marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『光の犬』松家仁之

光の犬
北海道の東部、サロマ湖や網走で知られる道東の小さな町、枝留(えだる)が舞台。そこに暮らす添島家三代の年代記である。その中には共に暮らす北海道犬も含まれる。ただ、犬の方は血筋は一つではない。一族が北海道に渡ったのは関東大震災に見舞われた夫婦に、よねの師匠の産科医が枝留行きを勧めたからだった。枝留は薄荷の輸出が盛んだった。夫の眞蔵は枝留薄荷という会社の役員、よねは家の一部を使って産院を開く。

よねは一枝、眞二郎、美恵子、智世の四人の子を生んだ。眞二郎は枝留薄荷に勤めていた登代子と結婚し、家を継いだ。二女の恵美子は離婚して家に戻ったが、二人の姉妹は結婚しなかった。三人姉妹は棟割長屋のように改築した実家で暮らす。所帯は別だが、小姑が三人もいることになる。おまけに夫は始終姉妹の家を訪ねてしゃべってくるくせに家では仏頂面をしている。妻の登代子は次第に夫と口を利かなくなる。

添島家には歩と始の姉弟が生まれる。活発で聡明な姉と内向的な弟は外見はよく似ていても全くちがっていた。姉には枝留教会の牧師の子で同級生の一惟という友達ができる。絵と音楽という共通する才能もあって、同じ大学に通う話もあったが、歩が札幌にある大学を選んだことで、京都の神学部のある大学に通う一惟とは距離ができた。枝留に帰ったとき以外は手紙のやり取りが続く程度の関係だった。

目まぐるしく入れ替わる視点は、添島家の人間だけでなく一惟や始の妻と思える人物にも及び、語られる場面はいくつもの時点を行き来するので、いつ誰が語っているのかをいちいち確認するのに骨が折れる。こうまで煩雑な語りにする必要があるのだろうか。それだけではない。そこから先に広がることも、誰かの挿話とからまることもないエピソードが尻切れトンボのように撒き散らされ、まるで収拾がつかない。

たしかに現実はそうしたまとまりのない事実の総和で成り立っているのだが、一篇の小説としてはその中で完結していると思いたい。そのような作家的な配慮はあらかじめ想定されていないようだ。むしろ、参考文献が付されているので分かるが、物理学を研究する歩が講義で出会うニュートンハッブルについてのエピソードや、よねの師匠である産科医の経験から生み出された練達の産婆術など、作家には書きたいことが多すぎるほどあったようだ。

しかし、小説としては、それまでのものより厚みを増していることもまちがいない。どちらかといえばスタイリッシュで、出てくる音楽や料理などへのこだわりが主人公の身辺に垣間見るのが松家仁之の持ち味だったが、それらを幾分か抑え、どこにでもある家族間の感情的なすれちがいや軋轢に重点を置いている。ファンにとっては目新しくもあるが、それが受け入れられるかどうかは賭けのようなものだ。

添島家の三人姉妹と登代子との顕わにされることのない闘争などは、日本の家族を書く上で、映画でも小説でもなじみの深い主題であり、さほど目新しいものではない。わざわざそれを持ち込んだのは、歩や始の人間形成にそれがどういう影響を与えたかの説明であろう。それにしては、多すぎるほどスペースが割かれている。その中でよねの逸話には添島という家族の根源が露呈されているようにも見え、ここだけは必要だったと思える。すべてはそこから始まっているのだ。

医学を志すほどの力を持ちながら、家庭の事情で産婆となった祖母は、自分のすべてをそれに賭けていた。家庭の主婦であるよりも他人の子を無事にとりあげることが自己実現の手段だった。夫はそれが不満で他所に女をつくり、家をないがしろにした。よねは自分の子にも時間を割くことがなかった、今でいえばキャリア・ウーマンの先駆けだったのだ。それが子どもたちに何らかの影響を与えたのかもしれない。

小説の主要なパートを受け持つのは歩である。将来を嘱望される職に就きながら、癌に見舞われ、三十歳で死んでしまう。誰にも愛される魅力的な女性で、小説の中で唯一主人公としての魅力を発する人物が、弟に看取られ早々と死んでしまう。どうにかならなかったのかと思うが、すべてはここに終焉するように書かれていたのだ。血縁とは何か。家族とは何か。人間が持つ家族という関係性を、いつも傍にいて知らぬ裡に批評しているのが犬に他ならない。北海道犬に血筋はあるが、それぞれの犬は独立した個であり、飼い主との関係を自ら作り出す。

歩にとっては始をはじめとする家族の誰よりも心を許せるのが犬のジロだった。何故、一人の男と結婚をしなければいけないのか。その必然性を信じることのできない歩は生涯結婚をしないことを決め、その思いを誰に語ることもなく、独り山に登って泣く。その時傍にいたのがジロだ。歩は自分の気持ちはジロにしか分からないと思ったから。愛してはいても、自分の本当の気持ちを家族や友人は理解できない。むしろ言葉を持たない犬の方が分かりあえる。この気持ちは、動物と暮らす者にはよく分かる。

連綿と続く家系というものを持ちながら、身近に暮らす人と人が分かりあえることは果たしてあるのかどうか、という根源的な問いが主題になっている。キリスト教の教義や、物理学、天文学と大きなものが持ち出されるが、それらはどれも役に立っているようには思えない。冬山で雛を育てるライチョウや、歩の生まれる時を知り、歩のピアノの音に耳を澄ます北海道犬の持つ能力に、人はとてもかなわないように思うのだ。このどうしようもない孤独を受け止め、日々を生き抜くためにこそ、人は犬や猫を必要とするのかもしれない。