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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第24章

―<backseat>には、「つまらない地位」という裏の意味がある―

【訳文】

《エレベーターで下まで降り、狭い廊下を抜け、黒いドアから外に出た。外気は爽やかに澄みきっていた。海霧も流れてこない高さだった。私は深く息を吸った。
 大男はまだ私の腕をつかんでいた。車が停まっていた。平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている。
 大男がフロント・ドアを開け、ぼやいた。「階級を上げ過ぎたよ、あんた。一息入れたら元気も出るさ。大丈夫かい? 俺たちも、あんたの気に入らないことはしたくないんでね」
「インディアンはどこだ?」
 彼は軽く首を振り、私を車に押し込んだ。私はフロントシートの右側に乗り込んだ。「ああ、インディアンか」彼は言った。「あいつを射ちたけりゃ弓矢を使うこった。それが決まりだ。車の後ろにいる」
 私は車の後ろを見た。空っぽだ。
「変だな、どこにもいない」大男は言った。
「誰かがさらっていったにちがいない。ロックしてない車には何も置いておけないな」
「早くしろ」口髭の男がそう言って、バックシートに乗り込んだ。ヘミングウェイは回り込んでその逞しい腹をハンドルに押しつけた。車は向きを変え、静かに野生のゼラニウムに縁どられた私道を下りていった。冷たい風が海から吹いてきた。遥か遠くに星が見えた。彼らは押し黙っていた。
 私道の端から、コンクリート舗装の山道に入り、道に沿ってゆっくり走った。
「どうして車がないんだ?」
「アムサーが迎えを寄越したんだ」
「そりゃまたどういう訳で?」
「私に会いたいからに決まってるだろう」
「こいつは大丈夫だ」ヘミングウェイは言った。「物事を理解してる」。窓からぺっと唾を吐いて、きれいにカーブを切り、エンジンを回しながら丘を下った。「あいつが言うには、あんたに電話で強請られかけたので、考えたんだそうだ。もし取引することになるなら、先に取引相手をざっと見ておきたい、と。それで自分の車を寄越したのさ」
「知り合いの警官に電話するつもりでいたから、帰りの車は要らなかった」私は言った。「そういうことだ、ヘミングウェイ
「ああ、またそれだ。まあいい。テーブルの下にディクタフォンがついていた。録音した分を秘書が書き起こす。俺たちが来たとき、ミスター・ブレインに読み直してたのがそれだ」
 私はミスタ・ブレインを振り返った。彼は葉巻を吸っていた。スリッパでも履いているかのようにくつろいで。こちらを見ようともしなかった。
「まず、それはない」私は言った。「こんなときのために用意した修正済みの文書ファイルがあるのさ」
「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」ヘミングウェイがそれとなく持ちかけた。
「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」
「おっと、俺たちはその手の警官じゃない」大きなジェスチャーをまじえて彼は言った。
「なあ、君はアムサーをよく知っているんだろう、ヘミングウェイ?」
「ミスタ・ブレインはよく知ってる。俺はただ言われた通りにするだけだ」
「ミスタ・ブレインというのは何者だ?」
「バックシートの紳士だ」
「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」
「意味が分からん、ミスタ・ブレインを知らない者はいない」
「もういい」私は言った。急にどうでもいいという気分になってきた。
 しばらく静寂が続いた。カーブが続き、曲がりくねったコンクリートの道が続き、闇が続き、痛みが続いた。
 大男が言った。「今は野郎だけで、女はいない。何であんたがあそこに戻ってきたのかはどうでもいいが、このヘミングウェイという戯言には本当のところ、うんざりしてるんだ」
「ギャグさ」私は言った。「大昔のギャグだ」
「そのヘミングウェイとかいうのは誰なんだ?」
「同じことを何度も繰り返して言う男だ。こちらがその通りだと信じるようになるまで」
「それにはえらく長い時間がかかるにちがいない」大男が言った。「私立探偵にしちゃ、あんたはたしかに、少しばかりとりとめのない頭の持ち主だ。まだ自前の歯は残ってるか?」
「ああ、いくつか詰め物はあるが」
「まあ、ツキが回ってたってとこだ、あんた」
 バックシートの男が言った。「ここでいい。次を右折だ」
「了解」
 ヘミングウェイは、狭い未舗装路にセダンを突っ込んだ。山の側面に沿って延びる道を、ざっと一マイルほど走った。むせかえるようなセージの匂いが鼻をついた。
「ここでいい」バックシートの男が言った。
 ヘミングウェイは車を停め、サイド・ブレーキを引いた。私のからだ越しに屈みこみ、ドアを開けた。
「知り合えてよかったよ、あんた。けど、戻ってくるんじゃないぜ。少なくとも仕事絡みではな。出るんだ」
「ここから歩いて帰るのか?」
バックシートの男が言った。「早くしろ」
「ああ、あんたはここから歩いて帰る。それでいいか?」
「結構だ。考え事をまとめられる。例えば、君たちはL.A.の警官じゃない。しかし、どちらかは警官だ。たぶん二人ともだろう。見たところ、ベイ・シティの警官のようだ。分からないのは、どうして管轄外に出張ってきたかだ」
「証明するのは難しいんじゃないか?」
「おやすみ、ヘミングウェイ
 彼は返事しなかった。二人とも何も言わなかった。私は車を降りようとし、ステップに足をかけて、前にのめった。まだ少し眩暈がした。
 バックシートの男が電光石火の動きを見せた。眼で見るのではなく、気配で感じた。足元には漆黒の夜より深く闇だまりが広がっていた。
 私はその中にダイブした。闇の底が抜けた。》

【解説】

「海霧も流れてこない高さだった」は<high enough to be above the drift of foggy spray from the ocean>。清水訳では「海に近い(さわやかな空気を深く吸い込んだ)」となっているが、水平方向では海に近くても、垂直方向では海から離れているので、原文からかなり意味が変わっている。村上訳は「遥か高いところにあるので、海の飛沫を含んだ霧も漂ってはこない」と原文に忠実だが「海の飛沫を含んだ霧」は少々くどい。

「平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」は<a plain dark sedan, with private plates>。清水氏は「黒塗りのセダンが一台(駐っていた)」と、ナンバープレートについて触れていない。どう見ても警官らしい二人が個人のナンバーをつけた車で来ている不自然さについて書いているのだ。カットするべきではない。村上訳は「地味な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」。

「階級を上げ過ぎたよ、あんた」は<It ain't really up to your class, pally>。清水氏は「お前さんのような奴にはもったいない」と訳している。何が勿体ないのだろう。車のことだろうか? 村上氏は「実力以上に欲をかきすぎたんだよ」と訳している。強請るにしても闘うにしても相手が悪かった、というような両義的な意味にとれる訳だ。「階級」と訳したのは、ボクシングでいえば、ヘビー級<the heavyweight class>の意味。ヘミングウェイの言葉の後にマーロウがインディアンのことを訊いていることから見て、この<class>は、格闘技における階級差を意味しているのだと思う。

「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」は<Maybe you would like to tell us why you wanted to see this guy>。この<this guy>が曲者だ。清水氏は「なぜ、お前の顔を見たかったのか、わかっているかね?」と訳している。つまり<this guy>をヘミングウェイ本人と解釈しているのだ。しかし、その前に<tell us>と言っているので、ヘミングウェイは自分たちを二人組と考えていることが分かる。村上訳は「どうしてあの男に会いたかったのか、あんた、俺たちにその理由を説明したいんじゃないのかな」だ。

会話の場合、問いかけの訳をまちがえると、答えの方もおかしくなる。「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」の原文は<You mean while I still have part of my face?>。清水訳では「こんな形になる前の顔かね?」となっている。村上訳は「まだ私の顔に少しでも見られるところが残っているうちにということかな?」。

「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」は<And besides being in the back seat who the hell is he?>。清水訳は「それはわかってる。どういう人間なんだ?」。村上訳は「後ろの席のことは別にして、いったい誰なんだ?」。<take a backseat>という成句がある。「一目置く、二の次になる」の意味だ。自動車の後部座席に座ることが「目立たない位置、つまらない地位」を指している。マーロウは、それを仄めかしているのだが、ヘミングウェイにはそれが通じていない。註でもつけないと伝わらないので、両氏とも無視しているのだろう。しかし、そこを理解しないと、この後マーロウが急にやる気が失せる原因が理解できない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第23章

―いくらタフでも、喉が「肉挽機」を通ったら、元に戻りそうにない―

【訳文】

《「おい」大男が言った。「そろそろ潮時だ」私は目を開けて、体を起こした。
「河岸を変えようじゃないか、なあ」
 私は立ち上がった。まだ夢見心地だった。我々はドアを通ってどこかへ行った。それから私は、そこが周囲を窓に囲まれた待合室だと気づいた。外はもう真っ暗闇だった。
 場違いな指輪をした女が机の前に座っていた。その隣に男が立っていた。
「ここに座るといい」
 彼は私を強引に座らせた。快適な椅子だった。背凭れは真っ直ぐだが座り心地は良かった。もっとも、そんな気分ではなかった。女が机の向こうで手帳を開き、声に出して読み上げていた。背の低い、灰色の口髭を生やした年配の男が無表情にそれを聴いていた。
 アムサーは部屋に背を向けて窓辺に立ち、静かな水平線を眺めていた。遥か遠く、桟橋の明かりの向こう、この世界の向こうを、まるで愛しいものでも見るように。彼はちらりと私方を見た。顔の血は洗い落とされていたが、鼻が最初に見た鼻と違っていた。二サイズ以上大きかった。思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた。
「お愉しみのようだな、相棒?」
 私は声の主を見た。眼の前にいる、私をここまで連れてきた相手を。二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男で、シミの浮いた歯とサーカスの呼び込みのような蕩ける声の持ち主だ。タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない。毎晩のお祈り代わりに愛用のブラックジャックを唾で磨くタイプの警官だが、ユーモラスな眼をしていた。
 両脚を開いて眼の前に立ち、私の札入れを開いて手に持っている。物を傷つけるのが好きだとでもいうように革を引っ掻いている。もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう。
「覗き屋かい? 大きな悪い街からお出でなすって? ちっとばかし強請りでもってか?」
 帽子をあみだにかぶっていた。額にかかった埃っぽい茶色の髪が汗で黝ずんでいた。ユーモラスな眼は血管で赤く斑になっていた。
 咽喉が水絞り機にかけられたようだった。手を伸ばして触ってみた。インディアンだ。鋼鉄の工具のような指の持ち主だ。
 浅黒い女が読み終えた手帳を閉じた。灰色の口髭を生やした年配の小柄な男が肯いて、私に話しかけている男の後ろにやってきた。
「警官か?」私は顎をさすりながら訊いた。
「どう思うね?」
 警官のユーモアだ。小柄な男の片目は斜視で、半ば見えていないようだった。
「L.A.じゃないな」私は彼を見て言った。「その眼じゃ、ロサンジェルスでは勤まらない」
 大男は札入れを私に渡した。調べてみた。金も名刺もそのままだった。これには驚いた。
「何か言えよ」大きい方が言った。
「俺たちがあんたのことを好きになれそうな何かをさ」
「銃を返してくれ」
 彼は少し前屈みになって考えた。私には考えているように見えた。痛いところをついたようだ。「銃が欲しいのか?」彼は横目で灰色の口髭の方を見た。「こいつは銃を欲しがってる」彼は言った。彼はまた私の方を向いた。「また何のために銃が欲しいんだ?」
「インディアンを撃ちたいんだ」
「へえ、あんた、インディアンが撃ちたいんだ」
「ああ、インディアンを一人、バンと」
 彼は口髭の男をまた見た。
「タフな野郎だ」彼は言った。「インディアンが撃ちたいそうだ」
「いいか、ヘミングウェイ、私の言うことをいちいち繰り返すな」私は言った。
「こいつは気が変だ」大きいのが言った。「俺のことをヘミングウェイと呼ぶ。変だと思わないか?」
 口髭の男は葉巻を噛んで、何も言わなかった。窓際の長身の優男はゆっくり振り向いて静かに言った。「おそらく、少し情緒不安定なのだろう」
「俺のことをヘミングウェイなんて呼ぶ意味が全然分からない」大きいのが言った。「俺の名前はヘミングウェイなんかじゃない」
 年寄りの男が言った。「銃は見なかった」
 彼らはアムサーを見た。アムサーが言った。「中にある。私が預かっている。君に渡すよ、ミスタ・ブレイン」
 大男が腰をかがめ、膝を少し折って私の顔に息を吹きかけた。
「なんで俺のことをヘミングウェイと呼ぶんだ?」
「レディの前だよ」
 彼は背を伸ばした。「これだもんな」彼は口髭の方を見た。口髭の男は肯いて後ろを向き、部屋を横切った。スライド・ドアが開いた。彼は中に入り、アムサーが続いた。
 沈黙が落ちた。浅黒い女は机の上を見下ろし、眉をひそめた。大男は私の右の眉毛を見て、首をゆっくり左右に振った、訳が分からないとでも言いたげに。
 再びドアが開き、口髭の男が戻ってきた。彼はどこかから帽子を取り出し、私に手渡した。ポケットから私の銃を取り出し、私に手渡した。重さで弾倉が空だと分かった。それを脇の下に収め、立ち上がった。
 大男が言った。「さあ、行こう。外の空気を吸ったら少しは頭がはっきりするだろう」
「オーケイ、ヘミングウェイ
「こいつ、まだ言ってる」大男は悲しげに言った。「女の前だからって、俺のことヘミングウェイと呼ぶ。下品な冷やかしか何かのつもりなのか?」
 口髭の男は言った。「急ぐんだ」
 大男は私の腕を取り、我々は小さなエレベーターに向かった。エレベーターが上がってきて、我々は乗り込んだ。》

【解説】

「そろそろ潮時だ」は<You can quit stalling now>。清水氏は、その前の<all right>とくっつけて「さあ、起きろ」と訳している。村上氏も同じ扱いで「おい、そんなところで気を失われちゃ困るんだ」と訳している。<stall>は「(畜舎の)一頭用の仕切り」のこと。競馬のスターティングゲートを意味する場合もある。それが転じて<stalling>は「エンストなどの失速、急停止」、「口実、言い逃れ、ごまかし、時間稼ぎ」を意味することになった。

「場違いな指輪をした女」は<The woman with the wrong rings>。清水氏は「大きすぎる指環をはめた女」、村上氏は「サイズの合わない指輪をつけた女」と訳している。女の指輪については第二十一章(2)で言及済み。

「彼はちらりと私を顧みた」は<He half turned his head to look at me once>。清水氏は「顔を私の方にむけたときに」と訳している。村上氏は「一度だけ顔を半分こちらに向けて私の様子をうかがった」と訳している。<half turn>は、文字通り「半回転」のことで、「顔」ではなく、「頭」を百八十度回転することである。つまり、海を見ていたアムサーは、部屋の方にくるりと振り返ったのだ。だから、鼻が大きくなっていたことに気がついたのだ。格好をつけて海を見ていた男の鼻が、膨れ上がっていたら、さぞおかしかったことだろう。

「思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた」は<That made me grin, cracked lips and all>。清水氏は「私は裂けた唇をまげて苦笑した」。村上氏は「私は思わずにやりとし、唇を開かないわけにはいかなかった」。アムサーの鼻を見た結果として、にやりと笑ってしまったマーロウ。その笑いが切れかけていた唇の傷を開いたのだろう。

「二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男」は<He was a windblown blossom of some two hundred pounds>。清水氏は「二百ポンドもありそうな大男」と<windblown blossom>をカットして訳している。村上氏は「百キロ近い体重の、風に吹きさらされた花のような男」と訳しているが、<blossom>を「花」と訳してしまうと風に吹かれる野の花のようで可憐すぎ、二百ポンドとなじまない。林檎のように実をつける果樹は可憐な花をつけるから、多分そういう花のことだと思うが、分かりづらい比喩だ。

「タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない」は<He was tough, fast and he ate red meat. Nobody could push him around>。清水氏はここをすべてカットしている。村上氏は「タフで、俊敏で、赤身の肉を食べる。彼をこづくような真似は誰にもできない」と訳している。頭はどうか知らないが、腕力には長けている、一度これと決めたら動じない、現場で力を発揮するタイプの警官というところか。カットするには惜しいところだろうに。

「もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう」は<Little things, if they were all he had. But probably faces would give him more fun>。清水訳は「それが彼の持っていたすべてでも、小さなことだ。だが、たぶん、顔の方が興味があるのだろう」。村上氏は「ほかに何もなければ、小さな何かを傷つける。しかし、彼としては誰かの顔を傷つける方がもっと愉しいはずだ」と、例によって噛みくだいて訳している。

「咽喉が水絞り機にかけられたようだった」は<My throat felt as though it had been through a mangle>。清水氏は「私の咽喉は皺のばし機械を通ってきたような感じだった」と訳している。村上訳は「肉挽機を通り抜けてきたみたいな具合だった」だ。<mangle>は、動詞の場合「切ったり叩いたりして、ぐちゃぐちゃにする」という意味があるが、名詞の場合は「(ローラーを使った)皺のばし機、洗濯物手動絞り機」を指す。昔の洗濯機についていた二本のローラーの間に洗濯物を入れるあれだ。インディアンの手で押しつぶされたことをいうのだから「肉挽機」はちがうだろう。

「痛いところをついたようだ」は<It hurt his corns>。清水氏は例のごとく、ここをカットしている。村上氏は「それはどうやら苦手なことのようだ」と訳している。解釈としてはその通りだろう。<tread(step, trample) on one's corns>というイディオムがある。<~の感情を害する>のような意味で使う。<tread、step、trample>は「踏みつける、踏みにじる」の意味で<hurt>は「傷つける」の意味だから、それを踏まえているのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第22章

―格闘の最中に、突然、市役所が出てくる理由とは―

【訳文】

《スツールを蹴って立ち上がり、脇の下のホルスターから銃を抜いた。いい手際とは言えなかった。上着にはボタンがかかっていたし、手早くもなかった。もし誰かを撃つことになったら、どっちみち私は遅すぎるだろう。
 音もなく急に空気が動き、土臭い匂いがつんと鼻をついた。全くの暗闇の中でインディアンは背後から私を殴り、私の腕を両脇に押さえつけた。彼は私を持ち上げはじめた。銃を抜いて、闇雲に部屋中撃ちまくることもできたが、孤立無援だ。意味があるとも思えなかった。
 私は銃を握っていた手を放し、男の手首をつかんだ。ぬるぬるしてつかみにくかった。インディアンは息をぜいぜい言わせ、脳天が持ちあがるほどの勢いで私を振り下ろした。今や私に代わって向こうがこちらの手首を握っていた。後ろ手に素早くねじり、隅石のような膝を背中に押しつけ、私を跪かせた。頭くらい下げられる。後ろ盾のない身だ。彼は私を屈服させた。
 なぜか叫び声を上げようとした。息が切れて咽喉から声が出せなかった。インディアンは私を横ざまに放り出し、倒れたところを胴締めした。箍がはまったようだ。手が私の首に伸びた。今でも時々夜半に目を覚ました時、あたりに彼の匂いを感じることがある。息をしようと悪あがきをしても、脂ぎった指が食い込んでくる。そういうときは、起き出して一杯やり、ラジオのスイッチをひねる。
 再び灯りがついたとき、ほとんど気を失いかけていた。眼球とその裏側の充血のせいで明かりは血のように赤かった。顔が浮かび上がり、片手がそっと私を探っていたが、もう一人が両手で私の咽喉を押さえ続けていた。
 穏やかな声が聞こえた。「少し息をさせてやれ」
指が緩められた。身をねじって振りほどいた。何か光るものが顎の横を打った。
 穏やかな声が聞こえた。「立たせてやれ」
 インディアンが私を立たせた。壁際に引っ張っていき、両手をねじった。
「素人が」穏やかな声が聞こえた。そして、光るもの、死の如く硬く厳しいそれが、またも私の顔を打った。生温かいものが顔を横切った。舐めると鉄と塩の味がした。
 手が私の札入れを探った。すべてのポケットを探った。ティッシュペーパーに包まれた煙草が出てきて、包みが開かれた。それは私の眼の前を霞のように消えていった。
「煙草は三本だったのか?」声は穏やかだった。光るものがまた私の顎を打った。
「三本だ」私は息を呑んだ。
「他の二本はどこにあるんだ?」
「机の中だ―オフィスの」
 光るものがまた私を打った。「たぶんでたらめだろう―調べればわかることだ」眼の前に、奇妙な小さい赤い光の中に鍵束が見えた。声が言った。
「もう少し首を締めてやれ」
 鉄の指が咽喉に食い込んだ。私は悪臭と腹筋から逃れようと、背も折れよとばかり身を引き剥がした。手を伸ばし、相手の指を一本捻り上げようとした。
 穏やかな声が聞こえた。「驚いた。こいつは学びつつある」
 光るものが再び宙を切った。それは私の顎を一撃した。かつては私の顎だったところを。
「放してやれ。さすがにこたえてるだろう」声が言った。
 重く強い両腕がはなれ、私は前によろめいたが、かろうじて踏みとどまった。アムサーは、私の目の前でほとんど夢見るかのように微かな笑みを浮かべて立っていた。私の銃が彼の繊細かつ愛らしい手に握られていた。銃口が私の胸をねらっていた。
「教えてやれないでもない」彼はその優しい声で言った。「だが、何のために? 薄汚れた小さな世界の薄汚い小男じゃないか。ひとつ賢くなったところで何も変わらない。ちがうかい?」彼はたいそう美しく微笑んだ。
 私は残る力を振り絞って、その笑顔に一発くらわせた。
 その割にはそう悪くもなかった。彼はよろめき、両の鼻孔から血が流れた。それから、踏みとどまり、真っ直ぐに立ち、また銃を構えた。
「かけなさい」彼はそっと言った。「客を待っている。君が殴ってくれてよかったよ。仕事の助けになる」
 私は白いスツールを手探りし腰を下ろした。そして、白いテーブル上で今では再び優しく輝いている乳白色の球体の横に頭を横たえた。私はテーブル上に横向きになった顔で眺めた。ライトが私を魅了した。心和む灯りだ。心和む優しい灯りだった。
 背後も周囲も静まりかえっていた。私はそのまま眠りに落ちたようだ。血まみれの顔をテーブルにのせ、私の銃を手に微笑む痩身の美しい悪魔に見守られながら。》

【解説】

「私を跪かせた。頭くらい下げられる。後ろ盾のない身だ。彼は私を屈服させた」は<He bent me. I can be bent. I'm not the City Hall. He bent me>。清水氏は「私のからだをねじ枉(ま)げた」とだけ、訳している。この辺の分からないところをあっさりパスする潔さは一種の見識である。それに引き比べ、村上氏は「私の身体をのけぞらせた。人間の身体は曲がるようにできている。市役所の建物とはわけが違う。彼は私の身体をぐいと曲げた」と訳している。この訳は傑作だ。

<bend>は「曲げる」という意味だが、普通、前方に曲げることをいう。それに<bend>には「屈服させる」という意味もある。体の自由を奪われたマーロウが、三度も<bent>を繰り返し、二度も<bent me>と書いているのは、屈服させられたことに対する屈辱感があるからだ。極めつけは<I'm not the City Hall>だ。<fight city hall>という成句があって、「官庁(官僚機構)を相手に戦いを挑む、ほとんど無益なことをする」という意味だ。私立探偵に過ぎないマーロウには頼りとする組織がない。その無力感を言いたいのであって、身体の柔軟さの対比に、わざわざ市役所の建物を持ち出す必要はない。

格闘シーンをもう一つ。「倒れたところを胴締めした。箍がはまったようだ」は<got a body scissors on me as I fell. He had me in a barrel>。清水氏は、たた「押えつけた」とだけ。村上氏は「私が倒れたところを、両脚でぐいと挟み込んだ。どうにも身動きがとれない」と訳している。<body scissors>はプロレス技の「ボディーシザーズ」、つまり「胴締め」のことである。<barrel>は「樽」のことだ。

「片手がそっと私を探っていたが、もう一人が両手で私の咽喉を押さえ続けていた」は<a hand pawed me delicately, but the other hands stayed on my throat>。清水氏は「一つの手が私のからだを探った。もう一つの手はまだ私の咽喉を締めつけていた」と訳しているが、<other hands>とあるので、手が三本いることになってしまう。村上訳は「片手が私の身体を注意深く探った。しかしもう一人の両手は私ののどをしっかりと押さえたままだ」。

「光るもの、死の如く硬く厳しいそれが、またも私の顔を打った」は<the shiny thing that was as hard and bitter as death hit me again>。清水氏は「堅い、光ったものが私の顔に飛んできた」と訳している。村上氏は「その光るものが再び私の顔面を打った。死そのもののように硬くて厳しいものだ」と訳している。いうまでもなく拳銃の隠喩である。

「かつては私の顎だったところを」は<the thing that had once been my jaw>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「かつては私の顎であったものを」。

「アムサーは、私の目の前でほとんど夢見るかのように微かな笑みを浮かべて立っていた」は<Amthor stood smiling very slightly, almost dreamily in front of me>。清水氏は「アムサーはかすかな微笑を見せて、私の眼の前に立っていた」と<almost dreamily>をカットしている。村上訳は「アムサーは見えるか見えないかという淡い微笑みを浮かべて、私の前に立っていた。どことなく夢見心地にも見えた」だ。

「その割にはそう悪くもなかった」は<It wasn't so bad considering>。清水氏は「たしかに手ごたえがあった」と勝手に作文している。村上氏は「それは悪い思いつきではなかった」と訳しているが、文末に置かれた<considering>は、もとは前置詞で、後に続く<the circumstances>を略した形。「すべてを考慮すれば、その割に」の意味になる。この一文は、そのまま例文にもある。

「背後も周囲も静まりかえっていた」は<Behind me and around me there was nothing but silence>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「私の背後にも、まわりにも、沈黙のほかには何もなかった」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(4)

―にらんで相手の目を背けさせることができなかったのは何故か―

【訳文】
《軽口は関心を引けなかった。テーブルを叩く音は続いていた。私はこつこつという音に耳を傾けた。何かが気に入らなかった。まるで暗号のようだった。彼は叩くのをやめ、腕を組み、背凭れのない椅子の上で体を後ろに傾けた。
「この仕事で気に入っているのは皆が知り合いなことだ」私は言った。「ミセス・グレイルもマリオットのことを知っていた」
「どうやって、それがわかった?」彼はゆっくり訊いた。私は何も答えなかった。
「君は警察に話すべきだと考えているのだろうね―煙草のことを」彼は言った。
 私は肩をすくめた。
「君はどうして放り出されないのかと考えている」アムサーは楽しそうに言った。セカンド・プランティングは君の首をセロリの茎みたいにへし折ることができる。自分自身何故そうしないか訳が分からない。君には何か仮説があるようだ。脅迫に金を出す気はない。金では解決しない―それに、私には多くの友人がいる。当然のことだが、私を不利な状況に立たせるたしかな要素もある。精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども。もちろん、彼らは全員医者だ。私が偽医者であるように。気の仮説とやらを聴かせてもらおうか?」
 私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ。
 彼は肩を軽くすくめた。「しゃべりたくない気持ちはわかる。この件は私が考えるべきだった。たぶん君は私が思ってたより知的な人間だったんだろう。私はときどき過ちを犯す。ところで―」彼は前屈みになって乳白色の球体の両側に手を置いた。
「マリオットは女相手の強請り屋だ」私は言った。「そして、宝石強盗の手先だ。しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」
「それが」アムサーは言葉を選んで言った。「君の考えるマリオットと私の人物像だとすると、ちょっとむかつくね」
 私は身を乗り出した。顔と顔の間が三十センチ足らずまで近づいた。「君はいかさま師だ。どれだけ気のすむように飾り立てたところで、いかさま稼業に変わりはない。名刺のことだけじゃない、アムサー。君の言う通り、名刺など誰にでも手に入る。マリファナじゃないな。よほどの機会でもなければ、そんな安物に手を出すはずはない。しかし、あの名刺はどれも裏に空白部分があった。そして、そこに、或いは印刷のある面にも、見えない文が書かれていたりする」
 彼はわびし気に微笑んだが、私はほとんど見えなかった。手が乳白色の球体の上に動いた。
 灯りが消えた。部屋はキャリー・ネイションのボンネットのように真っ黒になった。》

【解説】

精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども」は<Psychiatrists, sex specialists, neurologists, nasty little men with rubber hammers and shelves loaded with the literature of aberrations>。清水訳は「精神分析医、セックス専門医、神経科医など、ゴムのハンマーを持ち、書棚に異常の文学書を並べている、くだらない連中だ」。村上訳は「精神分析医、セックスのスペシャリスト、ゴムの警棒を持ち、精神異常の文学で書棚をいっぱいにしたいやらしい小男」。

まず、<psychiatrists>は「精神科医」であり、「精神分析医」は<psychoanalyst>よく似ているが、別物だ。村上訳は旧訳をベースにしているので、まちがいを引き継ぐことがよくある。これもその一つ。さらに、村上氏は、どうしたことか<neurologists>をトバしてしまっている。そして、決定的なミスは<rubber hammer>を「ゴムの警棒」と訳していることだ。精神病院の警備員を想定したのだろうが、ゴムのハンマーは、脚気の診断等で膝頭の下を叩く小さな器具である。医者を揶揄する象徴として用いていることはいうまでもない。

「私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ」は<I tried to stare him down, but it couldn't be done; I felt myself licking my lips>。清水氏は「私は彼を見つめようとしたが、できなかった。私はただ、唇をなめていた」と訳している。村上訳は「私は彼をじっと見つめて目をそらせてやろうとした。しかし、それはできなかった。私は知らないうちに自分の唇をなめていた」だ。この両氏の訳が、マーロウのどんな気分を言おうとしているのか、がよく分からなかった。

<stare down>は「人を睨みつけて、おとなしくさせる」という意味だ。では、何故そうできなかったのか。セミコロンが使われていることに注意しよう。これは、後の文が前の文を説明するときに使うことがある。<I felt myself licking my lips>を、両氏とも「唇をなめる」と訳しているが<licking one’s lips>は日本語でいう「舌なめずりをする」ことを意味する。その前にあるのが<I feel myself>「~という気分」なら、まちがいない。マーロウは「してやったり」という思いがこみあげていて、睨み倒すことができなかったのだ。

「しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」は、ちょっと長くなるが<But who told him what women to cultivate-so that he would know their comings and goings, get intimate with them, make love to them, make them load up with the ice and take them out, and then slip to a phone and tell the boys where to operate?>。

清水訳は「しかし、女の行動を知って、彼らに近づき、愛をささやき、金や宝石を身につけさせて、外につれ出し、どこで仕事をすればいいのかを電話で知らせるのにどの女に働きかければいいかということを、誰が教えていたのだろう?」だ。so-that構文を後ろから訳したために、後半の文がもたついて分かりにくい。「電話で知らせるのにどの女に働きかければいいか」と言ってるように読める。

村上訳は「誰かが彼に、どの女をカモにすればいいか耳打ちしていたらしい。その情報によって、彼女たちがどんな行動を取るかを知ることができた。女たちと親しくなり、関係を持ち、宝石で飾り立てさせて外に連れ出し、それから強盗団の連中にこっそり電話をかけ、どこで襲えばいいかを教えていた」。例によって噛みくだいて訳しているが、後半の主語がマリオットになっているので、首謀者の影が薄くなっているのは否めない。

蛇足ながら、キャリー・ネイションという女性は、禁酒運動の時代、斧で酒場のカウンターを叩き割って飲酒癖のある男たちに悔悛を迫ったという伝説の猛女らしい。清水氏は名前を記すにとどめているが、村上氏は括弧内に註を入れている。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(3)

―どうして村上氏は原文にない「死者」を訳に付け足したのだろう―

【訳文】

《「どうしてそうなったのか知りたいという訳か?」
「そうだ。こちらが百ドル払わなきゃいけないくらいだ」
「その必要はない。答えは簡単だ。私の知らないこともある。これはそのひとつだ」
 一瞬、男を信じかけた。男の顔は天使の羽のように滑らかだった。
「なら、どうして百ドルと臭くてタフなインディアン、それと車を寄こしたんだ? 時に、インディアンは臭くなきゃいけないのか? 雇い主なら、風呂を使わせることくらいできるだろう」
「彼は生まれつきの霊媒だ。ダイヤモンドのように稀少で、ダイヤモンドと同じように、汚れた場所で見つかることもある。君は私立探偵だったな?」
「そうだ」
「君は極めて愚かな人間のようだ。愚かに見える。愚かな仕事をしている。そして、愚かしい任務でここにやってきた」
「なるほど」私は言った。「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」
「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」
「そちらが引き留めてるんじゃない」私は言った。「こちらが引き留めてるんだ。あの名刺が煙草の中に入っていたわけを知りたいのでね」
 彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった。「私の名刺は誰でも入手可能だ。私は友人にマリファナ煙草を贈ったりしない。君の質問は依然として愚かしい」
「これで少しは機嫌が直るかもしれない。その煙草は日本製か中国製の安っぽい模造鼈甲のケースに入っていた。どこかで見た覚えは?」
「いや、まったく覚えがない」
「もう少し景気よくすることもできる。そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていた。名前を聞いたことは?」
 彼は考えた。「聞いたことがある。一度面倒を見た。カメラ恐怖症だったんだ。映画界入りを考えていたようだが、時間の無駄遣いだった。映画界は彼を欲しがらなかった」
「察しはつく」私は言った。「彼の写真はイサドラ・ダンカンのように見えただろう。もっと大きなのが残っている。百ドル札を送りつけた理由は?」
「ミスタ・マーロウ」彼は冷ややかに言った。「私は莫迦ではない。罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ。年がら年中、君みたいな連中からの危険にさらされている。危険に見舞われる前にやるだけのことをやったまでだ」
「かなり些細なことだったというのか、私の場合?」
「無に等しいね」彼は丁重に言った。そして左手で奇妙に目を引く動きをして見せた。それから彼は手をゆっくりと白いテーブルの上に置き、それを見た。それからまた底の知れない眼をあげ、両腕を組んだ。
「聞こえたかな―」
「臭いがしてるよ」私は言った。「彼のことは考えていなかった」
 私は左の方を向いた。インディアンが黒いヴェルヴェットを背に、三つ目のスツールに座っていた。
 彼は別の服の上から白いスモックのようなものを着ていた。身じろぎもせずにじっと坐っていた。眼を閉じ、頭は少し前に傾けていた。まるで一時間眠り込んでいたとでもいうように。浅ぐろく逞しい顔は影に包まれていた。
 私はアムサーを振り返った。彼は微かな微笑を浮かべていた。
「婆さんが見たら入れ歯を落とすだろう」私は言った。「本当のところ彼は何をしてるんだ―君の膝の上でシャンソンでも歌うのか?」
 彼は苛立たしそうなふりをした。「要点を言ってくれないか」
「昨夜、マリオットは私を付き添いに雇った。指定された場所で悪党に金を払うために、出かける必要があったんだ。私が頭を殴られてのびている間にマリオットが殺されていた」
 アムサーの顔には何の変化も現れなかった。叫び声も上げないし、壁をよじ登ろうともしなかった。しかし、反応が鋭くなった。腕をほどいてまた別の方法で組み直した。口元は険しかった。その後は、市立図書館前のライオンの石像のように動かなかった。
「煙草は彼から見つかった」私は言った。
 彼は冷ややかに私を見た。「しかし、警察じゃないな。警察はまだここに来ていない」
「正解」
「百ドルでは」彼はとても穏やかに言った。「足りないようだ」
「それで何を買うかによるな」
「煙草は君が持ってるのか?」
「そのうちのひとつを。しかし、何の証拠にもならない。お言葉通り、名刺は誰でも入手可能だ。煙草がなぜそこにあったのかが分からない。何か、考えはあるか?」
「君はミスタ・マリオットのことをどれだけ知っているんだ?」彼は優しく訊ねた。
「全然知らない。しかし、分かっていることもある。明々白々でよく目立っていた」
 アムサーは白いテーブルを軽く叩いた。インディアンはまだ眠りこけていた、巨大な胸に顎をのせて。重い瞼はしっかり閉じられていた。
「ところで、ミセス・グレイルに会ったことはあるか? ベイ・シティに住む金持ちの女性だ」
 彼はぼんやりとうなずいた。「言語中枢に問題を抱えていた。彼女には軽い言語障碍があった」
「いい仕事をしたな」私は言った。「彼女は私と同じくらい上手に話す」》

【解説】
「臭くてタフなインディアン」は<a tough Indian that stinks>。大したところではないが、清水氏は「臭いインディアン」、村上氏も「ひどい匂いのするインディアン」と両氏とも<tough>をカットしている。それでいて、村上氏は<and a car>としか原文には書いてないのに「でかい車」とわざわざ大きさを強調している。

「彼は生まれつきの霊媒だ」は<He is a natural medium>。清水氏は「彼はごくしぜんな仲介役だ」と訳している。<medium>は、衣服のMサイズを表すように、「中間」の存在として両者の間をつなぐものだ。しかし、アムサーが「心霊顧問医」を名乗っていることから考えると「霊媒」と訳すのが適当だと思う。村上訳は「彼は生まれつきの霊媒なのだ」。

「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」は<I'm stupid. It sank in after a while>。清水氏は「いかにも、つまらん用件かもしれないが……」とお茶を濁している。<sink in>は「(教訓、戒めなどが)十分に理解される、心に沁み込む」ことを意味している。村上訳は「私はたしかに愚かしい。それが理解できるまでに時間がかかったが」。このマーロウの台詞が次のアムサーの「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」を引き出している。清水訳では「そして、ここにはもう用はないはずだ」と訳されていて、一応つながってはいるが<after a while>が響いていない。

「そちらが引き留めてるんじゃない」、「こちらが引き留めてるんだ」は<You're not detaining me><I'm detaining you>。清水氏は「ところが、あるんだ」と前の台詞をつなげて短くまとめている。村上氏は「あなたは私をここに引き留めていない」、「私があなたを引き留めているのです」と丁寧だ。村上訳のマーロウは、アムサーに対してとても紳士的に会話している。この辺は訳者の解釈次第だ。

「彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった」は<He shrugged the smallest shrug that could be shrugged>。清水氏はあっさりと「彼はかすかに肩をゆすった」と訳す。<shrug>は、アメリカ人がよくやる例の(両方の手のひらを上に向けて)肩をすくめるポーズのことだが、あまりに小さければ「ゆすった」くらいにしか見えないのかもしれない。村上訳は「彼はちらりと肩をすくめた。そんなにも微かに人は肩をすくめられるものなのだ」。マーロウが、ではなくて、村上氏自身が、アムサーに感心しているように思えてくる。

「これで少しは機嫌が直るかもしれない」は<I wonder if this would brighten it up any>。清水氏は「では、こういうことがあるが、どうだ?」と切り口上。それに対して村上訳はというと「念のためにうかがいたいのですが」とずいぶん下手に出ている。しかし、どちらも原文に忠実な訳ではない。<brighten up>は「(顔を)輝かせる、明るくさせる」という意味で「機嫌が直る」ことを表す。マーロウは、知らぬ顔の半兵衛を決め込むアムサーに、ゆさぶりをかけているのだ。

「もう少し景気よくすることもできる」は<I can brighten it up a little more>。<brighten up>が繰り返されているのだが、清水訳は「では、もう少し話そう」。村上訳は「じゃあ、このようにうかがいましょう」と、そっけない。

「そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていたは<The case was in the pocket of a man named Lindsay Marriott>。清水氏は「そのケースはリンゼイ・マリオという男のポケットに入っていたんだ」と訳している。そこを村上氏は「そのシガレット・ケースは死者のポケットの中に入っていた。リンゼイ・マリオットという名の死者です」と、二度も「死者」という言葉をつけ加えている。これはやり過ぎというものだ。マーロウは、情報を小出しにしながら、アムサーがどこで本当のことを話すか探ろうとしている。マーロウがここでマリオットを「死者」と呼ぶことは考えられない。相手に情報を与えず、相手から情報を引き出すのが警察のやり方だ。

「罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ」は<I sin in a very sensitive profession. I am a quack. That is to say I do things which the doctors in their small frightened selfish guild cannot accomplish>。清水訳は「私は微妙な職業にたずさわっている。私は医者だが、ありきたりの医者ではない」と、実にあっさりしたものだ。

村上氏は「とても微妙な職業に携わっている。私は正式の医者ではない。つまり世間の医者たちが、狭い仲間内の利己的な縛りのために、怖くてとても手が出せないようなことをやっているわけだ」と後半は、噛みくだいて訳しているが、前半は旧訳に手を入れただけだ。<sin>や<I am a quack>の持つ意味合いが伝わってこない。アムサーは語の真の意味で「確信犯」であることを宣言している。<quack>は「偽医者、山師、いかさま師」などを指す言葉で「正式な医者ではない」などという曖昧な言い方をしてはいない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(2)

―指輪がフィンガー・ブレスレットを連想させた、その理由―

【訳文】

《艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せ細ったアジア風の顔をした女だ。耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた。月長石や銀の台に嵌めたエメラルドは本物かもしれないが、どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた。手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった。
 女が話し出した。聞き覚えのある声だった。「ああ、ミースタ・マーロウ、よおこそいらっしゃいました。アムサーがとっても喜ぶでしょう」
 私はインディアンがくれた百ドル札を机の上に置いた。後ろを振り返ると、インディアンはもうエレベーターで下に降りていた。
「ご厚意は有難いのだが、こいつは受け取れない」
「アムサー、彼はあなたを雇いたがっている、ちがいますか?」彼女はまた微笑んだ。唇がティッシュペーパーのような音を立てた。
「まず、その仕事がどんな仕事かを知る必要がある」
 彼女は肯き、ゆっくり席から立ち上がった。人魚の皮膚のようにタイトなドレスが私の前で衣擦れの音を立てた。いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら。
「ご案内します」彼女は言った。
 彼女が鏡板についたボタンを押すと、ドアが音もなく開いた。その向こうは乳白色に輝いていた。私は通り抜ける前に彼女の笑顔を振り返った。今やそれは古代エジプトより年古りていた。私の背後でドアが静かにしまった。
 部屋には誰もいなかった。
 床から天井まで黒いヴェルヴェットで覆われた八角形の部屋だった。高く離れた黒い天井も、ヴェルヴェットかもしれない。真っ黒な光沢のない絨毯の中央に、二人が肘を載せるのに程よい大きさの八角形の白いテーブル。その真ん中に黒い台の上に載せられた乳白色の球体が置かれている。光はそこから漏れていた。仕掛けは分からない。テーブルの両側にテーブルを小さくした八角形の白いスツールがあった。壁の向こうに、もう一つ同じようなスツールがある。窓はなかった。部屋には他に何もない。壁には照明器具さえついていなかった。どこかに別のドアがあるとしても見つけることができなかった。振り返ってみても、自分の入ってきたドアも見つけられなかった。
 おそらく十五分ほど突っ立っていた。誰かに見られているような気がしていた。どこだか分からないが、たぶん、どこかに覗き穴があるはずだ。私は探してみようともしなかった。自分の息遣いが聞こえた。部屋があまりに静かで、鼻を通る息の音さえ、小さなカーテンがそよぐ音のように優し気に聞こえた。
 見えないドアが部屋の奥に開き、一人の男が入ってきた。ドアが後ろで閉まった。その男はうつむいたまま真っ直ぐテーブルまで歩き、八角形のストゥールに腰を下ろし、手をさっと動かした。初めて目にするような美しい手だった。
「どうぞおかけください。私の真向かいに。煙草を吸ったり、そわそわしたりしないで。リラックスするよう心がけてください。さて、どういうご用向きでしょう?」
 私は腰を下ろし、煙草を口にくわえ、唇のあいだで転がしたが、火はつけなかった。私は男を観察した。痩せて背が高く、背筋は鉄の棒でも入れたように真っすぐだった。これ以上はない白さと細さを併せ持つ白髪だった。絹のガーゼで漉したようだ。皮膚は薔薇の花弁のようだった。三十五歳、もしかしたら六十五歳かもしれない。年齢不詳だ。髪は、往時のバリモアを思わせる端正な横顔から、真っすぐ後ろに撫でつけられていた。眉毛は壁や天井、床と同じように漆黒だった。眼はあまりに深過ぎ、底が知れなかった。薬づけにされた夢遊病者の眼だ。前に読んだ井戸の話を思い出す。古い城にある、九百年前の井戸。そこに石を落として待つ。耳を澄ませ、待ちくたびるほど待ち、やがてあきらめて笑いながら立ち去ろうとしたとき、井戸の底から、微かな水音が帰ってくる。信じられないほど、小さく、遥か彼方から。
 男の眼はそれくらい深かった。また、およそ感情や魂を欠いていた。ライオンが人を食いちぎるのを見ても動じず、体の自由を奪われた男がまぶたを切り裂かれ、熱い太陽の下で叫び声を上げていても見続けていられる眼だった。
 ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた。虚ろな目は私の指先を眺めていた。
「どうか、落ち着いて」彼は言った。「波動が壊れ、集中力を妨げるので」
「氷を溶かし、バターを溶かし、猫を鳴かせる」私は言った。
 彼は世界一微かな微笑を浮かべた。「減らず口をきくために来たわけじゃないだろう」
「なぜ私がここに来たのか、お忘れのようだ。それはともかく、百ドルは秘書に返しておいた。私が来たのは、覚えているかもしれないが、煙草の件だ。マリファナが詰まったロシア風煙草で、吸い口に君の名刺が丸めて詰められていた」》

【解説】

「艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せこけたアジア風の顔をした女だ」は<She had sleek coiled hair and a dark, thin, wasted Asiatic face>。カーラーで巻いたカーリー・ヘアだと思うのだが、両氏とも、全く異なる訳になっている。清水氏は「彼女は髪をぐるぐる頭にまいて、アジア人種らしい浅ぐろい顔をしていた」と訳している。<coiled hair>を「ぐるぐる巻き」と解釈したわけだ。村上訳は「彼女の髪は艶やかにウェイブしていた。顔立ちはアジア風で、浅黒くこけて、やつれた趣きがあった」だが、コイル状にした髪をウェイブとは言わないだろう。

「耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた」は<There were heavy colored stones in her ears and heavy rings on her fingers>。清水氏は「耳には毒々しい色彩の大きな宝石をたらし、指には大きな指輪をいくつもはめていた」と訳している。村上氏は「耳には派手に彩色した飾りがつき、手の指には重い指輪がはまっていた」と訳している。<colored stone>は「ダイヤモンド以外の天然宝石」のことだが、村上氏はそうはとっていないようだ。また、いつもは単数、複数にこだわる村上氏が、二つの<s>を無視しているのも訳が分からない。

「どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた」は<but somehow managed to look as phony as a dime store slave bracelet>。清水氏は「どういうわけか、十セント・ストアのまがいものののように見えた」と訳している。村上訳は「それをわざと量販店で売られる安物の腕輪に見せかけているみたいにも見える」だ。清水氏は知らぬ顔を決め込んでいるが、<slave bracelet>というのは、ベリー・ダンスのダンサーがつけているような、指から手の甲にかけてチェーンでつないだブレスレットのことをいう。「腕輪」にはちがいないが、単なるブレスレットとは形状が異なる。

「手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった」は<And her hands were dry and dark and not young and not fit for rings>。清水氏は「手は黒く、かさかさした感じで、指環にそぐわなかった」と、語順を入れ替えることで<not young>をカットしつつ、感じは伝えようとしている。それに対し、村上氏は「手はかさかさして浅黒く、若さがうかがえず、指輪はサイズが合っていなかった」と訳している。

主語は<her hands>であって、指輪ではない。指輪に手のサイズが合わないというのは本末転倒だが、チャンドラーはそう書いている。貧相な手の方が本物の宝石に負けている、と言いたいのだ。訳者が勝手に変えるべきではない。これは想像だが、潤いのない痩せた指にはまった大き目の指輪が<slave bracelet>を連想させたのではないだろうか。指輪が何故フィンガー・ブレスレットに繋がるのか、それで分かったような気がする。もしかしたら、村上氏は<slave bracelet>の形状をご存じなかったのかもしれない。

「いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら」は<and showed that she had a good figure if you like them four sizes bigger below the waist>。清水氏は「美しい線を見せていた。腰から下の線が特に魅力的だった」と訳している。訳者の好みを主人公に押しつけてはいけない。村上訳は「彼女がとても素晴らしい身体をしていることが見て取れた。腰から下が、上より四サイズばかり大きいところがお気に召せばだが」。

「今やそれは古代エジプトより年古りていた」は<It was older than Egypt now>。初対面の時の彼女の印象に触れた「手が触れたら粉々になってしまいそうな、からからに干からび、こわばった微笑」を踏まえた、いわば駄目押しである。清水氏はここをカットして「私は彼女の微笑をもう一度見なおしてから、中に入った」と書いている。これでは、マーロウが女の微笑を、どう受け止めたのか分からない。村上氏は「今ではそれは古代エジプトよりも過去のものになっていた」と訳している。「過去のもの」という訳では、女がもう笑っていなかったようにも読める。そうではない。エジプトのミイラのように干からびた微笑の乾燥度がより強まった、と言っているのだ。

「ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた」は<He wore a double-breasted black business suit that had been cut by an artist>。清水訳は「ダブル・ブレストの地味な服を着ていたが、画家がデザインをしたようにからだに合っていた」。村上訳は「ダブルの黒いビジネス・スーツを着ていた。芸術的なまでに美しくカットされたスーツだ」。<artist>ときたら、画家・芸術家という訳は考えものだ。その道の名人・達人という意味もある。一流のテイラーなら立派な<artist>である。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(1)

―サンセット・ブルヴァードを、素早く通り抜けられるはずがない―

【訳文】

《車はダーク・ブルーの七人乗りのセダンだった。最新型のパッカード、特注品。真珠の首飾りをつけたときに乗るような車だ。消火栓の脇に停められていて、木彫のような顔をした浅黒い異国風の運転手がハンドルを握っていた。革張りの内装は、グレイのシャニール糸によるキルト仕上げだ。インディアンが私を後ろの席に押し込んだ。一人でそこに座っていると、葬儀屋がたっぷりと手をかけて上品に仕上げたハイクラスの死体になった気分だった。
 インディアンが運転手の隣に乗り込み、車はブロックの真ん中で方向を転じた。通りの向こう側で警官が「おい」と半端な声をかけた。本気ではないみたいに。それからそそくさと屈んで靴ひもを締めた。
 我々は西に向かい、サンセットに立ち寄り、音もなく急いでそこを通り過ぎた。インディアンは身じろぎもせず運転手の傍に坐っていた。その個性的な匂いがときどき私のところまで漂ってきた。運転手は半ば眠っているように見えたが、コンヴァーティブル・セダンに乗った走り屋の車が牽引されているように見えるほど軽々と抜き去った。ある種の運転手がそうであるように、彼が通ると信号は必ず青に変わった。ひとつの例外もなかった。
 一マイルか二マイルほどカーブが続く、きらびやかなサンセット・ストリップを通り抜けた。映画俳優の名前がついた骨董屋、手編みレースと古い白目でいっぱいのウィンドウ、禁酒法時代を潜り抜けたギャング上がりが経営する、評判のシェフと評判の賭博場を擁した今を時めくナイトクラブ、今となっては流行遅れのジョージ王朝風のコロニアル建築、ハリウッドの人買いどもが金の話を止めない、堂々たる近代的ビルディング、女の子が白い絹のブラウスに前立てのついた筒形軍帽をかぶり、尻から下は黒光りする仔山羊革の長靴しか履いていない、どうにも場違いなドライブイン・レストランを通り過ぎた。あれやこれやを通り過ぎ、ベヴァリーヒルズの乗馬道へと続く広くなだらかなカーブを下りた。霧の出ていない夜で、南の灯りのスペクトルが全色くっきり見えた。丘の上に影を宿す邸宅群の前を北に向かい、ベヴァリーヒルズを抜け切ると、曲がりくねった丘陵地帯の並木道を上った。突然、ひんやりとした夕暮れと海からの風が流れ込んできた。
 あたたかな午後だったが、既に熱気は去っていた。遥かなビルの遠灯りや、通りから離れたところに無数の灯りが連なる邸宅群が、眼の前を慌ただしく通り過ぎた。芝生の敷かれた大きなポロ競技場と、隣接するやはり大きな練習場を迂回するために坂を下り、また丘の上に上り、山の方へ道をとると、きれいに舗装されたコンクリートの急な坂道がオレンジの木立の中を抜けていた。ここはオレンジの産地ではない。どうせ金持ちの道楽だろう。一つまた一つと億万長者の邸の窓明りは消えていき、道が狭くなると、そこがスティルウッド・ハイツだった。
 セージの匂いが渓谷から立ち上ってきて、死んだ男と月のない空を思い出させた。スタッコ壁の家がぽつぽつと丘の斜面に浅浮き彫りのように嵌め込まれていた。やがて家というものが見えなくなった。暗い山麓の丘の上には一番星、二番星が瞬き出し、コンクリートのリボンめいた道の片側は急な崖で、スクラブオークとマンザニータの灌木が絡み合っていて、立ち止まってじっと待っていたら鶉の鳴き声が聞こえてきそうだった。道の反対側は粘土の土手になっていて、端には選りすぐりの野生の花がベッドに行きたくない悪戯っ子のようにぶら下がっていた。
 やがて、急なヘアピン・カーブに突入した。大きなタイヤが小石をはじきとばし、車はエンジン音を響かせ、野生のゼラニウムが続く長いドライブウェイを驀進した。丘を上りつめたところに、灯台のようにぽつんと、かすかに灯りがともる、山塞か、鷲の巣みたいに聳える、スタッコ壁とガラス煉瓦の無骨な建物があった。飾リ気のない今風の建物だったが、見苦しくはなかった。いかにも心霊顧問医が看板を掲げるに相応しい場所だった。ここならどんな叫び声も聞かれる恐れはない。
 家の横に車が停まると、厚い壁の中にはめ込まれた黒いドアの上に灯りがついた。インディアンがぶつぶつ言いながら車を降り、後ろのドアを開けた。運転手が電子ライターで煙草に火をつけ、強い香りが夜気の中、仄かに後部席まで漂ってきた。私は車を降りた。
 我々は黒いドアまで歩いた。それは虚仮威しのように、ひとりでにゆっくりと開いた。その向こうに狭い廊下が探りを入れるように家の奥へと続いていた。ガラス煉瓦の壁を通して灯りが漏れていた。
 インディアンは唸った。「ふん、入るんだ、大物」
「君が先だ、ミスタ・プランティング」
 彼はしかめっ面をして中に入った。我々が入るとドアは閉まった。開いた時と同じように音もなく、ミステリアスに。狭い廊下の突き当たりで、小さなエレベーターに二人が身を押し込むと、インディアンはドアを閉めてボタンを押した。エレベーターは音もなく静かに上がった。それまでのインディアンの臭いなど、今と比べたら予兆に過ぎなかった。
 エレベーターが止まり、ドアが開いた。灯りのともる塔屋の部屋に足を踏み入れた。日はまだ微かに名残りをとどめていた。窓だらけの部屋で、遠くに海が揺らめいていた。宵闇がゆっくりと丘を上りつつあった。窓のないところはパネル張りの壁だった。床には淡い色合いの古ぼけたペルシャ絨毯が敷かれていた。古い教会から盗んできた木彫が施されたように見える受付用の机があった。机の向こう側に女が一人腰かけてこちらを見て微笑んでいた。手が触れたら粉々になってしまいそうな、からからに干からび、こわばった微笑だ。》

【解説】

「木彫のような顔をした浅黒い異国風の運転手」は<a dark foreign-looking chauffeur with a face of carved wood>。清水氏はここを「外国人らしい運転手」とさらりと流している。村上訳は「木彫りみたいな顔つきの、肌の浅黒い外国人風の運転手」。

「革張りの内装は、グレイのシャニール糸によるキルト仕上げだ」は<The interior was upholstered in quilted gray chenille>。清水氏はこの一文をまるまるカットしている。村上訳は「内装は革張りで、グレーの高級糸でキルト縫いされていた」だ。 <chenille>は「毛虫糸」と呼ばれる、ビロード状に毛を立てた飾り糸のこと。欧米の棺桶の内装を思い出させる一文で、この文がないと、マーロウがなぜ自分を死体のように思うのか説明がつかない。

「我々は西に向かい、サンセットに立ち寄り、音もなく急いでそこを通り過ぎた」は<We went west, dropped over to Sunset and slid fast and noiselessly along that>。この<Sunset>が厄介だ。清水氏は「私たちはサンセット・ブールヴァードを西に向かって進んだ」と訳している。大意はこれでまちがっていない、と思う。村上氏はそこを「我々は西に向かった。サンセット大通りに入り、無音のうちに素早くそこを通り抜けた」と訳している。

<dropp over>とは「(予告なしに)ひょっこり訪ねる、ちょっと立ち寄る」ことで、清水氏はカットしているが、村上氏はここを「サンセット大通りに入り」と解釈したのだろう。問題は、サンセット・ブルヴァード(大通り)が「素早くそこを通り抜け」られるほど短くないことだ。L.Aのダウンタウンから太平洋に出るまで35キロも続く長い道だからだ。

もしかしたら、この「サンセット」は「サンセット・ストリップ」を指しているのではないだろうか。我々の年代には、TV番組『サンセット77』のテーマ曲として何度も口にした懐かしい響きだ。村上氏も「目抜き通り(ザ・ストリップ)」と訳しているように、レストランや賭博のできるクラブの犇めく観光名所である。後で、本文にもその<Strip>が出てくるので、多分まちがいない。

つまり、この一文は後で詳しく描写する情景が何なのかを読者に紹介している部分。本筋は、この後で訪れる心霊顧問医の家の場面であって、サンセット・ストリップの猥雑な通りや、その後の山麓のドライブは、いわば添え物。ただし、チャンドラーは他のハード・ボルド作家に比べ、情景描写を大切に扱う作家だ。情景描写には話者の感情が反映する。読者は知らず知らずのうちにマーロウに共感して物語世界に分け入ってゆくことになる。

「手編みレースと古い白目でいっぱいのウィンドウ、禁酒法時代を潜り抜けたギャング上がりが経営する、評判のシェフと評判の賭博場を擁した今を時めくナイトクラブ」は<past the windows full of point lace and ancient pewter, past the gleaming new nightclubs with famous chefs and equally famous gambling rooms, run by polished graduates of the Purple Gang>。

ここを清水氏は「有名な料理人頭と高級賭博場で知られているナイト・クラブ」で済ませてしまっている。村上訳だと「アンティック・レースと、年代物の白磁がいっぱいにならんだウィンドウ、評判のシェフと評判の賭博部屋を備えた新しいきらびやかなナイト・クラブ(経営するのはギャング上がりの曰くありげな連中だ)」。因みに<pewter>は「白目、白鑞(しろめ)」のことで、スズを主成分とする古くからある低融点合金のことで、多くは装飾品に用いられている。白磁は文字通り、磁器のことで全くの別物である。

「芝生の敷かれた大きなポロ競技場と、隣接するやはり大きな練習場を迂回するために坂を下り」は<We dipped down to skirt a huge green polo field with another equally huge practice field beside it>。清水氏は「大きなポロ競技場をひとまわりすると」、と高低差も練習場も省略して訳している。村上氏は「一段低くなったところに、緑の芝生を敷いた大きなポロ競技場と、それに負けない大きさを持つ隣接した練習場があった。その周りを迂回し」と訳している。

「セージの匂いが渓谷から立ち上ってきて」は<The smell of sage drifted up from a canyon>。清水氏は「谷あいからやまよもぎ(傍点五字)の匂いがただよってきて」と訳し、村上氏は「サルビアの匂いが谷間から風に乗って上ってきて」と訳している。これについては第十章で言及済みなので省略する。

「コンクリートのリボンめいた道の片側は急な崖で、スクラブオークとマンザニータの灌木が絡み合っていて」は<the concrete ribbon of road and a sheer drop on one side into a tangle of scrub oak and manzanita>。清水氏は「コンクリートのリボンのような道路の片側には、灌木がしげっていて」と、ここもあっさり訳している。村上訳は「コンクリート舗装の道路がリボンのように連なり、その片側は切り立った崖になっていた。崖の下はヒイラギガシとウラシマツツジのもつれあった茂みだ」。

植物の名前を辞書の通りに訳せばヒイラギガシもウラシマツツジもアリだろうが、カリフォルニアの山地に生える灌木の名としては、スクラブオークとマンザニータとする方が親切ではないだろうか。和名を図鑑で調べても、日本の在来種の説明が出てくるばかりで、山火事の後に萌え出るスクラブオークの写真も、幸運の飾りとして使われるマンザニータの木の枝の写真も出てこない。近頃ではその気になればネットで写真が見られる。下手に和訳するより、原語の音を残す方が調べやすいと思う。

「それまでのインディアンの臭いなど、今と比べたら前触れに過ぎなかった」は<Such smelling as the Indian had done before was a mooncast shadow to what he was doing now>。狭いエレベーターに二人して閉じ込められた災難をぼやいているのだが、清水氏はここを「インディアンのすることがますます不可解になってきた」と訳している。<cast shadow>は「前兆」を意味する。村上訳だと「私がそれより前に嗅がされたインディアンの体臭など、そのときのものに比べたら。慎み深い前触れに過ぎなかった」になる。

「窓のないところはパネル張りの壁だった」は<There were paneled walls where there were no windows>。清水氏はここを「窓がないところはガラスをはめこんだ壁で」と訳しているが「ガラスをはめこんだ」ら、窓になってしまわないか。村上訳は「窓のないところはパネル張りの壁になっている」だ。