marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『夜、僕らは輪になって歩く』 ダニエル・アラルコン

夜、僕らは輪になって歩く (新潮クレスト・ブックス)
小説が突然そこで断ち切られたように終わると、二十歳過ぎの青年の若さゆえの思いこみが招きよせた片恋の、そのあまりにも過酷に過ぎる結末に、それまで行間に漂っていたはずのやるせなさのようなものが、ざらりとした荒い手応えを感じさせるものに一瞬にして変容してしまう。それと同時に、それまで前面には出てこなかった政治的な地平が一気に前面に躍り出て、アンデス高地の鄙びた村々で演じられる劇をユーモラスなタッチで描いた、ハートウォーミングな物語が一種の隠れ蓑であったことにあらためて思い至る。三人だけの移動劇団が舞台にかけていた劇のタイトルは『間抜けの大統領』。初手から意図は丸見えにされていたのだ。

舞台はペルーを思わせる国の首都。時は内戦から二十年を経過した2001年。内戦のさなか、芸術学校の学生を中心にした「ディシエンブレ(十二月)」という劇団が生まれ、紛争地域を巡り歩いては「人民のための演劇」を実践した。英雄視するものもあったがテロと同一視するものもいて、主演兼劇作家のヘンリーは逮捕され「収集人街」という監獄に収監される。獄中にあっても囚人仲間と芝居をするなど意気軒昂であったヘンリーはやがて釈放される。だが、同房のロヘリオは、軍による「収集人街」砲撃により、他の仲間とともに殺される。

その日以来、演劇から身を引いたヘンリーは教師として暮らしていたが、かつての仲間パタラルガから劇団結成二十年を期して『間抜けの大統領』再演を執拗に請われ、新しい仲間のオーディションを行なう。芸術学校の卒業生で俳優志望のネルソンが大統領の息子役に選ばれ、三人は地方公演に出発する。学校の講堂や店の一部が借りられたら儲けもの、晴れた日なら野外のテント公演。二、三十人程度の観客を相手に演じ、終われば客も車座になっての宴会。芝居などめったに見たことのない観客からの拍手と歓待は、この小説の中でいちばん心温まる場面だ。

三人の俳優の人物像が、役柄とダブる。宿の手配をしたり、上演準備をするのは召使役のパタラルガ。かつては町一番の劇場だったが、いまやポルノ映画館と化した<オリンピア>の所有者だ。彼は内戦時代の巡業公演の熱気が忘れられない。ヘンリーに憧れて演劇を始めたネルソンは、首都は忘れろというヘンリーの言いなりで、恋人に電話することもできない。大統領役のヘンリーは、バスでの移動中も荷物はパタラルガとネルソンに担がせ、すっかり大統領気分だ。上演スケジュールを勝手に変更し、近隣の「T」という町に行くことを決めたのもヘンリーだった。「T」はロヘリオの生まれ故郷。実は二段ベッドの上と下で空想の中で女を抱くイメージを共有するうち、ヘンリーとロヘリオは愛し合うようになっていたのだ。

ヘンリーの突然の訪問が、息子の死を知らされていなかった母親にパニックを引き起こし、ヘンリーはロヘリオの兄ハイメに殴る蹴るの暴行を受け、一座は解散。ヘンリーとパタラルガは首都に帰るが、ネルソンをロヘリオと信じ込んだ母親の認知症の容態が安定するまで、ハイメの要請により、ネルソンは「T」に留まってロヘリオ役を演じることに。しかし、約束の期限である二週間が過ぎてもハイメからは何の音沙汰もない。電話で恋人の妊娠を告げられたネルソンは痺れを切らしてしまう。しかし、這う這うの体で首都に帰ったネルソンを待っていたものは無残な現実だった。

内戦の時代を知る世代が、当時に寄せる思いにはノスタルジーとばかり決めつける訳にはいかない切実な思いがある。世界中が何かが変わる予感に溢れていたのだ。閉塞感の強い内戦後の世代の主人公にとって、ヘンリーやパタラルガと旅公演に出ることは、新しい世界への出発を意味していた。しかし、過去はいつまでも付き纏い、因果はめぐりめぐって若いネルソンの上にふりかかる。アンデス高地の牧歌的な祝祭に満ちた旅芝居は、その宿縁ゆえに新しくできた街に蔓延る悪徳と無縁ではいられず、父として生きようと願うピュアな若者の想いは空回りして、周囲を巻き込んでゆく。

ヘンリーとパタラルガが舞台を降りるのと相前後するように、「僕」が舞台に登場する。首都に住んでいる「僕」は用があって生まれ故郷の「T」に帰ってきていた。第二部まで純然たる語り手だった「僕」は、第三部では登場人物の一人となって、ネルソンと対面する。ただ、この時点での「僕」は、これから何が起きることになるかは何も知らない、ただの通りすがりに過ぎない。この小説は、のちに雑誌記者となった「僕」が、今首都で話題になっている事件が、あの時の「T」での騒動に端を発したものだと知ったことをきっかけに取材を重ねた結果を記した体裁になっている。

構造的には、語り手の「僕」がメタレベルから次第に作中の次元に降りてくる仕掛けがおもしろい。第一部では単なる語り手であったものが、最後の第五部では登場人物の一人として主人公と対峙するまでその存在感を高めるのだ。語り手が登場人物と同じ平面に立つということは、自分を虚構のなかに繰り込むということであると同時に、一方では虚構の中の存在であった人物を現実存在として抜き出してくることでもある。それまでのネルソンは「僕」の想像するとおり考え、行動していたわけだが、同じレベルに立てば、そうはいかない。現実存在と化したネルソンは、「僕」などが想像できるような人物ではなくなっていた。彼をそこまで変えたのが「収集人街」という「監獄」が象徴する現実の社会に存在する悪であったことはいうまでもない。

社会の大きな変化が個人に及ぼす力、自己と関わりを持つ多くの他者との関係性、演劇と実人生、ひいては芸術と人間、といった大きなテーマが、どちらかといえば内向的な青年の疾走する青春を描いた小説の中で何度も繰り返し考えることを訴えてくる。これが長篇第二作というから畏れ入る。デビュー作『ロスト・シティ・レディオ』が読みたくなった。