marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“perfect score”は「満点」のこと

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【訳文】

朝、髭を剃り直し、服を着て、いつものようにダウンタウンに車を走らせ、いつもの場所に車を停めた。私が時の人であることを駐車場係が知っていたとしたら、素振りさえ見せないプロの仕事だった。私は二階に上がり、廊下を通ってドアの鍵を開けた。色の浅黒い、世なれた風の男がこちらを見ていた。

「マーロウか?」

「だとしたら?」

「ここにいろ」と彼は言った。「あんたに会いたがってる人がいる」彼は壁から背中を引き剥がし、気だるそうに歩き去った。

オフィスに入り、郵便物を拾い上げた。机の上にはもっとあった。夜の掃除婦が置いたのだ。窓を開けてから封を切り、要らないものを捨てた。ほとんど残らなかった。もうひとつのドアのブザーの電源を入れ、パイプに煙草を詰めて火をつけ、ただそこに座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った。

テリー・レノックスについて少し距離を置いて考えてみた。彼はすでに遠のいていた。白髪と傷痕のある顔、あえかな魅力と彼なりの風変わりな銘柄のプライド。批判したり分析したりはしなかった。負傷した経緯も、シルヴィアのような女性と結婚した経緯も訊かなかったのと同じように。たまたま船旅で知り合ってつきあうことになった道連れのようなもので、相手については何も知らない。桟橋で別れ際に、また連絡を取り合おう、と言うのだが、そうしないことはどちらもよくわかっている。おそらくもう二度と会うこともないだろう。もし会ったとしても、そのときはまったく別人で、列車のラウンジに乗り合わせたありふれたロータリ―クラブの一員になっていることだろう。仕事はどうだ? ああ、悪くないよ。元気そうだ。あんたもね。太りすぎた。みんなそうだろ? フランコニア号(だったかな)の旅を覚えてる? ああ、いい旅だったね」

なんと素晴らしい旅だったことか。退屈でたまらなかった。ほかに相手がいなかったから話したまでのことだ。テリー・レノックスと私もそうだったのかもしれない。いや、ちょっとちがうか。私の中にはまだ彼の一部が残っている。私は彼に時間と金を投資し、臭い飯も三日食った。言わずもがなだが顎と首を殴られもした。何か飲み込むたびに毎回痛む。彼が死んだ今となっては、五百ドルさえ返すことができない。それが腹立たしい。いつだって人を苛立たせるのは些細なことだ。

ドアのブザーと電話が同時に鳴った。先に電話に出た。ブザーが鳴るのは、私の小さな待合室に誰かが入ってきたというだけのことだからだ。

「ミスタ・マーロウ? ミスタ・エンディコットから、お電話です。少々お待ちください」

彼が電話に出た。「スーウェル・エンディコットだ」と、まるで秘書が彼の名前をすでに私に伝えていることを知らないかのように言った。

「おはようございます。ミスタ・エンディコット」

「釈放されたそうで何よりだ。抵抗しなかったのは、賢明な考えだったと思うよ」

「考えなんてものじゃありません。強情なだけです」

「これ以上きみにお呼びがかかることはないだろうが、もしそういうことになって助けが必要なら、いつでも連絡してくれ」

「なぜそんなことになるんです?  あの男は死んだ。彼が私に近づいたことを証明するのはかなりの手間だ。そして私が彼の有罪を知っていたことを証明しなければならない。さらに、彼が罪を犯し、逃亡中であることを証明しなければならないんですよ」

彼は咳払いをした。「たぶん」彼は慎重に言った。「彼が完全な自白を残したことを聞いていないんだろうね?」

「聞きましたよ。ミスタ・エンディコット。私は弁護士と話してるんですよね。差し出がましいようですが、自供については、内容が真実であることと告白書そのものが真正なものであることを証明する必要があるんじゃなかったでしょうか?」

「すまないが、法律論議をしてる暇がない」と彼はきっぱり言った。「ちょっと憂鬱な任務を帯びてメキシコに飛ぶところだ。それがどういうものかはわかってるだろう?」

「ああ。あなたが誰の依頼で行くのかによります。あなたは教えてくれなかった。覚えてるでしょう」

「よく覚えてる。では、さようなら、マーロウ。私の申し出はまだ有効だ。少し忠告させてくれ。自分は大丈夫だと過信しないことだ。それでなくても怪我しやすい稼業なんだから」

彼は電話を切った。私は受話器を慎重に架台に戻した。しばらく受話器に手を置き、難しい顔をしていた。そして渋面を拭い去り、待合室に通じるドアを開けようと立ち上がった。

男は窓際に座って雑誌をパラパラめくっていた。ほとんど目に見えない淡いブルーのチェックが入った青みがかったグレーのスーツを着ている。組んだ足には鳩目が二つある紐つきの黒いモカシンを履いていた。散歩用の靴のように快適で、一ブロック歩くたびに靴下が擦り切れることもない。白いポケットチーフはスクエア・フォールドに畳まれ、後ろにサングラスの端が覗いていた。たっぷりとした黒髪が波打ち、よく日に灼けていた。鳥のように明るい眼を上げ、線のように細い口髭の下で微笑んだ。タイは暗い葡萄茶色で、ポインテッドエンドに結ばれ、尖った先端が眩いばかりの白いシャツに映えていた。

彼は雑誌を脇に投げ捨てた。「ボロ雑巾みたいな屑だ」と彼は言った。「コステロの記事を読んでいたんだ。ああ、彼らはコステロのことなら何でもご存じのようだ。おれがトロイのヘレンのことを何でも知ってるようにな」

「何の御用かな?」

彼はゆっくりと私を品定めした。
「大きな赤いスクーターに乗ったターザンってところだな」と彼は言った。

「なんだって?」

「おまえのことさ、マーロウ。大きな赤いスクーターに乗ったターザン。手荒い扱いを受けたか?」

「あちこちでね。それがあんたとどんな関係がある?」

「オルブライトからグレゴリアスに話が行った後か?」

「いや、後じゃない」

彼は軽くうなずいた。「あのへぼに一発かますようにオルブライトに頼むなんざ、厚かましい野郎だ」

「訊いたはずだ、それがあんたとどんな関係がある。ちなみに、私はオルブライト本部長を知らないし、何も頼んでいない。なぜ彼が私のために何かするんだ?」

彼は不機嫌そうに私を見つめた。豹のように優雅に、ゆっくりと立ち上がった。部屋を横切り、私のオフィスを覗き込んだ。ついて来いと顎で合図して中に入った。どこにいようと、自分がいるところは自分が所有者なのだ。私は後に続いてドアを閉めた。彼は机の脇に立ち、面白そうに辺りを見回した。

「おまえは三流だな」と彼は言った。「けちな小者だ」

私は机の背後に回り、待った。

「ひと月いくら稼ぐんだ? マーロウ?」

放っておいて、パイプに火をつけた。

「よくって七百五十ってところだろう? 」と彼は言った。

マッチの燃え殻を灰皿に落とし、煙草の煙をはき出した。

「おまえはけちなやつだ、マーロウ。小遣い稼ぎの信用詐欺師だ。あんまりちっぽけなんで虫眼鏡でも使わなきゃ見えやしない」

私は何も言わなかった。

「おまえは陳腐な感情で動く。いかにも陳腐だ。誰かと気が合い、ひとしきり飲んで騒いで、懐が乏しいと見ればそっと金を滑り込ませ、そして掌をかえす。フランク・メリウェルを読んでる小学生みたいなもんだ。ガッツも頭もコネも機転もないくせに、おためごかしをほのめかしてお涙頂戴をねらう。大きな赤いスクーターに乗ったターザン」。彼はうんざりしたように小さな笑みを浮かべた。「おれに言わせりゃ、おまえは五セント玉(ニッケル)ほどの値打ちもない」

彼は机の上に身を乗り出し、私の顔を手の甲ではたいた。さりげなく、人を小ばかにするように、傷つけるつもりはなく、顔に小さな笑みを浮かべたまま。私がそれに動じないと、彼はゆっくりと腰を下ろし、机に片肘をつき、日に灼けた手で日に灼けた顎を包み込んだ。鳥のように明るい眼が私を見つめた。そこには明るさ以外には何もなかった。

「おれが誰だか知ってるか、安物(チーピー)?」

「あんたの名前はメネンデス。仲間はメンディと呼ぶ。ストリップ界隈を仕切ってる」

「そうか? どうやってここまでのし上がったか知ってるか?」

「知るわけがない。たぶんメキシコ人売春宿のポン引きから始めたんじゃないか」

彼はポケットから金のシガレット・ケースを取り出し、金のライターで茶色の煙草に火をつけた。刺すような匂いの煙を吐いてうなずいた。そして金のシガレット・ケースを机の上に置き、指先で撫でた。

「おれは大物なんだよ、マーロウ。大金を稼ぐ。賄賂のために大金を稼がにゃならず、そのためにはまた別の連中への賄賂のために大金を稼がにゃならん。大金を稼ぐために大金を稼いでるってわけだ。で、ベル・エアに九万ドルの家を手に入れたんだが、改装にそれ以上の金をつぎ込んでいる。プラチナブロンドの美人の女房がいて、二人の子どもは東部の私立学校に通わせている。女房の持ってる宝石は十万五千ドル、毛皮と洋服は七万五千ドルする。執事が一人、メイドが二人、コックが一人、運転手が一人。おれの後ろにくっついてるやつは勘定に入れずにだ。おれはどこへ行ってもちやほやされる。最高の食事、最高の飲み物、最高のホテルのスイートルーム。フロリダに別荘を持ち、クルーが五人いるヨットを持っている。車はベントレー一台、キャデラック二台、クライスラーステーションワゴン一台、息子にはMG一台。二、三年後には娘のためにもう一台。おまえはどうだ? 」

「たいしたことはない」と私は言った。「今年、一軒家を手に入れた。丸ごと独り占めだ」

「女っ気はなしか?」

「私だけだ。それに加えて、ここに見えてるものと、銀行に千二百ドル、債券が数千ドルある。それで質問の答えになってるか?」

「ひとつの仕事で稼いだ最高額は?」

「八百五十」

「なんてこった。どこまで安上がりにできてるんだ? 」

「そろそろいいだろう。望みは何だ」

彼は煙草を半分吸い終わると、間を置かずに次の煙草に火をつけた。椅子に凭れかかり、私に向かって唇をゆがめた。

「おれたち三人はたこつぼの中で食事中だった」と彼は言った。「あたりは一面の雪で、クソ寒かった。罐詰から直に食うんだ。加熱もせずに。砲撃は知れていたが、迫撃砲は半端なかった。おれたちはあまりの寒さに青く(ブルーに)なってた。へこんでたって意味だ。ランディ・スターとおれ、それに、あのテリー・レノックスだ。迫撃砲の砲弾がおれたちの真ん中にどすんと落っこちたんだが、これがなぜか爆発しない。ドイツ兵ってのはやたらと細工しやがる。ひねくれたユーモアのセンスの持ち主でね。不発弾だと思ってたら、三秒後には不発弾じゃなくなるなんてこともある。テリーはそれをひっつかんで、ランディとおれが動き出す前にたこつぼから出て行った。ていうか、凄い早業なんだよ。バスケの名プレイヤー並みだ。やつは地面に伏せて、そいつを遠くへ放り投げた。砲弾は空中で破裂した。大半の破片は頭上を越えていったが、塊のひとつが顔の横を直撃した。その直後、ドイツ軍が一斉攻撃を仕掛けてきて、気がついたらおれとランディはもうそこにいなかった」

メネンデスはそこで話しを止め、ぎらぎら輝く黒い瞳を私に据えた。

「教えてくれてありがとう」と私は言った。

「ひとを揶揄うもんじゃない、マーロウ。まあ、いい。ランディとおれはじっくり話し合って、テリー・レノックスに起きたことは、どんな男の頭も狂わせるのに充分だと判断したんだ。長い間、彼は死んだと思ってた。だが、死んじゃいなかった。ドイツ軍に捕まってたんだ。彼らは一年半というもの、彼を徹底的に搾り上げた。いい仕事をしたが、彼を傷つけすぎた。そこまで調べるのに金がかかった。彼を見つけるにはもっとかかった。だが、戦後の闇市でしこたま儲けたおれたちには余裕があった。おれたちの命を救ってテリーが得たのは、新しい半分の顔と白髪、そして重度の神経症だけだ。東部に戻ると、彼は酒に溺れ、あちこちでサツの厄介になり、いわゆる自制心てやつをなくしちまう。何かを考えているようだが、それが何なのか皆目わからない。気がついたときには、例の金持ちの令嬢と結婚して意気軒高だった。ところが彼は彼女と別れ、またどん底に落ち、同じ女と再婚したと思ったら、女が死んだ。ランディとおれは彼のために何もさせてもらえない、ヴェガスでのちょっとした仕事をのぞけばな。本当に窮地に陥ったときには、おれたちでなく、おまえみたいな安っぽい男に助けを求めるんだ。おまわりに振り回されるような男に。で、おれたちに別れも告げず、金を払うチャンスも与えず、あいつは死んだ。おれならあいつを国外に逃がすこともできた、いかさま師がカードを切るより手早く。だが、あいつはおまえに泣きついた。それがやりきれないんだ。おまわりにこづきまわされるような、ケチな野郎にだ」

「おまわりは誰だってこづきまわせるんだよ。私にどうしてほしいんだ?」

「手を引け」メネンデスはきっぱりと言った。

「何から手を引くんだ?」

「金儲けか売名か知らないが、レノックスの件でおまえがやろうとしていたことさ。もう終わったんだ。お終いにしよう。テリーは死んだ。これ以上あいつを患わせたくない。あいつはもうたっぷり苦しんだ」

「おセンチなごろつきか」と私は言った。「たまらんね」

「口のきき方に気をつけるんだ、安物。口は災いの元だ。メンディ・メネンデスは議論はしない。命じるだけだ。金儲けなら他の方法を見つけろ。わかったか?」

彼は立ち上がった。インタヴューは終わりだ。彼は手袋を手に取った。雪のように白いピッグスキンだ。一度も使われたようには見えなかった。ミスタ・メネンデスは服装に凝るタイプだ。しかし、中身は見かけよりずっと荒っぽい。

「名を売るつもりなどない」と私は言った。「金をやろうと申し出る者もいない。いったい誰が何のためにそんなことをする?」

「ふざけるな、マーロウ。冷凍庫に三日もいたのは、おまえが心優しいからじゃない。金で雇われたんだ。誰とは言わんが心当たりがある。その連中は腐るほど金をもってる。レノックスのケースは解決済みだ。たとえ...」彼は立ち止まり、机の端で手袋をはじいた。

「たとえ、テリーが彼女を殺していなくても」と私は言った。

彼の驚きは、まるで即席の結婚式に間に合わせた指輪の金みたいに薄っぺらかった。 「おれもそうであってほしいよ、安物。 しかし、それでは収まりがつかない。だがな、もしそれで収まりがつき――そしてテリーがそうしておけというのなら――そのままでいいんだ」

私は何も言わなかった。しばらくして、彼はゆっくりと笑った。「大きな赤いスクーターに乗ったターザン」彼は言葉を引き延ばすようにゆっくり言った。「タフガイ、押しかけてきたおれにいいようにあしらわれている。はした金で雇われ、誰にでもこづきまわされる男。金もなけりゃ家族もいない、先行きの見込みも何もないときた。じゃあ、またな、安物」

私はじっと座って奥歯を噛みしめ、机の隅にある彼の金のシガレット・ケースの輝きを見つめていた。 急に年老いて疲れたように感じた。 ゆっくりと立ち上がり、ケースに手を伸ばした。

「これを忘れてる」と私は言って、机のまわりをまわった。

「そんなもの半ダースはある」彼はせせら笑った。

手が届く距離まで来ると、私はそれを差し出した。彼の手は何気なくそれに伸びた。「こいつも半ダースどうだ?」私はそう尋ね、彼の腹の真ん中を思い切り殴った。

彼はうめき声を上げながら体を二つに折った。シガレット・ケースが床に落ちた。彼は壁に凭れ、両手を前後に痙攣させた。肺に空気を吸い込もうとして喘いだ。彼は汗をかいていた。非常にゆっくりと、そして懸命な努力の末、彼は背筋を伸ばし、私たちは再び目と目を合わせた。私は手を伸ばし、彼の顎の骨に沿って指を走らせた。彼はじっと耐えていた。そしてようやく、彼は褐色の顔に微笑みを浮かべた。

「おまえのことを見損なってたよ」と彼が言った。

「次は銃を持ってくるんだな。さもなきゃ、私を安物呼ばわりするな」

「おれには銃を持つ男がついている」

「次はそいつを連れてこい。きっと入り用になる」

「怒らせるのに手のかかるやつだな、マーロウ」

私は金のシガレット・ケースを足で引き寄せ、屈んで拾い上げて渡した。彼はそれを受け取り、ポケットに入れた。

「どうにも腑に落ちない」と私は言った。「わざわざここまで足を運んで私をからかって、それがあんたにとって何の得になる。そのうちにうんざりしてきた。タフガイってのはいつもうんざりさせる。エースばかり並べた手札でゲームしてるようなものだ。何もかも揃ってるようでいて、その実何も持っちゃいない。ただ座って自分の手札を眺めて悦に入ってるだけだ。テリーがあんたに助けを求めないのも当然だ。娼婦に金を借りるようなものだ」

彼は二本の指でそっと腹を押さえた。「つまらんことを言ったな、安物。よせばいいのに軽口が過ぎる」

彼はドアの方へ歩いて行き、ドアを開けた。 外では、ボディーガードが向かいの壁から身を剥がしてこちらを向いた。 メネンデスは顎をしゃくった。 ボディーガードがオフィスに入ってきて、そこに立って無表情に私を見ていた。

「よく見ておけ、チック」とメネンデスは言った。「念のため、面(つら)を覚えておくことだ。そのうちおまえはこいつに用があるかも知れない」

「もう覚えました、チーフ」浅黒く世なれた風の口数の少ない男は、いかにも口数の少ない男が言いそうな口ぶりで言った。「手間はとらせません」

「ボディは打たせるな」とメネンデスは薄笑いを浮かべながら言った。「こいつの右フックは洒落にならない」

ボディガードは私を鼻であしらった。「そこまで近づけませんよ」

「じゃ、またな、安物」とメネンデスは言って出て行った。

「また近いうちに」とボディガードは他人行儀に言った。「名前はチック・アゴティーノ。あんたとはお近づきになれそうだ」

「汚れた新聞紙みたいに」と私は言った。「きみの顔を踏まないよう、思い出させてくれ」

彼の顎の筋肉がもり上がった。それから急に向きを変えるとボスの後を追って出て行った。

ドアは空気圧でゆっくりと閉まる。耳をすましたが、廊下を歩く足音は聞こえなかった。彼らは猫のように歩く。念のため、一分後にもう一度ドアを開けて外を見た。しかし、廊下には誰もいなかった。

私は机に戻り、座って少し時間を過ごした。なぜメネンデスのような、それなりに名の知れた地元のならず者が、私のオフィスに直接来て、おとなしくしてるよう警告する値打ちがあると思うのか。それも言い方こそ違え、スーウェル・エンディコットから同じような警告を受けた数分後に。

いくら考えても答えにたどり着けなかったので、どうせならもう一押しすることにした。 受話器を取り上げ、ラスベガスの<テラピン・クラブ>に、フィリップ・マーロウという者だが、ミスタ・ランディ・スターに直接話したい、と電話した。 無駄だった。 ミスタ・スターは出張しております。ほかの誰かにお繋ぎいたしますか?  やめておいた。どうしても スターと話したいわけではなかったし、ただの思いつきだ。 私を殴るには彼は遠くにいすぎた。

それから三日間、何も起こらなかった。誰も私を殴ったり、銃で撃ったり、おとなしくしてろ、と電話で警告してきたりしなかった。誰も私を雇わなかった。家出少女、浮気した妻、失くした真珠のネックレス、行方不明の遺書を探すために。私はただそこに座って壁を見ていた。レノックス事件は、殆ど起きたときと同じように突然世間から消えた。簡単な審問は開かれたが、私は召喚されなかった。そもそも異例な時間に開かれ、事前の予告も陪審もなかった。検視官が下した評決によると、シルヴィア・ポッター・ウェスターハイム・ディ・ジョルジョ・レノックスの死は、夫のテレンス・ウィリアム・レノックスによる殺人目的により引き起こされたものだが、彼は既に死亡しているため検死官の管轄外である、というものだった。おそらく記録に残すために自白調書が読まれ、検視官を納得させるに足る検証がなされたのだろう。

遺体は埋葬のために家族に渡され、飛行機で北に送られ、一家の地下納骨所に埋葬された。報道陣は招かれなかった。関係者の誰もインタビューに応じなかった。とりわけハーラン・ポッター氏がインタビューに応じることはなかった。彼に会うのはダライ・ラマと同じくらい難しい。一億ドルもの資産家たちは、使用人、ボディーガード、秘書、弁護士、飼い慣らされた重役たちによる遮蔽幕に囲まれ、特別な生活を送っている。おそらく、彼らも食べ、眠り、髪を切り、服を着るのだろう。が、確かなことはわからない。彼らについて見聞きすることはすべて加工処理されている。使い勝手のいい人となり、消毒済みの注射針のように単純で清潔、裏表のない人格を創り上げ、維持するために高級で雇われている広報係の一団によって。真実である必要はない。ただ、周知の事実と一致していればいいのであって、周知の事実など指折り数えられる程でしかない。

三日目の午後遅くに電話が鳴り、私はハワード・スペンサーと名乗る男と話していた。彼はニューヨークの出版社の代表で、カリフォルニアに短期出張中、ある問題を抱えていて相談したいので、翌朝十一時にリッツ・ベヴァリー・ホテルのバーで会えないかと言ってきた。

私はどんな問題なのか訊いた。

「ちょっと込み入った問題で」と彼は言った。「かといって、人道に悖ることではない。話を聞いてもらって断られたとしても、応分の料金を支払いますよ、当然」と彼は言った。

「それはどうも、ミスタ・スペンサー、その必要はありません。知り合いの推薦でしょうか?」

「きみのことを 知っている誰かだ。最近起こった事件も含めてね、ミスタ・マーロウ。私自身、それで興味を惹かれたと言っていい。私の用件はあの悲劇的な事件とは何の関係もない。つまり、その、どうかな、 酒でも飲みながら話せないか、電話じゃなく」

「豚箱に入っていたような男と一緒のところを見られても構わないのかな?」

彼は笑った。 彼の笑い方も声もどちらも心地よかった。 彼はかつてのニューヨーカーのように話した。誰もがブルックリン訛りを身につけるようになる以前のそれだ。

「言わせてもらえれば、ミスタ・マーロウ、そこがきみの取り柄なんだ。いや、補足しておこう、君がいうように、きみが豚箱の中にいた、という事実ではなく、何というか、圧力に屈せず沈黙を貫き通した、というところがだ」

彼は重厚長大な小説のようにコンマを多用して話す男だった。ともかく電話ではそうだ。

「わかった、スペンサー。明朝、伺うよ」

彼は私に礼を言って電話を切った。誰が私を推薦してくれたのだろう。スーウェル・エンディコットかもしれないと思い、電話して確かめた。しかし、彼は一週間ずっと街を離れていたし、今もそうだ。そんなことはどうでもよかった。こんな稼業でも、満足してくれる顧客が時々いるものだ。 仕事もほしかった。食うためには金が要る。そう思っていた。その夜、家に帰ってマディソン大統領の肖像画が同封された手紙を見つけるまでは。

【解説】

ロスアンジェルスの歓楽街、サンセット・ストリップを仕切るギャング、メンディ・メネンデスの派手な登場である。一部の隙もない洒落者だが、過ぎたるは及ばざるがごとしを地で行く、そのキメ方が痛い。チャンドラーは服装の選び方を子細に描くことで、読者の頭の中にその人物像を浮かび上がらせる。ただ、当時のファッションに詳しくないとよくわからないこともある。

子分がボスを呼びに行く間、オフィスで待つマーロウの様子を描写した一文。

I switched on the buzzer to the other door and filled a pipe and lit it and then just sat there waiting for somebody to scream for help.(もうひとつのドアのブザーの電源を入れ、パイプに煙草を詰めて火をつけ、ただそこに座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った)

清水訳は「もう一方のドアのブザーのスイッチを入れて、パイプをつめ、火をつけて、椅子に坐りこみ、誰かが助けてくれと叫ぶのを待った」

村上訳は「ブザーを押してもう一つのドアを開錠し、パイプに煙草を詰めて火をつけた。そして腰を下ろし、誰かが悲鳴を上げて助けを呼ぶのを静かに待った」

田口訳は「ブザーを押してもう一つのドアの鍵も開けると、パイプに煙草を詰めて火をつけ、誰かが叫んで助けを求めにくるのをただ坐って待った」

“I switched on the buzzer to the other door”を「ブザーを押してもう一つのドアを開錠し」としたのは村上氏の誤訳だろう。それに倣った田口訳も同じだ。もとの清水訳が正しい。ただ、清水訳も“scream”を「叫ぶ」と取っている。しかし、“scream”には「(鋭い音が)鳴る」という意味がある。前後の文脈から推測すると、マーロウは、さっき下りていった客が再びやってきてブザーを鳴らすのを待っている、と考えた方が自然だ。

市川訳は「顧客用ドアのブザーの電源をいれ、パイプにタバコを詰めると火をつけ、机の奥の椅子に座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った」だ。原文に“sat there”としか書かれていないのに「机の奥の椅子に」と具体的な描写を差し挿まずにいられないのがこの人らしい。

そういうところが功を奏する場面もないではないが、往々にして馬脚を現すことがある。テリー・レノックスとの出会いを船旅に喩える場面がある。そこでの仮想の対話。

Remember that trip in the Franconia (or whatever it was)?

清水訳は「〈フランコニア〉のときのことを覚えておいでかな。(いや、〈フランコニア〉ではなかったかな)」

村上訳は「フランコニア(だかなんだか、とにかく汽船の名前だ)での旅を覚えているかい?」

田口訳は「フランコニア号(なんでもいい)の船旅は愉しかったね」

三人とも「フランコニア」が船の名前だとしているところを、市川訳は「東ヨーロッパ(どこでもいいのだが)への旅を覚えてます?」と“the Franconia”を「フランケン地方」のことだと強引に変更している。「フランコニア」は二十世紀初頭に大西洋を航行していた客船の名前。それまで船旅の話をしていたのだから。当然、文脈から推し測って然るべきところである。

難を言えばきりがないのだが、次のパラグラフでも同じ誤りを繰り返している。

The hell it was a swell trip. You were bored stiff.

市川訳ではこうなっている。「あなたは素晴らしい旅なんてどうでもよかった。列車で退屈していて体もこわばっていた」。市川氏は、このマーロウが考え出した仮想の挿話の語り手が列車のラウンジ席にいるものと解釈している。おそらく“stiff”にひっかかったせいだろう。形容詞の場合なら「硬い」の意だが、“be bore stiff”と副詞的に使われる場合、「ひどく退屈している、全くうんざりだ」という意味になる。彼は狭い車内ではなく船旅の最中で、体の自由はきく。ただ、まともな話し相手がいないことにうんざりしていたのだ。それが全く読めていない。

メネンデスがマーロウを指して言った言葉が“Tarzan on a big red scooter”。メネンデスはこれだけを繰り返している。他に何も説明をくわえてはいない。ところが、二度目の“Tarzan on a big red scooter”が、市川訳では「象の代わりにド派手なスクーターに、両膝揃えで乗ってるターザン気取りの玉無し野郎って言ってるんだ」になっている。例によって訳者による勝手な書き加えである。これまでの訳者は、原文を尊重して「でかい真っ赤なスクーターに乗ったターザン(田口訳)」としか書いていない。勝手な解釈を付け加えることは誰もしていない。それが訳者としての態度だろう。ここまでの逸脱は許されるべきではない。これはもう翻訳とは言えない。

枚挙に暇がないのでいい加減にしてほしいところだが、次の箇所も放っておくことはできない。メネンデスがマーロウのオフィスに入ってすぐ言った科白だ。

"You're small time," he said. "Very small time."

“small time”は「取るに足らない、重要ではない、三流の」という意味。ここが市川訳では次のようになるから不思議だ。

「雑魚だ」と言った。「チープな奴だ。チーピーって呼んでやる」

「チーピー」というのは、後に出てくる、メネンデスがマーロウを馬鹿にして言う呼び名だ。原文ではここには出てこない。他の旧訳でも同じだ。こうまで勝手に改変を繰り返されると真面目に付き合っていられなくなる。勝手にしてくれ、と放り出したくなる。まあ、誰に頼まれたわけでもない。こちらが勝手にやっているだけの事なので、勝手にするまでのことなのだが。

メネンデスがマーロウのことを“Tarzan on a big red scooter”と言った訳は次のパラグラフで分かる。メネンデスはこう言い換えている。

"You got cheap emotions. You're cheap all over. You pal around with a guy, eat a few drinks, talk a few gags, slip him a little dough when he's strapped, and you're sold out to him. Just like some school kid that read Frank Merriwell. You got no guts, no brains, no connections, no savvy, so you throw out a phony attitude and expect people to cry over you. Tarzan on a big red scooter."(おまえは陳腐な感情で動く。いかにも陳腐だ。誰かと気が合い、ひとしきり飲んで騒いで、懐が乏しいと見ればそっと金を滑り込ませ、そして掌をかえす。フランク・メリウェルを読んでる小学生みたいなもんだ。ガッツも頭もコネも機転もないくせに、おためごかしをほのめかしてお涙頂戴をねらう。大きな赤いスクーターに乗ったターザン)

マーロウにできることは知れている。だから色々親切にしているように見えて、その実最後まで面倒を見ようとしない。それが“cheap”だというのだ。自分にできもしない救出劇を演出するため、人目に付きやすい乗り物を用意するターザンみたいなものだ、とメネンデスは言いたいのだろう。これで十分意は尽くされている。ところが、市川氏はそれでは気が済まない。同じ部分がこういう訳になる。

「動機からして安っぽい。お前のやることなすこと、みんな安っぽいぜ。いっちょマエに男の付き合い気取りでそれらしく酒喰らって、それらしく馬鹿言って、相手が金なくて焦っていると臭い芝居で端した金(ママ)を握らせてバっちり恩売りやがる。まるでヒーローマンガ読みすぎのガキだぜ。お前にゃ度胸もない。脳みそもない。コネも腕もない。それでお前はこれ見よがしにヒーローのサルまねをする。ウケけて(ママ)皆が涙を流すのを狙ってな。お前はでかくて赤いスクーターに乗ったターザンだ」

大筋は外していないが、いちいち物言いが大仰だ。これではメネンデスではなく、子分のチンピラの物言いだ。ちなみにフランク・メリウェルはマンガのキャラクターではない。田口訳の註によれば「ベストセラー作家のバート・バッテンがバート・L・ランディシュのペンネームで創り出したスポーツ万能のキャラクター」だそうだ。

メネンデスはさらにマーロウを侮辱する。手の甲で顔を叩くのだ。原文は以下の通り。

He leaned across the desk and flicked me across the face back-handed,casually and contemptuously, not meaning to hurt me, and the small smile stayed on his face.

清水訳は「彼はデスクの上にからだをのり出して、ほんの気まぐれのように手の甲で私の顔を横にはらった。私を傷つけようとしたのではなく、顔から笑いが消えていなかった」。他の二人も「手の甲で、打つ、はたく」という訳だ。ところが、市川訳はここも異なる。

「机に身体を覆い被さるよう(ママ)して私に近づくと私の顔を叩くように手の甲を左右に振った。実際は叩くつもりはなく団扇をあおぐように、小馬鹿にしたように私の目の前で左右に軽く振った」

“flick”は自動詞の場合、「ひょいと動く、ひらひら飛ぶ」の意味を持つが、“flicked me across the face back-handed”のように、すぐ後に目的格の代名詞がくる場合、他動詞と取るのが正しい。他動詞の“flick”は「軽く打つ、はじく」等の意味だ。原文を読めば、メネンデスの手は一度マーロウの顔の前を横切り、バックハンドで軽く打っているようにしか読めない。何より、その場にそぐわない団扇という不必要な比喩や、「左右に振った」の重複など、訳文としての完成度が低すぎる。誤字脱字も多い。校閲はともかく、訳者以外の誰かの手で校正されているのだろうか。

メネンデスが語る戦時中の体験談。ドイツ軍に捕まったレノックスが受けた処遇についての和訳が気になる。

They worked him over for about a year and a half. They did a good job but they hurt him too much.

清水訳は「一年半、ドイツの病院に入ってた。手術はまずくはなかったが、ずいぶん痛い目にあわせたらしい」。原文に病院を示す言葉はないが、村上氏は清水訳を鵜吞みにし「そしてやつらはテリーを、おおよそ一年半かけて徹底的に治療した。手際はよかったが、それはとんでもなく手荒なものだった」とした。田口訳も「ドイツ野郎は一年半かけてやつを治療した。治療自体は悪くなかったが、ひどい手術痕が残った」だ。

“work over” には「〜をやり直す、〜を作り直す、〜に手を加える」という意味があり、清水氏は、それを「整形手術」と解釈したのだろう。ただ、“work + 目 + over” は<口語>で用いられる場合「(人を)激しく攻撃する、ひどい目にあわせる.」の意味になる。もともと“work over” には「〜を徹底的に調査、研究する」という意味がある。ドイツ軍が単なる捕虜のために一年半もかけて顔の整形手術をするとは考えにくい。ここは、連合国側の情報を訊き出すために拷問も含め、厳しい尋問が行われたと考える方が理に適っている。

市川訳は「一年半の間、奴らはあいつを痛めつけた。顔の手術をしたのはいいとしても奴らはあいつを徹底的に痛めつけた」と原文に近い訳になっている。テリーの負った深い傷を、顔の手術によるものとする解釈は如何なものだろうか。帰国後のテリーの様子から考えると、ドイツ軍は手術を含めてけがの治療はうまくやったが、捕虜の心に負わせた傷は深いものがあったと取るべきだろう。

「たとえ、テリーが彼女を殺していなくても」とマーロウが言ったのを聞いたメネンデスの驚き方について。原文はこうなっている。

His surprise was as thin as the gold on a weekend wedding ring.

清水訳は「べつに驚いた様子はなかった」とにべもない。村上訳は「彼の示した驚きは、即席結婚のための金の指輪くらい薄っぺらなものだった」と丁寧だ。田口訳も「彼の驚いた顔は即席結婚の金の指輪ほどにも薄かった」と村上訳を踏まえている。アメリカでは急に思いついて結婚式を挙げるため、週末を使ってラス・ヴェガスを訪れるカップルが多い。牧師から指輪や衣装まで、一式がすべて用意されているからだ。“weekend wedding”はそのことを言っている。

“thin”には「薄い」の他に「実(じつ)のない、見え透いた」という意味がある。メネンデスの驚いた顔を見て、マーロウはそう感じたということだ。ところが、市川訳は「メネンデスの顔に驚きが浮かんだ。その驚きぶりはまるでインスタント結婚式で使うリングの金メッキほど微かだったが私はそれを見逃さなかった」となっている。これではまるで、メネンデスが自分の感情をうまく秘匿しているのに、人の表情を読むことに長けたマーロウが見破ったかのようだ。喩えとして持ってきたのが、間に合わせの指輪であることが全く読めていない。メネンデスはテリーの無実を知っていることを隠す気などない、ということを表す大事なメッセージが読めないで、どうしてチャンドラーが訳せようか。

ボディに一発喰らったメネンデスがマーロウに言う決め台詞。短いので訳を列挙する。

"You're a hard guy to get sore, Marlowe."

「お前はなかなか怒らない奴だな、マーロウ」(清水訳)
「お前、腹を立てるのにやたら手間のかかるやつだな」(村上訳)
「おまえは妙に腹の立たない男だよ、マーロウ」(田口訳)
「脳天気な野郎だ、マーロウ」(市川訳)

“get sore” は「腹が立つ」なので、マーロウは、そういう状態になり難い男だ、とメネンデスは言っている。田口訳はそれまでの訳に比べると、よく似た言い方だがニュアンスが異なる。これでは、メネンデスがマーロウのことを憎めない奴だ、と言っているように読める。もしかしてそうなんだろうか? 市川訳では、マーロウが馬鹿みたいだ。さんざん相手を挑発しておいて、やっと怒らせるのに成功した当人が吐いた台詞である。あなたならどれを選ぶだろう。

メネンデスの子分、チック・アゴティーノがボスの威を借りて、すごんで見せたのをマーロウが軽くいなす場面がある。

"The name's Chick Agostino. I guess you'll know me."
 "Like a dirty newspaper," I said. "Remind me not to step on your face."

「チック・アゴスティノってんだ。知ってるだろうがね」
「古新聞と間違えられるぞ。踏まれないように気をつけろ」(清水訳)

「俺の名前はチック・アゴティーノだ。そのうち近づきになるだろう」
「昨日の夕刊と間違えて、君の顔を踏みつけないように気をつけなくちゃな」(村上訳)

「おれはチック・アゴティーノだ。おまえにもおれのことはそのうちわかるようになるだろうよ」
「泥だらけの新聞紙みたいに」と私は言った。「今度おまえの顔を私が踏みつけそうになったら教えてくれ」(田口訳)

「私の名はチック・アゴティーノだ。いずれ可愛がってやる」
「エロ新聞みたいな奴だな.」と言ってやった。「私があんたの顔を踏みそうになったら「エロ新聞じゃねえ、俺の顔だ、踏まないでくれ」って叫ぶことだな」(市川訳)

市川訳のマーロウも物言いはいかにも品がない。ハードボイルドを誤解しているのではないだろうか。“dirty”に、その手の意味がないわけではないが、ここでは“step on your face”の意味を踏まえないといけない。“face”は「紙面」にかけているのだろう。踏むためには地面に落ちている必要がある。すでに踏みつけられて「汚れて」いるのだ。人の目に触れたとき、誰もが目を留めるほどの存在ではない(言い換えれば小者だ)とマーロウは言っている。吹けば飛ぶような、という歌詞があるが、ボスの使いっ走りをしているチックのような三下は、街角にたむろしていることが多い。そういう点を“dirty newspaper”に喩えているのだ。

メネンデスたちが部屋を出て行った後、静まり返った廊下に足音がしない。

They walked as softly as cats. Just to make sure, I opened the door again after a minute and looked out. But the hall was quite empty.

市川訳はこうだ。「まるで猫のように忍び足で歩くのか?念のため、一分ほど経ってドアを開け、廊下の様子を見渡した。がらんとして誰もいなかった。やくざにモカシン靴か。

蛇足の一文「やくざにモカシン靴か」は原文にはない。これまでの三氏の旧訳にもない。市川氏による完全な創作である。この訳ではじめてこの作品を読む日本人読者はチャンドラーがこう書いたと思うだろう。こうした逸脱は許されるべきではない。

一つおいて次のパラグラフ。

I didn't get anywhere with that, so I thought I might as well make it a perfect score.

“perfect score”は「満点」のこと。“might as well” の意味は「どうせなら〜した方がいい」。メネンデスがわざわざやってきたことに納得がいかないマーロウは、いろいろ考えても分からなかったので、どうせなら、とランディ・スターに電話することにした。ただ、それだけのことだ。ところが、“score”の意味を「楽譜」と勘違いした市川氏は「そこで、音楽で言えば楽譜に抜けがあればどんな曲かわからない。オタマジャクシを付け加えればちゃんと演奏できるかも、そう考えた」と無駄な解説を付け加えている。

ひとつ分からない点がある。シルヴィアの遺体が家族に返され、空輸されるところ、原文はこうだ。

It was flown north and buried in the family vault.

それまでの邦訳はすべて「北」としか書いていないが、市川訳はここを「サンフランシスコ」と特定している。その根拠がどこにあるのかがよくわからない。市川氏はどうしてポッター家の墓所がある地を知り得たのだろう。たしかに、ポッターの私邸はサンフランシスコにあるが、一族の墓所ともなれば、出身地の近くにあることもある。メキシコから見たら、合衆国は「北」だ。こういうときは原文通りにしておくものだ。

メネンデスが取り出した煙草のこともそうだ。原文には、ただ“brown cigarette”と書いてあるものをわざわざ「シガリロ」と特定してみせる。知識をひけらかしたいなら、どこか別のところでやればいい。他人が書いた作品を踏み台にしてすることではない。とんだ心得違いというものだ。そんなことより、ゲラをしっかり見直すことの方が先だろう。