marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『鳥の巣』 シャーリイ・ジャクスン

鳥の巣 (DALKEY ARCHIVE)
冒頭、傾きかけた博物館で働く職員の様子をひとわたりユーモラスに語り終えると、話者の視点は主人公であるエリザベスその人に寄ってゆく。

博物館の三階にある事務室でタイプを打っているエリザベス・リッチモンドはこれといって特徴のない二十三歳の女性。早くに父を亡くし、母が四年前に亡くなった後は叔母に引き取られて暮らしている。これといった友だちもなく、仕事にも特段の関心を持っていなかった。博物館の修理のため、エリザベスの机のすぐ横に穴が開けられた日、彼女宛に匿名の手紙が届く。鉛筆書きの文章は、「きたないリジー」と、彼女を中傷し、脅す内容のものだった。

すると、エリザベスはその手紙を持ち帰り、さも大事なものでもあるかのように母の手紙を入れた箱にしまう。なにか変だ。ざわりとした感じが読者を襲う。文面から見て嫌な感じがする手紙だ。普通、破り捨てるか、その勇気がないなら人に相談するだろう。だがエリザベスは、その後、何事もなかったかのように叔母のモーゲンと夕食を済ませる。頭痛のせいで背中が痛むので叔母の手を借りて服を脱ぎ、床につく。翌朝、叔母は昨夜どこへ出かけたのかとエリザベスをなじる。

何がおかしいのかよく分からないが、どこか変なのだ、この娘は。夜半の外出や、知人の家での無作法を覚えていないという姪の言葉を信じた叔母は、医者に診せることにする。かかりつけ医は、エリザベスを診て、精神科医のライト医師を紹介する。ライトは、催眠療法を用いて、エリザベスの深部に潜り込み、真相を究明する。エリザベスは多重人格。今でいう解離性同一性障害だった。

結果的にエリザベスには、四つの人格が見つかった。まず、手紙でリジーと呼ばれる博物館で働く感情を顕わにしないエリザベス。次に、催眠時に最初に現れた情感豊かなべス。三人目が例の手紙を書いた、いたずら好きで、厄介者のベッツィ。最後が母が死んでからの叔母との四年間の記憶がすっぽりと抜け落ち、父の遺産を叔母が横取りしたと信じ込んでいる金の亡者ベティだ。初めのうちは、催眠状態の中でしか現れることのなかった四つの人格が、覚醒時にも現れるようになり、ついには、代わる代わる現れて相争うようになる。この四つの異なる人格の描きわけが上手い。

特にずっと内側に閉じ込められていた邪悪なベッツィが表面に登場してくる場面はぞっとする。ところが、第三章では、そのベッツィが一人でバスに乗り、ニューヨークまで母を探しに行くのだが、人のまねをして切符を買ったり、河が見えた、壁がピンク色だった、といった断片的な記憶を頼りに、母を探そうとしたり、ベッツィのやることは、まるで子どもだ。大人の体の中に入った子どもが、ニューヨークをさまよっている。ベッツィの視点から描かれることで、読者にもその心細さが伝わってくる。

初めのうちは感じのいいべスが気に入っていたライトだが、事態が錯綜してくると、愛情をほしがってばかりのベスよりも、乱暴だが行動力のあるベッツィを頼りにしはじめる。最終的には、四つの人格を統合して一人のエリザベスにしたいと願うライトだが、なかなか思うようにことは進まない。特にベッツィとベティの仲が悪く、首を絞めたり引っかいたりと喧嘩沙汰におよぶ。そう書くといかにも二人が取っ組み合いをしているようだが、実際は自分で自分の首を絞めているわけだ。

重篤な多重人格の発症には理由があるにちがいない。それには、エリザベスの過去に何があったかを知る必要がある。謎を解く鍵は母親の死にあると考えたライトは、エリザベスに訊こうとするのだが、その度にベッツィがふざけ散らして邪魔をする。それでも、読者は切れ切れの話から、手がかりをつかむことができる。つまり、この物語は、探偵ライトによるエリザベスの多重人格発症の謎を解くミステリなのだ。冒頭に登場したエリザベスが箱に大事にしまっていた母の手紙が大事な伏線になっている。

1954年に発表された著者による長編第三作。こんなに面白いのに、これが本邦初訳とは、ちょっと信じられない。多重人格を描いた作品は多いが、発表年代から見て先駆的作品だろう。訳者あとがきによれば、ホラー小説で有名な作家のようだ。ベッツィの登場するシーンなど、確かに怖い。ただ、この作品に限れば、エリザベスに関わる叔母や知人の描写には相当量のユーモアも塗されている。視点の転換による心理描写の描き分けなど構成も巧みである。今年は生誕百年にあたり、他の作品も出版されている。もっと読まれていい作家だと思う。