marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(4)

―にらんで相手の目を背けさせることができなかったのは何故か―

【訳文】
《軽口は関心を引けなかった。テーブルを叩く音は続いていた。私はこつこつという音に耳を傾けた。何かが気に入らなかった。まるで暗号のようだった。彼は叩くのをやめ、腕を組み、背凭れのない椅子の上で体を後ろに傾けた。
「この仕事で気に入っているのは皆が知り合いなことだ」私は言った。「ミセス・グレイルもマリオットのことを知っていた」
「どうやって、それがわかった?」彼はゆっくり訊いた。私は何も答えなかった。
「君は警察に話すべきだと考えているのだろうね―煙草のことを」彼は言った。
 私は肩をすくめた。
「君はどうして放り出されないのかと考えている」アムサーは楽しそうに言った。セカンド・プランティングは君の首をセロリの茎みたいにへし折ることができる。自分自身何故そうしないか訳が分からない。君には何か仮説があるようだ。脅迫に金を出す気はない。金では解決しない―それに、私には多くの友人がいる。当然のことだが、私を不利な状況に立たせるたしかな要素もある。精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども。もちろん、彼らは全員医者だ。私が偽医者であるように。気の仮説とやらを聴かせてもらおうか?」
 私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ。
 彼は肩を軽くすくめた。「しゃべりたくない気持ちはわかる。この件は私が考えるべきだった。たぶん君は私が思ってたより知的な人間だったんだろう。私はときどき過ちを犯す。ところで―」彼は前屈みになって乳白色の球体の両側に手を置いた。
「マリオットは女相手の強請り屋だ」私は言った。「そして、宝石強盗の手先だ。しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」
「それが」アムサーは言葉を選んで言った。「君の考えるマリオットと私の人物像だとすると、ちょっとむかつくね」
 私は身を乗り出した。顔と顔の間が三十センチ足らずまで近づいた。「君はいかさま師だ。どれだけ気のすむように飾り立てたところで、いかさま稼業に変わりはない。名刺のことだけじゃない、アムサー。君の言う通り、名刺など誰にでも手に入る。マリファナじゃないな。よほどの機会でもなければ、そんな安物に手を出すはずはない。しかし、あの名刺はどれも裏に空白部分があった。そして、そこに、或いは印刷のある面にも、見えない文が書かれていたりする」
 彼はわびし気に微笑んだが、私はほとんど見えなかった。手が乳白色の球体の上に動いた。
 灯りが消えた。部屋はキャリー・ネイションのボンネットのように真っ黒になった。》

【解説】

精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども」は<Psychiatrists, sex specialists, neurologists, nasty little men with rubber hammers and shelves loaded with the literature of aberrations>。清水訳は「精神分析医、セックス専門医、神経科医など、ゴムのハンマーを持ち、書棚に異常の文学書を並べている、くだらない連中だ」。村上訳は「精神分析医、セックスのスペシャリスト、ゴムの警棒を持ち、精神異常の文学で書棚をいっぱいにしたいやらしい小男」。

まず、<psychiatrists>は「精神科医」であり、「精神分析医」は<psychoanalyst>よく似ているが、別物だ。村上訳は旧訳をベースにしているので、まちがいを引き継ぐことがよくある。これもその一つ。さらに、村上氏は、どうしたことか<neurologists>をトバしてしまっている。そして、決定的なミスは<rubber hammer>を「ゴムの警棒」と訳していることだ。精神病院の警備員を想定したのだろうが、ゴムのハンマーは、脚気の診断等で膝頭の下を叩く小さな器具である。医者を揶揄する象徴として用いていることはいうまでもない。

「私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ」は<I tried to stare him down, but it couldn't be done; I felt myself licking my lips>。清水氏は「私は彼を見つめようとしたが、できなかった。私はただ、唇をなめていた」と訳している。村上訳は「私は彼をじっと見つめて目をそらせてやろうとした。しかし、それはできなかった。私は知らないうちに自分の唇をなめていた」だ。この両氏の訳が、マーロウのどんな気分を言おうとしているのか、がよく分からなかった。

<stare down>は「人を睨みつけて、おとなしくさせる」という意味だ。では、何故そうできなかったのか。セミコロンが使われていることに注意しよう。これは、後の文が前の文を説明するときに使うことがある。<I felt myself licking my lips>を、両氏とも「唇をなめる」と訳しているが<licking one’s lips>は日本語でいう「舌なめずりをする」ことを意味する。その前にあるのが<I feel myself>「~という気分」なら、まちがいない。マーロウは「してやったり」という思いがこみあげていて、睨み倒すことができなかったのだ。

「しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」は、ちょっと長くなるが<But who told him what women to cultivate-so that he would know their comings and goings, get intimate with them, make love to them, make them load up with the ice and take them out, and then slip to a phone and tell the boys where to operate?>。

清水訳は「しかし、女の行動を知って、彼らに近づき、愛をささやき、金や宝石を身につけさせて、外につれ出し、どこで仕事をすればいいのかを電話で知らせるのにどの女に働きかければいいかということを、誰が教えていたのだろう?」だ。so-that構文を後ろから訳したために、後半の文がもたついて分かりにくい。「電話で知らせるのにどの女に働きかければいいか」と言ってるように読める。

村上訳は「誰かが彼に、どの女をカモにすればいいか耳打ちしていたらしい。その情報によって、彼女たちがどんな行動を取るかを知ることができた。女たちと親しくなり、関係を持ち、宝石で飾り立てさせて外に連れ出し、それから強盗団の連中にこっそり電話をかけ、どこで襲えばいいかを教えていた」。例によって噛みくだいて訳しているが、後半の主語がマリオットになっているので、首謀者の影が薄くなっているのは否めない。

蛇足ながら、キャリー・ネイションという女性は、禁酒運動の時代、斧で酒場のカウンターを叩き割って飲酒癖のある男たちに悔悛を迫ったという伝説の猛女らしい。清水氏は名前を記すにとどめているが、村上氏は括弧内に註を入れている。