marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十五章(1)

《彼はそれが気に入らなかった。下唇は歯の下に引っ込み、眉根は下がり眉山が尖った。顔全体に警戒感が走り、狡く卑しくなった。
 ブザーは歌いやまなかった。私もそれは気に入らなかった。もしかして訪問者がエディ・マーズと彼の部下だったら、私はここにいるだけで殺されるだろう。もし警察だったら、私は捕まるが、彼らにやれるものときたら微笑と約束だけだった。そして、もしそれがブロディの友人の類なら――彼にそんなものがいたとしてだが――彼より手強かったりするのだろう。
 ブロンドもそれが気に入らなかった。彼女は急に立ち上がり、片手で空を掻いた。張りつめた神経が彼女の顔を老けさせ、醜くした。
 私を見ながら、ブロディは机の小抽斗をぐいと引き、象牙の握りがついた自動拳銃を取り出した。彼はそれをブロンドに示した。彼女はそっと彼の傍に寄り、震えながらそれを受け取った。
「彼の隣に座れ」ブロディが鋭く言った。「低く構えて、ドアから離れるんだ。もしおかしな真似をしたら何とでもしろ。俺たちはまだ負けたわけじゃない。ベイビー」
「ねえ、ジョー」ブロンドが泣きながら言った。彼女はやってくるとダヴェンポートの私の隣に座り、銃口を脚の動脈に当てた。彼女の目が落ち着かないのが気に入らなかった。
 ブザーの唸りが止まり、それに代わって気ぜわしくドアを叩く音が続いた。ブロディはポケットの中に手を入れ、銃を握り、ドアまで歩いて左手で開けた。カーメン・スターンウッドが彼を部屋に押し戻した。小型のリヴォルヴァーが彼の褐色の薄い唇に押しつけられていた。
 ブロディはもごもごと口を動かせ、顔に恐怖の表情を浮かべながら後退りした。カーメンは後ろ手にドアを閉めたが、私とアグネスのどちらも見なかった。彼女は注意ぶかくブロディに忍び寄った。歯の間から少しだけ舌先がのぞいていた。ブロディは両手をポケットから出し、彼女をなだめようという身振りをした。両の眉は曲線と角度の奇妙な取り合わせになっていた。アグネスは銃口を私からカーメンの方へ振り向けた。私は手を突き出して彼女の手の上で指を閉じ、親指を安全装置に押しつけた。安全装置はかかっていた。私はそのまま続けた。短い沈黙の闘争があった。ブロディもカーメンもどちらも何の注意も払わなかった。私は銃を手にした。アグネスは深く息を吐き全身を震わせていた。カーメンの顔は肉がこそげ落ちたように骨ばり、息をするたびにしゅうしゅうと音がした。彼女は抑揚を欠いた声で言った。
「私の写真が欲しいの、ジョー
 ブロディは息をのんで笑いかけようとした。「いいとも、分かった、いいとも」彼は抑揚のない小声で言った。それは彼が私に使っていた声に似ていた。スクーターが十トントラックであるのと同じくらいには。
カーメンは言った。「あなたがアーサー・ガイガーを撃った。私はあなたを見た。私の写真を返して」ブロディは真っ青になった。
「ちょっと待てよ、カーメン」私は叫んだ。
 金髪のアグネスはにわかに正気づいた。彼女は頭を下げて私の右手に歯をくい込ませた。私は大声を上げ、彼女を振り払った。
「聴いてくれ」ブロディは哀れな声を出した。「ちょっとだけ聞いてくれ――」
 ブロンドは私に唾を吐き、私の脚に体を投げ出して噛みつこうとした。私は銃で彼女の頭を、加減して殴り、立ち上がろうとした。彼女は私の足にしがみつき、引き倒した。私はダヴェンポートに凭れ込んだ。ブロンドは強かった。愛か恐怖による乱心か、それとも二つが混ざったか、もしかしたらもともと強かったのかも知れない。
ブロディは顔の間近にあった小型のリヴォルヴァーをつかもうとした。彼はとり損ねた。銃は何かを叩いたような鋭い音を立てたが、さほど大きくはなかった。銃弾は折り畳まれたフレンチ・ウィンドウのガラスを割った。ブロディはひどいうめき声をあげて床に転げ落ち、カーメンの足を下からすくった。彼女はどたりと倒れ、小型のリヴォルヴァーが部屋の隅まで滑っていった。ブロディは跳ね起きて膝をつき、ポケットに手を伸ばした。
 私は前よりは手加減せずアグネスの頭を殴り、彼女を蹴って脚から振りほどき、立ち上がった。ブロディが私の方をちらりと見た。私は彼に自動拳銃を見せた。彼はポケットに入れかけた手をとめた。
「くそっ」彼は泣き言を言った。「彼女に俺を殺させないでくれ」
 私は笑いはじめた。抑えが効かず、馬鹿のように笑った。金髪のアグネスは敷物に手をつをいて床から起き上がりかけていた。口を大きく開き、金属の色味を帯びた金髪が一筋彼女の右目の上に垂れていた。カーメンは手と膝で這い続け、相変わらずしゅうしゅうやっている。彼女の小型リヴォルヴァーが隅の幅木を背に、金属特有の光を放っていた。彼女はそれに向かってひたすら這い進んでいた。
 私は自分の取り分となった銃でブロディに合図して言った。「じっとしてろ。大丈夫だ」
 私は四つん這いの娘を通り越して銃をつまみ上げた。彼女は私を見上げるとくすくす笑い出した。私は彼女の銃をポケットに入れ、彼女の背中を軽く叩いた。「立つんだ、エンジェル。君はまるで狆みたいだ」》

「下唇は歯の下に引っ込み、眉根は下がり眉山が尖った」は<His lower lip went in under his teeth, and his eyeblows drew down sharply at the corners.>。双葉氏は「下くちびるをかみ、眉の根をぐいと下げ」、村上氏は「歯で下唇を噛みしめ、眉をきつくしかめた」。気になるのは、両氏ともにこの文の主語がブロディになっていることだ。原文はちがう。たしかに日本語としての座りはよくなるが、主語をブロディにしたことで、彼の意志が出ている。ここはあくまでもマーロウの視点で語るべきだ。

「彼はそれをブロンドに示した」は<He held it at the blonde.>。両氏ともに「金髪のほうへ差し出した」、「それを金髪女に差し出した」と訳している。既出の<hold it>だが、これを「差し出した」と訳すことに抵抗がある。いい訳が思いつかなかったが、ブロディは取り出した銃を差し出してはいない<He held it >。ただ、ブロンドに<at the blonde>見得るように持っていたのだ。そこには言外に「お前がこれを使え」の意味が込められていた。だから、ブロンドは泣きながらもそれを手にしたのだろう。

「俺たちはまだ負けたわけじゃない。ベイビー」は<We ain’t licked yet, baby.>。ここを双葉氏は「おれたちはまだなめられちゃいないんだ」と訳している。たしかに<lick>は「舐める」の意味だが、「まだなめられちゃいないんだ」はおかしい。<lick>には口語表現で「打ち負かす」の意味がある。村上氏は「俺たちにもまだ勝ち目はあるんだ。ベイビー」と訳している。もう一つ、いつものことながら双葉氏は――部分をカットしている。

「彼女の目が落ち着かないのが気に入らなかった」は<I didn’t like the jerky look in her eyes.>。双葉氏は「私は彼女の目にあらわれた落ち着かない色が気に入らなかった」と、彼の訳には珍しく言葉を多用して訳している。かえって村上氏の方が「彼女のひきつった目つきが気になった」と短い。ただ、「ひきつった」を目つきを修飾する語に用いる例は少ない。ここは「ぴくぴく動く」の意に取るべきだろう。それと、三つのパラグラフに<didn’t like>を繰り返し使っているので、訳の方も「気に入らなかった」で通したいところだ。

「安全装置はかかっていた。私はそのまま続けた」は<It was already on. I kept it on.>。双葉氏は「装置はかかっていた。私はそのままおさえつづけた」と訳している。村上氏は「安全装置はかかっていた。だからそのままにしておいた」と訳している。「そのまま」にした<it>とは何だろう。拳銃をめぐる二人の争いだろうか?それとも安全装置の<on>の状態だろうか?チャンドラーのことだ。作動中を意味する<on>と「そのまま」を意味する<keep on>の両方に掛けているのではないだろうか。

「彼は抑揚のない小声で言った。それは彼が私に使っていた声に似ていた。スクーターが十トントラックであるのと同じくらいには」は<He said it in a small flat voice that was as much like the voice he had used to me as a scooter is like a ten-ton truck.>。双葉氏の訳では「さっき私に使ったような、低い表情のない声で言った。スクーターを十トントラックにみせかけるみたいな声だ」となっている。

村上訳を見てみよう。「彼は潤いのない小さな声でそう言った。それはさっきまで私に向けていたどす(傍点二字)のきいた声に比べると、十トントラックに対するスクーターくらいの勢いしかなかった」だ。ブロディの声は、カーメンに対するときと私に対するときでは、ちがう(村上氏)のだろうか?それとも同じ(双葉氏)なのか。

結論から言えばまったくちがう。<as much〜 A as B>は「BはAと同じ程度に〜だ」。つまり、スクーターが十トントラックに似ているのと同程度、カーメンに使う声と私に使う声が似ている、ということになる。言い換えれば、全然似ていない。それだけのことをこのように回りくどい言い方をするのが、マーロウ特有の表現方法であり、チャンドラーの文体なのだ。意味としては村上氏の訳でいいのだが、こうまで噛みくだいてしまうと、元のひと捻りした味わいがなくなってしまう。