marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

”Desert Rose”は薔薇ではない。砂漠で採れる石だ。

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【訳文】

翌朝、耳たぶについたタルカム・パウダーを拭いているとベルが鳴った。 玄関に行ってドアを開けると、一対のバイオレット・ブルーの瞳があった。 彼女は茶色のリネンを着て、赤唐辛子(ピメント)色のスカーフを巻いていた。イヤリングや帽子はなかった。 少し青ざめていたが、階段から突き落とされたようには見えなかった。 彼女はためらいがちな笑みを浮かべた。

「お邪魔するべきでないことは知っています、ミスタ・マーロウ。まだ朝食もとっていないでしょう。でも、オフィスには行きたくなかったし、私ごとを電話で話すのも憚られて」

「どうぞお入りください、ミセス・ウェイド。コーヒーでもいかがですか?」

彼女は居間に入ると他に目をやることもなくダヴェンポートに腰を下ろした。バッグを膝の上にのせ、両脚を揃えて座った。やけにとりすましているように見えた。私は窓を開け、ブラインドを上げ、彼女の前のカクテルテーブルから汚れた灰皿を片づけた。

「ありがとう。コーヒーをブラックでいただきます。砂糖抜きで」

私はキッチンに行き、緑色の金属トレイの上に紙ナプキンを広げた。セルロイドのカラーのように安っぽく見えた。私はそれをくしゃくしゃにして、小さな三角形のナプキンとセットになっている縁飾りのついたものを取り出した。ほとんどの家具と同じように、この家についてきたものだ。私はデザートローズのコーヒーカップを二つ並べ、コーヒーを入れてトレイを運んだ。

彼女は一口飲んで「とてもおいしい」と言った。「コーヒーを淹れるのがお上手なのね」

「最後に誰かと一緒にコーヒーを飲んだのはブタ箱入りの直前で」と私は言った。「私が留置場にいたのはご存じですよね、ミセス・ウェイド」

彼女はうなずいた。「もちろん。逃亡を手助けした疑いがかけられていたんですよね?」

「彼らは言わなかった。警察は私の電話番号が書かれたメモ・パッドを彼の部屋で見つけた。で、あれこれ質問してきたわけだが、私が答えられなかったのは、主にその質問の仕方のせいだ。でも、こんなことあなたは興味ないでしょう」

彼女は慎重にカップを下ろし、椅子に背をもたせ、笑みを浮かべた。私は煙草を勧めた。

「お構いなく、吸わないので。もちろん興味があります。隣人がレノックス家の知り合いなんです。彼は正気じゃなかったんだわ。そんなことができる人だとは思えません」

私はブルドッグ・パイプに煙草を詰めて火をつけた。 「そうですね」と私は言った。 「そうだったにちがいない。彼は戦争でひどい傷を負った。だが、彼は死んだ。すべて済んだことだ。それに、あなたがそのことを話すためにここに来たとも思えない」

彼女はゆっくりとかぶりを振った。 「彼はあなたの友人でした、ミスタ・マーロウ。 あなたははっきりした意見をお持ちのはず。あなたには確信があるように見えます」

私は火皿の中の煙草を押し固め、火をつけ直した。そうして手間をかけながら、パイプの火皿越しに彼女を見つめた。

「いいですか、ミセス・ウェイド」私はようやく言った。「私の意見など何の意味もない。毎日起きていることだ。ありえない人がありえない犯罪を犯す。穏やかな老婦人が一家全員を毒殺する。きちんとした青年が強盗や発砲事件を起こす。二十年間経歴に染みひとつなかった銀行の支店長が、長きにわたって横領していたことが発覚する。成功し、人気があり、幸せであるはずの小説家が酔っ払って妻を病院送りにする。私たちは、たとえ親友であっても、何が人の心を動かすのか、ほとんど知らない」

私の物言いが彼女をかんかんに怒らせるだろうと思ったが、彼女は唇を固く結び、目を細めただけだった。

「ハワード・スペンサーはあなたにあの話をすべきじゃなかった」彼女は言った。「あれは私のせい。近づかないように気をつけるべきだった。あれでひとつ教訓を得ました。飲み過ぎている男を止めようとしてはいけない。そんなことあなたのほうが私よりよくご存知でしょうけれど」

「たしかに言葉では止めることはできない」と私は言った。 「運が良くて、力があれば、時には本人や他の誰かを傷つけないようにすることもできる。 だとしても、運次第だ」

彼女は静かにコーヒーカップとソーサーに手を伸ばした。彼女の手は、他の部分と同様、美しかった。爪は美しく磨かれ、ほんのわずか色がついていた。

「ハワードは今回、夫に会っていないことを言いました?」

「ええ」

 彼女はコーヒーを飲み終えると、カップを慎重にトレイに戻した。しばらくのあいだスプーンをいじっていた。それから私のほうを見ることもなく話しだした。

「彼はその理由を言わなかった。なぜなら知らないから。私はハワードのことをとても気に入っているけど、彼は管理するタイプで、すべてを仕切りたがる。自分にそういう力があると思っている」

私は何も言わずに待った。また沈黙が訪れた。彼女は私をじっと見て、また目をそらした。彼女はささやくように言った。「夫は三日前から行方不明です。どこにいるのかわかりません。夫を見つけて連れ帰ってほしいとお願いするためにここに来ました。前にもあったんです。はるばるポートランドまで自分で車を運転して、そこのホテルで具合が悪くなって、素面にするのに医者を呼ばなければならなかった。どうやってトラブルに巻き込まれずにそこまで行けたのか不思議です。三日間何も食べていませんでした。別の時にはロングビーチにあるトルコ式浴場にいました。スウェーデン式の大腸洗浄をするようなところです。そして最後は、ある種の小さな民間の、おそらくあまり評判の良くない衛生施設でした。三週間も前のことです。彼は名前も場所も教えてくれず、ただ治療を受けていて大丈夫だと言っていました。しかし、彼は死にそうなほど青白く弱々しく見えた。私は彼を家に連れてきた男をちらっと見ました。舞台やテクニカラーミュージカル映画でしか見られないような、手の込んだカウボーイ服を着た背の高い若者です。彼はロジャーを私道に降ろすや否や車をバックさせてすぐに走り去りました」

「観光牧場だったのかもしれない」 と私は言った。「お抱えのカウボーイの中には、稼いだ金をすべてそのような派手な衣装に使うやつもいる。女性たちは彼らに夢中になる。やつらはそのために雇われている」

彼女はバッグを開け、折りたたんだ紙を取り出した。 「ミスタ・マーロウ、五百ドルの小切手を用意しました。依頼料として受け取ってもらえますか?」

彼女は折りたたんだ小切手をテーブルに置いた。私はそれを見たが、手はつけなかった。「どうして?」私は彼女に尋ねた。「家を空けて三日になると言いましたね。酔いを醒まし、食事を摂るには三、四日かかる。以前と同じように戻ってくるのでは? それとも、今回は何かがちがうんですか?」

「彼はこれ以上耐えられません、ミスタ・マーロウ。こんなことが続いたら死んでしまいます。間隔がどんどん短くなっている。とても心配で、心配というより怖ろしい。不自然です。 私たちは結婚して五年になります。ロジャーはいつもよく飲む人でしたが、病的なほどではなかった。何かがおかしい。彼を見つけたい。昨夜は一時間も眠れませんでした」

「彼が酒を飲む理由に心あたりは?」

菫色の瞳はじっと私を見ていた。彼女は今朝少し弱っているように見えたが、手の施しようがないというほどではなかった。彼女は唇をかんでかぶりを振った。「私のことを除けば」 彼女はほとんど小声でやっと言った。「男の人は妻に嫌気がさすのでは」

「私はただの素人心理学者です、ミセス・ウェイド。こんな稼業をしていれば、少しはそうでなければなりません。彼は自分の書いている物に嫌気がさした可能性の方が高いのでは」

「それはあるかもしれません」彼女は静かに言った。 「すべての作家がそのような呪縛に陥っていると思います。彼が執筆中の本を書き終えることができないように見えるのは事実です。しかし、家賃のためにそれを完成させなければならないわけではない。それだけでは十分な理由とは思えません」

「素面のときはどんな人ですか?」

彼女は微笑んだ。「まあ、かなり偏った見方になりますが、本当にいい人だと思います」

「酔っ払っているときは?」

「身の毛がよだつ。頭が冴えて、刺々しく残酷。気の利いたことを言ってるつもりが、ただ意地悪なだけ」

「暴力的、が抜けている」

彼女は黄褐色の眉を上げた。「たった一度です、ミスタ・マーロウ。そして、そのことがあまりにも独り歩きしすぎた。私はハワード・スペンサーに話したことはありません。ロジャーが自分で話したんです」

私は立ち上がって部屋の中を歩き回った。暑い日になりそうだった。すでに暑かった。私は日差しを防ぐために窓にあるブラインドをひとつ閉めた。そして、率直に言った。

「昨日の午後、紳士録で彼を調べました。彼は四十二歳、あなたとは初婚で子どもはいない。ニューイングランド出身で、アンドーヴァーとプリンストンに行った。戦歴もある。セックスと剣戟の歴史小説を十二作書いて、そのどれもがベストセラーリストに載った。さぞ儲かったにちがいない。もし妻に嫌気がさしたのなら、そう言って離婚するタイプのようだ。もし他の女と浮気していたとしても、あなたならそれに気づくはず。いずれにせよ、良心の咎めを証明するために酒を飲む必要はない。結婚して五年ということは、当時彼は三十七歳。その頃には女性について知っておくべきことはほとんど知っていたはずだ。ほとんどと言うのは、すべてを知っている人なんていないからです」

そこで話すのを止めて彼女を見た。彼女は微笑みを浮かべていた。感情を害してはいないようだ。話を続けた。

「ハワード・スペンサーは、こんなことを意っていた――何を根拠にしてかは知りません――ロジャー・ウェイドの問題は、あなたが結婚するずっと前に起こったことであり、それが今になって彼に追いつき、これまでよりもさらに激しく苛んでいるのではないかと。スペンサーは脅迫を考えているようだが、何か心あたりは?」

彼女はゆっくりとかぶりを振った。 「もし、ロジャーが誰かに多額の金を支払っていたかどうか知っていたかということなら、私は知りませんでした。 私は彼のお金に口出ししません。 彼は私が知らないうちに大金を払うことができます」

「なるほど。私はミスタ・ウェイドを知らない。強請られた彼がどう反応するか、見当もつかない。気性が荒ければ、誰かの首をへし折るかもしれない。秘密が、何であれ、彼の社会的または職業的地位を傷つけ、極端な場合、警察沙汰になる類いのものなら、彼は支払いに応じるかもしれない――少なくとも当座の間は。 しかし、あれこれ思案したところでどこにも行き着かない。 あなたは彼を見つけたいし、心配している。心配では済まないくらい彼の身を案じている。 それで、どうやって彼を見つけたらいいでしょうか?  金は要りません、ミセス・ウェイド。 とりあえず、今のところは」

彼女は再びバッグに手を突っ込み、黄色い紙を二枚取り出した。 書簡用紙のようだ。折りたたまれていて、そのうちの一枚はくしゃくしゃになっていた。 彼女はしわを伸ばして私に手渡した。

「一枚は彼の机の上で見つけたものです」と彼女は言った。 「夜遅く、というかもう明け方でした。彼が酒を飲んでいたことも、二階に来ていないことも知っていました。二時ごろ、下に行きました。彼が大丈夫か、もしくは比較的大丈夫で、床かカウチかどこかで酔いつぶれていないか確かめるために。彼はどこにもいなかった。もう一枚の紙は屑籠に入っていたというか、端に引っかかっていたので、中に落ちてはいませんでした」

私はくしゃくしゃにされていない最初の一枚を見た。そこには短い文章がタイプされ、こう書かれていた。

「私は自分に恋する気はないし、私が恋する相手はもはやどこにもいない。署名 ロジャー(F・スコット・フィッツジェラルド)・ウェイド。 追伸。これが私が『ラスト・タイクーン』を書き終えられなかった理由だ」

「何の意味かわかりますか、ミセス・ウェイド?」

「気取っているだけです。 彼はずっとスコット・フィッツジェラルドの大ファンでした。 フィッツジェラルドは、阿片中毒だったコールリッジ以来の最高の酔っぱらい作家だ、と彼は言います。 タイピングを見てください、ミスタ・マーロウ。 きれいでむらなく、タイプミスもありません」

「たしかに。酔っぱらったら大抵は自分の名前すらまともに書けない」くしゃくしゃになった方の紙を開けた。やはり誤字脱字のないタイピングでこう書いてあった。「きみが嫌いだ、ドクター・V。だが、今はきみが頼りだ」

私がまだそれを見ている間に彼女は話した。 「ドクター・Vが誰なのか全く分かりません。そのような名前で始まる医師を私たちは知りません。ロジャーが最後にいた場所の人でしょうか」

「カウボーイが彼を家に連れ帰ったときの? 何も聞いてないんですか?  場所とか施設名とか?」

彼女はかぶりを振った。「何も。電話帳を調べました。名前が V で始まる何らかの医者が何十人もいます。それに、姓ではないかもしれません」

「医者ですらない可能性が高い」と私は言った。 「その場合、まとまった現金が必要になる。まともな医者なら小切手を受け取るだろうが、もぐりの医者は受け取らない。それが証拠になりかねない。それに、連中の料金は安くない。提供される部屋と食事は高いものにつく。注射については言うまでもない」

彼女は不可解な顔になった。「注射?」

「怪しげな連中はみんな、客に麻薬を使う。一番簡単な方法だ。十時間でも十二時間でも眠らせておけば、目覚めたときにはいい子になる。しかし、無許可で麻薬を使えば、アンクル・サムに部屋代と食費を取られることになる。そして、それは実に高くつく」

「なるほど。ロジャーはおそらく数百ドルは持っているでしょう。彼はいつも机の中にそれだけのお金を保管しています。理由はわかりません。ただの気まぐれでしょう。今は何もありません」

「わかりました」と私は言った。「ドクター・Vを探してみます。方法はわかりませんが、できるだけやってみます。 小切手はしまってください、ミセス・ウェイド」

「でもどうして? あなたに仕事を――」

「あとでいいので、ありがとう。それに、私としてはミスタ・ウェイドからもらいたい。いずれにせよ、 彼は私のすることを気に入らないでしょう」

「でも、もし彼が病気でどうしようもなかったら」

「自分で医者を呼ぶこともできたし、あなたに頼むこともできた。彼はそうしなかった。つまり、そうしたくなかったのです」

彼女は小切手をバッグに戻し、立ち上がった。彼女はとても頼りなげに見えた。「かかりつけ医には、治療を断られました」と彼女は苦々しげに言った。

「医者なんて星の数ほどいますよ、ミセス・ウェイド。 誰でも一度は診てくれます。ほとんどの医者はしばらくはつきあってくれるでしょう。近頃は医者の世界も競争が激しい」

「なるほど、おっしゃるとおりです」彼女はゆっくりドアに向かった。私もついて行き、ドアを開けた。

「あなた自身が医者を呼ぶこともできたはず。どうしてそうしなかったんです?」

彼女はまっすぐに私を見た。両の眼が輝いていた。ほのかに涙を浮かべていたかもしれない。掛け値なしの美女だ。

「夫を愛しているからです。ミスタ・マーロウ。 私は彼を助けるためなら何でもします。 でも、彼がどんな男かも知っています。 お酒を飲み過ぎるたびに医者を呼んでいたら、夫は早晩私のもとを去っていくでしょう。 大人になった男を、喉が痛い子どものように扱うことはできません」

「酔っ払い相手ならできる。そうしなければならないことがしばしばある」 。彼女は私の近くに立っていた。彼女の香水の匂いを嗅いだ。あるいはそんな気がした。吹きつけたものではなかった。夏の日のせいかもしれない。

「彼の過去に何か恥ずべきことがあったとしましょう」と、彼女は言葉を引きずるようにして言った。まるでそのひとつひとつが苦い味でもするかのように。「たとえ犯罪に関わるようなものであったにせよ、私にはどうでもいいことです。だからといって、それを明るみに出すことに手を貸そうとは思いません」

「しかし、ハワード・スペンサーがそれを明るみに出すために私を雇うのは構わなかった?」 

彼女はとてもゆっくり微笑んだ。「あなたがハワードの依頼を受けるだろう、と私が踏んでいたとでも? 友人を裏切るくらいなら留置場に入る方がまし、と考えるような人が」

「お褒めに預かり恐縮です。だが、それで留置場に入れられたわけじゃない」

しばしの沈黙の後、彼女はうなずき、別れを告げると、セコイアの階段を下り始めた。私は彼女が車に乗り込むのを見た。スリムなグレイのジャガーで、とても新しそうだった。彼女はその車を通りの端まで走らせ、方向転換用のサークルで向きを変えた。車が丘をくだっていくとき、彼女の手袋が私に手を振り、小さな車はさっと角を曲って行ってしまった。

家の正面の壁の一部に赤い夾竹桃の茂みがある。その中で羽ばたく音がして、マネシツグミの雛が心配そうに鳴き始めた。てっぺんの枝に止まり、バランスを保つのに苦労しているかのように羽ばたいていた。塀の角の糸杉から、厳しい警告の鳴き声が一度だけ聞こえた。鳴き声はすぐに止み、丸々した小鳥は静かになった。

私は中に入ってドアを閉め、雛に飛ぶ稽古をさせてやった。鳥も学ばなければならない。

【解説】

第十四章は、アイリーン・ウェイドがマーロウの自宅にやって来て帰るまでの一幕。姿を消した夫の捜索にマーロウを引き入れようとする彼女の腕の見せ所。その登場シーンに、彼女の装いを描写した一文がある。

She was in brown linen this time, with a pimento-colored scarf, and no earrings or hat.

「ピメント」とは赤唐辛子のことだ。清水訳は「とうがらし(傍点五字)色」、村上訳は「朱色」。田口訳は「真紅」、そして市川訳は「パプリカ色」である。青唐辛子というのもあるが、普通「とうがらし」といえば「鷹の爪」のような赤を思い浮かべる。だから「真紅」はいいとしても「朱色」はいただけない。ましてや「パプリカ」は問題だ。近頃ではパプリカには黄色や朱色をしたものがある。「パプリカ色」で読者に正しく伝わるだろうか。

マーロウはキッチンに行き、コーヒーの支度をするが、紙ナプキンが気に入らない。

I went out to the kitchen and spread a paper napkin on a green metal tray. It looked as cheesy as a celluloid collar. I crumpled it up and got out one of those fringed things that come in sets with little triangular napkins. They came with the house, like most of the furniture. I set out two Desert Rose coffee cups and filled them and carried the tray in.

“cheesy”は「安っぽい」という意味の俗語。そこで取り換えるのが“one of those fringed things that come in sets with little triangular napkins”だ。ひとつ気になることがある。“one of those fringed things”の訳が「ふちに飾りのついたの(清水)」、「縁飾りのついたやつ(村上)」、「縁飾りのあるナプキン(田口)」と、これまでの訳では「ナプキン」と考えられていたものが、市川訳では「縁飾りのあるトレー」に代わっているのだ。

そこで、市川訳を読み返すと「キッチンへ行き、緑色のトレーにペーパー・ナプキンを敷いた。改めて見るといかにも安っぽい。プラスチックによくある色だったので、それはやめにして小さな三角ナプキンと組になっている縁飾りのあるトレーを出した」と書かれていることに気がついた。市川氏は“collor”(襟)を“color”(色)と読みまちがえたのだ。それだけではない。“metal”もトバしているし、“crumple up”(くしゃくしゃにする)も訳していない。ナプキンならくしゃくしゃにすることもできるが、金属製のトレイならそうはできない。そこで“crumple up”を「それはやめにして」と勝手に解釈してしまった。一つのケアレスミスが誤訳の連鎖を生んでいることがよく分かる。

もうひとつ気になる個所がある。それは“Desert Rose coffee cups”についてだ。清水訳では「上等のコーヒーカップ」とされていたが、村上訳で「デザート・ローズのコーヒーカップ」になった。それでよかったものを、田口訳が「デザート・ローズ柄のカップ」にし、市川訳も「デザート・ローズが描かれたコーヒーカップ」にしている。ここでいう「デザート・ローズ」は、カリフォルニアのフランシスカンというメーカーが当時販売していたテーブル・ウェアのシリーズ名だ。更に言うなら「デザート・ローズ」というのは、薔薇の名前ではなく砂漠地帯で採れる薔薇の花に似た形状を持つ石の名前である。

マーロウがこの日手にしているパイプは“bulldog pipe”。清水訳はただの「パイプ」。村上、田口訳は「ブルドッグ・パイプ」。ところが市川訳では「チェコ製の凝ったパイプ」になっている。パイプにはその材質や形状によってそれぞれ名前がついている。ブルドッグ・パイプもそのひとつだ。市川訳の「チェコ製の凝ったパイプ」がどこから来たのかは知らないが、ブルドッグ・パイプなら今でも市販されている。

訪問の真の理由を語り出すときのアイリーンの様子がマーロウの視点で描かれる。

She reached quietly for her coffee cup and saucer. Her hands were lovely, like the rest of her. The nails were beautifully shaped and polished and only very slightly tinted.

どうということのない一文だが、アイリーン・ウェイドという女性の所作にマーロウがよく目を留めているのが分かる。「彼女はコーヒーのカップと皿にそっと手をのばした」(清水)。「彼女は静かにコーヒーカップに手を伸ばした」(村上)。「彼女はコーヒーに手を伸ばした」(田口)。「彼女はすーっとコーヒーカップとソーサーに手を伸ばした」(市川)。ミセス・ウェイドが座っているのはダヴェンポートと呼ばれる大型のソファだ。コーヒーが置かれたのはカクテル・テーブルで、少し距離がある。こぼしたりしないようにソーサーを添えるのはちょっとした気遣いというものだ。マーロウの目にそう映っているのなら、ここはそのまま訳すべきところだろう。

別れ際、二人の距離が近くなり、マーロウは気のせいか、香水の香りを嗅いだ気がした。

She was standing close to me. I smelled her perfume. Or thought I did. It hadn't been put on with a spray gun. Perhaps it was just the summer day.

“just the summer day”とはどういう意味なのか? 

「噴霧器でふりかけているはずはなかった。夏の日だからだったかもしれない(清水)」。「香水をふんだんにふりかけるタイプではない。夏の日にわずかに忍ばせるだけだ(村上)」。「いずれにしろ、ふんだんにかけられていたわけではない。夏に咲く花のように軽やかな香りだった(田口)」。「香水だとしてもスプレーで吹き付けたんじゃない。夏の日にだけほんのすこし匂うくらいだ(市川)」

汗と混じると香水の香りは悪くなるから、夏はつける場所に気をつける。また、香水は気温が高いほどよく香るので、夏に冬と同じ量の香水をつけると、強く香りすぎてしまう、という。ミセス・ウェイドは季節を考えて量やつけ方に気を配っているのだろう。空気中にひと吹きして、その中をくぐるという方法がお勧めだそうだ。それだと香りが強くなりすぎるのを防げるらしい。いずれにせよ、この場面のアイリーンは、好感度の高い女性として描かれている。

彼女がジャガーに乗って帰るとき、一度通りの端まで行き、方向転換してくる。

She drove it up to the end of the street and swung around in the turning circle there. Her glove waved at me as she went by down the hill, The little car whisked around the corner and was gone.

田口訳は「彼女は通りのつきあたりまで走ると、方向転換サークルで向きを変えた。坂道をくだって戻ってきた彼女の小さな車は角を軽快に曲がると姿を消した」となっている。残念なことに、“Her glove waved at me”が抜け落ちている。何度も言及されている手袋をあえてトバすはずがない。ケアレスミスだろう。最後に手を振るのは見送る相手に対する親愛の情の表現である。あるとないとでは、マーロウの気持ちの持ち方も変わってくる。清水訳でも村上訳でも、手袋は振られている。最後の見直しで気づかなかったのだろうか。