marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

2017-01-01から1年間の記事一覧

『大いなる眠り』註解 第十八章(1)

《オールズは立ったまま青年を見下ろしていた。青年は壁に横向きにもたれてカウチに座っていた。オールズは黙って彼を見た。オールズの青白い眉は密生した剛毛が丸くなっていて、ブラシ会社の営業員がくれる小さな野菜用のブラシみたいだった。 彼は青年に訊…

『大いなる眠り』註解 第十七章(2)

《私は彼に触れなかった。近づきもしなかった。彼は氷のように冷たく、板のように硬くなっているにちがいない。 黒い蝋燭の炎が開いたドアからのすきま風で揺らめいた。融けた蝋の黒い滴がその脇にゆっくり垂れていた。部屋の空気はひどく不快で非現実的だっ…

『スティール・キス』ジェフリー・ディーヴァー

四肢麻痺の車椅子探偵が活躍する、リンカーン・ライム・シリーズの最新作。ライムの弟子で同じく車椅子生活を送る若い女性ジュリエットも新しく仲間に加わる。視点人物がころころと目まぐるしく交替するが、その中には「僕」と名のる殺人者も登場する。犯人…

『嘘の木』フランシス・ハーディング

『種の起源』の発表から数年後のヴィクトリア朝英国が舞台。人のつく嘘を養分にして育つ「嘘の木」という植物が実際に登場するので、やはりファンタジーということになるのだろうが、なぜかミステリ業界で評判になっている。今年の第一位という評さえあるく…

『大いなる眠り』註解 第十七章(1)

《ラヴァーン・テラスのユーカリの木の高い枝の間に霧の暈を被った半月が輝いていた。丘の下の家で鳴らすラジオの音が大きく聞こえた。青年はガイガーの家の玄関にある箱形の生垣の方に車を回してエンジンを切り、両手をハンドルの上に置いたまま坐ってまっ…

『スパイたちの遺産』ジョン・ル・カレ

『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の二作を読んでから読むことを勧める書評があった。訳者あとがきにも、同様のことが書かれているが、それはネタバレを恐れての注意。二作品を読んでいなくてもこれ一作で、十…

『大いなる眠り』註解 第十六章(4)

《私はひと飛びに部屋を横切り、ドアが開くように死体を転がし、身をよじって外に出た。ほぼ真向かいに開いたドアから一人の女がじっと見ていた。彼女の顔は恐怖に覆われ、鉤爪のようになった手が廊下の向こうを指さした。 私は廊下を走り抜けた。タイルの階…

『ふたつの人生』ウィリアム・トレヴァー

アイルランドを舞台にした「ツルゲーネフを読む声」と、イタリアを舞台にした「ウンブリアのわたしの家」という中篇小説が二篇収められている。どちらも主人公が女性。『ふたつの人生』という書名は、この二人の人生を意味している。作者のウィリアム・トレ…

『大いなる眠り』註解 第十六章(3)

《ブロンドのアグネスは低い声で獣のようなうなり声をあげ、ダヴェンポートの端にあるクッションに頭をうずめた。私は突っ立ったまま、彼女のすらりと長い腿に見とれていた。 ブロディは唇を舐めながらゆっくり話した。「座ってくれ。もう少し話すことがある…

『光の犬』松家仁之

北海道の東部、サロマ湖や網走で知られる道東の小さな町、枝留(えだる)が舞台。そこに暮らす添島家三代の年代記である。その中には共に暮らす北海道犬も含まれる。ただ、犬の方は血筋は一つではない。一族が北海道に渡ったのは関東大震災に見舞われた夫婦…

『大いなる眠り』註解 第十六章(2)

《口裏を合わせておかなきゃいけないな?」私は言った。「たとえば、カーメンはここにいなかった。それがいちばん大事だ。彼女はここにいなかった。君が見たのは幻影だ」 「何と!」ブロディは鼻で笑った。「あんたがそうしろというのなら――」彼は片手の掌を…

『密告者』ファン・ガブリエル・バスケス

三年前から音信のなかった父から突然電話がかかってきた。心臓の具合が悪く、手術をするという。急いで病院に駆けつけた息子に父は詫びた。事の起こりは、三年前に父のしたことだ。ガブリエルと同じ名前の父は最高裁で雄弁術を講義するコロンビアの名士であ…

『大いなる眠り』註解 第十六章(1)

《私は折り返されたフレンチウィンドウのところへ行き、上部の小さく割れたガラスを調べた。カーメンの銃から出た銃弾は殴ったみたいにガラスを砕いていた。穴を作ってはいなかった。漆喰に、目を凝らせばわかるくらい小さな穴があった。私はカーテンで割れ…

『大いなる眠り』註解 第十五章(2)

《私はブロディのところまで行き、彼の腹に自動拳銃を突きつけ、彼のサイド・ポケットの中のコルトに手を伸ばした。私は今では目にした銃をすべて手にしていた。それらをポケットの中に詰め込んで、片手を彼の方に出した。 「もらおうか」 彼はうなずき、唇…

『アーダ』上・下 ウラジーミル・ナボコフ

<上・下巻併せて>舐めるようにしゃぶりつくすように読んだ。それでも、作者がこれでもか、というくらい用意したお楽しみや仕掛けの万分の一も見つけてはいないだろう。それでは楽しめないではないか、と思うかもしれない。ちがうのだ。一度読めばそれで二…

『大いなる眠り』註解 第十五章(1)

《彼はそれが気に入らなかった。下唇は歯の下に引っ込み、眉根は下がり眉山が尖った。顔全体に警戒感が走り、狡く卑しくなった。 ブザーは歌いやまなかった。私もそれは気に入らなかった。もしかして訪問者がエディ・マーズと彼の部下だったら、私はここにい…

『転生の魔』笠井潔

おや、と思って書棚から小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を取り出して、奥付を調べてみた。もちろん最新版の方ではない。桃源社版だ。昭和四十六年四月刊ということは事件が起きた前年だ。同シリーズの古本は函入だったが、手に入れたのはカバー装だった。作…

『大いなる眠り』註解 第十四章(4)

《じんわりした苦しみと激しい怒りを封じ込めた無理無体な混ぜ物の中に彼女は落ち込んだ。銀色の爪が膝を掻きむしった。 「この稼業はなまくら者には向いていない」私はブロディに親しさを込めて話しかけた。「君のようなやり手を探してるんだ、ジョー。君は…

『東の果て、夜へ』ビル・ビバリー

原題は<DODGERS>。言うまでもなく有名なメジャー・リーグのチーム名で、旅に出る少年たちが来ているユニフォーム・シャツに由来する。ドジャースがブルックリンに本拠地を置いていた時代、ブルックリンの住人は行き交う路面電車をかわしながら街を往来しな…

『湖の男』アーナルデュル・インドリダソン

北欧ミステリらしいと言っていいのかどうか、ひたすら暗い。そして重い。湖の水位が異常に下がっているので、水位をのぞきに行った研究員が、砂に埋もれた頭蓋骨を発見する。こめかみの上に穴が開いている。もしかしたら殺されたのではないかと考えた発見者…

『忘れられた花園』上・下 ケイト・モートン

<上下巻併せての評です>「ファミリー・ヒストリー」というTV番組がある。著名人をスタジオに招き、スタッフが調査してきた何代かにわたる一家の歴史を語ってみせるのが売りだ。たしかに、父や母ならまだしも、祖父母の代以上になると、よほどの名家でもな…

『大いなる眠り』註解 第十四章(3)

《カーテンが横に引かれ、緑色の目をして太腿を揺らしたアッシュブロンドが部屋に仲間入りした。ガイガーの店にいた女だ。彼女は切り刻みたいほど憎んでいるとでもいうように私を見た。鼻孔は縮み上がり、暗さを増した眼は二つの陰になっていた。とても不幸…

『闇夜にさまよう女』セルジュ・ブリュソロ

冒頭、銃弾が頭を貫通した女が痛みを感じずに車を走らせる場面が出てくる。前頭葉前部を撃ち抜かれていても、そういうことが可能だという。車を降りてハリウッドの看板まで歩いて行った女はそこで倒れ、翌朝日本人観光客に発見されて病院に送られる。半年後…

『パリに終わりはこない』エンリーケ・ビラ=マタス

エンリーケ・ビラ=マタスは邦訳された全作を読んでいるが、今のところではこれがベストだと思う。前二作も意表を突く話題に驚かされつつ楽しく読めたが、知的な部分が前に立ちすぎ、小説としての魅力が今一つ出ていない憾みがあった。本作も一応、著者本人…

『大いなる眠り』註解 第十四章(2)

《数は多くないが趣味のいい家具が置かれた快適な部屋だった。壁の奥に開けられた石敷きのポーチに通じるフレンチ・ウィンドウからは山麓の夕暮れが見渡せた。西壁の窓の近くに閉じられたドアが、玄関ドアの近くには同じ壁にもう一つドアがあった。最後の一…

『大いなる眠り』註解 第十四章(1)

《ランドール・プレイスにあるアパートメント・ハウスの玄関ロビー近くに車を停めたのが五時十分前だった。幾つかの窓には明かりがともり、夕闇にラジオが哀れっぽく鳴っていた。自動エレベーターに乗り、四階まで上がり、グリーンのカーペットにアイヴォリ…

『湖畔荘』上・下 ケイト・モートン

<上下巻併せての評です>とにかく再読すること。一度目は語り手の語るまま素直に読めばいい。二度目は、事件の真相を知った上で、語り手がいかにフェアに叙述していたかに驚嘆しつつ読む。ある意味で詐術的な書き方ではあるのだが、両義性を帯びた書き方で…

『緑のヴェール』ジェフリー・フォード

堂々たるファンタジーである。第一部『白い果実』における理想形態都市(ウェルビルトシティ)、第二部『記憶の書』におけるドラクトン・ビロウの脳内空間、と閉じられた世界をさまようことを義務づけられていた主人公クレイがようやくにして究極のファンタ…

『白い果実』ジェフリー・フォード

バベルの塔をモチーフにした、カバー装画がいい。街ひとつをそっくり呑み込んだ建築物という絵柄が、この三部作に共通するであろう主題を象徴している。ファンタジーなのだが、ディストピア小説めいた趣きもあり、寓意を多用した思弁的小説の装いも凝らして…

『大いなる眠り』註解 第十三章(3)

《「厄日かもしれないな。知ってるんだよ、あんたのこと、ミスター・マーズ。ラス・オリンダスのサイプレス・クラブ。華麗なる人々のための華麗なる賭博場。地方警察はあんたの意のままだし、ロサンジェルスのその筋にもたんまりと握らせている。言い変えれ…