marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“swing arm”はキツツキの翼か?

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【訳文】

その手紙は階段の下にある赤と白に塗られた巣箱の形をした郵便受けに入っていた。支柱から張り出した腕木に取り付けた巣箱の屋根の上でいつもは寝ているキツツキが起きていた。それでも、ふだんなら中を覗かなかったかもしれない。自宅に郵便物が届くことなどないからだ。ところが、キツツキの嘴の先がなくなっていた。折れ口は新しかった。どこかのはしっこい子が手製の原子銃で吹っ飛ばしたのだ。

手紙には航空便(Correo Aéreo)と記され、メキシコの切手がべたべた貼られ、手書きの文字が並んでいた。はたと思い当たったのは、最近メキシコのことがずっと気になっていたからかもしれない。手押しの消印はスタンプ台がインク切れ寸前のようで判読できなかった。手紙は分厚かった。私は階段を上り、居間に腰を落ち着けて手紙を読んだ。その夜はとても静かだった。おそらく死者からの手紙は、それ自体が静寂をもたらすのだろう。

手紙は日付も前置きもなしに始まっていた。

あまりきれいとは言えないホテルの二階の部屋の窓辺に座っている。オタトクランという、湖のある山間の町だ。窓のすぐ下に郵便ポストがある。ボーイが注文したコーヒーを持ってきたら、手紙を投函するよう頼むつもりだ。投函口に入れる前に私に見えるよう、手紙をかざすように。そうしたら、百ペソ札が手に入る。ボーイにとってはすごい大金だ。

なぜそんな小細工を? 尖った靴を履き、汚れたシャツを着た色の浅黒い人物がドアの外でこちらを見張っている。そいつは何かを待っている。何を待っているのかわからないが、ぼくを外に出してくれない。手紙さえ投函されれば、どうということはない。このお金はきみに持っていてほしい。ぼくには必要ないし、持っていてもどうせ地元の警察に盗られてしまうから。何かを買うためのものではない。迷惑をかけたことへの謝罪と、まっとうな男への敬意の印だ。例によってぼくはあらゆる下手を打ったが、銃はまだ持っている。ぼくの勘では、きみはおそらくある点について心を決めているのではないかと思う。ぼくが彼女を殺したのかもしれない、多分やったのだろうが、それ以外のことはとてもやれそうにない。あんな残忍なことは、ぼくの柄じゃない。そこのところが非常に苛立たしい。だが、そんなことはどうでもいい。今大事なのは、不必要で無駄なスキャンダルを省くことだ。彼女の父親も妹も、ぼくによくしてくれた。彼らには彼らの人生があり、ぼくは自分の人生に心底うんざりしている。シルヴィアがぼくを屑にしたわけではない。ぼくははじめから屑だった。彼女がなぜぼくを選んだのか、よくわからない。ただの気まぐれだろう。少なくとも、彼女は若くして美しいまま死んだ。よく情欲は男を老けさせ、女を若く保つというが、世迷いごとだ。また、金持ちはいつでも自分の身を守れて、彼らの住む世界は常夏だとも。ぼくは彼らと一緒に暮らしたことがあるが、退屈で孤独な人々だった。

告白文を書いた。 気分がよくないし、かなり怯えてもいる。 このような状況については本で読んだことがあるだろうが、真実は本で読むことはできない。 我が身にそれが起こったとき、残されたものはポケットの中の銃だけで、見知らぬ国の汚い小さなホテルに追い詰められ、そこから出ていく道が一つしかないとき、嘘じゃない、そこに高揚感や劇的なものは一切ない。 あるのは、ごまかしようのない不快、卑しさ、陰鬱さ、惨めさだけだ。

だから忘れてくれ、事件のこともぼくのことも。だが、まずはヴィクターの店でギムレットを飲んでくれ、ぼくのために。次にコーヒーを淹れるとき、ぼくのためにカップに一杯注いでくれ、バーボンも加えて。煙草に火をつけてカップの横に置いてくれ。それが済んだらすべて忘れてくれ。テリー・レノックス、これにて退場。では、さようなら。

ドアにノックの音がする。コーヒーを持ったボーイだろう。さもなければ、銃撃戦になるだろう。概してメキシコ人のことは好きだが、メキシコの監獄は好きになれない。じゃあな。

テリー

それがすべてだ。私は手紙を折りたたみ封筒に戻した。ノックしたのはコーヒーを持ったボーイだったにちがいない。でなければ、この手紙を手にすることはなかっただろう。マディソン大統領の肖像も。マディソン大統領の肖像は五千ドル札だ。

ぱりっとした緑色の紙幣が目の前のテーブルの上にあった。こんなものを目にするのは初めてだ。銀行で働く人々の多くも見たことがないだろう。ランディ・スターやメネンデスのような人物なら持ち歩くこともあるかも知れない。銀行に行って、欲しいと言っても、置いていないだろう。連邦準備銀行から手に入れなければならず、届くのにおそらく数日かかる。アメリカ全土でも千枚ほどしか流通していない。私のはいい輝きを放っていた。自分専用の小さな陽光を創り出していた。

私は座ったまま長い間それを眺めていた。ようやく紙幣をレターケースにしまうと、キッチンにコーヒーを淹れに行った。感傷的であろうがなかろうが、頼まれた通りのことをするまでだ。二つのカップにコーヒーを注ぎ、彼のカップにバーボンを加え、空港に連れて行った朝、彼が座っていたテーブルの脇に置いた。コーヒーが立てる湯気と、煙草から立ち上る細い一筋の煙を見ていた。外の凌霄花ノウゼンカズラ)の繁みの中で一羽の鳥があちこち飛び回り、低い声でさえずったり、時折短く羽ばたいたりしていた。

やがてコーヒーが湯気を立てるのをやめ、煙草の煙も消え、灰皿の端でただの吸い殻になってしまった。吸い殻をシンクの下のごみ入れに捨てた。コーヒーを捨て、カップを洗って片づけた。

それで終わり。とても五千ドルに値する仕事とは思えない。

そのあとレイトショーを観に行った。何の意味もなかった。騒音と顔の大写しばかりで、何が起きているのかほとんどわからなかった。家に帰ってから、だらだらとルイ・ロペスをやりかけたが、それも何の意味もなかった。だからベッドに行って寝ることにした。

だが、眠れなかった。午前三時、部屋の中をうろつきながら、トラクター工場で働くハチャトゥリアンを聴いていた。彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいるが、私なら緩んだファンベルトと呼ぶだろう。うんざりだ。

私にとって眠れない夜というのは太った郵便配達夫と同じくらい珍しい。ミスタ・ハワード・スペンサーとリッツ・ベヴァリーで会うことになっていなければ、ボトルを一本空けて酔いつぶれていたことだろう。そして、今度ロールズロイス・シルヴァー・レイスに乗った礼儀正しい酔っぱらいを見かけたら、急いで姿をくらまそうと思う。自分で自分にかけた罠ほど命取りなものはない。

【解説】

マーロウの家にテリーから手紙が届く。手紙は重要な伏線になっている。その書き出しのパラグラフが難物である。どうってことのない文なのだが、日米の風物の違いがことをわかりにくくしている。

The letter was in the red and white birdhouse mailbox at the foot of my steps. A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised and even at that I might not have looked inside because I never got mail at the house. 

まず、“birdhouse mailbox”は「鳥の巣の形をしている郵便箱(清水訳)」ではなく「鳥の巣箱の形をした郵便受け」のことである。村上、田口訳はそうなっている。ところが、市川訳では「その手紙は道路際、家への外階段ののぼり口にある、赤と白に塗られた郵便受けに入っていた。先っぽにキツツキの飾りがついている蓋の取っ手が上がっていた。これまでは、たとえ蓋が開いていても中を覗き込むようなことはしなかった」と、「鳥の巣箱」に関する言及が抜け落ちているばかりでなく、郵便受けについても勝手な改変がなされている。

“A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised”だが、“was raised”(上げられていた)のは何かといえば“A woodpecker on top of the box attached to the swing arm”(スイングアームに取り付けられた箱の上のキツツキ)である。この「スイングアーム」が日本人にはよく分からない。旧訳でもそこのところが妙な訳になっていた。

「箱の上のきつつき(傍点四字)がひっくりかえっていて蓋があいていた」(清水訳)
「箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているというしるしに、その翼が上に向けられていた」(村上訳)
「郵便受けには造りもののキツツキがのっていて。郵便物があると。その翼を広げた恰好になるのだが」(田口訳)

アメリカの郵便受けは道路脇に立てられた支柱から横に張り出した腕木の上に設置されていることが多い。この水平に張り出した腕木がスイングアームだ。その上に鳥の巣箱の形をした郵便受けがのっている。巣箱には屋根がつきもので、その屋根の上にキツツキがのっている。犬小屋の上で昼寝をしているスヌーピーのように、普段は横になっているのかもしれない。中に郵便物が入ってるときはそれを立てる仕組みなのだろう。村上氏は、スイングアームを鳥の翼だと考え、田口氏もそれを踏襲したのだろうが、キツツキが最もキツツキらしく見えるのは翼を広げた姿ではなく、翼を閉じて足で立ち、木の幹を突っついている立ち姿である。だから“raise”(持ち上げる、引き揚げる)する必要があったわけだ。

郵便受けから取り出した手紙についての描写。訳者によって微妙に解釈が異なる。

The letter had Correo Aéreo on it and a flock of Mexican stamps and writing that I might or might not have recognized if Mexico hadn't been on my mind pretty constantly lately.

「封筒にはメキシコの切手がたくさん貼(は)ってあった。もっとも、メキシコの切手とわかったのは、メキシコのことがずっと頭にあったからかもしれなかった」(清水訳)

「手紙にはスペイン語で「航空郵便(コレオ・アエレオ)」と書いてあり、メキシコの切手がたくさん貼ってあった。もしここのところメキシコがこれほど頻繁に話題にのぼっていなかったなら、私がその筆跡に思い当たることはあるいはなかったかもしれない」(村上訳)

「”航空郵便(コレオ・アエレオ)”と書かれていて、メキシコの切手がいっぱい貼ってあった。このところメキシコのことを始終考えていた。そうでなければ書かれていた文字に何も思い当たらなかったかもしれない」(田口訳)

「封筒には航空便のスタンプと、メキシコの切手がベタベタ貼られ、なにやらスペイン語で書かれていた。このところ頭の隅にいつもメキシコが引っかかっていた。そうでなかったらゴミ郵便として捨ててしまったかもしれない。いや、そんなことはしないかも」(市川訳)

これまでの訳では、“that”の直前にある“writing”がなおざりにされてきた。清水訳では「メキシコの切手とわかった」と、切手しか眼中にない。村上訳では「筆跡」と解されているが、訳文を読む限り「その筆跡」が示しているのは「航空郵便」の文字としか読めない。しかし、市川訳でも分かるように、ふつう「航空郵便」はスタンプで押される。ここでいう“writing”は宛名などの表書きのことだろう。田口訳も同様で、突然「書かれていた文字」と言われても読者には何のことやらよく分からない。ここは一言あってしかるべきだろう。市川訳の「何やらスペイン語で書かれていた」もよく考えてみたら変で、封筒に書かれているのは自分の住所と名前のはずだ。

テリー・レノックスの手紙の中で、追いつめられた現在の心境を吐露している部分。

there is nothing elevating or dramatic about it.

「とても劇的なものなんか感じられない」(清水訳)
「そこには心高ぶるものもないし、ドラマチックなものもない」(村上訳)
「そこには心昂るものもドラマチックなものも何もない」(田口訳)
「そうなったらそれは気分を高揚させるようなものでも大向こうをうならせるものでもない」(市川訳)

市川氏は“dramatic”=劇的=「大向こうをうならせる」と考えたのだろう。しかし、「大向こう」とは、「芝居小屋の向う桟敷の後方、舞台から最も遠い客席のこと(また、そこに座る客)」を指し、安価なため何度でも足を運ぶことができる、そういった席を選ぶ芝居通をも感心させるほどの名演であることを意味する言葉だ。演技の巧拙を論じる言葉であって、状況が劇的であるかどうかとは何の関係もない。訳者はよくわからないままに使ったのではないか。

テリー・レノックスに頼まれた通り、やるべきことをすませてもマーロウの心は晴れない。普段の生活に戻ろうとするマーロだったが、映画にもチェスにも集中できない。

When I got home again I set out a very dull Ruy Lopez and that didn't mean anything either.

清水訳の「家へ帰ると、ルイ・ロペスのものういメロディのレコードをかけたが、やはりなんの感興もおぼえなかった」も、今となっては懐かしいが、村上訳が「再び帰宅し、ひどくだらだらしたルイ・ロペス(チェスの古典的な開始法)にとりかかったのだが、こちらにも集中できなかった」として以来、ルイ・ロペスは定着したものと思っていた。田口訳が、あえてそこを「家に帰ると、チェスの駒を基本的なオープニングの形に並べたものの、それもなんの意味もなかった」としたのは、チェスに疎い日本人読者の事情を考慮してのことだろう。読書の興をそぐので、註はできるだけ使いたくないものだ。

ところが、市川訳は「家に戻ると一番ありきたりなチェスの定石、ルイ・ロペツを並べてみた。並べたはいいがやる気が起きなかった」と、耳になじみのない「ルイ・ロペツ」という名前を出してきた。どこから引いてきたのかは知らないが、チェスのオープニングについて言及する場合、「ルイ・ロペス」の表記が一般的だ。無用な混乱は避けるのが賢明だろう。

珍しく眠りに就けないマーロウは、部屋の中を歩き回りながら音楽を聞くが何を聴いても心休まらない。ここでいうハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲はニ短調だろうが、ひどい言われようだ。

He called it a violin concerto. I called it a loose fan belt and the hell with it.

「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいた。私にいわせればベルトのゆるんだ送風機だが、そんなことはどうでもよかった」(清水訳)

村上訳では「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と称していたが、私としては「緩んだファンベルトと、それがもたらす苦闘」とでも呼びたいところだ」となっていた。逐語訳が好きな村上訳らしい。“the hell with”は「どうなっても構わない、まっぴらだ、うんざりだ」という意味。田口訳では「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいるが、私にはたるんだファンベルトの音にしか聞こえない。そんなものはクソ食らえだ」と元に戻している。市川訳も「彼はそれをバイオリン・コンチェルトと呼んだが、私には緩んだファンベルトの音にしか聞こえなかった。まあ、どうでもいい」だ。