marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『シングル&シングル』ジョン・ル・カレ

シングル&シングル
時はペレストロイカ時代。旧ソヴィエト連邦が瓦解し、すべての利権がなだれをうって新しい権力者の手の内に落ちようとしていた嵐のような時代だ。英国商社シングル&シングルの重役がトルコの丘の上で殺される場面で物語は幕を開ける。シングル社が契約していたロシア人フィクサー、オルロフ兄弟の船荷が当局に拿捕され積荷は没収されるという事件があった。重役殺害は兄弟による裏切り者への見せしめと考えられる。

シングル&シングルという名の通り、一代で成り上がった成功者タイガーにはオリヴァーという後継ぎがいたが、四年前、息子は父と袂を分かつ決心をした。尊敬していた父の仕事には合法的でない側面が多分にあり、そのパートナーを務めるのが精神的に負担だったからだ。父には手をつけないという一項を条件に彼は社の不正を当局に証言した。父を裏切った息子は家を去り、その後結婚し娘を得るも離婚。一人娘は母と暮らし、自分は地方回りのマジシャンをして暮らしていた。ところが、その娘に大金が贈与され、母子にバラの花束が届く。

同じころ、かつて父の不正を証言した相手であるブロックから連絡があり、父の失踪を知らされる。これ以上の協力を拒否したオリヴァーだったが、自分の家族を守るため父の行方を追うことに。

冷戦後かつてのようなスパイ戦が成立しなくなり、ル・カレの作品でも今回のロシアン・マフィアのようなギャングや不正役人が悪役をつとめるようになった。国家間の戦いであれば、イデオロギーの対立はあっても、戦い自体は知的ゲームのような推理の応酬やトラップのやりとりがあり、一種の爽快感のようなものが感じられたが、相手がはじめから悪であることがわかっている戦いというのは、たとえうまく相手を追い詰めたとしても、なんとなく愉快ではない。

小説巧者のル・カレがそんな単純な話を書くはずがない。父の捜索と奪回をメインに据えた今回の作品ではいやでも父と子の愛と葛藤という主題が浮上してくる。主人公のオリヴァーはすぐれた資質を持ち、周囲の誰にも愛される青年だが、自分ではその価値を理解していない。彼には幼いときに亡くした兄があり、彼に対する父の愛は本来は兄に向けられたはずのもので、学業や運動が兄のようにはできない弟に父は厳しく接した。その幼少時の体験のせいで彼の自我は屈折している。ユングならカイン・コンプレックスと診断するだろう。父に認められる自分であることに価値を感じ、そのようにつとめることがかえって本来の自分を欺き続けることになった。その結果が父への裏切りという最悪の決着だった。

ル・カレの作品としては、シンプルなストーリー展開で、一気に事件解決にまでもってゆく。スパイ小説ではないので、虚無的な余韻は期待しないほうがいい。記憶力、類推能力に秀で、迅速果敢に行動し、女性にもてるオリヴァーは、ヒーローとして申し分のない存在。今回相棒をつとめるグラスゴー訛りの長身の美女アギーも、敵役の妻ゾーヤも出会った瞬間から彼に恋してしまうのだから。