。もし私の名前を言ったら電話をかけてくるかもしれない。電話があったら私は事実を伝えることになる」

彼女は立ち上がり、みすぼらしいバッグを腹に叩きつけた。「あなたは紳士じゃない」と彼女は声を荒げた。

「私が紳士であるべきだなんて、どこに書いてあった?」

彼女はぶつぶつ言いながら出て行った。

昼食後に会ったのはミスタ・シンプソン・W・エーデルワイス。彼は名刺を携えていた。ミシン代理店の店長だ。歳は四十八から五十くらい。小柄で疲れた顔をした男で、手足は小さく、袖の長すぎる茶色のスーツを着て、硬い白襟の下に紫地に黒いダイヤ柄を浮かせたネクタイを締めていた。落ち着いた様子で椅子の端に座り、悲しげな黒い目で私を見つめていた。髪も黒く、濃く、もじゃもじゃで、白髪の気配は全くなかった。赤みがかった口ひげを短く刈り込んでいた。手の甲を見なければ、三十五歳くらいに見えたかもしれない。

「馬鹿(シンプ)と呼んでください」と彼は言った。「みんなそう呼ぶんで。自業自得です。ユダヤ人のくせに異教徒の女性と結婚しました。歳は二十四で美人。彼女は前にも二度ほど家出してます」

彼は彼女の写真をとりだして私に見せた。彼にとっては美しいのかもしれない。私にとっては、締まりの無い口をした大きなだらしない牛のような女でしかなかった。

「どんな御用でしょう? ミスタ・エーデルワイス。こちらでは離婚がらみの仕事はしていませんが」写真を返そうとしたが、彼はそれを振り払った。「私はいつも依頼人には敬称をつけます」と付け加えた。「嘘八百を並べ立てられるまではね」

彼は微笑んだ。「嘘を言っても始まらない。離婚がらみじゃありません。メイベルに戻ってきてほしいだけです。でも、私が見つけ出すまで戻ってきません。彼女にとってこれはゲームみたいなものなんです」

彼は恨みつらみをまじえず、辛抱強く彼女のことを話した。酒好きで、浮気性、彼の目から見れば良妻とは言えなかった。ただ、それは自分が厳格な躾けを受けたせいかもしれない。彼女は家のように大きな心を持っていた、と彼は言った。それに彼女を愛していた、自分が理想の男だなんて思ってはいない。ただ、やるべき仕事をして稼ぎを家に持ち帰る勤め人に過ぎない。二人は共同の銀行口座を持っていた。彼女は全額引き出していたが、それについては覚悟していた。彼女が誰と浮気をしたのかについては見当がついている。もし予想通りなら、そいつは彼女を放り出し、置き去りにするだろう。

「名前はケリガン」と彼は言った。「モンロー・ケリガンカトリック教徒を批難するつもりはない。悪いユダヤ人もたくさんいます。このケリガンの生業は床屋です。床屋を批難しているわけではありません。ですが、たいていは流れ者で競馬場に通い詰めているような輩です。素っ堅気とはいえません」

「金が切れたら連絡してくるのでは?」

「ひどく恥じ入って、自殺を図るかもしれない」

「これは警察の仕事だ、ミスタ・エーデルワイス。失踪人捜索願を出すべきだ」

「警察のことを批難するつもりはないが、その方法はとりたくない。そんなことをしたらメイベルに恥をかかせることになる」

世界はミスタ・エーデルワイスが批難したくない人びとで溢れているらしい。彼は机の上に金を置いた。

「二百ドル」と彼は言った。「手付金です。できれば私なりのやり方で片をつけたい」

「また同じことが起きますよ」と私は言った。

「わかっています」彼は肩をすくめ、穏やかに両手を広げた。「でも、彼女は二十四で、私はもうすぐ五十。こればかりはどうしようもない。もう少ししたら彼女も落ち着くでしょう。問題は、子どもがいないことです。彼女は子どもを産めない。ユダヤ人は家族を持つことを好む。メイベルもそれを分かっている。彼女は負い目を感じているんです」

「あなたはとても寛容な方だ、ミスタ・エーデルワイス

「まあ、私はキリスト教徒ではありません」と彼は言った。「キリスト教徒を批難する気はないんです。お分かりですよね。でも、私にとって寛容というのは言葉じゃない。現実です。口にするんじゃなくて行動で示すものです。おっと、一番大事なことを忘れるところだった」

彼は絵葉書を取り出し、机の向こうの金の後ろに押しやった。「ホノルルから送ってきました。ホノルルでは金に羽が生えるらしい。叔父の一人が現地で宝石店を営んでいたんです。今は引退してシアトルに住んでいますが」

私はもう一度写真を手に取った。「これは外部に委託しなければなりません」と私は言った。「複写する必要がありますね」

「ミスタ・マーロウ、そうおっしゃるだろうと予想して、ここに用意して来ました」彼が封筒を取り出すと、そこにはさらに五枚の写真が入っていた。「ケリガンのもあります、スナップ写真ですが」彼は別のポケットに手を入れて、また別の封筒を出した。私はケリガンを見た。案にたがわず、のっぺりした誠意の感じられない顔だった。ケリガンの写真は三枚あった。

ミスタ・シンプソン・W・エーデルワイスは別の名刺をくれた。そこには名前、住所、電話番号が書いてあった。あまり費用がかからないことを望んでいるが、追加の資金が必要な場合はすぐに対応するので、連絡を待っていると言った。

「もし、まだホノルルにいるなら、二百ドルもあれば十分でしょう」と私は言った。「今必要なのは、電報に載せられるような、二人の詳細な身体的特徴です。身長、体重、年齢、肌の色、目立つ傷跡やその他の身元を示す特徴、彼女が着ていた服や持ち物、そして彼女が空にした口座の金額。ミスタ・エーデルワイス、以前に似たような経験をされているなら、私が何を必要としているかお分かりのはずだ」

「このケリガンには何か奇妙な予感がするんです。不安で仕方がない」

私はさらに三十分ほど、彼の話を聞きながらメモを取り続けた。それから彼は静かに立ち上がり、静かに握手をし、お辞儀をして、静かにオフィスを出て行った。

「メイベルにすべて大丈夫だと伝えてください」と彼は外へ出る際に言った。

結局、事はいつも通りに進んだ。ホノルルの同業者に電報を送り、その後に写真と電報で省略した情報を同封した航空便を送った。彼女は見つかった。豪華ホテルで客室係の助手として働いており、浴槽や浴室の床を磨いていた。ミスタ・エーデルワイスが予想した通り、ケリガンは彼女が寝ている間に彼女の財産を全て奪って逃げ去った。彼女はホテル代を支払うために指輪を質入れした。さすがにケリガンも手荒い真似をせずに指環を奪うことはできなかったのだろう。それでホテル代は支払ったが、帰りの運賃には足りなかった。そこでミスタ・エーデルワイスが飛行機に乗って彼女を迎えにいった。

彼女には過ぎた夫だ。私は彼に経費二十ドルと長文電報の費用の請求書を送った。二百ドルはホノルルの探偵社がさらっていった。オフィスの金庫にマディソンの肖像画を保管していると、格安料金で仕事を受けられる。

こうして、私立探偵の一日が過ぎた。典型的な一日とは言い難いが、全く典型的でないわけでもない。なぜこの仕事を続けるのか、誰も知らない。金持ちにもならず、楽しいこともほとんどない。時には殴られたり、撃たれたり、ブタ箱に入れられたりする。まれに死ぬこともある。二ヶ月に一度くらい、まだ首を立ててしゃんとして歩けるうちに、看板を下ろしてもっとまともな職を探そうと決心する。その時、ドアのブザーが鳴り、待合室の内扉を開けると、そこには新たな問題と新たな悲しみを抱えた、新たな顔が立っている。わずかばかりの金を手にして。

「お入りください、ミスタ・シンガミー。どんなご用件でしょう?」

何かしら理由があるはずだ。

三日後の昼下がり、アイリーン・ウェイドから電話があって、翌日の晩に家に飲みに来ないかと誘われた。夫妻はカクテル・パーティーに友人を招いていた。ロジャーは私と会って、ちゃんとお礼を言いたいそうだ。それから請求書を送っていただけますか?

「あなたは私に借りなどありませんよ、ミセス・ウェイド。何かをしたにせよ、報酬は頂いています」  

ヴィクトリア朝風に振る舞ったりして、すごく馬鹿げてた」と彼女は言った。「最近はキスに大した意味がないみたいね。あなたも来てくれるでしょう?」 

「おそらく。不本意ながら」

「ロジャーはまた元気になりました。書いています」

「何よりです」

「今日はなんだか真面目そう。人生をやけに真剣に考えているみたい」

「そういう日もあります。おかしいですか?」

彼女はとても優しく笑って、さよならを言うと電話を切った。私はしばらくそこに座って、人生を真剣に考えていた。それから、何か面白いことを考えて、大笑いしようとした。どちらの方法もうまくいかなかったので、金庫からテリー・レノックスの別れの手紙を取り出して、もう一度読んだ。それを読んで、ヴィクターの店に行って、彼に頼まれたギムレットをまだ飲んでいなかったことを思い出した。バーが静かになるのにちょうどいい時間帯だった。彼が私と一緒に行くことができたなら、彼自身もそう望んだだろう。私は漠然とした悲しみと、すがるような苦さで彼のことを思った。ヴィクターの店に着いたとき、私はもう少しでそのまま通り過ぎようとした。もう少しだったが、そうはいかなかった。彼から金をもらいすぎていた。彼は私に愚かなまねをさせたが、その特権に見合うだけの代償を払っていたのだ。

【解説】

第二十一章は、いわば幕間劇。片時も眼を離すことができない展開が続くので、ちょっと一息というところか。小説になりそうな出来事がそう毎日、探偵に起きるわけではない。作家はそんな何事も起きない探偵の一日をアイロニカルにスケッチしてみせる。

“I drank an extra cup of coffee, smoked an extra cigarette, ate an extra slice of Canadian bacon, and for the three hundredth time I swore I would never again use an electric razor.”(コーヒーを一杯余分に飲み、煙草を一本余分に吸い、カナディアン・ベーコンを一切れ余分に食べ、電気カミソリは二度と使わない、と三百回目の誓いを立てた。)

マーロウの朝のルーティンをさりげなく紹介するパラグラフだが、電気カミソリへの不満を漏らす部分で、それまでの訳者が逐語的に訳しているところに、市川訳は説明を加えずにいられない。

「…もう二度と電気カミソリは使わない、とその日で三百回目の誓いをたてた。顎に触れるとざらっときたのだ。シェーバーで仕上げをした」後半の二文は訳者が付け加えた説明で原文にはない。発表当時とちがい、こういう小説を読む読者層も広がったこともあり、成人男性読者なら言わずもがなの説明が必要になったのかもしれない。それでも、ここまで書き加えるともう翻訳とはいえないのではないか。

書き出しこそ景気が良かったが、電気カミソリでけちがつき、その後オフィスに行ってからは、ひと気のない部屋に付き物の饐えた匂いや塵埃、蠅の死骸や死に際の蜂といったろくでもない顔なじみが探偵を待ちうけていた。そうそう良いことなど続くわけがない。自分を待ち受けているのは、蠅や蜂のようなみじめな最期がせいぜいだろう、という厭世的な気分がマーロウを襲う。

その日が“crazy days”(とんでもない日)になりそうな予感に襲われたマーロウは、そんな日にやって来る依頼者の見当をつける。

“Days when nobody rolls in, but the loose wheels, the dingoes who park their brains with their gum, the squirrels who can't find their nuts, the mechanics who always have a gear wheel left over.”(そんな日に飛び込んでくるのは、頭のねじの緩んだやつ、ガムと一緒に脳みそをどこかに置き忘れてきたぼんくら(ディンゴ)、患者(ナッツ)を見つけられない精神科医(スクワーレル)、いつも歯車をひとつ戻し忘れる修理工とかいった連中だ。)

この依頼者に対する悪態が訳によって微妙に異なる。

「脳みそをおき忘れてきた犬、椎(しい)の実を捜すことのできないりす(傍点二字)、いつもギアをつけちがえる職工」(清水)

「脳みそを糊でかろうじて貼り合わせているぼんくら、木の実の隠し場所を忘れてしまったリス、いつも歯車をひとつ入れ忘れる機械工」(村上)

「嚙みおえたガムを捨てるのと一緒に脳味噌もどこかに忘れてくるぼんくら(ディンゴ)、患者(ナッツ)を見つけられない精神科医(スクワーレル)とか、いつも歯車をひとつ戻し忘れてしまう修理工とか」(田口)

「脳みそをガムでくっつけた野良犬みたいな奴、木の実をどうしても見つけられないリスのような奴、機会を組み上げるといつも歯車が一個余ってしまう修理工のような奴』(市川)

“the dingoes who park their brains with their gum”だが、“dingo”は「オーストラリアにいる野生の犬」のこと。それが俗語では「裏切者、臆病者」等の意味になる。また、“park”という動詞は、これも俗語で「重い物などを一時置いておく」という意味だ。田口訳のように「噛み終えたガム」なら、おき忘れるというより捨てるというほうが相応しい。これは、何かを思案中にガムを噛む癖があり、ガムを噛み終えると同時に考えていたことも忘れてしまうようなぼんやり屋さんのことだろう。

“the squirrels who can't find their nuts”が厄介だ。文字通り訳せば、清水、村上、市川氏のような意味になる。ただし。“nut” には「木の実」の他に「変人、狂人(俗語)」の意味がある。また、“squirrel”には「リス」のほかに、俗語として「変人」の意味がある。また、動詞だと「(将来使うために〜を)蓄える、隠しておく」という意味もある。そう考えると、「狂人をたくわえる、隠しておく」という意味で、田口氏のいう「精神科医」という読みもありだ。何より作中にそれっぽい人物が登場しているではないか。

一人目の客は肉体労働者らしく大男で、大きな手の持ち主だ。そのしぐさを原文は“planted two wide horny hands on my desk”(大きなごわごわした両手を机に置くと)と書いている。訳は次の通り。

「はば(傍点二字)のひろい、ごつごつした両手をデスクにおき」(清水)
「ごわごわした大きな両手を私の机にどっさりと据えた」(村上)
「大きな角(つの)みたいな手を私の机の上にでんとのせて」(田口)
「仕事で荒れたでかい両手を、まるで太い幹が根を張るように指を広げて私の机に置いた」(市川)

“horny hands”は、そのままで「荒れて硬くなった手」と辞書にある。田口訳の「角みたいな」は“horn”(つの)の形状からきたのだろうが、むしろここは「角質」を意味しているのではないだろうか。市川訳は相変わらず説明が過剰。ここはあっさりすませていいところだろう。

ミートボールが投げ込まれる場所を「隣からツルハナナスの垣根越しに」と訳したところ、原文は“meatballs thrown over the potato vine from next door.”。この“potato vine”(ポテトヴァイン)だが、ナス科の植物で観賞用として人気があり、庭やフェンスなどに這わせるようにして育てられる。清水訳では「隣から投げこまれる」と、無視されていたが、村上訳で「つるの絡んだ垣根越しに隣家から」と訳されるようになった。ところが、田口訳では「垣根越しに」と、また蔓性植物であることが無視される羽目に。市川訳で「蔓草の生け垣越しに」と再び復活するというなかなか浮き沈みの激しい生を送ってきた。植物に関心のない向きにはどうでもいいところだが、わざわざ“potato vine”と記されている以上、無視するにはしのびない。

他を頼ったらどうか、と関係機関の名を挙げる探偵。

“S.P.C.A.? The Tafiwaggers?”(S.P.C.A(動物保護団体)は? テイルワガーズ(愛犬協会)は?)

清水訳はここを「動物虐待防止協会へは?」と“ The Tafiwaggers”をトバしている。当然、それに対するマーロウの説明部分“I told him about the Tailwaggers. He was far from interested.”についてはカットされている。省いても問題ないと考えたのだろう。村上訳以降、「動物愛護局は? 犬猫愛好会は?」と併記されるようになった。

昼食後に登場した客のプロフィールにちょっとした異同がある。まず彼の服装だが、「袖の長すぎる茶色のスーツを着て、硬い白襟の下に紫地に黒いダイヤ柄を浮かせたネクタイを締めていた」と訳したところ(原文では“wearing a brown suit with sleeves too long, and a stiff white collar behind a purple tie with black diamonds on it.”)。

ここが、清水訳では「袖が長すぎる茶色の服を着て、白い堅いカラーに紫色のネクタイを結び、黒ダイヤのピンをさしていた」となっている。村上訳は「茶色の背広を着ていたが、袖が長すぎた。糊のきいた白いシャツに、黒いダイヤ柄の紫色のネクタイを締めていた」と、“black diamonds”をダイヤを柄と捉えている。田口訳も「黒いダイアモンド柄をあしらったネクタイ」と村上訳を踏襲している。ところが、最新訳である市川訳では「紫のネクタイで黒ダイヤのピンで留められていた」と、旧訳に戻っている。

原文では“diamonds ”と、ダイアモンドは複数形である。一個のダイヤならともかく、ネクタイピンに複数のダイアモンドをあしらうのはこの人物には似つかわしくない。ここは、紫の地にダイヤ柄を散らしたネクタイと考えるのが穏当というものだ。市川氏は既に複数の訳のある作品を新しく訳すにあたって、先人の訳業を参考にするという手間すら惜しむのだろうか。

市川訳には他にも気になるところがある。依頼者が妻の行状を説明するところで、“But she don't come back until I find her. Maybe it's a kind of game with her.”(でも、私が見つけ出すまで戻ってきません。彼女にとってこれはゲームみたいなものなんです)が市川訳では「だけど、私が見つけないと返ってこない。マーブル(原文ママ)はたぶんたぶらかされたんじゃないかと思います」となっている。それまでの訳では、メイベル自身がゲームのようなものととらえているという解釈で、浮気相手の関与をうかがわせるものではない。この段階では相手の男のことは話に上がってきていないのでこの訳には違和感がある。

ミスタ・エーデルワイスがオフィスを去る時の様子にも異同がある。“Then he stood up quietly, shook hands quietly, bowed and left the office quietly.”(それから彼は静かに立ち上がり、静かに握手をし、お辞儀をして、静かにオフィスを出て行った)。清水訳にも村上訳にも「お辞儀をして」が入っているのだが、田口訳と市川訳からは抜け落ちている。さすがの田口氏も上手の手から水が漏れたのだろうが、そこは真似をする必要はないのだが。

一日を振り返ったマーロウが、探偵稼業についてあらためて思いを致す場面に気になる箇所がある。

“Every other month you decide to give it up and find some sensible occupation while you can still walk without shaking your head.”(二ヶ月に一度くらい、まだ首を立ててしゃんとして歩けるうちに、看板を下ろしてもっとまともな職を探そうと決心する)の後半部、“while you can still walk without shaking your head”をこれまではどう訳してきたか、という点である。

「頭をふるわせないで歩けるうちに」(清水)、「まだ頭をしっかり上げて歩けるうちに」(村上)、「頭をふらふらさせなくてもちゃんと通りを歩けるうちに」(田口)、とあまり意味がよく分からない訳になっている。市川訳は「なんでこんなうらぶれた人生に、と首を振りながら歩く羽目に陥る前に」と、ずいぶん突っ込んだ訳になっている。いつもなら、勝手な解釈を、と文句のひとつも言いたくなるところだが、今回に限っては金星かもしれない。

というのも“shake one’s head”には「(疑念・不信・落胆・悲しみ・恥ずかしさなどを表すために)頭(首)を横(左右)に振る」という意味があるからだ。村上訳には、その意味が感じられないこともないが、清水、田口両氏の訳には、それまでに痛い目に遭うことが強調されているので、頭を殴られた後の様子と読んだのだろう。心情ではなく肉体的な反応ととらえているようだ。

十年ほど前、村上訳が出たとき、清水訳と読み比べたことがある。その時ブログに書いたことを再掲しておく。

「さて、この章だが、最後の場面をのぞけば、三人の依頼人の部分は、あってもなくても小説に大きな変化はなさそうだ。自分の中短編から一部分を ピックアップしては長編を作っていくチャンドラーの小説作法から見て、このような「つなぎ」の場面は、中短編として考えたものを長編小説に作り変えるため の必要悪なのかもしれない。

その一方で、三つのアネクドートに見られるテーマは、隣人や同居人が自分を裏切ったり、害をなしたりするという疑惑や、夫婦の一方が相手を裏切り、失踪するというもので、これは『ロング・グッドバイ』を貫く通奏低音になっている。シェイクスピアの『ハムレット』の中で旅芸人によって演じられる 「ゴンザーゴ殺し」の劇が、『ハムレット』のテーマの反復になっているように、劇中劇の果たす意味合いは結構重いものがある。一見すると、ただのジョイント 部分に見えるこの章も、そういうふうに考えると興味深いものがあるといえよう。」

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“like hell”が、文頭に来たら「絶対〜しない」

20

【訳文】

彼らが外に出てきたとき、車はすぐ傍にあったが、アールはいなかった。彼は車を停めてライトを消すと、私に何も言わずに母屋の方へ歩いていった。まだ、口笛でうろ覚えのメロディをさらっていた。

ウェイドは後部座席に慎重に乗り込み、私は彼の横に乗った。ドクター・ヴァリンジャーが運転した。彼の顎はひどく痛み、頭も痛かったろうが、そんな素振りを見せず、口にもしなかった。私たちは尾根を越え、砂利敷きの私道の端まで行った。アールは前もって南京錠の鍵を開け、ゲートを開けていた。ヴァリンジャーに自分の車がどこにあるか告げると、彼はその近くに停めた。ウェイドは車に乗り込み、何も見ずに黙って座っていた。ヴァリンジャーは車から降りて彼の側に回り、穏やかにウェイドに話しかけた。

「私の五千ドルについてだが、ミスタ・ウェイド。きみが約束してくれた小切手のことだ」

ウェイドは尻を下に滑らせ、シートの背凭れに頭を預けた。「考えておく」

「約束したはずだ。私にはそれが必要なんだ」

「強迫というのはな、ヴァリンジャー。危害を加えるという脅しのことだ。私は今、保護されている」

「私は食べさせ、からだも洗ってやった」ヴァリンジャーは言い張った。「夜中にきみを迎えに行き、保護し、治療した――少なくとも当分のあいだは」

「五千ドルの価値はない」ウェイドはせせら笑った。「もう充分私のポケットから持っていただろう」

ヴァリンジャーはあきらめなかった。「キューバにコネがあって、約束を取り付けてるんだ、ミスタ・ウェイド。あなたは金持ちだ。困っている人間を助けるべきだ。アールの面倒も見なきゃいけない。このチャンスをものにするには金が必要だ。全額返済するつもりだ」

じれったくなってきた。煙草を吸いたかったが、ウェイドの気分が悪くなるのが心配だった。

「絶対に返せっこないね」ウェイドはげんなりして言った。「あんたは長生きできない。いつかそのうち、秘蔵っ子に寝首をかかれるだろう」

ヴァリンジャーは後退りした。表情は読めなかったが、その声は情味を欠いていた。

「もっと不愉快な死に方もある」と彼は言った。「きみのもそのひとつだろう」

彼は車まで歩いて戻り、乗り込んだ。ゲートをくぐって車を走らせ、見えなくなった。私はバックして方向転換し、街に向かった。一、二マイルほど走ったところで、ウェイドがつぶやいた。「なぜあのでぶのうすのろに五千ドルも払わなきゃならん?」

「理由などないさ」 

「それなら、なぜ彼に渡さないことで自分がろくでなしのように感じるんだ?」 

「理由などないさ」

彼は私を見るため少しだけ頭を傾けた。「あいつは私を赤ん坊のように扱った」とウェイドは言った。「アールがやって来て私を殴るのではないかと恐れて、私を放っておくことはほとんどなかった。私のポケットに入っていた小銭はすべて奪った」

「たぶん、あんたがそう言ったんだろう」

「きみはあちら側の人間か?」

「よしてくれ、私にとって、これはただの仕事だ」

さらに数マイルほど沈黙が続いた。どこかの郊外住宅地のへりを通り過ぎた。ウェイドが再び話しかけてきた。

「金はくれてやることになるだろうな。あいつは破産してる。不動産は差し押さえられている。あそこが売れてもあいつにはびた一文入らない。みんなあのサイコ野郎のせいだ。なぜあそこまでやるんだ?」

「知るわけがない」

「私は作家だ」とウェイドは言った。「人の心を動かすものについては了解済みのはずなのに、誰のこともまったくわかっちゃいない」

峠を越え、上りきると、眼の前に渓谷の光が果てしなく広がっていた。私たちは北西に向かうハイウェイに入り、ベンチュラを目指した。しばらくしてエンシーノを通り過ぎた。信号待ちの際、豪邸の建ち並ぶ丘の上の明かりを見上げた。あの豪邸のひとつにレノックス夫妻が住んでいたのだ。私は車を走らせた。

「もうすぐハイウェイの出口だ」とウェイドは言った。「知ってるか?」

「知っている」

「ところで、まだきみの名前を聞いていない」

フィリップ・マーロウ

「いい名だ」そこで、声の調子ががらりと変わって、言った。「ちょっと待った、ひょっとして、レノックスのごたごたに巻き込まれたってのはあんたか?」

「そうだ」

彼は車の暗がりの中で私をじっと見つめていた。私たちはエンシーノの中心街にある最後の建物群を通り過ぎた。

「彼女のことは知ってた」ウェイドは言った。「ほんの少し。彼には会ったことがない。気味の悪い出来事だった。警察ではひどくとっちめられた、と聞いたが?」

私は答えなかった。

「あまりその話はしたくないようだな」と彼は言った。

「かもな。なぜ知りたがる?」

「おいおい、私は作家なんだ。きっとすごい話になるにちがいない」

「今夜はやめておけ。あんたはかなり弱っているようだ」

「オーケイ、マーロウ。オーケイ。私が嫌いなんだ。了解した」

ハイウェイの出口にさしかかったので、車をそちらに向け、なだらかな丘陵地帯の間に挟まれたアイドル・ヴァレーへと向かった。

「あんたのことは好きでも嫌いでもない」と私は言った。「私はあんたを知らない。あんたを見つけて家に連れ戻すように奥さんから頼まれた。あんたを家に届けたら、それで終わりだ。なぜ私が選ばれたのか、それはわからない。言ったように、これはただの仕事だ」

丘の側面を曲がると、もっと広くてしっかりした舗装路に出た。彼は一マイル先の右側に家があると言った。番地も教えてくれたが、すでに知っていた。体調の割には、口数の減らない男だった。

「いくら支払うことになってるんだ?」と彼は訊いた。

「まだ話しあっていない」

「いくらになったにせよ、それだけでは足りない。いくら感謝しても足りない。あんたはよくやってくれた。そこまでしてもらう値打ちは私にはない」

「そう思うのは、今夜だけさ」

彼は笑った。「聞いてくれるか、マーロウ? あんたを好きになれそうだ。あんたはちょっとろくでなしだ――私と同じだ」

家に着いた。屋根にも壁にもこけら板を張り巡らした二階建てで、小さな柱のあるポルチコがあり、入り口から白いフェンスの内側のこんもりした灌木まで長い芝生が広がっていた。ポルチコには明かりがついていた。私は私道に乗り入れ、ガレージ近くに車を停めた。

「一人で大丈夫か?」

「もちろん」彼は車から出た。「中に入って、飲物でもどうだ?」

「今夜はやめておく、ありがとう。家に入るまでここで見届ける」

彼は荒い息をしながらそこに立っていた。「わかった」と彼は短く言った。彼は向きを変え、敷石道を慎重に歩いて玄関に向かった。彼はしばらく白い柱につかまり、それからドアを開けてみた。ドアが開き、彼は中に入った。ドアは開いたままで、緑の芝生に光が差し込んだ。突然、声がざわめいた。私は後退灯を頼りに私道からバックし始めた。誰かの声が私を呼んだ。

扉口に立つアイリーン・ウェイドが見えた。私は彼女が駆け出すのを見ていた。だから止まらなければならなかった。私はライトを消し、車を降りた。彼女が近づいてきたとき、私は言った。

「電話をするべきでしたが、彼を一人にしておけなくて」

「わかっています。いろいろとたいへんだったのでは?」

「まあ。呼び鈴を鳴らすだけという訳にはいかなかった」

「どうぞお入りになって、詳しく聞かせてください」

「彼はベッドに入るべきだ。明日には新品同様になるはずです」

「キャンディが寝かしつけます。今夜は飲まないでしょう。もし、それがご心配でしたら」

「そんなこと考えもしなかった。おやすみなさい。ミセス・ウェイド」

「お疲れでしょう。あなただけでも何かお飲みになりませんか?」

私は煙草に火をつけた。煙草を味わうのは数週間ぶりだったような気がする。思う存分煙を吸った。

「ひと口いただけるかしら?」

近づいてきた彼女に煙草を差し出した。彼女はそれを吸って咳き込んだ。煙草を返しながら笑った。「見ての通り、まったくの素人」

「あなたはシルヴィア・レノックスを知っていた」と私は言った。「それで私を雇いたかったんですか?」

「私が誰を知っていた、と?」彼女は戸惑っているようだった。

「シルヴィア・レノックス」私は手にしていた煙草を立て続けに吸った。

「ああ」と彼女は驚いたように言った。「あのひとね――殺された。いいえ、個人的には知らなかった。誰なのかは知っていたけれど。そう言わなかったかしら?」

「失礼、そう言われたことをすっかり忘れてた」

彼女はまだ私の傍に静かに立っていた。ほっそりと背が高く、白いドレスを着ていた。開いたドアから差し込む光が彼女の髪の毛の縁に触れ、柔らかく輝いていた。

「もしそれが、あなたが言うように、私があなたを雇いたいと思ったことと関係があるのなら、なぜ私に訊いたの?」私がすぐに答えないと、彼女は重ねて訊いた。「ロジャーが彼女を知っている、と言ったの?」

「私が自分の名前を言うと、彼は事件について話し出した。すぐには私と事件とが結びつかなかったのに、ようやく結びついたんだ。ただやたらとしゃべるので、言ったことの半分も覚えていない」

「そうなのね。もうそろそろ戻らなくては、ミスタ・マーロウ。夫がどうしているか様子を見てきます。あなたがお入りにならないのなら...」

「これをあなたに預けておこう」と私は言った。

私は彼女をつかんで自分のほうに引き寄せ、頭を後ろに傾けた。私は彼女の唇に激しく口づけした。彼女は抗いもしなかったが、反応もしなかった。静かに身を引いて、そこに立って私を見ていた。

「こんなことすべきじゃない」と彼女は言った。「まちがってる。こんな真似をするにはあなたはいいひとすぎる」

「そのとおり、とてもまちがったことだ」と私は認めた。「しかし、私は今日一日中ずっと​​忠実で行儀のいい猟犬になって、これまで取り組んだ中でも一、二を争う愚かな思わくにまんまと魅せられた。これが誰かが書いた筋書きでなかったら、それこそ驚きだ。いいか、きみは端から彼がどこにいるか知っていた。私はそうふんでいる。少なくとも、ドクター・ヴァリンジャーの名前は知っていた。きみはただ、私が彼の面倒を見なければならないという責任感を感じるように、私を彼と関わらせ、彼に絡ませたかっただけだろう。それとも、私がどうかしてるのか?」

「その通り、あなたはどうかしてる」と彼女は冷やかに言った。「そんなとんでもなく馬鹿げた話、聞いたことがない」彼女はそう言って踵を返しかけた。

「待ってくれ」と私は言った。「あのキスは傷痕を残さない。きみの思い過ごしだ。それに、いいひとすぎる、なんて言わないでくれ。むしろ、ろくでなしと呼ばれた方がいい」

彼女は振り向いた。「どうして?」

「もし私がテリー・レノックスにとって、いいひとでなかったら、彼はまだ生きていただろう」

「そうかしら?」と彼女は静かに言った。「どうしてそう言い切れるの? おやすみなさい、ミスタ・マーロウ。そして、ほとんどすべてのことに本当にありがとう」

彼女は芝生の端に沿って戻っていった。私は彼女が家の中に入っていくのを見送った。ドアが閉まった。玄関灯が消えた。私は意味もなく手を振り、走り去った。

【解説】

ウェイドを見つけだしたマーロウは、ヴァリンジャーのところから自宅に送り届ける。きっと返すから五千ドル貸してくれ、というヴァリンジャーに、ウェイドが放つ捨て台詞がこれだ。

"Like hell you'd pay it back," Wade said wearily. "You won't live long enough. One of these nights Blue Boy will kill you in your sleep."(「絶対に返せっこない」ウェイドはげんなりして言った。「あんたは長生きできない。いつかそのうち、秘蔵っ子に寝首をかかれるだろう」)

"Like hell you'd pay it back,"のところ、清水訳は「返す気持はあるだろうさ」。村上訳は「ああきっと耳を揃えて返済してくれるだろうよ」。田口訳は「ああ、きっと耳をそろえて返してくれることだろうよ」となっている。この“like hell”だが、文末につくと「猛烈に、必死に、ひどく」といった強調を示すが、文頭に来た場合「絶対〜しない」という意味になる。三氏の訳では続くウェイドの台詞に「だが、しかし、だけど」という逆接の接続詞を使っている。しかし、原文は見ての通り順接で、“but”はどこにもない。
市川訳は「金なんか返せるはずがないだろ」だ。これが正しい。

ウェイドを家に送り届け、そのまま立ち去ろうとしたマーロウをアイリーンが追いかけてくる。形式的な会話のやりとりがあって、煙草を吸うマーロウに、アイリーンが煙草をねだる場面がある。

"May I have just one puff?" (「ひと口いただけるかしら?」)

She came close to me and I handed her the cigarette. She drew on it and coughed. She handed it back laughing. "Strictly an amateur, as you see."(近づいてきた彼女に煙草を差し出した。彼女はそれを吸って咳き込んだ。煙草を返しながら笑った。「見ての通り、まったくの素人」)

この部分でアイリーンの科白の後に、田口訳だけ「もちろん。きみが吸うとは思わなかったな」「いつも吸ってるわけじゃないけど」という二人の会話が挿入されている。原文にはないし、他の三氏の訳にもない。田口氏が勝手に書き加えたのだろうか。あるいは、そう書かれた別の版があるのだろうか。よく分からないが、気になったので書いておく。

マーロウはアイリーンに魅かれつつ、彼女の真意に疑問を抱きはじめている。アイリーンの本性を見きわめるために、マーロウはあえて口づけという禁じ手を用いる。キスを挟んでのアイリーンの変容が、マーロウにある確信を抱かせる。少し長くなるが、なぜキスをしたかについて説明するマーロウの長台詞から一部を引用する。

"But I've been such a nice faithful well-behaved gun dog all day long, I got charmed into one of the silliest ventures I ever tackled, and damned if it didn't turn out just as though somebody had written a script for it. "(しかし、私は今日一日中ずっと​​忠実で行儀のいい猟犬になって、これまで取り組んだ中でも一、二を争う愚かな思わくにまんまと魅せられた。これが誰かが書いた筋書きでなかったら、それこそ驚きだ)

清水訳は「しかし、一日中、よくならされた忠実な猟犬の役をしてきたので、生まれてはじめての愚かしいことをしてみたくなったんです。それに、今日一日のことは誰かが書いた筋書きどおりだったのかもしれないんです」。これでは「生まれてはじめての愚かしいこと」がウェイドの捜索ではなく、アイリーンへの「キス」になってしまう。

引用文の中の“charm into〜”は「(人などを)魔法(のような力)で(…の状態に)引き入れる」という意味だ。それをしたのがアイリーン・ウェイドであるのは言うまでもない。となると“one of the silliest ventures I ever tackled”は、アイリーンの望みに適うことでなければならない。依頼主で既婚者でもある女性にキスするなど論外である。マーロウは、惚れた弱味で誰かの思惑にひっかかって、あっちこっち引きずりまわされた自分を恥じているのだ。

村上訳でも「しかし私は今日いちにち、有能で忠実な躾けのいい猟犬として身を粉にして働きました。誰かの手になる台本どおりに自分が動かされてきたのかと思うと、でたらめだってしたくもなる」と、「でたらめ」という言葉で、キスの言い訳をさせている。その「でたらめだってしたくなる」は原文のどこにあるのだろうか。

“damned if it~”とは「~が本当であってたまるものか (絶対本当でない).」の意味だ。“turn out〜”は「結果的に〜になる、〜であることが判明する」という意味。つまり、“damned if it didn't turn out just as though somebody had written a script for it.”は「これが誰かが書いた筋書きでないなどということが本当であってたまるものか(そんなこと絶対にない)」という意味だ。

田口訳は「だけど、私は今日一日ずっとよく躾けられて忠実な猟犬として働いた。それもこれもこれまで関わった中でも一、二を争うような、愚かな賭けに魅入られたように引き込まれたせいで。これがあらかじめ誰かが書いたシナリオじゃないとしたら、そのほうが驚きだ」となっている。「魅入られたように引き込まれた」というのは“charm into~”の訳としてはぴったり。ただ、“venture”は「投機、思わく、やま、(危険を伴う)冒険」の意。「賭け」という訳語には少し首をひねる。

市川訳も「だが、このとんでもなく長い一日、私はひたすらお行儀のいい、忠実な犬になって獲物を探し求め回った。今までやってきたうちでもトップクラスの、このアホみたいな冒険にすっかりのめり込んでしまった。そしてこの冒険が誰かさんが書いたシナリオじゃない、なんてことだとしたらそれこそびっくりだ」と、「アホみたいな」という言葉をマーロウが使うかどうかは別として、くだけた口調でうまく訳している。

 

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“mourning dove”は、ただの「鳩」ではなく「ナゲキバト」

19

【訳文】

噛みしだかれてちぎれた紐みたいに寸足らずな気分で車を走らせ、ハリウッドに戻った。食事をするには早すぎたし暑すぎた。オフィスの扇風機をつけた。それで涼しくはならなかったが、空気が少し爽やかに感じられるようになった。外の大通りでは車の騒音が鳴りやまなかった。頭の中では蠅取り紙の上の蠅のように様々な思いがくっつきあっていた。

三発撃って、三発はずれ。私がしていたのは、やたらと医者に会うことだけだ。

ウェイドの家に電話した。メキシコ訛りの声が、ミセス・ウェイドは家にいないと答えた。ミスタ・ウェイドはいるかと訊いた。ミスタ・ウェイドも同じように留守だという。私は名前を告げた。それで通じたようだ。自分はハウスボーイだと彼は言った。

カーン協会のジョージ・ピーターズに電話した。他にも医者を知っているかもしれない。留守だった。私は適当な名前と正しい電話番号を伝えた。一 時間が病気のゴキブリのようにのろのろと過ぎていった。私は忘却の砂漠に横たわる砂粒だった。弾丸を撃ちつくしたばかりの二挺拳銃のカウボーイだった。三発撃って三発はずれ。二度あることは三度、というのが嫌いだ。ミスタ・A を訪ねる。成果なし。ミスタ・B を訪ねる。成果なし。ミスタ・C を訪ねる。同じく。一 週間後、ミスタ・Dを訪ねるべきだったとわかる。そんなやつのいることすら知らず、知ったときには、依頼人の気が変わり、調査は打ち切りとなる。

ドクター・ヴカニックとヴァーリーの二人はリストから外れた。ヴァーリーはアル中患者に手を出すほど金に不自由してない。ヴカニックは自分の診察室で静脈注射を打つようなちんぴらだ。助手は知っているはずだ。少なくとも患者の何人かは知っているにちがいない。何かで腹を立てた男が電話の一本もすれば一巻の終わりだ。酔っていようと素面であろうと、ウェイドは近づかなかっただろう。彼は世界一聡明な男ではないかもしれない――-成功者の多くは天才とはほど遠い――が、ヴカニックに関わるほど馬鹿ではない。

可能性があるのはドクター・ヴァリンジャーだけだ。彼は人里離れたところに施設を持っている。辛抱強さもありそうだった。しかし、セパルヴェダ・キャニオンはアイドル・ヴァレーから遠く離れている。二人の接点がどこにあったのか、どうやって知り合ったのか、ヴァリンジャーが土地の所有者で、もう買い手が決まっているのなら、まもなく大金を手にするはず。そこで一つ思いついた。土地の状況を調べるために、登記調査会社にいる知り合いに電話した。誰も出なかった。会社はその日の業務を終えていた。

そこで、私も店仕舞いすることにして、ラ・シエナガのルディーズ・バーベキューまで車を走らせた。給仕長に名前を告げ、眼の前にウィスキーサワーを置き、マレク・ウェーバーのワルツに耳を傾けながら、バー・ストゥールの上で大事な瞬間を待った。しばらくしてヴェルベットのロープをくぐり抜けて中に入り、ルディーの「世界的に有名な」ソールズベリーステーキを食べた。これは、焦げた板の上にハンバーグを載せて、周りに焼き色のついたマッシュポテトを添えたもので、フライドオニオン・リングとミックス・サラダが添えられていた。このサラダ、男性がレストランではまったく従順に食べるが、家で妻が食べさせようとしたら叫び出すであろう類の代物だ。

その後、私は車で家に帰った。玄関のドアを開けると、電話が鳴り出した。

「アイリーン・ウェイドです、ミスタ・マーロウ。何か御用でしたか」

「そちらに何か進捗があったか知りたかっただけです。こちらは一日中医者と会っていて、結局誰とも親しくなれず仕舞いです」

「そうですか、残念です。彼はまだ戻りません。もう気が気じゃなくて。それでは、あなたの方も何も進展はなかったということね」彼女の声は低く、元気がなかった。

「ここは人でごった返している郡(カウンティ)ですよ、ミセス・ウェイド」

 「今夜で丸 四 日になります」

 「ええ、でもそんなに長くはない」 

「私には長い」 彼女はしばらく黙っていた。「ずっと考えていたの、何か思い出せないかと」彼女は続けた。「何かあるはず。手がかりになるヒントなり記憶なりが。ロジャーは、いろんなことをそれはたくさん話すんです」

「ヴァリンジャーという名前に何か心当たりはありませんか、ミセス・ウェイド?」

「いいえ、残念ながら。私の知ってる人?」

「以前、ミスタ・ウェイドが、カウボーイ姿の背の高い若い男に連れられて帰宅した、とおっしゃいましたね。その背の高い男をもう一度見たら分かりますか?」

「分かるかもしれない」彼女はためらいがちに言った。「条件が同じなら。でもちらっと見ただけです。彼の名前がヴァリンジャーなの?」

「いや、ミセス・ウェイド。ヴァリンジャーはがっしりとした体格の中年男で、セパルヴェダ・キャニオンで滞在型牧場のようなものを経営している、正確に言うと、経営していた。そこにアールという着飾るのが大好きな若いのが働いている。そして、ヴァリンジャーはドクターを自称している」

「素晴らしい」と彼女は温かく言った。「正しい方向に向かっているという気がしないの?」

「全くの見当はずれかもしれません。何か分かったら電話します。ロジャーが家に帰ってきてないか、あなたが何かはっきりしたことを思い出していないかを確かめたかっただけなので」

「あまりお役に立てなかったようで申し訳ありません」と彼女は悲しそうに言った。「どんなに遅くなっても、いつでも電話してください」

そうすると言って電話を切った。今回は銃と電池三本入りの懐中電灯を携行した。銃はタフで小さな短銃身の三二口径。装弾はフラットポイント。ドクター・ヴァリンジャーのところのアールは、ブラスナックルの他にも玩具を持っているかもしれない。持っていたらそれで遊びかねない程度の間抜けだ。

再び高速道路に出て、全速力で車を走らせた。月のない夜で、屋敷の入り口に着く頃には暗くなっていた。暗闇こそが私が必要とするものだった。

門はチェーンと南京錠で施錠されたままだった。その前を通り過ぎ、ハイウェイからかなり離れた場所に車を停めた。木陰にはまだ光が残っていたが、長くは続かないだろう。私はゲートをよじ登り、丘の中腹までハイキング用の小径を探しに行った。谷のはるか奥で鶉の鳴き声が聞こえた気がした。一羽のナゲキバトが人生の悲惨さを訴えていた。ハイキング用の小径はなかった。あるいは見つけることができなかったのかもしれない。仕方がないので道路に戻り、砂利道の端を歩いた。ユーカリの木がオークに取って代わられ、尾根を越えると、遠くにちらほら明かりが見えた。プールとテニスコートの裏手、道の端にある本館を見下ろせる場所まで四十五分かかった。本館はライトアップされ、そこから音楽が聞こえてきた。さらにその奥の木立の中にも、明かりが灯った小屋があった。木々のあちこちに小さな暗い小屋が点在していた。小径を進んでいくと、突然、本館の裏手で投光器が点灯した。私は思わず凍りついた。投光器は何かを探しているわけではなかった。まっすぐ下を向き、裏のポーチとその向こうの地面に広い光だまりを作った。するとドアが音立てて開き、アールが出てきた。それで自分がうってつけの場所にいることを知った。

今宵のアールはカウボーイだった。ロジャー・ウェイドを家に連れ帰ったのもカウボーイだった。アールはロープをくるくる回していた。白のステッチが入った黒っぽいシャツを着て、水玉模様のスカーフをゆるく首に巻いていた。銀の飾りがたっぷりついた幅広の革のベルトに型押しされた一対の革のホルスターをつけ、その中には象牙のグリップの拳銃が二挺収まっていた。エレガントな乗馬ズボンを履き、白のクロスステッチが施されたブーツは新品のように輝いていた。頭の後ろには白いソンブレロ、シャツの下には銀で編まれた紐のようなものが結ばれることなく、だらんと垂れ下がっていた。

彼は白い投光照明の下にひとり佇み、からだの周りにロープをくるくる回しながら、ロープの輪の中を出たり入ったりしていた。観客のいない役者、背が高く、細身で、ハンサムなめかし込んだ牧童が、たったひとりでショーを披露し、その一分一秒を楽しんでいた。二挺拳銃のアール、コチース郡の恐怖。電話番の女の子までが乗馬ブーツを履いて出勤するような、とんでもなく馬好きな連中が集まるそんな観光牧場が彼には似つかわしかった。

突然、彼は何かの音を聞いた、あるいは聞いたふりをした。ロープが地に落ち、両手はホルスターから二挺の銃を引き抜き、水平に構えたときには鈎状に曲げた親指が撃鉄の上にあった。彼は暗闇を覗き込んだ。私は動く勇気がなかった。銃に弾丸が込められているかもしれない。しかし、投光器の光で目がくらみ、何も見えなかったはず。彼は銃をホルスターに戻し、ロープを大雑把に掻き集め、家の中に戻った。照明が落ち、それを潮に私も席を立った。

樹々の間を縫って、丘の斜面に建つ小さな明かりのともる小屋に近づいた。そこからは何の音も聞こえなかった。私は網戸のはまった窓にたどり着き、中を覗いた。明かりはベッド脇のナイトテーブルの上のスタンドのものだった。男はベッドに仰向けにしどけなく横たわり、パジャマ姿の両腕を布団の外に出し、大きく見開いた眼で天井を見つめていた。大柄な男だ。顔の一部は影になっていたが、顔色が悪く、髭を剃る必要があることが見て取れた。髭の伸び具合を見る限り、計算が合う。両手の指は開いたままベッドの外でぴくりとも動かなかった。まるで何時間もそうしているように見えた。

小屋の向こう側の小径を歩いてくる足音が聞こえた。網戸がきしみ、ドクター・ヴァリンジャーが姿を現した。トマトジュースらしきものが入った大きなグラスを持っていた。彼はフロアランプのスイッチを入れた。アロハシャツが黄色く光った。ベッドの男は彼を見ようともしなかった。

ドクター・ヴァリンジャーはグラスをナイトテーブルに置き、椅子を引いて座った。片方の手首に手を伸ばし、脈を取った。「ご気分はいかがですか、ミスタ・ウェイド?」彼の声は優しく、気遣いが窺われた。

ベッドの男は返事もせず顔を見もしなかった。ずっと天井を見つめていた。

「さあ、さあ、ミスタ・ウェイド。機嫌を直して。脈拍がいつもより少し速いだけです。弱っているようですが、それ以外は――」

「テジー」とベッドの上の男が突然言った。「具合がわかっているなら、わざわざ尋ねる必要はない、とこのクソ野郎に言ってやれ」声は明瞭だったが、口調は辛辣だった。

「テジーというのは誰のことかな?」ドクター・ヴァリンジャーは辛抱強く言った。

「私の広報係だ。あそこの隅にいる」

ドクター・ヴァリンジャーは上を見上げた。「小さなクモがいる」彼は言った。「芝居はやめるんだ。ミスタ・ウェイド。そんな真似は必要はない」

「テジェナリア・ドメスティカ、普通のハエトリグモだよ。クモは好きだ。アロハシャツなど着ないからな」

ドクター・ヴァリンジャーは唇を湿らせた。「私にはふざけてる暇などない、ミスタ・ウェイド」

「テジーにおふざけは通じない」 ウェイドは重いものでも動かすかのように頭をゆっくりと回し、ドクター・ヴァリンジャーを軽蔑の眼差しで見つめた。「テジーは真剣そのものだ。そっと忍び寄ってくる。あんたがよそ見をしているとき、音もなくひょいと跳ぶ。しばらくすると、すぐ傍に来ている。そして最後のジャンプをする。あんたは吸い尽くされるんだ、ドクター。テジーはあんたを食べはしない。ただ汁を吸い、皮膚だけが残る。そのシャツを着続けるつもりなら、ドクター、遠からずそういう目に遭うことになる」

ドクター・ヴァリンジャーは椅子の背に凭れかかった。「五千ドル要るんだ」彼は穏やかに言った。「いつになったら調達できる?」

「六百五十ドル払ったはずだ」ウェイドは意地悪く言った。「手持ちの小銭も。この売春宿では一体いくらかかるんだ?」

「はした金だ」ドクター・ヴァリンジャーは言った。「料金は上がったと言ったはずだ」

「ウィルソン天文台まで跳ね上がったとは聞いていない」

「はぐらかすんじゃない、ウェイド」とドクター・ヴァリンジャーは素っ気なく言った。「きみはそんな横柄な態度に出られる立場じゃない。それに、きみは私の信頼を裏切った」

「そんなものがあんたにあったとは知らなかった」

ドクター・ヴァリンジャーは椅子の肘掛をゆっくりと叩きながら「きみは真夜中に電話してきた」彼は言った。「絶望的な状態だった。私が来なければ自殺すると言った。私は気が進まなかった。知っての通り、私はこの州で医師免許を持っていない。元も子もなくす前に私はここを処分しようと考えている。アールの面倒も見なければならないし、あの子にはそろそろ悪い兆候が現れてきている。大金がかかると言ったはずだ。それでもどうしてもと言うから、私は行ったんだ。五千ドル欲しい」

「私はひどく酔っぱらっていた」ウェイドは言った。「そんな状態で交わした約束で人を縛ろうとしても無理だ。金ならもう充分払った」

「それに」ドクター・ヴァリンジャーはゆっくりと言った。「きみは奥さんに私の名前を言った。私がきみを迎えに来ると」

ウェイドは驚いたようだった。「そんなことはしていない」彼は言った。「彼女とは顔を合わせてもいない。彼女は眠っていた」

「なら、別のときだろう。私立探偵がきみのことを訊きに来ている。誰かに教えられない限り、ここを探し当てられるはずがないんだ。追い払いはしたが、またやって来るかもしれない。きみは家に帰るべきだ、ミスタ・ウェイド。しかし、まずは五千ドル払ってもらおう」

「あんたは世界一賢い男でもないようだな、ドク? もし私の居場所を妻が知っていたら、なぜ彼女は探偵を雇う? 自分で来たらいいじゃないか。それほどおれのことを気にかけているならな。キャンディを連れて来たらいい。うちのハウスボーイでね。キャンディなら、あんたの秘蔵っ子を千切りにしてしまうだろうよ。あんたの秘蔵っ子が、今日の主演映画はどれにしよう、と思案している間に」

「ずいぶん下卑た口をきくじゃないか、ウェイド。それに心も下卑ている」

「下卑た五千ドルも持ってるぜ、ドク。とってみたらどうだ」

「小切手を書くんだ」ドクター・ヴァリンジャーはきっぱり言った。「今すぐ。それから服を着ろ、アールに家まで送らせる」

「小切手?」ウェイドは吹き出しそうになった。「いいだろう、小切手を渡すよ。上等だ。で、どうやって換金するんだ?」

ドクター・ヴァリンジャーは静かに微笑んだ。「支払いを止めるつもりだろう、ミスタ・ウェイド。しかしきみはそうしない。断言してもいい、そうはしない」

「このでぶの悪党め」ウェイドは怒鳴った。

ドクター・ヴァリンジャーはかぶりを振った。「ある点ではそうだが、それがすべてではない。私の中にはいろいろな性格が混在している。ほとんどの人と同じようにね。アールが家まで送ってくれるだろう」

「いやだね、あいつを見るとおぞ毛が立つ」

ドクター・ヴァリンジャーはそっと立ち上がり、ベッドの上の男の肩に手を伸ばして軽く叩いた。「私にとってアールは全く無害だ、ミスタ・ウェイド。私は彼の扱い方を心得ている」

「ひとつ挙げてみてくれ」と新たな声が聞こえ、ロイ・ロジャースの衣装で決めたアールがドアから入ってきた。ドクター・ヴァリンジャーは笑顔で振り返った。

「そのキ印をどこかへやってくれ」とウェイドは叫んだ。はじめて恐怖をあらわにした。

アールは装飾が施されたベルトに手をかけた。彼の顔は無表情だった。歯と歯の間から軽い口笛のような音がした。彼はゆっくりと部屋に入った。

「それは禁句だ」とドクター・ヴァリンジャーは慌てて言い、アールの方を向いた。「いいんだ、アール。ミスタ・ウェイドは私に任せておけ。着替えは私が手伝う。車を回してきてくれ、できるだけ小屋の近くまで。ミスタ・ウェイドはかなり弱っている」

「これからもっと弱るだろうな」アールは口笛みたいな声で言った。「どけよ、でぶ」

「ほら、アール」彼は手を伸ばし、ハンサムな若者の腕をつかんだ。「カマリロには戻りたくないだろう? 私がひとこと言えば...」

そこまでだった。アールは腕を振りほどき、右手を振り上げた。ブラスナックルが一閃し、装甲された拳がドクター・ヴァリンジャーの顎を一撃した。彼は心臓を撃ち抜かれたかのように倒れた。その衝撃で小屋が震えた。私は走り出した。

ドアに手を伸ばし、勢いよく開けた。アールはくるりと振り返り、少し身を乗り出して、こちらを見たが、私だとは気づかなかったようだ。唇から泡立つような音がした。私に向かって足を速めた。

私は銃を引き抜いてかざした。何の意味もなかった。彼の銃には弾が入っていなかったのか、あるいは銃のことなぞ忘れていたのか。ブラスナックルさえあれば事足りるというわけか。どんどん近づいてきた。

私はベッドの向こうの開いた窓に向けて撃った。狭い部屋で聞く銃声は、思いのほか大きかった。アールの動きが止まった。頭を巡らし、窓の網戸の穴を見た。そして私の方を振り返った。ゆっくりと顔に生気が戻り、にやりと笑った。

「何があった?」彼は明るく訊いた。

「ナックルを捨てろ」私は彼の眼を見ながら言った。

彼は驚いて自分の手を見下ろした。彼はその手にあったものをそっと外し、何気なく隅に投げた。

「次はガンベルトだ」私は言った。「銃には触れるな、バックルだけだ」

「弾は入っていない」空は微笑みながら言った。「銃ですらない、ただの小道具だ」

「ベルトだ。急げ」

彼は短銃身の三二口径を見た。「それ、本物? そうにちがいない。網戸が。そうだよ。網戸が」

ベッドの男はもうベッドの上にはいなかった。アールの後ろにいた。彼は素早く手を伸ばし、輝く銃を一挺抜いた。アールはそれが気に入らなかった。彼の顔にはそれが表れていた。

「手を出すな」私は怒って言った。「元に戻すんだ」

「こいつの言った通りだ」ウェイドは言った。「これは玩具だ」彼は後退りしてきらきら光る銃をテーブルの上に置いた。「くそっ、からだにまるで力が入らない」

「ベルトを外せ」私は三度(みたび)言った。アールのようなタイプと何かを始めたら、最後までやり遂げなければならない。シンプルに、そして考えを変えないように。

彼はようやく言われた通りにした。それもきわめて友好的に。それからベルトを持ってテーブルまで歩いていき、もう 一挺の銃を取り出してホルスターに収め、すぐにベルトを締め直した。私はしたいようにさせておいた。そのときになって初めて、彼はドクター・ヴァリンジャーが壁に凭れるようにして床に倒れているのに気づいた。彼は心配そうな声をあげ、急いで部屋の反対側のトイレに行き、ガラスの水差しを持って戻ってきた。彼はドクター・ヴァリンジャーの頭に水をかけた。ドクター・ヴァリンジャーは咳き込むようにぶつぶつ言いながら身をよじり腹ばいになった。それからうめき声をあげ、顎に手を当て、起き上がろうとした。アールが手を貸した。

「ごめんよ、ドク。相手が誰か分からず、キレちまったみたいだ」

「もういい、骨は折れていない」とヴァリンジャーは言い、彼を振り払った。「車をまわしてくれ、アール。下の南京錠の鍵も忘れずに」

「車だね、すぐとってくる。南京錠の鍵。わかった。すぐやるよ、ドク」

彼は口笛を吹きながら部屋を出て行った。

ウェイドはベッドの端に座っていた。震えているようだ「あんた、あいつの言っていた探偵か?」と訊いてきた。「どうやって見つけた?」

「聞いて回っただけだ。この手のことに詳しい連中に」と私は言った。「家に帰りたいなら、服を着たほうがいい」

ドクター・ヴァリンジャーは壁にもたれながら顎をさすっていた。「手伝うよ」彼はしゃがれ声で言った。「人助けをしては、泣きを見ている」

「よく分かる、その気持ち」と私は言った。

私は外に出た。あとはふたりに任せた。

【解説】

第19章では、ついにマーロウがウェイドを見つけ出す。その冒頭に有名な直喩が出てくる。

I drove back to Hollywood feeling like a short length of chewed string.(噛みしだかれてちぎれた紐みたいに寸足らずな気分で車を走らせ、ハリウッドに戻った)

“a short length of chewed string”は、直訳すれば「噛みしだかれた短い紐」のことだ。アメリカ小説における比喩を論じた本の中に、チャンドラーのこの文がよく出てくる。有名な比喩らしい。「くちゃくちゃに嚙んで繊維がもろくなって切れてしまった紐のような気分」というのがどんなものなのか正確に説明できる者はいないだろうが、何となくその気分は分かるような気がする。

他動詞“chew”は「(〜を)かむ」ことだが、形容詞“chewed”には「打ちのめされた、疲れた(米俗)」という意味がある。“(be) chewed (out)”だと「(人)にかみつかれる(非難される)(米俗)」の意味になる。また“string”には「紐、糸」の他に「(引き続いて起きる)一連の出来事」という意味がある。一日のうちに三人の医者を慌ただしく訪問し、三人ともに罵倒され、結局徒労に終わった。さすがに労多くして益少なしといった気分を“feeling like a short length of chewed string”と喩えたのではないか。

因みに清水訳は「私は車を走らせて、ハリウッドへもどった」と比喩のところをトバしている。せっかくの凝った比喩が勿体ない。村上訳は「くたびれ果てた身体で」と比喩はなし。田口訳は「すり切れたひもみたいにくたびれて」と原文を活かした直喩だ。市川訳は「気分はまるで猫に散々噛まれて短くなった猫じゃらしの紐のようだった」だ。「猫じゃらしの紐」というのは面白いが、これではマーロウの気分を何に喩えているのかよくわからない。

I turned on the fan in my office. It didn't make the air any cooler, just a little more lively.

暑いので扇風機をつけたが、空気が涼しくなったわけではなく、少し“lively”になっただけだったという部分。清水訳は「ただ動いただけだった」。村上訳は「空気が多少かきまわされただけだった」。市川訳は「だが動くものがあることだけでも少しはましだ」と、チャンドラー一流の皮肉な言い回しにつられた感がある。“lively”には「(空気・風などが)さわやかな、すがすがしい」という意味がある。田口訳では「空気がさわやかに感じられるようにはなった」と肯定的に訳されている。外の通りでは車の騒音が止まらないが、マーロウは考え事に集中している。オフィス内は外より快適なようだ。これでいいのでは。

アイリーン・ウェイドから電話があり、進捗のないことを告げる。ウェイドは戻っておらず彼女も元気がない。マーロウが慰めるように言う台詞。

"It's a big crowded county, Mrs. Wade."(ここは人でごった返している郡(カウンティ)ですよ、ミセス・ウェイド)

田口訳は「アメリカは広くて人口の多い国ですからね(後略)となっている。“county”を“country”と読み違えたのだろうか? 清水訳では「郡はひろいし、人間も大勢いるんですよ、奥さん」と正しく訳されていた。村上訳で「広くて人口の多い土地なのです(略)」と曖昧にされたことが誤読を招いたのだろうか。市川訳は「そう気落ちしないで。探す範囲はえらく広く、人はやたらと多い。奧さん」となっている。なぜ“county”をぼかすのだろう。“county”は“state”(州)の下位の行政区画のことで、アラスカ、ルイジアナ以外の州では“county”が用いられている。

ドクター・ヴァリンジャーの牧場でカウボーイ姿の背の高い男を見たというマーロウに、アイリーンは喜びの声を上げる。「正しい方向に向かっているという気がしないの?」と訊くアイリーンにマーロウが答えるのが、

"I could be wetter than a drowned kitten."(全くの見当はずれかもしれません)

直訳すれば「溺れさせられた仔猫よりもっとぐっしょり濡れているかもしれない」だ。”drown a kitten”(仔猫を溺れさせる)というのは「悪い結果を予期して、議論や討論を止めること」をいうスラング。ヴァリンジャーを追及することは、ひょっとしたら墓穴を掘る結果になるかもしれない。それは予測可能である。つまりすでに、この計画は中止するべきだ。そのうえで、追及をやめないのは「溺れさせられる仔猫」よりもっとずぶ濡れ(より悪い)ことになるかもしれない、とマーロウは考えている。

清水訳は「まだわからんのです」。村上訳は「まったくの見込み違いだったということになるかもしれません」。田口訳は「いや、まったくの空振りということもありうる」。市川訳は「そう言われるともう一度調べる気になってきました。でも無駄に折った骨をまた折ることになりそうです」。やはり、「溺れさせられる仔猫」という言葉はうまく訳せないということなのだろうか。

夜闇の中をヴァリンジャーの牧場に向かうマーロウの耳に鳥の鳴き声が聞こえてくる。

Far back in the valley I thought I heard a quail. A mourning dove exclaimed against the miseries of life.(谷のはるか奥で鶉の鳴き声が聞こえた気がした。一羽のナゲキバトが人生の悲惨さを訴えていた)

この“mourning dove”だが、ただの「鳩」ではなく、悲しげな鳴き声で知られる米国の野生の鳩「ナゲキバト」のことだ。ところが、これまでの訳ではただの「鳩」になっている。視覚のきかない闇の中で情景描写をしようと思えば音やその他の感覚を用いるほかない。ナイチンゲールはじめ小説によく登場する鳥には鳴き声にそれぞれ特徴がある。ところが、市川訳ではその前の“quail”(ウズラ)までが「ツグミ」と誤訳されている。名詞“quail”は「ウズラ」だが、動詞の“quail”には「おじけづく、ひるむ、気後れする」等の意味がある。深読みかも知れないが「嘆き、死への哀悼」の意味を持つ“mourning”と重ねることで、勝算のない賭けに出ている私立探偵の寄る辺ない思いが伝わってくるようだ。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

18

“turn”は「(木などが)ろくろ(旋盤)にかかる」こと

【訳文】

ドクター・エイモス・ヴァーリーの場合はまったく違っていた。彼は、大きな古い庭に大きな古いオークの木が陰を落とす大きな古い家を持っていた。どっしりした骨組み構造で、ポーチの張り出し屋根に沿って凝った唐草模様が施され、白い手摺りには古めかしいグランドピアノの脚のように轆轤加工され縦溝が彫られた手摺子が並んでいた。ポーチの長椅子によぼよぼの老人が数人、毛布にくるまって座っていた。

入り口のドアは両開きで、ステンド・グラスのパネルが嵌っている。中のホールは広くて涼しく、寄木細工の床は磨き上げられ、敷物は一枚もなかった。アルタデナの夏は暑い。丘の麓にへばりついているので、風は上空を吹き抜けていく。八十年前、人々はこの気候に適した家の建て方を知っていた。

ぱりっとした白衣を着た看護師に名刺を渡してしばらく待たされたあと、ドクター・エイモス・ヴァーリーが面会に応じてくれた。禿げ頭の大男で陽気な笑顔の持ち主だ。長い白衣はしみひとつなく、靴はゴム底で音もなく歩いてきた。

「どうしました、ミスタ・マーロウ?」痛みを和らげ、不安な心を慰める豊かで柔らかい声をしていた。さあ医者が来ましたよ、心配することは何もありません、すべてがうまくいきます。彼は患者への接し方を心得ていた。甘く心地よい蜂蜜の層を幾重にも重ねていた。彼は素晴らしかった―そして、装甲板のように手強かった。

「ドクター、ウェイドという男を探しています。裕福なアルコール依存症患者で、自宅から姿を消しましてね。前歴からするとその手の治療を扱うどこか目立たない場所に潜伏しているようだ。唯一の手がかりは、ドクター・Ⅴということだけ。あなたは私にとって三人目のドクター・Ⅴで、正直、くじけそうになっています」

彼は穏やかに微笑んだ。「まだ三人目ですか、ミスタ・マーロウ? ロスアンジェルスとその周辺には、Vで始まる名前の医者が百人はいるはずですよ」

「確かに、でも、格子窓のある部屋を持つ者は多くない。この家の二階の脇に、いくつかありましたよ」

「老人たちです」ドクター・ヴァーリーは悲しげに言ったが、それは豊かで満ち足りた悲しみだった。「孤独な老人、意気消沈した老人、不幸な老人。ときどき――」彼は片手で意味深長な仕種をした。外側に向かって弧を描き、いったん止め、それから枯葉がひらひらと地面に舞い落ちるようにゆっくり下ろした。「ここではアルコール依存症は扱っていません」と彼はきっぱりと言い添えた。「では、失礼して――」

「すみませんでした、ドクター。たまたまリストに載っていたんです。おそらく間違いでしょう。数年前に麻薬捜査官とやり合ったとか」

「そうなんですか?」彼は困惑した表情を浮かべたが、しばらくすると何かを思い出したように、「ああ、そうだ。私がうっかり雇ったアシスタントです。ほんの短い間だった。彼は私の信頼をひどく裏切った。ええ、たしかにそんなことがあった」

「私が聞いたのとは違う」と私は言った。「私の聞き間違いだったようだ」

「どんなふうにお聞きになったんですか、ミスタ・マーロウ?」彼は相変わらず、その微笑みとまろやかな口調で、私を手厚くもてなしていた。

「麻薬の処方記録を提出しなければならなかったと」

少々こたえたようだ。顔をしかめこそしなかったが、愛嬌の層が数枚剥がれ落ちた。青い眼が冷たく光った。「その根も葉もない情報の出所は?」

「大手の探偵事務所です。その手のファイルを作成する設備を備えている」

「安っぽいゆすり屋の集まりに違いない」

 「安くはない、ドクター。基本料金は一日百ドル。元憲兵大佐が経営している。小商いではない、ドクター。彼はかなり高く評価されている」

「その男に一言文句を言わねばなるまい」とドクター・ヴァーリーは冷やかな嫌悪感を込めて言った。「そいつの名前は?」ドクター・ヴァーリーのマナーの中で陽が沈んだ。肌寒い夜になりつつあった。

「それは言えない、ドクター。あまり気にしないで。よくあることです。それより、ウェイドという名前に心当たりはないんですね?」

「出口はご存じのはずだ、ミスタ・マーロウ」

彼の背後で小さなエレヴェーターのドアが開いた。看護師が車椅子を押し出した。その椅子には、壊れた老人の残骸が収まっていた。目は閉じられ、肌は青みがかっていた。体は毛布で申し分なく包まれていた。看護師は、磨き上げられた床を静かに横切り、脇のドアから出て行った。ドクター・ヴァーリーが静かに言った。

「老人たち。病んだ老人たち。孤独な老人たち。二度と来ないでくれ、ミスタ・マーロウ。きみにはいらいらさせられる。私はいらいらするとかなり不快になる。しごく不快だと言ってもいい」

「わかった、ドクター。時間を割いてくれて感謝する。なかなかしゃれた終の棲家だ」

「どういう意味だ?」彼は私に向かって一歩踏み出し、残っていた蜂蜜の層をはがした。顔の柔らかい線が、硬い隆起になっていた。

「どうかしたか?」と私は訊いた。「私の捜してる男がここにいないのは分かった。私は抵抗することもできないほど弱った人間を探してるわけじゃない。病んだ老人たち。孤独な老人たち。ドクター、あんた自身が言ったんだ。愛されていない老人たち、ただし金と飢えた遺産相続人つきの。おそらくその大半が裁判所によって禁治産者と判断されているんだろう」

「いらいらしてきたよ」とドクター・ヴァーリーは言った。

「軽い食事、軽い鎮静剤、しっかりした治療。彼らを太陽の下に出したり、ベッドに戻したり。まだ元気が残っているかもしれないので、窓の一部に鉄格子をつけてやる。彼らは皆、ドクターを愛している。彼らはあんたの手を握り、あんたの眼に浮かぶ悲しみを見ながら死んでいく。その悲しみも嘘ではない」

「そのとおりだ」と彼は喉の奥から絞り出すような低い声で言った。彼の手は今や拳になっていた。そのあたりでやめておくべきだった。しかし、私は彼に吐き気を催し始めていた。

「そうだろうとも」と私は言った。「金払いのいい上客を失うのは誰だって辛い。機嫌を取る必要もない客ならなおさらだ」

「誰かがやらねばならない」彼は言った。「誰かがこれらの哀れな老人たちの世話をしなければならないんだ、ミスタ・マーロウ」

「誰かが汚水溜めを掃除しなきゃならん。考えてみれば、それは公正で真っ当な仕事だ。じゃあな、ドクター・ヴァーリー。自分の仕事が汚く思えるときには、あんたのことを思い出すよ。きっと気が晴れる」

「この薄汚いシラミが」ドクター・ヴァーリーは大きな白い歯の間から声を出した。「背骨を叩き折られたいか。私がやっていることは名誉ある職業の名誉ある一部門なんだ」

「ああ」私はうんざりして彼を見た。「よく分かるよ。ただ、死臭がするだけだ」

殴られなかったので、彼をそこに残して外へ出た。私は広い両開きのドアから振り返った。彼は動いていなかった。彼にはやるべきことがあった。剥がれ落ちた蜂蜜の層を元に戻すという仕事が。

【解説】

アルタデナに向かったマーロウは、ドクター・ヴァリーに会う。人物の衣服や住まいを詳しく描写するのはチャンドラーの常套手段だ。探偵であるマーロウにはそれで相手がどんな人間かが会話する前から分かるからだ。夏の暑さをいかに快適に過ごすか工夫されたその屋敷だが、今までの訳に少し疑問がある。ポーチの手すりについて触れた部分だ。

the white porch railings had turned and fluted uprights like the legs of an old-fashioned grand piano.(白い手摺りには古めかしいグランドピアノの脚のように轆轤加工され縦溝が彫られた手摺子が並んでいた)

“had turned and fluted”のところが、清水訳は「そりかえっていて、こまかい溝がきざんであった」となっている。村上訳は「くねって、優雅な溝が刻まれていた」。田口訳は「曲がり」だけだ。市川訳は「優雅な曲線を描いて垂直に立っていた」だ。「曲線を描いて垂直に立つ」というのは論理矛盾だと思うがそれはさておき、“turn”には「軸または中心の周りを 1 回・半回・数回ぐるりと回す」という意味があるが、そりかえったり、くねったりする意味はない。これは“old-fashioned grand piano”の脚をチッペンデール風の猫脚と考えた清水氏に責任があるようだ。

“uprights”とあるのだから、手摺子は垂直に立っているわけだ。だとすれば“turn”は「(金属・木などが)ろくろ(旋盤)にかかる」の意味と取るべきだ。古いグランドピアノの画像を調べれば、そういう脚がいくらでも出てくる。いくら豪邸でもベランダの手摺子一本一本を猫脚に加工する手間はかけられない。ましてここはアメリカだ。大量生産の轆轤加工と採るのが普通ではないだろうか。

Altadena is a hot place in summer. It is pushed back against the hills and the breeze jumps clear over it.

次のパラグラフにある文だが、前の文を受ける代名詞の“it”を何と考えるかで意味が真逆になる。田口訳を除く三つの訳では、それをアルタデナという場所ととらえている。ふつうそうだろう。ところが田口訳は「アルタデナの夏は暑い。が、その屋敷は丘にへばりつくようにして建っているので、風が頭上をさわやかに吹き抜ける」と“it”を「屋敷」と取ったために前後の文が逆接の関係になっている。

“jumps clear over”だが“jump over”は「飛び越す、(ページを)飛ばす」という意味だから、この“clear”は「さわやかに」ではなく「完全に、まったく、すっかり」の意味で、せっかくの風がこの土地を頭越しに吹き抜けることを言っている。そんな暑い夏をやり過ごすための家の建て方を八十年前の人々はよく知っていたというのだ。市川訳が最新訳だが、この分野で名の通った翻訳家である田口氏の訳が定番となるのは必定。ささいなことだが、一言言っておく必要があると思う。

ドクター・ヴァーリーは初対面のマーロウの眼から見てもなかなかの医者に見えた。

He had that bedside manner, thick, honeyed layers of it. He was wonderful--and he was as tough as armor plate.(彼は患者への接し方を心得ていた。甘く心地よい蜂蜜の層を幾重にも重ねていた。彼は素晴らしかった―そして、装甲板のように手強かった)

“honeyed”とは「(言葉が口先だけで)お世辞の、(声などが)甘い、柔らかくて心地良い」という意味。“layers of honey”は「蜂蜜の層」のこと。つまり、この男は心にもない甘言が次から次へと繰り出されるタイプの人間だということだ。清水訳は「この人物とこの態度なら、病人に信頼される」。村上訳は「彼は医師として、患者との接し方を心得ていた。声に深みがあり、この上なく愛想が良い」。田口訳は「患者との甘くてやさしい接し方を何通りも心得ていそうだった」。市川訳は「これが入院患者への接し方だ。愛想のいい応対が厚く何層に重なっていて、患者が苦痛、苦情、不安を訴えても愛想良くいなされこの何重もの蜜のような層を突き破ることは難しい」。

問題は、章の終わりで、この医者は剥がれ落ちた蜜の層をつけ直していることだ(He had a job to do, putting back the layers of honey.)。第十八章は、マーロウとのやり取りを通じて、ドクター・ヴァーリーの顔から笑顔と甘言の層が一枚一枚剥がれ落ちていく過程を描いている。であるからには、“layers of honey”という言葉をきちんと訳す必要があるのでは、と思う。

ちなみに章末の訳は以下の通りだ。「魅力をとりもどさなければならなかったのだ(清水)」。「彼には大事な仕事があったのだ。にこやかで柔和な仮面をかぶりなおすという仕事が(村上)。「このあと仕事があるのだろう。その仕事のためにはまず魅力の皮を何枚かかぶり直さなければならない(田口)」。「彼には仕事がある。何重もの蜜のような層をまたかぶり直すという仕事が(市川)」田口訳だけが“a job to do”を「(このあとの)仕事」のことだと捉えている。「魅力の皮を何枚かかぶり直す」のは、その仕事のためだと。これは誤りだ。ここでいう仕事とは、いまそこに立ち止まって意識を集中し、自分を常態に戻すことだ。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

17

“That's no way to”は「そのやり方はない」

【訳文】

二〇マイルほど車を運転して街に戻り、昼食を食べた。食べているうちに、ますますすべてが馬鹿らしく思えてきた。私がやっていたようなやり方では、人は見つからない。アールやドクター・ヴァリンジャーのような興味深い人物には出会えても、目当ての男には出会えない。報われることのないゲームで、神経とタイヤをすり減らし、言葉とガソリンを無駄遣いしている。ミニマム・ベットで四通り、黒の二八に張るようなものだ。Vで始まる三つの名前で目当ての男を探し当てるチャンスは、伝説の勝負師ニック・ザ・グリークに骰子博打で勝つくらいの割合しかない。

いずれにせよ、一発目がハズレというのはよくあること、行き止まり、頼みの綱は予告もなしに突然切れるものだ。しかし、ウェイドの代わりにスレイドと言うべきではなかった。彼は頭のいい男だ。そんなに簡単に忘れたりしないだろう。それに、もし忘れたのなら、忘れたままでいるはず。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。長い付き合いとは言えない。コーヒーを飲みながら、ドクター・ヴカニックとドクター・ヴァーリーについて考えた。イエスかノーか? もし行くとすれば、午後の大半はつぶれるだろう。無駄足を踏んでから、アイドル・ヴァレーのウェイド邸に電話したら、当主は自分の家に戻り、当分の間は万事順調と聞かされるかもしれない。

ドクター・ヴカニックは簡単だった。ここから六ブロック先だ。しかし、ドクター・ヴァーリーは遠く離れたアルタデナ・ヒルズにいる。長く、暑く、退屈なドライヴになる。イエスかノーか?

思案の末、行くことにした。理由は三つ。一つは、裏社会とそこに生きる人々について、いくら知っても知りすぎることはないということ。二つ目は、ピータースが私のために出してくれたファイルに付け加えるものを何か見つけたら、それだけで彼の好意に報いることができる。三つ目の理由は、これといって他にすることがなかったからだ。

勘定を済ませ、車を置いたまま通りの北側を歩いてストックウェル・ビルに向かった。骨董品物のビルで、エントランスにはシガー・カウンターがあり、手動式のエレベーターは揺れが激しく、水平になるのを嫌った。六階の廊下は狭く、どのドアにもすりガラスが嵌っていた。

私のオフィスのあるビルよりも古く、はるかに汚かった。 そこに巣食っているのは、医師、歯科医、あまり流行っているとは言い難いクリスチャン・サイエンスの施術者、相手側についてくれることを期待したくなる類の弁護士と言った連中だ。医師や歯科医と言っても食っていくのがやっとというレベル。腕もなければ、清潔ともいえず、目端も利かない。三ドルです、看護師にお支払いください。 自分の立場を弁えていて、どんな患者が訪れるか、いくらくらいなら金が払えるかを正確に知っている、疲れて意気消沈した男たちだ。現金払いに限ります。診療中、休診。ミセス・カジンスキー、奥歯がかなりぐらついていますね。 もし、この新しいアクリルの詰め物が欲しいなら、あらゆる点で金歯と同じものが、十四ドルで作れます。ノヴォカインをご所望であれば二ドル増しになります。診療中、休診。三ドルになります。看護師にお支払いください。

この手のビルには、本当に稼いでいる連中が必ず数人はいるものだが、傍目にはそうは見えない。みすぼらしい背景に溶け込み、それが保護色の役割を果たしているからだ。副業で保釈保証業の共同経営者を務める悪徳弁護士(没収された保釈保証金のうち、回収されるのはわずか二パーセント程度)。仕事に使う器具を説明するためなら何屋にもなる堕胎医。泌尿器科医や皮膚科医、あるいは頻繁に治療が行われ、局所麻酔薬の常用が不自然に感じられない分野の診療医の看板を掲げている麻薬の売人。

ドクター・レスター・ヴカニックの待合室は狭く、椅子の数も足りず、一ダースほどいる患者はみな居心地の悪さを感じていた。誰もが普通の人のように見えた。特に目立つところはなかった。とはいえ、抑制のきいたヤク中なら、菜食主義者の簿記係と見分けがつかない。四十五分待たされた。患者は二つのドアから中に入る。やり手の耳鼻咽喉科医なら、それだけのスペースがあれば一度に四人の患者を診ることができる。

ようやく呼ばれて。茶色の革の椅子に座った。横に白いタオルで覆われたテーブルがあり、その上に道具一式が置いてあった。壁際に置かれた殺菌キャビネットが泡立っていた。ドクター・ヴカニックは白衣を着て丸い鏡を額につけてきびきびと入ってきて、私の前のストゥールに座った。

「副鼻腔の頭痛でしたね? かなりひどいんですか?」 彼は看護師から渡されたフォルダーを見た。

ひどく痛い、眼がくらむほど、特に朝起きたとき、と言った。彼は訳知り顔にうなずいた。

「特徴的だ」と彼は言い、万年筆のようなものにガラスのキャップをかぶせた。

彼はそれを私の口に押し込んだ。「口を閉じて、でも、歯で嚙まないように」 そう言いながら手を伸ばして電気を消した。窓はなかった。どこかで換気扇が鳴っていた。

ドクター・ヴカニックはガラス管を取り出し、電気をつけ、入念に私を見た。

「鼻づまりはまったくありませんよ、ミスタ・マーロウ。もし頭痛があるなら、それは副鼻腔によるものではありません。当て推量ですが、あなたはこれまで一度も副鼻腔の病気にかかったことはないはず。過去に鼻中隔の手術を受けてますね」

「はい、ドクター。フットボールをやっていて、蹴られたんです」

彼はうなずいた。「切り取ったはずの骨がわずかに残っています。しかし、呼吸を妨げるほどではない」

彼はストゥールの上で上体を起こし、膝に手をおいた。 「いったい私にどうしろと?」 と彼は尋ねた。 細面で、退屈で生気のない青白い顔をしていた。 結核に罹った白ネズミを思わせた。

「友人のことで相談があるんです。彼は体調を崩している。作家で、たんまり儲けているんですが、神経が参ってて、助けが必要です。もう何日も酒浸りです。ちょっとした特別なものが必要ですが、彼の主治医はもうこれ以上協力してくれそうにありません」

「協力というのは具体的にはどういうことです?」とドクター・ヴカニックは訊いた。

「たまに注射を打って落ち着かせてくれるだけでいいんです。ここなら何とかしてくれるのでは、と思って。金のことなら心配ありません」

「すまないが、ミスタ・マーロウ。私はお役に立てない」彼は立ち上がった。「言わせてもらえば、なんとも無礼な申し出だ。ご友人が望むなら、相談してもらってかまわない。が、治療が必要な何かの問題がある方がいいでしょう。十ドルになります、ミスタ・マーロウ」

「とぼけるのはよせ、ドク。あんたの名前はリストに載ってるんだ」

ドクター・ヴカニックは壁にもたれて煙草に火をつけた。様子を見ようというのだ。彼は煙草の煙を吹きかけ、それを眺めた。私は代わりに私の名刺を一枚渡した。彼はそれを見た。

「何のリストだ?」と彼は訊いた。

「鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)。私の友人を先刻ご承知なのでは。名前はウェイド。あんたが小さな白い部屋のどこかに隠しているんじゃないのか。そいつは家を出て行方不明なんだ」

「ばかばかしい」ドクター・ヴカニックは言った。「私は四日間断酒治療みたいなけちな稼ぎはやらない。どうせ何の役にも立たないんだ。私のとこには小さな白い部屋もないし、きみが言っている友人とは面識もない―たとえ実在していたとしてもな。十ドル、現金で、今すぐ。それとも警察に電話して、きみに麻薬をせびられたと苦情を申し立てようか?」

「そいつはいい」私は言った。「やってみようや」

「とっとと出て行け、この三文詐欺師が」

私は椅子から立ち上がった。 「どうやら見当はずれだったようだ、ドクター。この前そいつが行方をくらましたとき、名前がVで始まるドクターのところに隠れていた。これが完全に隠密作戦でね。深夜に連れ出され、治療が終わると同じようにして連れ戻された。彼が家の中に入るのを見届けようとさえしなかった。それで、彼がまた行方をくらまして、しばらく帰ってこなかったので、当然、私たちは手がかりを求めてファイルをチェックした。で、Vで始まるドクターが三人いたってわけだ」

「面白い」と彼は言って寒々とした笑みを浮かべた。まだ様子見を決め込んでいた。「何を決め手にして選んだんだ?」

私は彼を見つめた。彼の右手は左上腕部の内側をそっと行きつ戻りつしていた。顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。

「悪いが、ドクター。それは企業秘密でね」

「ちょっと失礼、ほかの患者が待って―」

彼は言葉を最後まで言うことなく出て行った。彼がいない間に、看護師がドアの隙間から顔を出し、私をちらっと見て引っ込んだ。

やがてドクター・ヴカニックがぶらぶら戻ってきた。幸せそうに、顔に微笑みを浮かべ、見るからにくつろいでいた。眼が輝いていた。

「なんだ、まだいたのか?」と明らかに私を見て驚いているようだった。あるいはそんなふりをした。「話は済んだと思っていたんだが」

「帰るところだ。そちらにはまだ用があるかと思ったのでね」

彼はほくそ笑んだ。「知ってるか? ミスタ・マーロウ。われわれは異常な時代を生きている。五百ドルも出せばきみの骨を何本か折って病院送りにすることもできる。笑えるだろう?」

「実に面白い」私は言った。「静脈に一本打ってきたんだろう、ドク? やけに元気になったもんだ」

私は部屋を出かけた。「元気でな(アスタ・ルエゴ)、アミーゴ」彼は甲高い声で言った。「十ドルをお忘れなく。看護師に払ってくれ」

彼はインターホンの前に移動し、私が立ち去ると、インターホンに向かって話しかけた。 待合室ではさっきと同じ十二人が、あるいは同じような十二人が居心地悪そうにしていた。 看護師はちゃんと仕事をした。

「十ドルになります、ミスタ・マーロウ。当院は現金払いに限らせていただいています」

私は混雑した足の間を抜けてドアに向かった。 彼女は椅子から飛び起きて机の周りを走った。 私はドアを引いて開けた。

「払わなかったらどうなるんだ?」と私は訊いた。「今に分かる」と彼女は腹立たし気に言った。「そうか。きみはきみの仕事をしてるだけだ。私もそうだ。置いてきた名刺を見れば、私の仕事が何か分かる」

私はそのまま出て行った。待合室の患者たちは咎めるような眼で私を見た。医者に向かってあれはない。

【解説】

ヴァリンジャ―のところから街に帰ってきたマーロウは、さてこれからどうするか、と思い悩む。最初のパラグラフの後半部分が分かりづらいのか、清水氏は例によってトバしている。ここのところだ。

You're not even betting table limit four ways on Black 28. With three names that started with V. I had as much chance of paging my man as I had of breaking Nick the Greek in a crap game.(ミニマム・ベットで四通り、黒の二八に張るようなものだ。Vで始まる三つの名前で目当ての男を探し当てるチャンスは、伝説の勝負師ニック・ザ・グリークにさいころ博打で勝つくらいの割合しかない)

村上訳では「出るあてもない目にせっせと金を張っているようなものだ。Vで始まる名前を持つ三人、そんな手がかりだけで人を捜し出せるチャンスなんて、クラップ・ゲームで名手ニック・ザ・グリークを打ち負かすよりも難しいだろう」となっているが、少し文意がちがう。

田口訳は「ルーレットでリスクを分散させてミニマムベットで黒の28に賭けるほどの興奮すらない。イニシャルがVの三人の名前だけが手がかりというのでは、めあての相手が見つかる可能性などないに等しい。伝説のギャンブラー、ニコラス・ダンドロスをサイコロ賭博で負かす確率と変わらない」だが、「興奮すらない」というのも少しちがう。

市川訳は「ルーレットのテーブルで黒二八[ルーレットに黒の二八はない]に大金を四回は張る必要はない。だが三回までは賭ける気なのか? 頭文字Vの三人を頼りにウェードを見つけるのは伝説のギャンブラー、ニック・ザ・グリークとクラップ賭博で勝つくらいのチャンスしかない」となっているが、ルーレットに黒の二八はある。また、テーブル・リミットには上限と下限があるが、上限に四度も張るとは考え難い。“four ways”は「四通り」の意味で、ルーレットの賭け方を言う。残念ながら市川訳は空回りのようだ。

原文では引用文の前に“You waste tires, gasoline, words, and nervous energy in a game with no pay-off.”(報われることのないゲームで、神経とタイヤをすり減らし、言葉とガソリンを無駄遣いしている)という文がある。たいした報酬が期待できるわけでもない仕事にタイヤとガソリン、言葉と神経(四つある)を擦り減らすことをルーレットでの賭けに喩えているのだ。

マーロウがドクター・ヴカニックの診療所を訪れたとき、狭い待合室にはすでに患者がいた。

Dr. Lester Vukanich had a small and ill-furnished waiting room in which there were a dozen people, all uncomfortable.(ドクター・レスター・ヴカニックの待合室は狭く、椅子の数も足りず、一ダースほどの患者はみな居心地の悪さを感じていた)

その数だが、清水訳が十二人、村上訳では十人余り、市川訳では一ダース。ところが、田口訳だけが、六人ほどとなっている。後の方で、マーロウが待合室を出るとき、“In the waiting room the same twelve people or twelve just like them were being uncomfortable.”(待合室では同じ十二人が、あるいは同じような十二人が居心地悪そうにしていた)と再び人数が確認されるが、田口氏はここを「まえと同じ人間が十人ばかり」とやってしまっている。ケアレスミスだが、校閲でなんとかならなかったのだろうか。

田口訳のまちがいがもう一つ。ドクター・ヴカニックに協力の意味を問われたマーロの科白。

"All the guy needs is an occasional shot to calm him down. I thought maybe we could work something out. The money would be solid."(たまに注射を打って落ち着かせてくれるだけでいいんです。ここなら何とかしてくれるのでは、と思って。金のことなら心配ありません)

田口訳では出だしの文が「どんな男も神経を静めるには時々注射を打ってもらわなきゃならない」となっている。これではすべての男が麻薬中毒だと言ってるようなものだ。もちろんちがう。清水訳は「神経をおちつかせるために、ときどき注射が必要なんです」となっている。村上訳も市川訳もほぼ同じ意味の訳だ。ビートルズの歌に“All You Need Is Love”というのがある。邦訳は「愛こそはすべて」だ。直訳すれば「君に必要なのは愛だけだ」となる。“the guy”がウェイドを指しているのは自明なので、他の訳は主語をトバしている。田口氏は主語を取り違えたのだろう。上手の手から水、というやつか。

チャンドラーの文章は章末の切れがいいのが特徴だ。

I went on out. The waiting patients looked at me with disapproving eyes. That was no way to treat Doctor.(私はそのまま出て行った。待合室の患者たちは咎めるように私を見た。医者に向かってあれはない)

文末の一文は清水訳では「医師にこんな態度をとるのはまちがいだ」。村上訳は「医師に対してそのような態度をとるべきではないのだ」。田口訳は「そう、私が今取ったような態度はおよそ医師に対する態度とは言いがたい」としだいに長ったらしくはなるがほぼ同じ文意といえる。ところが、最新訳の市川訳では「その目つきは医師じゃ治せない」と全く異なる訳になっている。

“That's no way to〜”は「それは〜するための正しい方法ではない、それは〜するためのひどい方法である、そのような〜のやり方はとんでもない」という意味で、最後の文は、待合室にいる患者たちの気持ちを代弁したものだ。市川訳の斬新さは認めるが、どうしてそうなるのかと首をかしげたくなる訳が多い。コンテクストというものがよく分かっていないのではないだろうか。