階級や家風のちがう二つの家が結婚問題をきっかけとして交際が始まることによって起こる騒動の顛末を描く、E・M・フォースター作『ハワーズ・エンド』を下敷きに、現代アメリカを舞台に描いた喜劇風味の風俗小説である。フォースターの代表作をいじるなど、なかなかの度胸だが、名作『ハワーズ・エンド』のパロディーを意識したものではない。むしろ大好きな作品にオマージュを捧げている、という感じだろうか。ただ、よくも悪しくも階級社会が当然視されている英国とは異なり、多くの人種や文化がフラットに混在するアメリカという国を舞台にすることで、階級差のずれから生まれる微妙なヒューモアは薄まり、それに代わって人種問題、貧富の差、大学内でのセックスを含めた交遊の実態が暴露されるなど、シニカルな諷刺劇風のニュアンスが加わった。
『ハワーズ・エンド』におけるアッパー・ミドルの知識人階級と富裕ではあるが無教養な商人階層という二つの家を隔てる階層差の壁に対し、作者が持ち込んだのは、二つの家を代表する男たちを宿敵同士とする工夫である。二人はレンブラントを専門とする教授で、英国生まれの白人ハワードは無宗教で個人を尊重するリベラル。レンブラントを巨匠と仰ぎ見る世評を徹底的に批判する論文は書きかけで放置されている。それに対し、カリブ系黒人のモンティ・キップスはキリスト教を奉じ、家族を重視する保守派である。レンブラントに関する論文はハードカバーで刊行され、よく読まれている。
事の起こりは、ハワードの長男ジェロームが、インターンをしているキップス家の娘ヴィクトリアに結婚を断られたことで、もともと犬猿の仲だった両家の間がいっそう気まずくなったうえに、何の因果かロンドンの大学に勤めていたキップスが、ハワードのいるアメリカの大学に転職し、近所に住むことになる。不倶戴天の二人はアファーマティブ・アクションをはじめ、弱者を優遇する措置に対し、ことごとく対立する。その上、ハワードの娘ゾラが不倫相手のクレアの講座を受講したり、奔放な美女のヴィクトリアがハワードに接近したり、と人間関係が複雑な様相を呈し始める。
『ハワーズ・エンド』の枠組みを踏まえているところは多々ある。弱い立場の人々を放っておけない性格の持ち主は『ハワーズ・エンド』では妹のヘレンの役だったが、本作ではジェロームの弟リーヴァイが担当する。才能はあるが恵まれない環境にいる若者レナード役は、コンサート会場で傘ならぬディスクマンを取り違えられたカールとなり、この世に埋もれた詩人をめぐって、ゾラがヴィクトリアとぶつかってしまう。ややこしい対立関係にある両家の中で、ハワードの妻キキとキップス夫人は心を通わせあう関係となり、遺言で遺贈された物が恥知らずにもキップスに握りつぶされてしまうところまで『ハワーズ・エンド』に倣っている。
英国風俗小説の骨格を譲り受けながら、中身は現代アメリカの中流家庭が抱く問題、それは中年男の浮気による家庭内別居だったり、親子の意思疎通の難しさだったり、子どもの恋愛問題だったり、といろいろだが、まあ、どこにでもある問題が二つの家族とその周りにいるボストン郊外の大学町に住む人々や、よりましな暮らしを求めてアメリカに移住してきた中南米諸国の移民からなる人々を巻き込んで、あれやこれやの騒動を捲き起こす、てんやわんやを描いたものと一口で言えばそうなる。
すでに『ハワーズ・エンド』を読んでいれば、ああ、なるほど、とにんまりすることは多々あるだろうけれど、別に読んでいなくとも充分面白く読める小説である。ラップやヒップホップという音楽、それに美術、詩、そして小説、といった作者の関心を集めた諸々が惜しげもなく配され、なかには、敬愛するナボコフの『ロリータ』の一場面を思わせる中年男と美少女の危うい場面まで登場する。これまでの自分を作ってきた因子をすべて突っ込んだのではないか、と思わせるフル装備である。
普通だったら主人公の位置を占めるだろうハワードという人物が、教授としての腕はともかく、家庭の父親として、あるいは年老いた父親を独り異国に住まわせる息子として、そして愛する妻の夫として、あまりにも好い加減で、まあ、たしかにこういう人物の方が、リアルなんだろうけれど、身もふたもない、その生き方に口あんぐりとなってしまったのだが、それでいてどこか憎めない。独りよがりの思い込みで、とんでもない行動に走ってしまうリーヴァイも、頭が良く、議論に強く、粘り強いネゴシエイターであり、父のよき理解者であるゾラも、家庭内のよき調停役であるジェロームもみんないい子であるのは、昔はすごい美女だったが、太ってからは大女と化したキキあってのことだ。このキキの人物像は魅力的で、キップス夫人が家族よりもキキを心のよすがとしたのは、とてもよくわかる。人物がよく描けている小説はおもしろい。そういう意味でも、この小説はとてもおもしろい小説であるといえる。