marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ユニヴァーサル野球協会』 ロバート・クーヴァー

ユニヴァーサル野球協会 (白水Uブックス)
「ヘンリーは、興奮のあまりからからに乾いた唇をなめながらパイオニア・パークの上空の太陽を目を細めて見ると、腕時計に目をやった。ほぼ一一時。そろそろディスキンの店が閉まる頃だ。そこで、ヘンリーは、この七回に慣例の、地元の観客たちの背伸びタイムを利用することにした。急いで階段を降り、階下の食料雑貨店(デリカテッセン)でサンドイッチを二つほど買うことにしたのだ。今夜は長くなりそうだ」。ええっ。何で十一時に閉店するの?開店のまちがいとちがう?それに陽が高いのにどうして今夜?と、頭が混乱しかけた。

実は、本当は夜の十一時。ヘンリーのいるのはアパートの自分の部屋。こんな時間に野球などどこの球場でもやっていない。進行中の試合は、ヘンリーが自分で考えた野球ゲームの中でのことである。現在はシーズンも終盤に入り、首位を走るパイオニアズとそれを追うチームの接戦が続いていた。中でも、今日の試合は往年の名投手ブロック・ラザーフォードの息子デイモンが完全試合を成し遂げられるかがかかる大一番である。ヘンリーが熱くなるのは当然だった。

ヘンリーが考案した野球ゲームは、カードや野球盤は使わない。使用するのはスコアブック。試合は三つのサイコロの出た目を、前もって作られている何種類もの一覧表と照らし合わせて進められる。もっとも、このユニヴァーサル野球協会の公式試合も五十六年度に入った。一覧表はヘンリーの頭の中にすべて入っている。それでも、完全試合が起きる確率はきわめて低い。次のサイコロを振る前に一息入れたくなるのも分かる。

この野球ゲーム、ただのゲームと考えると問題である。八つのチームがあり、一つのリーグを構成している。チームには監督がいて、それぞれの名前はもちろん、その性格、手腕も各々異なっている。選手もそれは同じだ。体格がちがうように、気性がちがう。野球殿堂入りを果たした名選手には二世がいて、新人選手として頭角を現しつつある。試合の結果はすべて記録され、論評され、名鑑に記載される。それらのすべてを取り仕切るのがヘンリーだ。ヘンリーは会計事務所に勤めているが、試合がヒートアップしてくると、深夜にまで及び、その記録をまとめていると朝になる。近頃では、毎朝遅刻し、仕事中も居眠りが続き上司に勤務態度を注意される始末。

野球ファンではないので、取り憑かれたように夢中になる気持ちというのがよく分からないのだが、ヘンリーのそれは、ほとんど病気。「野球ゲーム」はゲームなどではなく、もう一つの現実の世界と化しているのだ。ヘンリーは、その世界の中で観客であると同時に、あるときは監督となり、また選手になる。同時に、現実のヘンリーのいるピートのバーがヘンリーの頭の中で、野球ゲームの中で選手が飲みに通うジェイクのバーとごっちゃになり、現実と非現実が交錯し合う。それというのも、ヘンリーが野球ゲームに使っている選手の名前や容姿は、現実に自分の周りにいる人々のそれを流用しているからだ。

この現実と非現実の入り混じり具合が絶妙で、なんとも曰く言い難い魅力になっている。選手の命名の仕方や名前など、一昔前の大リーグのそれが髣髴され、アメリカ人がベースボールを愛する流儀がよく伝わってくる。これは、もう単なるスポーツなんかではなくて、ひとつの宗教のようなものだ。そう考えてくると、選手の名前や家族、出身地を一つ一つ考え出す行為は聖書でいう「創世記」のようなものとなる。世界を偶然できたものと考えず、神の手になる創造物と考えるのはキリスト教ならではだが、その神が自分の意図で創造するのではなく、サイコロを投じ、出た目の数字によって人々の運命が変わる、というのは実に皮肉っぽい。

観客が英雄視する若きヒーロー、デイモン・ラザーフォードがニッカーボッカーズとの試合中、相手投手ジョック・ケイシーの投げた球が頭を直撃し、死んでしまうという事件が起きたあたりから、二つの世界は混沌とし、次第に悲劇的な翳りを帯び始める。ヘンリーは、その事実を受け止めることができず、仲のいい娼婦ヘティや会社の同僚ルーという現実界での友人との間に軋轢が生じる。周囲の目にはヘンリーが、たかがゲームにのめり込むあまりに正気を失いかけているように見える。しかし、ヘンリーにとっては、会社や仕事なんかより、何十年にもわたって記録を取り、成績をまとめ、トレードを成立させ、年老いた選手を引退に追いやり、人数調整のため、構成員の生死を決定してきた「ユニヴァーサル野球協会」の存続の方がより重要であることを誰も理解できないからだ。

アメリカ小説の斬新な流れがリアリズムから非リアリズムに移行しつつある」と柴田元幸氏は言うが、六十年代にその潮流を作ってきたのがトマス・ピンチョンドナルド・バーセルミ、そして、このロバート・クーヴァーら、所謂「ニュー・ライターズ」の連中だ。いかにもポスト・モダンの旗手らしい軽やかな筆致で、野球ゲームにのめり込む独身中年男の姿を活写している。その哀れとも滑稽とも見える生き方はユーモアとペーソス溢れる筆致のなかで、やがて悲劇性をすら漂わせ、結末に至っては神話的ともいえる世界が現出する。その比類のない小説手法に拍手を送りたい。これは紛れもない傑作である。