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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(3)

《「いいか」私は重々しく続けた。「妹を連れ出せるか? どこかここから遠く離れたところにある、君の妹のようなタイプを扱い慣れ、銃やナイフやおかしな飲物を遠ざけておいてくれるところだ。ああ、君の妹だって治るかもしれない。そういう例もある」
 ヴィヴィアンは立ち上がるとゆっくり歩いて窓のところまで行った。足もとにはずっしりした厚地の象牙色のカーテンが折り重なっていた。その襞の間に立って外を見た。目の前には静かに暮れなずむ山麓が広がっていた。身じろぎもせず、まるで襞の中に紛れるように立っていた。両手は脇にだらんと垂れ、手はぴくりとも動かなかった。それから振り返って部屋の中を戻ってきたが、私を見もしないで通り過ぎた。私を背にしたとき、はっと息を呑み、話した。
「ラスティは汚水溜めの中にいる」彼女は言った。「惨めに腐り果てて。私がやった。あなたが言ったとおりのことをした。私はエディ・マーズのところに行った。妹は家に帰ると、ありのまま話した。子どもみたいに。妹は普通じゃない。警察は妹からすべてを聞き出すと思った。妹はすぐに自慢気にしゃべり出すだろう。もし父の耳に入れば、即座に警察を呼び、すべてを話すはず。そして、その夜の裡に死んでいた。問題は父の死じゃない──死ぬ前に父が何を思うかということ。ラスティは悪い人じゃなかった。私は愛していなかったけど。立派な人だと思う。でも、死のうが生きようが、私にはどっちでもよかった。父に知られないようにすることに比べれば」
「そして君は妹を好きなようにさせている」私は言った。「また別の騒動を起こすために」
「私は時間を稼いでいた。ただの時間稼ぎ。もちろんそれは間違った態度だった。ひょっとしたら妹は自分のしたことを覚えていないのでは、と思った。発作のときに起きたことは記憶に残らないと聞いたことがある。たぶん思い出すこともないだろう、と。エディ・マーズが財産を搾り取ろうとするのは分かっていた。でも構わなかった。私は助けを必要としていて、頼れるのはエディのような人だけだった……ほとんどすべてが自分でも信じられないときがあった。また別のときはすぐ酔っぱらわなきゃならなかった──どんな時でも、恐ろしいほどの勢いで」
「妹を連れだすんだ」私は言った。「それこそ、恐ろしいほどの勢いで」
彼女はまだ私に背を向けていた。声は優しくなっていた。「あなたは?」
「なにもしない。私は引き揚げる。三日の猶予をやろう。それまでに君が消えたら──それでいい。もしそうしなければ、事件は明るみに出る。本気じゃないなどと考えないことだ」
 女は突然振り返った。「あなたに何と言ったらいいかが分からない。何から始めたらいいのかも」
「いいさ。妹をここから連れ出し、一分たりとも目を離さないことだ。約束できるかい?」
「約束する。エディには──」
「エディのことは忘れろ。少し休んだら私が会いに行く。エディの扱いは私に任せておけ」
「エディはあなたを殺そうとする」
「そうだな」私は言った。「それは一番の腕利きにもできなかった。他の連中を試してみよう。ノリスは知ってるのか?」
「ノリスは決して言わない」
「知ってると思ってたよ」
 私は女をその場に残し、急いで部屋を出た。外のタイル敷きの階段を下りて玄関に出た。家を出るとき誰一人会わなかった。今回は自分で帽子を見つけた。外に出ると、明るい庭園が幽霊でも棲みついているかのように見えた。まるで小さな血走った目が藪の陰から私を見張っているような気がした。陽光そのものが光の中に何か謎めいたものを孕んでいるように思われた。私は車に乗り込み、丘を下った。
 一旦死んでしまえば、どこに寝かされようが構いはしない。そこが不潔な汚水溜めの中だろうと、高い丘の上に建つ大理石の塔の中だろうと、何の変わりがあるだろう? 死者は大いなる眠りに就いており、そのようなことに煩わされることがない。石油も水も死者にとっては風や空気のようなものだ。死者はただ大いなる眠りの中におり、どんな死に方をし、どこへ倒れようが、その汚れを気にすることはない。私はといえば、今ではその汚れの一部だ。ラスティ・リーガン以上に、汚れの一部と化している。しかし、あの老人にその必要はない。静かに天蓋付きの寝台に横たわり、血の気の失せた両手をシーツの上に組んで、待つだけでいい。心臓は短く不確かな心雑音を立てている。思考は灰燼のごとくどんよりしている。まもなく、ラスティ・リーガンのように、大いなる眠りに入ることだろう。

 ダウンタウンへの帰り道、一軒のバーに車を停め、スコッチをダブルで二杯飲んだ。それは何の役にも立たなかった。シルバー・ウィグのことを思い出させただけだった。その女とは二度と会うことはなかった。》<完>

「そういう例もある」は<It’s been done.>。双葉氏はこれをカット。村上氏は「そういう例もある」。「足もとにはずっしりした厚地の象牙色のカーテンが折り重なっていた。その襞の間に立って」は<The drapes lay in heavy ivory forlds beside her feet.She stood among the fords>。双葉氏はここもカット。ただ、さすがに「ついたて」はやめて「窓掛けに溶けこむようだった」と訳している。村上氏は「象牙色の厚いカーテンの裾が、彼女の足下に折り重なっていた。彼女はその布の堆積の脇に立って」と訳している。

「手はぴくりとも動かなかった。それから振り返って部屋の中を戻ってきたが、私を見もしないで通り過ぎた。私を背にしたとき」は<Utterly motionless hands. She turned and came back along the room and walked past me blindly. When she was behind me>。双葉氏はこれだけの部分を「私のほうへ帰ってくると」と大胆に省略して訳している。村上氏は「手は完全にぴくりとも動かなかった。彼女は振り向き、部屋を横切り、私の前を、私など眼中にないような顔で通り過ぎた。私の背後にまわったとき」と訳している。

「惨めに腐り果てて」は<A horrible decayed thing.>。双葉氏はこれもカット。最後だというのにやけにカット部分が多いのが気になる。村上氏は「もうぼろぼろに朽ち果てているわ」だ。「警察は妹からすべてを聞き出すと思った。妹はすぐに自慢気にしゃべり出すだろう」も双葉氏は「警察に知られればおしまいだと思った」と簡単に訳す。原文は<I kew the police would get it all out of her. In a little while she would even brag about it.>。村上氏は「もし警察に連絡したら、彼らは妹が撃ったことを即座に見破ったでしょう。そのうちに妹は、自分がやったことをみんなに吹聴するようにさえなったでしょう」と訳している。

「問題は父の死じゃない──死ぬ前に父が何を思うかということ」も双葉氏はカット。原文は<It’s not his dying──it’s what he would be thinking just before he died.>。ヴィヴィアンが何故そんなことをしたのか、その理由を語った重要な台詞なのに、なぜここをカットするのだろう。村上氏は「死ぬこと自体は仕方ない。問題は、父がどんな気持ちで死んでいくかよ」と、さすがに手馴れた訳だ。村上氏の方は最後ということもあって、いつも以上に力が入っている。

「私は時間を稼いでいた。ただの時間稼ぎ。もちろんそれは間違った態度だった。ひょっとしたら妹は自分のしたことを覚えていないのでは、と思った。発作のときに起きたことは記憶に残らないと聞いたことがある。たぶん思い出すこともないだろう、と」のところで、例のごとく<forget>が三度繰り返されている。原文を見てみよう。

<I was playing for time, just for time. I played the wrong way, of course. I thought she might even forget it herself. I’ve heard they do forget what happens in those fits. Maybe she has forgotten it.>。ここを双葉氏は「私、時間が解決してくれると思っていたの。妹は自でも事件を忘れると思ったの。発作のときは覚えていないという話ですものね」と、大胆に省略して訳している。

村上氏は「時間を稼いでいるのよ。ただの時間稼ぎよ。もちろんそれは正しいやり方じゃない。妹はそのことを、覚えてもいないんじゃないかと思う。そういう発作のあいだに起こったことは、記憶に残らないんだって聞いたことがある。たぶんすっかり忘れているんでしょう」と、訳している。<forget>を「覚えている」「記憶に残る」「忘れる」の三つを使い分けることで、重複の煩わしさを避けているところは上手いものだ。

マーロウが妹に撃たれかけたことを聞いて、ヴィヴィアンは自分のしたことを後悔しているのだろう。この部分はその言い訳である。それを村上氏のように現在形の時制で訳したのでは、開き直りに聞こえてしまう。英文の過去の時制をそのまま訳すと「…した。…した」となるので、訳文に現在形を使うことはある。しかし、それはあくまでも日本語の文として調子を整えるためであって、原文の意味が変わることがあってはならない。

双葉氏がカットした箇所があと二つある。「本気じゃないなどと考えないことだ」と「何から始めたらいいのかも」。前者は<And don’t think I don’t mean that.>。後者は<I don’t know how to begin.>。どうして、ここに来てわずかな手間を惜しんだのか、その理由が分からない。村上訳は「私が本気じゃないと思わない方がいいぜ」、「どこから始めればいいのか、私には分からない」と、最後まで手を抜かない。

「死者は大いなる眠りに就いており、そのようなことに煩わされることがない」は<You were dead, you were sleeping the big sleep, you were not bothered by thngs like that.>。この<you>は「人は(誰でも)」の意味だと思うが、双葉氏は「君は死んでしまった。大いなる眠りをむさぼっているのだ。そんなことでわずらわされるわけがない」と、訳している。ラスティへの語りかけ、ととったのだろう。まちがってはいないが、リーガンはすでに死者の仲間入りを果たしている。ここはラスティ・リーガン個人ではなく、すべての死者と取る方が意味深くなるように思う。村上氏も「死者は」と訳している。

末尾の「その女とは二度と会うことはなかった」は<and I never saw her again>。ハード・ボイルドらしい余韻の残る言葉だ。双葉氏は「その彼女にも、もう二度と会わないだろう」と訳しているが、<and>以下はこの話を語ってきた話者としての締めくくりの一文と考えたい。その時間の隔たりが余韻を生む。村上氏は「そのあと彼女には一度も会っていない」と訳している。

足かけ四年がかりで読んできた『大いなる眠り』も、これでようやく終えることができた。村上氏の真似をして午前中はこれにかかりきりだった(午後は読書にあてた)。はじめはBGMを聴く方も真似してみたが、集中できなくなるので、これはやめた。原書と新旧二冊の翻訳を読み比べる作業はおもしろかった。

途中で翻訳に関する参考書を何冊か読んだことで、後半は翻訳の文章が変わってきたと思う。会話を繋ぐところ以外では「彼女、彼」を使うことを極力避けた。また、女性の会話の最後に「よ、ね、わ」をつけることもやめた。どちらも、無意識にやっていたので、あらためて意識すると、それまでのようにはいかなくなった。生硬な文のように感じられたかもしれない。しかし、原書には女性と男性の間に特に違いはない。厳密にやり過ぎるのはよくないが、しばらくはこの方法でやってみたい、と考えている。

次回からは『さらば愛しき女よ』を三冊読み比べてみたい。清水氏の訳した文庫本が見つからないので、古本屋を漁りに行く必要がある。近頃、近くの古書店が相次いで店を閉めた。うまく見つからなければ、密林をあたるしかない。できたら地元の本屋で買いたいものだ。

長い間のお付き合い、ありがとうございました。

『英国怪談珠玉集』南條竹則編訳

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ただ「怪談」と聞くと川端の枝垂れ柳や、枯れ薄の叢の中の古沼、裏寂れた夜道といった妙に背筋が寒くなる風景を思い描いてしまいそうになる。それが、前に「英国」という二文字が着くと、急に座り心地のいい椅子や、炉端に火が用意された落ち着いた部屋のことを考える。別にどこでもよさそうなものだが、「英国怪談」を読むには、いかにも彼の地の幽霊が出てくるにふさわしい環境が用意されていなければいけないような気がするのだ。 

紺地に赤と金で唐草文様を配した豪奢な装丁の本である。厚さだけでも相当なものだが、持ち重りする大冊である。寝転がって読むというわけにはいかない。手持ちの書見台に置いて読もうとしたが、想定される厚さを越えているためページ押さえが使えず使用不可となった。机の上に直に置くと読むために首を傾けなくてはならず、長時間続けば首が痛くなる。仕方がないのでオットマンに足を載せ、腿の上あたりを支えに、革のブックカバーを被せて両手で持ちながら読んだ。 

有名無名の作家二十六人からなる三十二篇のアンソロジー。アルジャノン・ブラックウッドやら、アーサー・マッケン、ウォルター・デラメーアといった名の売れた作家の他にもホーレス・ウォルポールの息子のヒュー・ウォルポールや、H・G・ウェルズ、最近立派な本が出たフィオナ・マクラウド、それにエリザベス・ボウエンのような作家も含めた多彩な顔触れである。短篇、それもかなり短いものも多いので、一日に少しずつ読む愉しさがある。 

英国怪談は、大半が幽霊譚である。古く由緒のある建築が都市にも田舎にも残っていて、またそういう古いものを悦ぶ気質がある。またどの家の箪笥の中にも骸骨が仕舞われている、という意味の諺もあるくらいだから、人が何人か集まれば、その類の噂話に事欠かない。また、好んでそういう話を聞きたがる人種もいる。そんな訳で、語り手が誰それから聞いた話を、その座にいる人々に語って聞かせるというスタイルの話が圧倒的に多い。 

よく、犬は人につき、猫は家につくと言われるが、日本の幽霊は害をなした人に祟ることが多く、英国の幽霊は事の起きた場所に居つくことが多いように思う。無論、例外もある。この本にも殺した人の前に現れる幽霊の話も出てくるが、あまり陰惨にならないのはお国柄か。柵に腰かけた幽霊やらピアノを弾きまくる陽気な道化の幽霊やらが登場する。 

すべては紹介できないので、いくつか紹介しよう。ストーク・ニューウィントンにあるというキャノンズ・パークの不思議を語るアーサー・マッケンの「N」は、ロンドンという大都会の中に迷い込んでいく経験のできる作品。普通の通りなのに、その窓から眺めるとまるでこの世のものとも思えない美しい風景が見える、しかし、二度と目にすることがかなわない、という話。何人もが経験した不思議の秘密を考える謎解きの興味も付されている。日常の中に怪異を見つけるのが得意なマッケンらしい一篇。 

自家用車を駆って、低地地方を訪れた旅人が石造りの古めかしい館で遊ぶ子どもを見かけ、主人らしい目の不自由な婦人と懇意になり、何度かその館を訪れるようになる。『ジャングル・ブック』で有名なラドヤード・キップリングの「彼等」。子どもを産んだことのない女性が、自分は声しか聞こえないのにあなたは見ることができて幸せだ、と旅人にいうのだが、実はその館に集まってくるのは、とうに死んだ子たちなのだ。彼女が子どもを愛するから集まってくるという。怖さの欠片もない、子を思う愛しさに満たされた怪談である。 

集中最も怖かったのが、H・R・ウェイクフィールドの「紅い別荘」。休暇を過ごすため田舎の一軒家を借りた家族が出遭うことになる怪異譚。アン女王様式の家は立派で庭園もついており、木戸から川にも出ることができた。ところが、着くやいなや胸騒ぎを覚える。先に到着していた息子は川遊びを嫌がるし、妻も加減が悪そうだった。そのうちに次から次へと異様なものを目にするようになる。昔のことを知る人に話を聞くと、とんでもない曰くつきの物件だった。次第に高まってゆく恐怖が、怪談の妙味。 

掉尾を飾る「名誉の幽霊」が先に紹介した道化の幽霊がピアノを弾きながら卑猥な歌を歌うという落とし噺風の一篇。客を迎えた夫婦が、自分の家に幽霊が出ることを隠しもせず、むしろ面白がるだろうと考えて、いろいろ幽霊のことを紹介するのが面白い。客も今さら怖いとも言えず、幽霊が生ける人間には顔を見せない、という一言に救われてその家に泊まる。ところが、夜半に現れた幽霊は何のことはない顔を平気で見せる。約束が違うと文句を言う客に幽霊が語る理由がオチになっている。 

少し値は張るが、書架に愛蔵するにふさわしい、近頃珍しい函入り上製本である。作家によって文体を変えて訳されているのも嬉しい。南條竹則氏編訳。以前に文庫などで出された作品を改めて纏めたものだが、訳し下ろしも七篇入っている。そのどれもが読み応えのある作品ばかり。これらを読むだけでも手にとる価値があると思う。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(2)

《私は煙草を渡し、マッチに火をつけて差し出した。ヴィヴィアンは肺一杯に煙を吸い込むと乱暴に吐き出した。それからは煙草は指の間で忘れられたようで、二度と吸われることはなかった。
「さてと、失踪人課はラスティを見つけられないでいる」私は言った。「そんなに簡単なことじゃない。警察にできないことが私にできるはずもない」
「そう」その声には安心したような気分が感じられた。
「それが理由の一つ。失踪人課の連中は故意の失踪だと考えている。連中の言う、幕を引く、というやつだ。警察はエディー・マーズが殺したとは考えていない」
「誰がラスティは殺された、と言ったの?」
「その話をしようとしている」私は言った。
 束の間、彼女の顔がばらばらになったようだった。顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた。口は今にも叫び声を上げそうになった。しかし、それはほんの一瞬だった。スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう。
 私は立ち上がり、女の指の間で煙を上げている煙草をとって灰皿で揉み消した。それからカーメンの小さな銃をポケットから取り出し、大げさなくらい気を配り、入念に白いサテン地の膝の上に置いた。収まりよく載せると、一歩下がって首を傾げた。ショウウインドウを飾り付ける職人がマネキンの首に巻いたスカーフの新しい捻りの効果を確かめるように。
 私は再び腰を下ろした。ヴィヴィアンは動かなかった。視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た。
「危険はない」私は言った。「薬室は五つとも空っぽだ。全部カーメンが撃った。五発とも私に向けて撃った」女の喉の血管が激しく脈打った。何か言おうとしたが声にならなかった。唾を飲み込んだ。
「五、六フィート距離があった」私は言った。「しゃれたまねをする。そうだろう? 気の毒だったが、銃には空包を詰めておいた」私はにやりと意地悪く笑った。「虫の知らせがあったんだ。カーメンはやるだろうと──機会さえあればね」
 声が戻るまでしばらくかかった。「あなたはぞっとするくらい嫌なやつ」彼女は言った。「身の毛がよだつ」
「そうだな。君は姉だ。この一件をどうするつもりだ?」
「あなたは言ったことを証明できない」
「何を証明するんだ?」
「妹があなたを撃ったこと。油井にいたのは二人きりだと言った。あなたは自分の言ったことを証明できない」
「ああ、そのことか」私は言った。「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」
 ヴィヴィアンの目に闇が澱んだ。暗闇よりも虚ろだった。
「私はリーガンが消えた日のことを考えていた」私は言った。「その日の午後遅く、銃の撃ち方を教えようとカーメンを連れてあの古い油井まで行った時のことだ。リーガンは空き缶をどこかに置き、これを撃つんだと言って、君の妹が撃つ間近くに立っていた。カーメンは缶を撃たなかった。カーメンは銃をリーガンに向けて撃ったんだ。まさに今日私を撃ったやり方で。その理由も同じだ」
 ヴィヴィアンが少し動いて銃が膝から床に滑り落ちた。私がかつて聞いた中で最も大きな音の一つだった。ヴィヴィアンの目は私の顔に釘付けされていた。囁き声は苦悶に満ちて後を引いた。「カーメン…神よ、カーメンにお慈悲を…どうして?」
「カーメンが何故私を撃ったか本当に聞きたいのか?」
「ええ」目にはまだぞっとするものがあった。「聞く──しかないようね」
「一昨日の夜、家に帰るとカーメンがアパートメントにいた。私が待つように言った、と管理人を騙して入れてもらったんだ。ベッドに入っていた──裸でね。私は怒って部屋から放り出した。多分リーガンも同じようにしたんだろう。しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」
 ヴィヴィアンは唇を引き寄せ、うわの空で舐めた。一瞬、怯えた子どものような顔になった。両頬が削げ、片手がゆっくり上がっていった。まるで糸で操られている人形の手のように。そして、その指が襟元の白い毛皮をおもむろに握りしめた。指は毛皮をきつく喉元に引き寄せた。そのあとは、座ってただじっと見つめた。
「お金」しわがれ声だった。「あなたは、お金が欲しいんでしょう」
「いくらだ?」冷笑的にならないように気をつけた。
「一万五千ドルでどう?」
 私はうなずいた。「そんなものだろう。それがお定まりの金額らしい。カーメンに撃たれた時リーガンのポケットにあった金額だ。君がエディー・マーズに助力を請うた時、カニーノ氏が死体を始末して得たのもその金額だろう。だが、エディー・マーズがそのうち手に入れようと目論んでいる金と比べれば、はした金だ。そうじゃないか?」
「ろくでなし」彼女は言った。
「そうさ。私は頗るつきの切れ者だ。感情や良心の咎めなど一切持たない。持ってるのは金に対する執心だけ。強欲すぎて一日二十五ドルの報酬以外に必要経費をとる。ほとんどはガソリンとウィスキー代だ。私は自分の考えで動く。大したことではない。危険を顧みず、警官やエディ・マーズとその仲間に憎まれ、銃弾をひらりとかわし、こん棒で殴られ、有難うございましたと礼を言う。名刺を一枚置いていくので、また問題が起きたら、私を思い出してくれると嬉しい。私はこういうことを一日二十五ドルでやる──その中には、病み衰えた老人の血に残されたわずかな誇りを守ることも、少し入っているかも知れない。考えたんだ。将軍の血は毒ではない。たとえ二人の娘が少々手に負えなくても、良家の子女は当節そんなものだ、変質者でも殺人鬼でもない。その挙句が、ろくでなし呼ばわりだ。いいさ。そんなこと気にしちゃいない。君の妹をはじめ、多種多様な人々からそう呼ばれてきた。君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで。私は父上から五百ドル受け取った。請求したわけではないが、将軍にとっちゃはした金だ。もしラスティ・リーガン氏を探し出せたらもう千ドル貰える。今、君から一万五千ドルのオファーがあった。大物になったものだ。一万五千ドルあれば自宅を買い、新車とスーツが四着買える。仕事にあぶれる心配をせずに休暇がとれるかもしれない。結構なことだ。その金で私にどうしてほしいんだ? 私はろくでなしのままでもいいのか? それとも、紳士にならなきゃいけないのか? この間の夜、自分の車の中でのびていたあの飲んだくれのような」
 女は石像のように黙っていた。》

「顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた」は<to become merely a set of features without form or control.>。双葉氏はこれをカットしている。村上氏は「それは形態や統制を欠いた、ただの部分の集まりのように見えた」と訳している。<set of features>は「目鼻立ち、顔立ち」のこと。人は無意識に表情を作っているものだ。驚きのあまり、彼女はそれを忘れたのだろう。

「スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう」は<The Sternwood blood had to be good for something more than her black eyes and her recklessness.>。双葉氏は「スターンウッドの血統は彼女の黒い目や無軌道さよりもはるかに強いものだった」。村上氏は「スターンウッド家の血は、黒い目と無謀さの他にも、彼女に何かしらの強い資質を与えているのだろう」と訳している。<(be) good for something>は「何かの役に立つ」の意味だ。両氏に訳に出てくる「強い」の意味はない。

「収まりよく載せると」は<I baranced in there>。双葉氏はここもカット。村上氏は「落ちないようにバランスをとって載せてから」と訳している。

「視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た」は<Her eyes came down millimeter by millimeter and looked at the gun.>。双葉氏は「じっと拳銃を見つめたまま動かなかった」と前の文とまとめて訳している。村上氏は「彼女の視線はミリ単位で下に降りていった。そして拳銃を見た」と訳している。

「薬室は五つとも空っぽだ」は<All five chambers empty.>。双葉氏は「五発ともからだ」。村上氏は「弾倉は五つとも空っぽになっている」。細かいことを言うと<chamber>は「薬室」。「弾倉」は<magazine>。弾倉が着脱式になっているオートマチックとちがって、リヴォルヴァーの場合、弾倉とは、蓮根状の形をした「回転弾倉」<cylinder>そのものを指す。したがって複数の形をとらない。

「声が戻るまでしばらくかかった」は<She brought her voice back from a long way off.>。双葉氏は「彼女はやっと声を出した」と訳している。村上氏は<a long way off>を距離的な意味にとって「彼女は遠くの方から声をかき集めてきた」と訳しているが、日本語として通じるだろうか。この場合、時間的な意味にとる方が分かりよいのではないか。

「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」<I wasn’t thinking of trying, I was thinking of another time──when the shells in the little gun had bullets in them.>。双葉氏は「そりゃそうだ。いずれ実弾をいれてためしてみるか」と訳しているが、時制から見ても、これはまちがい。村上氏は「そんなことを誰かに話そうなんて思っちゃいないよ。私は前回のことを考えていたんだ。あの小さな拳銃にしっかり実弾が入っていたときのことをね」と訳している。

「目にはまだぞっとするものがあった」は<Her eyes were still terrible.>。双葉氏はここをカットして二つの会話をつなげて「ええ。きかせて……」と訳している。村上氏は「彼女はまだすさまじい目をしていた」と訳している。

「しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」は<But you can’t do that to Carmen.>。双葉氏はここを「もっとも、君は妹さんにそんなまねはできまいが」と訳している。<you>をヴィヴィアンととったのだろう。しかし、この<you>は「人は(誰でも)」の意味でとらないと意味が通じない。村上氏は「しかしカーメンを相手にそんなことをしちゃいけないんだ」と訳している。

「君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで」は<She called me worse than that for not getting into bed with her.>。双葉氏はここもカットしている。この長広舌は、マーロウのいわば決め台詞だ。しっかり訳してほしいところ。村上氏は「彼女はもっと凄まじい言葉を使ったな。彼女と一緒のベッドに入らなかったという理由でね」としっかり訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(1)

《優しい目をした馬面のメイドが二階の居間に案内してくれた。灰色と白の細長い部屋には象牙色の厚地のカーテンの裾が贅沢に床に崩れ落ち、床一面に白い絨毯が敷きつめられていた。映画スターの閨房みたいな魅惑と誘惑の場所は義足のように人工的だった。今のところは誰もいない。私の背後でドアが閉じた。病院のドアのように不自然なほどそっと。車輪付きの朝食用テーブルが寝椅子の傍に置かれ、銀器が輝いていた。コーヒー茶碗には煙草の灰。私は腰を下ろして待った。
 ドアが再び開いてヴィヴィアンが入ってくるまでが長く感じられた。部屋着代わりの灰色がかった白のパジャマは白い毛皮で縁取られていた。どこかの上流階級が占有する小島のビーチに打ち寄せる夏の波の泡に負けない流麗な仕立てだった。
 大股で滑らかな足取りで私の前を通り、寝椅子の端に腰を下ろした。唇の端に煙草を咥えていた。今日の爪は銅のような赤で塗られていた。つけ根から爪先まで半月部分も残らず。
「結局あなたは、ねっからの人でなし」彼女は私を見つめ、静かに言った。「正真正銘の血も涙もない人でなし。あなたは昨夜人を殺した。誰から聞いたかは気にしないで。そう聞いた。ところで、今日は今日でここに来て、妹を気絶するほど脅かさなきゃならなかった」
 私は何も言わなかった。ヴィヴィアンはそわそわし始めた。小振りの椅子に移動して頭をそらせ、壁際の椅子に置かれた白いクッションに凭せかけた。青みがかった灰色の煙を上の方に吹いて、天井の方に漂いながら切れ切れになるのを見ていた。それは少しの間見分けがついたが、やがて空気の中に消えてなくなった。それから、とてもゆっくり視線を下ろし、冷たく刺々しい一瞥を私にくれた。
「私にはあなたが理解できない」彼女は言った。「感謝はしてる。一昨日の夜、私たちのうちの一人が平静を保てたことに。酷い目はもう充分。酒の密売人との過去だけで。お願い、何とか言って」
「妹はどうだ?」
「あの子なら大丈夫。熟睡してる。いつもすぐ寝てしまう。あの子に何をしたの?」
「何も。父上に会った後、あの子が家の前にいた。木に吊るした的にダーツを投げていたんだ。下りて行って話しかけた。預かり物があったのでね。かつて、オーウェン・テイラーが買い与えた小さなリヴォルヴァーだ。この間の晩、カーメンはそいつを手にブロディのところに現れた。ブロディが殺された晩だ。私はそれを取り上げなければならなかった。そのことは話さなかったから、君は多分知らなかったんだろう」
 スターンウッド家の黒い瞳がうつろに見開かれた。今度はヴィヴィアンが口を閉ざす番だった。
「カーメンは銃を返してもらって喜び、私に撃ち方を教えて欲しがった。そして、丘を下ったところにある古い油井を見せたがった。君の一家が一財産を作った場所だ。それで、我々はそこに行った。気味の悪い場所だった。錆びた金属、古い木材、黙した油井、浮き糟の浮いた汚水溜め。それがカーメンを混乱させたのかもしれない。君も行ったことがあるだろう。薄気味の悪い所だ」
「ええ──行ったことがある」今では息を殺した声になっていた。
「そこへ行って、私はあの子が撃てるように回転輪の中に空き缶を突っ込んだ。カーメンはひきつけを起こした。軽い癲癇による発作のように見えた」
「そうね」同じ息を殺した声だった。「妹は時々それをやるの。私に会いたかったのはそれについてだけ?」
「エディー・マーズが握っている君の弱みについては、まだ話したくないんだろう」
「話すことなんかない。その質問にはうんざりしかけているところ」彼女は冷たく言った。
カニーノっていう名の男を知ってるか?」
ヴィヴィアンは考え込むように美しい黒い眉根を寄せた。
「ぼんやりと。名前に聞き覚えがあるみたい」
「エディー・マーズの用心棒だ。タフなやつだと聞いてはいたが、実際そうだった。ある女性のちょっとした助けがなかったら、あいつのいるところに私がいる羽目になっていた──死体公示所に」
「女性たちはどうも──」彼女はそう言いかけ、蒼ざめた。「それについて冗談は言えない」とだけ、彼女は言った。
「冗談は言ってない。仮に私の話が堂々巡りに見えたとしても、偶々そう見えるだけのことだ。すべては結びついている──何もかもだ。ガイガーとその気の利いたちゃちな脅迫のトリック、ブロディと例の写真、エディー・マーズと奴のルーレット・テーブル、ラスティ・リーガンと駆け落ちしなかった女とカニーノ、すべてが結びついている」
「悪いんだけど、あなたが何の話をしてるのか私には分からない」
「分かってるはず──差し詰めこのようなことだ。ガイガーは君の妹を物にした。造作もないことだ。そして、借用書を何枚か手に入れて君の父上を脅迫しようとした。遠回しにね。ガイガーの背後にはエディー・マーズが控えていた。奴を保護して手先に使っていたんだ。父上は金を支払う代わりに私を呼んだ。それは父上が何も怖れていないことを示している。エディー・マーズはそれを知りたかった。あいつは君の弱みを握っていて、それが将軍にも使えるかどうかを知りたかったからだ。もし、使えそうなら大金を容易に手に入れられる。使えなければ、君が家族の財産の分け前を得るまで待たなければならない。それまでは、ルーレット・テーブル越しに君から余財を奪い取ることで満足せざるを得ない。ガイガーを殺したのはオーウェン・テイラーだ。君のばかな妹に惚れていて、ガイガーが彼女を弄ぶゲームを嫌っていた。エディにはどうでもいいことだ。エディはもっと大博打を打っていた。ガイガーも、ブロディもしらない、君とエディー・マーズとカニーノという名のタフガイの他は誰も知らないことだ。君のご亭主が失踪すると、誰もが知るようにリーガンとの間にひびが入っていたエディは、女房をリアリトに隠し、カニーノを見張りにつけた。女がリーガンと逃げたように見せかけるためだ。さらに、リーガンの車をモナ・マーズが以前住んでいた場所のガレージの中に運ばせた。単にエディが君の亭主を殺したか、殺させたのではないかという疑惑をそらそうとしたのなら、少し考えが足りないように思えるが、実のところ、それほど浅慮でもない。別の動機があったからだ。百万ドルがかかっていた。あいつはリーガンがどこにどうした消えたかを知っていた。そして、警察にそれを発見されたくなかった。満足できる失踪の説明がほしかったんだ。退屈させてるかい?」
「あなたにはうんざりよ」彼女は疲れきった声で言った。「どれだけ退屈させたら気が済むの!」
「すまないね。私はただ賢ぶりたいために無駄口を叩いているわけじゃない。今朝、君の父上から、リーガンを見つけたら千ドル出そうという申し出があった。私にとっては大金だが、私にはできない」
 ヴィヴィアンの口がぱっと開いた。息が急に激しく荒くなった。「煙草をちょうだい」しわがれた声で彼女は言った。「どうして?」喉の血管が脈打ちはじめた。》

象牙色の厚地のカーテン」は<ivory drapes>。双葉氏は第三章と同じく「床にころがった象牙色のついたて」と訳している。執事もメイドもいる大邸宅に、いつまでもついたてが転がっているはずもないだろうに。「義足のように人工的だった」の部分も双葉氏はカットしている。原文は<artficial as a wooden leg>。村上訳は「義足顔負けに人工的だ」。

「今日の爪は銅のような赤で塗られていた。つけ根から爪先まで半月部分も残らず」は<Her nails today were copper red from quick to tip, without half moons.>。双葉氏は「今日の彼女の爪は急いで切ったとみえ、銅赤色で白い半月形がなかった」と訳している。これは<quick>を「急いで」と訳したことから来る誤り。この<quick>は名詞で「爪のつけ根」の意味だ。村上氏は「今日の手の爪は銅のような赤だ。根元から先っぽまで、半月も残さずしっかり塗られている」と訳している。

「酷い目はもう充分。酒の密売人との過去だけで」は<It’s bad enough to have a bootlegger in my past.>。双葉氏は「私の過去に闇屋がいたのはおもしろくないことね」と訳している。これでは、ヴィヴィアンがマーロウの気を引いているようにも読める。この文の意味するところは、もう男はこりごりだという意味だろう。村上訳は「過去に一人の酒の密売人と関わっただけで、もう十分大変な目にあっている」と訳している。

「錆びた金属、古い木材、黙した油井、浮き糟の浮いた汚水溜め」は<all rusted metal and old wood and silent wells and greasy scummy sumps>。双葉氏は「腐った金具だの材木だのがころがっていて」と、略している。村上訳は「錆びた金属、古い材木、ひっそりした油井、油が混じったどろどろの沼」と訳している。<scummy>は「浮きかす」のことで、汚水の上に浮いた油膜のことだろう。水と油はふつう混ざらない。「油が混じったどろどろの沼」という訳はどうだろう。

「カーメンはひきつけを起こした。軽い癲癇による発作のように見えた」は<She threw a wingding. Looked like a mild epileptic fit to me.>。双葉氏は「ところが彼女はとたんに発作が起こったまねをはじめた」と訳している。<wingding>には「どんちゃん騒ぎ」の意味があるので、双葉氏はそれに引っ張られたのだろう。しかし、アメリカやカナダでは「ひきつけ、発作」の意味もある。<epileptic>は「癲癇」。村上訳は「そのとたんに発作が始まった。それが私の目には穏やかなてんかん(傍点四字)の発作のように見えた」と訳しているが、「穏やかなてんかん」は変だ。この<mild>は「軽度の」という意味だろう。

「仮に私の話が堂々巡りに見えたとしても、偶々そう見えるだけのことだ」は<and if I seem to talk in circles, it just seems that way.>。双葉氏はここをカットしている。<talk in circles>は「堂々巡りの論議をする」という意味。村上氏は「そしてもし私の話が堂々巡りのように見えたとしても、それはただ見かけに過ぎない」と訳している。

「遠回しにね」は<in a nice way>。双葉氏はこれもカット。村上氏は「あくまでもにこやかにね」と訳している。「それは父上が何も怖れていないことを示している」は<which showed he wasn’t scared about anything>。双葉氏は「ほかのことは何も心配していなかった」と訳しているが、これはおかしい。村上氏は「それは彼が何も恐れていないということを意味している」と訳している。

「それまでは、ルーレット・テーブル越しに君から余財を奪い取ることで満足せざるを得ない」は<in the meantime be satisfied with whatever spare cash he could take away from you across the roulette table>。双葉氏は「それまで君がルーレットでもうけるのをがまんして見ていようという寸法だった」と訳しているが、反対の意味にとっている。村上氏は「そして当分の間は、君がルーレットですってくれる(傍点六字)はした金で満足しなくてはならない」だ。<spare cash>は「余分な現金、余財」のことで、遺産が手に入るまで、父から与えられている金のことだ。

「私はただ賢ぶりたいために無駄口を叩いているわけじゃない」は<I’m not just fooling around trying to be clever.>。双葉氏は「僕はりこうになろうと思ってうろつきまわっていたんじゃない」と訳している。<fool around>にはたしかに「ぶらつく」の意味があるが、ここでは、その前の長広舌を指している。村上氏は「私は何も自分を賢く見せかけるために、もったいぶって話をしているわけじゃないんだ」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十一章(2)

《「その中」彼女は窓から身を乗り出して指さした。
 小径に毛が生えたような狭い未舗装路で、山麓の牧場への入口みたいだった。五本の横木を渡した幅の広い木戸が切り株にぶつかるまで折り返され、何年も閉じられたことがないように見えた。高いユーカリの樹々に囲まれた小径には深い轍がついていた。トラックが通った跡だ。今は人気がなく、日に曝されているが、まだ埃っぽくはない。強い雨が降ったばかりだからだ。私は轍に沿って車を走らせた。街の往来の喧騒が急に不思議なほど遠くなった。まるでここが街中ではなく、遠く離れた白昼夢の郷ででもあるかのように。やがて、油染みてずんぐりした木造の油井櫓の、静止したウォーキング・ビームが枝の上に突き出た。錆の浮いた古い鋼鉄のケーブルがそのウォーキング・ビームを他の六台と繋いでいた。ビームはどれも動いていなかった。ここ一年は動いていないだろう。油井はもはや石油を汲み上げてはいない。積み重なった錆びた鋼管、片方の端が撓んだ荷積み用プラットフォーム、ぞんざいに山積みされた半ダースほどの空のドラム罐。古い汚水溜めの澱んだ水の上に浮いた油が陽を受けて玉蟲色に光っていた。
「ここを全部使って公園にでもしようというのか?」
 カーメンは顎を引いて、思い入れたっぷりに私を見た。
「そろそろ潮時かもしれない。あの汚水溜めの臭いは山羊の群にとっては毒だ。ここが君の考えていた場所なのか?」
「うん、気に入った?」
「申し分ない」荷積み用プラットフォームのそばに車を停め、我々は外に出た。耳を澄ますと、遠くの往来の音が、蜜蜂の立てる羽音のような、ぼんやりした音の織物になった。教会の墓地のように寂しいところだった。雨の後でさえ背の高いユーカリの木はまだ埃っぽく見えた。いつでも埃っぽく見える。風で折れた枝が汚水溜めの端に落ちて、平たいがさがさした葉が水の中にぶら下がっていた。
 私は汚水溜めの周りを歩き、ポンプ小屋をのぞき込んだ。がらくたがいくつかあったが、最近動かせた様子はなかった。外には大きな木製の回転輪が壁に立てかけてあった。絶好の場所だった。
 私は車に引き返した。少女が傍に立って髪の毛を手で梳き、日にかざしていた。「ちょうだい」と彼女は言って、手を突き出した。
 私は銃を取り出し、その掌の上に置いた。私は腰をかがめ、錆びた缶をつまみ上げた。
「慌てるな」私は言った。「それには五発装填されている。私がこの缶をあの大きな木の回転輪の真ん中にあいた四角い穴に置いてくる。見えるか?」私は指さした。カーメンは首をすくめた。嬉しそうだった。「ざっと見たところ三十フィートある。私が君のところに戻るまで撃ち始めるんじゃない。分かったか?」
「分かった」彼女はくすくす笑った。
 私は汚水溜めを回って戻り、大きな回転輪の真ん中に缶を置いた。素敵な的だった。もし、缶に当たらなくても、きっと外すだろうが、おそらく回転輪には当たるだろう。回転輪が小さな弾を完全に止めるだろう。しかし、カーメンはそれに当てるつもりさえなかった。
 私は汚水溜めを回って引き返した。十フィートばかり戻った時、汚水溜めの縁で、娘は小さく尖った歯を残らず剥き出し、銃を挙げ、しゅうしゅうと音をたてはじめた。
 私はぴたっと止まった。汚水溜めの澱んだ水が背中でひどく臭った。
「じっとしてろ、このろくでなし」彼女は言った。
 銃は私の胸をねらっていた。手はかなり安定しているようだ。しゅうしゅういう音が次第に大きくなり、顔は肉を削り取られて骨のように見えた。歳をとり、劣化し、獣になりかけていた。それも、あまりいい獣ではなかった。
 私は笑いかけ、そちらに向かって歩きはじめた。銃爪にかけた娘の小さな指がぴんと張って先端がみるみる白くなった。六フィートまで近づいたところで相手は撃ち出した。
 銃声はピシッと鋭い音を立て、陽射しに脆い亀裂を生じさせた。それだけだ。煙すら立たなかった。私は再び立ちどまり、にやりと笑いかけた。
 カーメンは立て続けにもう二発撃った。どの弾も的を外したとは思わない。小さな銃には五発入っていた。撃ったのは四発だ。私は突進した。
 最後の一発を顔にもらいたくなかったので、片方に身をかわした。カーメンは細心の注意を払って、私にそれをくれた。気遣いは全然なかった。火薬の熱い吐息をわずかに感じたような気がする。
 私は上体を起こした。「やれやれ、しかし君はキュートだな」私は言った。
 空になった銃を握った手がぶるぶると震えはじめた。銃が手から滑り落ちた。口も震えだした。顔全体が統制を欠いていた。それから頭が左耳の方に捻れ、唇に泡が浮かんだ。呼吸がひゅうひゅうと音を立てた。体が大きく揺れた。
 倒れかけたところを抱きとめた。すでに意識がなかった。私は両手を使って歯をこじ開け、口の中に丸めたハンカチを詰め込んだ。それだけするのに力を使い果たした。娘を抱き上げて車の中に入れた。それから銃を取りに戻り、ポケットに落とし込んだ。運転席に上がって車をバックさせ、轍のついた小径を引き返し、木戸を出て丘を上り、屋敷に戻った。
 カーメンは車の隅でぐったりして動かなかった。ドライブウェイを家に向かって半分ほど来たところで動きはじめた。突然目が大きく狂おしく開いた。座席に座り直した。
「何があったの?」彼女は喘いだ。
「何も。どうして?」
「何かあったはず」彼女はくすくす笑った。「私漏らしてるもの」
「誰でもするさ」私は言った。
 カーメンは急にくよくよと思い悩むように私を見、うめきはじめた。》

「小径に毛が生えたような狭い未舗装路で」は<It was narrow dirt road, not much more than a track>。双葉氏は「せまい埃っぽい道路だった。(丘のふもとの牧場への入口みたいな)小径だった」と訳している。<dirt>には、「塵、ほこり」の意味はあるが、<dirt road>は「未舗装の道路」の意味で、「埃っぽい」なら、この後にも出てくる<dusty>を使う。村上氏は「狭い未舗装の道だった。踏み分け道と言ってもいいくらいだ」と訳している。もう一つ、双葉氏は<not much more than>(〜とあまり変わらない、〜に過ぎない)を訳していない。

「五本の横木を渡した幅の広い木戸」は<A wide five-barred gate>。<five-barred gate>とは、横長の木枠に細長い板を隙間を開けて打ちつけた簡便な木戸のこと。牧場だけでなく、いろいろな場所の仕切りに使われている。普通は、斜交いにもう一枚板を打ちつけている。向こうでは<five-barred gate>で通用するが、それを表す日本語が見つからない。双葉氏はこれを「広い鉄柵のついた門」と訳しているが、そんなたいそうな代物ではない。村上氏は「横木を五本並べた幅広いゲート」と訳している。西部劇小説なんかにいい訳語があるかもしれない。

「古い汚水溜めの澱んだ水の上に浮いた油が陽を受けて玉蟲色に光っていた」は<There was the stagnant, oil-scummed water of an old sump iridescent in the sunlight.>。双葉氏は「古い溜桶には玉虫色に油を浮かしたよどんだ水が、日に光っていた」と訳している。村上氏は「石油の浮いた淀んだ水が、行き場のないまま古い沼を作り、太陽に照らされて虹色に光っていた」と訳している。<sump>には「沼」の意味もあるが、通常は「地面を掘って汚水をためるようにしたところ、汚水だめ」のことだ。「沼」と思い込んだために無理な作文になってしまっている。「古い沼を作り」のおかしさに気づかなかったのだろうか。

「あの汚水溜めの臭いは山羊の群にとっては毒だ」は<The smell of that sump would poison a herd of goats.>。双葉氏は「あの溜桶の臭気(におい)をかいだら羊どもは中毒するよ」と「山羊」を「羊」に変えているが、わざとだろうか。村上氏は「この沼のにおいじゃ、山羊の群れが全滅してしまいそうだ」と、相変わらず「沼」にこだわっている。脳内変換で<sump>が<swamp>に置き換えられているのかもしれない。

「平たいがさがさした葉が水の中にぶら下がっていた」は<the flat leathery leaves dangled in the water.>。双葉氏は「ひらたい皮みたいな葉がいくつか水に浮いていた」と訳している。村上氏も「革のような扁平な葉が水に垂れていた」と訳している。<leathery>は「革のような」という意味だが、「がさがさの、ひどく硬い」という意味もある。両氏がなぜ皮革にこだわるのかよく分からないが、折れた枝についた葉なら、水気を失い干からびているだろう。「がさがさ」の意味を採りたいところだ。

「しかし、カーメンはそれに当てるつもりさえなかったは」<However, she wasn't going to hit even that.>。双葉氏は「が、彼女はその車輪さえ射たなかった」と訳している。<be going to>を訳さない理由が分からない。村上氏は「とはいっても、実際に弾丸が撃ち込まれるわけではないのだが」と、踏み込んだ訳にしている。意図的にこう訳したのだとすれば、訳者としては出過ぎた真似だ。これは翻訳ではない。

「私漏らしてるもの」は<I wet myself.>。双葉氏は「私、びしょびしょだもの」と訳しているが、<wet oneself>は「もらす、失禁する」の意味だ。村上氏も「だって、私お漏らししてるんだもの」と訳している。

オートマタ

今日はパラミタミュージアムで開催中の「英国自動人形展オートマタ・アナログの美」を見てきた。ボタンがついていて、それを押すと人形たちが動き出す。ほとんどのものが動かすことができるように展示されているのでうれしくなった。中には、日本人がフグを突っついているのもあって、長く押していると、最後には、フグの毒に当たって倒れてしまう。これには笑った。

 その後、アレーゼ三重によって、アバルト595トゥーリスモに試乗してきた。最近乗ってるアウディとは全く違った乗り味で、これはこれで楽しかった。しかし、かなり高額なので、妻は尻ごみをしている。いつまで生きられるかもわからないのだから、思い切ったら、と言ったのだが、現在検討中とのこと。

『大いなる眠り』註解 第三十一章(1)

《執事が私の帽子を持って出てきた。私はそれを被りながら言った。
「将軍のことをどう思うね?」
「見かけより弱っておられません」
「もし見かけ通りなら、もう埋められる覚悟ができていそうだ。リーガンという男の何があんなに将軍の気を引いたのだろう?」
 執事はしらけた、そのくせ奇妙に表情を欠いた顔で私を見た。「若さでしょうか」彼は言った。「それと、兵士の目です」
「君のように」私は言った。
「こう申しては何ですが、あなた様の目も似ていなくもない」
「ありがとう。お嬢さんたちは今朝はどうしてる?」
執事は礼儀正しく肩をすくめた。
「だと思ってた」私は言った。執事がドアを開けてくれた。
 私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした。段丘になった芝生と手入れの行き届いた樹木と花壇からなる庭園の基部には背の高い金属柵が巡らされていた。斜面の途中に両手で頭を抱えたカーメンがひとり、しょんぼりと石のベンチに腰掛けていた。
 私は段丘と段丘をつなぐ赤い煉瓦の階段を下りた。私は足音に気づかれる前に近づいた。カーメンは飛び上がって振り返った。猫のように。初めて会ったときと同じ淡青色のスラックスをはいていた。金髪も同じように緩く黄褐色に波打っていた。顔は白かった。私を見たとたん頬に赤みが差した。瞳は灰色だった。
「退屈かい?」
 カーメンはゆっくり、どちらかといえば恥ずかしそうに微笑んだ。そして素早く頷いた。それから囁いた。「私のこと、怒っていない?」
「君の方が怒っていると思っていた」
 カーメンは親指を上げ、くすくす笑いながら言った。「怒っていない」。そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった。私はあたりを見回した。三十フィートばかり向こうの木に吊るされた的に、ダーツが何本か刺さっていた。さっきまで座っていた石のベンチにももう三、四本あった。
「金持ちにしては、君も姉さんもたいして面白くもなさそうだな」私は言った。
 カーメンは長い睫の下から私に視線をくれた。本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった。私は言った。「ダーツを投げるのが好きなのかい?」
「うん」
「それで思い出した」私は屋敷の方を振り返った。三フィートばかり動いて木の陰に身を隠し、ポケットから真珠貝の握りのついた小さな銃を取り出した。「君に返そうと飛び道具を持ってきてたんだ。掃除して弾も入れておいた。忠告しておくが──もう少し腕前をあげない限り、人を撃ってはいけない。分かったかい?」
 顔が青ざめ、扁平な親指が落ちた。私を見ていた視線が私の握っている銃に落ちた。うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた。それから突然言った。「撃ち方を教えて」
「何だって?」
「どうやって撃つのか教えて。やってみたいの」
「ここでかい? それは違法行為だ」
 カーメンは近寄ってきて私の手から銃をとり、床尾を愛おしそうに抱きしめた。それからまるでいけないことでもするみたいに急いでスラックスの中に押し込むと周りを見回した。
「いいところを知ってる」彼女は内緒話をするような声で囁いた。「古い油井が並んでるあたり」そう言うと、丘の麓を指さした。
「教えてくれる?」
 私は灰青色の瞳をのぞき込んだ。二つの瓶の口を見ているようだった。「いいだろう。銃を返してくれ。その場所が相応しいところだと私が決めるまで」
 カーメンは微笑み、顔をしかめ、こっそりと悪戯でもしているような様子で銃を返した。まるで自分の部屋の鍵を手渡すみたいに。我々は階段を上り、私の車のところまで歩いた。庭園は取り残されたように見えた。陽光は給仕長の笑顔のように空虚だった。二人は車に乗り込み、掘り下げられた私道を下り、ゲートを抜けて外に出た。
「ヴィヴィアンはどこにいる?」私は訊いた。
「まだ起きてこない」彼女はくすくす笑った。
 車は丘を下り、雨に洗われ静かで華やかな街路を通り抜けた。ラ・ブレアまで東に進み、そこで南に折れた。十分ほどで話に出た場所に着いた。》

「あなた様の目も似ていなくもない」は<not unlike yours.>。双葉氏は「あなた様のとはだいぶ違いますようで」とやってしまっている。<unlike>を<not>で否定しているわけだから、いわゆる二重否定だ。単なる肯定ではなく、そこに何らかの含意があると見なくてはならない。村上氏は「あなた様の目にもそういうところがなくはありません」と訳している。執事の言葉として丁寧語を使いたいのだろうが、「なくはありません」という日本語はおかしくはないだろうか。

「私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした」は<I stood outside on the step and looked down the vistas>。本当は、この後にどんな風景かを説明する長い文が続くのだが、一度ここで切った。双葉氏は「私は階段の上に立って、草のしげったテラスから庭の奥にある鉄柵のほうにつづいている刈りこんだ木々と、夜の遠近感にあふれた風景を見わたした」と訳している。

「夜の遠近感にあふれた」は原文のどこにも該当する部分が見当たらない。第一、マーロウが屋敷を訪れたのは朝である。どこからこんな訳が出てくるのか、想像することすらできない。村上訳は「私は外に出て階段の上に立ち、段丘になった芝生と、きれいに刈り込まれた樹々と、花壇が連なる風景を見下ろした」と、やはり途中で文を切っている。ただし、この切り方には問題が残る。

村上訳の続きを見てみよう。「庭園のいちばん下には、金属製の高い手すりが巡らされている。その斜面の中腹あたりに、カーメンの姿が見えた」がその部分。途中で文を切ったために、視線は庭園のいちばん下にあるはずなのに、「その斜面の中腹あたりに」と急に視線が動いている。ここは眺めた風景全体を描写しておいて、斜面全体の中程にいるカーメンを見つけたように訳す必要があるだろう。

「くすくす笑いながら」は<giggled>。双葉氏は「げらげら笑った」と訳しているが、<giggle>は忍び笑いのことで、「げらげら」とはちがう。「そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった」は<When she giggled I didn’t like her any more.>。双葉氏は「笑ったとたんに、私は彼女が好きでなくなった」と、ずいぶんストレートな訳だ。村上氏は「彼女がくすくす笑い出すと、私はもうあまり好意が持てなくなる」と、訳している。

「本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった」は<This was the look that supposed to make me roll over on my back.>。双葉氏は「私をノックアウトするねらいを持った一瞥(いちべつ)だ」と訳している。村上氏は「それはどうやら、私を狂おしく身悶えさせることを目的とした表情であるらしかった」だ。<roll over on my back>自体は「仰向けに寝転がる」の意味だが、犬が甘えるときに腹を見せる格好を思い出してもらえればその意は通ずるだろう。

「うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた」は<There was a fascination in her eyes. “ Yes,” she said, and dodded.>。双葉氏はここをカットしている。拳銃を見つめるカーメンの目の奥に潜む狂気のようなものを表現している部分なのに、ここを抜くのは惜しい。村上氏は、その部分を「その目には魅せられたような表情が浮かんだ」と訳している。