marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

四冊の『長い別れ』を読む

“ice cream cone”は「アイスクリーム」のことではないかもしれない

【訳文】

その年の殺人課の課長はグレゴリアスという警部で、稀少になりつつあるが絶滅することはないタイプの警官だった。眩しい電球、しなやかな棍棒、腎臓への蹴り、股間への膝蹴り、鳩尾への拳、首のつけ根への警棒の一振りで犯罪を解決するタイプだ。半年後、彼は大陪審偽証罪で起訴され、裁判を受けることなく解任され、その後ワイオミングの自分の牧場で大きな種馬に踏みつぶされて死ぬことになる。

今は私が餌食だった。机の向こうに座り、上着を脱いでシャツの袖を肩のあたりまでまくり上げていた。つるつるの禿げ頭で、筋肉質の中年男にありがちなことだが、胴まわりがだぶついていた。眼は魚のような灰色で、大きな鼻には切れた毛細血管が網状に浮き出ていた。ずるずると音を立ててコーヒーを啜り、ずんぐりした頑丈そうな手の甲には剛毛が密生し、耳からは白髪が房状に突き出ている。彼は机の上の何かを突っつき、グリーンを見た。

グリーンは言った。「わかったことは、この男には何も言う気がないということです、課長。電話番号から浮かび上がってきたんですが、どこかに車で出かけていながら、行先を言いません。レノックスをよく知っていますが、最後にいつ会ったのか言おうとしません」

「タフぶってるんだろう」グレゴリアスは冷淡に言った。「そういう態度はあらためてやれる」まるでどうでもいいような言い種だった。おそらくそうなんだろう。彼の前でタフぶるやつはいなかったに違いない。「問題はこの件が新聞の大見出しになりそうだと地方検事が嗅ぎつけたことだ。娘の親父が誰かを考えたら無理もない。検事のために、こいつは気長に責めた方がよさそうだな」

彼は私のことを、まるで煙草の吸い殻か、空っぽの椅子みたいに見た。ただ視界に入るだけで、何の興味もないのだ。

デイトンは恭しく言った。「ずっとこういう態度を取っているのは話を拒否できる状況を作り出すためであることは明らかです。こいつは法律を引用して私を挑発し、殴るように仕向けました。不適切な態度でした、警部」

グレゴリアスは殺伐とした眼で彼を見た。「こんなチンピラにできるのなら、おまえだって挑発くらいできなくてどうする。誰が手錠を外したんだ?」

グリーンが自分がやったと言った。「元に戻せ」とグレゴリアスは言った。「きつくしろ。こいつには何かシャンとさせるものがいる」

グリーンがまた手錠をかけようとした。「後ろ手にだ」とグレゴリアスが吠えた。グリーンは手錠を後ろ手にかけた。私は硬い椅子に座っていた。

「もっときつく」グレゴリアスが言った。「手首に嚙ませるんだ」

グリーンがきつくした。両手がしびれてきた。

グレゴリアスはようやく私を見た。「これで話す気になったろう、さっさと済ませ」

私は返事しなかった。彼はふんぞり返り、にやりと笑った。彼の手がカップにそっと伸び、その周りをまわった。彼は少し身を乗り出した。カップが急に動いたが、私は椅子から横に体を倒してかわした。肩から着地し、転がってからゆっくり身を起こした。両手はかなり麻痺して何も感じなくなっていた。手錠の上の両腕はずきずきしはじめていた。

グリーンが椅子に座るのを助けてくれた。コーヒーの湿った匂いが背もたれと座面についていたが、ほとんどは床にこぼれた。

「コーヒーが嫌いらしい」グレゴリアスは言った。「素早いやつだ。速く動く。反射神経がいい」

誰も何も言わなかった。グレゴリアスはうさんくさそうに私を見た。

「ここじゃな、だんな、探偵の免許なんてものは名刺ほどの意味もない。さて、供述を聞こう。最初は口頭でいい。後で書き留める。署名も添えてな。先ずは、昨夜十時からの行動を洗いざらい話してもらうか。細大漏らさずだ。ここでは殺人事件を捜査中で、その最重要容疑者が行方不明ときた。 おまえはそいつとつながってる。 浮気現場を押さえた亭主が女房の頭を殴って、それを肉と骨と血まみれの髪にする。 おなじみのブロンズの彫像でな。独創的とは言えんが、役には立つ。この件についてクソ探偵風情がおれに法律を説いて聞かせようなどと考えてると、だんな、ひどい目に遭うぜ。この国では、法律書通りに動く警察などどこを探してもありはしない。おまえは情報を握ってる。おれはそれがほしい。おまえは何も知らないということもできたし、おれもそんな戯言は信じられないと言うこともできた。だが、おまえは知らないとさえ言わなかった。おれの前でだんまりを決め込むってのははじめから無理な相談なんだよ。やるだけ無駄ってもんだ。さあ、はじめようぜ」

「手錠を外してくれるか、警部?」と私は訊いた。「供述したら、ということだが」

「かもしれない。手短にな」

「もし私がこの二十四時間以内にレノックスに会っておらず、彼と話もしておらず、 どこにいるかもわからないと言ったら――それで満足するか、警部? 」

「かもしれない、もしおまえの言うことが信じられたら」

「もし私が彼をどこでいつ見たかを話したとして、彼が誰かを殺害したことも、犯罪が行われたことも知らず、さらに彼が今どこにいるかも知らなかったとしたら、あんたは全く満足できないのでは?」

「もっと詳しく、いつ、どこで会って、やつはどんな様子だったのか、何が話題になったのか、どこに向かったのかなどを聞かせてもらえれば、何とかなるかもしれん」

「あんたの手にかかったら」私は言った。「私は事後従犯に仕立てられるんじゃないか」

彼の顎の筋肉が盛り上がった。両眼は汚れた氷のようだ。「だから何だ?」

「どうしたものかな」と私は言った。「法的な助言が必要だ。協力は惜しまない。地方検事局から誰か来てもらうってのはどうだ?」

彼は短く耳障りな笑いをもらした。それはすぐやんだ。彼はゆっくりと立ち上がり、机の周りを歩いた。私の方に身を乗り出し、片方の大きな手を机に置いて、微笑んだ。それから表情を変えず、私の首の横を鉄の塊みたいな拳で殴った。

拳が動いたのは八インチか十インチで、それ以上ではない。それでも首がもげそうだった。口のなかに苦いものが滲み出してきた。血の混じった味がした。頭の中ががんがん鳴り響き、何も聞こえない。彼はまだ微笑みながら私の上に身を乗り出し、左手を机の上に置いたままだ。彼の声は遠くから聞こえてくるようだった。

「昔はもっとタフだったが、おれも年をとった。今のパンチもけっこう効いたんじゃないか、だんな、おれからの挨拶はこれぐらいにしておく。市の拘置所では人より牛を相手にするのが向いている連中がわんさといる。そんな連中を雇うべきではないかもしれんが、やつらはこのデイトンみたいなへなちょこパンチャーじゃない。グリーンのように四人の子どもや薔薇園を育ててもいない。連中にはまた違った娯楽があってね。人手が足りなくて、いろんな仕事をする働き手がいるんだ。そういうわけで、その気があるなら、もう少し気の利いた科白を思いつけないか?」

「手錠をかけられていては無理だ、警部」それだけ言うのも苦痛だった。

彼は私の方に大きく身を乗り出し、私は汗と腐敗臭を嗅がされた。それから彼は背筋を伸ばし、机の周りに戻り、椅子にしっかりとした尻をつけ、三角定規を手に取ると、まるでナイフのように親指を一辺に走らせ、グリーンを見た。

「何を待ってるんだ、部長刑事?」

「命令です」グリーンは自分の声の響きが気に入らないかのように歯を軋らせて言った。

「言われなきゃできないのか? 記録にはおまえは経験豊富な男だとあるがな。この男の過去二十四時間の動きを詳細に記録するんだ。もっと長いのが必要かもしれんが、最初はそれくらいでいい。毎分ごとに何をしたのか知りたい。署名させ、立会人の連署も添えて正式なものにしろ。二時間以内だ。それからここに連れ戻せ。小ざっぱりと、なりを整え、何の跡もついてない状態で。それからもう一つ、部長刑事」

彼はそこでいったん言葉を切り、グリーンを見た。焼きたてのベイクドポテトでも凍りつきそうな視線だった。

「この次、おれが容疑者に丁寧に質問している間、まるでおれがこいつの耳でも削いだかのような顔をしてそこに突っ立ってるんじゃない」

「イエス・サー」グリーンは私のほうを向いて「行くぞ」とぶっきらぼうに言った。

グレゴリアスは歯を剥き出して私を見た。かなり歯磨きが必要だった。「退場の科白を聞こう、相棒」

「イエス・サー」私は慇懃に言った。「おそらく気がついてもいないだろうが、あんたは私に手を貸してくれたよ。私の問題を解決してくれた。デイトン刑事の助けも借りてね。誰しも友だちを裏切りたくはないが、たとえ仇だって私はあんたの手には渡したくないね。あんたはゴリラであるだけでなく、無能だ。簡単な捜査のやり方も知らない。私はナイフの刃先でバランスを取っているようなものだった。あんたは私をどちらにも振り落とすことができた。しかし、あんたは私を罵倒し、逃れる術がない状態の私の顔にコーヒーを投げつけ、殴打した。今後は壁の時計の時間をきかれても口をきく気はない」

なぜかは知らないが、私がそれを言うのを彼はじっと坐って聴いていた。そして、にやりと笑った。「おまえはただ警官が嫌いなだけだ。それがおまえだ、探偵。単なる警官嫌いなんだよ」

「警官が嫌われないところもあるが、警部、そういう所じゃあんたはなろうったって警官になれないだろうよ」

彼はそれも受け止めた。余裕だったのだと思う。おそらくもっとひどいことを何度も言われてきたんだろう。そのとき、彼の机の上の電話が鳴った。彼はそれを見て身振りで示した。デイトンはそつなく机の周りを歩き、受話器を取り上げた。

「グレゴリアス警部のオフィスです。デイトン刑事です」

彼は耳を傾けた。ハンサムな顔を少ししかめ、両眉を寄せた。「少々お待ちください」

彼はグレゴリアスに電話を差し出した。「オルブライト警察委員長(コミッショナー)です」

グレゴリアスは眉をひそめた。「なんだと? あの威張り屋がおれに何の用があるんだ?」彼は受話器を取り、しばらく持った後、表情を取り繕った。「グレゴリアスです。コミッショナー

彼は耳を傾けた。「ええ、その男なら私のオフィスに来ています、コミッショナー。私は彼にいくつか訊きたいことがあって。協力的ではありません。全くといっていいほど協力的ではありません...何ですって? 」突然の凶暴なしかめ面が、彼の顔を黒い結び目にねじ曲げた。血で彼の額は黒ずんだ。しかし、彼の声の調子は微塵も変わらなかった。「もしそれが直接の命令なら、本部長を通すべきです、コミッショナー。もちろん、承認されるまでそのように対応します。もちろん... いや、誰も彼には指一本触れてません。..はい。ただちに」

彼は受話器を架台に置いた。彼の手が少し震えているように思った。両眼がまず私の顔を見て、それからグリーンの方に向き直った。「手錠を外せ」と彼は素っ気なく言った。

グリーンが手錠の鍵を外した。私は両手をこすり合わせ、血が巡り、感覚が戻ってくるのを待った。

「こいつを郡留置場に連れて行け」 グレゴリアスはゆっくりと言った。「殺人容疑だ。検察はこの事件を俺たちの手からかっさらったんだ。まったくよくできたしかけだな」

誰も動かなかった。グリーンは私の近くで息を荒くしていた。グレゴリアスはデイトンを見上げた。

「何をぼんやり待ってるんだ、オカマ野郎? ソフトクリームみたいにしゃぶってほしいのか?」

デイトンは危うく息を詰まらせそうになった。「まだ命令を頂いておりません、課長」

「おれには、サーと言うんだ、くそったれが! 俺を課長と呼んでいいのは部長刑事以上だ。おまえはそうじゃない、小僧、おまえはちがう、とっとと出て行け」

「イエス・サー」デイトンはさっさとドアまで歩いて行った。グレゴリアスは体を起こして窓際に移動し、部屋に背を向けて立っていた。

「さあ、行くぞ」グリーンが耳打ちした。

「俺がそいつの面に蹴りを入れる前にさっさと連れていけ」とグレゴリアスは窓に向かって言った。

グリーンは戸口に行きドアを開けた。私が通り抜けかけたところで、グレゴリアスが突然吠えた。「待て! ドアを閉めろ」

グリーンはドアを閉め、背をもたせかけた。

「こっちに来い、おまえ」グレゴリアスは私に吠えた。

私は動かなかった。そこに立って彼を見た。グリーンも動かなかった。重苦しい沈黙が続いた。やがて、グレゴリアスがゆっくり歩いて部屋を横切り、爪先と爪先が触れるようにして私と顔を見合わせて立った。ごつい両手をポケットに突っ込み、踵に重心を乗せて体を前後に揺らした。

「彼には指一本触れてません」彼は独り言のように小声で言った。両眼は遠くを見ているようで、表情というものを欠いていた。痙攣するように口が動いた。

それから私の顔に唾を吐いた。

彼は後退りした。「これで用済みだ。ありがとよ」

彼は後ろを向いて窓際に引き返した。グリーンがまたドアを開けた。

私はハンカチに手を伸ばしながらそこを抜けた。

【解説】

チャンドラーの作品には、ちらっとしか登場しないくせに妙に印象に残る人物が登場する。たたき上げの警官である、グレゴリアス警部もその一人だ。尋問の技術として恫喝と暴力しか持ち合わせのない古参の刑事の描写は、ほとんどカリカチュアの域に達している。

細かいことだが、グレゴリアス警部が解任されるのは“six months later”。つまり「六か月後」で、清水、村上両氏の訳でもそうなっていたが、田口訳では「この半月後」となっている。誤訳とも言えないほどのケアレスミスで、校閲等で何とかならなかったのだろうか。

そのグレゴリアスの言葉にこんなのがある。

“I guess we better pick this fellow's nose for him."

清水訳は「検事のためにもこいつに口を割らせなければならん」。村上訳は「検事殿のためにも、こいつをこってりとしぼりあげてみようぜ」。田口訳は「検事のためにもこいつの鼻くそをとことんほじくってやろうぜ」。“pick one’s nose”は文字通り「鼻くそをほじる」という意味だが、そこから敷衍して「何もしないでだらだらと無駄に時間を浪費する」という意味のスラングとして使われることがある。つまり、グレゴリアスはこの件に必要以上に時間をかけ、本来なら必要のないつまらないことまで細大漏らさず調べ上げて検事に恩を売ってやろうという腹づもりでいるのだ。

“Nobody said anything. Gregorius looked me over with fish eyes.”

この“with fish eyes”だが、清水訳は「魚のような眼で」、村上訳は「その魚のような目で」と直訳している。田口訳は「とくと(見て)」としている。“fish eye”は、相手を信じられなくて「冷たい目で」「疑いの眼で」じろりと睨むという意味のイディオムだ。“give 人 fish eye”という形で使われることが多い。少し前のところでグレゴリアスの眼の色を“His eyes were fish gray.”と描写しているので、それにかけたのだろう。

"Whatcha waiting for, cream puff? An ice-cream cone maybe?"

グレゴリアスがデイトンにかけた言葉だ。清水訳は「何を待ってるんだ。アイスクリームでもほしいのか?」。村上訳は「おい、なにをそこでうろうろ待っているんだ、極楽とんぼ? アイスクリームでもほしいのか?」。田口訳は「何を待ってる、このふにゃまら。いっちょまえにゴムをつけてもらいたいのか?」

"Whatcha”は、“what are you”の省略形。こういう言葉の使い方でグレゴリアスがどういう階層の出身かを表している。“cream puff”は「シュークリーム」のことだが、「意気地なし、弱虫、同性愛の男」という意味で使われる場合もある。“ice-cream cone”は「ソフトクリーム」のようにコーンに入ったアイスクリームのことだが、「コーンの外側に滴り落ちたアイスクリームをなめるように、男性の陰茎を玉から頭まで一気になめる行為」を指すスラングもある。マッチョなグレゴリアスの目には大学出のお坊ちゃんであるデイトンが、ゲイっぽく見えてるんだろう。田口訳のいかにもエンタメ風な訳が生きるところだが、ちょっと惜しかった。

四冊の『長い別れ』を読む

“count the spoons”は「スプーンの数を数える」でいいのか?

【訳文】

ティファナからの長くてうんざりする帰り道は、州内でもっとも退屈なドライブのひとつだ。ティファナには何もない。あそこで人が欲しがるのはドルだけだ。子どもが車にすり寄ってきて、ものほしげな眼を大きく開き「十セントください、ミスタ」と言う。次に出るのは姉を売りつけようとする文句だ。ティファナはメキシコではない。国境の町はどこも同じだ。港町がどこも同じであるように。サンディエゴ? 世界で最も美しい港の一つだが、そこにあるのは海軍と漁船だけだ。もっとも、夜は妖精の国になる。波のうねりは老女の歌う賛美歌のように穏やかだ。とはいえ、マーロウは家に帰って後始末をしなくてはならない。

北への道は、水夫の囃し歌のように単調だ。町を抜け、丘を下り、海岸沿いを走り、町を抜け、丘を下り、海岸沿いを走る。

家に戻ったのは二時だった。彼らは黒っぽいセダンの中で私を待っていた。警察の標識はなく、赤色灯もなく、アンテナは二本立っていたが、だからといって警察の車とは限らない。階段を半分ほど上ったところで、彼らは車から出て大声で私に呼びかけた。お定まりのスーツを着たお定まりの二人組、お定まりの悠揚迫らない態度だ。まるで世界は息を凝らして、彼らが何を命じるか、待っているべきだと思っているかのように。

「あんたがマーロウか? 少し話がしたい」

男は私にちらっとバッジを見せた。害虫駆除業者のバッジだったとしても私にはわからなかった。灰色がかった金髪で、気難しそうな男だった。パートナーの方は背が高く、ハンサムでこざっぱりしているが、底意地が悪そうで、教養のあるならず者というところだ。二人とも警戒し、何かを待ち構える眼つきをしていた。辛抱強く注意深い眼、冷やかに人を見下したような眼、お巡りの眼だ。彼らはそれを警察学校の卒業パレードで手に入れるのだ。

「セントラル管区殺人課、グリーン部長刑事だ。こっちはデイトン刑事」

私はそのまま上に上がってドアの鍵を開けた。大都市のお巡りと握手してはならない。親しくするにも限度がある。

ふたりは居間の椅子に腰を下ろした。私は窓を開けて風を入れた。グリーンがしゃべった。

「テリー・レノックスという男を知ってるだろう?」

「たまに、いっしょに酒を飲む。エンシノに住んでる。金持ちと結婚したんだ。そこに行ったことはない」

「たまに、というのはどれくらいの頻度だ?」とグリーンは言った。

「曖昧さを意味する表現さ。そういう意味で言ったんだ。週に一度のこともあれば、ふた月に一度のこともある」

「彼の妻に会ったことは?」

「一度だけ、ちらりとね、結婚する前のことだ」

「彼に最後に会ったのはいつ、どこでだ?」

私はサイド・テーブルからパイプを手にとり、煙草をつめた。グリーンは私のほうにぐっと身を乗り出した。背の高いほうはずっと後ろに引っ込んで、赤い縁のついたメモ用箋にボールペンを構えていた。

「ここで私が『これは一体どういうことだ?』と言う。そこであんたがこう言うんだ。『質問するのはこっちだ』とね」

「わかってるなら話が早いよ、な?」

私はパイプに火をつけた。煙草は少ししけっていた。ちゃんと火をつけるのに時間がかかりマッチを三本も使った。

「時間はある」グリーンが言った。「だが、待ってる間にほとんど使ってしまった。だからさっさとすまそう、ミスタ。あんたが何者かはわかってる。我々が食欲増進のためにここまで足を運んだわけじゃないことくらいわかってるだろう」

「ちょうど考えていたところだ」私は言った。「ヴィクターの店にはよく行ったね。グリーンランタンとブル&ベアにはあまり行かなかった。ブル&ベアはサンセット大通りの端にある店で、英国の田舎の宿のように見せようとしていて――」

「時間稼ぎはやめろよ」

「誰が死んだんだ?」私は訊いた。

デイトン刑事が口をはさんだ。高飛車で、知ったふうな、俺を相手にふざけた真似をするんじゃない、とでも言いたげな声だった。「質問に答えるんだ、マーロウ。我々はお定まりの捜査をしているだけだ。あんたはそれだけ知ってりゃいい」

おそらく疲れていらついてたんだろう。少々後ろめたさを覚えていたのかもしれない。いずれにせよ虫の好かない男だった。カフェテリアの向こう側にいるのを見たら、わざわざ足を運んでもぶん殴りたくなるやつだ。

「寝言は寝て言え」私は言った。「そんな台詞は少年課に回されたときのために取っておくんだな。まあ、子どもにだって笑い飛ばされるだろうが」

グリーンは含み笑いをした。デイトンの顔にはこれといった変化は見られなかったが、突然十年は老け、二十年分は意地悪くなったように見えた。鼻を通る息が微かに口笛のような音を立てた。

「彼は司法試験に受かってる」グリーンは言った。「デイトンをからかったりしないほうが身のためだ」

私はゆっくりと立ち上がり、本棚に向かった。カリフォルニア州刑法の本を取り出し、デイトンに差し出した。

「質問に答えなければならない、と書いてある個所を探してくれないか?」

彼はじっとこらえていた。私を殴る気満々で、それはどちらもわかっていた。しかし、ここは機会を待つつもりらしい。自分が内規に違反した場合、グリーンが口裏を合わせてくれるかどうか、自信が持てなかったのだ。

彼は言った。「すべての市民は警察に協力しなければならない。あらゆる方法で、時には行動によっても、特に警察が必要と考える場合、自分に罪科が及ばない限り、質問には答えなければならない」そう言う彼の声は硬く、明るく、滑らかだった。

「そんなふうにことがうまく運ぶのは」と私は言った。「たいてい直接的、あるいは間接的な脅迫の過程を経ているからさ。法律上、そのような義務は存在しない。誰も警察に何も言わなくていいんだ、いつ、いかなる場合でも」

「いいからやめろ」とグリーンはしびれを切らして言った。「あんたは知っててはぐらかしにかかってる。座れよ。レノックスの妻が昨夜殺された。エンシノにある彼らの邸のゲストハウスで。レノックスは行方をくらました。とにかく見つからない。というわけで、我々は殺人事件の容疑者を捜している。これで満足かね?」

私は本を椅子に放り投げ、テーブルをはさんでグリーンの向かいのカウチに戻った。「で、どうして私のところに来たんだ?」と私は訊いた。「私はその家に近寄ったこともないのに。さっきそう言ったはずだ」

グリーンは両腿を上下に撫でさすり、黙ってにやりと笑った。デイトンは椅子の中で動かなかった。彼の眼は私を食い入るように見ていた。

「彼の部屋にあったメモ用箋に、この二十四時間内に書かれたと思われるお宅の電話番号があったからだ」とグリーンは言った。「日付入りのメモ用箋で、昨日の分は破られていたが、今日のところに跡が残っていた。彼がいつあんたに電話したのか知らないし、彼がいつ、どこに行ったのかもわからない。我々としては、当然あんたに訊くことになる」

「なぜゲストハウスなんだ?」と私は訊いた。答えが返ってくるとは思わなかったが、彼は答えた。

彼は顔を少し赤らめた。「彼女はよくそこに行っていたようだ。夜中に。客が来るんだ。木立ちを通して明かりがつくのを使用人が見ている。車がやってきては出てゆく。時には夜遅く、ときにはかなり遅くまで。我慢も限界だったんだろうよ。とぼけるのはよせ。レノックスは我々の手の内にある。彼はそこへ午前一時ごろに行った。執事がたまたま見ていた。彼は二十分ばかりしてひとりで出てきた。その後は何事もなかった。明かりはついたままだった。今朝、レノックスはいなかった。執事がゲストハウスに行った。女は人魚みたいに裸でベッドに横たわっていたんだが、一言言っておくと執事には誰だか見分けがつかなかった。実のところ、顔がなくなってたんだ。ブロンズの猿の彫像でぶっ叩かれていたんだ」

「テリー・レノックスはそんなことはしない」と私は言った。「たしかに彼女は浮気していた。よくあることだ。今に始まったことじゃない。彼らは離婚してまた一緒になった。彼がそれで幸せになったとは思えないが、どうして今になって馬鹿な真似をしなきゃならない?」

「それは誰にもわからない」グリーンは辛抱強く言った。「そういうことはしょっちゅう起きる。男でも女でも。ずっと耐えて、耐えて、耐えてきて、突然耐えられなくなる。おそらく本人だってなぜ自分が、なぜ特にその時点でブチ切れたのかわからないだろう。いずれにせよ、そいつはブチ切れて、誰かが死んだ。で、我々の出番となった。だからあんたに訊いてるんだ。簡単な質問だ。とぼけるのはよせ。さもないと署に来てもらうことになる」

「こいつはしゃべりませんよ、部長」とデイトンは冷やかに言った。「こいつは法律書を読んでいる。法律書を読むようなやつは、法律が本のとおりに存在すると考えている」

「おまえはメモだけしてりゃいい」とグリーンは言った。「話に口をはさんでくるな。上手にメモできたら、警察の音楽会で『マザー・マクリー』を歌わせてやろう」

「それはないでしょう、部長。こう言っては何ですが、これでもあなたの階級に敬意を表しているんです」

「喧嘩なら、二人でやってくれ」と私はグリーンに言った。「そいつが倒れかけたら、私が受け止めてやるよ」

デイトンはメモ用箋を置き、その横にボールペンをたいそう注意深く置いた。彼は眼を明るくきらめかせて立ち上がった。彼は歩いてきて私の正面に立った。

「立てよ、お利口さん。大学出だからといって、おまえみたいなクズに笑いものにされて黙っていると思うなよ」

私は立ち上がりかけた。が、ちゃんと立ち上がる前に殴られた。きれいな左フック、そしてクロスが入った。ベルが鳴ったが、ディナーを告げる合図ではなかった。私はどすんと腰を下ろし、頭を振った。デイトンはまだそこに立ったままだった。微笑を浮かべていた。

「もう一丁やろうぜ。彼は言った。「あんたは用意ができてなかった。ちゃんとしたやり方とは言えない」

私はグリーンを見た。彼は親指を見ていた。さかむけの研究でもしているみたいに。私は動かず、物も言わず、彼が目を上げるのを待っていた。もし私が立ち上がったら、デイトンはまた殴るだろう。どうせまた殴られるにしても、もし私が立ち上がって、彼が私を殴ったなら、私は彼を叩きのめすだろう。彼は適切な場所にパンチを打てるボクサーであることを証明してみせたが、私を打ちのめすには多くのパンチが必要だからだ。

グリーンはいかにも気のなさそうに言った。「いい仕事だ。ビリー坊や。おまえは相手の思うつぼにハマったんだよ。この馬鹿たれが」

それから顔を上げて穏やかに言った。「もう一度、念のために訊く、マーロウ。最後にテリー・レノックスに会ったのはどこだ。どんなふうにして、何を話した。そして、さっきどこから帰ってきた。返事はどっちだ?」

デイトンはゆったりとした立ち姿で、きれいなバランスを保っていた。彼の目には柔らかな甘い輝きがあった。

「相手の男は?」私は彼の質問を無視して言った。

「相手の男って、何のことだ?」

「ゲストハウスのベッドの中だ。素っ裸で。まさかソリティアをするために彼女がそこまで行ったと思ってるわけじゃあるまい」

「そいつは後だ。亭主を捕まえてからになる」

「なるほどね。すでにカモがいるのだからわざわざ面倒をかけることはない、という訳か」

「話さないなら、連れて行かなければならないな、マーロウ」

「重要参考人として?」

参考人だって、馬鹿なことを言っちゃ困る。容疑者としてだよ。殺人の事後従犯容疑。容疑者の逃亡幇助。あんたはやつをどこかへ逃がした。これは俺の推測だが、今のところそれで充分だ。ここのところ、うちの課長は荒っぽいぞ。規則は知ってるんだが、忘れっぽいんだ。あんたにとっちゃさぞ不幸なことだろう。どんな手を使ってでも我々はあんたの供述をとる。あんたが口をつぐめばつぐむほど、ますますあんたの話が聞きたくなるんだよ」

「そいつにとっちゃ戯言です」とデイトンは言った。「そいつは法律書を読んでるんだ」

「誰にとっても戯言だろうよ」とグリーンはおだやかに言った。「それでも効き目はある。なあ、マーロウ。俺はあんたに警告の笛を吹いてやってるんだ」

「オーケイ」と私は言った。「笛を吹けばいい。テリー・レノックスは友だちだ。彼には今までそれなりの情愛を注いできている。警官にちょっと脅されたぐらいで友情を反故にする気はない。あんたらは彼を犯人だと見ている。たぶん私が聞いた以上に多くをつかんでるんだろう。動機、犯行の機会、それに彼が逃亡したという事実。動機としてはありふれてるが、妻の浮気は今に始まったことじゃない。それはほとんど取り決めの一部だ。そういう取り決めは感心しないが、彼はそういう男でね。少し気が弱くて、事を荒立てることを好まない。そういう男でも、彼女が殺されたことを知れば、自分が警察にとっていいカモであることぐらいは分かる。審問が開かれ、呼ばれたなら、質問に答える用意はある。あんたらに答える必要はない。あんたがいいやつだということはわかってる、グリーン。あんたの相棒がバッジをひけらかす平目野郎であることがわかるのと同様に。もし私を窮地に追い込みたいなら、あいつにもう一発殴らせるといい。あの糞ボールペンをへし折ってやる」

グリーンは立ち上がって悲しそうに私を見た。デイトンはじっとしていた。彼は一発勝負のタフガイだった。一仕事したら、よくやったと自分をねぎらう時間が必要なのだ。

「電話を借りるよ」とグリーンは言った。「しかし、返事は聞くまでもない。あんたはいかれた根性なしだ。とことんむかつく腰抜けだ。そこをどけ」最後のはデイトンに向けたものだ。デイトンは振り返ってもとに戻り、メモ用箋をつかんだ。

グリーンは部屋を横切って電話のところに行き、ゆっくり受話器を持ち上げた。彼の飾らない顔に皺が寄った。長くねちねちと報われることのない小言をきかされてるんだろう。これがお巡りの厄介なところだ。彼らの根性を憎む準備が整ったとき、よりにもよって人間味のあるひとりに出くわすのだ。

警部は言った。しょっ引いてこい、うんと手荒く、と。

私は手錠をかけられた。家探しをしなかったのは、ぞんざいなやり方に思えた。おそらく、海千山千の私のことだから自分に累が及ぶものを置いているはずなどないと考えたのだろう。それは誤りだった。もし彼らがやるべきことをやっていたら、テリー・レノックスの車のキーを見つけていただろう。そして車が見つかれば、遅かれ早かれ車は発見されるはずで、キーが一致すれば、彼が私と一緒にいたことがわかったはずだ。

実は、結局のところ、そんな心配は無用だった。その車はどの警察にも見つからなかった。それは夜中に盗まれ、おそらくエルパソに運ばれ、新しいキーと偽造書類を取り付けられて、最終的にメキシコシティで市場に出されている。お定まりの手順だ。金の大半はヘロインの形で戻ってくる。善隣政策の一環、とごろつき連中は考えている。

【解説】

テリー・レノックスを空港まで送った帰り道。マーロウは退屈なドライブを紛らわすかのように思いにふける。そのパラグラフの末尾にこういう一節が来る。

“But Marlowe has to get home and count the spoons.”

清水訳は「だが、マーロウは家へ帰らなければならないのだ」と例によって後半をカットしている。村上訳は「しかしマーロウは家に戻ってスプーンの数を勘定しなくてはならない」と、直訳している。田口訳は「しかし、不肖マーロウは家に帰らなければならない。眼を離した隙にテリーにスプーンを盗まれなかったかどうか、数を調べなくてはならない」だ。金に不自由しないテリーがスプーンをちょろまかしたりするわけがない。

“count the spoons”(スプーンを数える)というのは、もともと欧米の金持ち、貴族の家からスプーンやフォークがよくなくなることからきている。使用人がこっそり盗んで売り捌くことができるからだ。そうならないように、主人に代わって執事が常に目を光らせている必要がある。心ならずも事件に関わってしまったマーロウとしては、テリーが本当に犯罪を犯していないのか、真偽を確かめる必要がある。サン・ディエゴの夜がいかに魅惑的であろうが、そんなものに気を取られている暇はないのだ。

村上訳のように原文通りにしておいて、脚注で説明するのが穏当だろうが、エンタメ小説でそんな野暮なことはしたくないというのが訳者の気持ちだろう。しかし、田口訳はいただけない。「眼を離した隙にテリーにスプーンを盗まれなかったかどうか、数を調べなくてはならない」ではたとえではなくなってしまう。「スプーンを数える」を使うのなら、それが「もののたとえ」であることが分かるように訳す必要がある。

“Green patted his thighs, up and down, up and down.”

「どうして私のところに来た」というマーロウの質問にグリーンが答える前の仕種だ。清水訳は「グリーンはすね(傍点二字)を何度も叩いて」。村上訳は「グリーンは両膝をぱたぱたと下から上に向けて叩き、上から下に向いて叩いた」。田口訳は「グリーンは自分の両膝を両手で何度も撫でながら」。“thigh”は「大腿部」のことだ。どうしてそれが「脛」や「膝」になるのかがわからない。だが、“pat”に関して言えば、田口訳が正しい。自分の言うことを頭の中でまとめるとき、人が何気なくする動作だからだ。二つの旧訳は字面を追っているだけでその動きがイメージとしてつかめていない。

グリーンの嘲弄に言い返すデイトンの言葉。

"The hell with you, Sarge, if I may say so with proper respect for your rank."

清水訳は「君にそんな口をきかれる覚えはない」だが、これでは立場が逆だ。グリーンは部長刑事で、デイトンは平の刑事だ。村上訳は「そういう言い方はないでしょう、部長刑事。上司じゃなかったら、ただじゃおかないところだ」と、言葉は少々丁寧になっているが、言ってることは穏やかじゃない。田口訳は「余計なたわ言は要りませんから、部長刑事。上司への敬意を込めて一応言っておくと」

“hell with ~”は「(~には)うんざりだ」という意味の決まり文句。“if I may say so”は「こう申しては何ですが、言わせてもらえば、失礼ながら」という意味。大学出で司法試験に受かっているデイトンの言葉遣いは相手に文句を言うときでも、礼に適っている。そう言うと聞こえはいいが、逆に言えば、相手を見下していながらうわべだけは取り繕っている、底意地の悪い男、というデイトンの真の姿が見えるところ。

署に来てもらうというグリーンに「重要参考人として?」と訊いたマーロウにグリーンが返した言葉。

"As a material my foot. As a suspect.”

清水訳は「証人なんかじゃない。容疑者だ」。村上訳は「冗談を言っちゃ困る。容疑者としてだ」。“my foot”は「(相手の言葉に対して)なんてことがあるものか、ばかな」という意味だ。ここは相手の言葉を強く否定するところだ。田口訳は「参考人としてでも容疑者としてでも」と並列に扱っている。参考人と容疑者では大ちがいだ。扱いがちがう。現にマーロウは手錠をかけられるのだから。

“He was a one-shot tough guy. He had to have time out to pat his back.”

じっと動かないデイトンを評してマーロが言う言葉だ。清水訳は例によってここを端折っている。村上訳は「彼はパンチを一発相手に入れたら、タイムをとって、よくやったと自分をねぎらうことを必要とするタイプなのだ」。“pat on the back”は「(背中をポンポン叩いて)上出来だと褒めたたえる」ことをいう。田口訳は「一発決めたら、あとは休んで、よくやったと肩を叩いてもらう時間が必要なタイプなのかもしれない」だ。受動態ではないので、ここは自分で自分によくやったと褒める、と取るべきだろう。

“You're a sick chicken, Marlowe. A very sick chicken.”

話そうとしないマーロウに業を煮やしてグリーンが言う言葉だ。清水訳は「逃げられないぞ、マーロウ」と意訳している。村上訳は「「まったく厄介な男だな、マーロウ。とんでもない手間をかけてくれる」。田口訳は「マーロウ、あんたはほんとにいかれてるよ。とことんいかれてる」。“chicken”は誰でも知っている通り「臆病者、意気地なし」を意味する俗語で、これをどうして「厄介な」とか「いかれてる」と訳すのかがわからない。いい警官役のグリーンのイメージを悪くしないためだろうか。ただの「チキン」ではなく、“sick chicken”と言ってるわけで、一つひねりがきかされているところがミソ。

“his plain face creased with the long slow thankless grind.”

電話しているときのグリーンの顔について触れた個所。清水訳は「あまり浮かない顔つきだった」とあっさりしたものだ。村上訳は「彼の無骨な顔は、長々と続く容赦のない叱責を受けて、深い皺を刻んだ」。田口訳は「ねぎらいのことばなど一切ない、ねちねちとした小言が長々と続いているのだろう、地味な顔に皺ができた」。“plain”は「明らかな、ありのままの、率直な」という意味の形容詞だ。「無骨な」、「地味な」もまちがいではないが、デイトンとちがって、自分を飾らないグリーンという刑事のうわべを取り繕うとしないところに共感したマーロウの言葉としては今ひとつだ。

四冊の『長い別れ』を読む

5

【訳文】

銃は私に向けられていたわけではなく、ただ握られていただけだった。中位の口径の外国製オートマティックで、コルトやサヴェージでないのは確かだ。憔悴して蒼ざめた顔に傷痕、立てた襟、目深にかぶった帽子、銃を手にしたその姿は、まさに昔のギャング映画から抜け出してきた窮地に立つ男そのものだった。

「ティファナまで車で送ってほしい。十時十五分発の飛行機に乗りたいんだ」と彼は言った。「パスポートもヴィザも揃ってる。準備は万端だが足がない。わけあって、ロスアンジェルスから電車もバスも飛行機も使えないんだ。タクシー代としては五百ドルが頃合いか?」と彼は言った。

私は戸口に立ったまま、彼を入れるために脇にどきもしなかった。「五百ドルに銃のおまけつきか?」私は訊いた。

彼はぼんやりとそれを見おろし、それからポケットに放り込んだ。「万一のときの用心さ」と彼は言った。「きみのためだ。ぼくのためじゃない」

「まあ、入れよ」と私が脇にどくと、彼はさも疲れ果てたといわんばかりに突進し、そのまま椅子に倒れ込んだ。

居間はまだ暗かった。家主が伸び放題にしている灌木が窓を覆っているせいだ。スタンドの灯りをつけ、煙草を一本ねだり、火をつけた。私は彼を見下ろし、ただでさえ乱れた自分の髪をさらにくしゃくしゃにした。そして、使い古しのくたびれた笑みを顔に浮かべた。

「こんなご機嫌な朝に眠りこんでいるなんて、我ながらどうかしてたよ。十時十五分だって? それなら、時間はたっぷりある。キッチンに行こう。コーヒーでも淹れるよ」

「困ったことになったんだ、探偵さん」私を「探偵」と呼んだのはそのときが初めてだった。しかし、その呼び名は、彼の登場の仕方、身なり、銃も何もかも含めて、いかにもその場に似つかわしいものだった。

「今日はいい日になりそうだ。そよ風が吹いてる。通りの向こうの見事なユーカリの古木が互いに囁き交わしているのが聞こえるだろう。ワラビーが枝の下を飛び回り、コアラがお互いにおんぶし合っていた、オーストラリア時代の昔話をしてるんだ。そう、君が何か困っているのは大体察しがついたよ。コーヒーを二、三杯飲んだら、その話をしよう。起き抜けは頭の働きが悪くてね。まずはミスタ・ハギンズとミスタ・ヤングの厄介になろう」

「なあ、マーロウ、そんなことを言ってる場合じゃ――」

「なに、心配は無用だ。ミスタ・ハギンズとミスタ・ヤングは最高の二人だ。彼らはハギンズ・ヤング・コーヒーを作ってる。それは彼らのライフワークであり、誇りであり、喜びだ。近いうちに、彼らがしかるべき評価を得られるようになるだろう。今のところ彼らが稼いでいるのは金だけだ。それで彼らが満足するわけがない」

そんな軽口を叩いて、私は彼をそこに残し、奥のキッチンに行った。湯を沸かし、棚からコーヒーメーカーを下ろした。 ロッドを濡らし、コーヒーの粉を量って上の部分に入れた時には湯が沸いていた。 私は何とかいう下半分に湯を注いで火にかけた。 そこに上の部分を取り付け、ひねって固定した。

そのときには彼は私のところに来ていた。しばらく入り口のドアに凭れ、それからそろそろと朝食用の席に向かい、椅子に座った。彼はまだ震えていた。私は棚からオールド・グランダッドのボトルを取り出し、大きなグラスで彼に一杯注いだ。大きなグラスが必要なことは分かっていた。それでも口に運ぶのに彼は両手を使わなければならなかった。彼は酒を飲み込むと、音立ててグラスを置き、シートの背もたれにぶつかるように身を預けた。

「もう少しで気を失うところだった」と彼はつぶやいた。「一週間は寝ていない気がする。昨夜は一睡もしていない」

コーヒーメーカーが沸騰しはじめていた。火を弱くして、水が上がっていくのを見た。湯がガラス管の底に少し溜まっていたので、そこを乗り越えるに足るだけ火を強くして、すぐにまた弱くした。コーヒーをかき混ぜて蓋をした。タイマーは三分間に合わせた。几帳面な男なのだ、マーロウというのは。何をもってしても、彼のコーヒーを淹れる手順を邪魔することはできない。自暴自棄になった男が手にする銃でさえも。

私は彼にもう一杯ウィスキーを注いだ。「座っているんだ」私は言った。「黙って、ただ座ってろ」

彼は二杯目のウィスキーを片手で取った。私が急いで洗面所で顔を洗って戻ってきたとき、タイマーのベルが鳴った。火を止めてテーブルの上の麦藁マットにコーヒーメーカーを置いた。なぜ、こんな細かいことに拘るのか。なぜなら、張り詰めた雰囲気の中では、どんな些細なことも芝居めいて、明確な動きとなり、きわめて重い意味を持つからだ。長いあいだやり慣れていて、習慣化されてる行為でも、自動的な動きがすべて、意志による個別の行為になる過敏な瞬間、今がまさにそのときだった。重篤な病から回復し、再び歩くことを習う人のようなものだ。そこには、できて当然なことなど何ひとつない。

コーヒーがすっかり下に落ち、いつものように大騒ぎで空気が流れ込み、ひとしきり泡立ってから静かになった。私はコーヒーメーカーの上の部分を外し、カバーの受け口にある水切りの上にセットした。

二つのカップにコーヒーを注ぎ、彼のカップにはウィスキーを加えた。「君にはブラックだ、テリー」自分のカップには角砂糖を二個とクリームを少し入れた。そろそろ張り詰めていた気が緩み始めていた。どうやって冷蔵庫を開けてクリームの容器を取り出したか、覚えていなかった。

彼の向かいに腰を下ろした。彼は動いていなかった。朝食用コーナーの隅に凭れて固まっていた。それから、突然テーブルに突っ伏し、すすり泣き始めた。

私が手を伸ばしてポケットから銃を取り出しても、彼は全く気に留めなかった。モーゼルの七・六五ミリ、美しい銃だ。匂いを嗅いでみた。弾倉を引き出した。フル装填されている。 薬室は空いたままだ。

彼は顔を上げ、コーヒーを見て、ゆっくりと飲んだ。こちらは見なかった。「誰も撃っていないよ」と彼は言った。

「ああ、とにかく最近のことではない。この銃は掃除する必要があるしね。これで誰かを撃ったとは考え難い」

「説明させてくれ」と彼は言った。

「ちょっと待った」 私は熱いコーヒーをできる限り急いで飲んで、カップにお代わりを注いだ。「こういうことだ 」と私は言った。「話の中身に気をつけてくれ。もし本当にティファナまで乗せていってほしいのなら、言ってはいけないことがふたつある。ひとつは......聞いてるのか?」

彼はかすかにうなずいた。ぼんやりとした目で私の頭越しに壁を見ていた。今朝は傷跡がいやに青黒かった。肌は死んだように白いのに、傷跡だけは同じように光っているように思えた。

「ひとつは」私はゆっくり繰り返した。「きみがもし犯罪を ―― 法が犯罪と呼ぶもの、私がいうのは重大な犯罪のことだが ―― 犯したのなら、私に話さないでくれ、ということだ。ふたつ目は、もしきみがそのような犯罪が行われたことを知っていたとしても、私に話さないでくれ。ティファナまで送ってほしいのなら。わかったかな?」

彼は私の眼を見た。焦点は合っていたが、生気がなかった。顔色はまだ悪かったが、コーヒーを飲んだことで落ち着いていた。私は彼にコーヒーを注ぎ足し、前と同じようにウィスキーを加えた。

「困ったことになっていると話したね」彼は言った。

「聞いたよ。何で困っているかは知りたくない。免許をとりあげられたら飯の食い上げだ」

「銃にものを言わせるという手もある」彼は言った。

私はにやりとしてテーブル越しに銃を押しやった。彼は銃に目を落としたが、触りはしなかった。

「銃にものが言えたとしても、ティファナまでは無理だよ、テリー 。国境も越えられないし、飛行機のタラップも上れない。商売柄、銃には慣れてる。銃のことは忘れよう。銃で脅されたので怖くて言うことを聞いた、なんて警官に言ったりしたら、とんだお笑い種だ。もちろん、警察に話すようなことがあるのかどうか、私は知らない訳だが」

「聞いてくれ」と彼は言った。「誰かがドアをノックするのは正午か、それ以降になるだろう。使用人は彼女が遅くまで寝てるとき邪魔されるのを嫌うことを知っている。しかし、さすがに正午ともなると、メイドがノックして入ってくる。彼女は部屋にいない」

私はコーヒーを啜って、黙っていた。

「メイドはベッドが使われていないことに気づくだろう」彼は続けた。「それで、ほかを捜そうと思う。母屋から少し離れたところに大きな客用の離れがある。専用の私道とガレージその他がついている。シルヴィアはそこで一夜を明かした。結局、メイドはそこで彼女を発見することになる」

私は眉をひそめた。 「どんな質問をするか気をつけないとな、テリー。 彼女は家以外のどこかで夜明かしできなかったのか?」

「彼女の服は部屋中に脱ぎ散らかされていた。ハンガーにかけるということを知らないんだ。メイドは彼女がパジャマの上にガウンを羽織った格好で出て行ったと思うだろう。そうなると、行き先は客用の離れしかない」

「そうと限ったものでもないだろう」私は言った。

「客用の離れなんだよ。客用の離れで何が行われているか、使用人たちが知らないとでも思うのか? 使用人というのは何でも知ってるもんだ」

「それで」私は言った。

彼は傷のない方の頬に指を走らせた。赤い筋が残るほど強く。「そして、客用の離れで」と彼はゆっくり続けた。「メイドは見つける――」

「酔っぱらって、ぐでんぐでんで、へべれけになったシルヴィアを」と私は厳しく言った。

「ああ」彼は考えた。大いに考えを巡らせた。「もちろん」と言葉を継いだ。「そういうことになるだろう。シルヴィアは大酒飲みじゃない。限界を越えたら、ひどい荒れようだ」

「話はそこで終わりだ」と私は言った。「というか、ほぼ。続きは即興でやらせてくれ。このあいだいっしょに飲んだとき、私は少々きみに手厳し過ぎた。覚えてるだろうが、きみをひとり置いて店を出た。きみは私をひどく苛立たせたんだ。今にして思えば、きみは災難の予兆を感じながら、何でもないふりをすることで、それを追い払おうとしていたんだろう。パスポートとヴィザは持っているという。メキシコのヴィザを取るには少し時間がかかる。誰でも入国できるわけじゃない。ということは、しばらく前から出国する計画だったことになる。私はきみはいつまで今の暮らしに我慢できるだろう、と思ってた」

「そばにいてやることを義務みたいに感じていたんだと思う。老人が嗅ぎ回らないようにするための隠れ蓑としてだけでなく、いつかぼくが必要になる日が来るかもしれないと。 ところで、夜中に電話したんだが」

「熟睡するたちでね。聞こえなかった」

「そのあとトルコ式の風呂に行ったんだ。二時間ばかりいたかな。蒸し風呂に入り、水に浸かり、ニードルシャワーを浴び、垢すりマッサージを受け、そこから電話を二、三本かけた。ラ・ブレアとファウンテンの角に車を停めて、そこから歩いてきたんだ。この通りに入るところは誰にも見られていない」

「その二本の電話が誰にかけられたものか、知っておくべきかな?」

「一本はハーラン・ポッターにだ。昨日は仕事でパサディナにいて、家にいなかった。捕まえるのに苦労したが、最後には話すことができた。私は彼に、申し訳ないがぼくは出ていく、と話したんだ」そう言ったとき、彼はちらりと脇に目をやり、流し台の上の窓と網戸を覆うテコマの灌木を見た。

「彼は何て言った?」

「残念だ。幸運を祈る。金は必要か」テリーは嘲笑った。「Money、それが彼のアルファベットの最初の五文字だ。金なら充分あると言った。それからシルヴィアの姉に電話した。同じような話だ、それだけだ」

「ひとつ訊いていいか?」私は言った。「その客用の離れに彼女が男といるのを見たことはあるのか?」

彼は頭を横にふった。「覗いてみたことはない。造作もないことだったろう。こそこそしていたわけじゃないから」

「コーヒーが冷めてる」

「もうけっこうだ」

「男と見たら手あたり次第か? にもかかわらず、きみはよりを戻した。確かに彼女がいい女だってことはわかる。それにしても――」

「言ったろう、ぼくは役立たずだと。くそっ、何だって彼女と別れたりしたんだろう? どうしてそのあと彼女に会うたびにぼくは駄目になっていったんだろう? どうして彼女に金を無心せず、浮浪者に転落したりしたんだろう? 彼女は五回結婚している。ぼくを別にしてね。彼女がちょっと指を曲げさえすれば、全員が戻ってくるだろう。それは百万ドルのためだけじゃないんだ」 

「彼女は確かにいい女だよ」と私は言った。私は腕時計を見た。「だが、どうしてまた、ティファナ発十時十五分の便でなきゃいけない?」

「いつでも空きがあるからさ。大型機(コニー)に乗ればメキシコシティまで七時間で行けるのに、ロスアンジェルスからDC3で山越えしようという物好きはいない。それにコニーは私の行きたいところには降りないんだ」

私は立ち上がって流し台に凭れた。「さて、辻褄を合わせよう。話の腰を折らないでくれ。今朝、きみはかなり興奮した様子で私のところにきて、朝早くに飛ぶ飛行機に間に合うようティファナまで送ってくれといった。ご大層にポケットに銃まで忍ばせてね。きみはこう言った。今まで我慢し続けてきたが、昨夜はとうとう堪忍袋の緒が切れた。泥酔した女房が男と一緒にいるところを見たんだ。きみは家を出てトルコ式の風呂に行き、朝まで時間をつぶした。そして、妻の近親者二人に電話をかけ、何をする気かを話した。きみがどこへ行く気か私は知らない。メキシコに入国するのに必要な書類を持っていたが、そのあたりの事情も私には関係ない。友だちに頼まれて、よく考えもせず引き受けたまでのことだ。むげに断ることもできないし、金をもらってもいない。車はあるが、気が動転していて自分では運転できないという、それもきみの方の問題だ。きみは感情的な人間で、戦場でひどい負傷をしている。ところで、きみの車を拾って、どこかのガレージに保管しておこうと思うんだが」

彼は服の中に手を入れ、革のキーホルダーを取りだし、テーブル越しに押して寄こした。

「どんな風に聞こえるかな?」と彼は訊いた。

「誰が聞くかによるだろうな。話はまだ終わっていない。きみは何も持っていかなかった。今着てる服と義父からもらった幾許かの金以外は。彼女がくれたものはすべて置いてきた。ラ・ブレアとファウンテンの角に停めたあの美しいマシンも含めて。きみは可能な限り、きれいに消え去りたかった。わかった。その話を信じよう。髭を剃って服を着がえる」

「なぜそこまでしてくれるんだ、マーロウ?」

「髭を剃るあいだ、酒でも飲んでいてくれ」

私は朝食用コーナーの隅に背中を丸めて座っている彼をそこに残して部屋を出た。彼はまだ帽子をかぶり、薄手のコート姿のままだったが、前よりは生気が戻っていた。

私は浴室に行き、髭を剃った。寝室に戻ってネクタイを締めていたとき、戸口に彼が立った。「念のため、カップは洗っておいた」と彼は言った。「考えたんだが、きみは警察に電話した方がいいんじゃないか」

「自分でしたらどうだ。私は警察に何も言うことはない」

「ぼくにそうしてほしいのか?」

私はきっと振り返り、彼を睨みつけた。「いい加減にしろ!」私はほとんど怒鳴りつけた。「何だって君はものごとをそのままにしておけないんだ?」

「すまない」

「そりゃ、すまないだろうさ。きみのようなやつは何かあると「すまない」を連発するが、何かしてしまった後で悔やんでも、取り返しはつかないんだ」

彼は踵を返して廊下を居間の方に歩いていった。

私は身繕いを終え、家の裏手の戸締りをした。居間に入ると、彼は椅子に座ったまま、頭を片側に傾げて眠っていた。顔に血の気がなく、疲労のせいで全身がだらんとして哀れを誘った。肩に触れると、ゆっくり目を覚ました。まるで、彼のいるところと私のいるところが遠く隔たってでもいるかのように。

彼が気を取り戻したとき、私は言った「スーツケースはどうする? 白い豚革の上物がクローゼットの棚の上に置かれたままだが」

「あれはからっぽだ」彼は興味なさそうに言った。「それに目を引く」

「手ぶらの方が目を引くだろう」

寝室に戻ってクローゼットの中の踏み台に乗って、高い棚から白い豚革のスーツケースを引っ張り出した。頭の上の天井に四角いはね蓋があったので、それを押し上げて、できる限り手を伸ばして、埃だらけの梁か何かの後ろに彼の革のキーホルダーを落とした。

スーツケースを持って降り、埃を払い、いくつかのものを押し込んだ。一度も着ていないパジャマ、歯磨き粉、予備の歯ブラシ、安物のタオルと手拭きを二枚、綿のハンカチのパッケージ、十五セントのシェービングクリームのチューブ、替え刃のパッケージについてくる剃刀ひとつ。どれも未使用で、印ひとつなく、彼の他の持ち物の方が上等だということを除けば人目を引くこともない。私は包装紙に包まれたままのバーボンのパイント瓶も加えた。スーツケースに鍵をかけ、鍵穴のひとつに鍵を挿したままにして、玄関まで運んだ。彼はまた眠ってしまった。私は彼を起こさずにドアを開け、スーツケースをガレージまで運び、コンヴァーティブルの運転席の後ろに入れた。車を出してガレージの鍵をかけ、階段を上がって彼を起こした。戸締りをすませて出発した。

スピードは出したが、違反切符を切られるほどは出さなかった。道中、ほとんど話をしなかった。食事にも寄らなかった。時間がなかったのだ。

国境の役人は何も言わなかった。ティフアナ空港のある風の強い高台の上、事務所の近くに車を停め、テリーが搭乗券を買うあいだ、ただ座っていた。DC3のプロペラは、エンジンを暖めるために、すでにゆっくりと回転していた。グレーの制服を着た男っぷりのいい長身のパイロットが四人組のグループとおしゃべりしていた。一人は身長六フィート四インチくらいで、銃のケースを持っていた。その横にスラックスをはいた娘と小柄な中年男と白髪の女がいた。女の背が高いので一緒にいる男が貧相に見えた。明らかにメキシコ人だとわかる人々が三、四人、同じように立っていた。それが乗客全員のようだった。タラップはドアのところにあったが、誰も急いで乗り込もうとしない。すると、メキシコ人の乗務員が階段を下りてきて、待機するように立った。スピーカー等の設備はないらしい。メキシコ人たちは飛行機に乗り込んだが、パイロットはまだアメリカ人とおしゃべりしていた。

私の隣には大きなパッカードが停まっていた。私は車を降りて、所定位置にある登録証をちらっと覗き見た。いつか私も余計なことに首を突っ込まないことを学ぶかもしれない。顔を引っ込めると、長身の女性がこちらを見つめていた。

そのとき、テリーが埃っぽい砂利道をこちらへ歩いてきた。

「もう大丈夫だ」と彼は言った。「ここでお別れを言うよ」

彼は手を差し出した。私はそれを握った。彼はかなり調子よさそうに見えたが、ただ、疲れていた。どうしようもなく疲れていた。

私は豚革のスーツケースをオールズから取り出して砂利の上に置いた。彼は怒ったようにそれを見つめた。

「それはいらない、と言ったはずだ」彼は吐き捨てるように言った。

「旨いバーボンのパイント瓶 が入ってる、テリー。パジャマもある.。それにどれも何の特徴もない。持っていきたくなければ預けりゃいい。捨てたっていい」

「訳があるんだ」彼は頑なに言った。

「こっちにもある」

彼は唐突に微笑んだ。スーツケースを手に取ると、空いた手で私の腕をぎゅっと握った。「オーケー、相棒。きみがボスだ。それと覚えておいてくれ、難しいことになったときは何でもきみ次第だ。きみはぼくに何の借りもない。我々は時々一緒に仲良く酒を飲んだが、ぼくは自分のことをしゃべり過ぎた。コーヒーの缶に百ドル札を五枚入れておいた。怒らないでくれ」

「そういうことはしないでほしかった」

「持ち金の半分も使えそうにないんだ」

「元気でな、テリー」

二人のアメリカ人はタラップを上っていた。浅黒い顔のずんぐりした男が事務所のドアから出て来て、手を振って指差した。

「乗れよ」と私は言った。「君が殺したんじゃないことはわかってる。だからここにいるんだ」

彼は身構えた。全身がこわばった。彼はゆっくりと背を向け、そして振り返った。

「すまない」と彼は静かに言った。「だけど、きみはまちがっている。ぼくはゆっくり飛行機に向かって歩いて行く。きみにはぼくを止める時間がたっぷりあるよ」

彼は歩いた。私は彼を見ていた。 事務所の入り口にいる男は待っていたが、いらついてはいなかった。メキシコ人はめったにいらついたりしない。彼は手を伸ばして豚革のスーツケースを軽く叩き、テリーに向かってにっこり笑った。それから彼は脇に立ち、テリーはドアを通り抜けた。しばらくして、テリーは反対側のドアから外に出てきた。彼はまたゆっくりと、砂利の上を歩いてタラップに向かった。彼はそこで立ち止まり、私のほうを見た。彼は合図も手も振らなかった。

私も手を振らなかった。それから彼は飛行機の中に入り、タラップははずされた。

私はオールズに乗り込み、エンジンをかけ、バックしてターンし、駐車場を半分ばかり横切った。長身の女とずんぐりした男はまだ飛行場にいた。女はハンカチを振っていた。飛行機は砂埃を巻き上げながら飛行場の端まで地上走行を始めた。一番奥で旋回し、エンジンが轟音を立てて回転し、飛行機はゆっくりと徐々に速度を上げながら前進し始めた。

背後に雲のような砂埃を巻き上げ、飛行機は離陸した。私は、機体が強い風の中をゆっくりと上昇し、南東の雲ひとつない青空に消えていくのを見守った。

それから、駐車場を後にした。国境検問所の係官は誰も私の顔を見ようともしなかった。私の顔など時計の針くらいの値打ちしかないのだろう。

【解説】

早朝、マーロウの家を訪れたときのテリー・レノックスの様子は次のように描写される。

With the white tired face and the scars and the turned-up collar and the pulled-down hat and the gun he could have stepped right out of an old fashioned kick-em-in-the-teeth gangster movie.

“-em”は“them”の省略形“’em”のことだろう。“kick someone in the teeth”は「(人を)ひどい目に合わせる」という意味だ。清水訳はこれをスルーして「むかしの(ギャング映画)」。村上訳は「まるで一昔前の、非情が売り物の(同前)」。田口訳は「まさに暴力満載の(同前)」と“old fashioned”をトバしている。要は、頬の古傷に加えて、人目を気にする姿や手にした銃からの連想で、テリー・レノックスが昔のギャング映画に出てくる「ひどい目に合わされた」男のように見えたということだ。

マーロウがコーヒーを淹れる手順を詳細に述べた後、次のパラグラフが来るのだが、どうしたことか、田口訳はこの部分が抜け落ちている。最新訳で、これが定本になると思ったが、欠落部分があってはそれも難しかろう。

“The coffee was all down and the air rushed in with its usual fuss and the coffee bubbled and then became quiet. I removed the top of the maker and set it on the drainboard in the socket of the cover.”

たいしたことではないのだが、清水訳は後半を「私はコーヒーわかしの上の部分をはずして、台の上にのせた」。村上訳は「私はコーヒーメーカーの上の部分を外し、水切り台の上に置いた」となっている。サイフォン式コーヒーメーカーの上の部分には蓋がついていて、蓋を裏返すと、上の部分(漏斗)のガラス管を立てておくための水切り台(ソケット)になっている。できあがったコーヒーをカップに注ぐためにスタンドを持つとき、上の部分を置く必要があるからだ。両氏の訳では“the socket of the cover”が抜けているので、それがわかりにくい。

マーロウがテリー・レノックスの拳銃を調べているところにこうある。

“It was a Mauser 7.65, a  beauty. I sniffed it. I sprang the magazine loose. It was full. Nothing in the breach.”

清水訳は「七・六五のモーゼル。みごとな拳銃だった。私は銃口を嗅いでみた。弾倉を調べた。弾丸は一発も撃たれていなかった」。“Nothing in the breach”をあっさりトバしている。村上訳は「モーゼルの七・六五ミリ、美しい拳銃だ。匂いをかいでみた。マガジンもはじき出した。弾丸はフルに装填されている。乱れひとつない」。「乱れひとつない」というのはどういう意味か分からない。銃で「ブリーチ」といえば銃口の反対側にあたる「銃尾」のことだ。

田口訳は「ワルサーの七・六五ミリ口径。美しい銃だ。においを嗅いでみた。最近撃たれた様子はなかった。弾倉を取り出した。フル装填されていたが、薬室に弾丸(たま)は送り込まれていなかった」と「ブリーチ」ではなく「チェンバー(薬室)」と訳されている。薬室は弾倉から弾薬が送り込まれてくる場所で、銃身の後方にある空間。問題は「モーゼル」が「ワルサー」になっていることだ。

田口氏は、これまで言われてきたチャンドラーが銃器に詳しくなく、モーゼルとワルサーを取り違えたという説に従って「僭越ながら邦訳では原文に手を加えさせてもらった」と「訳者あとがき」で述べている。ハーラン・ポッターとバーニー・オールズは、はっきり“P.P.K”と言っているので、それらを「ワルサー」に変えるのは理解できる。ただ、この時点でテリーが手にしていた銃の来歴は明らかではない。“P.P.K”と明示されていない「モーゼル」を「ワルサー」にする必要があるかどうか。というのも、モーゼルにも“HSc”という、七・六五ミリのオートマティックがあるからだ。

少し落ち着きを取り戻したテリーにマ-ロウがコーヒーを注ぎ足すところ。

“I poured him some more and loaded it the same way.”

清水訳は「私はまたコーヒーを注いで、前とおなじようにウィスキーを加えた」。村上訳は「私は彼にカップにコーヒーを注ぎ、さっきと同じようにウィスキーを少量足した」とほぼ同じ訳になっている。ところが、田口訳では「私はコーヒーの効果がさらに現れるようにカップに注ぎ足した」と、ウィスキーを抜いてしまっている。“load”は「(コーヒーに酒などの)混ぜ物をする」という意味の俗語。田口氏がこう訳した理由がわからない。

テリー・レノックスが「困ったこと」について話している途中「そして、客用の離れで(略)メイドは見つける――」と言ったところで、マーロウは話を遮り、後を引き取る。

"Sylvia dead drunk, paralyzed, spifflicated, iced to the eyebrows," 

清水訳は「シルヴィアが酔いつぶれているのを見つけるのか」と、例によってカンマで区切られた後の三つをカットしている。村上訳は「飲み過ぎて正体をなくし、あられもないかっこうで文字通りくたばって(傍点五字)いるシルヴィアの姿をね」。田口訳は「シルヴィアがとことん酔っぱらって、あられもない恰好で、人事不省(じんじふせい)になっているのを見つける」だ。

“dead drunk”は「泥酔して、へべれけ、ぐでんぐでん」。“paralyzed”は「麻痺した」の意味だが、「泥酔した(米俗)」の意味もある。“spifflicated”はめずらしい単語で、本来は「打ちのめされた」のように暴力的に扱われたことを意味する言葉だが、アメリカでは「酔っ払った」という意味の俗語だ。そして“iced to the eyebrows”もまた「泥酔」を意味するスラングだ。つまり、マーロウはシルヴィアが泥酔状態にあったということをいろいろな言い方で表現しているだけ。言い換えれば「それ以上言うな」ということだ。

清水氏は、どうせ同じ意味の言葉を並べているだけなのだから、と考えて後を省略したのだろう。村上訳の「あられもないかっこうで」は“spifflicated”(辞書によっては「散らばった」という意味がある)の意訳だろうか。田口訳が村上訳を参考にしているのはまちがいない。その村上訳の「文字通りくたばっている」は、勢いで筆がすべった感がある。「くたばっている」だけなら、「非常に疲れている」という意味とも取れるが、「文字通り」をつけたら「死んでいる」ことになる。

男と見たら見境なしの前妻となぜよりを戻したのか、と問うマーロウにテリー・レノックスが応えるところ。

Why after that did I get stinking every time I saw her?

清水訳では「それから後、彼女に会うたびにいやな気持ちになったのもわからない」村上訳は「そのあと、彼女と顔を合わせるたびに、自分がますます駄目になってゆくように思えたのはなぜだろう?」田口訳は「そのあとどうしてぼくは彼女に会うたび泥酔したのか」田口訳は“stinking”を“stinking drunk”(泥酔)の略だと考えたのだろう。当時のテリーは確かにいつもひどく酔っぱらっていた。

“stink”は「悪臭を放つ」という意味の動詞。“get ~ing”は「〜になる」という意味だから、彼女に会うたびに「悪臭を放つようになる」(評判を落とす)くらいの意味だろう。意味としては村上訳に近いが、「駄目になってゆくように思えた」のではなく、事実駄目になっていったのではないか。原文からはそうとしか読めない。

“Why did I roll in the gutter rather than ask her for money?”

“gutter”は「樋、溝」のことだ。村上訳は「どうして僕はあのとき彼女に金を無心するより、どぶの中で転げ回ることを選んだりしたのだろう」田口訳は「彼女に金を無心するくらいならどぶにはまりこんでいたほうがましだ、などとどうして思ったのか」。「どぶの中」という直訳も悪くはないのだが、“in the gutter”は「どん底に落ちて」という意味のスラング。当時のテリーの有様を思い出してみれば、ホームレス同然だった。清水訳は「なぜ彼女に金を無心しようとしないで、惨めな暮らしをしていたんだろう」と、している。新訳だからといって何もかも変える必要はないのではないか。

出発間際になって、警察に連絡した方がいいんじゃないか、と言い出だすテリーにさすがにマーロウも激昂する。テリーはすぐに"I'm sorry." と言うが、それに対してマーロウが言ったのが次の文句。

 "Sure you're sorry. Guys like you are always sorry, and always too late."

チャンドラーお得意の同じ言葉を重ねて、意味のずれを愉しむレトリックだ。清水訳は「当然だ。君のような人間はいつもすまないといってる。しかもいうのがおそすぎるんだ」。村上訳は「すまないでは収まらないことが世の中にはある。君のような人間はいつだって、手遅れになってからすまながるんだ」。田口訳は「きみもそりゃさすがにすまないとは思ってるだろうよ。きみのようなやつらはみんな始終すまながってる。だけど、いつもそれが遅すぎるんだ」

“you are always sorry”を清水氏は「すまないといってる」と訳すが、村上、田口両氏は「すまながる」と訳している。三氏ともレノックスの"I'm sorry."は「すまない」と訳している。三度連続して使われる“sorry”を最初に「すまない」と訳した以上、そうするしかないと思ったのだろう。しかし、“sorry”には「気の毒だ、残念に思う、後悔する」等の意味がある。“always”とあるからには、その場に応じた遺憾の念があるはずだ。「すまない」にこだわることなく、その場に応じて自在に使い分けるべきだろう。

テリー・レノックスを乗せた飛行機が飛び去るところ。

I watched it lift slowly into the gusty air and fade off into the naked blue sky to the southeast.

田口訳では「私は機体が風の強い空を上昇し、雲ひとつない南西の青空に消えていくのを見送った」となっているが、「南東」の間違いだろう。重箱の隅をつつくようで、あまり言いたくないが、最新訳にこういう単純なミスがあるのは校閲なりなんなりがうまく機能していないのではないか。

四冊の『長い別れ』を読む

"I'm sorry for ~"は「~して申し訳ない」

4

【訳文】

私たちが最後にバーで飲んだのは五月のことで、時刻はいつもより早く、四時をまわったばかりだった。彼は疲れて痩せているように見えたが、おもむろに笑みを浮かべてあたりを見まわした。

「夕方に開けたばかりのバーが好きなんだ。店の中の空気はまだひんやりときれいで、すべてが輝いている。バーテンダーは鏡に向かい、ネクタイが曲がっていないか、髪が乱れていないか最後のチェックをしている。カウンターの後ろの棚にきちんと並んだボトルや、美しく輝くグラス、満を持した期待感が好きだ。バーテンダーがその夜の最初の一杯を作り、まっさらなコースターの上に置き、小さくたたんだナプキンを添えるのを見ているのが好きだ。その一杯をゆっくり味わうのも好きだ。静かなバーで静かに飲む最初の一杯――何物にも代えがたい」

私は同意した。

「アルコールは恋愛に似ている」彼は言った。「初めてのキスで魔法にかかり、二度目で懇ろに、三度目で日課になる。それから後は女の服を脱がせるだけだ」

「それのどこがいけない?」私は訊いた。

「興奮を求めるにはいいものだろうが、不純な感情だ。美的な意味で不純だ。何もセックスを嘲笑しようというんじゃない。必要なもので、醜いものである必要もない。しかし、常に大変な努力をしてやりくりしなければならない。それを魅惑的なものにしようとすると、何億ドル規模の産業になり、その分コストもかかる」

彼はあたりを見回して欠伸をした。「近ごろよく眠れていなくてね.。ここはいいところだが、しばらくすると酔っ払いでいっぱいになる。大声で話し、笑い、女どもは手を振り、顔をしかめ、安物のブレスレットをチリンチリン鳴らし、魅力を売り込みにかかるだろう。しかし、夜が更けるにつれ、その魅力はかすかながら紛れもない汗の匂いを放ちはじめる」

「そうむきになるなよ」と私は言った。「女たちだって人間だ。汗もかけば、汚れもするし、トイレにだって行かなきゃならない。きみは何を期待してるんだ。薔薇色の靄の中を舞う金色の蝶々か?」

彼はグラスを空けて逆さにし、ゆっくりとグラスの縁にたまっていった水滴が、震えて落ちるのを見つめた。

「彼女にはすまないと思っている」 と彼はゆっくり言った。「彼女はどうしようもない尻軽女だ。ひょっとしたら、ぼくも心のどこかで彼女のことが好きなのかもしれない。いつか彼女がぼくを必要とするときが来るだろう。そのとき損得抜きで彼女のまわりにいるのはぼくくらいのものだ。でも、そのときには、とうにお払い箱になってることだろう」

私はただ彼を見つめ、ややおいて言った。「君は自分を売り込むことに長けている」

「ああ、たしかに。ぼくは性格が弱い。根性もなければ野望もない。真鍮の指輪を手にして、金でないと知ってショックを受けてる。ぼくのような男は、人生でたった一度だけ、空中ブランコの完璧な離れ業をする瞬間がある。そして、残りの時間は、歩道から側溝に落ちないように過ごすのさ」

「いったい何が言いたいんだ?」私はパイプを取り出し、煙草の葉を詰め始めた。

「彼女は怯えてる。心底怯えてるんだ」

「何を?」

「わからない。この頃はあまり話をしない。父親かもしれない。ハーラン・ポッターはとんでもない冷血漢だ。うわべはヴィクトリア朝風に気どって見せているが、中身はゲシュタポの殺し屋のように無慈悲だ。シルヴィアは身持ちが悪い。彼はそれを知っていて、それを嫌っているが、どうすることもできない。彼は待ってるんだ。もし、シルヴィアがスキャンダルに巻き込まれたら、彼女を真っ二つに引き裂いて、それぞれを千マイル離れた場所に埋めるだろう」

「君は彼女の亭主じゃないか」

彼は空のグラスを持ち上げると、テーブルの縁に強く打ちつけた。びしっという音を立ててグラスは割れた。バーテンダーはそれを見ていたが、何も言わなかった。

「こんなふうにね、きみ、こんなふうに。ああ、お説の通り、ぼくは亭主だ。記録上ではそうなっている。ぼくは三段の白い階段であり、大きな緑の玄関ドアであり、一度長く二度短く鳴らす真鍮製のノッカーであり、客を百ドルの娼館に招き入れるメイドなんだ」

私は立ち上がり、テーブルにいくらか金を置いた。「今日の君はしゃべり過ぎだ」と私は言った。「それにきみが自分について言ったことはあんまりだよ。またいつか会おう」

私は彼をそこに残して店を出た。バーによくある弱い明りでも、彼がショックを受けて蒼ざめているのが分かった。彼が私の背に何やら声をかけたが、私は足をとめなかった。

十分後、私は後悔した。しかし、その時はどこやら別の場所にいた。それ以来彼は私のオフィスに来なくなった。全然、ただの一度も。痛いところを突いてしまったのだ。

その後、ひと月の間、彼に会うことはなかった。朝の五時だった。まだ明るくなり始めたところだった。玄関のベルがしつこく鳴り響き、私はベッドから起き上がった。私は廊下を突っ切り、リビングルームを横切り、ドアを開けた。彼は一週間も眠っていないような顔で立っていた。襟を立てた薄手のコートを着て、震えているようだった。暗いフェルトの帽子を目深に被っている。

手には銃が握られていた。

【解説】

マーロウとテリー・レノックスがバーで酒を飲み交わす最後の夜。いつもより少し早い宵のうちのバー。開店直後のバーの良さを語るレノックスの名セリフが有名だ。これを読んで以来、好きなバーを訪ねるなら開店直後に、と思い定めたものだ。

"I like bars just after they open for the evening. When the air inside is still cool and clean and everything is shiny and the barkeep is giving himself that last look in the mirror to see if his tie is straight and his hair is smooth. I like the neat bottles on the bar back and the lovely shining glasses and the anticipation.I like to watch the man mix the first one of the evening and put it down on a crisp mat and put the little folded napkin beside it. I like to taste it slowly. The first quiet drink of the evening in a quiet bar--that's wonderful,"

 “the anticipation” とは何か。辞書には「予想、予測、予感、期待、希望」とある。清水訳では「酒のびん(傍点二字)がきれいにならび、グラスが美しく光って、客を待っているバーテンが……」と、次の文とからめて「客を待って」と意訳されている 。村上訳では「バーの背に並んでいる清潔な酒瓶や、まぶしく光るグラスや、そこにある心づもりのようなものが僕は好きだ」。

田口訳は「カウンターの中の棚に並んだ洒落たボトルも好きだ。輝く可愛いグラスも。何かを期待させるところもいい」と、原則通り一文を一文で訳すのではなく、三つに分けて訳している。問題の  “the anticipation” に村上氏は「心づもりのようなもの」という含蓄のある訳語をあて、田口氏は辞書にある通りの「期待」をあてている。

“the anticipation” は、やるべきことはすべて終え、あとはその夜の最初の客を待つばかりとなったバーの持つ、期待に満ちた緊張感のことをいうのだろうが、それをボトルやグラスという無機物と並べて、一文にまとめようとすると難しい。村上訳は原文に近いのだが、「心づもりのようなもの」というのではいかにも弱い。田口訳の「何かを期待させるところもいい」となると、今度は期待するのが客の側になってしまう。ここは、「準備はできている。さあ、いつでも来い」と客を待つバー側の期待感と取りたい。

『私の好きなもの』という歌があったが、このレノックスの名ゼリフがそれになっている。“I like”にはじまる文が全部で四つ。後半の二つは “I like to” になっている。つまり、前半には店を開けたばかりのバーの持つ好ましい佇まいが、後半には、そこで自分がとる(好きな)行動が列挙されているわけだ。では、後半の部分をそれぞれの訳で見てみよう。

清水訳はこうだ。「客を待っているバーテンがその晩の最初の一杯をふって、きれいなマットの上におき、折りたたんだ小さなナプキンをそえる。それをゆっくり味わう。静かなバーでの最初の静かな一杯――こんなすばらしいものはないぜ」

村上訳は「バーテンダーがその日の最初のカクテルを作り、まっさらなコースターに載せる。隣に小さく折り畳んだナプキンを添える。その一杯をゆっくり味わうのが好きだ。しんとしたバーで味わう最初の静かなカクテル――何ものにも代えがたい」

田口訳は「バーテンダーがその夜最初のカクテルをつくり、折り畳んだ小さなナプキンが隣に添えられたまっさらなコースターの上に置くのをただ見ているのも。その飲みものをゆっくり味わうのも。静かなバーでの静かな最初一杯――すばらしいのひとことに尽きる」

清水訳は一言の「好きだ」もなく、村上訳はひとつだけ。田口訳は前半の初めと終わりに一度ずつ「好きでね」、「好きだ」と書いた後はそれを使わずに「〜ところもいい」と「も」で終わることで処理している。「好きだ」の繰り返しが鼻についたのだろう。こなれた訳しぶりかもしれないが、愚直なまでに “I like” を、文頭に置くレノックスの口吻が伝わってこないきらいがある。

レノックスがここで言いたいのは、何事も初めは美しいが、時が経つにつれ、そこには厭わしい現実が入り込み、美しかったはずのものが姿を変えてしまう。「ぼく」が好き(I like)なのは、ものごとが始まったばかりの無垢で清潔な瞬間なのだ、ということだ。物語が進行するにつれて、レノックスの胸中にあったものが何であったかが、読者にも分かる仕掛けだが、ここでは、さすがのマーロウも気づいてやれない。

"I haven't been sleeping well. It's nice in here. But after a while the lushes will fill the place up and talk loud and laugh and the goddam women will start waving their hands and screwing up their faces and tinkling their goddam bracelets and making with the packaged charm which will later on in the evening have a slight but unmistakable odor of sweat."

名詞の“lush”は「大酒飲み」のこと。ここで気になるのは“the packaged charm” だ。これまでの訳を見てみると、清水訳は「めずらしくもない魅力を発散しはじめる」。村上訳は「かたどおりの魅力を振りまき始める」。田口訳は「パッケージされた魅力を振り撒きはじめる」となっている。どうやら三氏とも “packaged” を「出来合いの」という意味に解釈しているようだ。「パック旅行」(package tour)からの類推だろうか。

しかし、個性のない手垢にまみれた、という否定的な物言いをした後で、わざわざ、「夜も更ければ、かすかながら汗のにおいが混じる」と、屋上屋を重ねるような否定的な言い方をするだろうか。実は、動詞 “package”には「(人目を引くように〜を)提示する、宣伝する」「(人・商品などを)(…として)見せる、売り込む」という意味がある。“the packaged charm” とは「(宣伝用に用意された)魅力」というような意味ではないか。

そのほか、“packaged” には「酔っ払い(米俗語)」の意味もあり、“charm” は「ブレスレットについている小さな鈴」のことでもある。チリンチリンと鈴を鳴らしながら腕を振り、顔をしかめる、“goddam women” には夜の酒場にたむろする、その手の女性イメージが集約されている。単純な単語にいくつもの意味を重ねる、チャンドラーならではの複層的なレトリックを駆使した文章になっている。

"I'm sorry for her," he said slowly. "She's such an absolute bitch. Could be I'm fond of her too in a remote sort of way. Some day she'll need me and I'll be the only guy around not holding a chisel. Likely enough then I'll flunk out."

"I'm sorry for her," だが、「彼女が気の毒でならない」(清水訳)、「彼女を哀れに思う」(村上訳)、「彼女が哀れでならない」(田口訳)とほぼ三氏とも同じ訳で、どうしようもない女を憐れんでいる、という訳になっている。ただ、“I’m sorry for 〜”は「〜して申し訳ない」という意味があり、すでに起こった出来事に対して使われるものであることを考えると、レノックスの言っているのは少しちがう意味ではないかと思う。

単に、気の毒だ、哀れだ、といった、突き放した物言いではなく、自分だけが力になってやれる一人の人間であるのに、自分の力が必要になるであろうときまで一緒にいてやることができない。それまではもちそうにない、と自分でもわかっているからだ。責任を感じているからこそ、「彼女にはすまないと思っている」という言葉が素直に口から出たのだろう。この時点でレノックスはシルヴィアのもとを去ることを考えている。そうしてさえいれば、その後の展開は変わっていたはずだ。レノックスの優しさが、あの事件を引き起こしたと言えるかもしれない。

テリー・レノックスは、マーロウに自分の置かれた窮状を察してもらいたかった。だからこそ、こうまであけすけに自分の立場を打ち明けたのだ。ところが、それが逆にマーロウを疎ませるもとになった。レノックスの自虐的な仄めかしがマーロウは好きになれなかった。誰であれ、自分の価値を貶める人間は好きになれない。それがマーロウという男だ。であるにせよ、この夜のマーロウは、ちょっと手厳しすぎた。弱っている友人にはもう少しなんとかしようがあったのではないだろうか。

四冊の『長い別れ』を読む



3

【訳文】

クリスマスの三日前、ラスヴェガスの銀行が振り出した百ドルの小切手が送られてきた。ホテルの用箋に書かれた短い手紙が添えられていた。私への感謝があり、メリークリスマスと多幸を祈ると続け、近いうちに会いたいと書いてあった。驚かされたのは追伸だ。「シルヴィアとぼくは二度目のハネムーンを始めたところだ。もう一度やり直したいからといって、どうか腹を立てないで、と彼女は言っている」

その続きは、新聞の社交欄の気取ったコラムに書いてあった。ふだんは目を通したりしないが、嫌いなものが底を突いたときだけ読むことにしている、

「テリーとシルヴィア・レノックスがラスヴェガスでよりを戻したという知らせに、記者は打ち震えています。シルヴィアがサンフランシスコとペブル・ビーチに居を構える大富豪ハーラン・ポッターの末娘であることは言うまでもありません。いま彼女はマルセルとジャンヌのデュオー夫妻に、エンシノの大邸宅を地下から屋根まで、破壊的なまでに最新流行のスタイルで改装させています。この十八室の小さな”小屋“は彼女の前夫カート・ウェスターハイムから結婚祝いに贈られたものであることは皆さんも覚えておられることでしょう。カートに何が起きたのか、気になります? それともお聞き及びでしょうか? 答えはサントロペにあります。氏はかの地に腰を落ち着けたとの噂です。また、きわめて高貴な血筋のフランスの公爵夫人と本当に愛らしい二人のお子さまの噂も聞いています。それから、ハーラン・ポッターは娘の再婚をどう考えているのか、とお尋ねになりたいかもしれませんが、それは推測するしかありません。ポッター氏は決してインタビューに応じないことで知られています。どこまで閉鎖的なのでしょうね、皆さま」

私は新聞を部屋の隅に放り投げ、テレビをつけた。社交欄の犬の反吐の後では、レスラーさえ見映えがした。だが、おそらく記事は事実なのだろう。社交欄は本来そうあるべきだ。

私はポッターが数百万ドルを投じた全十八室の小屋を思い描いてみた。デュオーによる最新の亜男根象徴主義の装飾を加味したのはいうまでもない。しかし、バミューダショーツ姿のテリー・レノックスがプールサイドでごろごろしながら無線電話片手に、シャンパンを冷やして雷鳥を炙るよう、執事に命じている姿はまったく思い浮かばなかった。どうして思い浮かべなきゃならない? ひとが誰かのテディベアになりたいなら、勝手にすればいい。ただ、二度と彼に会いたくなかった。とはいえ、いずれ会うことになるだろうと思っていた。あの忌々しい金の留め具のついた豚革のスーツケースのために。

雨のそぼ降る三月のとある夕べ、時刻は五時。私のつましい知の殿堂に彼がやってきた。彼は変わったように見えた。歳をとり、全くの素面で鹿爪らしく、美しいまでに落ち着いていた。人生に柔軟に対応することを覚えた男のように見えた。生牡蠣色のレインコートを羽織り、手袋をはめ、無帽だった。白髪は鳥の胸毛のようになめらかだった。

「静かなバーでちょっと一杯やらないか」と彼はまるで十分も前からそこにいたかのように言った。「もし、時間があるようなら」

握手はしなかった。二人の間では一度もしたことがなかった。英国人はアメリカ人のようにいつも握手をするわけではない。英国人ではなかったが、彼には彼なりの流儀があった。

私は言った。「家に寄ってきみの派手なスーツケースを取ってこよう。気になってたんだ」

彼は首を横に振った。「預かってくれると助かるんだが」

「どうしてだ?」

「気持ちの問題だ。迷惑かい? あれはぼくがまだ役立たずの穀潰しになっていなかった頃を思い出させるんだ」

「ふざけるな」と私は言った。「だが、それは私には関係のないことだ」

「盗まれるかもしれないことが気になっているのなら…」

「それもまた私には関係ないことだ。さあ、飲みに行こう」

彼が運転する赤錆色のジョウェット・ジュピターに乗って、ヴィクターの店に行った。薄っぺらいキャンヴァス地の幌の下には二人分のスペースしかなかった。内装は淡い色の革張りで、金具は銀製のようだ。車にうるさい方ではないが、こいつには少々そそられるものがあった。セカンドで六十五マイル出る、と彼は言った。ずんぐりしたシフト・レバーはかろうじて彼の膝に届くくらいの小ささだ。

「しかも四速だ」と彼は言った。「こういったものを自動化する技術はまだ発明されていない。本当に必要なんだろうか。上り坂でもサードで発進できるんだし、いずれにせよ混雑する道路でそれ以上のギアを使うことはまずないんだから」

「結婚の贈り物か?」

「ただの  “たまたまショーウィンドウで見かけたものだから” プレゼントさ。ぼくはとっても甘やかされてるんだ」

「いいね」と私は言った。「値札がついていなければ」

彼は私をちらりと見てから、濡れた舗道に視線を戻した。二連のワイパーが小さなフロントウィンドウの上で静かな音を立てていた。「値札? 何にでも値札はついてるさ、きみ。ぼくが幸せじゃないとでも?」

「すまない。言い過ぎた」

「金があるんだ。どうして幸せまで欲しがらなきゃいけない?」彼の声には辛辣さがあった。初めて耳にするものだ。

「酒の方はどうなってる?」

「完璧なまでにエレガントだ。どういうわけか、うまく付き合うことができるようになった。先のことはわからないけどね」

「多分、根っからの酔っ払いじゃなかったんだろう」

私たちはヴィクターの店のバーの片隅に座ってギムレットを飲んだ。「こっちじゃ、作り方を知らないんだ」と彼は言った。「ライムかレモンのジュースとジンに、ほんの少しの砂糖とビターを入れたものをギムレットだと思ってる。本当のギムレットはジンとローズ社のライムジュースが半々で、他には何も入れない。マティーニなんかぐうの音も出ないね」

「酒にうるさかった試しがないんだ。ランディ・スターとの仲はどうなってるんだ? こわもてというのがぴったりな男と聞いているが」

彼は背を後ろに凭せかけ考え込むように私を見た。「その通りだよ。それを言うなら、やつらはみんなそうだ。でも、彼はそれを感じさせない。ハリウッドで同じような稼業の連中を何人か知ってるが、やつらはいかにもそれらしく振舞っている。ランディはそうじゃない。ラスヴェガスでは真っ当なビジネスマンで通っている.。今度行ったら会うといい。仲よくなれるよ」

「それはありえない。ごろつきは嫌いだ」

「ただの言葉の問題だよ、マーロウ。ぼくらはそんな世界にいるんだ。 二度の戦争がああいう連中を生んで、これから先も消えてなくなることはない。 ランディとぼくともう一人は戦争で三人一緒に死にかけた。 それでぼくらの間に絆のようなものが生まれたんだ」

「だったらどうして、助けが必要なときに彼を頼らなかったんだ?」

彼はグラスを空け、ウェイターに合図した。「ぼくが頼めば、彼は断れないからさ」

ウェイターがお代わりを持ってきたとき、私は言った「とりあえず話してみることだ。相手の立場になってみろよ。きみに借りがあるなら。借りを返すチャンスが欲しいだろう」

彼はゆっくり頭を振った。「きみの言うとおりだ。だから、彼に仕事をまわしてもらった。その仕事に就いている間は真面目に働いた。ただし、好意や施しを求めるのはお断りだ」

「赤の他人からなら受け取るだろう」

彼は真っ直ぐに私の目を見た。「赤の他人は、何も聞かないふりをしてつきあってくれる」

二人とも、ギムレットを三杯飲んだ。ダブルではなかったが、彼には何の変化も見られなかった。それだけ飲めば本格的に酔っ払い始めるものだ。どうやら悪習は治ったらしい。

それから、彼は車でオフィスまで送ってくれた。

「八時十五分から晩餐だ」と彼は言った。「そんなことができるのは大金持ちだけだ。今時それに耐えられるのは大金持ちの使用人だけさ。素敵な連中が大勢やってくるよ」


それ以来、彼は五時頃に立ち寄るのが習慣になった。 私たちはいつも同じバーに行くわけではなかったが、他のどこよりもヴィクターの店に行くことが多かった。私の知らない何かを思い出させるものが、あの店にはあったのかもしれない。彼は深酔いすることはなかった。それには自分でも驚いていた。

「三日熱マラリアのようなものだね 」と彼は言った。「発症しているときはきついんだが、発症していないときは、まるで罹っていないみたいだ」

「わからないのは、きみのような特権階級が私立探偵なんかと飲みたがることだ」

「謙虚な性格なのか?」

「いや、とまどっているだけだ。私はそれなりに人懐っこい方だが、我々は同じ世界に住んでるわけじゃない。きみがどこで遊び暮らしているのかさえ、エンシノということしか知らないんだ。家庭生活はさぞ充実してるんだろうな」

「家庭生活なんてもの、ぼくにははないね」

私たちはまたギムレットを飲んだ。客はまばらになっていた。飲まずにいられない連中が例によってバーのあちこちの椅子に陣取り、時間をかけてできあがりつつあった。最初の一杯にそろそろと手を伸ばし、何も倒さないように、その手を注視する類いの連中だ。

「よくわからないな。察しろとでもいうのか?」

「大作だが、中身がない。映画の連中がよく言うやつだ。シルヴィアは充分幸せだと思うよ、ぼくが傍にいなくてもね。僕らの世界じゃそんなことはたいして重要じゃない。そのために働いたり、かかる金の算段をしたりせずに済むのなら、やることは常にあるしね。本当は何も面白くないんだが、金持ちはそれを知らない。本当に楽しいことは何も知らないんだ。せいぜいが他人の女房を欲しがるくらいで、それさえ配管工の女房が居間に新しいカーテンを欲しがるのと比べたら、実にあっさりしたものだ」

私は口をはさまず、彼にしゃべらせておいた。

「たいていの場合ぼくは暇つぶしをしてる」と彼は言った。「これがなかなか大変でね。テニスを少々、ゴルフを少々、水泳と乗馬を少々、そしてこれこそ無上の喜びといえるのが、シルヴィアの友人たちが、迎え酒が飲めるランチタイムまで、二日酔いに耐え続ける様子を眺めることだ」

「きみがヴェガスに発った夜、彼女は、酔っ払いは嫌いだ、と言ってたが」

彼はねじれた笑みを浮かべた。彼の傷痕のある顔に私は慣れてしまっていた。だから、表情の変化がその片側のぎこちない動きを強調したとき、あらためてそれに気づかされた。

「彼女が言うのは金のない酔っ払いのことで、金があれば、ただの大酒飲みだ。ヴェランダで吐かれても、執事が片づけるだけのことだ」

「何もなりゆきにまかせる必要はなかったんじゃないか」

彼は酒を飲み干すと立ち上がった。「もう行くよ、マーロウ。ぼくはきみを退屈させるだけじゃ足りず、どうやら自分まで退屈させているようだ」

「べつに退屈はしていない。話を聴くのが私の生業だ。それにそのうち、きみがどうしてプードルみたいに飼われるのが好きなのかわかるかもしれない」

彼は指先で傷痕にそっと触れ、よそよそしい笑みを浮かべて言った。「きみは、なぜ彼女がぼくを傍に置きたがるのかを考えるべきだよ。ぼくがなぜ彼女の傍にいて、サテンのクッションの上で辛抱強く頭を撫でられるのを待っているのかではなくね」

「きみはサテンのクッションが好きなのさ」私はそう言って、彼と一緒に帰ろうと立ち上がった。「シルクのシーツとか、慇懃な笑みを浮かべた執事を呼ぶためのベルとかがね」

「そうかもしれない。ぼくはソルトレイクシティの孤児院育ちでね」

くたびれた夕暮れの中に繰り出すと、彼は歩きたいと言った。私の車で来ていて、その日に限って私の方が勘定書きに手を伸ばすのが早かった。私は彼が視界から消え去るのを見守った。薄霧の中に消える一瞬、店の窓灯りが彼の白髪の輝きをとらえた。

酔っぱらって、落ちぶれ果て、腹をすかせ、打ちのめされて、それでも誇り高い彼の方が私は好きだった。果たしてそうだろうか? もしかしたら私は自分の方が優位に立つのが好きなだけかもしれない。彼の生きる流儀はわかりづらい。私の仕事では、質問するべきときと、煮え立った相手がふきこぼれるまで待つべきときがある。優れた警官なら誰でも知ってることだ。チェスやボクシングの試合と同じで、攻め立ててバランスを崩さねばならない相手もいれば、ただ相手をしているだけで、勝手に自滅してくれる相手もいる。

尋ねさえすれば、彼は身の上話を聞かせてくれただろう。しかし、私はまだ彼がどうして顔に傷を負ったのかさえ尋ねていなかった。もし私が尋ね、彼が話してくれていれば、二人ばかりの人の命を救えたかもしれない。もしかしたら、の話だが。

【解説】

ヴェガスに行ったテリーから手紙が届き、彼が再婚した顛末を新聞で確認するマーロウ。社交欄の記事の中の一文はこうだ。

And whatever happened to Curt, you ask? Or do you?

清水訳は「そして、諸君はカートはどうなったと訊かれるにちがいない。いや、そんなことはお訊きにならんかもしれないが」。村上訳は「カートはどうしているのか、とみなさまはお尋ねになるかもしれませんね。あるいはお尋ねにならないかもしれませんが」と、清水訳を踏襲した解釈になっている。

田口訳は「では、カートはその後どうしたのか、彼には何があったのか、とみなさんは疑問に思われるかもしれません」と<Or do you?>の部分を省いている。文末に<…, you ask?>とつけ加えるのは、「聞きたい?」くらいのニュアンス。その後に<Or do you? >ときたら、「聞きたくない?」と訳したくなるが、否定形になっていないことに注目。つまり、「聞きたくない」ではなく、「それとも、もう知ってる?」ではないだろうか。

その記者が書いた記事の結びの一文。

How exclusive can you get, darlings?

清水訳はここをカットしている。村上訳は「並の人間にはなかなか真似のできないことですよね、みなさま」。田口訳は「読者のみなさま、氏はプライヴァシーをどこまでも大事になさる方なのです」。いずれもかなりの意訳になる。どうして普通に「どこまで閉鎖的なのでしょうね」と訳さないのか? ポッターは大富豪であるだけでなく新聞社のオーナーでもあるので、同じ業界にいる記者としては配慮した表現にならざるを得ないということか。アメリカの記者や編集者がそこまで忖度するものだろうか。

<exclusive>は「排他的な」という意味のほかに、「特権階級に限られた」という、一部の階層の人々(上流階級)に限定された場所、集団を指す形容詞である。この単語の選択には同じ業界にいながら、コメントの一つももらえない記者の鬱憤が感じられる。村上訳の「並みの人間にはなかなか真似のできない」や田口訳の「プライヴァシーをどこまでも大事になさる方」という言い方にも皮肉が感じられるが、ここは特権階級の排他的な態度に対する不満を読者に共感させたいところだ。

その社交欄の記事を読んだマーロウの感想は酷いものだが、それでも最後にこう呟く。

But the facts were probably right. On the society page they better be.

清水訳はここもカットしている。村上訳は「しかしたぶん書かれていることはすべて事実なのだろう。新聞の社交欄で嘘っぱちを書いたら、ただではすまない」。田口訳は「ただ、書かれていることは事実なのだろう。社交欄で事実を曲げてしまったら大変なことになる」。田口訳が村上訳を踏まえたものであることが見て取れる。

<better be>は<should be>(そうした方がいい)よりも強制力が強い言い方。「そうしなければならない」という意味。社交欄に限らず、新聞はどの紙面も事実を書いたものであるべきだ。とはいうものの、どこの新聞を読んでも事実を知ることのできない日本の現実を思うと、大手の新聞社には<they better be>とつぶやきたくなる。

マーロウが、エンシノの新築なった豪邸で暮らすテリーの姿を想像する場面。

But I had no mental picture at all of Terry Lennox loafing around one of the swimming pools in Bermuda shorts the butler by R/T to ice the champagne and get the grouse atoasting.

「しかしバミューダショーツ姿のテリー・レノックスが、プールの一つに陣取り、一日中ごろごろしながら執事に、シャンパンを冷やして雷鳥を炙るよう、無線電話で命じている姿はまったく思い浮かばなかった」

<loafing around one of the swimming pools>のところだが、清水訳は「プールのまわりをぶらぶら歩きながら」、村上訳は「プールのまわりを歩き」、田口訳は「プールサイドを歩きながら」としている。<loaf>には「ぶらつく」の意味もあるが、ただ歩き回るのではなく「のらくら遊び暮らす」という意味がついて回る。マーロウが思い浮かべているのは、邸宅内にいくつもあるプールのうちの一つに腰を据えて、椅子の上でごろごろしながら、自分は動かずに無線電話で執事にあれこれ命じている、テリーの姿だ。

チャンドラーの巧いなあと思うところは、テリーの豪勢な暮らしぶりをこんなにもくわしく描写しておいて、<I had no mental picture>とあっさり打っちゃりを食わすところだ。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり」と同じ伝で、いくら打ち消してみせても、一度描かれた情景は、読者の頭の中にイメージとして成立してしまう。あざといやり方だ。

テリーの現状に愛想をつかしたマーロウの捨て台詞。

If the guy wanted to be somebody's woolly bear, it was no skin off my teeth.

清水訳は「彼が誰かのおもちゃ(傍点四字)の熊になろうと考えたところで、私はどこも痛いわけではなかった」。<woolly>(羊毛の、もじゃもじゃの)という部分があまり生きていない。村上訳は「もし一人の男が誰かのぬいぐるみの熊になることを望んだとしても、私の知ったことではない」。田口訳は「ひとりの男が誰かのテディベアになりたがろうとどうしようと、私の知ったことではない」だ。

<woolly bear>を辞書で引くと「毛虫(ヒトリガの幼虫)」と出てくる。清水氏がよく「毛虫」としなかったものだ。<somebody's>とあるので、毛虫ではないと考えたのかもしれない。ただ、その前にマーロウが想像しているのは、プールサイドで「ぶらぶらする」テリーなので、「毛虫」説にも捨てがたいものがある。<no skin off my teeth>は「私の知ったことではない」という意味でよく使われるフレーズ。<teeth>のところが<back>や<nose>であったりするが、意味は同じだ。

すっかり様変わりしたテリー・レノックスがマーロウのオフィスを訪ねてくる。

It was five o'clock of a wet March evening when he walked into my down-at-heels brain emporium.

「私のつましい知の殿堂」(my down-at-heels brain emporium)だが、要はマーロウのオフィスのことだ。<down-at-heels>は「かかとがつぶれた(靴)」(みすぼらしい)という意味。<emporium>は「大型百貨店、商業の中心地」を指す。清水訳は「私のオフィス」と、そのものずばり。これでいいようなものだが、こういった大仰な物言いは、チャンドラー一流の皮肉なので、村上訳は「私のつつましい知的労働の職場」、田口訳も「私のみすぼらしい頭脳労働の館(やかた)」と、おつきあいをしている。億万長者の娘婿の座に返り咲いたテリー・レノックスに対する嫌味である。

テリーの様変わりを描写した一文。

He looked like a guy who had learned to roll with a punch.

それまでの彼の人生に対する不器用な対応を踏まえて「人生に柔軟に対応することを覚えた男のように見えた」と訳したが、例によって清水訳はこの部分をカットしている。村上訳は「逆境をやりすごすすべを習得した人物のように見えた」。<roll with a punch>は「(ボクサーが)パンチをかわす」ことから「逆境に耐える、困難を乗り越える」という意味になる。田口訳は「世間のパンチのかわし方を心得た男に見えた」と直訳に近い訳し方だ。

テリー・レノックスが浴びるように酒を飲み、だらしない無様なすがたを見せていたのが何によるのかをこの時のマーロウは知らない。単に金がないだけではないのは豪華なスーツケースを持っていることからも分かる。彼を苦しめていたのは、自業自得という言葉が彼の口から洩れたことがあるように、すべては彼自身の問題である。何かは知らないが酒に溺れることで、それから逃げていたが、酒に頼るのをやめたことはその外見に現れていた。

飲みに行く前にスーツケースを取りに行こうというマーロウを、テリーがとめるところ。

He shook his head. "It would be kind of you to keep it for me."

英語の<shake one's head>は「頭(首)を横に振る」という拒否の意味を表す動作だ。ところが、清水訳は「彼は頭をふった」。村上訳は「彼は首を振った」。田口訳は「彼は首を振って言った」となっている。日本語で「首を振る」という場合、承認、賛成の意味を表す。これはまずいのではないか。辞書には注意書きがあり、「国によっては(例えば、ブルガリア、インド、パキスタンスリランカでは)、首を横に振ると、「はい」(肯定)の意思表示となる」と書いてあった。

この日、テリー・レノックスが乗って来た車が、ジョウェット・ジュピター。『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』の中で松原氏は、「[村上本]は Jowett Jupiterを “ジュピター・ジョウェット” とわざわざひっくりかえしに呼んでいて、さらに “最新の英国製のスポーツカーだ” と丁寧に解説をつけている」と書いているが、手許にある “The Long Goodbye”(Vintage Crime/Black Lizard)はこうなっている。

We went to Victor's. He drove me in a rust-colored Jupiter-Jowett with a flimsy canvas rain top under which there was only just room for the two of us. It had pale leather upholstery and what looked like silver fittings.

清水訳も田口訳も「ジョウェット・ジュピター」となっているので、村上氏は私と同じ版を原本にしていたのだろう。ジョウェット社製のジュピターという名の車なので、この順で呼ぶのが正しい。蛇足ながらもう一つ。“It had pale leather upholstery” を村上訳は「薄緑色の革の内装で」としているが、“pale” に「青白い」の意味はあっても「薄緑色」という意味はない。訳すとすれば「うすい色の(清水訳)」か「淡い色の(田口訳)」だろう。

ジョウェット・ジュピターは、英国製の小型オープン・ツーシーター。設計者はドイツ人のエヴェラン・フォン・エベルホルストで、アウディの前身である旧アウトウニオンでレーシング・カーを設計していた人物。そのせいか個性的な車で、1500cc水平対抗四気筒水冷エンジンを備えていた。ラリーやレースで好成績を上げ、“The Long Goodbye” が発表される少し前、1950〜1952年にかけ、ル・マンで三連覇を成し遂げている。

ヴィクターの店を出て、オフィスに帰る途中、テリーが言う。

"We have dinner at eight-fifteen," he said. "Only millionaires can afford it. Only millionaires' servants will stand for it nowadays. Lots of lovely people coming."

清水訳は「八時十五分に食事なんだ」、村上訳は「八時十五分に我々は夕食をとる」、田口訳は「八時十五分からディナーでね」となっている。ところが、その後にそれぞれ「金持ちじゃなくてはこんなばか(傍点二字)なことはしないよ」、「そんなことができるのは大金持ちだけだ」、「そんなことができるのは大金持ちだけで」と続く意味がよく分からない。

どうして八時十五分に夕食をとることが大金持ちでなくてはかなわないのだろう。どんな貧乏人でも、何を食べるかさえ問わなければ、八時十五分に夕食を食べることくらいできる。
最後に “Lots of lovely people coming.” とあることから、大勢の客が招待されていることがわかる。開始時刻が八時過ぎであることからも、これがただの食事ではなく「晩餐(会)」のことだとわかる。

再婚を契機にすっかり立ち直ったように見えるテリー・レノックスだが、何かを言うたびに言葉に辛辣な響きが混じるようになっていた。心の中にある鬱屈を吐き出すために、マーロウのと飲むのが新たな習慣になっていたのだが、腐るほどの金を持ちながら、鬱々として楽しめないテリーの内心をマーロウはわかってやることができなかった。後から振り返って、そのことを後悔するマーロウの口調には苦いものがある。

四冊の『長い別れ』を読む 

2

【訳文】

彼にまた会ったのは感謝祭の次の週だった。ハリウッド・ブールヴァードの店は、早くも高額の値札をつけたクリスマスのがらくたで埋まりはじめ、新聞は早めにクリスマスの買い物を済ませないと大変なことになると騒ぎ出していた。いずれにせよ酷いことになる。いつものことだ。

私のオフィスのある建物から三ブロックほどのところで、パトカーが二重駐車して、二人の警官がショーウィンドウ近くの歩道上の何かを見つめていた。その何かはテリー・レノックス、もしくは彼の成れの果てで、見られたざまではなかった。

彼は店頭に凭れていた。何かに凭れずにいられなかったのだ。喉元をはだけたシャツは汚れ、一部が上着からはみ出ていた。四、五日髭を剃っていないようだった。鼻はすぼまり、顔色は細く長い傷痕が目立たないほど青白かった。眼は吹き溜まりに空いた穴のようだった。パトカーの警官が今にもしょっぴくつもりでいるのは明らかだったので、急いで駆けつけて彼の腕をとった。

「しゃんとして歩くんだ」私はわざと乱暴な口をきき、横から片眼をつぶって見せた。「歩けるか? 酔ってるのか?」

彼はぼんやりとこちらを見て、片頬に小さな笑みを浮かべた。「今まではね」と言って、彼は一息入れた。「今は、ちょっと腹がへってる」

「わかった、とにかく足を出せ。もうトラ箱に半分入ってるようなものだ」

彼は私に身を任せつつ、自分でも歩こうと務め、舗道にたむろする人々の間を抜けて縁石にたどり着いた。そこがタクシー乗り場だった。私はドアを思いっきり引っ張って開けた。

「あっちが先だ」運転手はそう言って、親指で前のタクシーを指した。そして頭を巡らしてテリーを見て、「もし乗せてくれたらな」と言い足した。

「急を要するんだ。友だちが病気で」

「そうかい」と運転手は言った。「どっかよそで病気になるべきだったね」

「五ドル」と私は言った。「それで、美しい笑顔を見られるだろう」

「まあいいか」と運転手は言い、火星人の表紙の雑誌をバックミラーの裏にはさんだ。私が手を伸ばしてドアを開けてやり、テリー・レノックスを車に押し込むと、パトカーの影が反対側の窓ガラスをふさいだ。白髪の警官が下りてこちらにやってきた。私はタクシーを回り込んで彼と相対した。

「おい、ちょっと待ってくれ。どういうことだ? その汚れた洗濯物の中の紳士は本当にあんたの親友なのか?」

「今は友達を必要としている、とわかるくらいには親しい。そいつは酔っちゃいないよ」

「金がないんだろう、多分な」と警官は言った。彼が差し出した掌の上に、探偵免許証を載せた。彼はそれを見てこちらに返した。「おっと」と彼は言った。「私立探偵が客を拾ったってことか」声の調子が変わり、あたりがきつくなった。「あんたの素性はまあ分かった、ミスタ・マーロウ。で、そいつは誰なんだ?」

「名前はテリー・レノックス。映画業界の人間だ」

「そいつはいいや」彼はタクシーに身を乗り出し、後ろの席の隅にいるテリーをじっと見つめた。「ここのところ仕事をしていないようだな。それに、ここのところ家の中で寝てもいないようだ。浮浪者と言えなくもない。ということで、ご同行を願った方がよさそうだ」

「あんたの逮捕成績はそれほど悪くないはずだ」私は言った。「何しろ、ここはハリウッドなんだから」

彼はまだテリーに見入っていた。「あんたの友だちは何ていう名だ?」

フィリップ・マーロウ」テリーはゆっくり言った。「ローレル・キャニオンのユッカ通りに住んでる」

警官は車の窓から頭をひっこめ、こちらを振り向き、手真似をした。「こいつに教えることもできたはずだ」

「できたよ。でも、していない」

彼は一、二秒、私を見つめていた。「今回は見逃すとしよう」と彼は言った。「だが、通りで寝るのをやめさせろ」彼はパトカーに乗り、行ってしまった。

タクシーに乗り込み、三ブロックほど離れた私の駐車場まで行き、自分の車に乗り換えた。私は運転手に五ドル札を差し出した。彼は硬い表情で首を横に振った。

「メーター通りだ、お客さん。気が済まないのなら、一ドルもらおう。おれも食いつめてたことがある。フリスコでな。誰もタクシーで拾ってくれたりしなかった。つれない街さ」

「サンフランシスコ」私は機械的に返した。

「おれはフリスコって呼ぶ」彼は言った。「少数民族なんかくそ食らえってんだ。これ、ありがとな」彼は一ドル札をとって行ってしまった。

犬も食わないほどでもないハンバーグを作るドライブインに寄り、テリー・レノックスにハンバーガーを二個、ビールを一本あてがってやってから、家に帰った。階段はまだきつそうだったが、彼はにやりと笑い、息を喘がせながら上った。一時間後、髭を剃り、風呂に入った彼は、やっと人間に戻ったように見えた。私たちは座って、ごく弱めの酒でちょっと一杯やることにした。

「私の名前を憶えていたのはラッキーだったな」と私は言った。

「忘れないようにしてた」と彼は言った。「きみのことも調べたよ。できないと思ったのか?」

「それならなんで電話してこない? 私はいつでもここにいる。オフィスだってある」

「どうしてきみの手を煩わさなきゃならない?」

「きみは誰かの手を煩わせずにはいられないようだ。友だちが多いようにも見えない」

「友だちはいる」と彼は言った。「曲がりなりにも、ね」彼はテーブルの上でグラスを回した。「でも、助けを求めるのは簡単じゃない......自業自得の場合には、なおさら」 彼は疲れた笑みを浮かべて見上げた。「そのうち酒をやめられるかもしれない。酒飲みの口癖だね」

「三年はかかる」

「三年?」彼は驚いたようだった。

「たいていは。世界がちがうから。そこの色彩はより淡く、音もより静かで、それに慣れなければならない。逆戻りすることも考えなければならない。よく知っていた人たちがみんな少し変になり出す。きみは彼らのほとんどが気にいらず、彼らもきみのことを好きでなくなる」

「それならたいして今と変わらない」と彼は言った。彼は振り向いて掛け時計を見上げた。「二百ドルはするスーツケースをハリウッドのバスターミナルに預けてある。それを受けだして安いのを買い、元のを質に入れたら、ヴェガスへの旅費くらいにはなるだろう。あそこに行けば仕事につける」

私は何も言わなかった。ただうなずいて、そこに座って酒をちびりちびりやっていた。

「もう少し早く思いつきそうなものだ、と思ってるんだろう」彼は静かに言った。

「何か裏がありそうだが、それは私の知ったことじゃない、と考えてる。仕事は確かなのか、それともただの希望か?」

「確かだ。軍隊で一緒だったやつがあそこで大きなクラブをやっている。ザ・テラピン・クラブ。違法なこともしてる。あそこの連中はみんなそうだ。それ以外の点ではいいやつだ」

「バス代その他は何とでもできる。それでも、しばらくは長続きするもののために使いたい。電話したほうがいいんじゃないか」

「ありがたいが、その必要はない。ランディ・スターはぼくをがっかりさせたりしない。それは請け合うよ。スーツケースは質屋で五十ドルにはなる。前にやったことがあるんだ」

「いいか」私は言った。「必要な分は用立ててやる。私が情にもろい薄ら馬鹿だからじゃない。申し出を受け入れていい子にしててくれ。きみにこれ以上煩わされたくないからだ。どうにもきみのことが気にかかるんだ」

「本当かい?」彼はグラスの中を覗き込んだ。飲み物はなめているだけだった。「ぼくらが会ったのはたったの二度だ。そして、どちらのときもきみは聖人君子のようだった。何がそんなに気にかかるんだ?」

「この次、きみを見つけたら、もう救い出すことができないようなトラブルに見舞われている気がするんだ。どうしてだか知らないが、そんな気がする」

彼は二本の指先でそっと顔の右側に触れた。「たぶんこれのせいだ。ちょっと薄気味悪く見えるかもしれないが、これは名誉の負傷だ。というか、その結果なんだ」

「そんなことじゃない。そんなものは全然気にならない。私は私立探偵だ。きみは私が解決する必要のない問題だ。しかし、きみは問題を抱えている。勘だよ。特上の洗練された言葉がいいなら、先見の明と呼べばいい。ザ・ダンサーズで、あの子はきみが酔っ払ったからって見捨てたわけじゃないだろう。彼女も何か感じるものがあったのかもしれない」

彼はかすかに微笑んだ。「彼女とはかつて結婚していたんだ。名前はシルヴィア・レノックス。金のために結婚したんだ」

私は彼をにらみつけて立ち上がった。「スクランブルエッグでも作るよ。何か腹に入れた方がいい」

「待ってくれ、マーロウ。きみはこう思ってるんだろう。ぼくが食いつめてて、シルヴィアがうなるほど金を持ってるのなら、なぜ数ドルくらい無心できないのかって。きみは、誇りについて聞いたことはあるかい?」

「つき合いきれないよ、レノックス」

「そうなのか? ぼくのいう誇りはみんながいう誇りとはちがっててね。それ以外に何も持っていない人間の誇りなんだ。気に障ったなら謝るよ」

私はキッチンに行き、カナディアン・ベーコンとスクランブルエッグ、それにコーヒーとトーストをこしらえた。私たちはキッチンの近くにある朝食用コーナーで食べた。どこの家にもそういう一画が設けられていた時代に建てられた家だった。

オフィスに行かなくてはならないので、帰りにスーツケースを受け取ってこよう、と私は言った。彼は預かり証を私に渡した。彼の顔には血色が戻り、眼も手探りしなくてはならないほど奥に引っ込んではいなかった。

出て行く前に、カウチの前のテーブルにウィスキーのボトルを置いた。「君の誇りとやらに使うといい」と私は言った。「それと、ヴェガスに電話してくれ、私のためだと思って」

彼はただ微笑んで肩をすくめた。 階段を下りるときもまだ腹が立っていた。理由がわからなかった。服を質に入れるより、腹をすかせて街をほっつき歩く理由を聞かされてもわからなかったのと同じだ。 彼のルールが何であれ、彼はそれに従っていたのだろう。


スーツケースはとんでもない代物だった。色褪せた豚革で、新品時は淡いクリーム色だったろう。金具は純金。英国製で、ここで買うとすれば、二百どころか八百ドルはするだろう。

彼の前にそれをどさりと置いた。私はカクテル・テーブルの上のボトルに目をやった。彼はそれに触れてもいなかった。私と同じくらい素面だった。うまくもなさそうに煙草を吸っていた。

「ランディと話したよ」と彼は言った。「怒ってた。もっと早く電話しなかったから」

「赤の他人がきみを助けるようになってるんだよ」と私は言った。「シルヴィアからのプレゼントか?」私はスーツケースを指差した。

彼は窓の外を見た。「いや、彼女に出会うずっと以前、英国でもらったものだ。古いのを貸してくれたら、それはここに残して置きたい」

札入れから二十ドル札を五枚出し、彼の前に落とした。「質草はとらない」

「そんなつもりじゃなかったんだ。きみは質屋じゃない。ただヴェガスに持って行きたくないんだ。それに、金はこんなにいらない」

「わかった。きみは金を預かり、私はスーツケースを預かるとしよう。ただ、この家は空き巣に狙われやすい」

「構わない」と彼は言った。「そんなもの、どうなったっていいんだ」

彼は服を着替え、我々は五時半にムッソの店で夕食をとった。酒は飲まなかった。彼はカフエンガでバスに間に合い、私はあれこれ考えながら車を走らせて家に帰った。ベッドの上には空になったスーツケースがのっていた。さっき彼が中の荷物を私の安物の鞄に入れ換えたのだ。 金の鍵が錠穴の一つにささっていた。 空っぽのスーツケースに鍵をかけ、鍵をハンドルにくくりつけ、クローゼットの高い棚に置いた。すっかり空になったわけではなさそうだが、中に何が入っていようが私の知ったことではなかった。

静かな夜で、家は普段以上に中身がない気がした。私は盤の上に駒を並べ、スタイニッツ相手に定石のフレンチ・ディフェンスを試した。四十四手で私が負けたが、それでも二度ばかり彼に汗をかかせてやった。

九時半に電話が鳴り、聞き覚えのある声がした。

「ミスタ・フィリップ・マーロウのお宅ですか?」

「はい。私がマーロウです」

「シルヴィア・レノックスです、ミスタ・マーロウ。先月の夜に、ザ・ダンサーズの前でちょっとだけお会いしました。 後で聞いたところでは、ご親切にもテリーを自宅まで送り届けてくださったとか」

「その通りです」

「私たちがもう結婚していないことはお聞き及びだと思いますが、彼のことが少し心配なんです。ウエストウッドのアパートメントを引き払ってから、彼がどこにいるのか誰も知らないみたいなんです」

「あなたがどれだけ彼のことを気にかけておられるか、お会いした夜に気づきましたよ」

「いいこと、ミスタ・マーロウ、私はあの人と結婚してたの。で、酔っ払いには同情しないことにしてる。多分あの時は少し気分が悪かったか、もっと大事な何かがあったのよ。あなたは私立探偵でしょ、あなたさえよければ、これを仕事の手始めにしてもいいのよ」

「何の手始めにもする必要はありません、ミセス・レノックス。 彼はラスヴェガス行きのバスに乗っている。 そこに友達がいて、仕事を世話してくれるそうだ」

彼女は急に明るい声を上げた。「ラスヴェガスですって? なんてセンチメンタルなの。私たちあそこで結婚したのよ」

「だったら、彼は忘れてたんでしょう」と私は言った。「さもなけりゃ、どこか別のところに向かったはずだ」

電話を切る代わりに彼女は笑った。キュートでかわいい笑い声だった。「あなたはいつも依頼人にこんなに無礼な態度をとるの?」

「あなたは依頼人じゃない、ミセス・レノックス」

「いつかそうなるかもしれないじゃない、誰がわかって? じゃあ、女の友達だったら」

「答えは変わらない。その男は落ちぶれ果てて、腹をすかせ、薄汚れ、文なしで街をうろついていた。探す手間さえ惜しまなければ彼は見つかっていたはずだ。あのとき彼はあなたに何も求めなかった。そして、たぶん今も、あなたには何も求めないだろう」

「そのあたりのことは」と彼女は冷やかに言った。「金輪際、あなたにはわかりっこない。 おやすみなさい」 そこで、電話が切れた。

彼女は完全に正しかった。もちろん、私は完全にまちがっていた。しかし、自分がまちがっている気がしなかった。ただ腹立たしかった。もし彼女があと三十分早く電話をかけてきていたら、私はその腹立たしさを武器にスタイニッツを打ち負かしていたかもしれない ―― もっとも、彼は五十年も前に死んでいて、チェスの試合は残された棋譜に基づくものだったわけだが。

【解説】

はみ出してたのは「襟」か「裾」か?

「喉元をはだけたシャツは汚れ、一部が上着からはみ出ていた」は<His shirt was dirty and open at the neck and partly outside his jacket and partly not>。清水訳は「シャツはよごれて、頸のところがはだけていた」と後半をカットしている。村上訳は「シャツは薄汚れ、頸のボタンは外されて、襟は一部がジャケットの中にあり、一部は外に出ていた」。

田口訳は「首元を開いたシャツは汚れ、裾が一部ジャケットの外にはみ出てしまっていた」。問題はジャケットからはみ出しているのは、「襟」なのか、それとも「裾」なのか、ということだ。清水訳はわざとそれに触れなかった。原文を見ただけではわからないからだろう。わからないものはそのままにしておく方がいい。

受身形の<pinch>は「やつれる」

「鼻はすぼまり」は<His nose was pinched>。清水訳は「鼻がはれていた」。村上訳は「鼻は色つやを失い」。田口訳は「鼻孔はすぼめられ」。チャンドラーはこの表現が好きらしく、常套的に使う。<pinch>は「つまむ」の意味の動詞だが、受身形で使われると「(人を)精神的に締めつける。「(苦痛・悩みなどが)(顔・体などを)やつれさせる」という意味になる。レノックスの場合がまさにそれだ。田口訳が正しいが、この時点でマーロウはレノックスの鼻の孔が見えるほど近くにはいない。

ブタ箱ではなく、トラ箱

「もうトラ箱に半分入ってるようなものだ」は<You're halfway into the drunk tank already>。清水訳は「豚箱にぶちこまれるところだった」。村上訳は「このままじゃ豚箱行きだぞ」。田口訳は「このままだとブタ箱行きだぞ」。<drunk tank>は「泥酔者留置場」のことで、日本語に訳すなら「豚箱」ではなく「虎箱」だろう。

<over a couple of drinks>は「ちょっと一杯やる」

「私たちは座って、ごく弱めの酒でちょっと一杯やることにした」は<We sat down over a couple of very mild drinks>。清水訳は「私たちは弱い飲み物を二杯つくって腰をおろした」。村上訳は「我々はそれぞれ、ずいぶん弱くした酒を手に腰を下ろしていた」。田口訳は「私たちは椅子に坐り、どこまでもおとなしい飲みものを二杯ずつ飲んだ」。

<have a talk over a couple of drinks>というフレーズがある。「ちょっと一杯やりながら話す」という意味だ。この一文はそれをひねったものだろう。現に、これ以降の文章を読んでみるとわかるように、話の最中<very mild drink>をマーロウの方は「ちびりちびり」やり、レノックスの方は「なめているだけ」である。「二杯」にこだわるのはおかしい。

<would just as soon>は「むしろ〜したい」

「それでも、しばらくは長続きするもののために使いたい」は<But I'd just as soon it bought something that would stay bought for a while>。清水訳は「だが、余計なお節介になるような気がする」。村上訳は「それはかまわないが、使った金が無駄になるのを目にするのは面白くない」。田口訳は「けれど、用立てたからにはその金はとりあえず君の役に立ってほしい」。<would just as soon>は「むしろ〜したい」という意味だ。マーロウが買いたいものは、<that>以下の<would stay bought for a while>(しばらくは買ったままでいられる)何か。つまりはヴェガスにおけるレノックスの安定した生活のことだ。

俗語の<white>は「道徳的に優れている」

「そして、どちらのときもきみは聖人君子のようだった」は<and you've been more than white to me both times>。清水訳は「二度とも他人とは思えないほど親切にしてもらった」。村上訳は「そしてどちらのときも君は、ひとかたならず親切に僕を扱ってくれた」。田口訳は「その二度ともきみは親切以上のことをしてくれた」。

三氏とも<white>を「親切」と訳しているが、俗語の<white>には「誠実、善意、公明正大」等「道徳的に優れた」という意味はあるが、「親切にする」の意味はない。<(be〜)whiter than white>は「純白である、聖人君子のようである」という意味。ここでの話題はレノックスではなく、マーロウなのだ。

「さらした豚革」はどんな色?

「色褪せた豚革で、新品時は淡いクリーム色だったろう」は<It was bleached pigskin and when new had been a pale cream color>。清水訳は「さらした豚革で、新しいときにはうすいクリーム色だったであろう」。村上訳は「さらした豚革で作られていて、新品のときには淡いクリーム色だったはずだ」。田口訳は「晒した豚革でできていて、留め具は金だった」と、<when new had been a pale cream color>が抜け落ちている。三氏とも「さらした」と訳しているが、わざわざ、「新しいときには」と断り書きがあるのだから、この<bleached>は経年劣化による色褪せだろう。

「英国でもらったものだ」は<That was given- to me in England>。清水訳は「イギリスでもらったんだ」、田口訳も「イギリスでもらったものだ」だが、村上訳だけ「ロンドンで人にもらったものだ」になっている。文庫版の『ロング・グッドバイ』も確かめたが、そのままになっている。村上氏の思い違いだろうか。

<Cahuenga>の読み方

「彼はカフエンガでバスに間に合い」は<He caught the bus on Cahuenga>。清水訳は「彼はカヘンガでバスに乗った」。村上訳は「カーウェンガー通りで彼はバスに乗り」。田口訳は「彼はカウェンガー通りでバスに乗り」と表記が微妙に異なる。<Cahuenga>はもともと、ネイティブ・アメリカンの部族の居留地スペイン語で「山の場所」という意味。グーグル・マップでは「カフエンガ」と表記されている。

四冊の『長い別れ』を読む

<The Long Goodbye>は長い間清水俊二訳が定番だった。村上春樹が単なるハードボイルド小説としてではなく、「準古典小説」として新訳『ロング・グッドバイ』を出したことは当時評判になった。旧訳に欠けていた部分を補填するなど意味のある仕事だったが、新訳の評価は二分した。これはもう原文にあたるしかないと思い、原文と照らし合わせ、新旧訳を読み比べる記事をブログに書き始めた。同じことを考えた人も多かったのだろう。ある日、松原元信氏から『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』という本が送られてきた。著書の中に、私がブログに書いた記事の引用があったので贈ってくれたのだ。

田口俊樹訳『長い別れ』が出た。さて、どうしたものだろう。今度は『四冊の「長い別れ」を読む』を始めるべきなのだろうか? チャンドラーの長篇のなかでも<The Long Goodbye>は全五十三章の大冊である。もう一度、読み比べをする気力が自分にあるだろうか。とりあえず第一章を訳し、三氏の訳と比べてみた。文庫版で、清水訳が482ページ、村上訳が594ページ、田口訳が578ページ。冗長だと評された村上訳とほぼ同量ながら、さすがに訳文はこなれていて格段に読みやすい。これまで気になっていた部分が田口訳ではどうなっているのか、を中心にしてみていくことにしよう。


1

【訳文】

はじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼はザ・ダンサーズのテラスの前に停めたロールスロイス・シルヴァーレイスの中で酔いつぶれていた。車を出してきた駐車場係は開けたドアをずっと支えていた。テリー・レノックスの左足が持ち主に忘れられたみたいに車の外にだらんと垂れているからだ。顔立ちこそ若々しいが、髪は真っ白だった。眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた。
 
傍らに若い女がいた。髪はきれいな濃赤色、唇の上によそよそしい微笑を浮かべている。肩にブルー・ミンクのショールをかけていた。ロールス・ロイスがありきたりの車に見えるような代物だった、と言いたいところだが、ロールスロイスはあくまでロールスロイスである。ありきたりの車になど見えるはずがない。
 
駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた。彼はうんざりしていた。
 
「ねえ、お客さん」彼はとげのある声で言った。「ドアが閉められないんで、脚を車の中に引っ込めてもらえませんか?  それとも、開けたままにしときます? いつでも好きなときに落っこちられるように」
 
女は駐車係にぐさりと刺さり、背中から少なくとも四インチは突き出そうな視線を投げた。それくらいのことで彼が怯むことはなかった。ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった。
 
車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた。男がひとり降り立ち、ダッシュボードのシガーライターを使って細長い煙草に火をつけた。プルオーバーのチェックのシャツに黄色いズボン、乗馬靴といういで立ちで、香料入りの紫煙を燻らせ、ぶらぶら歩いてきたが、ロールスロイスには目もくれなかった。そんなものは陳腐だと思ったのだろう。テラスに上がる階段の下で立ち止まると、眼に片眼鏡をはめた。
 
女は愛嬌を振りまいて言った「いいこと思いついたわ、ダーリン。タクシーであなたの家に行ってコンバーチブルを出さない? モンテシートまで海岸沿いを走るにはもってこいの夜よ。あちらに知ってる人がいて、プールサイドでダンス・パーティーを開いてるの」
 
白髪の青年は丁重に言った。「大変申し訳ないが、もうあれは持っていないんだ。やむなく売ったんだ」彼の声と話し方から、オレンジジュースより強いものを飲んでいたとはわからなかっただろう。

「売ったって、ダーリン? それってどういうこと?」彼女はシートの上で体を滑らせて彼から身を引いた。しかし、声の方はそれよりずっと遠くへ離れていた。

「そうしなきゃならなかった」彼は言った。「食べるためにね」

「そういうことね」今の彼女の舌の上なら、一切れのスプモーニさえ溶けそうにないだろう。
 
駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った。「なあ、あんた」彼は言った。「おれは車をここからどかさにゃならない。またいつか会おう、もし会えたらな」
 
そう言って、支えていた手を離し、ドアが開くに任せた。たまらず酔っ払いはシートから滑り落ち、アスファルトの路面に尻もちをついた。そのまま見捨てても置けず、手を貸すことにした。いつだって酔っ払いにいらぬお節介を焼くのはまちがいだ。たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ。私は彼の脇の下に手を入れ、立ち上がらせることにした。

「どうもご親切にありがとうございます」彼は丁寧に礼を言った。
 
女は運転席に身をすべらせた。「この人ったら酔っぱらうと、すっかり英国人気取りなの」女の声はまるでステンレス・スティールのようだった。「世話をかけるわね」

「後ろの席に乗せよう」私は言った。

「ほんとにごめんなさい。約束に遅れてるの」クラッチが繋がれ、ロールスがすべり出した。「この人は迷い犬みたいなものなの」女は冷やかな笑みを浮かべながらつけ加えた。「家を見つけてあげてちょうだい。下のしつけはできてる――まあ、だいたいのところ」
 
やがてロールスは刻々とエントランスのドライブウェイを進み、サンセット・ブールヴァードに出ると、右に折れて何処へともなく走り去った。それを見送っているところへ駐車係が戻ってきた。私に抱えられたまま、今では男は眠りこけていた。

「ああいうやり方もあるんだなあ」私は白のお仕着せに話しかけた。

「当然さ」彼は皮肉っぽく言った。「あんな体をしてりゃ、酔っ払いの相手をしてる暇はないだろう」

「この男を知ってるか?」

「女はテリーと呼んでたな。どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない。おれはここに来て、わずか二週間なんでね」

「車を出してきてくれないか?」私は駐車券を渡した。

彼が私のオールズを運んできたとき、私はまるで鉛の袋を抱えているような気分だった。白のお仕着せが助手席に乗せるのを手伝ってくれた。客は片眼を開けて我々に礼を言うと再び眠りこんだ。

「こんなに礼儀正しい酔っ払いは見たことがない」私は白のお仕着せに言った。

「酔っ払いというやつは大きさも格好も、物腰もいろいろだ」彼は言った。「けど、みんながみんなぐうたらだ。この人、整形手術をしてるね」
「ああ」一ドル札を出すと、彼は礼を言った。整形手術については彼の言う通りだった。我が新たな友の顔の右側は凍りついたように白っぽく、細い微かな縫合の痕があった。傷跡の近くの皮膚はてらてらしていた。整形手術というには、かなり手荒い仕事ぶりだ。

「この男をどうするつもりで?」

「家に連れて帰って、住所が訊き出せるくらいは酔いを醒まさせてやるよ」
 
白のお仕着せはにやっと笑った。「こりゃまた、ずいぶんとお人好しだね。おれなら側溝に放り込んでとっとと行っちまうがね。飲んだくれに関わっても、煩わされるだけで何の得にもならない。 こういうことについちゃ、おれにはひとつ哲学がある。 世知辛い世の中だ。わが身を守ろうと思ったらクリンチに逃げて、力を蓄えておかなきゃ」

「なるほど、そのせいでここまでのし上がってこれたわけだ」私は言った。彼は最初、訳が分からなかった様子で、それから怒り出したが、その頃には私の車は動き出していた。
 
もちろん男の言うことにも一理あった。 テリー・レノックスは私に多くの面倒をかけてくれた.。 しかし、結局のところ、面倒を引き受けるのが私の仕事だ。
 

その年、私はローレル・キャニオン地区のユッカ通りに住んでいた。小さな丘の中腹にある行き止まりになった通りに建つ家で、玄関までは長いセコイアの階段が続いていて、道路の向こう側にはユーカリの木立ちが生い茂っていた。家具付きで、家主の女性は、未亡人となった娘と暮らすためにしばらくの間、アイダホに行っていた。家賃が安かったのは、家主が急に戻りたくなったときには家を空ける約束になっていたことと、階段のせいもあった。彼女は家に帰るたびに段差と向き合うには年を取り過ぎていた。
 
私はやっとのことで酔っぱらいを運び上げた。彼は面倒をかけまいと努めたが、足はゴムのようで、詫びごとの言葉半ばで眠り込んでしまう有り様だった。私はドアの鍵を開け、彼を中に引きずり込み、長いカウチに寝かせ、上掛けをかけて眠らせてやった。彼は一時間ばかり、海豚のような鼾をかいていた。それから急に目が覚めて、トイレに行きたがった。 戻ってくると彼は私をじっと見詰め、目を細めて、自分がどこにいるのか知りたがった。 私は教えてやった。彼はテリー・レノックスと名乗り、ウエストウッドのアパートに住んでいて、待つ者は誰もいない、と言った。声は明瞭で、舌は縺れていなかった。
 
コーヒーを一杯、ブラックでもらえないか、と彼は言った.。 私がそれを持ってくると、カップの下にソーサーを添えて慎重にすすった。

「ぼくは、どうしてここにいるんだろう?」そう尋ねて、辺りを見回した。

「ザ・ダンサーズに停めたロールスの中で酔いつぶれてた。連れの女性に見捨てられたんだ」

「そうだった」彼は言った。「とはいえ、誰も彼女を責められない」

「きみは英国人か?」 

「住んではいたが、生まれはちがう。タクシーを呼んでくれたら、お暇できるんだが」

「よければ送るよ」
 
彼は階段をひとりで降りた。ウエストウッドへの道中、彼はあまり多くを語らなかった。ただ、親切にしていただいてありがとう、迷惑をかけて申し訳なかったと言う以外は。おそらく何度も何度も、たくさんの人にそう言ってきたのだろう。何となく決まり文句を唱えているようなところがあった。
 
彼のアパートは狭く、息苦しく、味気ないものだった。その日の午後に引っ越してきたみたいだった。頑丈そうな緑の大型ソファの前にコーヒーテーブルがあり、その上には、半分空になったスコッチのボトルと溶けた氷の入ったボウル、炭酸水の空瓶が三本とグラス二個、ガラスの灰皿は口紅つきの吸殻と口紅がついてない吸殻で埋まっていた。写真はおろか、身の回りの品ひとつなかった。出会いや別れのために、酒を酌み交わして話をするために、一夜をともにするために借りるホテルの部屋みたいだった。人が生活を営む場所には見えなかった。
 
酒を勧められたが、断った。腰もおろさなかった。帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった。いささかふらふらしていて、少々恥じ入っているようだったが、とても礼儀正しかった。自動エレベーターが上がってきて、私がそれに乗り込むまで、彼は開いたドアの前に立っていた。無一物ではあるにせよ、行儀作法はしっかり身についていた。

女のことは二度と口にしなかった。職も将来もないことにも触れなかった。彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった。

エレベーターで降りながら、上に取って返して、彼からスコッチの瓶を取り上げたい衝動に駆られた。しかし、私には関係ないことだし、どうせ何の役にも立たない。酒飲みはいつだって、飲みたいとなれば、何としてでも手に入れる方法を見つけるものだ。
 
私は家まで車を走らせながら、いつの間にか唇を噛んでいた。私は感情に流されることなく生きるようにしている。だが、あの男には何か引っかかるものがあった。それが白い髪と傷のある顔、澄んだ声、礼儀正しさでないなら、何なのか知りようがない。それで充分だったのかもしれない。二度と会う理由はないのだ。彼はただの迷い犬だった。あの女が言ったように。 

【解説】

ディナージャケットの持つ意味

「眼を見ればひどく酔っぱらっているのはわかるが、それ以外の点では、客に大枚はたかせるためだけにある場所で、その期待に応えてきた、どこにでもいるディナージャケットを着た好青年のように見えた」のところ、原文では<You could tell by his eyes that he was plastered to the hairline, but otherwise he looked like any other nice young guy in a dinner jacket who had been spending too much money in a joint that exists for that purpose and for no other.>

清水訳は「眼つきで泥酔していることがわかるが、酒を飲んでいるというだけで、ほかにはとくに変わったところのないあたりまえの青年だった。金を使わせるために存在している店で金を使いすぎただけのことだった」と<in a dinner jacket>をスルーしている。後で説明するが、ディナージャケットは重要な細部なのだ。

村上訳は「泥酔していることは目を見れば明らかだが、それを別にすれば、ディナー・ジャケットに身を包んだ、当たり前に感じの良い青年の一人でしかない。人々に湯水のごとく金を使わせることを唯一の目的として作られた高級クラブに足を運び、そのとおり金を使ってきた人種だ」。旧訳が捨てて顧みなかったところを掬い取ろうという意気込みが伝わる訳だ。

さて、いよいよ田口訳である。「ディナージャケットを着たテリーの顔は若かった。が、髪はもう真っ白で、その眼を見れば、かなり酔っているのが分かった。それ以外はどこにでもいそうな、気のよさそうな若者だった。客に大金を使わせることだけが目的の店で、そういう店の目的に適(かな)う所業をこれまでに何度もしてきたことがうかがえる、そんな若者だった」

自在な訳しぶりだが一つ気になる点がある。当然テリー自身も着ているだろうが、<he looked like any other nice young guy in a dinner jacket>と、原文ではむしろ、ディナージャケットを着ているのは<any other nice young guy>の方である。つまり、ザ・ダンサーズという店は、夜会服を着ていなければ入れない、そういう店だということを言いたいためのディナージャケットだ。田口訳では、たまたまテリーがそういう服装だったというようにも読めてしまう。

<white coat>は「白のお仕着せ」

「駐車係はよくいるちょっといきがったタイプで、胸に赤い刺繡で店名を入れた白のお仕着せを着ていた」は<The attendant was the usual half-tough character in a white coat with the name of the restaurant stitched across the front of it in red>。<white coat>は「白衣、業務等において着用する主に白色または淡色の外衣」のことだが、「白衣」と訳すと紛らわしい。清水訳は「白い上衣」「白服」、村上訳は「白い上着」「白服」。「黒服」というのは聞いたことがあるが、「白服」という呼び方は普通にあるのだろうか? 田口訳の「白いコート」はちょっと首をひねる。この男は後々<white coat>と呼ばれることになるので、どう訳すかは大事なことになる。

<golfing money>とはどんな金

「ザ・ダンサーズは、散財が人格に及ぼす影響の見本のような人々が集まる店で、客に過剰な期待は抱いていなかった」は<At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.>

清水訳は「<ダンサーズ>では、金にものをいわせようとしても当てがはずれることがあるのだ」。村上訳は「金にものを言わせようとしても人品骨柄だけはいかんともしがたいことを人に教え、幻滅を与えるために、<ダンサーズ>は、この手の連中を雇い入れているのだ」。村上氏は<the sort of people>を従業員だと考えたため<that>以下を読み誤っている。

ここは片岡義男鴻巣友季子著『翻訳問答』のなかで問題にされていたところで、片岡によれば村上が「英文の構造を理解しないままに意味を取ろうとしているから」こうなるのだそうだ。因みに、片岡の訳では「ザ・ダンサーズの客はかねまわりの良さが人の性格をいかに歪めるかの見本のような人たちで、彼は店の客にはすでに充分に幻滅していた」となる。

田口訳は「遊びに大金をはたく人たちは人間的魅力にもあふれている、などという幻想をものの見事に打ち砕いてくれる人種が集まる店が、この<ダンサーズ>という店だ」。<golfing money>は「ゴルフなどの遊びに使う金」というような意味で新聞の見出しにも用いられているらしい。片岡訳と同じで、田口訳も一歩踏み込んだ訳になっている。たしかに、こうすればわかりやすくはなるだろう。だが、原文はそこまでは踏み込んでいない。

<speedster>は「2人乗りのオープンカー」

「車高の低い外国製の二人乗りオープンカーが駐車場に滑り込んできた」は<A low-swung foreign speedster with no top drifted into the parking lot>。清水訳は「トップがなく車体(ボディ)の低い外国製の高速車が駐車場にすべりこんできて」。村上訳は「車高の低い外国製のスポーツカーが、屋根を開けたまま駐車場に滑り込んできた」。田口訳は「そこへ車高の低い外国製のスポーツカーが幌をおろしたまま駐車場にすべり込んできた」。

時代的には、ポルシェ356 1500 アメリロードスターと思われるが、確かめるすべはない。ロールスロイスを陳腐と見る人間が乗る車なのだから、ライトウェイト・オープン2シーターと見てまちがいない。<speedster>は「2人乗りのオープンカー」のことだ。<with no top>なのだから、幌や屋根についてわざわざ触れず「オープンカー」でいいのではないか。

<low-income bracket>は「低所得層」

「駐車係は白髪の青年が自分に近い――低所得層であることを知った」は<The attendant had the white-haired boy right where he could reach him--in a low-income bracket>。清水訳は「駐車係は白髪の青年が自分と懐具合があまりちがわない男であることを知った」。村上訳は「駐車係はこの白髪の青年が、実は自分とさして変わらぬ境遇にあることを知った――逼迫した財政状態」。田口訳は「白髪の若い男が遠い存在ではなく、むしろ生活に困っている同類であることが駐車係にもわかったのだろう」。

三氏の訳では、駐車場係が青年が自分と同じ生活困窮者であることに気づいた、という解釈になる。まるで、同病相憐れむという感じだが、それはちがうのではないか。それまで駐車係はうんざりしながらも、相手が上客だと思って仕方なくつきあっていた。しかし、食うに困って車を売らねばならない男は、手の出せない階層ではなく<low-income bracket>(低所得層)にいることを知った。だから、それまで我慢していたことをあっさりやめて手を離したのだ。

<in the teeth>は「口に一発」ではない

「たとえ、そいつが知り合いで、好かれていたとしても、敵意を剥き出しにして突っかかってくるのが酔っ払いだ」は<Even if he knows and likes you he is always liable to haul off and poke you in the teeth>。清水訳は「よく知っている人間でも、腕力をふるって襲いかかってくるものだ」。簡略ではあるが要を得た訳だ。村上訳は「もし相手が知り合いであっても、あるいはまたこちらに好意を抱いていたとしても、そいつはわけもなくつかみかかってくるかもしれない。顎に一発叩き込まれるかもしれない」。

田口訳は「たとえ相手が知り合いでも、たとえそいつに好かれていても、いきなり殴りかかられ、口に一発食らわないともかぎらない」。村上訳と共通するのが「口に一発」としたところだ。おそらく両氏とも<in the teeth>を訳したつもりだろうが<in the teeth>は「面と向かって、おおっぴらに、公然と」という意味だ。<haul off>は「殴りかかるために後ろに腕をひく」ことで<poke>は「突く」こと。また<liable to>は、「かもしれない、〜ないともかぎらない」という意味ではなく、「人・物などが(欠点・性向として)〜しがちな、悪い傾向がある」という意味である。つまり、清水訳のままでよかったのだ。

<cow's caboose>をどう訳すか

「どこの馬の骨だか、さっぱり見当もつかない」は<Otherwise I don't know him from a cow's caboose>。清水訳は「そのほかにはなんにも知りません」と<from a cow's caboose>をスルーしている。村上訳は「それ以上のことは牛のけつ(傍点二字)ほども知らんですね」。田口訳は「それ以外はまるっきり知らない人だね」。<I don’t know him from “something”>というフレーズがあって、“something”の部分には何でもいいが馬鹿げた物が入るらしい。意味としては「彼をまったく知らない」だ。「牛の尻」を何とか生かしたくて「馬の骨」にしてみた。
「平身低頭」して礼を言うだろうか

「帰り際、彼は重ねて礼を言った。お骨折りを頂き深謝、というほどではなかったが、口先ばかりの礼でもなかった」は<When I left he thanked me some more, but not as if I had climbed a mountain for him, nor as if it was nothing at all>清水訳は「私が帰るとき、彼はまた礼を述べたが、私が彼のために大いにつくしたからというふうでもなく、言葉だけの挨拶でもなかった」。<a mountain to climb>は「大量のやるべきこと」という意味。彼の代わりに私がそれをした、ということだ。

村上訳は「帰り際に彼は重ねて礼を言ったが、私の取った労に対して平身低頭するでもなく、かといって口先だけで礼を言ってるのでもなかった」。田口訳は「辞去しかけると、彼はさらに礼を言った。平身低頭するほどでもなかったが、かといって口先だけの礼でもなかった」とほぼ村上訳を踏襲している。「平身低頭」は「ひたすら詫びる、畏れ入る」のような意味で使われる表現で、普通「礼を言う」ことには使わない。

<bit of high class>はどう訳されたか

「彼のほぼ最後の一ドルがザ・ダンサーズの支払いで消えたことも。それなのに、連れの高級で魅力的な女は、彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりしないよう、念のためしばらくつきあってやろうともしなかった」は<and that almost his last dollar had gone into paying the check at The Dancers for a bit of high class fluff that couldn't stick around long enough to make sure he didn't get tossed in the sneezer by some prowl car boys, or rolled by a tough hackie and dumped out in a vacant lot.>

ここは、松原氏の『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』でも言及されていたところで、清水訳は「最後の持ち金を<ダンサーズ>でわずかばかりのあやしげな高級酒にはたいてしまったことも口にしなかった。その高級酒というのは、警察の自動車につかまって豚箱にぶち込まれたり、もうろう(原文傍点つき)タクシーにひかれて空き地にすてておかれたりする心配がないほど永もちしない酒だった」

村上訳は「<ダンサーズ>みたいな高級な店で派手に金を使えば、自分にちっとは箔がついたような気持ちにさせられることはたしかだ。しかしそんな箔はあっという間にはげ落ちてしまう。パトカーの警官に見とがめられて留置場に放り込まれるか、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されるか、そのへんが関の山である」。問題の<bit of high class fluff>は、清水訳では「わずかばかりのあやしげな高級酒」、村上訳では「ちっとは箔がついたような気持ち」とされている。

田口訳は「さっきの高級な女のために<ダンサーズ>で払った金がほぼ最後の一ドルだったことについても。彼がパトロール警官に捕まってブタ箱に放り込まれても、あるいは荒っぽいタクシー運転手に身ぐるみ剥がされて空き地に放り出されても、あの女にはどうでもよかったのだろう」となっている。<bit of high class fluff>は「さっきの高級な女」つまり、テリーの元妻だという解釈だ。原文をよく読めば、これ以外には考えられない。<bit of fluff>は「魅力的な女、セックスの相手」を指す俗語。それに<high class>(高級な)を付け足すことでテリーの連れの女性を表したのだ。

<stick around>は、ロングマン現代英英辞典によれば<to stay in a place a little longer, waiting for something to happen>(物事が起こるのを待ちながら、ひとつの場所に少し長くとどまること)。<make sure>は「確認する」。そうすると<that>以下は「彼がパトカーの警官にブタ箱に放りこまれたり、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空き地に放り出されたりされないかを確認できるだけの時間、ひとつところにとどまることができなかった」となる。そんなことができるのは、彼と同じ車で店にやってきた女しかいないのではないか。