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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『まわり舞台の上で 荒木一郎』 荒木一郎

まわり舞台の上で 荒木一郎
新聞広告で見つけて、ああ、こんなの出たんだと懐かしくなって読んでみた。自伝かと思ったのだが、三人のインタビュアー相手に荒木自身が語った肉声を書き起こしたものだった。無論編集はされているだろうが、小説家の顔も持つ荒木自身が書いたものより、歌と同じで、どこか力を抜いた語り口調に独特のライブ感があってかえって良かったと思う。

と、書きながら、気になった。コアなファンはともかく、今どき荒木を覚えている人がいるだろうか。「空に星があるように」でレコード・デビューしたのが、1966年。その年のレコード大賞新人賞を受賞している。その後、「今夜は踊ろう」、「いとしのマックス」といったポップス調の曲を立て続けにヒットさせ、シンガー・ソングライターの先駆けとなった矢先の1966年、強制猥褻致傷容疑で逮捕拘留後、不起訴処分で釈放されるという事件を起こす。

NHKの人気番組「バス通り裏」にも好青年役でレギュラー出演。東映のヤクザ映画でも批評家から注目されていた役者でもあったが、これを境に芸能界の表舞台から消えてしまう。もったいないなあ、というのが当時ファンだった者の印象である。同じころ登場した加山雄三も自作曲を歌っていたが、荒木の曲作りは、大橋巨泉が「日本で初めてマイナーセブンス・コードを使った」と評したほど素人離れしていた。それに何より、歌詞といい声といい、いつまでも心に残る歌だったのだ。

しかし、本人はそれほど歌手にこだわっていたわけではない。「空に星があるように」も、昔ひどい別れ方をした女の子のことが気になって、その子の気持ちになって作った曲だという。家で歌っているところを聞いた知人が、いつ来てもその曲を歌えとせがむので、ギターで弾き語りを聞かせていたところ、荒木一郎をパーソナリティにしたラジオ番組を作る話になった。そのオープニング曲となり、人気に火がついてのレコード化だった。

荒木自身には、何かになりたい気持ちなどなく、話を持ってくる人の意に沿うようにやっていると、いつのまにか評判になるというパターンだ。役者にしても母親である文学座荒木道子が離婚し、女手一つで育てられたせいで、スタジオに顔を出していたところを子役に使われて始めただけのこと。本人はジャズが好きで、高校の仲間とバンドを組んで、ドラムを担当していた。なんと、当時役者に転向したばかりのフランキー堺からもらったドラムだというからスゴイ。

独特の鼻にかかったクルーナー唱法は、ドラムを習うつもりで入ったジャズ教室の先生が、歌が専門だったので身についたものだという。アフター・ビートを効かせた歌い方はジャズからきていたのだ。一年間で265本も見たという洋画は、女の子と話すきっかけ作りのために通ったのがもと。本当はチャンバラ映画が好きだったが、相手の子はジェイムス・ディーンが好きな洋画ファン。一年見続けた結果、「荒木君にはかなわない」と言わせるまでの映画通になっていた。

何でもこの調子。学校の成績は悪く、ジャズ喫茶に通い、ハイミナール(睡眠薬)をやるという、まあ不良学生。小さい頃から女優業の母は不在がちで、学校は自宅から遠い青学に通っていたため、近所に友だちがいない。小学生の時、遊び相手を集めるため、女の子に「ストリップしない?」と誘いかけ、それをダシに男の子を集めた。女の子は断らなかったというから女心というものを当時からよく知っていたのだ。後に「夜の帝王」と異名をとるだけのことはある。

いつでも、相手の側に立って考える、というのが荒木一郎のやり方だ。表舞台から干されていたとき、東映ポルノの看板女優だった池玲子や杉本美紀を扱う現代企画という事務所を構えるが、これも行きがかり上頼まれたからという理由。しかし、いつのまにか大勢のポルノ女優を抱えることになる。一世を風靡した芹明香がつき合っていた男の影響で薬漬け、酒漬けになっていたのを男を説得して別れさせたのも荒木だという。

芹明香のときなんかは、男っていうよりも、麻薬絡み。東映京都は危ないんだよ。ほんとに。人が麻薬漬けになっていくんだよ。危なくてしょうがない。(略)京都は、そういう所が、ちょっと裏に入るとあるんだよ。それはやっぱり俳優絡みで入ってくる。表面だけ見てると、面白そうに見えるかもしれないけど、裏側ではそういうことも考えてかなきゃいけない」

そんななか、芝居には思い入れがあったようで、駆け出し当時から台本や演出に口出ししていたというから周囲には迷惑がられていたにちがいない。ただ、腕はよかったのだろう。荒木の手で台本が書き換えられるところをみんながシーンと見守っていたという。本のなかでもからんだ相手に演技をつけるところが何度も出てくる。渡瀬恒彦なども、荒木にかかるとまるで小僧っ子扱いだ。

「日本に果たしてどれだけ本物の演出家がいるか、ほんとに少ないと思うんですよ、僕なんかは。新劇でも限られていたと思うけど、ましてや、テレビや映画になると、演出をできる人っていないでしょ。だから、渡瀬たちが出てくるときに、一体誰がその芝居を教えたり演出をするのかっていうと、いないんだよね。芝居っていうものを覚えられないと思うんだよ。」

伊佐山ひろ子の天然ぶりに桃井かおりが嫉妬した話が出てくるが、荒木一郎桃井かおりをプロデュースしていたのも初耳。扱いが難しい女優のようで、現場が止まることもよくあった。そういうときは、荒木が出て行って、桃井を説得するのではなく、演出家のほうに、これこれじゃないかとやる。すると機嫌を直して撮影が再開するのだ。荒木には桃井の気持ちが分かる。演出云々というより女優の気持ちを慮るというところに荒木一流のマネージャー術があるようだ。ただ、最後の方は距離を置く形になっている。限界だったのだろう。烏丸せつこをプロデュースするのはその後だ。

「あるとき、NHK−FMが管理している僕のレコードを見せてくれたんだよ。「荒木さんのレコードがどうなってるか見る?」って。すごいよ。シングル盤の表面を全部マジックとかで真っ黒に塗ってあるわけ、もう変質者としか思えない。シングル盤のジャケットを、ただ、「使用禁止」とかいうんじゃなく、黒く塗りつぶしてるの。どのレコードも、顔も見えないように、全部だよ。びっくりしたもん、それを見て。なんでそこまでやるのって。」

日陰を歩かされたからか、正統派よりアウトロー好みだったのはまちがいない。ショーケン松田優作にはシンパシーを感じていることが伝わってくる。反面、『悪魔のようなあいつ』の沢田研二は優等生で会社の言いなりだったとか、『夕暮まで』に伊丹十三が出ることになったのは私生活での恐妻家ぶりを知って監督に推薦したのに勘違いして二枚目でやろうとしたから駄目だったとか、この手の話を紹介しているときりがない。

ヤクザ相手の武勇伝を含め、すべて本人の言ったことをそのまま書き起こしたもので、それについて裏をとることはしていないから、事の真偽は分からない。ただ、事件を起こした後、当人は神経症を患って自宅から五百メートル圏内から出られなかった。『仁義なき戦い』で川谷拓三が鮮烈デビューを果たしたあの役、本当は荒木にオファーが来たのだが、とても広島には行けないというので下りたのだ。他にもずいぶん仕事を棒に振っている。充分罰は受けているのではないだろうか。

レイモンド・チャンドラーが好きだという荒木が当時入り浸っていた渋谷のジャズ喫茶を舞台にして書いたという『ありんこアフター・ダーク』などの小説も一度読んでみたくなった。