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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第11章(2)

《明かりが地面に垂れていた。私は財布を戻し、ペンシル・ライトをポケットにクリップで留めると、とっさに女がまだ懐中電灯と同じ手に持っていた小さな拳銃に手を伸ばした。女は懐中電灯を落とし、私は銃を手にした。女がさっと身を引いたので、私はかがみ込んで懐中電灯をつかんだ。しばらく女の顔を照らした後、スイッチを切った。
「手荒い真似をすることもなかったのに」肩にフレアのついたざっくりしたロング・コートのポケットに両手を突っこみながら彼女は言った。「あなたが殺したとは思っていない」
 クールで落ち着いた声が気に入った。生意気なところもだ。我々は暗闇の中に立ったまま、しばらく無言で向い合っていた。見えるのは茂みと空の明かりだけだった。
 懐中電灯をつけて顔を照らすと女は眼を瞬かせた。活き活きと整った小さな顔に、大きな眼。皮膚の下の骨格がクレモナ製のヴァイオリンのように繊細を極めている。とても可愛い顔だ。
赤毛だね」私は言った。「アイルランド人のようだ」
「そして私の名前はリオーダン。それが何か? 明かりを消して。赤毛じゃない、鳶色よ」
 私は明かりを消した。「ファースト・ネームは?」
「アン。アニーと呼ばないで」
「それで、こんなところで何をしていたんだ?」
「ときどき夜にドライブするの。気晴らしよ。一人暮らしで、両親はいない。この辺のことはよく知ってる。偶々通りかかると、窪地にちらつく明かりに気づいたの。愛し合うには少し寒すぎる。それにそういう人たちは明かりをつけない。そうよね?」
「したことがないんでね。ずいぶん危険なまねをするんだね。ミス・リオーダン」
「それって、さっきの私の台詞よね。私には銃があるし、怖くはない。ここに来ちゃいけないって規則もない」
「それはそうだ。自己防衛という規範があるだけだ。ほら、今夜は血の巡りがよくない。銃の許可証はあるんだろうね」私はグリップの方から銃を差し出した。
 娘は銃を受け取るとポケットの中に突っ込んだ。
「好奇心旺盛な連中は何をするか分からない、でしょ? 私は文章を書くの。特集記事ね」
「金になるのか?」
「雀の涙。何を見つけたかったの―あの人のポケットの中から?」
「特には何も。こそこそ嗅ぎまわることでは名が売れてる。我々はあるレディのために、盗まれた宝石を八千ドルで買い戻そうとしていたところを襲われた。連中が男を殺した理由がわからない。たいして抵抗をする男のようには見えなかった。人が争う音も聞いていない。襲撃されたとき私は下にいた。彼は上の車の中だ。車で窪地まで下りるように指示されていたんだが、引っ掻き傷を作らずに通るだけの空きがなかった。そこで、私が窪地まで下りている間に連中に捕まったにちがいない。奴らのうちの一人が車に乗り込んで待ち伏せていたんだ。あの男は当然まだ車の中にいるものと私は思っていた」
「なら、あなたがドジを踏んだってわけじゃない」彼女は言った。
「初っ端から、この仕事には何か気に障るものがあった。勘が働いたんだ。けれど、金が必要だった。今となっては恥を覚悟で警察に出向くしかない。モンテマー・ヴィスタまで乗せて行ってくれないか? 車を置いてきた。そこに依頼者の家があるんだ」
「いいけど。誰かここについていなくていいの? あなたが私の車で行くか―私が警官を呼んでこようか」
 私は腕時計の文字盤を見た。かすかな光がもうすぐ深夜であることを告げていた。
「だめだ」
「どうして?」
「理由は分からない。ただそう感じるんだ。これは私一人でやることだ」
 娘は何も言わなかった。我々は坂を下って戻り、娘の小型車に乗り込んだ。娘はエンジンをかけ、ライトもつけずに方向転換すると、坂を上り、難なくバリケードをすり抜けた。一ブロックばかり行ったところでライトを点けた。
 頭がずきずきした。道が舗装路に変わって、最初の家が現れるまで、我々は口をきかなかった。それから、彼女が言った。
「一杯ひっかけた方がいいわ。うちに寄って飲んでいけば? そこからでも警察に電話できる。いずれにせよ、西ロサンジェルスからくるんだし。この辺には消防署しかないから」
「このまま海岸沿いまで行ってくれ。あとは一人でやるから」
「でも、どうして? 私は警官なんて怖くない。あなたの話を裏づけることもできる」
「誰の助けもいらない。考えたいことがある。しばらく一人になりたい」
「わたしは―そうね、分かったわ」彼女は言った。
 どうともとれる音を喉で鳴らすと、娘は大通りに向かった。湾岸ハイウェイのガソリン・スタンドの前を北に折れ、モンテマー・ヴィスタまで戻った。そこには豪華客船のように光り輝くオープン・カフェが待っていた。娘は車を路肩に停めた。私は車を降り、ドアに手をかけたまま立っていた。
 財布から手探りで名刺を取り出し女に渡した。「いつか君に強い後押しが必要になるかもしれない」私は言った。「そんなときは連絡してくれ。ただし頭を必要とする仕事以外で」
 女はハンドルの上を名刺で叩くと、やがてゆっくり言った。「ベイ・シティの電話帳に名前が載ってる。二十五番街の819番地。近くに来たら立ち寄って、嘴を突っこまなかったご褒美に可愛いメダルでも頂戴。あなたの殴られた頭、まだ普通じゃないみたい」
 娘はハイウェイに出ると、素早く車を回した。私はツイン・テール・ライトが闇の中に消えていくのを見ていた。
 アーチとカフェを通り過ぎ、駐車スペースの自分の車に乗り込んだ。すぐ目の前にバーがあり、私はまた震えだしていた。しかし、賢明なことに私が二十分後にやったのは、蛙のように冷たく、刷り上がったばかりの一ドル紙幣のように青ざめたままで、西ロサンジェルス署に入ってゆくことだった。》

「明かりが地面に垂れていた」は<The flash was drooping to the ground>。清水氏はここをまるきりカットしている。村上訳は「明かりが地面を向いた」。<droop>は「うなだれる、垂れる」の意味。マーロウが立ち上がったので、身体検査が終わったと思って娘は懐中電灯を下ろしたままにしていたのだろう。その隙をついての行動だ。行動に移るきっかけの提示である。カットする理由がない。

それに続く<little gun she was still holding in the same hand with the flashlight>「まだ懐中電灯と同じ手に持っていた小さな」もカットして「いきなり、向きなおって、彼女の手からピストルを奪った」と訳している。シガレット・ケースを見るために片手を開ける必要があり、懐中電灯と小さな拳銃を同じ手に持っていたから、拳銃をとられると同時に懐中電灯も落としたわけだ。この部分を略すと、それがわかりづらくなる。それにしても、この辺りのマーロウのとっさの判断と行動は、さすがというべきだ。

「しばらく女の顔を照らした後、スイッチを切った」は<I put it on her face for a moment, then snapped it off>。清水氏は「彼女の顔を照らし、そして、すぐ消した」と訳している。村上氏は「ひとしきり相手の顔に光をあててからスイッチを切った」である。どれだけの時間顔にライトをあてていた今ではのだろう? 相手を確認するだけなら、それほど長時間ではあるまい。ただ、後にも出てくるように、なかなか印象的な顔である。村上氏は<for a moment>を「ひとしきり」と訳しているが、「ひとしきり」という語は「しばらくの間。その間に物事が集中するようす」を表しており、言い得て妙である。

「肩にフレアのついたざっくりしたロング・コート」は< a long rough coat with flaring shoulders>。清水氏は「長い外套」とだけ。「外套」は、死語とは言わないまでも、ゴーゴリの小説以外、今ではほとんど使われることのない言葉だ。村上氏は「粗い布地の、肩にフレアがついたロングコート」と訳している。当時の流行なのかもしれない。ハードボイルド小説の読者にはあまり重要な情報ではないと清水氏は踏んだのだろう。資料的には訳しておきたいところかもしれない。

「見えるのは茂みと空の明かりだけだった」は<I could see the brush and light in the sky>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「見えるのは茂みと、空の明かりだけだった」。

「皮膚の下の骨格がクレモナ製のヴァイオリンのように繊細を極めている」は<A face with bone under the skin, fine drawn like a Cremona violin>。清水氏はここを「皮膚の下の骨が感じられるような強い顔だった」と意訳している。ヴァイオリン産地としてのクレモナが今ほど知られていなかったからだろうか。ヴァイオリンの比喩を欠くと、なんだか骨ばったぎすぎすした女のイメージになってしまう。村上氏は「骨格のきっちりした顔立ちで、優美な輪郭はクレモナのバイオリンを思わせる」と訳している。

「愛し合うには少し寒すぎる」は<It seemed a little cold for love>。清水氏は「逢いびきにしては、今夜は寒すぎるし」と訳している。「逢いびき」も風情のある言葉だとは思うが、今やデヴィッド・リーン監督の映画くらいにしか使われていないのではないか。村上氏は「恋人たちがいちゃつきに来るにはいささか寒すぎるし」と訳している。

「したことがないんでね」は<I never did>。清水氏は「ぼくだったら、つけないね」と訳している。マーロウにしては愛想がいい。村上氏は「そうかもしれないが」だ。こちらも、そんなに素っ気なくはない。両氏とも、この若い女性にマーロウが好感を抱いていることを意識した訳になっている。

「それって、さっきの私の台詞よね」は<I think I said the same about you>。清水氏は「あなただって同じことよ」と、訳しているが、ここはその前のマーロウの台詞<You take some awful chances>に、注意喚起しなければならないところだ。この台詞はリオーダン嬢が前にそのまま使った言葉の繰り返しである。村上氏は「あなたについてもさっき同じ指摘をしたと思う」と、まさか気づいていない訳でもないだろうに、いささか逐語訳的だ。「その台詞、そっくりお返しするわ」という訳も考えたくらい美味しいところなのだが。

「ここに来ちゃいけないって規則もない」「それはそうだ。自己防衛という規範があるだけだ」は<There's no law against going down there><Uh-huh. Only the law of self preservation>。<law>という同じ単語の持つ異なる意味を二人の台詞に響かせている。チャンドラーらしい言葉遊びである。清水氏は「ここへ来てはいけないという法律はないはずよ」「うん、しかし、自己防衛という法律がある」と、同語反復になっている。村上氏の場合「それにここに来ちゃいけないという法律(ロウ)もない」「そうだな、ただ自己保存の法則(ロウ)ってのがあるだけだ」とルビ振りで同語であることを匂わせている。

「なら、あなたがドジを踏んだってわけじゃない」は<That doesn't make you so terribly dumb>。清水氏は「では、あなたが抜かったというわけでもないじゃないの」と訳している。これでまちがいはないと思う。ところが、村上氏は「筋は通っている」と意訳している。マーロウの説明に無理のないことを理解したという意味だろうが、先刻の「とんだボディガードね」という皮肉を込めた一言に対する釈明の言葉と解すると、少し軽すぎる気がする。

「今となっては恥を覚悟で警察に出向くしかない」は<Now I have to go to the cops and eat dirt>。清水氏は「どくはこれから警察へ行って、油をしぼられなければならない」、村上氏は「おかげでこれから警察に出向いて、こってり絞り上げられることになる」と訳している。村上訳が清水訳を踏襲しているのが分かるところだが、<eat dirt>は「屈辱をなめる、恥を忍ぶ」という意味だ。「油を絞られる」は「ひどく叱責される」の意味で、少し意味が異なる。マーロウは警察に叱責されることをではなく、自分の勘に従わなかったことを悔やんでいるのだ。警察官ではない私立探偵としてのプライドの問題である。

「どうともとれる音を喉で鳴らすと、娘は大通りに向かった」は<She made a vague sound in her throat and turned on to the boulevard>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「彼女は喉の奥で小さくうなり、大通りに出た」と訳している。

「近くに来たら立ち寄って、嘴を突っこまなかったご褒美に可愛いメダルでも頂戴」は<Come around and pin a putty medal on me for minding my own business>。清水氏は「私、あんたの仕事に余計な口出しをしなかったんだから、ほめていただいてもいいはずよ」と<pin a putty medal on me>を逐語訳せずに処理している。村上氏は「近くに来たら立ち寄って、余計なことに首を突っこまなかったことで、おもちゃの勲章でもちょうだい」と訳している。

「しかし、賢明なことに私が二十分後にやったのは、蛙のように冷たく、刷り上がったばかりの一ドル紙幣のように青ざめたままで、西ロサンジェルス署に入ってゆくことだった」は、少し長いが<But it seemed smarter to walk into the West Los Angeles police station the way I did twenty minutes later, as cold as a frog and as green as the back of a new dollar bill>。

清水氏は「しかし、いまの私にとっては、蛙のように冷えきったからだと、新しい一ドル紙幣の裏のように青ざめた顔色のまま、西ロサンゼルス警察署に乗りつけるのが一番賢明なことのように思われた」と訳している。村上氏は「しかし私は何とか理性を働かせた。そしてその二十分後には蛙みたいに冷え切った身体と、一ドルの新札なみの緑色の顔を抱え、西ロサンジェルンス警察署に足を踏み入れた」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第11章(1)


11

 

《坂道を半分ほど登ったところで、右の方に目をやると左足が見えた。女は懐中電灯をそちらに振った。それで、全身が見えた。坂を下りてくるとき、当然見ているはずだった。だが、そのとき私は地面の上にかがみ込み、白銅貨(クォーター)大のペンシル・ライトの光でタイヤ痕を読み取っている最中だった。
「懐中電灯をくれ」私はそう言って後ろに手を伸ばした。
 女は無言で懐中電灯を手渡した。私は片膝をついた。布地を通して地面の冷たさと湿気が伝わってきた。
 それは地面にぐったりと横たわり、茂みの根もとに仰向けになっていた。放り出された衣類のような姿勢が意味するのは一つだけだった。顔は思い出すよすがもなかった。髪は血で黒ずみ、美しい岩棚のようだった金髪に、大古の軟泥のような灰色のどろどろしたものと血が絡み合っていた。
 私の背後で娘が荒い呼吸をしていたが、口はきかなかった。私は光を死者の顔に当てた。顔面は原形をとどめないまでに叩き潰されていた。片手は凍りついたように伸ばされ、指は鈎状に曲がっていた。倒れたとき転がったのだろう、コートの半分が体の下に巻きついていた。両脚は交差していた。口の端から汚れたオイル状の黒い液体が滴っていた。
「灯りを当て続けていてくれ」私はそう言って懐中電灯を渡した。「気分が悪くならなければな」
 女は何も言わずに受け取ると、年季の入った殺人課の古手のようにしっかり構えた。私はペンシル・ライトを再び取り出し、死体を動かさないように気をつけながら、ポケットを探っていった。
「そんなことしちゃだめ」女は緊張して言った。「刑事が来るまで触れちゃいけないのよ」
「その通り」私は言った。「そしてパトカーの警官は刑事が来るまで死体に触ることができない。刑事は検死官が来て死体を検分し、写真班が現場写真を撮り、指紋係が指紋を採取するまで、死体に触れちゃいけない。それにどれだけかかるか知ってるか? ざっと二時間はかかるんだ」
「わかったわ」女は言った。「いついかなる時でも自分は正しい。あなたはそういう人なのね。誰か知らないけど、よほど憎んでいたようね。こんなに頭を殴るなんて」
「そうとばかりは言えない。人による」私はうなった。「世の中には、無性に頭を殴りたがる連中がいるのさ」
「無知をさらしたからには、これ以上の憶測はやめておくのが無難ね」女は辛辣に言った。
 私は死体の着衣を調べた。ズボンの片方のポケットにばらの小銭と紙幣、もう一方に革細工のキーケースと、小さなナイフがあった。左のヒップ・ポケットからはもっと多くの紙幣が入った札入れ、保険証、運転免許証、数枚の領収書が出てきた。上着にはばらけた紙マッチ、ポケットにクリップで留めた金のシャープ・ペンシル、乾いた粉雪のように白い薄い亜麻布のハンカチが二枚あった。そして見覚えのある茶色の吸い口のついた煙草が入ったエナメルのシガレット・ケース。煙草は南米のモンテヴィデオ産だ。もう一方の内ポケットには初めてお目にかかる二つ目のシガレット・ケース。絹地で両側に龍が刺繍されていた。フレームは模造の鼈甲製でありえないほど薄かった。留め金を開け、ゴムバンドで巻かれた三本の特大のロシア煙草を見つけた。一本つまんでみた。古いものらしく、ひからびて、巻きが緩んでいた。中空の吸い口がついていた。
「もう一つの方がお気に入りだった」私は肩越しに言った。「こちらは女友だち用にちがいない。女友だちがたくさんいそうなタイプだった」
 娘が前かがみになり、首に息がかかった。「知り合いじゃなかったの?」
「今夜会ったばかりだ。ボディガードに雇われたんだ」
「とんだボディガードね」
 私には返す言葉がなかった。
「ごめんなさい」彼女はほとんど囁くように言った。「もちろん、私はどんな経緯があったのか知りもしない。それ、マリファナ煙草じゃないかしら? ちょっと見せてくれない?」
 私は刺繍入りのケースを娘に手渡した。
「前に、マリファナタバコを吸う男の人を知ってたの」彼女は言った。「ハイボール三杯にマリファナ煙草を三本吸った人をシャンデリアから降ろすのにパイプレンチが必要だった」
「ライトを動かさないでいてくれ」
 少しの間、かさこそという音がして、彼女はまた口をきいた。
「ごめんなさい」女はケースを返し、私は死体のポケットにそっと戻した。持ち物はこれですべてのようだった。分かったのはマリオットが身ぐるみ剥がれたわけではない、ということくらいだ。
 私は立ち上がって自分の財布を取り出した。五枚の二十ドル札はまだそこにあった。
「高級な連中だ」私は言った。「相手にするのは大金だけときている」》

「茂みの根もとに」は<at the base of a bush>。清水氏は「叢の端に」、村上氏は「茂みの切れ目あたりの」と訳している。<base>は「つけ根、土台」を意味する。それをなぜ、「端」や「切れ目」とするのかがよくわからない。

「放り出された衣類のような姿勢」と訳したのは<in that bag-of-clothes position>。清水氏は「服だけがそこにおかれているようだった」と訳している。村上氏は「そのぐにゃっとした姿勢」と意訳している。その後に続く「意味するのは一つだけだった」は<that always means the same thing>。清水氏はそこをカットしている。村上訳は「~が意味するものはひとつしかない」だ。

娘の胆の座った様子を表す「年季の入った殺人課の古手のようにしっかり構えた」は<as steady as an old homicide veteran>。清水氏は「殺人事件の係の警官のように平然として(死体に電灯を向けた)」と訳している。村上氏は「まるで年期を積んだ殺人課の警官みたいに、落ちついた手で、かざした」と訳している。まず<veteran>だが、「老兵、古参兵」の意味で、前に殺人課とあるから、わざわざ「警官」と言及するのは余計というもの。また、村上氏の「年期」は誤りで「年季」が正しい。

「いついかなる時でも自分は正しい。あなたはそういう人なのね」は<I suppose you're always right. I guess you must be that kind of person>。清水氏は「あなたにまかせるわ。どうせ考えどおりにするんでしょ」と、くだけた調子で訳している。村上氏は「いつだって自分は正しい。間違っているのは他の人ってわけね」と、こちらも自由な表現になっている。興が乗ってくると、訳は走りがちになる。一概に悪いとは言えない。翻訳は英文和訳ではない。原文の持ち味を日本語でどう伝えるかということに尽きる。

上着には」と訳したところを清水氏は「上着の内ポケットには」と訳し、村上氏は「コートには」と訳している。原文はというと<In his coat>とはじまっている。それまで、ズボンのポケットを探っていたマーロウが次に調べるのはどこかといえば、まずは上着だろう。英語の<coat>がスーツの「上着」を意味することは、村上氏はよくご存じのはず。以前『大いなる眠り』ではそう訳していたのを覚えている。普通のコートは<over coat>と原文でも区別している。

ハンカチやマッチ、愛用の煙草をコートのポケットにしまったのでは、屋内に入ったときに取り出すのに不自由だ。ここは上着のポケットと解釈するのが正しい。さらに、すぐ後に<And in the other inside pocket>という記述が来ることから見て「内ポケット」であることも判明している。村上氏にしてはめずらしい凡ミスである。

「特大のロシア煙草」は<oversized Russian cigarettes>。清水氏は「細長いロシア・タバコ」と訳しているが、それだと華奢に読めてしまう。村上氏は「大きなサイズの」と穏当な訳である。

「分かったのはマリオットが身ぐるみ剥がれたわけではない、ということくらいだ
」は<All it proved was that he hadn't been cleaned out>。清水氏は「結局、マリオのからだには、手がふれられていないようだった」という訳になっている。<clean out>には「すべてを盗み出す、一文なしにする」の意味がある。村上訳は「判明したのは、彼は身ぐるみはがれたわけではないということくらいだ」となっている。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(3)

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《「そこを動かないで」娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった。「あなたは誰なの?」
「君の銃を見てみたい」
娘は光の前に掲げて見せた。銃口は私の腹に向けられていた。小さな銃だった。コルト・ベスト・ポケットのようだ。
「なんだ、それか」私は言った。「玩具じゃないか。そいつに弾丸は十発も入らない、たった六発だ。小さな銃で蝶くらいしか撃てない、バタフライ・ガンと呼ばれてる。ちっとは恥を知るといい。あんな見え透いた嘘をつくなんて」
「あなた、頭がおかしいの?」
「私か? 強盗に頭を殴られたばかりだ。少し螺子が緩んでいるかもしれない」
「それは―それはあなたの自動車?」
「いや」
「あなたは誰なの?」
「あそこにスポットライトをあてて、何を捜していたんだ?」
「わかった。訊くのはあなたということか。男らしい男の作法ね。私はある人を見てたの」
「ウェーヴのかかった金髪をした男のことかな?」
「今はちがう」娘は静かに言った。「かつてはそうだったかもしれない」
 その言い方が気に障った。思ってもみなかった答えだ。「そいつは見過ごしたな」私はへどもどしながら言った。「懐中電灯でタイヤの跡をつけて坂を下ってきたから。怪我はひどいのか?」私は娘の方へ一歩踏み出した。小さな銃が私に向けられ、光は動かなかった。
「落ち着いて」娘は静かに言った。「じっとしてて。お友だちは死んでる」
 私はしばらくの間、黙った。それから言った。「分かった。様子を見に行こう」
「そこにじっとして、動かないで。あなたは誰で、何が起こったのか教えて」はきはきした声だった。びくついていない。言うとおりにした方がよさそうだ。
「マーロウ。フィリップ・マーロウ。私立探偵」
「あなたが言うのが―もし事実なら、証明がいる」
「紙入れを見せよう」
「ありえない。両手はそのままにしておいて。とりあえず証明はお預け。それで、いったいどういうことなの?」
「その男はまだ死んでないかもしれない」
「まちがいなく死んでる。顔の上に脳味噌をぶちまけて。事情を、ミスタ。早く聞かせて」
「今も言ったように―死んでないかもしれない。まず見に行こう」片足を一歩前に出した。
「動いたら、風穴が開く」娘はぴしゃりと言った。
 もう一方の足を前に出すと、光が少し跳ねまわった。女が後ろに下がったのだろう。
「救いがたい人のようね」女は静かに言った。「いいわ。先に行って、ついていくから。あなたは具合が悪そう。もし、そうでなきゃ―」
「私を撃っていただろう。ブラックジャックでやられたんだ。頭を殴られると眼の下に隈ができるのが習い性になってる」
「素敵なユーモアのセンスをお持ちだこと―死体公示所の係員並みのね」泣き声に近い声だった。
 私が顔を背けると、光はすぐに目の前の地面を照らし出した。小さなクーペの脇を通り過ぎた。ありふれた小型車で、霧の振る星明りの下で汚れなく光っている。未舗装路を上り、カーブを曲がった。足音がすぐ後ろに迫り、懐中電灯の光が足元を照らした。二人の足音と女の息づかいの他には何も聞こえなかった。自分の息すら聞こえなかった。》

「娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった」は<the girl snapped angrily, after I had stopped>。ここを清水氏は「と、彼女は叫んだ」と訳し、後半部分をカットしている。村上訳は「と娘は腹立たし気にきつい声で言った。しかし、そう言ったのは私が自ら止まったあとのことだ」。ちょっと勿体をつけすぎているような気がする。

「コルト・ベスト・ポケットのようだ」は<it looked like a small Colt vest pocket automatic>。清水訳は「小さなコルトの自動拳銃だった」。村上訳は「コルトの懐中オートマチックのようだった」。ここでいう「ベスト」は、「チョッキ」のこと。スーツのポケットよりも小さいベストのポケットにも入るという意味。25口径のオートマチックで、コルトの最小拳銃として女性の護身用に人気があった。

「強盗に頭を殴られたばかりだ」は<I've been sapped by a holdup man>。清水氏は「実はホールドアップにあったんだ」と訳している。<sap>には俗語で「こん棒で殴る」という意味があるが、清水氏はその意味を採っていない。マーロウほどの男が強盗に遭ったくらいで「正気」をなくすとも思えない。村上氏の「ああ、さっきホールドアップ強盗に頭をどやされた(傍点五字)んだ」くらいに訳さないと意味が通じないだろう。

その後の「少し螺子が緩んでいるかもしれない」は<I might be a little goofy>。<goofy>は「まぬけな、とんまな」という意味。清水氏は「まだ、正気ではないかもしれないな」と訳している。村上氏は「いささか脳みそがゆるんでいるかもしれない」だ。村上氏の言葉遣いでときどき思うのは、実にユニークな使い方をする、ということである。「頭のねじがゆるむ」というのは手垢のついた表現だが、「脳みそがゆるむ」というのはあまり聞いたことがない。実に新鮮だ。新鮮すぎる気がしないでもない。

「男らしい男の作法ね」と訳したのは<He-man stuff>。清水氏はここをカットしている。<he-man>は「男らしい男」、<stuff>はこの場合「物事、やり方、ふるまい」の意味だろう。村上氏は「タフぶってればいいわよ」と訳している。この若い女性がどんな人間なのかを知ったうえで訳すのが本当なのだが、今のところ知り得た情報のみで訳している。実際のところ、マーロウだって初対面なのだ。原文をあまりいじらないで、できるだけそのまま訳していきたいと思っている。村上訳の娘は、少し悪ぶっているように見える。

「びくついていない。言うとおりにした方がよさそうだ」は<It was not afraid. It meant what it said>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「怖がってはいない。相手は本気なのだ」と訳している。

「とりあえず証明はお預け」は<We'll skip the proof for the time being>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「とりあえず証明の部分はあとまわしにしましょう」だ。

「救いがたい人のようね」は<You take some awful chances, mister>。清水訳では「ずいぶん生命(いのち)を粗末にするのね」。村上訳は「まったく度しがたい人ね」だ。直訳すれば「あなたはずいぶん危険な賭けをするのね」くらいか。清水訳が最も原文に近い。

ブラックジャックでやられたんだ」は<I've been sapped>。清水氏は「ずっと脅かされているんだ」と訳している。<sap>で躓いたのが後を引いている。眼の下に隈ができる理由として「脅かされている」は、マーロウらしくもない。村上訳は「さっきブラックジャックでどやされたんだ」だ。

「泣き声に近い声だった」は<she almost wailed>。清水氏はここを「と、彼女はかん(傍点二字)だかい声で言った」と訳している。<wail>は、どの辞書で引いても「悲しい声で泣き叫ぶ」のような意味しかない。かん(傍点二字)ちがいだろうか。村上氏は「今にも悲鳴になりそうな声だった」と訳している。さすがに若い女性の忍耐も切れかかっているという理解なのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(2)

《車が停まっていた場所に行き、ポケットから万年筆型懐中電灯を取り出し、小さな光で地面を調べた。土壌は赤色ロームで、乾燥すると非常に固くなるが、乾上るほどの気候ではなかった。少し霧がかかっていて、地面は車の停まっていた跡を残す程度の湿気を帯びていた。ごく微かだが、ヴォーグ社製の高耐久性タイヤの痕が認められた。そこに光を当ててかがみ込むと、痛みで頭がくらくらした。私は轍の跡をたどっていった。三メートルほど直進した所で左に折れていた。連中は引き返さず、そのまま白いバリケードの左端の隙間に向かっていた。轍はそこで消えていた。
 バリケードまで行き、小さな光で茂みを照らした。折れたばかりの小枝があった。隙間を通り抜け、曲がった坂道を下りた。ここも地面は柔らかかった。タイヤの痕はもっと目立っていた。そのまま坂を下り、カーブを曲がって灌木で閉じられた窪地の端まで行った。
 車はそこにあった。クロームと光沢仕上げ塗装は暗闇の中でも輝きを忘れていない。テールライトの赤い反射鏡がペンシル・ライトの光を受けて輝いていた。黙って、明かりを消し、ドアをみんな閉じていた。私は一歩ごとに歯を噛みしめながら、ゆっくりそちらに向かっていった。リアのドアを開け、ライトで中を照らした。空だった。前の席も同じだ。イグニッションは切られていた。細い鎖のついたキーは差しっぱなしだった。シートは引き裂かれておらず、ガラスに傷もついていない。血痕もなければ死体もなかった。すべてがきちんと整っていた。私はドアを閉め、車の周りをゆっくり回ってみた。手がかりを探したが、何も見つからなかった。
 物音がして、私は立ちすくんだ。
 エンジンの音が灌木の縁で聞こえた。飛び上がったとしても三十センチ足らずだ。手に持ったライトを消した。拳銃が自ずから手の中に滑り込んできた。ヘッドライトが上向きに空を照らし、また下を向いた。エンジン音は小型車のようだった。湿気を帯びた大気の中で満足げな音を立てていた。
 ライトが下向きになり、明るさを増した。車が一台、未舗装路のカーブを下りてきた。道路を三分の二ほど降りたところで停まった。カチッという音とともにスポット・ライトが点灯し、横に動いてしばらくはそのまま動かなかった。やがてまた消えた。車が坂を下ってきた。私はするりとポケットの中から銃を取り出し、マリオットの車の後ろにかがんだ。
 形も色も特徴のない小型のクーペが窪地に滑り込んできたせいで、ヘッドライトがセダンのフロントからリアエンドまで一舐めした。私は慌てて頭を引っ込めた。ライトが剣のように頭の上を薙いだ。クーペが停まった。エンジンが切れた。ヘッドライトも消えた。静寂。それからドアが開き、軽い足音が地面を踏んだ。再び静寂。蟋蟀も啼きやんだ。光線が闇を低く切り裂いた。地面と平行に僅か数インチ上を光線がさっと通り、私は足首を避ける暇を与えられなかった。光線は私の足の上で止まった。光線が上がってきて、再びボンネットの上を照らした。
 笑い声がした。若い娘の笑い声だ。ぴんと張ったマンドリンの弦のように緊張している。こんな場所には似つかわしくない。白い光線はまた車の下を照らし、私の足に落ち着いた。
 声が言った。甲高いというにはもう少しという声だ。「そこから出てきなさい。両手を上げて、つまらない真似をすると、撃つわよ」
 私は動かなかった。
 かざしている手の震えを物語るように、ライトが少し揺れた。光がゆっくりとボンネットの上をもう一度舐めた。声がまた私を突き刺した。
「誰だか知らないけど、よく聞いて。私は十連発の自動拳銃を構えてる。腕は確かよ。あなたの両脚はまる見え。それでもやるの?」
「銃を置くんだ―それとも手から吹き飛ばされたいか!」私は怒鳴った。私の声はまるで誰かが鶏小屋の薄板を引き剥がしているように響いた。
「あら、まあ、ハードボイルドな方のようね」声には少し震えが聞き取れた。かわいい震え声だ。それから再び硬くなった「出て来る気はないの? 三つ数える。勝ち目があるかどうか考えなさい。言っておくけど、それってシリンダーが贅沢なことに十二もあるのよね。それとも十六気筒かしら。でも、あなたの足は傷を負うわ。それに踝の骨は治るまで何年もかかる。時には治らないままということも」 
 私はゆっくり立ち上がり、懐中電灯の光を見つめた。
「怖いときにしゃべり過ぎるのは私も同じだ」私は言った。
「動かないで、じっとしてて! あなたは誰?」
 私は車の前を回って女の方に動いた。懐中電灯の後ろの華奢な暗い人影から六フィートのところで足を止めた。懐中電灯の光は私をじっと眩しく照らしていた。》

「乾上るほどの気候はではなかった」は<but the weather was not bone dry>。清水氏はカット。村上訳「しかしこのあたりはそこまで乾ききってはいない」。

「ヴォーグ社製の高耐久性タイヤの痕」は<the tread marks of the heavy ten-ply Vogue tires>。清水氏は「重いヴォーグのタイヤの跡」と訳している。村上訳は「ヴォーグ社製の十層重ねの重量級タイヤのあと」だ。<the heavy ten-ply>をどう訳すかということだ。<ten-ply>は、村上訳の通りで、少し前まではタイヤの強度を上げるために、木綿糸で編まれたベルトのような補強材(プライレーティング)をタイヤ内部に巻きつけていた。

<ten-ply>は、十層のことで、通常四層や六層であることから考えると、かなりの高耐久性であることを意味している。次に<heavy>だが、「重い」という旧訳に引きずられてか、新訳も「重量級」という訳語をあてている。この<heavy>は「酷使に耐える」という意味の<heavy-duty>のことだと思う。<Vogue>は、当時の高級タイヤメーカーの社名。

「そこにに光を当ててかがみ込むと、痛みで頭がくらくらした」は<I put the light on them and bent over and the pain made my head dizzy>。清水氏は何故かここもカットしている。村上訳は「そこに光をあててかがみ込むと、殴打された部分がずきずき痛み、めまいを感じた」と、言葉を補って訳している。

次の段落でも清水氏は「隙間を通り抜け」<I went through the gap>と「ここも地面は柔らかかった」<The ground was still softer here>を訳していない。村上訳は「私は隙間を通り抜け」、「あたりの地面はより柔らかくなっていて」である。

その次の段落でも清水氏のカットは目立つ。「クローム」<chromium>の一語と「すべてがきちんと整っていた」<Everything neat and orderly>の一文が抜けている。「クローム」は村上訳も同じ。もう一つの方は「異変らしきものは何も見当たらなかった」と意訳している。

「物音がして、私は立ちすくんだ」は<A sound froze me>。清水訳では「突然、物音が聞こえた。私はからだに冷水を浴びせられたように緊張した」と珍しく説明的だ。村上訳だとこうなる。「物音が私を縮み上がらせた」。<floze>は、アメリカのハロウィンの夜に日本人学生が射殺された時に言われた言葉「フリーズ」のことだ。「動くな、じっとしてろ」という意味である。「寒さを感じる」の意味で訳すところではない。

その次の「飛び上がったとしても三十センチ足らずだ」は<I didn't jump more than a foot>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「飛び上がったとしても、せいぜい三十センチ程度のものだ」。どうでもいいといえばどうでもいいようなものだが、作者が書いているのだから、訳者は訳すべきだろう。

「湿気を帯びた大気の中で満足げな音を立てていた」も清水氏はカットしている。霧が出て空気が湿っていることについては、マーロウは再三再四喚起している。カットするべきところではない。村上氏は「はきはきとした音が湿気を含んだ大気を叩いていた」と、ちゃんと湿気に触れている。車のエンジン音を「はきはきとした」と形容する感覚にはちょっとついていけない気はするとしても。

「地面と平行に僅か数インチ上を光線がさっと通り」は<parallel to the ground and only a few inches avobe it>。清水氏は「地上数インチのところを、地面と平行に流れた」と訳している。単位の訳し方については悩ましいものがあるが、一インチは約25ミリメートル。村上氏はここを「地面と平行に、その数センチ上のあたりを」と訳している。村上氏が律儀にメートル法に換算しているのは読者に親切なところだが、一字ちがいでも「センチ」と「インチ」は単位がちがう。<few>は「少しの」という意味だから、実質として大差はないが「数センチ」なら「二、三センチ」、「数インチ」なら「五、六センチ」くらいか。この程度の差なら許容範囲と見たのだろう。

「甲高いというにはもう少しという声だ」は<not quite shrilly>。<shrilly>は「金切り声、甲高い」という意味。清水氏は「意外に柔らかい調子の声」と訳している。村上氏は「ほとんど甲高いと言ってもいい声だ」だ。<not quite>は「完全には~でない、~とまではいかない」というような意味なので、「甲高くはないが、どちらかといえばそれに近い」声なのだろう。

「銃を置くんだ」は<Put it up>。清水氏は「ピストルをそのまま持ってるんだね」と訳している。その後に「さもないと、君の手から叩き落すぜ」と続けている。いくら何でも銃で撃たれても持ち続けていられるはずがない。村上氏は「銃を下ろせ」と訳している。<put up>には古英語で「剣を収める、戦いをやめる」の意味がある。また「~を上に置く」という意味もある。<up>を「下ろせ」と訳すのも野暮なので「置く」と訳してみた。

「私の声はまるで誰かが鶏小屋の薄板を引き剥がしているように響いた」は<My voice sounded like somebody tearing slats off a chicken coop>。清水氏は「私の声は、鶏小舎(とりごや)に小石を投げつけたように響いた」と訳している。<tear off>には「もぎとる、はがす」の意味がある。清水氏がどうして「投げる」を訳語として選んだのかがよくわからない。村上氏は「私の声には、誰かがニワトリ小屋から板をはがしているような響きがあった」と訳している。

「あら、まあ、ハードボイルドな方のようね」は<Oh-a hardboiled gentleman>。清水氏は「えらそうなことをいうのね」と意訳している。この場合の<gentleman>は、目の前にいる名前を知らない男性を指していう言葉で、「男の方、殿方」などと訳す。村上氏は「あらあら、ハードボイルドな方のようね」と訳している。チャンドラーが活躍しだした頃には、「ハードボイルド」という名称は確立していた。ここはそのまま訳したいところだ。

「言っておくけど、それってシリンダーが贅沢なことに十二もあるのよね。それとも十六気筒かしら」は<I'm giving you-twelve fat cylinders, maybe sixteen>。清水氏は当然のようにカットしている。ロールスロイスは耐久性に優れた車だ。その後ろに隠れていても足だけはまる見えだということを言っている。村上氏は「そのエンジンはたっぷりと十二気筒はあるかもしれない。あるいは十六気筒かもね」と訳している。小型のクーペに乗っている娘の嫌味である。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(1)

10


《「四分」声が言った。「五分か、六分かも知れない。連中は機敏に音も立てずに動いたにちがいない。あいつは叫び声さえ上げなかった」私は目を開け、凍えた星をぼんやりと見た。私は仰向けに倒れていた。気分が悪かった。
 声は言った。「もう少し長かったかもしれない。全部で八分くらいだろう。連中、ちょうど車を停めたあたりの茂みにいたんだ。あの男は簡単に怖がる。小さな懐中電灯で顔を照らしただけで、パニックを起こして気絶するだろう。優男だからな」
 静寂が訪れた。私は片膝をついて起き上がった。痛みが後頭部から両踝まで突き抜けた。
「それから、一人の男が車に乗り込んだ」声が言った。「そして、お前が戻るのを待ったんだ。他の奴らはもといた場所に隠れていた。連中は相手が一人で来る度胸はないと踏んでいたにちがいない。それとも電話で話した時の声の調子で、怪しいと思ったのだろう」
 私は両手を地面について、かろうじて体のバランスをとりながら、耳を澄ませた。
「まあ、そんなところだろう」声は言った。
 それは私の声だった。私は気がついてからずっと、自分に話しかけていたのだ。私は無意識裡に事態を把握しようとしていたようだ。
「黙らないか、この馬鹿」私は言った。そして独り言をいうのをやめた。
 遠くでエンジン音が、近くでは蟋蟀の啼き声、雨蛙特有の長く尾を引く啼き声がした。これ以上その啼き声を聞いているつもりは私にはなかった。
 私は地面から手をはなし、ねばつくセージの汁を拭おうと、上着の脇で手をこすった。申し分のない仕事だ。百ドルのためなら。コートの内ポケットに手が伸びた。当然のことにマニラ封筒は消えていた。手がスーツのポケットを探った。財布はそこにあった。百ドルはそこに入ったままだろうか。多分ないだろう。重いものが左の肋骨に触れていた。ショルダー・ホルスターに収めた拳銃だ。
 何という粋な計らいだ。連中は銃を残していった。気が利いているとでもいおうか、ナイフで刺した後、その眼をそっと閉じてやるみたいだ。
 頭の後ろを触ってみた。帽子はかぶったままだった。傷むのをこらえて帽子をとり、その下の頭を手で触った。昔馴染みの頭、長いつきあいだ。今では少し柔軟になり、俗化し、いくらか感じやすくなったが。軽くなでられた程度だった。帽子に助けられた。まだしばらくはこの頭でやれそうだ。もう一年くらいは使える。
 私は右手を地面に戻し、左手を地面から離し、時計が見える位置まで手首を回した。焦点が合うところまで近づけると、照明付きの文字盤が十時五十六分を示していた。
 電話がかかってきたのが十時八分。マリオットは二分間ばかり話していた。家を出るのに四分かかった。何かをしているときには時はゆっくり過ぎるものだ。つまり、かなりの短時間にいろいろなことができるものだ。それが言いたいことかって? 私の言いたいことなどどうでもいい。私より有能な人たちだってつまらないことをいう。いいだろう。何が言いたいかというと、家を出たのは十時十五分になるということだ。ここまで来るのに十二分かかった。十時二十七分。車から出て、窪地まで降りた。ぶらぶら歩き回るのに八分以上費やしてから、頭を手当してもらうために引き返した。十時三十五分。顔から地面に倒れ込むのに一分はもらいたい。というのも、顔をぶつけているからだ。顎にかすり傷がある。傷むのだ。触ると擦り剝いているのが分かる。ああ、私には擦り傷だと分かる。見なくてもだ。見る必要なんかない。私の顎だ。傷ついたかどうかぐらいは分かる。それについて何か言いたいのかもしれないが、分かったから黙っていてくれ。考えさせてくれないか。ええと…?…
 時計の針は十時五十六分を指していた。二十分は気を失っていたわけだ。
 二十分間の睡眠、すやすや寝こんでいただけだ。その間に私は八千ドルの仕事をやり損ねたわけだ。まあ、いいとしよう。二十分あれば戦艦だって一隻撃沈できるし、飛行機の三機か四機、撃墜できる。二件の死刑執行だってできる。死ぬこともできるし、結婚することも、解雇され、再就職することもできれば、歯を抜くことも扁桃腺を切除することだってできる。二十分あれば朝起きることができる。ナイトクラブでグラス一杯の水をもらうこともできる―かもしれない。
 二十分の睡眠。長時間だ。殊に寒い夜の野外となるとなおさらだ。私は震えが来ていた。
 私はまだ両膝をついたままだった。セージの匂いにうんざりしていた。そのねばねばした分泌物から野生の蜜蜂は蜜を集める。蜜は甘かった。あまりに甘すぎた。胃がでんぐり返った。歯を食いしばり、喉から出そうになったものを抑えた。冷たい汗の粒が額に出てきたが、体は相変わらず震えていた。まず片足で、次いで両足で立ち、上体を起こしかけ、少しよろめいた。自分が切断された脚みたいに思えた。
 ゆっくり振り返った。車は消えていた。無人の未舗装路が緩やかに丘を上って舗装道路に向かい、カミノ・デ・ラ・コスタの端まで延びていた。左手に、白塗りのフォー・バイ・フォーで出来た障壁が暗闇に浮かび上がった。灌木の低い壁の向こうの空が仄かに明るんでいるのは、ベイシティ・ビーチ・クラブの灯りだろう。そしてさらに右手近くには、ベルヴェデーレ・ビーチ・クラブの灯りがあった。》

「あいつは叫び声さえ上げなかった」は<He didn't even let out a yell>。清水氏は「彼は声一つ立てなかったではないか」と訳している。これでいい、と思う。ところが、村上氏は「マリオットは叫び声ひとつあげなかったものな」と<He>を、わざわざ「マリオット」という個人名に置き換えている。日本語の文中に必要以上に「彼」という人称代名詞を用いるのは、あまりいいことでないのは理解しているつもりだ。しかし、ここでは声が誰のものかもわかっていない。前の文との繋がりもない。この場面で、<He>を「マリオット」と指定するのは行き過ぎというものだ。

「優男だからな」と意訳したのは<The pansy>。清水氏はここを「造作もないことだ」と訳している。分かっていて訳を替えているのかもしれないが、不適切だ。<pansy>は「同性愛における女性的な男性」を指す言葉だ。村上氏は「なよなよ(傍点四字)したやつだから」と訳している。「ネコ」という訳語も考えたのだが、註釈抜きでどこまで通用するだろうか、心もとない。そこで、こういう訳でお茶を濁すことにした。「ネコめ」という訳も捨てがたいのだが。

「そして独り言をいうのをやめた」は<and stopped talking to myself>。清水氏は「自分に話しかけるのをやめた」。村上氏は「そして自らに語りかけるのをやめた」と訳している。村上訳は旧訳をしかつめらしく言い換えただけだ。<talk to oneself>は「ひとり言を言う」という意味なので、普通に訳せばこうなる。ただ、この文脈でいえば、両氏の訳もアリだとは思う。

「ねばつくセージの汁を拭おうと」は<the sticky sage ooze off it>。清水氏は「やまよもぎ(傍点五字)の強い匂いを振り払おうとして」と訳している。村上氏は「そこについたべとべとべとするサルビアの汁を振り払おうとした」だ。<ooze>は「滲み出てくる液体」のことで、浸出液、とか分泌液のこと。サイモンとガーファンクルが歌った『スカボロー・フェア』以来「セージ」はそのままで通用するものと思っていた。旧訳は仕方がないとして、村上訳がなぜ「セージ」を「サルビア」に替えているのかがわからない。もちろん、セージの和名は「ヤクヨウサルビア」で、両種が近縁であることはその通りだが、花の色が異なる。ここは「セージ」でいいのではないか。「セージ」という語がなじみにくければ「やまよもぎ」の方が、まだイメージが近いと思う。

「申し分のない仕事だ。百ドルのためなら」は<Nice work, for a hundred dollars>。清水氏は「いい手並だな。しかも、お前は百ドルもらっているんだ」と訳している。村上氏は「やれやれ、百ドルの報酬では割が合わない」だ。原文がシンプルなだけに、いろいろな解釈が可能になる。清水氏は自分の失態を責めて、皮肉な口調になっているが、村上訳では、割が合わない仕事だと愚痴っている。どちらがマーロウの真意だろう。どちらとも判然としない。こういう時はできる限り原文に近く訳すことにしている。読者の判断に任せるしかないからだ。

「何という粋な計らいだ」は<That was a nice touch>。清水氏はここを「こころよい感触だった」と字義どおりに訳している。しかし、<nice touch>には「粋なはからい」とか「気が利いている」という意味もある。村上訳では「気前のいい連中だ」、「気前良さ」という訳語が用いられている。「細部のちょっとした工夫」という意味での<nice touch>と考えた方が、訳が生きてくる気がする。

「今では少し柔軟になり、俗化し、いくらか感じやすくなったが」は<It was a little soft now, a little pulpy, and more than a little tender>。清水氏は「少々ふらふらしていた」と意訳というより、省略に近い訳になっている。村上氏は「今ではいくらかソフトになり、いくらかぐずぐず(傍点四字)になり、かなり大幅に脆くなっていた」と訳している。<pulpy>が難物で「果肉の、果肉上の、どろどろの」という意味だ。

村上氏の言う「ぐずぐず」が今一つよくわからないが、氏もこの<head>を肉体的な「頭」ととらえているわけではなさそうだ。ここは、知性その他を司る「頭脳」ととらえると、マーロウの言いたいことが分かると思う。ハードボイルドに登場する探偵は概してソフトではない。ぐずぐずしたり脆かったりしない。マーロは自分も寄る年波には勝てないことを自覚している。それがこういう言葉になって出てくるのだ。<pulpy>の「パルプ」とは「パルプ・マガジン」を暗示しているのだろう。軽い自嘲ととるのが正しいのでは。

「照明付きの文字盤が十時五十六分を示していた」は<The illuminated dial showed 10.56>。清水氏は「夜光針が十時五十六分を示していた」と訳している。村上氏は「針はどうやら十時五十六分を指しているらしかった」と<The illuminated dial >をカットしている。理由はよくわからない。ベゼルについたボタンを押すと文字盤に明かりがつくタイメックスを持っていた。あまり使うことがなかったが、探偵には便利な機能だろう。

「私より有能な人たちだってつまらないことをいう」は<Okey, better men than me have meant less>。清水氏は「私よりすばやい人間なら、もっと時間がかからなかっただろう」と訳している。村上氏は「私より優れた人々だって、意味をなさないことをしょっちゅう口にするではないか」と訳している。ここも原文がシンプル過ぎてマーロウの意味することがはっきりと分からない。まあ、軽口を叩いているだけなので、あまり気にするところではないのが救いだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第九章(2)

《我々は渓谷の内奥の窪地に下り、それから高台に上がった。しばらくしてから、もう一度下り、そして、また上った。マリオットの緊張した声が私の耳に入った。
「次の通りを右だ。四角い小塔のついた屋敷だ。その脇を回るんだ」
「あんたが連中にこの場所を選ばせたんじゃないだろうね?」
「まさか」彼は言った。そして、苦々し気に笑った。「たまたまこの辺りをよく知ってるだけのことさ」
 天辺を円いタイルで覆われた四角い小塔を備えた大きな角屋敷を通り越し、私は右に折れた。ヘッドライトが一瞬道路標識に光を浴びせた。<カミノ・デ・ラ・コスタ>だ。我々は未完成のシャンデリア型街灯が並び、歩道には雑草が繁り放題の大通りを滑り降りた。幾人かの不動産業者の夢の名残りだった。雑草の生い茂る歩道の陰の暗闇で、蟋蟀が啼き、牛蛙が盛んに声を響かせている。マリオットの車はそれくらい静かだった。
 一ブロックに家が一軒建っていた。それが、二ブロックに一軒になり、やがて一軒も見えなくなった。一つ二つ、仄かな灯火の洩れる窓もあったが、このあたりの人々は鶏と一緒に寝るようだ。いきなり舗装道路が途切れ、日照り続きでコンクリートみたいに固まった未舗装路に入った。ベルヴェデーレ・ビーチ・クラブの灯りが右手の中空に浮び上り、はるか前方ではうねる波に光がきらめいていた。セージのぴりっとした匂いが夜を満たしていた。やがて、白塗りの障壁が未舗装の道路を横切って立ちはだかった。マリオットは再び肩越しに声をかけた。
「ここを通り過ぎるのは難しそうだ」彼は言った。「そんなに幅があるとは思えない」
 静かな音を立てるエンジンを切り、ライトを下向きにして座ったまま耳を澄ませた。何も聞こえない。私はライトをすべて消して車の外に出た。蟋蟀が啼きやんだ。しばらくの間、沈黙はあまりにも完璧で、一マイル離れた崖下のハイウェイを行く車が立てるタイヤの音が聞こえるほどだった。やがて、一匹また一匹と蟋蟀が啼き始め、夜が満たされるまで続いた。
 「じっとしてるんだ。そこまで行って様子を見てくる」私は車の後部座席に囁いた。
 私はコートの下の拳銃のグリップに触れ、前に向かって歩いた。灌木の茂みと白い障壁の端との隙間は車から見たより大きく開いているようだ。誰かが灌木を刈ったらしい。地面にタイヤ痕がついていた。おそらく暖かい晩には若者たちがお楽しみにやってくるのだろう。私は障壁を通り抜けた。道は下りで、曲がっていた。下は暗く、どこか遠くで海鳴りが響いていた。ハイウェイを行く車のライトが見えた。私は進んだ。道は周りを灌木で囲まれた浅い盆地で終わっていた。そこに入るには私が来た道しかないようだった。私は沈黙に浸され、立ったまま耳を澄ませた。
 時がゆっくりと過ぎていった。何か聞こえないかと待ち続けたが、何も聞こえてこなかった。その窪地にいるのは私だけのようだった。
 私は向こう側にあるビーチ・クラブの灯りに目を留めた。上階の窓から高性能の夜間望遠鏡を使えば、多分この場所をかなりのところまで見て取ることができる。そいつは往来する車も、誰が外に出るかも、相手が複数か、一人なのかも見ることができる。夜間望遠鏡を手に暗い部屋に腰を据えれば、思った以上に細部まで見ることが可能だ。
 私は引き返し、丘を上った。灌木の足もとで蟋蟀が大きく啼きだし、私を驚かせた。カーブを曲がり、白い障壁を通り過ぎた。すべては変わりなかった。黒い車は、昏すぎも明るすぎもしない薄明を背に、ぼんやりと輝いていた。車に戻り、運転席脇のランニング・ボードに片足をかけた。
「テストのようだ」車の後ろにいるマリオットに聞こえる程度の小声で言った。「君が言ったとおりにするかどうかのさ」
 後ろで何か動く気配はしたが、返事は聞こえなかった。私は灌木の傍にある何かを見ようとした。
 誰にせよ私の後頭部を殴るのは実に容易だったろう。後になって、私はブラックジャックが風を切る音を聞いたような気がした。多分、人は誰も後になってから気がつくのだ。》

「マリオットの緊張した声が私の耳に入った」は<Marriott's tight voice said in my ear>。清水氏は「マリオットがまた、いった」と訳している。村上氏は「マリオットのこわばった声が耳元で聞こえた」と訳している。

「天辺を円いタイルで覆われた」は<topped with round tiles>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「てっぺんに丸いタイルがあしらわれた」と訳している。同じところでもう一つ。「大きな角屋敷」と訳したところは<a big corner house>だが、ここを清水氏はたた「邸」と訳し、村上氏は「大きな屋敷」としている。<corner house>とは「道路の曲り角にあって、二面を街路に面した屋敷」のこと。江戸時代の用語だが意味は通じるだろう。

「ベルヴェデーレ・ビーチ・クラブの灯りが右手の中空に浮び上り」の前に、清水訳では「泥の道は次第に狭くなって、叢と叢のあいだをゆるやかに下(くだ)ってた」、村上訳では「未舗装道路はやがて細くなり、灌木の壁に挟まれたなだらかな下り道になった」という一文が入っているのだが、私が参照しているKindle 版「Farewell My Lovely」では抜け落ちている。ペーパー・バックをスキャンしたと思われる造りで、時々スペルのミスはあるのだが、まるまる一文の脱落は初めてだ。こうなると、紙製の本の方が確かかも知れない。

「はるか前方ではうねる波に光がきらめいていた」は<far ahead there was a gleam of moving water>。清水氏はここもカットしている。村上訳では「その向こうには海のうねりが煌いて見えた」となっている。

ブラックジャックが風を切る音」は<the swish of a sap>。清水氏はここを「物音」と訳している。<sap>は、一般的には「棍棒」のことだが、スラングでは「ブラックジャック」を指す。村上氏も「ブラックジャックがさっと空気を切る音」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第九章(1)

 

《家の中は静まり返っていた。遠くに聞こえる音は、岸打つ波の音か、音立ててハイウェイを駆け抜ける車の音、あるいは松の梢を揺らす風の音かも知れなかった。当然のことに海の音だった。遥か崖下で砕け散る波の音だ。私はそこに座って耳を澄ませながら長い間考えに耽っていた。慎重に思いを巡らせていた。一時間半の間に電話のベルが四回鳴った。大事な電話は八時十分過ぎにかかって来た。マリオットは異様に低い声で手短かに話すと、音も立てずに受話器を架台に置き、静かに立ち上がった。顔が強張って見えた。今は黒っぽい服に着替えていた。音も立てずに歩いて部屋に戻り、自分のブランデー・グラスに気つけの酒を注いだ。手に持ったグラスを束の間灯りにかざし、奇妙に物悲しそうな微笑を浮かべると、素早くくるりと回し、首を後ろに反らして一気に喉に流し込んだ。
「さて、準備は万端だ、マーロウ。用意はいいか?」
「それでこそ一晩中待ってた甲斐があるというものだ。どこへ行くんだ?」
「プリシマ・キャニオンというところだ」
「聞いたことがない」
「地図を持って来よう」マリオット地図を持ってくると素早く広げた。地図の上にかがんだとき、けばけばしい髪に当たった光がちらついた。指が地図を指し示した。ベイシティの北を通る湾岸ハイウェイを下りると、道は麓の大通りに沿って広がる町に向かう。その先は多くの峡谷に分かれている。そのうちのひとつだった。大体の見当はついたが、それ以上は分からない。カミノ・デ・ラ・コスタと呼ばれる通りの突き当りに位置しているようだ。
「ここからだと十二分とかからないだろう」マリオットは早口で言った。「そろそろ出かけよう。じゃれ合っていられるのは、たった二十分だ」
マリオットは私に明るい色のコートを手渡した。標的にはうってつけだ。サイズはぴったりだった。帽子は自分のをかぶった。脇の下に拳銃を吊るしていたが、言わずに置いた。
 コートを着ている間にマリオットは神経質な声でしゃべり続け、両手は八千ドルが入った分厚いマニラ封筒の上で踊り続けていた。
「プリシマ・キャニオンの突き当りには、水平な棚のようなものがあるそうだ。フォー・バイ・フォー製の白い囲いで道路から隔てられているが、かろうじて入れる。未舗装路が小さな窪地に入り込んでいて、我々はそこでライトを消して待つ。その辺りに人家はない」
「我々?」
「まあ、名目上、私がということだ」
 マリオットがマニラ封筒を手渡し、私はそれを開けて中身をのぞいた。たしかに現金だった。大量の札束だ。数えたりはしなかった。輪ゴムをはめ直し、包みをコートの内側に突っ込んだ。あばら骨の凹んだところにすっぽり収まった。
 我々はドアまで行き、マリオットがスイッチを切った。そして、慎重に玄関のドアを開け、霧のかかった外気を凝視した。我々は外に出て、潮気で変色した螺旋階段を、車庫のある地面まで下りた。
 少し霧が出ていた。この辺りでは夜になると霧が出る。しばらくフロント・グラスのワイパーを動かさなければならなかった。大型の外国車は勝手に走ってくれたが、見かけ上ハンドルに手を添えていた。
 二分間ほど、山肌を八の字を描くように行ったり来たりして、オープン・カフェのすぐ傍に出た。マリオットが階段を上がるように言った理由が今なら分かる。こんな曲がりくねった道を何時間走っても、餌箱の中の蚯蚓ほども距離を稼ぐことはできなかったろう。
 ハイウェイに入ると、両方向に流れる車のライトは途切れることのない一条の光線のようだった。うなり声を上げて北に向かう大型トラックの車列が、緑と黄色のオーバーハング・ライトで一面を花綵のように飾っていた。三分ほど走って大きなガソリン・スタンドのところで内陸部に折れ、丘陵地帯の山懐を縫うように走った。静かになった。寂れたところで、海藻灰と丘の方から漂ってくるワイルド・セージの匂いがした。所々に黄色い窓灯りが浮び上り、まるで摘み残されたオレンジのように見えた。車が通り過ぎ、冷たい白い光を舗装道路に浴びせながら唸り声をあげ、また暗闇の中に消えて行った。空では霧の切れ端が星を追いかけていた。
 マリオットが後部座席から身を乗り出して言った。
「右手の灯りがベルヴェべデーレ・ビーチ・クラブだ。次の渓谷がラス・パルガス、その次がプリシマだ。二番目の坂の上で右へ曲がるんだ」声は押し殺され、張りつめられていた。
 私はぶつぶつ言いながら運転を続けた。「頭を下げてるんだ」私は肩越しに言った。「どこから見られているか知れたものじゃない。この車はスパッツ姿でアイオワのピクニックに出かけるみたいに目立つ。連中はあんたが双子になるのを喜ばないだろう」》

「地図の上にかがんだとき、けばけばしい髪に当たった光がちらついた」は<the light blinked in his brassy hair as he bent over it>。清水氏はここをカットしている。村上訳はこうだ。「その上にかがみ込むと、彼の真鍮のような色合いの髪が明かりを受けて輝いた」。<brassy>は「真鍮色の」の意味もあるが、「けばけばしい、安っぽい、低俗な」を意味することもある。マーロウはマリオットの髪が気に入らないことを覚えておきたい。
この車はスパッツ姿でアイオワのピクニックに出かけるみたいに目立つ
「マニラ封筒」は<the manila envelope>。そのままなのだが、清水氏は「ハトロンの封筒」と訳している。マニラ麻を素材とする「マニラ封筒」は防水性が高いので、こういった小説ではおなじみのアイテムなので、別に言いかえる必要はないと思うのだが。もちろん村上氏も「マニラ封筒」だ。

「大型トラックの車列」と意訳したのは<The big cornpoppers>。例によって、清水氏はこの語を含む一文をカットしている。インターネットの普及している今とちがって、当時<cornpopper>を辞書で引いても何も出てこなかったろう。今なら、ネットでポップコーンを作る道具の画像くらいは出てくる。村上氏も「大きなポップコーン・マシーンたち」と訳しているのだから。でも、残念。

<cornpopper>は、幼児の歩行を補助する玩具で、日本でいう「カタカタ」に類する幼児用のおもちゃのことだ。アメリカのそれは、プラスチック製の透明の半球の中にカラフルなゴムボールがいくつも入っていて、歩くたびにそれがドームにあたって音を立てる。マーロウは大型トラックのオーバーハング・ライトの賑やかな光をそれに見立てている。日本のデコトラを思い出してもらえれば、その派手派手しさが想像できるだろう。

「この車はスパッツ姿でアイオワのピクニックに出かけるみたいに目立つ」は<This car sticks out like spats at an Iowa picnic>。例によって清水氏はここをカット。村上氏は「この車はなにしろアイオワのピクニック場のスパッツみたいに目立つからね」と訳している。マーロウの軽口は必要ないと思えば必要ないものだが、緊張を和らげたり、相手に軽くジャブを試みたりするときにも使用されるので不用意にカットするのは考えものだ。