marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

16

マーロウはアールの何を“phony”(いんちき)と言ったのか?

【訳文】

セパルヴェダ・キャニオンの麓、ハイウェイから引っ込んだところに、黄色く塗られた二本の四角い門柱があった。木枠に五本の横木を張った門扉の片方が開いたままになっていた。入り口には「 私道につき、立ち入り禁止」と書いた看板が針金で吊るされていた。空気は暖かく静かで、猫の嫌うユーカリの木の匂いでいっぱいだった。

私道に入って、丘の中腹を廻る砂利道をたどって、緩やかな斜面を上り、尾根を越えて反対側を下りて浅い谷に入った。谷間は暑く、ハイウェイより華氏十度か十五度高かった。砂利道は、石灰塗料を塗った石で縁取られた芝生の周りをループ状に回って終わっていた。左側には空っぽのプールがあったが、空っぽのプールほど空虚に見えるものはない。プールの三方は以前は芝生だったようで、色あせたパッドがついたアカスギ材の寝椅子が点在していた。パッドはもとは青、緑、黄色、橙、赤錆色と多彩だったようだ。縁の縫い目がところどころほつれたり、ボタンがはじけ飛んだりしたところでは詰め物が膨れ上がっていた。残る一方はテニスコートの高い金網に面していた。誰もいないプールの上の飛び込み台は膝をついて疲れているように見えた。粗い織りのカバーはずたずたに垂れ下がり、金具は錆びて剥がれ落ちていた。

方向転換用のループに入り、シングル葺きの屋根と広い玄関ポーチを持つアカスギ材の建物の前で止まった。入り口には両開きの網戸があった。大きな黒い蠅が何匹か網戸の上でうとうとしていた。常緑で常に埃っぽいカリフォルニア・オークの木の間を縫うように小径が伸び、丘の斜面には丸太小屋がちらほら散らばり、中にはほとんど完全に隠れているものもあった。季節外れの荒涼とした雰囲気が漂っていた。ドアは閉ざされ、窓は斜子織りか何かで誂えたカーテンで覆われている。窓枠には厚い埃が積もっているのが感じられるほどだった。

私はエンジンを切り、ステアリングに手を置いて耳をすました。音はしなかった。そこはファラオのように死んでいるみたいだったが、やがて両開きの網戸の向こうのドアが開き、奥の部屋の薄暗がりの中で何かが動いた。そのとき、軽く正確な口笛が聞こえ、男の人影が網戸を背にして現れ、網戸を押し開き、階段を下りてきた。そいつは見ものだった。

平べったい黒いガウチョハットをかぶり、顎の下で革編みの紐を結んでいる。白い絹のシャツにはしみひとつなく、喉元がはだけ、タイトな袖口の上にゆったりとしたパフスリーブがついていた。首の周りには黒いフリンジのついたスカーフが不揃いに結ばれ、片方の端は短く、もう片方はほとんど腰まで垂れていた。黒い幅広のサッシュを締め、黒いズボンを履いていた。腰の部分が肌にぴったりと張りついたズボンは、石炭のように黒く、両サイドが切り込みのあるところまで金糸で縫い取りが施され、ゆったりと広がる切り込みの両側には金ボタンが並んでいた。足には黒のエナメル革のダンス用パンプスを履いていた。

彼は階段の下で立ち止まり、まだ口笛を吹きながら私を見ていた。身のこなしは鞭のようにしなやかだった。絹のような長い睫毛の下には、見たこともないような大きくて虚ろなくすんだ瞳があった。顔立ちは繊細で、弱々しさのない完璧なものだった。鼻はまっすぐで細かったが、細過ぎるというほどではない。口を器用に尖らせている。顎には小さなくぼみがあり、小さな耳は頭に優雅に寄り添っていた。肌は一度も陽の光を浴びたことがないかのようにひどく蒼白かった。

勿体ぶって左手を腰に当て、右手で空中に優雅なカーブを描いてみせた。

「ご機嫌よう」と彼は言った。「いい日和だね?」

「私にはちょっと暑すぎるが」

「ぼくは熱いのが好きだ」ぶっきらぼうで取り付く島がなく話の接ぎ穂がなかった。私が何を好きかは彼の知るところではなかった。彼は階段に腰を下ろし、どこからか長いやすりを取り出して、爪にやすりをかけ始めた。「銀行の人?」彼は顔を上げずに訊いた。

「ドクター・ヴァリンジャーを探している」

彼はやすりをかけるのをやめ、熱気の漂う遠くに目をやった。「誰だって?」と彼は気がなさそうに訊いた。

「ここの持ち主だ。ずいぶん口が堅いじゃないか? まるで知らないかのようだ」

彼は爪のやすりかけに戻った。「何かの聞き違いだろう。ここの持ち主は銀行だ。抵当流れになったか、第三者預託か何かの手続き中だ。詳しいことは忘れた」

彼は、細かいことはどうでもいいといった表情で私を見上げていた。私はオールズから降り、熱いドアにもたれたが、すぐにそこを離れて息のつけるところに移動した。

「どこの銀行だ?」

「知らないってことは、銀行から来たんじゃない。銀行から来たんじゃないなら、ここには何の用もない。なあ、出て行けよ。とっとと失せろ」

「ドクター・ヴァリンジャ―に会わなければならない」

「ここはもうやっていない。看板に書いてあるように、ここは私道なんだ。どこかのセールスマンがゲートを閉め忘れたんだ」

「きみは管理人か?」

「みたいなものだ。これ以上の質問はお断りだ。我慢にも限界がある」

「頭にきた時はどうするんだ。地リスとダンスでも踊るのか?」

彼はいきなり立ち上がった。優雅な身のこなしだった。一瞬笑みを浮かべたが虚ろな笑みだった。「あんたがその型落ちのコンヴァーティブルに戻るにはぼくの手が要るようだ」と彼は言った。

「それは後だ。今は、どこに行けばドクター・ヴァリンジャーが見つかるか? だ」

彼はやすりをシャツのポケットにしまうと、別の物を手にした。素早い動きだった。右手の拳にブラスナックルが光っていた。頬骨の上の皮膚が引き締まり、大きなくすんだ眼の奥に炎が宿っていた。

彼はぶらぶらと私に向かって歩いてきた。私は後ずさりして足場を確保した。彼は口笛を吹き続けていたが、その口笛は甲高く耳障りなものになっていた。

「やりあうことはない」私は彼に言った。「やりあわなきゃならないことなど何もないんだ。それにその見事なズボンが裂けるかもしれない」

あっという間だった。彼は滑らかにひと跳びして距離を詰めると、左手を素早く蛇のようにくねらせた。ジャブを予期して頭を振ってよけたが、彼の狙いは私の右手首だった。つかむ力もなかなかのものだった。腕をぐいと引っ張って私のバランスを崩したところへ、ブラスナックルをはめた手が弧を描いて飛んできた。そんなものを後頭部に食らえば、病院行きは免れない。身を引けば、顔の側面か肩のすぐ下の二の腕に食らう。腕が駄目になるか顔が潰れるかのどちらかだ。となれば、やるべきことは一つしかない。

引かれるままに身を任せ、すれちがい様に彼の左足を後ろからブロックし、彼のシャツをつかむと、生地が裂ける音がした。何かが首の後ろに当たったが、金属ではなかった。私が左に身をよじると、彼は横っ飛びして猫のように着地し、私がバランスを取る前に再び立ち上がった。にやにやしていた。何もかもが愉快でならない様子。こういう仕事が大好きなのだ。速攻で向かってきた。

どこからか野太い声が聞こえた。「アール、すぐにやめろ! すぐにだ。聞こえたか?」

ガウチョ小僧は動きを止めた。顔には薄気味の悪い笑みのようなものを浮かべていた。 素早い動きで、ブラスナックルはズボンの上の幅広いサッシュの中に消えた。

振り返ると、アロハシャツを着たがっしりとした体格の男が、腕を振りながら小径のひとつを急いでこちらに向かってくるのが見えた。近くまでくると、少し息が上がっていた。

「気でも狂ったのか、アール?」

「その言い方はよしてくれ、ドク」とアールは穏やかに言った。それから微笑んで背を向け、家の階段に座った。そしててっぺんの平たい帽子を脱いで櫛を取り出し、無表情で濃い黒髪を梳き始めた。ほどなくして、静かに口笛を吹き始めた。

派手なシャツを着たがっしりした男は突っ立ったまま私を見た。私も彼を見返した。

「いったい何事だ?」彼は唸った。「きみは誰だ?」

「名前はマーロウ。ドクター・ヴァリンジャ―を訪ねてきた。あんたがアールと呼んだ若造がゲームをしたがってね。思うにここはちょっと暑すぎるようだ」

「私がドクター・ヴァリンジャ―だ」彼は威厳を込めて言った。そして後ろを振り向いた。「家の中に入っていなさい、アール」

アールはゆっくりと立ち上がった。ドクター・ヴァリンジャ―をいわくありげに探るように見つめたが、大きなくすんだ眼は表情というものを欠いていた。それから彼は階段を上がり、網戸を開けた。一群れの蠅が怒ってブンブンと音を立て、ドアが閉まると再び網戸に止まった。

「マーロウ?」ドクター・ヴァリンジャ―は私の方に再び注意を向けた。「それで、どういったご用件かな、ミスタ・マーロウ?」

「アールの話では、あなたはここを閉めたそうだが」

「その通り。引っ越す前にある種の法的手続きを待っているところでね。ここはアールと私だけだ」

「そいつはがっかりだ」私はさもがっかりした口ぶりで言った。「ウェイドという男が厄介になってると思ったんだが」

彼はフラー・ブラシの社員なら興味を持ちそうな両の眉を持ち上げた。「ウェイド? その名前なら知ってるかもしれない、ありふれた名前だ。で、どうしてその男が私のところにいるはずだと?」

「治療を受けるためだ」

彼は眉をひそめた。彼みたいな眉毛の男は本人にその気がなくてもしかめっ面になる。「私は医療に携わる者だが、もう治療はしていない。どのような治療を考えておられたのかな?」

「そいつはアル中でね。時々正気を失って行方をくらます。自力で帰ってくることもあれば、連れ戻されることもあるし、ときには捜さなければならないこともある」私は名刺を取り出し、彼に手渡した。

彼は面白くもなさそうにそれを見た。

「アールはどうなってる?」と私は訊いた。「自分をヴァレンティノか何かだと思ってるのか?」

彼はまた眉をひそめた。何とも魅惑的な眉だ。眉毛の一部が一インチ半ほども勝手に丸まってしまうのだ。 彼は肉付きのいい肩をすくめた。

「アールは全くもって無害だよ、ミスタ・マーロウ。時々、夢見がちで、芝居の世界に入り込んでしまう、とでも言えばいいのかな」

「言ってくれるね、ドク。私に言わせれば、彼の芝居は荒っぽ過ぎる」

「ちょっと、ミスタ・マーロウ。それは言い過ぎだ。アールは着飾るのが好きでね。その点ではまるで子どもだ」

「要するにいかれてるってことだ」と私は言った。「ここはある種のサナトリウムなんだろう。あるいは以前はそうだったか?」

「とんでもない。運営されていた当時は芸術家のコロニーだった。私は彼らに食事、宿泊施設、運動や娯楽のための施設、そして何にも増して人目を避けて暮らせる隠れ家を提供した。しかも、適度な料金で、ご存知のように芸術家に裕福な人はそうそういないからね。芸術家という言葉には、もちろん作家や音楽家なども含まれる。私にとってやりがいのある仕事だった。うまくいっている間は」

そう言ったとき、彼は悲しそうな顔をした。眉毛の外端は口角に合わせて垂れ下がり、もう少し伸びれば、口の中に入りそうだ。

「それは知っている」と私は言った。「ファイルに書いてあった。ちょっと前にここで起きた自殺事件もね。麻薬がらみだったんだろ?」

彼はうなだれるのをやめ、いきり立った。
「何のファイルだ?」と彼は語気鋭く訊いた。

「バード・ウィンドウ・ボーイズ、と呼ばれるファイルがあるんだよ、ドクター。振戦譫妄に襲われても窓から飛び降りられない施設を持つ医者のリストだ。小さな個人経営のサナトリウムか何かで、アルコール中毒者や薬物依存症、軽度の躁病を扱っている」

「そういうところは法律で認可を受ける必要がある」とドクター・ヴァリンジャ―は厳しく言った。

「そう、とにかく理論上はそうなる。人は時々そのことを忘れてしまうんだ」

彼は態度を硬化させた。おまけに、この男にはある種の威厳があった。「その物言いは侮辱的だ、ミスタ・マーロウ。きみの言う、その類のリストにどうして私の名前が載らなきゃならんのか、私には見当もつかん。お引き取り願おう」

「ウェイドの話に戻ろう。彼は別の名前でここにいるのかな?」

「ここにはアールと私以外、誰もおらん。われわれだけだ。では、失礼して―」

「あたりを見て回りたいのだが」

.場合によっては、怒らせることで、思いもかけぬ発言を引き出すこともある。 しかし、ドクター・ヴァリンジャーは違った。 彼は威厳を保っていた。眉一つ動かさなかった。 私は家のほうを見た。 中から妙なる調べが聞こえてきた。ダンスミュージックだ。 そして非常に微かに指を鳴らす音も。

「踊ってるな」と私は言った。「あれはタンゴだ。彼はあそこで一人で踊っている。たいしたものだ」

「そろそろ帰ってもらえるかな、ミスタ・マーロウ? それともここから放り出すのにアールの手を借りなきゃいけないのかな?」

「分かった、帰るよ。悪く思わないでくれ、ドクター。Vで始まる名前は三人だけで、その中であんたが一番有望株だった。ドクターV。それが唯一の手がかりでね。彼は姿を消す前に紙に書き留めた。ドクターV、と」

「何十人もいるだろう」とドクター・ヴァリンジャ―は落ち着いて言った。

「もちろん。だが、バード・ウィンドウ・ボーイズのファイルには何十人もいない。時間を割いてくれてありがとう、ドクター。アールのことはちょっと気になるね」

背を向けて車に乗り込んだ。ドアを閉めた時には、ドクター・ヴァリンジャ―がドアの向こうにいた。彼は楽しそうな表情で身を乗り出した。

「われわれが角突き合わせる必要はないよ。ミスタ・マーロウ。多少押しつけがましくなるのは職業柄というものだろう。アールの何が気になるのかね?」

「あれは明らかにいんちきだ。ひとついんちきを見つけると、他にもあるのではと勘ぐりたくなる。あいつは躁鬱病なんだろう? 今は躁状態にあるようだが」

彼は黙って私を見つめた。重々しく真面目くさって言った。「ミスタ・マーロウ、私のところには興味深く、才能のある人がたくさん滞在していた。皆が皆きみのように分別があるわけではなかった。才能のある人は神経症的傾向を持つことが多い。しかし、私のところには精神異常者やアルコール中毒者のケアをする施設がない。たとえそういう仕事が好きだったとしても。アール以外にスタッフはいないし、彼は病人のケアをするタイプではない」

「じゃあ、彼はどんなタイプだと言いたいんだ、ドクター? ダンスとかは別として?」

彼はドアに寄りかかった。内緒話をする時のように声を低くした。「アールの両親は私の大切な友人だった、ミスタ・マーロウ。誰かがアールの面倒を見なければならない。彼の両親はもういない。アールは都会の騒音や誘惑から離れて、静かな生活を送らなければならない。彼は不安定だが、基本的には無害だ。見ての通り、私の言うことには素直に従う」

「あなたはとても勇気がある」と私は言った。

彼はため息をついた。眉が怪しい虫の触角のように揺れた。「犠牲を払った。かなり大きな犠牲だ。ここでの仕事をアールが手伝ってくれると思った。テニスは見事な手並みだし、泳ぎも、飛び込みも一流で、一晩中踊ることができる。大抵の場合上機嫌で過ごしている。だが、ときどき事件が起きた」辛い思い出を背景に押しやるように、彼は大きく手を振った。「結局、アールを諦めるか、ここでの私の居場所を諦めるかのどちらかだった」

彼は両の手のひらを上にして広げ、ひっくり返して脇に落とした。眼は、今にも涙が溢れそうだった。

「ここを売り払った」と彼は言った。「この静かな小さな渓谷は不動産屋の手で開発されるだろう。歩道が整備され、街灯が立ち、スクーターに乗った子どもたちがラジオを鳴らす」と彼は寂しそうにため息をついた。「テレビだってあるだろう」彼は大きく手を振った。「樹々を残してくれることを願っているが、残念ながらそうはならないだろう」と彼は言った。「樹木の代わりに尾根沿いにはテレビのアンテナが立ち並ぶだろう。だが、アールと私は遠く離れたところにいるはずだ」

「さようなら、ドクター。あなたのことを思うと心が痛むよ」

彼は手を差し出した。しっとりしていたが、とてもしっかりしていた。「あなたの同情と理解に感謝する、ミスタ・マーロウ。そして、ミスタ・スレイドを探す役に立てないことを残念に思う」

「ウェイド」と私は言った。

「失礼、ウェイド、そうだった。さようなら、幸運を祈る」

私は車を走らせ、来た道を砂利道に沿って戻った。気落ちしたが、ドクター・ヴァリンジャ―が期待したほどではなかった。

私はゲートを抜けて外に出てしばらく進み、ハイウェイのカーブを曲がって入り口から見えないところに車を停めた。車から降り、境界に沿って張り巡らされた鉄条網越しにゲートが見えるところまで舗装道路の路肩を歩いて戻った。そこに立ち、ユーカリの木の下で待った。

五分かそこらが過ぎた。すると、砂利をかき分けながら私道を下ってくる車があった。私のいる位置からは見えないところで止まった。私はさらに奥の茂みに引っ込んだ。軋むような音がして、それから重い掛け金の下りる音とじゃらじゃらと鳴る鎖の音が聞こえた。車のエンジンがかかり、車は道を戻っていった。

その音が消えると、私はオールズに戻り、Uターンして街の方に戻った。ドクター・ヴァリンジャ―の私道の入り口を通り過ぎると、ゲートに南京錠がかかっていた。今日はもう客は来ないよ、お世話様。

【解説】

マーロウがセパルヴェダ・キャニオンにあるヴァリンジャ―のランチを訪れる場面。ハイウェイの奥に入り口の門を見つけた彼は車をそちらに向けた。

A five-barred gate hung open from one of them.(木枠に五本の横木を張った門扉の片方が開いたままになっていた)

“five-barred gate” というのは、牧場などで見かける、木枠に五本の横木を張った扉のことだ。映像ではよく見るが適当な訳語が見つからない。旧訳では「横木を五本わたした門(清水)」、「横木を五本通したゲート(村上)」、「横木が五本あるゲート(田口)」となっていた。市川訳は「有刺鉄線が五本横に張られた扉」になっているが、これは誤り。

同じパラグラフでもう一つ異同がある。

“The air was warm and quiet and full of the tomcat smell of eucalyptus trees.”(空気は暖かく静かで、猫の嫌うユーカリの木の匂いでいっぱいだった)

この“the tomcat smell”だが、これまでは「牡猫(おすねこ)を思わせる匂い」と訳されていたが、市川訳では「ハッカに似た猫の嫌う匂い」と訳されている。ユーカリの香りには独特の清涼感があるが「牡猫を思わせる匂い」という訳は紛らわしい。チャンドラーはタキという名の黒猫を飼っていた。猫好きなら、猫がユーカリの香りを嫌うことは知っていてもおかしくない。それで、ユーカリの匂いを“the tomcat smell”とストレートに表現したのではないだろうか。

マーロウの前に現れた伊達男を紹介した旧訳の中に、誤訳と思われる部分を見つけた。

 He wore a white silk shirt, spotlessly clean, open at the throat, with tight wristlets and loose puffed sleeves above.(白い絹のシャツにはしみひとつなく、喉元がはだけ、タイトな袖口の上にゆったりとしたパフスリーブがついていた)

清水訳は「シャツはまっ白な絹で、のどがひらき、腰がきつくしまって、袖はゆるやかにふくらんでいた」で、“wrist”(手首)が「腰」になっている。村上訳は「白いシルクのシャツにはしみひとつなく、首のボタンが外されている。手首にはきちきちの腕輪、袖は上の方で大きく膨らみを持っている」。田口訳は「咽喉元を開けて、袖がゆったりとふくらんだ、しみひとつないシルクの真っ白なシャツを着て、きちきちの腕輪をはめていた」と“wristlets”を「腕輪」と訳している。村上訳のように、シャツについて述べている途中で突然、腕輪に言及するのは変だ。田口氏はそれに気づいて語順を入れ替えているが、これでは一連の袖の中での“tight”と“loose”の対比が成立しない。

“with tight wristlets and loose puffed sleeves above”はシャツの属性について述べている。色は白、繊維は絹、襟は喉元が開いている、と来て袖の形状について言及している。タイトな手首の上の方がゆったりとした袖、というのは要するにパフスリーブのことだ。だとすれば、この“wristlets”は「腕輪」ではなく「袖口」ではないか。辞書によっては「腕輪(ブレスレット)」の他に「手首飾り」を挙げているものもある。市川訳は「シャツは真っさらな白い絹で第一ボタンを外していた。ゆったりとしたスリーブは手首でピシッと閉じられていた」となっている。

男の容貌に触れた部分にも一つ気になるところがある。“ his mouth was a handsome pout”(口を器用に尖らせている)のところだが、清水訳は「口もとに魅力があり」、村上訳は「口元は適度に見栄えよく膨らんでいた」、田口訳は「口は優美にふっくらとして」、市川訳は「口笛を吹くその唇は格好よかった」となっている。

このパラグラフは、“He stopped at the foot of the steps and looked at me, still whistling”と書き出されている。つまり、男はまだ口笛を吹いているわけだ。市川訳はそれについて触れているが、他の訳では無視されている。“pout”は「唇を突き出す、口をとがらす」という意味だ。口笛を吹いていれば、当然そういう形になるはず。ところが、これまでの訳者たちは“handsome”に引っかかってそれを忘れたのだろう。この場合の“handsome”は通常の「ハンサム」の意味ではなく、主に米国で用いられる「(人・行為などが)器用な、じょうず」の意味ではないだろうか。

喧嘩をしかけてくる相手をいなすマーロウの言葉。

"We don't have anything to fight about. And you might split those lovely britches."(やりあわなきゃならないことなど何もないんだ。それにその見事なズボンが裂けるかもしれない)

ズボンと訳した単語は“britches”(ひざ上で留める男子用の半ズボン、乗馬用ズボン)と辞書にはあるが、ズボンの略語という意味もある。清水訳は「そのきれいな縫いとり」になっているが、これは誤り。村上訳、田口訳は「かわいらしい(可愛い)半ズボン」、市川訳は「しゃれた乗馬ズボン」だ。しかし、男が穿いているのは“pants”だとすでにマーロウ自身が述べている。だとすると、ここはわざと挑発的な言い方をしていると考えられる。それで三氏のような訳になるのだろう。マーロウが言いたいのは、男のズボンが尻にぴたりと張りついていることだ。実は“britches”には「ズボン下」の意味もある。ほんとうはこう言いたかったのかもしれない。

ドクター・ヴァリンジャーの眉毛について、気になる点がある。以下に原文(と拙訳)を示す。

He frowned. When a guy has eyebrows like that he can really do you a frown. "I am a medical man, sir, but no longer in practice. What sort of cure did you have in mind?"(彼は眉をひそめた。彼みたいな眉毛の男は本人にその気がなくてもしかめっ面になる。「私は医療に携わる者だが、もう治療はしていない。どのような治療を考えておられたのかな?」)

清水訳は〈彼は眉をしかめた。「私は医師だが、もう診療はしていない。どんな治療をうけるためですか」〉と、二番目の文をカットしている。何より「眉をしかめる」はおかしい。“frown”は「眉をひそめる、顔をしかめる」という意味だが、それを混同している。清水氏は、文中の“you”の扱いをどうするか迷ったのではないか。

清水訳でカットされた箇所は、村上訳では「これくらい立派な眉毛を持った人間が眉をひそめると、見事な迫力が生まれる」だ。“he can really do you a frown”を「彼は本当に威圧感を与えることができる」と読むことで「見事な迫力が生まれる」と意訳している。

田口訳は「眼のまえでこれだけ立派な眉をひそめられると、こっちもつられてついつい眉をひそめたくなる」となっている。それを受けたのだろう、市川訳も「彼のような眉毛の男を見るとそれこそ眉をひそめたくなる」となっている。

この二人の訳は如何なものだろうか。“When a guy has eyebrows like that ”は「男がそのような眉毛を持っているとき」としか読めない。ここでは主語はあくまでもそういう眉毛を持つ男であり、それはこの場合ドクター・ヴァリンジャーでしかありえない。つまり、“he can really do you a frown”は、「彼は本当にあなた(任意の人、不特定の人々)に威圧感を覚えさせることができる」という意味で、マーロウは主体ではなく、威圧される客体に過ぎない。それを「眉をひそめたくなる」と主体のように訳すのはおかしい。何よりも次にくるドクターの科白とつながらない。

ドクター・ヴァリンジャーに「アールの何が気になるのか」と訊かれたマーロウの答え。

"He's so obviously a phony. Where you find one thing phony you're apt to expect others. The guy's a manic-depressive, isn't he? Right now he's on the upswing."(あれは明らかにいんちきだ。ひとついんちきを見つけると、他にもあるのではと勘ぐりたくなる。あいつは躁鬱病なんだろう? 今は躁状態にあるようだが)

この“phony”(にせもの、まがいもの、ぺてん師、詐欺師)の訳が、四人の訳者によって少し異なる。それによって文意が異なってくる。

「明らかにまとも(傍点三字)じゃないですね。まとも(傍点三字)でないことが一つあれば、ほかにもまとも(傍点三字)でないことがあると思うのが当然でしょう。あの男は精神分裂症じゃないんですか。どうしてもじっとしていられないらしいですよ」(清水訳)

「彼は明らかに何かになりきっている。何かのふりをする人間は、いろいろとほかのふりもするものです。躁鬱症なんでしょう。違いますか? 今は陽気に騒ぎたい時期のようだが」(村上訳)

「明らかに彼は別世界にいる。そういう人間は、別世界のものをひとつ見つけると、さらにもっと見つけたくなるものだ。彼は躁鬱病なんだろ? 今は躁状態にあるようだが」(田口訳)

「彼が自分を偽っていることは見え見えです。人間誰しも仮面かぶりを一人見つけると他にも仮面かぶりがいると思ってしまうものです。だからそういう目であなたを見ざるを得なかった。アールは躁鬱病だ。そうでしょ?いま鬱から躁に向かっている」(市川訳)

清水訳はわかる。しかし、村上訳と田口訳は第二の文の主語を取り違えている。また、市川訳のように「仮面かぶり」という造語を使うのはいただけない。マーロウの頭の中にあるのはアル中のウェイドであって、アールではない。マーロウが言いたいのは、アールには明らかに躁鬱病の兆候があるということだ。そんな男を放置していることを“phony”(いんちき)と言っているのだ。治療を要する人間が一人いるなら、他にもいるのではないか、と考えるのは当たり前だ。「木を見て森を見ず」ということわざがあるが、三氏は“phony”の語釈にこだわるあまり、コンテクストを見失っているように思われる。