marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

キャンディピンク色のビルは「よくある」のだろうか?

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【訳文】

どんなに腕に自信があろうと動き出すには出発点が必要だ。名前、住所、地域、経歴、雰囲気といった何らかの基準になるものが。私が持っていたのは、くしゃくしゃになった黄色い紙にタイプされた文字だけだった。「きみが嫌いだ、ドクター・V。だが、今はきみが頼りだ。」これでは、太平洋に狙いを定め、ひと月かけて五、六 か所の郡医師会のリストを調べてみても収穫はほぼゼロだろう。我々の町では、もぐりの医者はモルモットのように繁殖する。市役所から百マイル圏内には八つの郡があり、そのどの町にも医者がいる。本物の医者もいれば、魚の目を削ったり背骨の上で飛び跳ねたりする免許を通信販売で取ったいかさま師もいる。本物の医者の中にも、繁盛している医者も貧乏医者もいる。道徳的な医者もいれば、なりふり構っていられない医者もいる。禁断症状が出てきた金持ちのアル中患者は、ビタミンや抗生物質の業界で遅れをとっている多くの老いぼれ医者にとって、またとない金づるだ。しかし、手がかりがなければ、どこから手をつけていいのかわからない。 私には手がかりがなく、アイリーン・ウェイドも持っていないか、持っていても気づいていなかった。 それに、たとえイニシャルがぴったり合う誰かを見つけたとしても、ロジャー・ウェイドに関する限り、結局架空の人物だったということになりかねない。紙切れの文句は、煮詰まったときにたまたま頭の中をよぎったものかもしれない。スコット・フィッツジェラルドの引喩が、単なる風変わりな別れの挨拶かもしれないのと同じように。

こんなとき、小物は大物の知恵を借りようとする。そこで、ベヴァリーヒルズにあるけばけばしい興信所にいる知り合いに電話した。カーン協会(オーガニゼーション)は富裕層の顧客の保護が専門だ。「保護」というのは、法の内側に片足を突っ込んでさえいればほぼ何でもやる、といった意味合いだ。男の名前はジョージ・ピーターズ、さっさと済ませるなら十分間だけ時間をやる、と言った。

カーン協会はキャンディピンクに塗られた四階建てのビルの二階の半分を使っていた。エレヴェーターのドアは自動で開き、廊下はひんやりとして静かで、駐車場にはすべての区画に名前が書いてあり、正面ロビー脇の薬局の薬剤師は調合した睡眠薬を瓶に詰めるので手首をいためていた。

ドアの外側はフレンチ・グレイで、金属製の文字が浮き出ていた。新品のナイフのように切れ味鋭い字体で「カーン協会、代表取締役、ジェラルド・C・カーン 」。その下に小さく「入り口」とある。以前は投資信託会社だったのかもしれない。

中は狭くて醜い応接室になっていたが、その醜さは意図的で金がかかっていた。家具は緋色と濃緑色、壁は平板な暗緑色、それより三段階ほど暗い色調の緑色の額に入れた絵が壁にかかっていた。どれも大きな馬に乗った赤い上衣の男たちが、狂ったように高い障害物を飛び越えている絵だ。縁なしの鏡が二つかかっていた。かすかだが、胸が悪くなるのに充分なローズピンクの色がつけてある。磨き上げられたプリマヴェラ材のテーブル上に置かれた雑誌は最新号で、どれも透明なビニールのカバーがかかっていた。この部屋の内装をした男は、色に対する恐れというものを知らない。たぶんそいつは、赤唐辛子色のシャツを着て、暗赤紫色のズボン、縞馬柄の靴、鮮やかな蜜柑色のイニシャルを入れた朱色のズボン下を履いているのだろう。

すべては見せかけに過ぎない。カーン協会の顧客は最低でも一日百ドル取られ、顧客は自宅でのサーヴィスを期待していた。待合室に座って待つような真似はしない。カーンは憲兵隊の元大佐で、ピンクと白い肌の大男で厚板のごとく頑丈だった。一度仕事をオファーされたことがあったが、私はそれを受けるほど困ってはいなかった。くそ野郎になるには百九十の方法があるが、カーンはそのすべてを知っていた。

擦りガラスの仕切りがするりと開いて、受付係が私を見た。彼女は鉄のような笑みを浮かべ、眼は尻ポケットの財布の中の金を数えることができそうだった。

「おはようございます。ご用件は?」

「ジョージ・ピーターズに会いたい。名前はマーロウだ」

彼女は緑の革の帳面を棚に置いた。「ご予約は頂いておりますでしょうか、ミスタ・マーロウ。予約リストにお名前がありませんが」

「個人的な要件でね。さっき電話で話した」

「わかりました。お名前のスペルは? ミスタ・マーロウ。それと、ファーストネームをお願いします」

私は彼女に言った。彼女はそれを細長い用紙に書き留め、端を打刻機の下に滑り込ませた。

「誰の気を引くつもりだ?」私は訊いてみた。

「ここでは細部にこだわっています」と彼女は冷ややかに言った。 「些細なことがいつ最重要事項になるか分からない、とカーン大佐は言っています」

「逆もまた真なり」 と私は言ったが、彼女には分らなかった。事務手続きを終えると、彼女は顔を上げて言った。

「ミスタ・ピーターズに知らせます」

それは重畳、と彼女に言った。一分後、鏡板の間のドアが開き、ピーターズが私を軍艦色(バトルシップ・グレイ)に塗られた廊下に招き入れた。そこには監房を思わせる小さなオフィスが並んでいた。彼のオフィスの天井には防音対策が施され、グレイのスチール製のデスクとそれに合わせた椅子が二脚、グレイのスタンドにグレイのディクタフォン、壁や床と同色の電話とペンセットがあった。壁には額装された写真が二枚飾られていた。一枚は憲兵隊のヘルメットをかぶった制服姿のカーン、もう一枚は机の後ろに座り、神妙な面持ちの私服姿のカーンだった。また、額装された小さな社訓が壁にかかっていた。グレイの地に堅苦しい書体でこう書かれていた。

カーン協会員は、いついかなる場でも、紳士の如く装い、話し、振る舞う。この規則に例外はない。

ピーターズは部屋を大股の二歩で横切り、額のひとつを脇に押しやった。その後ろのグレイの壁には、グレイのマイクが仕掛けられていた。彼はそれを引き抜き、配線を外して元の位置に戻した。そしてまた額をその前に動かした。

「たった今、おれは失業したところだ」と彼は言った。「ただし、飲酒運転で起訴されそうになった俳優のため、御大自ら事件のもみ消しにお出ましとなれば話は別だ。マイクのスイッチ類はすべて野郎のオフィスにある。マイクはどの部屋にもついている。先日の朝、待合室の薄手の鏡の裏に赤外線を使ったマイクロフィルム・カメラを設置するよう提案した。そのアイデアはあまり気に入らなかったようだ。誰かがすでにやっていたからかもしれない」

彼は硬めのグレイの椅子のひとつに腰を下ろした。私は彼を見つめた。ぎごちなく動く脚の長い男で、骨ばった顔の髪の生え際が後退しかけていた。肌は、長時間あらゆる天候に晒されてきた男らしくざらついていた。眼は窪んでいて、鼻の下が鼻と同じくらい長い。にやりと笑うと、顔の下半分が鼻翼から大きな口の端まで続く二本の巨大な溝のなかに消えた。

「こんな扱い、どうやったら我慢できるんだ?」私は彼に訊いた。

「座れよ、相棒。一息ついて声を落とすんだ。それと、おまえみたいなけちな探偵にとってカーンの調査員は、手回しオルガン弾きの猿にとってのトスカニーニと同じだってことを忘れるな」彼は間を置いてにやりと笑った。「我慢も何も、そんなことおれはちっとも気にしちゃいない。いい金になるしな。それに、カーンが戦時中にイギリスで仕切ってた厳重警戒刑務所の囚人みたいにおれのことを考えはじめた時には、いつでも小切手を受け取っておさらばするよ。どうかしたか? ちょっと前、ひどい目に遭ったらしいな」

「いつものことさ。『鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)』に関するファイルを見たい。持っているのは知っている。エディ・ダウストがここを辞めた後に教えてくれた」

彼はうなずいた。「エディはカーン協会にいるには、ちょっと繊細すぎたんだ。おまえのいうファイルは最高機密だ。いかなる機密情報も部外者に漏らしてはならない。すぐに持ってきてやる」

彼が出て行くと、私はグレイの屑かご、グレイのリノリウム、そしてデスク・ブロッターの角を縁取るグレイの革をじっと見つめた。 ピーターズはグレイの板紙表紙のファイルを手に持って帰ってきた。 彼はそれを置いて開けた。

「勘弁してくれ、ここにグレイでないものはないのか?」

「スクールカラーだよ。当協会の精神だ。ああ、グレイでないものもある」

彼は机の抽斗を開けて八インチほどの長さの葉巻を取り出した。

「アップマン・サーティ」と彼は言った。「年配の英国紳士からのプレゼントだ。カリフォルニアに住んで四十年になるが、いまだにラジオのことをワイアレスと呼ぶ。素面のときはうわべだけの魅力を振り撒くただの年寄りのオネエだが、おれにはどうだっていい。たいていの男はうわべだけであろうとそうでなかろうと魅力なんてものを持ち合わせてはいないからだ。カーンも含めてな、あいつは錬鉄職人の下穿きくらいの魅力しか持ち合わせていない。ところがこの依頼人、素面じゃないときは見ず知らずの銀行の小切手を振り出す変わったくせがある。いつもきちんと金を払うし、おれの助けもあってブタ箱入りは免れている。彼がこれをくれた。いっしょにやろうや。大虐殺を企てている二人のインディアンの酋長みたいに」

「葉巻はやらないんだ」

ピーターズは巨大な葉巻を悲しそうに見た。「おれもだ」と彼は言った。「カーンにやろうと思ったんだ。しかし、あきらかにこれは一人用の葉巻(ワンマン・シガー)じゃない。いくらカーンがワンマンだとしてもな」彼は眉をひそめた。「気づいたか? おれはカーンのことをしゃべり過ぎてる。いらついてるしるしだ」彼は葉巻を抽斗に戻し、ファイルを開いて見た。「それで、どうしたいんだ? これ」

「金持ちのアル中を捜してる。そこに名を連ねる輩を喜ばせるのが何より好きという金のかかる趣味の持ち主だ。今のところ、不渡り小切手は出していない。とにかくそうは聞いてない。暴力癖があり、夫人はそっちを心配している。彼女は、夫がどこかのアル中の矯正施設に潜伏していると考えているが、確証はない。唯一の手がかりはドクター・Vがどうのこうのという戯言だけ。頭文字だけだ。いなくなってもう三日になる」

ピーターズは私の顔を思慮深げに見つめた。「そんなに経ってない」と彼は言った。「何が気になるんだ?」

「先に見つけたら、金になる」

彼はさらに私を見て、かぶりを振った。「 解せないが、まあいい。見てみよう」 彼はファイルのページをめくり始めた。「簡単なことじゃないんだ。この連中は絶えず入れ替わる。頭文字だけじゃ、たいした手がかりにならない」。彼はフォルダーからあるページを抜き取り、さらにページをめくり、別のページを抜き取り、最後に三枚目を抜き取った。「ここに三人いる。ドクター・エイモス・ヴァーリー、整骨医。アルタデナに大きな施設がある。五十ドルで夜間に往診する、あるいはしていた。正規の看護師が二人いる。数年前に州の麻薬捜査官と揉めて、処方記録を押収されている。ただしこの情報は最新ではない」

私はアルタデナの住所と名前を書き写した。

「次にドクター・レスター・ヴカニック。耳鼻咽喉科、ハリウッド・ブールヴァードのストックウェル・ビル。こいつは大物だ。オフィス診療が中心で、慢性副鼻腔炎を専門にしているようだ。手際が良すぎる。患者が副鼻腔炎による頭痛を訴えると、鼻の穴の洗浄をしてくれる。まずノボカインで麻酔をする。だが、相手の出方次第では必ずしもノボカインである必要はない。わかるか?」

「もちろん」 私はそれを書き留めた。

「こいつはいい」ピーターズはさらに読み進めた。「彼の問題は明らかに物資の供給面だろう。そこで、われらがドクター・ヴカニックは、しょっちゅうエンセナーダまで釣りに出かける。それも自家用機で」

「自分でヤクを持ち込めば、長くはもたないだろう」と私は言った。

ピーターズはそれについて考え、かぶりを振った。「そうとも限らない。欲をかきすぎなければ、永遠に続けられるだろう。唯一の危険は、不満を持つ顧客-―失礼、つまり患者―だが、彼はおそらくその扱い方を心得ている。十五年も同じオフィスで働いているんだ」

「どこからこんな情報を手に入れるんだ?」私は彼に訊いた。

「おれたちは組織だ。おまえのような一匹狼じゃない。依頼人自身から得たものもあれば、内部から得たものもある。カーンは金を使うことを恐れない。その気になれば、社交家にもなれる」

「この話を聞いたら彼は大喜びだろう」

「あいつなんかくたばるがいい。本日、最後に提供できるのはヴェリンジャーという男だ。こいつをファイルに入れた調査員はとうにやめている。ある女性詩人がセパルヴェダ・キャニオンのヴェリンジャーの牧場で自殺したことがあるようだ。彼は、隠遁と和やかな雰囲気を求める作家などのための芸術家コロニーのようなものを運営している。料金は控え目だ。まともに見える。ドクターを自称しているが、医療に携わってはいない。博士号を持っているのかもしれない。正直言って、なぜここに入っているのかわからない。この自殺に何かあったのでなければ」彼は白紙に貼られた新聞の切り抜きを手に取った。「ああ、モルヒネの過剰摂取だ。ヴェリンジャーがそれに関与していたことを示唆するものはない」

「ヴェリンジャ―が気に入った」私は言った。「大いに気に入った」

ピーターズはファイルを閉じ、ぴしゃりと叩いた。「おまえはこれを見ていない」と彼は言った。彼は立ち上がり、部屋を出て行った。彼が戻ってきたとき、私は立ち去ろうとしていた。私は彼に礼を言おうとしたが、彼はそれをさえぎった。

「いいか」と彼は言った。「おまえの捜している男がいそうな場所は何百もあるはずだ」

わかっている、と私は言った。

「ところで、お友だちのレノックスについて、興味を引きそうな話を聞いた。五、六年前、うちの調査員がニューヨークで、その人相にそっくりな男に出くわしたんだ。しかし、その男の名前はレノックスではなかったそうだ。マーストンだ。もちろん、人違いかもしれん。あいつはいつも酔っ払っていたから、確かなことは言えない」

私は言った。「人違いだろう。なぜ名前を変える? 軍歴を調べればわかることだ」

「それは知らなかった。そいつは今シアトルにいる。その気があるなら、帰ってきたら話してみてくれ。名前はアシュターフェルトだ」

「いろいろ世話になった、ジョージ。長い十分間だった」

「いつかこっちが世話になるかもしれん」

「カーン協会は」と私は言った。「いかなる相手からもいかなる援助も必要としない」

彼は親指で下品な仕種をした。私は彼をメタリック・グレイの監房に残し、待合室を通り抜けた。今は何の問題もないように見える。監房の後では派手な色彩も理にかなっていた。

【解説】

大手の探偵社であるカーン協会を訪ね、旧知の間柄であるジョージ・ピーターズを通じて、もぐりの医者のファイルを手に入れようとするマーロウ。

 With that I could pinpoint the Pacific Ocean, spend a month wading through the lists of half a dozen county medical associations, and end up with the big round 0.

「これでは、太平洋に狙いを定め、ひと月かけて五、六 か所の郡医師会のリストを調べてみても収穫はほぼゼロだろう」

ウェイドを探す手がかりとしてマーロウが手にしているのは、しわくちゃになった紙片に書かれたドクター・Vというイニシャルのみ。これだけでは雲をつかむような話だという喩えとして挙げたのが上記の文である。清水訳では「これだけの手がかりでは、一ヵ月かかって各郡の医師組合のリストをあさっても、結果はゼロにきまっている」と、一読して分かるように“I could pinpoint the Pacific Ocean”をトバしている。

これは村上訳でも「これだけではまさに五里霧中だ。一ヵ月かけて五つか六つの郡(カウンティー)の医師協会のリストを調べまくって、その結果収穫はゼロというのが関の山だろう」となっていて、「五里霧中」という意訳になっている。

田口訳になって初めて「それだけの情報をもとにできることと言えば、大西洋を指差してここが大西洋だと言える程度のことだろう。ひと月かけて五つか六つの郡の医師協会のリストを調べても、収穫はおそらくゼロだろう」と、「太平洋」を「大西洋」と取り違えてはいるものの、場所に関する言及がなされることになる。

市川訳は「これを頼りに太平洋に狙いを定め、ひと月の間、半ダースもの郡医師会名簿をしらみつぶしに調べたとしても結局得られるのはでっかい円だけ、つまりゼロだ」とめずらしく(と言っては悪いが)いい仕事をしている。“pinpoint”は「(的などを)正確に狙う」という意味の他動詞。マーロウが本拠地にしているロスアンジェルスは太平洋に面した都市だ。次にくるのが時間だから、その前にあるのは場所と考えれば「太平洋(側)に狙いを定め」というのはよくわかる。これがなぜこれまで普通に訳されてこなかったのか理由がよくわからない。

They had half the second floor of one of these candy-pink four-storied buildings where the elevator doors open all by themselves with an electric eye, where the corridors are cool and quiet, and the parking lot has a name on every stall, and the druggist off the front lobby has a sprained wrist from filling bottles of sleeping pills.

「カーン協会はキャンディピンクに塗られた四階建てのビルの二階の半分を使っていた。エレヴェーターのドアは自動で開き、廊下はひんやりとして静かで、駐車場にはすべての区画に名前が書いてあり、正面ロビー脇の薬局の薬剤師は調合した睡眠薬を瓶に詰めるので手首をいためていた」

マーロウの眼で見たカーン協会の外観である。冒頭の部分、清水訳は「オフィスは四階のビルの二階を半分つかっていた。このへんでよく見かけるお菓子のようなピンク色のビルで」。村上訳は「よくあるキャンディー・ピンクの四階建てビルにその会社はあった。二階の半分を占めている」。さらに田口訳でも「〈カーン・オーガニゼーション〉はよくあるキャンディピンクの四階建ての建物の二階の半分を占めていた」となっている。

市川訳では「カーン協会はケバケバしいピンクに塗られた四階建てのビルの二階半分を使っていた」とそれまでの訳にあった「よくある」が抜けている。これはどういうことかというと、清水訳が“one of these”(どちらか一つ)を“one of those”(よくある)と誤読したのを、村上、田口両氏が原文をよく確かめることなく旧訳を踏襲したことから起きたと思われる。キャンディーピンクという色は、ちょっとビルの色としてはあり得ないほど派手な色で、いくらハリウッドの近くでもそうそうは見かけない色だ。これを「よくある」と訳すのはいかにもまずい。

The door was French gray outside with raised metal lettering, as clean and sharp as a new knife.

「ドアの外側はフレンチ・グレイで、金属製の文字が浮き出ていた。新品のナイフのように切れ味鋭い字体で」

オフィスの前にやってきたマーロウがまず目にするのがこれだ。清水訳は「ドアの外がわはフレンチ・グレイに塗られていて、新しいナイフのようにあざやかな金属製の文字がうき出ていた」。“clean and sharp”は「あざやかな」の一言にまとめられている。

村上訳は「ドアの外側はフレンチ・グレーで、金属のレタリングが浮き上がっていた。ナイフみたいに鋭く光っている」。田口訳は「ドアは外側が緑がかったグレーで、新品のナイフみたいにきらきらして、角の鋭い金属のレタリングが貼りつけてあった」

市川訳は「カーン協会のドアはしゃれたグレーでそこには鋭くはっきりした真新しいメタリックで会社名などが記されていた」。ナイフの喩えが消えているだけでなく、マーロウが見ているのが(ドアの)外側であることも、レタリングがドアから浮かび上がっていることも消えている。ちなみに「フレンチ・グレー」は、別に「しゃれたグレー」ではない。落ち着いた標準的な灰色のことだ。 

チャンドラーは一体何を「新しいナイフ」に喩えたのだろう。それは“as clean and sharp as”の前にある“raised metal lettering”(浮き彫りにされた金属製のレタリング)である。その表面が滑らかで、角が鋭く立ち上がっているのをナイフに喩えているのだ。おそらくフォントはうろこ状のセリフを持つローマン体だろう。無機的な灰色の地に、触れたら切れそうな感じがする金色の文字が浮かび上がっているところにカーン協会の持つ非情さがよく現れている。

受付係がマーロウの名前を書いた用紙の端を打刻機に挿むのを見て、マーロウが言う台詞。

"Who's that supposed to impress?" 

「誰の気を引くつもりだ?」

清水訳は「仰々しいですな?」。村上訳は「そういうことをして誰か喜ぶのかな?」。田口訳は「今のはどういうやつを感心させるための作業なんだね?」。市川訳は「これ見てさすが!って思う客はいるのかな?」とそれぞれ苦労して訳している。

受付係がタイム・レコーダーで客の名と来訪時刻を印字する。ただそれだけのことだ。マーロウはいったいその作業の何が気になったのか。四人の訳者もそれがよく分からないので、それぞれ知恵を絞ったにちがいない。実は、“impress”には「人を感動させる」という意味とともに、文字通り「刻印する」という意味がある。チャンドラー得意のダブル・ミーニングだ。掛詞を使うことで、カーン協会のトリビアリズムをちょっと揶揄ってみたのだろう。その意味では清水訳が最適解かもしれない。

受付係に呼ばれたピーターズが顔を出す場面。

A minute later a door in the paneling opened and Peters beckoned me into a battleship-gray corridor lined with little offices that looked like cells.

「一分後、鏡板の間のドアが開き、ピーターズが私を軍艦色(バトルシップ・グレイ)に塗られた廊下に招き入れた。そこには監房を思わせる小さなオフィスが並んでいた」

“a door in the paneling”が市川訳では「二枚の鏡の間にあるドア」になっている。これはおかしい、少し前のところで「二枚の鏡」は“two frameless mirrors”と複数形で書かれている。“paneling”とは「鏡板、羽目板」と呼ばれる壁などに張る一枚板のことだが、板というより壁そのものを指す。この部屋の場合、板張りの壁にドアが設置されていると考えられる。清水訳は「しきり(傍点三字)の一部にあるドア」、村上訳は「パネル張りの壁についたドア」、田口訳は「パネル張りの壁と壁とのあいだのドア」になっている。

待合室の色について書かれたパラグラフの中に“the walls were a flat Brunswick green”と書かれていた。つまり、壁全面がブランズウィック・グリーンに塗られているわけだ。外側から見たときフレンチ・グレイだったドアも内側はブランズウィック・グリーンに塗られているのだろう。だから、マーロウはわざわざ“a door in the paneling”と書いたのだ。つまり開くまでは、ピーターズが顔を出したドアもただの一枚の壁のように見えていたにちがいない。“outside”と“inside”と書いたのにはそういう意味があったのだ。

マーロウが部屋に入ると、ピーターズは部屋に仕かけられていた盗聴器の配線を遮断してから口を開く。

"Right now I'd be out of a job," he said, "except that the son of a bitch is out fixing a drunk-driving rap for some actor.

「たった今、おれは失業したところだ」と彼は言った。「ただし、飲酒運転で起訴されそうになった俳優のため、御大自ら事件のもみ消しにお出ましとなれば話は別だ。(拙訳)

「いま、べつに仕事はないんだ」と彼はいった。「ある俳優の酔っぱらい運転のもみ消しだけなんだ」(清水訳)

これはおかしい。盗聴器を切ったことと話がつながっていない。村上訳はこうだ。

「これで僕は職を失いかねない」と彼は言った。「もっとも大将は今、酔っぱらい運転で告訴されているさる俳優の面倒を見るために外出しているから、心配はない」

侮蔑表現である“son of a bitch”を「大将」と訳すのは穏便に過ぎるが、文意は通っている。田口訳は「こういうことをすると馘(くび)になってもおかしくないんだけど、ボスは今、ある俳優が酔っぱらい運転で起訴されそうになっている件で外出中でね」と、こちらは「ボス」に昇格している。

「これは馘もんだ」と言った。「まあ、あいつは今、ある映画スターがしでかした飲酒交通事故の後始末に出かけているから問題ない」(市川訳)

“drunk-driving rap”を「飲酒(による)交通事故」にしてしまうのは問題だが、意味的には先の二人とよく似た訳になっている。ただし、どの訳も“Right now”に込められた切実さが今一つ伝わってこないきらいがある。元憲兵がつくり上げた監視装置でガチガチに固められた組織に属する一員が、フリーの私立探偵にその非人間的な扱いを愚痴ってるところだ。もっと自虐的な表現にしてもいいのではないか。

以下は、ピーターズの容貌をカリカチュア風に描写している部分なのだが、どうにも頭に絵が浮かんでこない。

He had deep-set eyes and an upper lip almost as long as his nose. When he grinned the bottom half of his face disappeared into two enormous ditches that ran from his nostrils to the ends of his wide mouth.

「眼はふかくくぼんでいて、上唇が鼻とおなじくらい長かった。笑うと、顔の下半分が鼻孔から大きな口の両端にとどく二本のふとい溝のなかに消えた」(清水訳)

「目はくぼんでいて、上唇が鼻とほとんど同じくらい前に突き出している。にやりと笑うと、顔の下半分は、鼻の穴から大きな口の両端にかけて生まれる二つの巨大な溝の中に消えてしまう」(村上訳)

「眼は奥まっていて、上唇が鼻と同じくらい横に長い。だから笑うと、小鼻の脇から広い口の両端に延びる二本のほうれい線が深い溝となって、顔の下半分が消えてしまう」(田口訳)

「目は落ちくぼんでいて鼻の下は非常に長く、ほとんど鼻自体の長さと同じくらいだった。笑うと顔の下半分は大きく開いた口と二列の歯だけとなり、顎なんかは消えてしまう」(市川訳)

問題は“an upper lip almost as long as his nose”である。ある辞書に、こういう例文があった。“Your upper lip is the part of your face between your mouth and your nose.”つまり、“upper lip”とは、上唇ではなく、鼻から口に至る部分を指す場合があるということだ。市川訳にある「鼻の下」がそれである。“upper lip”を「上唇」とした時点でそれまでの訳は意味がよく分からない訳になっていた。訳者自身もイメージが描けていなかったからだ。

鼻の下が長い顔ならイメージできる。伊藤雄之助嶋田久作のような顔である。容貌魁偉とでも言えばいいのだろうか。この点は市川訳のお手柄だが、後がいけない。“two enormous ditches that ran from his nostrils to the ends of his wide mouth.”を「笑うと顔の下半分は大きく開いた口と二列の歯だけとなり」と訳すことには無理がある。

“nostrils”も「鼻の穴、鼻孔」ではなく、「小鼻、鼻翼」と考えた方がいい。そこから口の両端に刻まれる二本の溝は、年齢のせいでできる「ほうれい線」ではなく、笑ったときにできる「笑いじわ」である。鼻の下が長いことで、小鼻から口の両端まで延びる「笑いじわ」もまた異様に長くなるのだ。笑う道化師の顔を思い浮かべてもらえば、マーロウが伝えたかったピーターズの容貌が理解できるだろう。

自分のオフィスを盗聴されてることについて「よく我慢できるな」と訊いたマーロウに、ピーターズが答えた決め台詞。

"Sit down, pal. Breathe quietly, keep your voice down, and remember that a Carne operative is to a cheap shamus like you what Toscanini is to an organ grinder's monkey."

「座れよ、相棒。一息ついて声を落とすんだ。それと、おまえみたいなけちな探偵にとってカーンの調査員は、手回しオルガン弾きの猿にとってのトスカニーニと同じだってことを忘れるな」

“an organ-grinder's monkey”とは、「(手回しオルガン奏者が連れている猿のように指示されたことだけをする)重要でない人、取るに足りない人」のことをいう決まり文句。街頭で手回しオルガンを弾くのはあくまでも人間であり、猿は金を集める係だ。オルガンを弾くわけではない。ところが、最新の市川訳ではこうなっている。

「まあ座れ。落ち着け。声を落とせ。我々カーン協会にとってあんたみたいなしがない探偵は、トスカニーニから見たオルガンを弾こうとして挽いちまう猿みたいなもんだ」

どうしてこんなことになったのか? これまでの訳を見て推理してみよう。

「かけろよ。カーン協会の人間が君のような安っぽい探偵と話をするのは、トスカニーニが街頭オルガン弾きの猿と話してるようなもんだぜ」(清水訳)

「まあ座れ。一息ついて、声を落とせ。カーン機関の調査員から見た君のような安物探偵は、トスカニーニから見たオルガン弾きの猿みたいなものだ」(村上訳)

「坐れよ、相棒。そして、静かに息をして、声は低くしろ。そうして思い出すんだ。<カーン>の調査員にしてみれば、おたくみたいな貧乏探偵はトスカニーニから見たオルガン弾きの猿みたいなものだということを」(田口訳)

清水訳では「街頭オルガン弾きの猿」だったものが、村上訳で、ただの「オルガン弾きの猿」に変わり、田口訳もそれを踏襲したことにより、市川訳に至っては、とうとう猿がオルガンを弾くことになってしまっている。“an organ-grinder's monkey”が「重要でない人、取るに足りない人」を指す常套句であることを、清水氏はともかく、他の訳者は知っていたのだろうか。辞書には“organ grinder”は「(街頭、大道の)手回しオルガン奏者」と載っている。“grinder”となっているのは、「手回し」だからだ。これを村上訳のように「オルガン弾き」と訳すのは適切ではない。

マーロウはカーン協会を訪れた要件をピーターズに話す。

I'd like to look at your file on the barred-window boys.(『鉄格子医(バード・ウィンドウ・ボーイズ)』に関するファイルを見たい)

“barred-window”は「格子のはまった窓」のこと。鉄格子といえば監獄だが、この”boys“は檻の中にいるのか、それとも外にいるのか。清水訳は、ずばり「もぐり(傍点三字)の医者」だが、格子との関係は詳らかではない。村上訳は『カゴの鳥ファイル』と「格子」を活かしている。「籠の鳥」なら、“boys”は鳥籠の中に入っていると考えられる。警察の厄介になったことがある医者という意味か。田口訳は「監禁部屋所有医(バ-ド・ウィンドウ・ボーイズ)」、市川訳は『格子窓持ちの紳士録』で、この場合”boys“は格子窓のついた部屋を持つ医者という意味だ。ただ、ファイルにある医者が監禁部屋を持っているという事実は本文では明らかにされていない。“the barred-window boys”という名称には「監禁部屋所有医」というより「拘禁待ちの野郎ども」というニュアンスが近いと感じられるが、どうだろう。

そのファイルをどうしたいんだ、とピーターズに訊かれたマーロウが答えて言う。

"I'm looking for a well-heeled alcoholic with expensive tastes and money to gratify them.”(金持ちのアル中を捜してる。そこに名を連ねる輩を喜ばせるのが何より好きという金のかかる趣味の持ち主だ)

“gratify”は「喜ばせる、満足させる」の意。清水訳は「もぐり(傍点三字)の医者を満足させる趣味を持っている金持ちのアル中患者の行方を捜しているんだ」と“them”を医者と採っている。ところが、村上訳は「酒浸りの男を捜している。金のかかる趣味を持っていて、それを満足させるだけの金を持っている」と、“them”が「それ(趣味)」に変わっている。田口訳も「金のかかる趣味を持っていて、その趣味に興じられるだけの金を持っている酒びたりの金持ちだ」と村上訳と同じだ。市川訳は「金持ちのアル中を探している。その男はこのリストの中の誰かさんに金と贅沢品をたっぷり貢いでるはずだ」とリストに言及している。リストにあるのはウェイドが潜んでいそうな施設を持つ医者の名だ。マーロウがいう“them”とは彼らのことでなければ会話が成立しない。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

”Desert Rose”は薔薇ではない。砂漠で採れる石だ。

14

【訳文】

翌朝、耳たぶについたタルカム・パウダーを拭いているとベルが鳴った。 玄関に行ってドアを開けると、一対のバイオレット・ブルーの瞳があった。 彼女は茶色のリネンを着て、赤唐辛子(ピメント)色のスカーフを巻いていた。イヤリングや帽子はなかった。 少し青ざめていたが、階段から突き落とされたようには見えなかった。 彼女はためらいがちな笑みを浮かべた。

「お邪魔するべきでないことは知っています、ミスタ・マーロウ。まだ朝食もとっていないでしょう。でも、オフィスには行きたくなかったし、私ごとを電話で話すのも憚られて」

「どうぞお入りください、ミセス・ウェイド。コーヒーでもいかがですか?」

彼女は居間に入ると他に目をやることもなくダヴェンポートに腰を下ろした。バッグを膝の上にのせ、両脚を揃えて座った。やけにとりすましているように見えた。私は窓を開け、ブラインドを上げ、彼女の前のカクテルテーブルから汚れた灰皿を片づけた。

「ありがとう。コーヒーをブラックでいただきます。砂糖抜きで」

私はキッチンに行き、緑色の金属トレイの上に紙ナプキンを広げた。セルロイドのカラーのように安っぽく見えた。私はそれをくしゃくしゃにして、小さな三角形のナプキンとセットになっている縁飾りのついたものを取り出した。ほとんどの家具と同じように、この家についてきたものだ。私はデザートローズのコーヒーカップを二つ並べ、コーヒーを入れてトレイを運んだ。

彼女は一口飲んで「とてもおいしい」と言った。「コーヒーを淹れるのがお上手なのね」

「最後に誰かと一緒にコーヒーを飲んだのはブタ箱入りの直前で」と私は言った。「私が留置場にいたのはご存じですよね、ミセス・ウェイド」

彼女はうなずいた。「もちろん。逃亡を手助けした疑いがかけられていたんですよね?」

「彼らは言わなかった。警察は私の電話番号が書かれたメモ・パッドを彼の部屋で見つけた。で、あれこれ質問してきたわけだが、私が答えられなかったのは、主にその質問の仕方のせいだ。でも、こんなことあなたは興味ないでしょう」

彼女は慎重にカップを下ろし、椅子に背をもたせ、笑みを浮かべた。私は煙草を勧めた。

「お構いなく、吸わないので。もちろん興味があります。隣人がレノックス家の知り合いなんです。彼は正気じゃなかったんだわ。そんなことができる人だとは思えません」

私はブルドッグ・パイプに煙草を詰めて火をつけた。 「そうですね」と私は言った。 「そうだったにちがいない。彼は戦争でひどい傷を負った。だが、彼は死んだ。すべて済んだことだ。それに、あなたがそのことを話すためにここに来たとも思えない」

彼女はゆっくりとかぶりを振った。 「彼はあなたの友人でした、ミスタ・マーロウ。 あなたははっきりした意見をお持ちのはず。あなたには確信があるように見えます」

私は火皿の中の煙草を押し固め、火をつけ直した。そうして手間をかけながら、パイプの火皿越しに彼女を見つめた。

「いいですか、ミセス・ウェイド」私はようやく言った。「私の意見など何の意味もない。毎日起きていることだ。ありえない人がありえない犯罪を犯す。穏やかな老婦人が一家全員を毒殺する。きちんとした青年が強盗や発砲事件を起こす。二十年間経歴に染みひとつなかった銀行の支店長が、長きにわたって横領していたことが発覚する。成功し、人気があり、幸せであるはずの小説家が酔っ払って妻を病院送りにする。私たちは、たとえ親友であっても、何が人の心を動かすのか、ほとんど知らない」

私の物言いが彼女をかんかんに怒らせるだろうと思ったが、彼女は唇を固く結び、目を細めただけだった。

「ハワード・スペンサーはあなたにあの話をすべきじゃなかった」彼女は言った。「あれは私のせい。近づかないように気をつけるべきだった。あれでひとつ教訓を得ました。飲み過ぎている男を止めようとしてはいけない。そんなことあなたのほうが私よりよくご存知でしょうけれど」

「たしかに言葉では止めることはできない」と私は言った。 「運が良くて、力があれば、時には本人や他の誰かを傷つけないようにすることもできる。 だとしても、運次第だ」

彼女は静かにコーヒーカップとソーサーに手を伸ばした。彼女の手は、他の部分と同様、美しかった。爪は美しく磨かれ、ほんのわずか色がついていた。

「ハワードは今回、夫に会っていないことを言いました?」

「ええ」

 彼女はコーヒーを飲み終えると、カップを慎重にトレイに戻した。しばらくのあいだスプーンをいじっていた。それから私のほうを見ることもなく話しだした。

「彼はその理由を言わなかった。なぜなら知らないから。私はハワードのことをとても気に入っているけど、彼は管理するタイプで、すべてを仕切りたがる。自分にそういう力があると思っている」

私は何も言わずに待った。また沈黙が訪れた。彼女は私をじっと見て、また目をそらした。彼女はささやくように言った。「夫は三日前から行方不明です。どこにいるのかわかりません。夫を見つけて連れ帰ってほしいとお願いするためにここに来ました。前にもあったんです。はるばるポートランドまで自分で車を運転して、そこのホテルで具合が悪くなって、素面にするのに医者を呼ばなければならなかった。どうやってトラブルに巻き込まれずにそこまで行けたのか不思議です。三日間何も食べていませんでした。別の時にはロングビーチにあるトルコ式浴場にいました。スウェーデン式の大腸洗浄をするようなところです。そして最後は、ある種の小さな民間の、おそらくあまり評判の良くない衛生施設でした。三週間も前のことです。彼は名前も場所も教えてくれず、ただ治療を受けていて大丈夫だと言っていました。しかし、彼は死にそうなほど青白く弱々しく見えた。私は彼を家に連れてきた男をちらっと見ました。舞台やテクニカラーミュージカル映画でしか見られないような、手の込んだカウボーイ服を着た背の高い若者です。彼はロジャーを私道に降ろすや否や車をバックさせてすぐに走り去りました」

「観光牧場だったのかもしれない」 と私は言った。「お抱えのカウボーイの中には、稼いだ金をすべてそのような派手な衣装に使うやつもいる。女性たちは彼らに夢中になる。やつらはそのために雇われている」

彼女はバッグを開け、折りたたんだ紙を取り出した。 「ミスタ・マーロウ、五百ドルの小切手を用意しました。依頼料として受け取ってもらえますか?」

彼女は折りたたんだ小切手をテーブルに置いた。私はそれを見たが、手はつけなかった。「どうして?」私は彼女に尋ねた。「家を空けて三日になると言いましたね。酔いを醒まし、食事を摂るには三、四日かかる。以前と同じように戻ってくるのでは? それとも、今回は何かがちがうんですか?」

「彼はこれ以上耐えられません、ミスタ・マーロウ。こんなことが続いたら死んでしまいます。間隔がどんどん短くなっている。とても心配で、心配というより怖ろしい。不自然です。 私たちは結婚して五年になります。ロジャーはいつもよく飲む人でしたが、病的なほどではなかった。何かがおかしい。彼を見つけたい。昨夜は一時間も眠れませんでした」

「彼が酒を飲む理由に心あたりは?」

菫色の瞳はじっと私を見ていた。彼女は今朝少し弱っているように見えたが、手の施しようがないというほどではなかった。彼女は唇をかんでかぶりを振った。「私のことを除けば」 彼女はほとんど小声でやっと言った。「男の人は妻に嫌気がさすのでは」

「私はただの素人心理学者です、ミセス・ウェイド。こんな稼業をしていれば、少しはそうでなければなりません。彼は自分の書いている物に嫌気がさした可能性の方が高いのでは」

「それはあるかもしれません」彼女は静かに言った。 「すべての作家がそのような呪縛に陥っていると思います。彼が執筆中の本を書き終えることができないように見えるのは事実です。しかし、家賃のためにそれを完成させなければならないわけではない。それだけでは十分な理由とは思えません」

「素面のときはどんな人ですか?」

彼女は微笑んだ。「まあ、かなり偏った見方になりますが、本当にいい人だと思います」

「酔っ払っているときは?」

「身の毛がよだつ。頭が冴えて、刺々しく残酷。気の利いたことを言ってるつもりが、ただ意地悪なだけ」

「暴力的、が抜けている」

彼女は黄褐色の眉を上げた。「たった一度です、ミスタ・マーロウ。そして、そのことがあまりにも独り歩きしすぎた。私はハワード・スペンサーに話したことはありません。ロジャーが自分で話したんです」

私は立ち上がって部屋の中を歩き回った。暑い日になりそうだった。すでに暑かった。私は日差しを防ぐために窓にあるブラインドをひとつ閉めた。そして、率直に言った。

「昨日の午後、紳士録で彼を調べました。彼は四十二歳、あなたとは初婚で子どもはいない。ニューイングランド出身で、アンドーヴァーとプリンストンに行った。戦歴もある。セックスと剣戟の歴史小説を十二作書いて、そのどれもがベストセラーリストに載った。さぞ儲かったにちがいない。もし妻に嫌気がさしたのなら、そう言って離婚するタイプのようだ。もし他の女と浮気していたとしても、あなたならそれに気づくはず。いずれにせよ、良心の咎めを証明するために酒を飲む必要はない。結婚して五年ということは、当時彼は三十七歳。その頃には女性について知っておくべきことはほとんど知っていたはずだ。ほとんどと言うのは、すべてを知っている人なんていないからです」

そこで話すのを止めて彼女を見た。彼女は微笑みを浮かべていた。感情を害してはいないようだ。話を続けた。

「ハワード・スペンサーは、こんなことを意っていた――何を根拠にしてかは知りません――ロジャー・ウェイドの問題は、あなたが結婚するずっと前に起こったことであり、それが今になって彼に追いつき、これまでよりもさらに激しく苛んでいるのではないかと。スペンサーは脅迫を考えているようだが、何か心あたりは?」

彼女はゆっくりとかぶりを振った。 「もし、ロジャーが誰かに多額の金を支払っていたかどうか知っていたかということなら、私は知りませんでした。 私は彼のお金に口出ししません。 彼は私が知らないうちに大金を払うことができます」

「なるほど。私はミスタ・ウェイドを知らない。強請られた彼がどう反応するか、見当もつかない。気性が荒ければ、誰かの首をへし折るかもしれない。秘密が、何であれ、彼の社会的または職業的地位を傷つけ、極端な場合、警察沙汰になる類いのものなら、彼は支払いに応じるかもしれない――少なくとも当座の間は。 しかし、あれこれ思案したところでどこにも行き着かない。 あなたは彼を見つけたいし、心配している。心配では済まないくらい彼の身を案じている。 それで、どうやって彼を見つけたらいいでしょうか?  金は要りません、ミセス・ウェイド。 とりあえず、今のところは」

彼女は再びバッグに手を突っ込み、黄色い紙を二枚取り出した。 書簡用紙のようだ。折りたたまれていて、そのうちの一枚はくしゃくしゃになっていた。 彼女はしわを伸ばして私に手渡した。

「一枚は彼の机の上で見つけたものです」と彼女は言った。 「夜遅く、というかもう明け方でした。彼が酒を飲んでいたことも、二階に来ていないことも知っていました。二時ごろ、下に行きました。彼が大丈夫か、もしくは比較的大丈夫で、床かカウチかどこかで酔いつぶれていないか確かめるために。彼はどこにもいなかった。もう一枚の紙は屑籠に入っていたというか、端に引っかかっていたので、中に落ちてはいませんでした」

私はくしゃくしゃにされていない最初の一枚を見た。そこには短い文章がタイプされ、こう書かれていた。

「私は自分に恋する気はないし、私が恋する相手はもはやどこにもいない。署名 ロジャー(F・スコット・フィッツジェラルド)・ウェイド。 追伸。これが私が『ラスト・タイクーン』を書き終えられなかった理由だ」

「何の意味かわかりますか、ミセス・ウェイド?」

「気取っているだけです。 彼はずっとスコット・フィッツジェラルドの大ファンでした。 フィッツジェラルドは、阿片中毒だったコールリッジ以来の最高の酔っぱらい作家だ、と彼は言います。 タイピングを見てください、ミスタ・マーロウ。 きれいでむらなく、タイプミスもありません」

「たしかに。酔っぱらったら大抵は自分の名前すらまともに書けない」くしゃくしゃになった方の紙を開けた。やはり誤字脱字のないタイピングでこう書いてあった。「きみが嫌いだ、ドクター・V。だが、今はきみが頼りだ」

私がまだそれを見ている間に彼女は話した。 「ドクター・Vが誰なのか全く分かりません。そのような名前で始まる医師を私たちは知りません。ロジャーが最後にいた場所の人でしょうか」

「カウボーイが彼を家に連れ帰ったときの? 何も聞いてないんですか?  場所とか施設名とか?」

彼女はかぶりを振った。「何も。電話帳を調べました。名前が V で始まる何らかの医者が何十人もいます。それに、姓ではないかもしれません」

「医者ですらない可能性が高い」と私は言った。 「その場合、まとまった現金が必要になる。まともな医者なら小切手を受け取るだろうが、もぐりの医者は受け取らない。それが証拠になりかねない。それに、連中の料金は安くない。提供される部屋と食事は高いものにつく。注射については言うまでもない」

彼女は不可解な顔になった。「注射?」

「怪しげな連中はみんな、客に麻薬を使う。一番簡単な方法だ。十時間でも十二時間でも眠らせておけば、目覚めたときにはいい子になる。しかし、無許可で麻薬を使えば、アンクル・サムに部屋代と食費を取られることになる。そして、それは実に高くつく」

「なるほど。ロジャーはおそらく数百ドルは持っているでしょう。彼はいつも机の中にそれだけのお金を保管しています。理由はわかりません。ただの気まぐれでしょう。今は何もありません」

「わかりました」と私は言った。「ドクター・Vを探してみます。方法はわかりませんが、できるだけやってみます。 小切手はしまってください、ミセス・ウェイド」

「でもどうして? あなたに仕事を――」

「あとでいいので、ありがとう。それに、私としてはミスタ・ウェイドからもらいたい。いずれにせよ、 彼は私のすることを気に入らないでしょう」

「でも、もし彼が病気でどうしようもなかったら」

「自分で医者を呼ぶこともできたし、あなたに頼むこともできた。彼はそうしなかった。つまり、そうしたくなかったのです」

彼女は小切手をバッグに戻し、立ち上がった。彼女はとても頼りなげに見えた。「かかりつけ医には、治療を断られました」と彼女は苦々しげに言った。

「医者なんて星の数ほどいますよ、ミセス・ウェイド。 誰でも一度は診てくれます。ほとんどの医者はしばらくはつきあってくれるでしょう。近頃は医者の世界も競争が激しい」

「なるほど、おっしゃるとおりです」彼女はゆっくりドアに向かった。私もついて行き、ドアを開けた。

「あなた自身が医者を呼ぶこともできたはず。どうしてそうしなかったんです?」

彼女はまっすぐに私を見た。両の眼が輝いていた。ほのかに涙を浮かべていたかもしれない。掛け値なしの美女だ。

「夫を愛しているからです。ミスタ・マーロウ。 私は彼を助けるためなら何でもします。 でも、彼がどんな男かも知っています。 お酒を飲み過ぎるたびに医者を呼んでいたら、夫は早晩私のもとを去っていくでしょう。 大人になった男を、喉が痛い子どものように扱うことはできません」

「酔っ払い相手ならできる。そうしなければならないことがしばしばある」 。彼女は私の近くに立っていた。彼女の香水の匂いを嗅いだ。あるいはそんな気がした。吹きつけたものではなかった。夏の日のせいかもしれない。

「彼の過去に何か恥ずべきことがあったとしましょう」と、彼女は言葉を引きずるようにして言った。まるでそのひとつひとつが苦い味でもするかのように。「たとえ犯罪に関わるようなものであったにせよ、私にはどうでもいいことです。だからといって、それを明るみに出すことに手を貸そうとは思いません」

「しかし、ハワード・スペンサーがそれを明るみに出すために私を雇うのは構わなかった?」 

彼女はとてもゆっくり微笑んだ。「あなたがハワードの依頼を受けるだろう、と私が踏んでいたとでも? 友人を裏切るくらいなら留置場に入る方がまし、と考えるような人が」

「お褒めに預かり恐縮です。だが、それで留置場に入れられたわけじゃない」

しばしの沈黙の後、彼女はうなずき、別れを告げると、セコイアの階段を下り始めた。私は彼女が車に乗り込むのを見た。スリムなグレイのジャガーで、とても新しそうだった。彼女はその車を通りの端まで走らせ、方向転換用のサークルで向きを変えた。車が丘をくだっていくとき、彼女の手袋が私に手を振り、小さな車はさっと角を曲って行ってしまった。

家の正面の壁の一部に赤い夾竹桃の茂みがある。その中で羽ばたく音がして、マネシツグミの雛が心配そうに鳴き始めた。てっぺんの枝に止まり、バランスを保つのに苦労しているかのように羽ばたいていた。塀の角の糸杉から、厳しい警告の鳴き声が一度だけ聞こえた。鳴き声はすぐに止み、丸々した小鳥は静かになった。

私は中に入ってドアを閉め、雛に飛ぶ稽古をさせてやった。鳥も学ばなければならない。

【解説】

第十四章は、アイリーン・ウェイドがマーロウの自宅にやって来て帰るまでの一幕。姿を消した夫の捜索にマーロウを引き入れようとする彼女の腕の見せ所。その登場シーンに、彼女の装いを描写した一文がある。

She was in brown linen this time, with a pimento-colored scarf, and no earrings or hat.

「ピメント」とは赤唐辛子のことだ。清水訳は「とうがらし(傍点五字)色」、村上訳は「朱色」。田口訳は「真紅」、そして市川訳は「パプリカ色」である。青唐辛子というのもあるが、普通「とうがらし」といえば「鷹の爪」のような赤を思い浮かべる。だから「真紅」はいいとしても「朱色」はいただけない。ましてや「パプリカ」は問題だ。近頃ではパプリカには黄色や朱色をしたものがある。「パプリカ色」で読者に正しく伝わるだろうか。

マーロウはキッチンに行き、コーヒーの支度をするが、紙ナプキンが気に入らない。

I went out to the kitchen and spread a paper napkin on a green metal tray. It looked as cheesy as a celluloid collar. I crumpled it up and got out one of those fringed things that come in sets with little triangular napkins. They came with the house, like most of the furniture. I set out two Desert Rose coffee cups and filled them and carried the tray in.

“cheesy”は「安っぽい」という意味の俗語。そこで取り換えるのが“one of those fringed things that come in sets with little triangular napkins”だ。ひとつ気になることがある。“one of those fringed things”の訳が「ふちに飾りのついたの(清水)」、「縁飾りのついたやつ(村上)」、「縁飾りのあるナプキン(田口)」と、これまでの訳では「ナプキン」と考えられていたものが、市川訳では「縁飾りのあるトレー」に代わっているのだ。

そこで、市川訳を読み返すと「キッチンへ行き、緑色のトレーにペーパー・ナプキンを敷いた。改めて見るといかにも安っぽい。プラスチックによくある色だったので、それはやめにして小さな三角ナプキンと組になっている縁飾りのあるトレーを出した」と書かれていることに気がついた。市川氏は“collor”(襟)を“color”(色)と読みまちがえたのだ。それだけではない。“metal”もトバしているし、“crumple up”(くしゃくしゃにする)も訳していない。ナプキンならくしゃくしゃにすることもできるが、金属製のトレイならそうはできない。そこで“crumple up”を「それはやめにして」と勝手に解釈してしまった。一つのケアレスミスが誤訳の連鎖を生んでいることがよく分かる。

もうひとつ気になる個所がある。それは“Desert Rose coffee cups”についてだ。清水訳では「上等のコーヒーカップ」とされていたが、村上訳で「デザート・ローズのコーヒーカップ」になった。それでよかったものを、田口訳が「デザート・ローズ柄のカップ」にし、市川訳も「デザート・ローズが描かれたコーヒーカップ」にしている。ここでいう「デザート・ローズ」は、カリフォルニアのフランシスカンというメーカーが当時販売していたテーブル・ウェアのシリーズ名だ。更に言うなら「デザート・ローズ」というのは、薔薇の名前ではなく砂漠地帯で採れる薔薇の花に似た形状を持つ石の名前である。

マーロウがこの日手にしているパイプは“bulldog pipe”。清水訳はただの「パイプ」。村上、田口訳は「ブルドッグ・パイプ」。ところが市川訳では「チェコ製の凝ったパイプ」になっている。パイプにはその材質や形状によってそれぞれ名前がついている。ブルドッグ・パイプもそのひとつだ。市川訳の「チェコ製の凝ったパイプ」がどこから来たのかは知らないが、ブルドッグ・パイプなら今でも市販されている。

訪問の真の理由を語り出すときのアイリーンの様子がマーロウの視点で描かれる。

She reached quietly for her coffee cup and saucer. Her hands were lovely, like the rest of her. The nails were beautifully shaped and polished and only very slightly tinted.

どうということのない一文だが、アイリーン・ウェイドという女性の所作にマーロウがよく目を留めているのが分かる。「彼女はコーヒーのカップと皿にそっと手をのばした」(清水)。「彼女は静かにコーヒーカップに手を伸ばした」(村上)。「彼女はコーヒーに手を伸ばした」(田口)。「彼女はすーっとコーヒーカップとソーサーに手を伸ばした」(市川)。ミセス・ウェイドが座っているのはダヴェンポートと呼ばれる大型のソファだ。コーヒーが置かれたのはカクテル・テーブルで、少し距離がある。こぼしたりしないようにソーサーを添えるのはちょっとした気遣いというものだ。マーロウの目にそう映っているのなら、ここはそのまま訳すべきところだろう。

別れ際、二人の距離が近くなり、マーロウは気のせいか、香水の香りを嗅いだ気がした。

She was standing close to me. I smelled her perfume. Or thought I did. It hadn't been put on with a spray gun. Perhaps it was just the summer day.

“just the summer day”とはどういう意味なのか? 

「噴霧器でふりかけているはずはなかった。夏の日だからだったかもしれない(清水)」。「香水をふんだんにふりかけるタイプではない。夏の日にわずかに忍ばせるだけだ(村上)」。「いずれにしろ、ふんだんにかけられていたわけではない。夏に咲く花のように軽やかな香りだった(田口)」。「香水だとしてもスプレーで吹き付けたんじゃない。夏の日にだけほんのすこし匂うくらいだ(市川)」

汗と混じると香水の香りは悪くなるから、夏はつける場所に気をつける。また、香水は気温が高いほどよく香るので、夏に冬と同じ量の香水をつけると、強く香りすぎてしまう、という。ミセス・ウェイドは季節を考えて量やつけ方に気を配っているのだろう。空気中にひと吹きして、その中をくぐるという方法がお勧めだそうだ。それだと香りが強くなりすぎるのを防げるらしい。いずれにせよ、この場面のアイリーンは、好感度の高い女性として描かれている。

彼女がジャガーに乗って帰るとき、一度通りの端まで行き、方向転換してくる。

She drove it up to the end of the street and swung around in the turning circle there. Her glove waved at me as she went by down the hill, The little car whisked around the corner and was gone.

田口訳は「彼女は通りのつきあたりまで走ると、方向転換サークルで向きを変えた。坂道をくだって戻ってきた彼女の小さな車は角を軽快に曲がると姿を消した」となっている。残念なことに、“Her glove waved at me”が抜け落ちている。何度も言及されている手袋をあえてトバすはずがない。ケアレスミスだろう。最後に手を振るのは見送る相手に対する親愛の情の表現である。あるとないとでは、マーロウの気持ちの持ち方も変わってくる。清水訳でも村上訳でも、手袋は振られている。最後の見直しで気づかなかったのだろうか。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

山羊はビール瓶の破片を食べるか?

13

【訳文】

午前十一時には別館のダイニングルームから入って右側の三番目のブースに座っていた。壁を背にしていたので、出入りする客を見ることができた。よく晴れた朝で、スモッグはなく、上空の霧もなく、眩いばかりの陽光が、バーのガラス窓のすぐ外からダイニング・ルームの一番奥まで続くプールの水面をぎらつかせていた。白いシャークスキンの水着を着た、官能的なスタイルの若い女が飛び込み台の梯子を登っていた。 日に灼けた腿と水着の間に白い肌が帯のようにのぞいているのをそそられる思いで見た。やがて彼女は屋根のオーバーハングに遮られ、視線から消えた。しばらくすると鮮やかに一回転半して水に飛び込むのが見えた。水しぶきは高く上がって太陽を浴び、女と同じくらいきれいな虹ができた。それから彼女は梯子を登って白い帽子の紐を外し、脱色した髪を振りほどいた。 尻をふりながら小さな白いテーブルに向かい、白いツイルのパンツにサングラス姿の木こり風の男の隣に座った。真っ黒に日焼けしていてどう見てもプールの作業員にしか見えなかった。彼は手を伸ばして彼女の太腿を叩いた。彼女は消火バケツのような口をあけて笑った。彼女に対する私の関心は失せた。声は聞こえなかったが、馬鹿笑いで顔にぽっかり空いた穴を目にすれば十分だった。

バーはかなり空いていた。三つ先のブースでは、隙のない身ごなしの二人組が互いに金の代わりに両腕のジェスチャーを使って二〇世紀フォックスに自分を売り込んでいた。二人の間のテーブルの上に電話があり、二、三分おきに、どちらがホットなアイデアを電話でザナックに伝えるか勝負していた。彼らは若く、髪は黒々とし、熱心で、活力に満ちていた。 電話での会話に、私が太った男を階段で四階まで運ぶのと同じくらい筋肉を働かせていた。悲しげな顔をして ストゥールに腰掛けバーテンダーと話している男がいた。バーテンダーはグラスを磨きながら、悲鳴を上げまいとするときに人が見せるあのつくり笑いを浮かべて話を聞いていた。客は中年で、身なりはよく、酔っていた。 彼は話したがっていた。たとえ本当は話したくなかったとしても、止めることはできなかった。 礼儀正しく気さくで、聞こえた限りでは呂律も回っていたが、よくいる、朝起きたら酒瓶に手を伸ばし、夜眠りに落ちるときだけ手から放すタイプだった。きっと一生そうなのだろう。それが彼の人生だった。どうしてそんなことになったのか知るすべもない。もし彼が話したとしてもそれは真実ではない。よくってせいぜい、彼がそう思い込んでいる真実の捻じ曲げられた記憶だ。世界中のどこの静かなバーにも、そういう悲しい男がいる。

時計を見ると、この出版社のお偉方はすでに二十分の遅刻だった。半時間待っても来なかったら帰るつもりだ。客の言いなりになるのは決して得策ではない。言うことを何でも聞くやつは誰の言うことでも聞く、とそいつは考える。そんな人間を雇うやつはいない。生憎だが今のところ、それほど食うに困ってはいない。東部から出てきたうすのろに馬丁扱いされる気はない。その手の重役タイプは、ずらりと並ぶ押しボタンやインターコムのある八十五階のパネル張りのオフィスにいて、ハティ・カーネギーのキャリア・ガールズ・スペシャルを着た末頼もしい大きな瞳の秘書を侍らせ、相手には九時きっかりに来るように言いつけておいて、自分はダブルのギブソンをひっかけて、二時間遅れでふらっと顔を出したとき、相手が愛想笑いを浮かべて畏まっていなければ、怒りによる発作で管理能力を失い、もとのように威圧的な態度に出られるまでに、五週間はアカプルコで静養する必要がある。

年配のウェイターがやってきて、私の薄くなったスコッチの水割りをそれとなく見た。私が首を振ると彼は白髪頭をひょいと下げた。まさにそのとき、夢が入ってきた。バーの中には音もなく、二人組みは動きを止め、ストゥールの酔っぱらいはしゃべるのをやめた。まるで指揮者が譜面台を叩き、両腕を上げて静止した直後のようだった。

彼女はすらりと背が高く、注文仕立ての白いリネンの服を着て、首に黒と白のポルカドットのスカーフを巻いていた。髪は妖精の王女のような淡い金色だった。小さな帽子の中に淡い金色の髪が鳥の巣のように収まっていた。瞳は矢車菊の青という稀に見る色で、睫毛は長く、目に見えないほど淡かった。彼女が向こう側のテーブルにたどり着き、肘までの白い手袋をはずしていると、年配のウェイターが、私のためには絶対にしないであろうやり方でテーブルを引いた。彼女は座り、手袋をバッグのストラップの下に滑り込ませ、どこまでも優しく、この上なく混じりけのない笑みを浮かべて彼に礼を言った。それで彼はほとんど麻痺状態になった。彼女にとても小さな声で何か言われ、彼は前かがみになったままそそくさと立ち去った。人生においてほんとうの使命を持った男がそこにいた。

私はじっと見つめた。 彼女がそれに気づき、視線を半インチほど上げたとき、私はもうそこにいなかった。 しかし、どこにいようと私は息を凝らしていた。

一口にブロンドと言ってもいろいろで、近頃ではうっかりブロンドなどと口にしたらジョーク扱いだ。どんなブロンドにもそれなりの良さがある。たぶん、地毛の色がわからなくなるほど脱色され、舗道のようにソフトな手触りの金属的な髪を別にすれば。小鳥のようにさえずる小柄でキュートなブロンドもいれば、淡青色(アイスブルー)のひと睨みで人を寄せつけない大柄で彫像のようなブロンドもいる。 素敵な香りを漂わせて腕に凭れ、思わせぶりにちらちら目線をくれながら、家まで送っていくと決まって「もうくたくた」と言い出すブロンドがいる。大仰な仕種で頭痛のひどさを訴えられると引っぱたきたくなるが、多くの金と時間と希望を浪費する前に頭痛持ちとわかって良しとするべきなのだろう。なぜなら、頭痛は常に傍にあって、錆つきも目減りもしない、刺客の短剣やルクレツィアの毒瓶同様、命取りの凶器だからだ。

ガードが低くノリのいい酒好きなブロンドもいる。ミンクさえ着ていればそれでよく、《スターライト・ルーフ》のようなドライ・シャンパンがふんだんに飲めるところなら、どこへでも喜んでついてくる。小柄で気立てのいいブロンドがいる。対等な友人関係を好み、陽気で常識を備え、柔道の心得があり、サタデー・レビューの社説を一文たりとも読み落とすことなしにトラック運転手を背負い投げできる。命にかかわるほどではないが治る見込みもない貧血症の淡くはかなげなブロンドがいる。物憂げで影が薄く、その声はどこからともなく聞こえてくる。こんな女には指一本触れられない。なぜなら、第一にそうしたくないし、第二に彼女はいつも『荒地』やダンテの原書、カフカキェルケゴールを読むか、プロヴァンス語を勉強しているからだ。音楽にも造詣が深く、ニューヨーク・フィルヒンデミットを演奏しているとき、六人のコントラバス奏者のうち四分の一拍遅れて入ってきたのは誰かを言い当てることができる。トスカニーニもできるらしい。彼女は二人目だ。

そして最後に、眼のさめるような傑作が待っている。この手のブロンドは三人のギャングのボスを看取り、その後一人頭百万ドルの百万長者二人と結婚し、アンティーブ岬にあるペール・ローズ色の別荘、正副運転手つきのアルファ・ロメオのタウンカーを手にし、零落した貴族たちに取り巻かれるようになる。彼女は誰にでも、老公爵が執事に「おやすみ」を言うような、丁寧だが心のこもらない態度で接することになる。

向かいの席に座っている夢はそのどれでもなく、そのような世界に属してもいなかった。彼女は分類不可能で、山の水のように遠く人里離れて澄んでいて、その色のようにとらえどころがなかった。私がまだ見つめていると、肘のあたりで声がした。

「とんでもなく遅くなった。申し訳ない。こいつの所為でね。私はハワード・スペンサー。きみがマーロウだね」

私は振り返って彼を見た。小太りの中年男で、服装には無頓着のようだが、きれいに髭を剃り、薄くなりかけた髪は耳の間に広がった頭の上で丁寧に後ろになでつけられている。派手なダブルブレストのヴェストを着ていた。おそらくボストンからの旅行者でもなければ、カリフォルニアではめったにお目にかかれない代物だ。 縁なしの眼鏡をかけ、古ぼけたブリーフケースをポンポン叩いていた。どうやら「こいつ」らしい。

「手に入れたばかりの三冊分の原稿でね。フィクションだ。没にする前に失くしでもしたら厄介だからね」彼は年配のウェイターに合図した。ウェイターはちょうど背の高い緑色の何かを夢の前に置いたところだった。「ジン・オレンジに眼がないんだ。実にばかばかしい種類の飲み物だが、一緒にどうかな? 」

私がうなずくと年配のウェイターは立ち去った。私はブリーフケースを指さして言った。「そいつを没にするとどうしてわかるんだ?」

「もしそれが良いものなら、作家が直接私のホテルに置いていくはずがない。ニューヨークのどこかのエージェントがとっくに押さえてる」

「それならなぜ受け取る?」

「一つには相手の感情を傷つけないため。一つには千にひとつのチャンスというものがあるから。すべての出版人はそのために生きてるんだ。だが大抵はカクテルパーティーのせいさ。あらゆる種類の人に紹介されるが、中には小説を書いている人もいる。酒に酔った勢いで、人類への慈悲深い愛に満たされ、その原稿をぜひ見てみたいと言うと、その原稿はうんざりするような速さでホテルに届けられ、読まざるを得ない破目に陥る。 しかし、きみは出版社やその問題に興味などないだろう」

ウェイターが飲み物を運んできた。スペンサーは自分の飲み物を手に取り、ひとくち飲んだ。彼は向かいの黄金の娘(ゴールデン・ガール)には気づかなかった。彼の視線はすべて私に注がれていた。人と接することに長けた男だった。

「仕事の一部なら」と私は言った。「たまには本くらい読むさ」

「うちの最も重要な作家の一人がこの辺りに住んでいるんだ。たぶん、きみも彼の作品を読んだことがあるだろう。ロジャー・ウェイドだ」

「ああ」

「言いたいことはわかる」彼は悲しげに微笑んだ。「きみは歴史ロマンスに興味などない。だが爆発的に売れてるんだ」

「言いたいことなど何もない、ミスタ・スペンサー。彼の本を一度だけ読んだことがある。くだらないと思った。私なんかが言っちゃいけないことかな?」

彼はにやりと笑った。「いや、全然。多くの人がきみに同意するだろう。だが重要なのは、今のところ、彼が出すものは放っておいてもベストセラーになるということだ。そして、どの出版社も、そんな作家を一人二人抱えてる必要があるんだ。今のコスト事情ではね」

私は黄金の娘に目をやった。彼女はライムエードか何かを飲み終え、小さな腕時計とにらめっこしていた。バーは少し満席になりつつあったが、まだ騒々しいほどではなかった。隙のない二人組はまだ手を振っていたし、バーのストゥールに腰かけた一人の酔客には連れが二人いた。私はハワード・スペンサーを振り返った。

「あんたの抱えてる問題と関係があるのか?」私は彼に尋ねた。「ウェイドという男が?」

彼はうなずいた。彼は私を入念にチェックした。「ミスタ・マーロウ、もし差支えなければ、きみのことを少し教えてくれないか」

「どんなことを? 私は免許を持つ私立探偵で、この業界では長いほうだ。一匹狼で、独身、中年になりかけで、金はない。留置場には何度も入ったことがあるし、離婚がらみの仕事は受けない。酒と女とチェスが好きで、他にもいくつか好きなものがある。警官にはあまり好かれていないが、反りが合うのも一人二人いる。生粋のサンタローザ生まれで、両親とは死別、兄弟姉妹もいない。いつか暗い路地で殺されるようなことになったとしても、この業界ではままあることだし、そもそも最近はどんな仕事をしていようが、いなかろうが、誰にでも起こりうることだ。それで悲嘆にくれる者は誰もいない」

「なるほど」と彼は言った。「でも、私の知りたいことのすべてを教えてくれてはいない」

私はジン・オレンジを飲み終えた。私の好みではなかった。私はにやりと笑った。「一つ言い忘れたことがある、ミスタ・スペンサー。私はポケットの中にマディソンの肖像画を持っている」

「マディソンの肖像画? 残念ながら、私には何のことやら――」

「五千ドル札のことさ」と私は言った。「いつも持ってるんだ。幸運のお守りだ」

「それはそれは」彼は囁き声で言った。「危険じゃないのか?」

「誰が言ったのだったかな。ある一点を超えるとすべての危険は均等になる、と」

「ウォルター・バジョットだったと思う。煙突や尖塔の修理工について言ってたんじゃないか」 そしてにやりと笑った。 「すまない、私は出版人なんでね。きみならまちがいなさそうだ、マーロウ。きみに賭けてみよう。もしそうしなかったら、きみは私にくたばれって言うんじゃないか?」

私はにやりと笑い返した。彼はウェイターを呼んで酒のおかわりを注文した」

「実は」 と彼は慎重に言った。「ロジャー・ウェイドの件で大変なことになっている。本を書き終えることができないんだ。何かのせいで仕事に対する意欲を失いつつある。このままでは壊れてしまう。酒と持ち前の気質のせいでひどい発作を起こす。時には何日も姿を消す。少し前には夫人を階下に放り投げて入院させた。肋骨が五本折れていた。二人の間には通常の意味でのトラブルは全くない。様子がおかしくなるのは酒を飲んだときだけだ」スペンサーは椅子の背にもたれ、憂鬱そうに私を見た。「あの本を完成させなければならない。どうしても必要なんだ。私の仕事はそれにかかっていると言っていい。しかし、それ以上に必要なことがある。私たちが救いたいのは、これまでしてきたことよりもはるかに優れたことをなし得る、非常に有能な作家なのだ。何かが非常にまちがっている。今回の旅では、彼は私に会おうとさえしない。精神科医に診てもらった方がいいのだが、夫人は同意しない。彼女は、彼は完全に正気だが、何かが死ぬほど心配なのだと確信している。例えば脅迫者だ。ウェイド夫妻は結婚して五年になる。過去の何かが彼を追いつめているのかもしれない。あるいは――勝手な推測だが――致命的なひき逃げ事故を起こして、誰かに弱みを握られているのかもしれない。それが何なのかはわからない。知りたいのだ。そして、そのトラブルを解決するために、十分な報酬を支払うつもりだ。もしそれが医学的な問題だとわかれば、それでいい。そうでなければ、何か答えがあるはずだ。その間、夫人は保護されなければならない。彼は次に彼女を殺すかもしれない。ひょっとしたらね」

二杯目が来た。私は手をつけず、彼が一口で半分を飲み干すのを見た。私は煙草に火をつけ、ただ彼を見つめた。

「探偵はいらないな」と私は言った。「欲しいのは魔法使いだ。いったい私に何ができる? もし折よくその場に居合わせたとして、私の手に負えないほどタフでなければ、ノックアウトしてベッドに寝かしつけられるかもしれない。しかし、運よく、その場に居合わせなければならない。そんなことは百にひとつもあり得ない。わかってるだろう」

「彼はきみと同じ背格好だ」とスペンサーは言った。「が、コンディションがちがう。それに常駐することだってできる」

「無理な話だ。酔っ払いは狡猾だ。私の隙を見てばか騒ぎをしでかすかも知れない。看護師の仕事がしたいわけじゃない」

「看護師など役に立たない。ロジャー・ウェイドは看護師を受け入れるような男じゃない。非常に才能のある男だが、今は自制心のおさまりが悪くぐらついている。低レベルな読者に合わせて屑みたいな小説を書いて金を稼ぎすぎたんだ。しかし、作家にとっての唯一の救いは書くことだ。彼の中に何か良いものがあれば、それはおのずと出てくるだろう」

「いいだろう。彼のことはわかった」私はぐったりして言った。「恐ろしいほど才能があり、同時にひどく危険でもある。後ろ暗い秘密を抱えていて、それをアルコールで紛らわそうとしている。悪いが、私の出る幕はなさそうだ。ミスタ・スペンサー」

「なるほど」 彼は心配そうに顔をしかめて腕時計を見たが、それは彼の顔をより老けて小さく見せた。 「無駄骨を折らせたが、悪く思わないでくれ」

彼は分厚いブリーフケースを取ろうと手を伸ばした。 私は黄金の娘を遠巻きに眺めた。 彼女は出ていく準備をしていた。 白髪のウェイターが勘定書きを手に彼女の傍をうろついていた。 彼女は彼に金を払い、素敵な笑顔を見せた。彼は神と握手したかのように見えた。 彼女は口紅を直し、白い手袋に手を伸ばした。ウェイターは彼女が外に出られるようにテーブルを部屋の中程まで引いた。

私はちらっとスペンサーを見た。彼は眉を顰めてテーブルの端の空っぽのグラスを見下ろした。ブリーフケースを膝の上に置いていた。

「ほら」と私は言った。「私はその男に会いに行って、品定めしてみるよ、あんたがそうしてほしいならね。奥さんとも話してみる。けど、家から放り出されるのが落ちだろう」

スペンサーではない声がした。「いいえ、ミスタ・マーロウ。そうは思いません。かえって彼はあなたのことが気に入ると思います」

私は菫色の双眸を見上げた。彼女はテーブルの端に立っていた。私は立ち上がりかけてブースの背に尻を押しつけた格好のままでいた。狭いブース席を立つ際には端まで尻を滑らせなければならないことを忘れていた。

「どうぞそのままで」と、彼女は夏の雲に裏地をつけるのに使うような声で言った。「お詫びしなければならないのはわかっていますが、自己紹介をする前に、あなたを一目見ておきたかったんです。私はアイリーン・ウェイドです」

スペンサーは不機嫌そうに言った。「彼は興味がないよ、アイリーン」

彼女は優しく微笑んだ。「私はそうは思わない」

私は自分を取り戻した。それまで狼狽えて中腰で立ったまま、卒業したての初心な少女のようにぽかんと口を開けて息をしていたのだ。ほんとうに美しかった。近くで見る彼女にはほとんど茫然とさせられた。

「興味がないとは言っていない、ミセス・ウェイド。私が言った、あるいは言おうとしたのは、私が役に立てるとは思えない、それに私を頼るのは大間違いで、むしろ大きな犠牲を払うことになるかもしれない、ということだ」

彼女は今や、とても真剣だった。笑顔は消えていた。「結論を下すのが早すぎます。何をするかで人を判断してはいけない。もし判断するとしたら、その人が何であるかということでなければならないのでは」

私はかすかにうなずいた。それはまさに私がテリー・レノックスについて考えていたことだった。事実、塹壕での一瞬の栄光の閃きを除けば彼は何の取り柄もない男だった。それも、メネンデスが真実を語っていたとしての話だ。しかし、どう考えても事実は全てを物語ってはいなかった。彼は憎めない男だった。一生のうちに、そう言える人間に何人出会えるだろう?

「そのためには、その人のことを知らなければならない」と彼女は穏やかに言い添えた。「さようなら、ミスタ・マーロウ。もし気が変わったら―― 」彼女は素早くバッグを開け、私に名刺を差し出した――「それと、来てくれてありがとう」

彼女はスペンサーに軽くうなずいて立ち去った。私は彼女がバーを出て、ガラス張りの別館を抜けてダイニングルームに向かうのを見送った。身ごなしも美しかった。ロビーに通じる拱道の下を曲がるとき、最後に白いリネンのスカートが翻るのが見えた。そして私はブースに身をゆだね、ジン・オレンジを手に取った。

スペンサーが私を見ていた。彼の眼に何やら厳しいものが浮かんでいた。

「上出来だ」と私は言った。「が、たまには彼女のことも見るべきだった。あんな夢のようなものを、部屋の向かい側に置いたまま二十分も気づかずに座っていられるわけがない」

「迂闊だった」彼は笑おうとしていたが、本当に笑いたいわけではなかった。私が彼女を見る目つきが気に入らなかったのだ。「人は私立探偵と聞けば身構えるものだ。ましてやそれが家の中にいると思うと――」

「あんたの家に押しかける気はないよ」と私は言った。 「とにかく、もっと別の話をひねり出すべきだった。酔っていようが素面だろうが、あんなすごい美人を階段から突き落として肋骨を五本も折る人間がいるなんて話を吹き込むより、彼女のためにもっとましなことができたはずだ」

彼は顔を赤くした。ブリーフケースを握る手に力を込めた。「私が嘘をついていると?」

「いいじゃないか。あんたは自分の仕事をしただけさ。あのレディのこととなると、あんたは少し熱が入り過ぎるんだ、たぶん」

彼は急に立ち上がった。「その言い方は気に入らんね」と彼は言った。「きみと馬が合うとは思えない。悪いがこの話はなかったことにしてくれ。これが私が支払うべきだと思う、応分の料金だ」

彼は二十ドル札をテーブルに放り、ウェイターのためにいくらか添えた。

彼はしばらく立ったまま私を見下ろしていた。目は輝き、顔はまだ紅潮していた。「私は結婚していて、四人の子持ちだ」と唐突に言った。

「それはそれはご同慶の至りだ」

彼は一瞬喉声を立てたが、背を向けて立ち去った。かなりの早足だった。私はしばらく見ていたが、やがて見るのをやめた。残りの酒を飲み干し、煙草の箱を取り出して、一本振り出すと口にくわえて火をつけた。年配のウェイターが近づいてきて、金に目をやった。

「何かお持ちしましょうか?」

「もう結構だ。それは全部あんたのものだ」

彼はゆっくり札を手に取った。「二十ドル札です。お連れの方がまちがえられたのでは」

「彼は字が読める。金はすべてあんたのものだ」と私は言った。

「ありがとうございます。ですが、本当にそれでよろしいので――」

「それでいいんだ」

彼は軽くお辞儀をして心配そうな顔のまま立ち去った。 バーは混んできていた。遊びはしても最後の一線は越えない、今流行りの半処女(デミ・ヴァージン)らしき二人が手を振り、ぺちゃくちゃ喋りながら通り過ぎた。ブースの奥にいる二人のやり手の連れらしい。甘ったるい声と真っ赤な爪の色に店の空気が染まり始めていた。

私は煙草を半分吸い、わけもなく顔をしかめ、立ち去ろうとした。置き忘れた煙草を取りに戻ろうとしたとき、後ろから何かが強くぶつかってきた。まさにお誂え向きの獲物だった。振り向くと、たっぷり襞をとったオックスフォード・フランネルに身を包んだ、尻の大きな受け狙いタイプの男の横顔があった。人気者のように腕を広げ、人の気をそらさない商売上手特有の飛び切りの笑みを浮かべていた。

伸ばした腕をつかんで振り向かせた。「どうした? あんたのような大物には通路が狭すぎるってのか?」

彼は腕を振りほどいて強がって見せた。「大口叩いてると、顎を外す羽目になるかもしれんぞ」

「はっは」 私は言った。 「そっちこそ、ヤンキースでセンターを守って、ブレッドスティックでホームランを打てるかもな」

彼は拳を握り固めた。

「ダーリン、マニキュアに気をつけて」と彼に言った。

彼は自分の感情を抑えた。「知ったことか、小生意気な」と彼は鼻で笑った。「また今度相手してやるよ、もっと暇なときにな」

「今より暇になれるのか?」

「とっとと失せろ」彼は怒鳴った。「今度何か言ったら、歯にブリッジが必要になるぞ」

私はにやりと笑いかけた。「その時は電話してくれ。次はもっとしゃれた台詞を頼むぜ」

風向きが変わった。彼は笑った。「映画(ピクチャー)に出てるのか? あんた」

「写真(ピンナップ)だけさ。郵便局に貼ってある類いの」

「じゃあ、また顔写真のファイルの中で」と言って彼は歩き去った。まだ笑っていた。

愚にもつかないやりとりだったが、それで気が晴れた。私は別館を抜け、ホテルのロビーを横切って正面玄関に向かった。途中で立ち止まってサングラスをかけた。アイリーン・ウェイドからもらった名刺を思い出したのは、車に乗ってからだった。浮出し加工されたものだったが、名のみ記された社交用名刺ではなく、住所と電話番号が記されていた。ミセス・ロジャー・スターンズ・ウェイド。アイドル・ヴァレー・ロード一二四七。電話番号アイドル・ヴァレー五ー六三二四。

アイドル・ヴァレーのことはよく知っていた。入り口に門番小屋があり、私設警察がいて、湖にカジノがあり、五十ドルの娼婦がいた頃とはずいぶん変わったことも知っていた。カジノの閉鎖後、静かな金が一帯を引き継いだ。静かな金がそれを小分けの夢にした。湖と湖畔はクラブが所有し、クラブに入らなければ水遊びもできない。単に費用がかさむという意味ではなく、言葉に最後に残された意味で排他的だった。

私などアイドル・ヴァレーでは、バナナ・スプリットに乗ったパール・オニオンみたいなものだ。

午後遅く、ハワード・スペンサーから電話があった。彼は怒りが収まったようで、申し訳なかった、この状況にあまりうまく対処できなかった、と言いたかったようだが、私に考え直してもらいたかったのかもしれない。

「本人が会いたいというなら会うよ、そうでなければお断りだ」

「わかった。それなりのボーナスを考えている」

「いいか、ミスタ・スペンサー」 と私は焦れて言った。「金で運命は買えない。ミセス・ウェイドが夫を怖がっているのなら、家を出ればいいことだ。それは彼女の問題だ。四六時中、夫からその妻を守ることは誰にもできない。そんな保護をしてくれるところは世界のどこにもない。しかし、あんたが望むのはそれだけじゃない。なぜ、どのように、そしていつ、その男が道を外れたのかを知り、そして二度と同じことをしないように修正したいのだ――-少なくとも本を書き終えるまでは。それは彼次第だ。本が書きたいのなら、書き上げるまで酒を断つことだ。あんたは多くを望みすぎだ」

「同じことなんだ」と彼は言った。「すべての問題の根はひとつだ。でも、わかる気がするよ。これはきみに依頼するには少し微妙過ぎる仕事のようだ。では、さようなら。今夜の飛行機でニューヨークに戻るよ」

「よい旅を」

彼はありがとうと言って電話を切った。二十ドルはウェイターにやったというのを忘れていた。かけ直して教えようかと思ったがやめた。彼はすでに十分みじめな思いをしていた。

私はオフィスを閉め、テリーからの手紙にあったように、ギムレットを飲みにヴィクターの店へ向かった。途中で気が変わった。あまり感傷的な気分にはなれなかった。ローリーの店でマティーニを飲み、代わりにプライムリブとヨークシャー・プディングを食べた。

帰宅後、テレビをつけて試合を見た。役立たずどもで、アーサー・マレーの下でダンスを教えているのがお似合いだった。ジャブを繰り出し、ダッキングを使い、フェイントをかけてバランスを崩し合うだけだ。どちらも、うたたね中の祖母が目を覚ますほどの強打は打てなかった。観客はブーイングを浴びせ、レフェリーは手を叩いてファイトを促したが、選手は体を小刻みに動かして防御しつつ、たまに左の長いジャブを出し続けた。私はチャンネルを替え、犯罪ドラマを見た。クローゼット並みの狭いセットで撮られ、役者の顔はくたびれ、見飽きたものばかりで見映えしなかった。台詞は三流映画でさえ使わないような代物だった。探偵にはおどけ役として黒人のハウスボーイが付いていた。そんなものはいらなかった。探偵一人で充分笑えた。コマーシャルはといえば、鉄条網と割れたビール瓶には馴れっこの山羊さえ気分が悪くなりそうな代物だった。

テレビを切り、しっかり巻かれたロングサイズの煙草を吸った。ひんやりとして喉に優しかった。上質の煙草の葉が使われていたが、銘柄は忘れた。そろそろ寝ようと思ったとき、殺人課のグリーン部長刑事から電話があった。

「お友だちのレノックスが二日前に埋葬された。彼が死んだあのメキシコの町だ。知りたいんじゃないかと思ってな。遺族を代表して弁護士が当地に出向き、埋葬に立ち会った。今回はラッキーだったな、マーロウ。この次、国外逃亡する友人を助けようと思ったら、よしにすることだ」

「弾痕はいくつあった?」

「どういうことだ?」と彼の声が大きくなった。しばらく間が開いた。それから、かなり慎重にこう言った。 「一つ、だろう。頭を吹っ飛ばすなら、普通それで足りる。弁護士が指紋一式とポケットの中の何やかやを持ち帰る。他に知りたいことは?」

「いや、だが教えちゃくれまい。誰がレノックスの妻を殺したか、だ」

「おやおや、彼が自白を残した、とグレンツは言わなかったのか? 新聞にも書いてあっただろう。もう新聞は読まないことにしたのか?」

「電話をありがとう、部長刑事。ご親切に感謝するよ」

「いいか、マーロウ」と彼は耳障りな声で言った。「この件に関して妙な考えを抱いてるようだが、下手に騒ぐと自分の首を絞めることになるぞ。事件は一件落着、判子が押されて、お蔵入りだ。幸運だったと思うことだ。この州じゃ、事後従犯は軽くて五年だ。もうひとつ教えといてやろう。長い警官暮らしで、ひとつ学んだことがある。ム所送りになるのは、必ずしもそいつが何かをやったか、で決まるわけじゃない。法廷に持ち込まれたとき、いかにそいつがやったように見せることができるか、で決まるんだ。おやすみ」

電話は受話器がまだ耳元にある間に切れた。受話器を架台に戻しながら思った。正直な警官は良心の呵責を感じると、いつも強面になる。 不正直な警官もそうだ。 それを言うなら、誰もが似たり寄ったりだ。私を含めて。

【解説】

マーロウがアイリーン・ウェイドに初めて会う場面。ブロンドに関する蘊蓄や、バーの客相手の寸劇がいささか煩わしい。事態が自分の思惑通りに進まないことに対する不満の反映であることや、一種の読者サービスであることも分かるが、いくら独白にせよ、主人公の探偵がいたずらに自分の心情を語り過ぎるところがある。それが好きな人は別にして、それを嫌う人の気持ちもわかる。何はともあれ、チャンドラーらしさの横溢した章である。その冒頭部分。

At eleven o'clock I was sitting in the third booth on the right-hand side as you go in from the dining-room annex.

「十一時に、私は食堂から入って右側の三番目のブースに坐っていた」と初訳で書かれて以来、ずっと右側とされてきたマーロウの座ったブースが、市川訳では「一一時、私はホテルのレストランからバーに入って左手奥、三番目のブースに座っていた」と改変されている。それもご丁寧に「リッツ・ビバリー・ホテルのバー」なる挿絵入りで。ホテル名は架空のものだから、モデルとされるホテルを想定しての図だろうが、原文に“right-hand side”とあるのをわざわざ「左手」に変える必要がどこにあるのか。

よく晴れた気持ちのいい朝のホテルは、誰の気分も開放的にする。マーロウは水着姿の若い女に目を留める。プールから上がった女の行方を追うマーロウ。

She wobbled her bottom over to a small white table and sat down beside a lumberjack in white drill pants and dark glasses and a tan so evenly dark that he couldn't have been anything but the hired man around the pool.

気になるのは男が穿いている“white drill pants”だ。清水訳では「白いパンツ」になっている。これなら分かる。村上訳は「ぴったりした白い水着」、田口訳は「白いショートパンツ」、市川訳は「白い短パン」だ。“drill”とは太綾織りの生地で織られた頑丈な織物のことで作業着などに用いられる。日本では葛城(カツラギ)と呼ばれている。そう考えると水着でも短パンでもなく、長ズボンではないか。

これは“the hired man around the pool”とあるので、てっきり「プールの監視員」だと思い込んだ村上訳のせいだ。清水訳は正確に「プールにやとわれている男」となっている。田口訳も村上訳と同じ「プールの監視員」、市川訳の「プール係」がどんな仕事かはよく分からないが、プールの係なら短パンと考えたのだろう。

なぜそこにこだわるのかといえば、“lumberjack”、“drill pants”、“ the hired man”と連ねるあたりに、階級的視点が垣間見えることだ。マーロウが女に興味を失うのは、その女が当のプールに雇われている男と同じ階層の女、つまり、客である自分が相手をする女ではないと見切ったからだ。無論、この後に登場するアイリーンの価値を高めるための対比として引っぱり出されているので、女に責任はない。あまり趣味の良くない対比だと思うが、本人にその意識がないだけ質(たち)が悪い。

バーには客がいた。二人の映画関係者がマーロウの目に留まる。

Three booths down a couple of sharpies were selling each other pieces of Twentieth Century-Fox, using double-arm gestures instead of money.

“shrpie”が曲者だ。ふつうは「抜け目のないやつ、詐欺師」という意味だが、俗語には「いきに着こなした人」という使い方もある。清水訳が「はで(傍点二字)な服装の男」、村上訳が「いかにもやり手風の二人の男」、田口訳が「いかにもやり手といった風情のふたりの男」、市川訳は「はしこそうな二人」だ。電話での話し声がかろうじて聞こえる距離にいる初対面の男たちだ。二人に関する見識がもうひとつある。

They were young, dark, eager and full of vitality.

四人の訳者が“dark”をどう訳しているか見てみよう。「二人とも、若くて、いき(傍点二字)がよく、精力的だった」(清水)。「二人とも若く、日焼けして、意欲まんまん、元気いっぱいだった」(村上)。「ふたりとも若く、髪は黒く、生命力とエネルギーにあふれており」(田口)。「二人とも若く、浅黒く、意欲的で気迫に満ちていた」(市川)。清水訳だけが“dark”を保留している。納得できる訳語が思いつかなかったのだろう。

この二人組に関して、マーロウは自分と比べ、若さと活力に溢れている点を眩しく感じている。そこに、肌や髪の色に関する情報が果たして必要だろうか、と清水氏は思ったにちがいない。そう考えるのもわかる。肌の色はともかく、髪の色なら年齢と関係してくる。マーロウは少し年を取りかけている。そろそろ白髪が気になる頃かもしれない。そうなると、この“dark”、ただの黒髪ではなく、白髪の混じっていない黒々とした髪とも考えられる。

待ち合わせ相手が遅れているので、マーロウはその男がどんな人間か想像を働かせている。自分は遅刻しておきながら、もし約束をすっぽかされたらどんなふうになるか、以下はマーロウの妄想である。

he would have a paroxysm of outraged executive ability which would necessitate five weeks at Acapulco before he got back the hop on his high hard one.

「そうならないと烈火のごとく怒り出す。そんな偉そうなことをやっていればさすがに神経がおかしくなり、アカプルコで五週間ばかり羽をのばす必要が生じる。そうやって活力を取り戻し、また目いっぱい肩肘を張った生活に復帰するのだ」(村上訳)

「発作を起こす。怒りまくったお偉方にしか真似のできない発作だ。こいつはそういうタイプだ。アカプルコで五週間の休暇を取って生気を取り戻し、帰ってきてはひとに不快な思いをさせるタイプ」(田口訳)

「大物ならではの、ものすごい癇癪を破裂させるのだ。そして機嫌を直してその大物さん曰くの、難しく、厳しい相談事を引き受けてもらうには、アカプルコで五週間、なだめたりおだてたりしなければならないのだ」(市川訳)

翻訳をするくらいだから、英語には詳しいのだろうが、その自信があるため、つい辞書を引くことを怠り、よく分からない訳文をこしらえてしまう羽目になる。そのあたり、清水氏はよく心得ており、君子危うきに近寄らず、とばかりトバしてしまう。ここもそうだ。

市川訳の「難しく、厳しい相談事」の原文が“high hard one”。これは野球からきたスラングの一つ。「高めの威力のある球」とは、ストライクゾーンの高い位置、またはそれより上に送られる速球であり、そのスピードと打者の顔や頭への近さのため威圧的な球のこと。そこから、恐ろしいことや苦痛なことを表す表現になった。“hop on”は俗語で「叱る」だから、“before he got back the hop on his high hard one”は「彼が相手に苦痛を与える𠮟り方ができるようになるまで」という意味だ。さすがに田口訳は勘所をおさえている。

The old bar waiter came drifting by and glanced softly at my weak Scotch and water.

市川訳では「ウィスキーのオン・ザ・ロック」になっている“Scotch and water”は「スコッチの水割り」でしかない。わざとやってるのか、と疑いたくなる改変が市川訳にはどうしてこうも多いのだろう。

バーにアイリーンが現れ、マーロウの金髪女(ブロンド)に関する蘊蓄が披露される。

There are blondes and blondes and it is almost a joke word nowadays.

“There are A and A”というのは「よいAもあれば悪いAもある、同じAと言ってもいろいろだ」という意味。「珍しくない(清水)」、「掃いて捨てるほどいる(村上)」、「いくらでもいる(田口)」、「どこにでもいる(市川)」というのとは少しちがう。その悪いブロンドの一例がはじめに登場する。

All blondes have their points, except perhaps the metallic ones who are as blond as a Zulu under the bleach and as to disposition as soft as a sidewalk.

「どの金髪にもそれぞれ特色があった。ただ一つの例外は漂白した金属のような金髪で、その性格は舗道のように味わいがない」(清水訳)

「どの金髪にもそれぞれ長所がある。ただしメタリックな金髪は別だ。そんな漂白したズールー族みたいな色あいのものを金髪と呼べるかどうか怪しいものだし、性格だって舗装道路並みにごつごつしている」(村上訳)

「どんなブロンドにもいいところがある。ただしメタリックなブロンドは別だが。あれは肌を漂白したズールー族みたいなブロンドだ。性格のほうも歩道並みに″ソフト”と相場が決まっている」(田口訳)

「金髪にはそれぞれ個性があってそれぞれ違った魅力がある。但し、車のメタリック塗装みたいなブロンドは別だ。ズールー族が髪を漂白してでっち上げたような金髪でおまけに見た目はふわっとスタイリッシュだが舗装道路みたいにガチガチに固められている」(市川訳)

問題は“Zulu”にある。「ズールー族ズールー人」のことを指すのは言うまでもないが、黒人を軽蔑して言う俗語でもある。原文重視という観点からはそのまま訳すべきなのかもしれないが、清水訳のような先例もある。あえて忠実に訳す必要があるかどうか疑問が残る。もう一つは“disposition”だ。市川訳をのぞいて「性格」と訳されているが、「傾向、質(たち)」ではないか。“Zulu”がアフリカ系アメリカ人のことを指しているとすれば、漂白しても縮毛はそのままだ。これは人の性格ではなく髪質を指しているのではないだろうか。

There is the soft and willing and alcoholic blonde who doesn't care what she wears as long as it is mink or where she goes as long as it is the Starlight Roof and there is plenty of dry champagne.

清水訳では「ガラス天井の下」村上、田口訳では「高級(ナイト)クラブ」、市川訳は「星降るテラス」となっているが、頭文字が大文字であることから考えれば“the Starlight Roof”は実際にある店で、おそらくニューヨークのマンハッタンにあるホテル、ウォルドルフ=アストリアのナイトクラブのことだろう。当時ここの天井は可動式で、暖かい夏の夜には格納され、客は星空を眺めながらマティーニが飲めたという。

金髪談義についてはいろいろな意見もあるだろうが、個人的には冗長に感じられ、正直読んでいて楽しめない。ただ、かつて乗っていたことのある車については一言言っておきたい。

And lastly there is the gorgeous show piece who will outlast three kingpin racketeers and then marry a couple of millionaires at a million a head and end up with a pale rose villa at Cap Antibes, an Alfa-Romeo town car complete with pilot and co-pilot, and a stable of shopworn aristocrats, all of whom she will treat with the affectionate absent-mindedness of an elderly duke saying goodnight to his butler.

「アルファロメロのタウンカー」(市川訳)などという車は存在しない。ローマ字読みで読んでも“Romeo”は「ロメオ」だ。市川訳にはこういう初歩的なミスがやたらと目につく。蛇足ながら、タウンカーとは主にアメリカでの呼び方で、昔の馬車の形式を残した運転手と乗客の間が仕切られた大型車のことである。アルファロメオはもともと競走用に作られた車だ。オーナーが運転を他人に任せて後部に座るなんてことは考えていない。アルファロメオのオーナーなら自分でステアリングを握りたいと思うはずだ。そういう車に正運転手のみならず、控えの運転手まで備えて(complete with pilot and co-pilot)という部分を含め、金の使い方を知らない成りあがりを揶揄ったのだろう。

いよいよアイリーンがマーロウと顔を合わせる時が来た。立ち上がりかけて無様な格好のままでいるマーロウに彼女がかけた言葉。

"Please don't get up," she said in a voice like the stuff they use to line summer clouds with.  

「お立ちにならないで」と、彼女はやわらかい声で言った。(清水訳)

「どうぞお立ちにならないで」と彼女は言った。夏の雲を描くときに使う刷毛を思わせる声だった。(村上訳)

「どうぞ立ち上がらないで」夏雲の輪郭線を描くときに使う画材のような繊細な声だった。(田口訳)

「どうぞそのままで」とその女性は言ったが、その口調はまるで夏の雲に整列、と命令するように、あからさまにどうでもいいといった調子だった。(市川訳)

“line”には村上、田口訳のように「描線、輪郭線」の意味がある。しかし、声の様子を表現するときに画材を持ち出すのは、あまりうまいやり方とは思えない。まだ、市川訳のように“line”を「並べる」と取る方が理に適っている。ただ、「命令するように、あからさまにどうでもいいといった調子」というのは解釈が恣意的で納得がいかない。

“silver lining in the clouds”という言い回しがある。「(地上から見た灰色の)雲の後ろ側で銀色に輝く裏地」という意味で、雲に遮られていてもその裏には陽が指していることをいう。比喩的には「希望の兆し」を表す。“line”と“clouds”が並んでいたら頭に浮かぶのはこの文句だ。“line〜with”は、「(~に)裏をつける、(〜を)裏打ちする」という意味だ。マーロウとスペンサーの話し合いは雲行きが怪しくなりかけていた。そこにアイリーンから声がかかった。あまりの美しさにしびれたようになっているマーロウには、立ちこめた暗雲の裏に銀色の裏地が見えた気がしたのではないか。うまくいけばアイリーンと親しくなれるかもしれない、という希望の兆しを感じさせてくれる声だったのかもしれない。

アイリーン・ウェイドから渡された名刺について。

“It was an engraved card, but not a formal calling card, because it had an address and a telephone number on it.”

「浮きぼりの印刷の名刺だったが、住所と電話番号が刷りこんであるから、訪問用の正式なものではない」(清水訳)

「立派な浮き彫り印刷だったが、社交用のしるし(傍点三字)だけの名刺ではない。住所と電話番号がちゃんと記されていた」(村上訳)

「エンボス加工されたものだったが、書かれているのは住所と電話番号だけのごく普通の名刺だった」(田口訳)

「見ると浮出し印刷の名刺だった。けれどもビジネス用ではなかった。自宅の住所、電話番号と名前が印刷されていた」(市川訳)

電話が普及していない時代、相手の家を訪問する際には名前だけが記された社交用の名刺を訪問先の執事に手渡すのが正式な儀礼とされていた。これが社交用の名刺即ち“formal calling card”だ。時移り、当人同士が名刺交換するようになると、ビジネス用に役職や会社名が印刷されたものが現れる。これがビジネス用名刺“business card”である。時代が変わるにつれ、名刺を取り巻く事情も変化し、名刺が持つ本来の意味が分からなくなってくるのがよく分かる。皮肉なことに清水訳が最も原文に近い。

何をしても心愉しまないマーロウがテレビのコマーシャルについて触れた言葉。

And the commercials would have sickened a goat raised on barbed wire and broken beer bottles.

「そして、あいだにはさまれた広告は鉄条網とビールびん(傍点二字)の破片で育てた山羊でさえ病気になりそうなひどいものだった」(清水訳)

「そして間に入るコマーシャルときたら鉄条網とビール瓶の破片を餌に育てられた山羊たちでさえ身体を壊してしまいそうな代物だった」(村上訳)

「さらにコマーシャルはと言うと、鉄条網とビールびんのかけらを餌にして育てられた山羊すら腹を壊しそうな代物だった」(田口訳)

「合間に入るコマーシャルときたら有刺鉄線とビール瓶のかけらをベッドにして育った筋金入りの鈍感野郎でさえ耐えられないしろものだった」(市川訳)

あらためて、この章を読んで感じたのは、清水訳の精度の高さだった。分からない部分は無理に訳さず、理解できるところは原文に忠実に訳す「述べて作らず」の態度を貫いている。それに比べると、村上訳は本人が作家であるせいもあってよく分からない部分は自分が「作って」しまうところがある。久方ぶりの新訳を謳った村上訳につられたのか、田口訳はもろにその波をかぶっている。市川訳はそれまでの訳から距離を置いているのはわかるが、「作る」点においては村上訳さえかなわない。

“raised on〜”は「〜で育つ」という意味だ。”raised on baseball”なら「野球に親しんで育つ」くらいの意味で、生育環境について語る場合に使われる。清水訳なら「鉄条網とビールびんの破片(の中)で育てた」と読めなくもない。だが、村上訳になると、この山羊は「鉄条網とビールびんのかけら」を食べさせられたことになる。いくら誇張した表現が好きなチャンドラーでもガラス片を餌にしようとは思わない。瓶の破片は土塀の上に埋め込んで
使う、鉄条網の同類。つまり、生き物に対する思いやりを欠いた状況下で育った、という意味だ。市川訳はさすがに食べさせはしないようだが、山羊を飼うのに有刺鉄線と瓶のかけらをベッドにする必要がどこにあるというのか。

テレビを消した後、寝る前に一服するマーロウ。いつもとは違うタイプの煙草らしいが…。

I cut it off and smoked a long cool tightly packed cigarette. It was kind to my throat. It was made of fine tobacco, I forgot to notice what brand it was.

「私はテレビを切って、さわやかな味のする、かたい包装の長いタバコに火をつけた。のどを刺戟しないタバコで、良質の葉からつくられたものだ。名前を見るのは忘れた」(清水訳)

「テレビを消し、密に巻かれたクールな長いシガレットを吸った。それは喉に優しかった。どういうブランドだったか見忘れてしまったが」(村上訳)

「私はテレビを消し、きつく巻かれたメンソール味のロングサイズの煙草を吸った。咽喉にやさしい煙草だ。煙草の葉がいいのだ。ブランド名は忘れたが」(田口訳)

「テレビを消して冷蔵庫に保存してあった新品のタバコを取り出し、封を切り一服した。いがらっぽいところがなく、喉に優しかった。上質なタバコの葉が使われていた。銘柄を見るのを忘れた」(市川訳)

“smoked a long cool tightly packed cigarette”が訳者によってどれほど解釈が異なるかがよく分かる。清水訳の穏当さがよく分かる。村上訳は“It was made of fine tobacco”が抜けているし、田口訳は“cool”が勝手に「メンソール味」にされている。市川訳は“long cool”を「冷蔵庫に保存してあった」、“tightly packed”を、「新品の」(未開封だからぎっしり詰まっている)と解釈したのだろう。なかなかユニークな発想だが、ハードボイルドの探偵が煙草を冷蔵庫に保存する姿は想像し難い。村上訳の「クールな」は翻訳としては安易だと思うが、案外、いちばん原文に忠実な訳かもしれない。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“swing arm”はキツツキの翼か?

12

【訳文】

その手紙は階段の下にある赤と白に塗られた巣箱の形をした郵便受けに入っていた。支柱から張り出した腕木に取り付けた巣箱の屋根の上でいつもは寝ているキツツキが起きていた。それでも、ふだんなら中を覗かなかったかもしれない。自宅に郵便物が届くことなどないからだ。ところが、キツツキの嘴の先がなくなっていた。折れ口は新しかった。どこかのはしっこい子が手製の原子銃で吹っ飛ばしたのだ。

手紙には航空便(Correo Aéreo)と記され、メキシコの切手がべたべた貼られ、手書きの文字が並んでいた。はたと思い当たったのは、最近メキシコのことがずっと気になっていたからかもしれない。手押しの消印はスタンプ台がインク切れ寸前のようで判読できなかった。手紙は分厚かった。私は階段を上り、居間に腰を落ち着けて手紙を読んだ。その夜はとても静かだった。おそらく死者からの手紙は、それ自体が静寂をもたらすのだろう。

手紙は日付も前置きもなしに始まっていた。

あまりきれいとは言えないホテルの二階の部屋の窓辺に座っている。オタトクランという、湖のある山間の町だ。窓のすぐ下に郵便ポストがある。ボーイが注文したコーヒーを持ってきたら、手紙を投函するよう頼むつもりだ。投函口に入れる前に私に見えるよう、手紙をかざすように。そうしたら、百ペソ札が手に入る。ボーイにとってはすごい大金だ。

なぜそんな小細工を? 尖った靴を履き、汚れたシャツを着た色の浅黒い人物がドアの外でこちらを見張っている。そいつは何かを待っている。何を待っているのかわからないが、ぼくを外に出してくれない。手紙さえ投函されれば、どうということはない。このお金はきみに持っていてほしい。ぼくには必要ないし、持っていてもどうせ地元の警察に盗られてしまうから。何かを買うためのものではない。迷惑をかけたことへの謝罪と、まっとうな男への敬意の印だ。例によってぼくはあらゆる下手を打ったが、銃はまだ持っている。ぼくの勘では、きみはおそらくある点について心を決めているのではないかと思う。ぼくが彼女を殺したのかもしれない、多分やったのだろうが、それ以外のことはとてもやれそうにない。あんな残忍なことは、ぼくの柄じゃない。そこのところが非常に苛立たしい。だが、そんなことはどうでもいい。今大事なのは、不必要で無駄なスキャンダルを省くことだ。彼女の父親も妹も、ぼくによくしてくれた。彼らには彼らの人生があり、ぼくは自分の人生に心底うんざりしている。シルヴィアがぼくを屑にしたわけではない。ぼくははじめから屑だった。彼女がなぜぼくを選んだのか、よくわからない。ただの気まぐれだろう。少なくとも、彼女は若くして美しいまま死んだ。よく情欲は男を老けさせ、女を若く保つというが、世迷いごとだ。また、金持ちはいつでも自分の身を守れて、彼らの住む世界は常夏だとも。ぼくは彼らと一緒に暮らしたことがあるが、退屈で孤独な人々だった。

告白文を書いた。 気分がよくないし、かなり怯えてもいる。 このような状況については本で読んだことがあるだろうが、真実は本で読むことはできない。 我が身にそれが起こったとき、残されたものはポケットの中の銃だけで、見知らぬ国の汚い小さなホテルに追い詰められ、そこから出ていく道が一つしかないとき、嘘じゃない、そこに高揚感や劇的なものは一切ない。 あるのは、ごまかしようのない不快、卑しさ、陰鬱さ、惨めさだけだ。

だから忘れてくれ、事件のこともぼくのことも。だが、まずはヴィクターの店でギムレットを飲んでくれ、ぼくのために。次にコーヒーを淹れるとき、ぼくのためにカップに一杯注いでくれ、バーボンも加えて。煙草に火をつけてカップの横に置いてくれ。それが済んだらすべて忘れてくれ。テリー・レノックス、これにて退場。では、さようなら。

ドアにノックの音がする。コーヒーを持ったボーイだろう。さもなければ、銃撃戦になるだろう。概してメキシコ人のことは好きだが、メキシコの監獄は好きになれない。じゃあな。

テリー

それがすべてだ。私は手紙を折りたたみ封筒に戻した。ノックしたのはコーヒーを持ったボーイだったにちがいない。でなければ、この手紙を手にすることはなかっただろう。マディソン大統領の肖像も。マディソン大統領の肖像は五千ドル札だ。

ぱりっとした緑色の紙幣が目の前のテーブルの上にあった。こんなものを目にするのは初めてだ。銀行で働く人々の多くも見たことがないだろう。ランディ・スターやメネンデスのような人物なら持ち歩くこともあるかも知れない。銀行に行って、欲しいと言っても、置いていないだろう。連邦準備銀行から手に入れなければならず、届くのにおそらく数日かかる。アメリカ全土でも千枚ほどしか流通していない。私のはいい輝きを放っていた。自分専用の小さな陽光を創り出していた。

私は座ったまま長い間それを眺めていた。ようやく紙幣をレターケースにしまうと、キッチンにコーヒーを淹れに行った。感傷的であろうがなかろうが、頼まれた通りのことをするまでだ。二つのカップにコーヒーを注ぎ、彼のカップにバーボンを加え、空港に連れて行った朝、彼が座っていたテーブルの脇に置いた。コーヒーが立てる湯気と、煙草から立ち上る細い一筋の煙を見ていた。外の凌霄花ノウゼンカズラ)の繁みの中で一羽の鳥があちこち飛び回り、低い声でさえずったり、時折短く羽ばたいたりしていた。

やがてコーヒーが湯気を立てるのをやめ、煙草の煙も消え、灰皿の端でただの吸い殻になってしまった。吸い殻をシンクの下のごみ入れに捨てた。コーヒーを捨て、カップを洗って片づけた。

それで終わり。とても五千ドルに値する仕事とは思えない。

そのあとレイトショーを観に行った。何の意味もなかった。騒音と顔の大写しばかりで、何が起きているのかほとんどわからなかった。家に帰ってから、だらだらとルイ・ロペスをやりかけたが、それも何の意味もなかった。だからベッドに行って寝ることにした。

だが、眠れなかった。午前三時、部屋の中をうろつきながら、トラクター工場で働くハチャトゥリアンを聴いていた。彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいるが、私なら緩んだファンベルトと呼ぶだろう。うんざりだ。

私にとって眠れない夜というのは太った郵便配達夫と同じくらい珍しい。ミスタ・ハワード・スペンサーとリッツ・ベヴァリーで会うことになっていなければ、ボトルを一本空けて酔いつぶれていたことだろう。そして、今度ロールズロイス・シルヴァー・レイスに乗った礼儀正しい酔っぱらいを見かけたら、急いで姿をくらまそうと思う。自分で自分にかけた罠ほど命取りなものはない。

【解説】

マーロウの家にテリーから手紙が届く。手紙は重要な伏線になっている。その書き出しのパラグラフが難物である。どうってことのない文なのだが、日米の風物の違いがことをわかりにくくしている。

The letter was in the red and white birdhouse mailbox at the foot of my steps. A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised and even at that I might not have looked inside because I never got mail at the house. 

まず、“birdhouse mailbox”は「鳥の巣の形をしている郵便箱(清水訳)」ではなく「鳥の巣箱の形をした郵便受け」のことである。村上、田口訳はそうなっている。ところが、市川訳では「その手紙は道路際、家への外階段ののぼり口にある、赤と白に塗られた郵便受けに入っていた。先っぽにキツツキの飾りがついている蓋の取っ手が上がっていた。これまでは、たとえ蓋が開いていても中を覗き込むようなことはしなかった」と、「鳥の巣箱」に関する言及が抜け落ちているばかりでなく、郵便受けについても勝手な改変がなされている。

“A woodpecker on top of the box attached to the swing arm was raised”だが、“was raised”(上げられていた)のは何かといえば“A woodpecker on top of the box attached to the swing arm”(スイングアームに取り付けられた箱の上のキツツキ)である。この「スイングアーム」が日本人にはよく分からない。旧訳でもそこのところが妙な訳になっていた。

「箱の上のきつつき(傍点四字)がひっくりかえっていて蓋があいていた」(清水訳)
「箱の上にはキツツキがついていて、郵便物が入っているというしるしに、その翼が上に向けられていた」(村上訳)
「郵便受けには造りもののキツツキがのっていて。郵便物があると。その翼を広げた恰好になるのだが」(田口訳)

アメリカの郵便受けは道路脇に立てられた支柱から横に張り出した腕木の上に設置されていることが多い。この水平に張り出した腕木がスイングアームだ。その上に鳥の巣箱の形をした郵便受けがのっている。巣箱には屋根がつきもので、その屋根の上にキツツキがのっている。犬小屋の上で昼寝をしているスヌーピーのように、普段は横になっているのかもしれない。中に郵便物が入ってるときはそれを立てる仕組みなのだろう。村上氏は、スイングアームを鳥の翼だと考え、田口氏もそれを踏襲したのだろうが、キツツキが最もキツツキらしく見えるのは翼を広げた姿ではなく、翼を閉じて足で立ち、木の幹を突っついている立ち姿である。だから“raise”(持ち上げる、引き揚げる)する必要があったわけだ。

郵便受けから取り出した手紙についての描写。訳者によって微妙に解釈が異なる。

The letter had Correo Aéreo on it and a flock of Mexican stamps and writing that I might or might not have recognized if Mexico hadn't been on my mind pretty constantly lately.

「封筒にはメキシコの切手がたくさん貼(は)ってあった。もっとも、メキシコの切手とわかったのは、メキシコのことがずっと頭にあったからかもしれなかった」(清水訳)

「手紙にはスペイン語で「航空郵便(コレオ・アエレオ)」と書いてあり、メキシコの切手がたくさん貼ってあった。もしここのところメキシコがこれほど頻繁に話題にのぼっていなかったなら、私がその筆跡に思い当たることはあるいはなかったかもしれない」(村上訳)

「”航空郵便(コレオ・アエレオ)”と書かれていて、メキシコの切手がいっぱい貼ってあった。このところメキシコのことを始終考えていた。そうでなければ書かれていた文字に何も思い当たらなかったかもしれない」(田口訳)

「封筒には航空便のスタンプと、メキシコの切手がベタベタ貼られ、なにやらスペイン語で書かれていた。このところ頭の隅にいつもメキシコが引っかかっていた。そうでなかったらゴミ郵便として捨ててしまったかもしれない。いや、そんなことはしないかも」(市川訳)

これまでの訳では、“that”の直前にある“writing”がなおざりにされてきた。清水訳では「メキシコの切手とわかった」と、切手しか眼中にない。村上訳では「筆跡」と解されているが、訳文を読む限り「その筆跡」が示しているのは「航空郵便」の文字としか読めない。しかし、市川訳でも分かるように、ふつう「航空郵便」はスタンプで押される。ここでいう“writing”は宛名などの表書きのことだろう。田口訳も同様で、突然「書かれていた文字」と言われても読者には何のことやらよく分からない。ここは一言あってしかるべきだろう。市川訳の「何やらスペイン語で書かれていた」もよく考えてみたら変で、封筒に書かれているのは自分の住所と名前のはずだ。

テリー・レノックスの手紙の中で、追いつめられた現在の心境を吐露している部分。

there is nothing elevating or dramatic about it.

「とても劇的なものなんか感じられない」(清水訳)
「そこには心高ぶるものもないし、ドラマチックなものもない」(村上訳)
「そこには心昂るものもドラマチックなものも何もない」(田口訳)
「そうなったらそれは気分を高揚させるようなものでも大向こうをうならせるものでもない」(市川訳)

市川氏は“dramatic”=劇的=「大向こうをうならせる」と考えたのだろう。しかし、「大向こう」とは、「芝居小屋の向う桟敷の後方、舞台から最も遠い客席のこと(また、そこに座る客)」を指し、安価なため何度でも足を運ぶことができる、そういった席を選ぶ芝居通をも感心させるほどの名演であることを意味する言葉だ。演技の巧拙を論じる言葉であって、状況が劇的であるかどうかとは何の関係もない。訳者はよくわからないままに使ったのではないか。

テリー・レノックスに頼まれた通り、やるべきことをすませてもマーロウの心は晴れない。普段の生活に戻ろうとするマーロだったが、映画にもチェスにも集中できない。

When I got home again I set out a very dull Ruy Lopez and that didn't mean anything either.

清水訳の「家へ帰ると、ルイ・ロペスのものういメロディのレコードをかけたが、やはりなんの感興もおぼえなかった」も、今となっては懐かしいが、村上訳が「再び帰宅し、ひどくだらだらしたルイ・ロペス(チェスの古典的な開始法)にとりかかったのだが、こちらにも集中できなかった」として以来、ルイ・ロペスは定着したものと思っていた。田口訳が、あえてそこを「家に帰ると、チェスの駒を基本的なオープニングの形に並べたものの、それもなんの意味もなかった」としたのは、チェスに疎い日本人読者の事情を考慮してのことだろう。読書の興をそぐので、註はできるだけ使いたくないものだ。

ところが、市川訳は「家に戻ると一番ありきたりなチェスの定石、ルイ・ロペツを並べてみた。並べたはいいがやる気が起きなかった」と、耳になじみのない「ルイ・ロペツ」という名前を出してきた。どこから引いてきたのかは知らないが、チェスのオープニングについて言及する場合、「ルイ・ロペス」の表記が一般的だ。無用な混乱は避けるのが賢明だろう。

珍しく眠りに就けないマーロウは、部屋の中を歩き回りながら音楽を聞くが何を聴いても心休まらない。ここでいうハチャトリアンのヴァイオリン協奏曲はニ短調だろうが、ひどい言われようだ。

He called it a violin concerto. I called it a loose fan belt and the hell with it.

「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいた。私にいわせればベルトのゆるんだ送風機だが、そんなことはどうでもよかった」(清水訳)

村上訳では「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と称していたが、私としては「緩んだファンベルトと、それがもたらす苦闘」とでも呼びたいところだ」となっていた。逐語訳が好きな村上訳らしい。“the hell with”は「どうなっても構わない、まっぴらだ、うんざりだ」という意味。田口訳では「彼はそれをヴァイオリン協奏曲と呼んでいるが、私にはたるんだファンベルトの音にしか聞こえない。そんなものはクソ食らえだ」と元に戻している。市川訳も「彼はそれをバイオリン・コンチェルトと呼んだが、私には緩んだファンベルトの音にしか聞こえなかった。まあ、どうでもいい」だ。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“perfect score”は「満点」のこと

11

【訳文】

朝、髭を剃り直し、服を着て、いつものようにダウンタウンに車を走らせ、いつもの場所に車を停めた。私が時の人であることを駐車場係が知っていたとしたら、素振りさえ見せないプロの仕事だった。私は二階に上がり、廊下を通ってドアの鍵を開けた。色の浅黒い、世なれた風の男がこちらを見ていた。

「マーロウか?」

「だとしたら?」

「ここにいろ」と彼は言った。「あんたに会いたがってる人がいる」彼は壁から背中を引き剥がし、気だるそうに歩き去った。

オフィスに入り、郵便物を拾い上げた。机の上にはもっとあった。夜の掃除婦が置いたのだ。窓を開けてから封を切り、要らないものを捨てた。ほとんど残らなかった。もうひとつのドアのブザーの電源を入れ、パイプに煙草を詰めて火をつけ、ただそこに座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った。

テリー・レノックスについて少し距離を置いて考えてみた。彼はすでに遠のいていた。白髪と傷痕のある顔、あえかな魅力と彼なりの風変わりな銘柄のプライド。批判したり分析したりはしなかった。負傷した経緯も、シルヴィアのような女性と結婚した経緯も訊かなかったのと同じように。たまたま船旅で知り合ってつきあうことになった道連れのようなもので、相手については何も知らない。桟橋で別れ際に、また連絡を取り合おう、と言うのだが、そうしないことはどちらもよくわかっている。おそらくもう二度と会うこともないだろう。もし会ったとしても、そのときはまったく別人で、列車のラウンジに乗り合わせたありふれたロータリ―クラブの一員になっていることだろう。仕事はどうだ? ああ、悪くないよ。元気そうだ。あんたもね。太りすぎた。みんなそうだろ? フランコニア号(だったかな)の旅を覚えてる? ああ、いい旅だったね」

なんと素晴らしい旅だったことか。退屈でたまらなかった。ほかに相手がいなかったから話したまでのことだ。テリー・レノックスと私もそうだったのかもしれない。いや、ちょっとちがうか。私の中にはまだ彼の一部が残っている。私は彼に時間と金を投資し、臭い飯も三日食った。言わずもがなだが顎と首を殴られもした。何か飲み込むたびに毎回痛む。彼が死んだ今となっては、五百ドルさえ返すことができない。それが腹立たしい。いつだって人を苛立たせるのは些細なことだ。

ドアのブザーと電話が同時に鳴った。先に電話に出た。ブザーが鳴るのは、私の小さな待合室に誰かが入ってきたというだけのことだからだ。

「ミスタ・マーロウ? ミスタ・エンディコットから、お電話です。少々お待ちください」

彼が電話に出た。「スーウェル・エンディコットだ」と、まるで秘書が彼の名前をすでに私に伝えていることを知らないかのように言った。

「おはようございます。ミスタ・エンディコット」

「釈放されたそうで何よりだ。抵抗しなかったのは、賢明な考えだったと思うよ」

「考えなんてものじゃありません。強情なだけです」

「これ以上きみにお呼びがかかることはないだろうが、もしそういうことになって助けが必要なら、いつでも連絡してくれ」

「なぜそんなことになるんです?  あの男は死んだ。彼が私に近づいたことを証明するのはかなりの手間だ。そして私が彼の有罪を知っていたことを証明しなければならない。さらに、彼が罪を犯し、逃亡中であることを証明しなければならないんですよ」

彼は咳払いをした。「たぶん」彼は慎重に言った。「彼が完全な自白を残したことを聞いていないんだろうね?」

「聞きましたよ。ミスタ・エンディコット。私は弁護士と話してるんですよね。差し出がましいようですが、自供については、内容が真実であることと告白書そのものが真正なものであることを証明する必要があるんじゃなかったでしょうか?」

「すまないが、法律論議をしてる暇がない」と彼はきっぱり言った。「ちょっと憂鬱な任務を帯びてメキシコに飛ぶところだ。それがどういうものかはわかってるだろう?」

「ああ。あなたが誰の依頼で行くのかによります。あなたは教えてくれなかった。覚えてるでしょう」

「よく覚えてる。では、さようなら、マーロウ。私の申し出はまだ有効だ。少し忠告させてくれ。自分は大丈夫だと過信しないことだ。それでなくても怪我しやすい稼業なんだから」

彼は電話を切った。私は受話器を慎重に架台に戻した。しばらく受話器に手を置き、難しい顔をしていた。そして渋面を拭い去り、待合室に通じるドアを開けようと立ち上がった。

男は窓際に座って雑誌をパラパラめくっていた。ほとんど目に見えない淡いブルーのチェックが入った青みがかったグレーのスーツを着ている。組んだ足には鳩目が二つある紐つきの黒いモカシンを履いていた。散歩用の靴のように快適で、一ブロック歩くたびに靴下が擦り切れることもない。白いポケットチーフはスクエア・フォールドに畳まれ、後ろにサングラスの端が覗いていた。たっぷりとした黒髪が波打ち、よく日に灼けていた。鳥のように明るい眼を上げ、線のように細い口髭の下で微笑んだ。タイは暗い葡萄茶色で、ポインテッドエンドに結ばれ、尖った先端が眩いばかりの白いシャツに映えていた。

彼は雑誌を脇に投げ捨てた。「ボロ雑巾みたいな屑だ」と彼は言った。「コステロの記事を読んでいたんだ。ああ、彼らはコステロのことなら何でもご存じのようだ。おれがトロイのヘレンのことを何でも知ってるようにな」

「何の御用かな?」

彼はゆっくりと私を品定めした。
「大きな赤いスクーターに乗ったターザンってところだな」と彼は言った。

「なんだって?」

「おまえのことさ、マーロウ。大きな赤いスクーターに乗ったターザン。手荒い扱いを受けたか?」

「あちこちでね。それがあんたとどんな関係がある?」

「オルブライトからグレゴリアスに話が行った後か?」

「いや、後じゃない」

彼は軽くうなずいた。「あのへぼに一発かますようにオルブライトに頼むなんざ、厚かましい野郎だ」

「訊いたはずだ、それがあんたとどんな関係がある。ちなみに、私はオルブライト本部長を知らないし、何も頼んでいない。なぜ彼が私のために何かするんだ?」

彼は不機嫌そうに私を見つめた。豹のように優雅に、ゆっくりと立ち上がった。部屋を横切り、私のオフィスを覗き込んだ。ついて来いと顎で合図して中に入った。どこにいようと、自分がいるところは自分が所有者なのだ。私は後に続いてドアを閉めた。彼は机の脇に立ち、面白そうに辺りを見回した。

「おまえは三流だな」と彼は言った。「けちな小者だ」

私は机の背後に回り、待った。

「ひと月いくら稼ぐんだ? マーロウ?」

放っておいて、パイプに火をつけた。

「よくって七百五十ってところだろう? 」と彼は言った。

マッチの燃え殻を灰皿に落とし、煙草の煙をはき出した。

「おまえはけちなやつだ、マーロウ。小遣い稼ぎの信用詐欺師だ。あんまりちっぽけなんで虫眼鏡でも使わなきゃ見えやしない」

私は何も言わなかった。

「おまえは陳腐な感情で動く。いかにも陳腐だ。誰かと気が合い、ひとしきり飲んで騒いで、懐が乏しいと見ればそっと金を滑り込ませ、そして掌をかえす。フランク・メリウェルを読んでる小学生みたいなもんだ。ガッツも頭もコネも機転もないくせに、おためごかしをほのめかしてお涙頂戴をねらう。大きな赤いスクーターに乗ったターザン」。彼はうんざりしたように小さな笑みを浮かべた。「おれに言わせりゃ、おまえは五セント玉(ニッケル)ほどの値打ちもない」

彼は机の上に身を乗り出し、私の顔を手の甲ではたいた。さりげなく、人を小ばかにするように、傷つけるつもりはなく、顔に小さな笑みを浮かべたまま。私がそれに動じないと、彼はゆっくりと腰を下ろし、机に片肘をつき、日に灼けた手で日に灼けた顎を包み込んだ。鳥のように明るい眼が私を見つめた。そこには明るさ以外には何もなかった。

「おれが誰だか知ってるか、安物(チーピー)?」

「あんたの名前はメネンデス。仲間はメンディと呼ぶ。ストリップ界隈を仕切ってる」

「そうか? どうやってここまでのし上がったか知ってるか?」

「知るわけがない。たぶんメキシコ人売春宿のポン引きから始めたんじゃないか」

彼はポケットから金のシガレット・ケースを取り出し、金のライターで茶色の煙草に火をつけた。刺すような匂いの煙を吐いてうなずいた。そして金のシガレット・ケースを机の上に置き、指先で撫でた。

「おれは大物なんだよ、マーロウ。大金を稼ぐ。賄賂のために大金を稼がにゃならず、そのためにはまた別の連中への賄賂のために大金を稼がにゃならん。大金を稼ぐために大金を稼いでるってわけだ。で、ベル・エアに九万ドルの家を手に入れたんだが、改装にそれ以上の金をつぎ込んでいる。プラチナブロンドの美人の女房がいて、二人の子どもは東部の私立学校に通わせている。女房の持ってる宝石は十万五千ドル、毛皮と洋服は七万五千ドルする。執事が一人、メイドが二人、コックが一人、運転手が一人。おれの後ろにくっついてるやつは勘定に入れずにだ。おれはどこへ行ってもちやほやされる。最高の食事、最高の飲み物、最高のホテルのスイートルーム。フロリダに別荘を持ち、クルーが五人いるヨットを持っている。車はベントレー一台、キャデラック二台、クライスラーステーションワゴン一台、息子にはMG一台。二、三年後には娘のためにもう一台。おまえはどうだ? 」

「たいしたことはない」と私は言った。「今年、一軒家を手に入れた。丸ごと独り占めだ」

「女っ気はなしか?」

「私だけだ。それに加えて、ここに見えてるものと、銀行に千二百ドル、債券が数千ドルある。それで質問の答えになってるか?」

「ひとつの仕事で稼いだ最高額は?」

「八百五十」

「なんてこった。どこまで安上がりにできてるんだ? 」

「そろそろいいだろう。望みは何だ」

彼は煙草を半分吸い終わると、間を置かずに次の煙草に火をつけた。椅子に凭れかかり、私に向かって唇をゆがめた。

「おれたち三人はたこつぼの中で食事中だった」と彼は言った。「あたりは一面の雪で、クソ寒かった。罐詰から直に食うんだ。加熱もせずに。砲撃は知れていたが、迫撃砲は半端なかった。おれたちはあまりの寒さに青く(ブルーに)なってた。へこんでたって意味だ。ランディ・スターとおれ、それに、あのテリー・レノックスだ。迫撃砲の砲弾がおれたちの真ん中にどすんと落っこちたんだが、これがなぜか爆発しない。ドイツ兵ってのはやたらと細工しやがる。ひねくれたユーモアのセンスの持ち主でね。不発弾だと思ってたら、三秒後には不発弾じゃなくなるなんてこともある。テリーはそれをひっつかんで、ランディとおれが動き出す前にたこつぼから出て行った。ていうか、凄い早業なんだよ。バスケの名プレイヤー並みだ。やつは地面に伏せて、そいつを遠くへ放り投げた。砲弾は空中で破裂した。大半の破片は頭上を越えていったが、塊のひとつが顔の横を直撃した。その直後、ドイツ軍が一斉攻撃を仕掛けてきて、気がついたらおれとランディはもうそこにいなかった」

メネンデスはそこで話しを止め、ぎらぎら輝く黒い瞳を私に据えた。

「教えてくれてありがとう」と私は言った。

「ひとを揶揄うもんじゃない、マーロウ。まあ、いい。ランディとおれはじっくり話し合って、テリー・レノックスに起きたことは、どんな男の頭も狂わせるのに充分だと判断したんだ。長い間、彼は死んだと思ってた。だが、死んじゃいなかった。ドイツ軍に捕まってたんだ。彼らは一年半というもの、彼を徹底的に搾り上げた。いい仕事をしたが、彼を傷つけすぎた。そこまで調べるのに金がかかった。彼を見つけるにはもっとかかった。だが、戦後の闇市でしこたま儲けたおれたちには余裕があった。おれたちの命を救ってテリーが得たのは、新しい半分の顔と白髪、そして重度の神経症だけだ。東部に戻ると、彼は酒に溺れ、あちこちでサツの厄介になり、いわゆる自制心てやつをなくしちまう。何かを考えているようだが、それが何なのか皆目わからない。気がついたときには、例の金持ちの令嬢と結婚して意気軒高だった。ところが彼は彼女と別れ、またどん底に落ち、同じ女と再婚したと思ったら、女が死んだ。ランディとおれは彼のために何もさせてもらえない、ヴェガスでのちょっとした仕事をのぞけばな。本当に窮地に陥ったときには、おれたちでなく、おまえみたいな安っぽい男に助けを求めるんだ。おまわりに振り回されるような男に。で、おれたちに別れも告げず、金を払うチャンスも与えず、あいつは死んだ。おれならあいつを国外に逃がすこともできた、いかさま師がカードを切るより手早く。だが、あいつはおまえに泣きついた。それがやりきれないんだ。おまわりにこづきまわされるような、ケチな野郎にだ」

「おまわりは誰だってこづきまわせるんだよ。私にどうしてほしいんだ?」

「手を引け」メネンデスはきっぱりと言った。

「何から手を引くんだ?」

「金儲けか売名か知らないが、レノックスの件でおまえがやろうとしていたことさ。もう終わったんだ。お終いにしよう。テリーは死んだ。これ以上あいつを患わせたくない。あいつはもうたっぷり苦しんだ」

「おセンチなごろつきか」と私は言った。「たまらんね」

「口のきき方に気をつけるんだ、安物。口は災いの元だ。メンディ・メネンデスは議論はしない。命じるだけだ。金儲けなら他の方法を見つけろ。わかったか?」

彼は立ち上がった。インタヴューは終わりだ。彼は手袋を手に取った。雪のように白いピッグスキンだ。一度も使われたようには見えなかった。ミスタ・メネンデスは服装に凝るタイプだ。しかし、中身は見かけよりずっと荒っぽい。

「名を売るつもりなどない」と私は言った。「金をやろうと申し出る者もいない。いったい誰が何のためにそんなことをする?」

「ふざけるな、マーロウ。冷凍庫に三日もいたのは、おまえが心優しいからじゃない。金で雇われたんだ。誰とは言わんが心当たりがある。その連中は腐るほど金をもってる。レノックスのケースは解決済みだ。たとえ...」彼は立ち止まり、机の端で手袋をはじいた。

「たとえ、テリーが彼女を殺していなくても」と私は言った。

彼の驚きは、まるで即席の結婚式に間に合わせた指輪の金みたいに薄っぺらかった。 「おれもそうであってほしいよ、安物。 しかし、それでは収まりがつかない。だがな、もしそれで収まりがつき――そしてテリーがそうしておけというのなら――そのままでいいんだ」

私は何も言わなかった。しばらくして、彼はゆっくりと笑った。「大きな赤いスクーターに乗ったターザン」彼は言葉を引き延ばすようにゆっくり言った。「タフガイ、押しかけてきたおれにいいようにあしらわれている。はした金で雇われ、誰にでもこづきまわされる男。金もなけりゃ家族もいない、先行きの見込みも何もないときた。じゃあ、またな、安物」

私はじっと座って奥歯を噛みしめ、机の隅にある彼の金のシガレット・ケースの輝きを見つめていた。 急に年老いて疲れたように感じた。 ゆっくりと立ち上がり、ケースに手を伸ばした。

「これを忘れてる」と私は言って、机のまわりをまわった。

「そんなもの半ダースはある」彼はせせら笑った。

手が届く距離まで来ると、私はそれを差し出した。彼の手は何気なくそれに伸びた。「こいつも半ダースどうだ?」私はそう尋ね、彼の腹の真ん中を思い切り殴った。

彼はうめき声を上げながら体を二つに折った。シガレット・ケースが床に落ちた。彼は壁に凭れ、両手を前後に痙攣させた。肺に空気を吸い込もうとして喘いだ。彼は汗をかいていた。非常にゆっくりと、そして懸命な努力の末、彼は背筋を伸ばし、私たちは再び目と目を合わせた。私は手を伸ばし、彼の顎の骨に沿って指を走らせた。彼はじっと耐えていた。そしてようやく、彼は褐色の顔に微笑みを浮かべた。

「おまえのことを見損なってたよ」と彼が言った。

「次は銃を持ってくるんだな。さもなきゃ、私を安物呼ばわりするな」

「おれには銃を持つ男がついている」

「次はそいつを連れてこい。きっと入り用になる」

「怒らせるのに手のかかるやつだな、マーロウ」

私は金のシガレット・ケースを足で引き寄せ、屈んで拾い上げて渡した。彼はそれを受け取り、ポケットに入れた。

「どうにも腑に落ちない」と私は言った。「わざわざここまで足を運んで私をからかって、それがあんたにとって何の得になる。そのうちにうんざりしてきた。タフガイってのはいつもうんざりさせる。エースばかり並べた手札でゲームしてるようなものだ。何もかも揃ってるようでいて、その実何も持っちゃいない。ただ座って自分の手札を眺めて悦に入ってるだけだ。テリーがあんたに助けを求めないのも当然だ。娼婦に金を借りるようなものだ」

彼は二本の指でそっと腹を押さえた。「つまらんことを言ったな、安物。よせばいいのに軽口が過ぎる」

彼はドアの方へ歩いて行き、ドアを開けた。 外では、ボディーガードが向かいの壁から身を剥がしてこちらを向いた。 メネンデスは顎をしゃくった。 ボディーガードがオフィスに入ってきて、そこに立って無表情に私を見ていた。

「よく見ておけ、チック」とメネンデスは言った。「念のため、面(つら)を覚えておくことだ。そのうちおまえはこいつに用があるかも知れない」

「もう覚えました、チーフ」浅黒く世なれた風の口数の少ない男は、いかにも口数の少ない男が言いそうな口ぶりで言った。「手間はとらせません」

「ボディは打たせるな」とメネンデスは薄笑いを浮かべながら言った。「こいつの右フックは洒落にならない」

ボディガードは私を鼻であしらった。「そこまで近づけませんよ」

「じゃ、またな、安物」とメネンデスは言って出て行った。

「また近いうちに」とボディガードは他人行儀に言った。「名前はチック・アゴティーノ。あんたとはお近づきになれそうだ」

「汚れた新聞紙みたいに」と私は言った。「きみの顔を踏まないよう、思い出させてくれ」

彼の顎の筋肉がもり上がった。それから急に向きを変えるとボスの後を追って出て行った。

ドアは空気圧でゆっくりと閉まる。耳をすましたが、廊下を歩く足音は聞こえなかった。彼らは猫のように歩く。念のため、一分後にもう一度ドアを開けて外を見た。しかし、廊下には誰もいなかった。

私は机に戻り、座って少し時間を過ごした。なぜメネンデスのような、それなりに名の知れた地元のならず者が、私のオフィスに直接来て、おとなしくしてるよう警告する値打ちがあると思うのか。それも言い方こそ違え、スーウェル・エンディコットから同じような警告を受けた数分後に。

いくら考えても答えにたどり着けなかったので、どうせならもう一押しすることにした。 受話器を取り上げ、ラスベガスの<テラピン・クラブ>に、フィリップ・マーロウという者だが、ミスタ・ランディ・スターに直接話したい、と電話した。 無駄だった。 ミスタ・スターは出張しております。ほかの誰かにお繋ぎいたしますか?  やめておいた。どうしても スターと話したいわけではなかったし、ただの思いつきだ。 私を殴るには彼は遠くにいすぎた。

それから三日間、何も起こらなかった。誰も私を殴ったり、銃で撃ったり、おとなしくしてろ、と電話で警告してきたりしなかった。誰も私を雇わなかった。家出少女、浮気した妻、失くした真珠のネックレス、行方不明の遺書を探すために。私はただそこに座って壁を見ていた。レノックス事件は、殆ど起きたときと同じように突然世間から消えた。簡単な審問は開かれたが、私は召喚されなかった。そもそも異例な時間に開かれ、事前の予告も陪審もなかった。検視官が下した評決によると、シルヴィア・ポッター・ウェスターハイム・ディ・ジョルジョ・レノックスの死は、夫のテレンス・ウィリアム・レノックスによる殺人目的により引き起こされたものだが、彼は既に死亡しているため検死官の管轄外である、というものだった。おそらく記録に残すために自白調書が読まれ、検視官を納得させるに足る検証がなされたのだろう。

遺体は埋葬のために家族に渡され、飛行機で北に送られ、一家の地下納骨所に埋葬された。報道陣は招かれなかった。関係者の誰もインタビューに応じなかった。とりわけハーラン・ポッター氏がインタビューに応じることはなかった。彼に会うのはダライ・ラマと同じくらい難しい。一億ドルもの資産家たちは、使用人、ボディーガード、秘書、弁護士、飼い慣らされた重役たちによる遮蔽幕に囲まれ、特別な生活を送っている。おそらく、彼らも食べ、眠り、髪を切り、服を着るのだろう。が、確かなことはわからない。彼らについて見聞きすることはすべて加工処理されている。使い勝手のいい人となり、消毒済みの注射針のように単純で清潔、裏表のない人格を創り上げ、維持するために高級で雇われている広報係の一団によって。真実である必要はない。ただ、周知の事実と一致していればいいのであって、周知の事実など指折り数えられる程でしかない。

三日目の午後遅くに電話が鳴り、私はハワード・スペンサーと名乗る男と話していた。彼はニューヨークの出版社の代表で、カリフォルニアに短期出張中、ある問題を抱えていて相談したいので、翌朝十一時にリッツ・ベヴァリー・ホテルのバーで会えないかと言ってきた。

私はどんな問題なのか訊いた。

「ちょっと込み入った問題で」と彼は言った。「かといって、人道に悖ることではない。話を聞いてもらって断られたとしても、応分の料金を支払いますよ、当然」と彼は言った。

「それはどうも、ミスタ・スペンサー、その必要はありません。知り合いの推薦でしょうか?」

「きみのことを 知っている誰かだ。最近起こった事件も含めてね、ミスタ・マーロウ。私自身、それで興味を惹かれたと言っていい。私の用件はあの悲劇的な事件とは何の関係もない。つまり、その、どうかな、 酒でも飲みながら話せないか、電話じゃなく」

「豚箱に入っていたような男と一緒のところを見られても構わないのかな?」

彼は笑った。 彼の笑い方も声もどちらも心地よかった。 彼はかつてのニューヨーカーのように話した。誰もがブルックリン訛りを身につけるようになる以前のそれだ。

「言わせてもらえれば、ミスタ・マーロウ、そこがきみの取り柄なんだ。いや、補足しておこう、君がいうように、きみが豚箱の中にいた、という事実ではなく、何というか、圧力に屈せず沈黙を貫き通した、というところがだ」

彼は重厚長大な小説のようにコンマを多用して話す男だった。ともかく電話ではそうだ。

「わかった、スペンサー。明朝、伺うよ」

彼は私に礼を言って電話を切った。誰が私を推薦してくれたのだろう。スーウェル・エンディコットかもしれないと思い、電話して確かめた。しかし、彼は一週間ずっと街を離れていたし、今もそうだ。そんなことはどうでもよかった。こんな稼業でも、満足してくれる顧客が時々いるものだ。 仕事もほしかった。食うためには金が要る。そう思っていた。その夜、家に帰ってマディソン大統領の肖像画が同封された手紙を見つけるまでは。

【解説】

ロスアンジェルスの歓楽街、サンセット・ストリップを仕切るギャング、メンディ・メネンデスの派手な登場である。一部の隙もない洒落者だが、過ぎたるは及ばざるがごとしを地で行く、そのキメ方が痛い。チャンドラーは服装の選び方を子細に描くことで、読者の頭の中にその人物像を浮かび上がらせる。ただ、当時のファッションに詳しくないとよくわからないこともある。

子分がボスを呼びに行く間、オフィスで待つマーロウの様子を描写した一文。

I switched on the buzzer to the other door and filled a pipe and lit it and then just sat there waiting for somebody to scream for help.(もうひとつのドアのブザーの電源を入れ、パイプに煙草を詰めて火をつけ、ただそこに座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った)

清水訳は「もう一方のドアのブザーのスイッチを入れて、パイプをつめ、火をつけて、椅子に坐りこみ、誰かが助けてくれと叫ぶのを待った」

村上訳は「ブザーを押してもう一つのドアを開錠し、パイプに煙草を詰めて火をつけた。そして腰を下ろし、誰かが悲鳴を上げて助けを呼ぶのを静かに待った」

田口訳は「ブザーを押してもう一つのドアの鍵も開けると、パイプに煙草を詰めて火をつけ、誰かが叫んで助けを求めにくるのをただ坐って待った」

“I switched on the buzzer to the other door”を「ブザーを押してもう一つのドアを開錠し」としたのは村上氏の誤訳だろう。それに倣った田口訳も同じだ。もとの清水訳が正しい。ただ、清水訳も“scream”を「叫ぶ」と取っている。しかし、“scream”には「(鋭い音が)鳴る」という意味がある。前後の文脈から推測すると、マーロウは、さっき下りていった客が再びやってきてブザーを鳴らすのを待っている、と考えた方が自然だ。

市川訳は「顧客用ドアのブザーの電源をいれ、パイプにタバコを詰めると火をつけ、机の奥の椅子に座り、誰かが助けを求めてブザーを鳴らすのを待った」だ。原文に“sat there”としか書かれていないのに「机の奥の椅子に」と具体的な描写を差し挿まずにいられないのがこの人らしい。

そういうところが功を奏する場面もないではないが、往々にして馬脚を現すことがある。テリー・レノックスとの出会いを船旅に喩える場面がある。そこでの仮想の対話。

Remember that trip in the Franconia (or whatever it was)?

清水訳は「〈フランコニア〉のときのことを覚えておいでかな。(いや、〈フランコニア〉ではなかったかな)」

村上訳は「フランコニア(だかなんだか、とにかく汽船の名前だ)での旅を覚えているかい?」

田口訳は「フランコニア号(なんでもいい)の船旅は愉しかったね」

三人とも「フランコニア」が船の名前だとしているところを、市川訳は「東ヨーロッパ(どこでもいいのだが)への旅を覚えてます?」と“the Franconia”を「フランケン地方」のことだと強引に変更している。「フランコニア」は二十世紀初頭に大西洋を航行していた客船の名前。それまで船旅の話をしていたのだから。当然、文脈から推し測って然るべきところである。

難を言えばきりがないのだが、次のパラグラフでも同じ誤りを繰り返している。

The hell it was a swell trip. You were bored stiff.

市川訳ではこうなっている。「あなたは素晴らしい旅なんてどうでもよかった。列車で退屈していて体もこわばっていた」。市川氏は、このマーロウが考え出した仮想の挿話の語り手が列車のラウンジ席にいるものと解釈している。おそらく“stiff”にひっかかったせいだろう。形容詞の場合なら「硬い」の意だが、“be bore stiff”と副詞的に使われる場合、「ひどく退屈している、全くうんざりだ」という意味になる。彼は狭い車内ではなく船旅の最中で、体の自由はきく。ただ、まともな話し相手がいないことにうんざりしていたのだ。それが全く読めていない。

メネンデスがマーロウを指して言った言葉が“Tarzan on a big red scooter”。メネンデスはこれだけを繰り返している。他に何も説明をくわえてはいない。ところが、二度目の“Tarzan on a big red scooter”が、市川訳では「象の代わりにド派手なスクーターに、両膝揃えで乗ってるターザン気取りの玉無し野郎って言ってるんだ」になっている。例によって訳者による勝手な書き加えである。これまでの訳者は、原文を尊重して「でかい真っ赤なスクーターに乗ったターザン(田口訳)」としか書いていない。勝手な解釈を付け加えることは誰もしていない。それが訳者としての態度だろう。ここまでの逸脱は許されるべきではない。これはもう翻訳とは言えない。

枚挙に暇がないのでいい加減にしてほしいところだが、次の箇所も放っておくことはできない。メネンデスがマーロウのオフィスに入ってすぐ言った科白だ。

"You're small time," he said. "Very small time."

“small time”は「取るに足らない、重要ではない、三流の」という意味。ここが市川訳では次のようになるから不思議だ。

「雑魚だ」と言った。「チープな奴だ。チーピーって呼んでやる」

「チーピー」というのは、後に出てくる、メネンデスがマーロウを馬鹿にして言う呼び名だ。原文ではここには出てこない。他の旧訳でも同じだ。こうまで勝手に改変を繰り返されると真面目に付き合っていられなくなる。勝手にしてくれ、と放り出したくなる。まあ、誰に頼まれたわけでもない。こちらが勝手にやっているだけの事なので、勝手にするまでのことなのだが。

メネンデスがマーロウのことを“Tarzan on a big red scooter”と言った訳は次のパラグラフで分かる。メネンデスはこう言い換えている。

"You got cheap emotions. You're cheap all over. You pal around with a guy, eat a few drinks, talk a few gags, slip him a little dough when he's strapped, and you're sold out to him. Just like some school kid that read Frank Merriwell. You got no guts, no brains, no connections, no savvy, so you throw out a phony attitude and expect people to cry over you. Tarzan on a big red scooter."(おまえは陳腐な感情で動く。いかにも陳腐だ。誰かと気が合い、ひとしきり飲んで騒いで、懐が乏しいと見ればそっと金を滑り込ませ、そして掌をかえす。フランク・メリウェルを読んでる小学生みたいなもんだ。ガッツも頭もコネも機転もないくせに、おためごかしをほのめかしてお涙頂戴をねらう。大きな赤いスクーターに乗ったターザン)

マーロウにできることは知れている。だから色々親切にしているように見えて、その実最後まで面倒を見ようとしない。それが“cheap”だというのだ。自分にできもしない救出劇を演出するため、人目に付きやすい乗り物を用意するターザンみたいなものだ、とメネンデスは言いたいのだろう。これで十分意は尽くされている。ところが、市川氏はそれでは気が済まない。同じ部分がこういう訳になる。

「動機からして安っぽい。お前のやることなすこと、みんな安っぽいぜ。いっちょマエに男の付き合い気取りでそれらしく酒喰らって、それらしく馬鹿言って、相手が金なくて焦っていると臭い芝居で端した金(ママ)を握らせてバっちり恩売りやがる。まるでヒーローマンガ読みすぎのガキだぜ。お前にゃ度胸もない。脳みそもない。コネも腕もない。それでお前はこれ見よがしにヒーローのサルまねをする。ウケけて(ママ)皆が涙を流すのを狙ってな。お前はでかくて赤いスクーターに乗ったターザンだ」

大筋は外していないが、いちいち物言いが大仰だ。これではメネンデスではなく、子分のチンピラの物言いだ。ちなみにフランク・メリウェルはマンガのキャラクターではない。田口訳の註によれば「ベストセラー作家のバート・バッテンがバート・L・ランディシュのペンネームで創り出したスポーツ万能のキャラクター」だそうだ。

メネンデスはさらにマーロウを侮辱する。手の甲で顔を叩くのだ。原文は以下の通り。

He leaned across the desk and flicked me across the face back-handed,casually and contemptuously, not meaning to hurt me, and the small smile stayed on his face.

清水訳は「彼はデスクの上にからだをのり出して、ほんの気まぐれのように手の甲で私の顔を横にはらった。私を傷つけようとしたのではなく、顔から笑いが消えていなかった」。他の二人も「手の甲で、打つ、はたく」という訳だ。ところが、市川訳はここも異なる。

「机に身体を覆い被さるよう(ママ)して私に近づくと私の顔を叩くように手の甲を左右に振った。実際は叩くつもりはなく団扇をあおぐように、小馬鹿にしたように私の目の前で左右に軽く振った」

“flick”は自動詞の場合、「ひょいと動く、ひらひら飛ぶ」の意味を持つが、“flicked me across the face back-handed”のように、すぐ後に目的格の代名詞がくる場合、他動詞と取るのが正しい。他動詞の“flick”は「軽く打つ、はじく」等の意味だ。原文を読めば、メネンデスの手は一度マーロウの顔の前を横切り、バックハンドで軽く打っているようにしか読めない。何より、その場にそぐわない団扇という不必要な比喩や、「左右に振った」の重複など、訳文としての完成度が低すぎる。誤字脱字も多い。校閲はともかく、訳者以外の誰かの手で校正されているのだろうか。

メネンデスが語る戦時中の体験談。ドイツ軍に捕まったレノックスが受けた処遇についての和訳が気になる。

They worked him over for about a year and a half. They did a good job but they hurt him too much.

清水訳は「一年半、ドイツの病院に入ってた。手術はまずくはなかったが、ずいぶん痛い目にあわせたらしい」。原文に病院を示す言葉はないが、村上氏は清水訳を鵜吞みにし「そしてやつらはテリーを、おおよそ一年半かけて徹底的に治療した。手際はよかったが、それはとんでもなく手荒なものだった」とした。田口訳も「ドイツ野郎は一年半かけてやつを治療した。治療自体は悪くなかったが、ひどい手術痕が残った」だ。

“work over” には「〜をやり直す、〜を作り直す、〜に手を加える」という意味があり、清水氏は、それを「整形手術」と解釈したのだろう。ただ、“work + 目 + over” は<口語>で用いられる場合「(人を)激しく攻撃する、ひどい目にあわせる.」の意味になる。もともと“work over” には「〜を徹底的に調査、研究する」という意味がある。ドイツ軍が単なる捕虜のために一年半もかけて顔の整形手術をするとは考えにくい。ここは、連合国側の情報を訊き出すために拷問も含め、厳しい尋問が行われたと考える方が理に適っている。

市川訳は「一年半の間、奴らはあいつを痛めつけた。顔の手術をしたのはいいとしても奴らはあいつを徹底的に痛めつけた」と原文に近い訳になっている。テリーの負った深い傷を、顔の手術によるものとする解釈は如何なものだろうか。帰国後のテリーの様子から考えると、ドイツ軍は手術を含めてけがの治療はうまくやったが、捕虜の心に負わせた傷は深いものがあったと取るべきだろう。

「たとえ、テリーが彼女を殺していなくても」とマーロウが言ったのを聞いたメネンデスの驚き方について。原文はこうなっている。

His surprise was as thin as the gold on a weekend wedding ring.

清水訳は「べつに驚いた様子はなかった」とにべもない。村上訳は「彼の示した驚きは、即席結婚のための金の指輪くらい薄っぺらなものだった」と丁寧だ。田口訳も「彼の驚いた顔は即席結婚の金の指輪ほどにも薄かった」と村上訳を踏まえている。アメリカでは急に思いついて結婚式を挙げるため、週末を使ってラス・ヴェガスを訪れるカップルが多い。牧師から指輪や衣装まで、一式がすべて用意されているからだ。“weekend wedding”はそのことを言っている。

“thin”には「薄い」の他に「実(じつ)のない、見え透いた」という意味がある。メネンデスの驚いた顔を見て、マーロウはそう感じたということだ。ところが、市川訳は「メネンデスの顔に驚きが浮かんだ。その驚きぶりはまるでインスタント結婚式で使うリングの金メッキほど微かだったが私はそれを見逃さなかった」となっている。これではまるで、メネンデスが自分の感情をうまく秘匿しているのに、人の表情を読むことに長けたマーロウが見破ったかのようだ。喩えとして持ってきたのが、間に合わせの指輪であることが全く読めていない。メネンデスはテリーの無実を知っていることを隠す気などない、ということを表す大事なメッセージが読めないで、どうしてチャンドラーが訳せようか。

ボディに一発喰らったメネンデスがマーロウに言う決め台詞。短いので訳を列挙する。

"You're a hard guy to get sore, Marlowe."

「お前はなかなか怒らない奴だな、マーロウ」(清水訳)
「お前、腹を立てるのにやたら手間のかかるやつだな」(村上訳)
「おまえは妙に腹の立たない男だよ、マーロウ」(田口訳)
「脳天気な野郎だ、マーロウ」(市川訳)

“get sore” は「腹が立つ」なので、マーロウは、そういう状態になり難い男だ、とメネンデスは言っている。田口訳はそれまでの訳に比べると、よく似た言い方だがニュアンスが異なる。これでは、メネンデスがマーロウのことを憎めない奴だ、と言っているように読める。もしかしてそうなんだろうか? 市川訳では、マーロウが馬鹿みたいだ。さんざん相手を挑発しておいて、やっと怒らせるのに成功した当人が吐いた台詞である。あなたならどれを選ぶだろう。

メネンデスの子分、チック・アゴティーノがボスの威を借りて、すごんで見せたのをマーロウが軽くいなす場面がある。

"The name's Chick Agostino. I guess you'll know me."
 "Like a dirty newspaper," I said. "Remind me not to step on your face."

「チック・アゴスティノってんだ。知ってるだろうがね」
「古新聞と間違えられるぞ。踏まれないように気をつけろ」(清水訳)

「俺の名前はチック・アゴティーノだ。そのうち近づきになるだろう」
「昨日の夕刊と間違えて、君の顔を踏みつけないように気をつけなくちゃな」(村上訳)

「おれはチック・アゴティーノだ。おまえにもおれのことはそのうちわかるようになるだろうよ」
「泥だらけの新聞紙みたいに」と私は言った。「今度おまえの顔を私が踏みつけそうになったら教えてくれ」(田口訳)

「私の名はチック・アゴティーノだ。いずれ可愛がってやる」
「エロ新聞みたいな奴だな.」と言ってやった。「私があんたの顔を踏みそうになったら「エロ新聞じゃねえ、俺の顔だ、踏まないでくれ」って叫ぶことだな」(市川訳)

市川訳のマーロウも物言いはいかにも品がない。ハードボイルドを誤解しているのではないだろうか。“dirty”に、その手の意味がないわけではないが、ここでは“step on your face”の意味を踏まえないといけない。“face”は「紙面」にかけているのだろう。踏むためには地面に落ちている必要がある。すでに踏みつけられて「汚れて」いるのだ。人の目に触れたとき、誰もが目を留めるほどの存在ではない(言い換えれば小者だ)とマーロウは言っている。吹けば飛ぶような、という歌詞があるが、ボスの使いっ走りをしているチックのような三下は、街角にたむろしていることが多い。そういう点を“dirty newspaper”に喩えているのだ。

メネンデスたちが部屋を出て行った後、静まり返った廊下に足音がしない。

They walked as softly as cats. Just to make sure, I opened the door again after a minute and looked out. But the hall was quite empty.

市川訳はこうだ。「まるで猫のように忍び足で歩くのか?念のため、一分ほど経ってドアを開け、廊下の様子を見渡した。がらんとして誰もいなかった。やくざにモカシン靴か。

蛇足の一文「やくざにモカシン靴か」は原文にはない。これまでの三氏の旧訳にもない。市川氏による完全な創作である。この訳ではじめてこの作品を読む日本人読者はチャンドラーがこう書いたと思うだろう。こうした逸脱は許されるべきではない。

一つおいて次のパラグラフ。

I didn't get anywhere with that, so I thought I might as well make it a perfect score.

“perfect score”は「満点」のこと。“might as well” の意味は「どうせなら〜した方がいい」。メネンデスがわざわざやってきたことに納得がいかないマーロウは、いろいろ考えても分からなかったので、どうせなら、とランディ・スターに電話することにした。ただ、それだけのことだ。ところが、“score”の意味を「楽譜」と勘違いした市川氏は「そこで、音楽で言えば楽譜に抜けがあればどんな曲かわからない。オタマジャクシを付け加えればちゃんと演奏できるかも、そう考えた」と無駄な解説を付け加えている。

ひとつ分からない点がある。シルヴィアの遺体が家族に返され、空輸されるところ、原文はこうだ。

It was flown north and buried in the family vault.

それまでの邦訳はすべて「北」としか書いていないが、市川訳はここを「サンフランシスコ」と特定している。その根拠がどこにあるのかがよくわからない。市川氏はどうしてポッター家の墓所がある地を知り得たのだろう。たしかに、ポッターの私邸はサンフランシスコにあるが、一族の墓所ともなれば、出身地の近くにあることもある。メキシコから見たら、合衆国は「北」だ。こういうときは原文通りにしておくものだ。

メネンデスが取り出した煙草のこともそうだ。原文には、ただ“brown cigarette”と書いてあるものをわざわざ「シガリロ」と特定してみせる。知識をひけらかしたいなら、どこか別のところでやればいい。他人が書いた作品を踏み台にしてすることではない。とんだ心得違いというものだ。そんなことより、ゲラをしっかり見直すことの方が先だろう。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

10

(turn+目的語+over)は「物事をあれこれ考える、熟考する)という意味

【訳文】

ポケットを探って所持品預かり証の控えを渡し、現物を確認してから原本に受領のサインをした。身の回り品をそれぞれが収まるべきポケットに戻した。受付デスクの端に覆いかぶさるように凭れている男がいた。私がデスクを離れると、背筋を伸ばし、話しかけてきた。背丈は六フィート四インチほどで針金のように痩せていた。

「家まで乗せていこうか?」

わびしい明りの下では、年齢の割に老けた若者のように見える。疲れのせいで皮肉屋っぽいが、詐欺師のようには見えなかった。「いくらだ?」

「金はいらない。《ジャーナル》のロニー・モーガンだ。勤務明けでね」

「ああ、警察に詰めているのか?」私は言った。

「今週だけだ。いつもは市庁舎に詰めている」
私たちは外に出て、駐車場にある彼の車まで歩いた。私は空を見上げた。星は出ていたが、あたりが明るすぎた。涼しくて気持ちのいい夜だった。思うさま夜気を吸い込んだ。私が乗り込むと、彼はすぐに車を出した。

「家はローレル・キャニオンの外れだ」と私は言った。「適当なところで降ろしてくれ」

「連中は乗せてきてはくれる」と彼は言った。「が、どうやって帰るかまでは気遣ってくれない。この事件に興味があるんだ。胸くそが悪くなるくらいにね」

「事件にはならないようだ」私は言った。「テリー・レノックスは拳銃自殺した。今日の午後のことだ。連中の話では、どうもそうらしい」

「実に都合がいい」フロントガラス越しに前を見つめながら、ロニー・モーガンは言った。車は静かな通りを静かに走っていた。「連中にとっちゃ大助かりだ。壁を作るのに役立つ」
「何の壁だ?」

「誰かがレノックス事件のまわりに壁を築きつつあるんだよ、マーロウ。それくらい、察しのつかないあんたでもないだろう? こんなに派手な事件なのに、やけに扱いがお粗末だ。地方検事.は今夜、ワシントンへ向かった。大会か何かだ。自分の名前を売るのに、ここ数年で最高の機会を前にしながら突然身を引いた。なぜだ? 」

「聞くだけ野暮というものだ。冷たくなってたんでね」

「誰かが見返りをくれる。それが理由だ。札束のような野暮なものじゃない。誰かが地方検事にとって重要な何かを見返りに約束したんだ。事件の関係者でそんなことができるのはただ一人、娘の父親しかいない」

私は車の隅に頭をもたせかけた。「ありそうもない話だ」私は言った。「新聞はどうなんだ? ハーラン・ポッター所有の新聞社は限られてる。競争相手だっているだろう? 」

彼はちらっと面白がるような眼でこちらを見てから、運転に集中した。「新聞社にいたことは?」

「ないね」

「新聞というのは金持ち連中によって所有され、発行されている。連中は皆、同じクラブに属している。確かに競争はある。発行部数、縄張り争い、スクープをめぐる、厳しく熾烈な競争がね。ただし、それが経営者たちの名誉、特権、立場を傷つけない限りだ。そして、もしそんなことが起きたら、蓋が落とされる。レノックスの事件は蓋をされたんだよ。レノックス事件が適切に扱われてさえいれば、新聞は飛ぶように売れただろう。 すべてが揃っているんだ。裁判には国中から特集記事用の腕利き記者が集まるはずだった。しかし、裁判は開かれない。ことが動き出す前にレノックスがくたばっちまったからだ。言ったように、非常に都合がいい。 ハーラン・ポッターとその家族のためにはね」

私は体を起こし、彼をまじまじと見た。

「すべて仕組まれていた、というのか?」

彼は皮肉っぽく口を歪ませた。「誰かがレノックスの自殺に手を貸したとも考えられる。逮捕に少し抵抗したとかいう理由でね。メキシコの警官の指は引き鉄を引きたくてむずむずしている。賭けがしたいなら、そっちに有利な率で賭けてもいい。死体に開いた穴の数なんか誰も数えちゃいないってほうにね」

「それはどうかな」と私は言った。テリー・レノックスのことはよく知っている。あの男はとうの昔に自分を見限っている。もし連中が生きたまま連れ帰ったなら、きっと連中の思い通りにさせただろう。過失による殺人の罪に服したにちがいない」

ロニー・モーガンはかぶりを振った。何を言おうとしているかはおおよそ察しがついた。彼はその通り言った。 「それはない。 もし彼がただ彼女を撃ったか、頭を叩き割っただけなら、そうかもしれない。 しかし、やり方があまりにも残忍だった。 ひどく殴られて顔はぐちゃぐちゃだった。 二級殺人で済めば御の字だが、それでさえ一悶着起きるだろう」

私は言った。「君のいう通りかも知れない」

彼はまた私を見た。「あんたはあの男を知ってたという。これはでっちあげなのか?」

「疲れたよ。今夜はもう何かを考える気分じゃない」

長い間があった。そしてロニー・モーガンが静かに言った。 「もし自分がへぼ記者なんかじゃなく、頗るつきの切れ者だったら、彼は彼女を殺ってないと思うかもしれないな」

「それも一つの考えだ」

彼は煙草を口にくわえ、ダッシュボードでマッチを擦って火をつけた。痩せた顔に眉をひそめたまま、黙って煙草を吸っていた。ローレル・キャニオンまで来ると、私はどこで大通りを外れ、私の家のある通りに入るか教えた。彼の車は丘を駆け上がり、セコイアの階段下に止まった。

私は車を降りた。「ありがとう、モーガン。一杯やっていくか?」

「またの機会に。今は一人になりたいだろう」

「一人になる時間ならいくらでもあった。もてあますくらいな」

「あんたには、別れを告げるべき友だちが一人いた」彼は言った。「誰かのために豚箱に入っていたとしたら、そいつは友だちだったにちがいない」

「誰が言った? 私がしたのはそういうことだと」

彼はかすかに微笑んだ。「記事にできなかったからといって、それを知らなかったわけじゃないよ。じゃあ、またな」

私は車のドアを閉めた。車は方向転換して丘を下っていった。テールライトが角を曲がって見えなくなると、私は階段を上り、新聞を拾い上げ、誰もいない家の中に入った。家じゅうの灯りをつけ、窓をすべて開けはなした。空気がよどんでいた。

コーヒーを淹れて飲み、コーヒー缶から五枚の百ドル札を取り出した。札はきつく巻かれ、缶の端の方に突っ込んであった。コーヒーカップを片手に行ったり来たりした。テレビをつけては消し、座っては立ち上がり、また座った。玄関前の階段に山積みされた新聞に目を通した。レノックス事件は、最初の扱いは大きかったが、その日の朝刊では後ろに移されていた。シルヴィアの写真はあったが、テリーの写真はなかった。私のスナップがあった。そんなものがあることを知らなかった。「L.A.の私立探偵、取り調べのため拘留」。エンシノにあるレノックスの家の大きな写真があった。 尖った屋根を多用した擬英国風で、窓掃除だけで百ドルはかかりそうな代物だ。二エーカーの広大な小山の上に建っている。ロス・アンジェルス地区ではかなりの不動産である。ゲストハウスの写真もあった。 本館の縮小版ともいえる建物で、生垣に囲まれていた。 どちらの写真も明らかに遠くから撮影され、その後引き伸ばしてトリミングしたものだ。新聞が「死の部屋」と呼ぶ部屋の写真はなかった。

どれも留置場内で見ていたが、もう一度新たな眼で読み、写真を見た。金持ちの美しい娘が殺され、マスコミが徹底的に排除されたということ以外、何も書かれていなかった。つまり、影響力はかなり早い段階から行使されていたのだ。犯罪担当の記者連中はさぞ無念の歯ぎしりをしたに違いない。当然のことだ。彼女が殺されたその夜、テリーがパサディナの義父と話したなら、警察に通報する前に一ダースほどの警備員が屋敷を固めていただろう。

ひとつ腑に落ちないのは、彼女の酷い殺され方だ。テリーがそんなことをするとは私には思えなかった。

私は灯りを消し、開けっ放しの窓辺に座った。外の茂みでマネシツグミが眠りに就く前にいくつかトリルをおさらいし、自分の声に聞きほれていた。首がかゆかったので、髭を剃り、シャワーを浴びてベッドに入り、仰向けになって耳をすました。あたかも    遠くの暗闇の中から声が聞こえてくるかのように。すべてを明らかにしてくれるような、おだやかで忍耐強い声が。そんな声は聞こえなかったし、聞こえるはずがないとわかっていた。誰も私にレノックスの件を説明しようとはしなかった。説明の必要はなかった。犯人は自白し、彼は死んだ。検死審問すら開かれないだろう。

《ジャーナル》のロニー・モーガンが言ったように、とても都合がいい。テリー・レノックスが妻を殺したのなら、それでいい。彼を裁判にかけて、不快な詳細をすべて明らかにする必要がなくなる。もし彼が妻を殺していなかったら、それもまたよし。誰かに罪をかぶせるなら死人に限る。決して口答えしない。

【解説】

検事局の受付デスクで収監時に取り上げられた所持品を返してもらうマーロウの様子が一筆書きのようにあっさり書かれる。

I dug out the carbon of my property slip and turned it over and receipted on the original. I put my belongings back in my pockets.

清水訳は「私は所持品のリストの写しを渡して、受領書に署名した。身の回りの品をポケットにおさめた」。原文のリズムを活かした名訳だと思うが、惜しいことに“turn it over“が抜けている。

村上訳は「所有物預かりの控えを引っぱり出してそれを渡し、間違いのないことを確認してから、受領書にサインをした。上着のポケットに私物を戻した」。“turn it over“は「間違いのないことを確認してから」と訳されている。(turn+目的語+over)は「物事をあれこれ考える、熟考する)という意味だ。マーロウが何を考えているかといえば、遺漏はないか、ということに決まっている。現物と控えを照合したことを指しているのだろう。田口訳は「所持品預かり証の控えをポケットから引っぱり出し、それを係官に渡し、受取り証にサインして、自分の持ちものをポケットに入れた」と、清水訳を踏襲している。

市川訳は「私物品預かり書のコピーをポケットから取り出し係官に渡した。私物が返されると私物品預かり書の原紙に受領サインした。返された品をポケットにしまった」となっている。原文と比べると、いかにもまだるっこしい訳だと思う。しかも、肝心の“turn it over“は抜け落ちている。いいところもないではない。それまでの訳で「受領書」とされている部分を“receipted on the original”原文通り「私物品預かり書の原紙に受領サインした」としているところだ。ただ「私物品預かり書」や「受領サイン」という訳語が日本語として一般的に使われているかどうかは別だ。

所持品をポケットにしまうところが、村上訳では「上着のポケットに私物を戻した」となっている。原文は“I put my belongings back in my pockets”と“belongings”も“pockets”も複数扱いになっている。ものによってはズボンのポケットに入れたものもあるのではないだろうか。つまらないことのようだが、私立探偵という職業上、マーロウは何をどのポケットに入れて常時携行するというようなことがルーティンになっていたと思われる。そういうディテールを大切にするのも探偵小説のようなジャンルを読む楽しみではないだろうか。

建物の外に出て見上げた、久しぶりの空には星が出ていた。“There were stars but there was too much glare.” 清水訳では「星が出ていたが、あたりが明るすぎた」。村上訳も「星が出ていたが、明かりがまぶしすぎた」となっている。ところが田口訳は「星が出ていたが、さほど輝いてはいなかった」となっている。市川訳は逆に「星が輝いていた。やけに明るく感じた」だ。どうしてこんなことが起きるのか?

引用文の前に“I looked up at the sky.”という一文がある。それに続いて引用文が来る。その前半は「there were + 複数名詞」、後半は「there was + 単数名詞」になっている。つまり、前半は空に出ている「星」についての言及であり、後半は「空」自体についての言及であることがわかる。それでいうと、清水訳が最も原文に近い。村上訳では「明かり」が「星明かり」なのか「街明かり」なのかがよくわからない。田口訳は街明かりのせいで輝きの薄れた星をこう表現したのだろう。一方、市川訳では「(星が)やけに明るく感じた」と読める。これはまずいのではないだろうか。

ロニー・モーガンからレノックス事件の経緯を聞かされるマーロウ。なぜ検事は突然身を引いたかと訊かれて、答えたのが"No use to ask me. I've been in cold storage."。清水訳は「ぼくに訊いても無駄だよ。ぼくは“冷蔵庫”に入ってたんだ」。村上訳は「尋ねられても困る。ずっと檻の中に入れられていたんだぜ」。田口訳は「きみは訊く相手をまちがえてる。私はしばらく留置場に低温貯蔵されてた身なんだから」。市川訳は「私に聞くな。ずーっと豚箱に入っていた」。

“in cold storage”は「冷蔵されて、保留されて、(米俗)死んで」という意味。ニュアンスからいうと、「保留」が最も近いだろう。当局は事件が落着するまでマーロウをブタ箱に放り込んで、何もできないようにしていたわけだ。マーロウが留置場にいたのは記者であるロニー・モーガンは先刻承知だ。あえてブタ箱と訳す必要はない。「聞くだけ野暮というものだ。冷たくなってたんでね」と俗語を活かして訳してみた。

ロニー・モーガンによるその答えは「誰かが見返りをくれる。それが理由だ」。原文は“Because somebody made it worth his while, that's why." “make something worth one's while”というフレーズを分かりやすく言い換えると「何かをするために誰かに金を払うこと」だ。清水訳は「だれかが彼にそれだけのことをしてやってるからさ」。実にすっきりした訳だ。村上訳は「手を引くのとひきかえにもっとおいしいものが与えられるからだよ。さる筋からね」。田口訳は「手を引けば地方検事には誰かからその見返りが与えられる。だからさ」。市川訳は「それは地方検事が留守だと都合がいい奴がいるんだ。それで出張した」。何冊もの新訳を読んでから清水訳を読むと、改めて清水訳の凄さがわかる。

ロニー・モーガンの話を聞いたマーロウにはまだ余裕がある。それは次のパラグラフの冒頭にある“I leaned my head back in a corner of the car.”というマーロウの態度から分かる。“lean back in a ~”は「〜の背にもたれる、〜にふんぞり返る」の意。清水訳は「私は車の隅に頭をくっつけた」。村上訳は「私は車内の角のところに頭をもたせかけた」。田口訳は「私は車の隅に頭を預けて言った」。市川訳は「私は車のピラーに頭を持たれかけた」。“a corner of the car”を「ピラー」と訳すのも気になるが、問題は「持たれかける」だ。「持たれかける」という日本語はない。ここは「もたれる(自動詞)」か「(頭を)もたせかける(他動詞)」とするべきだ。

続いてロニー・モーガンはマーロウの誤りを指摘する。新聞社は社主にまつわるスキャンダルは扱わない、と。そして、こう言う“The trial would have drawn feature writers from all over the country.”。“draw”は「ものを(ある方向に)引き寄せる」。“feature writer” は「特集記事の筆者」。つまり、裁判に引き寄せられるのは、一面トップを飾る特集記事を任される各紙の敏腕記者のことだ。清水訳は「腕ききの記者」。村上訳は「花形記者」。田口訳は「特集記事専門の記者」。市川訳は「特集記者」となっている。市川訳は必要でないことには長い説明を加えるくせに必要なところでは筆を惜しむ。「特集記者」という語は一般に使われているのだろうか。寡聞にして知らない。

ロニー・モーガンの車がローレル・キャニオンに到着する。マーロウの家があるのはその外れなので、道案内が必要になる。

“We reached Laurel Canyon and I told him where to turn off the boulevard and where to turn into my street.”(ローレル・キャニオンまで来ると、私はどこで大通りを外れ、私の家のある通りに入るか教えた)

何の変哲もない文で、清水訳は「車がローレル・キャニオンにたどりついた、私は大通りからまがるところと私の家の路地にまがるところを彼に教えた」。村上訳は「ローレル・キャニオンに着いて、うちまでの道筋を私は教えた」。田口訳は「ローレル・キャニオン大通りにはいると、私はどこで大通りを離れるか指示し、その道から私の家のある通りにはいる道まで教えた」。村上訳が珍しくあっさりとしているのに驚く。田口訳はやけに詳しい。

市川訳は「幹線道路をローレル・キャニオンまで来ると、交差点を示し、そこから坂を上がるよう伝えた」。どうしてここに「坂を上がる」という原文にない指示が入るのかは第一章にその原因がある。マーロウがその年に住んでいた家の説明がそこにあるからだ。市川訳では「その家はこじんまりしていて、丘の中腹で終わる坂道に面していた」とある。原文は“It was a small hillside house on a dead-end street”清水訳は「行き止まりの通りにある丘の中腹の小さな家」。村上訳は「袋小路になった通りの、丘の斜面に建てられた小さな家」。田口訳は丘の斜面を這う袋小路に建つ小さな家」と、どれも坂道についての言及はない。

“hillside house”は、カリフォルニアを舞台にしたアメリカ映画によく登場する、斜面にへばりつくように建てられた家のことだ。マーロウの借りている家は下の道から長い階段を上がるようになっている。丘の中腹というのだから、坂道を上るのは確かだが、「丘の中腹で終わる坂道」というのは正しくない。

ロニー・モーガンは出番は多くないが、マーロウの真意を知る数少ない人物の一人だ。その彼にしてはじめて吐ける名セリフがこれだ。

"You've got a friend to say goodbye to," he said. "He must have been that if you let them toss you into the can on his account."

“toss into the can”は「ブタ箱に放り込む」という意味の俗語。“on one’s account”は「誰かの(利益の)ために」という意味。“he said”の部分を略して引用すると、清水訳は「さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ。彼のために豚箱に入ってたとしたら、それこそほんとうの友だちだったはずだ」。村上訳は「あんたにはさよならを言うべき友だちがいた。彼のために監獄にぶち込まれてもいいと思えるほどの友だちがね」。田口訳は「あんたにはさよならを言わなきゃならない友達がいた。そいつのためなら留置場に入れられてもいいと思えるほどの友達が」と村上訳を踏襲している。

市川訳は「ずっと一人だった?違うだろ、別れを告げなきゃならん友達がいたんだろ。もし誰かのために甘んじて豚箱に入ったのならその誰かだよ、私の言う友達とは」だ。「ずっと一人だった?違うだろ」という突っ込みには少し説明がいるだろう。このロニー・モーガンのセリフの前にマーロウのいかにもハード・ボイルド調のセリフがある。“I’ve got lots of time to be alone. Too damn much.” 市川氏はここを「いままでうんざりするほど一人だった。たっぷりすぎるほどな」と訳している。この訳だと、マーロウが孤独な暮らしを倦んじているように読める。ここは留置場で過ごした時間のことを言っているのではないか。因みに村上訳では「一人になる時間ならたっぷりあったよ。いやというほど」だ。市川訳はやや感傷的過ぎるように思える。

"Who said I did that?" と訊いたマーロウに返したロニー・モーガンの別れの挨拶の訳文にも違和感がある。原文はこうだ。

"Just because I can't print it don't mean I didn't know it, chum. So long. See you around."

“churn” は「おい、君」などの呼びかけの言葉。市川訳は「紙面に出ないから即、ブンヤは知らない、なんて思ったら間違いだ、おっさん。じゃな、またな」 これでは、《ジャーナル》がそこいらのゴシップ紙に思えてくる。後に分かることだが、《ジャーナル》はへたな忖度なんかとは無縁の気骨のある新聞だ。ロニー・モーガンは駆け出し記者かもしれないが、取材相手に対して「おっさん」はないだろう。清水、村上訳は“chum”を訳していない。田口訳は「記事にできないからと言って何も知らないとはかぎらない。それじゃ、探偵さん。また会おう」だ。

家に帰ったマーロウが、たまっていた新聞を読み直す場面がある。

“ It was pseudo English with a lot of peaked roof and it would have cost a hundred bucks to wash the windows.”

ハーラン・ポッターの家について、“peaked roof”を村上、田口両訳が「尖塔」と訳しているのが気になる。「尖塔」は“spire”で、“peaked roof”は「尖った屋根のこと。尖った屋根というのは棟木を持つ屋根のことで、大きな屋敷では単調になりがちな屋根に変化をつけるためのペディメント(入り口や窓などの開口部上の切妻形を形成している三角壁)を設けることがある。“peaked roof”はそれを指しているのではないか。清水訳は「とがった屋根」、市川訳は「とんがった屋根」だ。垢抜けない訳語だが「尖塔」よりはいい。

記事を読んだマーロウがシルヴィアのことをどう書いているか。これには、マーロウのシルヴィアに関する心証が現れていると見なければならない。二度の出会いがあんな具合だから、当然いい印象は抱いていない。それが訳から伝わってくるか。

“It told me nothing except that a rich and beautiful girl had been murdered and the press had been pretty thoroughly excluded.”

“a rich and beautiful girl”を清水訳は「金持の美しい女」と訳している。これが村上訳では「若くて美しい金持ちの女性」に変わる。これを受けた田口訳も「若くてきれいな金持ちの女」だ。いったいどこから「若くて」が出てくるのか? “girl”はこの場合、ハーラン・ポッターの「娘」という意味で使われているだけのことで年齢については関係がない。市川訳は「裕福で美しい女性」と訳されている。まちがってはいないが、マーロウから見たシルヴィアは「裕福で美しい女性」なんかじゃない、と思う。

なぜ新聞は屋敷の写真を撮ることができなかったか、という点についてマーロウはこう推理する。老人が雇った大勢の警備員が屋敷を固めていたはずだ、と。

“If Terry talked to his father-in-law in Pasadena the very night she was killed, there would have been a dozen guards on the estate before the police were even notified.”

“a dozen”は文字通り「一ダース」のことだが、口語では「かなりたくさん」という意味で使われることもある。清水訳は「一ダースぐらいの」。村上訳ではこれが「何十人もの」と激増する。田口訳は「十人を超える」と妥当な線に戻る。市川訳は「一ダースほどの」だ。村上氏は〈〜+s〉の“dozens”(何十の、数十の)と読み違えたのだろうか。

短い章だが、数え上げればまだまだ多くの異同がある。たとえば“Outside in a bush a mockingbird ran through a few trills”を村上訳は「茂みの外で一羽のモノマネドリが何度かトリルのおさらいをし」としているが、「茂みの外」ではなく「家の外の茂みの中」だ。“run through”を「おさらい」と訳したのは村上訳だけなので、これは実に惜しい。

この章を精読して、あらためて思うのは初めて訳した訳者のすごさである。たしかに村上氏のいう通り、何年もたてば言葉も古びてくる。手直しが必要になる部分もあるだろう。それはそれとして、原作者が生み出した登場人物の思惑や言動を英語の文脈を活かしつつ、的確な日本語に置き換えてゆくという難行をみごとにやり遂げた清水訳へのリスペクトを失ってはならないと思う。特に最新訳である市川訳は、今の時代の読者に合わせようとするあまり、当世風の言葉に頼り過ぎているきらいがある。これでは、しばらくしたらまた新しい訳が必要になるのではないか。翻訳というのはもっと長いスパンで考えるべき仕事だと思う。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

 

“up (down) one’s street”は「お手のもの」

【訳文】

早番の夜勤の看守は肩幅の広い金髪の大男で人懐っこい笑みを浮かべていた。中年で、もはや哀れみや怒りからは縁遠くなっていた。何事もなく八時間をやり過ごすことが望みで、たいていのことは卒なくこなしているように見えた。彼が私の房の鍵を開けた。

「お客だ。地方検事局から男が来てる。寝てなかったのか?」

「寝るにはまだ早い。今、何時だ?」

「十時十四分」彼は戸口に立ち、房内を見渡した。下の段には毛布が一枚敷かれ、一枚は枕代わりに折りたたまれていた。ゴミ箱には使用済みのペーパータオルが数枚、洗面台の縁には小さくまるめて水栓代わりにしたトイレットペーパーの塊があった。彼は納得してうなずいた。「何か私物は?」

「身ひとつだ」

彼は監房の扉を開けたままにした。私たちは静まり返った廊下を歩いてエレヴェーターに向かい、受付デスクへと降りた。グレーのスーツを着た太った男がデスクの傍でコーンパイプをふかしていた。指の爪は汚れ、体臭がきつかった。

「地方検事局のスプランクリンだ」彼はどすをきかせて言った。「ミスタ・グレンツが上で待ってる」彼は尻に手を伸ばして手錠を取り出した。「サイズが合うか試そうぜ」

看守と受付係は、楽しくてたまらないという顔でにやにやした。「どうした、スプランク? エレヴェーターで襲われるのが怖いのか?」

「面倒を避けたいだけだ」と彼はうなるように言った。「一度逃げられたことがあってな、その時はこってりしぼられた。行こうぜ、若いの」

受付係が用紙を押しつけると、彼は仰々しい身振りでサインした。「用心するに越したことはない。この街じゃ、何が起こるかわからないからな」

トロールカーの警官が血まみれの耳をした酔っ払いを引っ張ってきた。我々はエレヴェーターに向かった。「厄介なことに巻き込まれたな、あんた」スプランクリンがエレヴェーターの中で言った。「厄介事が山積みだ」人が窮地に陥ることが彼には嬉しくてたまらないようだ。「この街じゃ、厄介事にだけは事欠かないからな」

エレヴェーター係が振り返って私にウィンクした。私はにやりとした。

「妙なまねをするなよ、若いの」スプランクリンが深刻ぶって言った。「前に人を撃ったことがある。逃げようとしたんだ。死ぬほどしぼりあげられた」

「どっちにころんでもしぼられるってわけか?」

彼はしばらく考え込んだ。「ああ」と彼は言った。「どっちにしろ、油をしぼられることになる。生きづらい街だよ。人を人とも思わないんだ」

我々はエレヴェーターを降り、両開き扉から検事局の中に入った。交換台には人気がなく、電話は夜間用回線につながれていた。待合室にも誰もいなかった。 二つのオフィスに明かりがついていた。 スプランクリンは小さい方の部屋のドアを開けた。そこには机、ファイリング・キャビネット、固そうな椅子が一、二脚、そして、硬そうな顎と愚かな眼をしたずんぐりした男がいた。 顔を真っ赤にして机の抽斗に何かを押し込んでいる最中だった。

「ノックくらいしないか」彼はスプランクリンに怒鳴った。

「すみません、ミスタ・グレンツ」スプランクリンはもぐもぐ言った。「囚人に気を取られてたもんで」

彼は私をオフィスの中に押し込んだ。「手錠を外しますか? ミスタ・グレンツ」

「何でまた手錠なんかかけたんだ?」グレンツはぶすっと言った。彼はスプランクリンが私の手首から手錠を外すのを見ていた。鍵束はグレープフルーツほどの大きさだったので、私の手錠の鍵を見つけるのに苦労していた。

「よし、出ていけ」グレンツは言った。「外で待ってて、こいつを連れ帰れ」

「もう非番なんですが、ミスタ・グレンツ」

「おまえの非番は、私が非番だといったときからだ」

プランクリンは顔を赤らめ、太った尻を部屋の外に出し、そろそろと後じさりして出て行った。グレンツは容赦なく彼を目で追い、ドアが閉まると同時に同じ表情でこちらを見た。私は椅子を引いて座った。

「座っていいとは言っておらん」グレンツは怒鳴った。

ポケットからばらで持っていた煙草を取り出し口に咥えた。「煙草を吸っていいとも言っておらん」とグレンツはわめいた。

「監房では許されていた。なぜここは駄目なんだ?」

「なぜならここはおれのオフィスだからだ。ここのルールは俺が決める」生のウィスキーの匂いが机越しに漂ってきた。

「もう一杯やるといい」と私は言った。「それで落ち着くんじゃないか。とんだお邪魔をしたようだ」

彼の背中が椅子の背に強くぶつかった。顔色が赤黒くなった。私はマッチを擦って煙草に火をつけた。

しばらくしてグレンツはおだやかに言った。「いいだろう、タフガイ。一筋縄ではいかないやつってわけか? だが、覚えとくんだな。ここにやってくるやつはサイズも形も色々だが、出て行くときには同じサイズだ。小さくなってる。形も一緒だ。背を丸めている」

「用は何だ、ミスタ・グレンツ? それと一杯ひっかけたかったら遠慮はいらない。疲れたり、いらいらしたり、仕事がきつくなると、私も一杯やるクチだ」

「どうやら自分が窮地に陥ってることに気づいていないようだな」

「窮地に陥ってるとは思ってない」

「今に分かるさ。その間におれとしては遺漏のない供述がほしい」彼は机の端の録音機を指ではじいた。「今録音して、明日口述筆記させる。もし首席検事補がよしと言ったら、街を出ないという約束で、ここから出してやる。さあ、始めよう」彼は録音機のスイッチを押した。その声は冷たく、断定的で、どうやれば底意地が悪く聞こえるか知っている者の声だった。しかし、右手は机の引き出しのほうにじりじりと進んでいた。鼻に静脈が広がるには若すぎる歳だが、すでにその兆候があり、白眼の色も悪かった。

「うんざりしてるんだ」と私は言った。

「何にうんざりだって?」と彼は訊き返した。

「熱心な小者連中が、殺風景な小部屋で、小耳にはさんだそらごとをしゃべり散らすことにさ。重罪犯監房で五十六時間を過ごした。その間、誰も私を小突きまわさず、自分のタフさを証明しようともしなかった。その必要がなかったからだ。やろうと思えばいつでもできるからな。だいたい、どうして私はここに放り込まれたんだ? 嫌疑があるから引っ張られたんだろう。警官の質問に答えなかったからって、人を重罪犯監房に押し込めるような法律がどこにある? 何の証拠があるというんだ? メモ用箋に残された電話番号だけだ。私を拘留して何を証明しようとしたんだ? そうする力を持っているということ以外、何もない。今は今であんたが同じ調子で、自分がどれだけ力を持ってるかを思い知らせようとしているわけだ。あんたが自分のオフィスと呼ぶ、この葉巻入れの中でね。私をここに連れてくるために、夜遅くに気の弱い子守りを送り込んできた。五十六時間、一人で考え事をさせておいたら、固い頭が粥みたいに軟らかくなるとでも? 大きな留置場の中でひどく寂しくなって、あんたの膝の上で頭を撫でてほしがるとでも思ったのか? よせよ、グレンツ。一杯やって人間らしくなれよ。あんたはあんたの仕事をしてるだけだ。そんなことはわかってる。だが、始める前にこけおどしはよせ。あんたの器量が大きいなら脅しは必要ないし、脅しが必要というのなら、あんたは私を小突き回せるほどの器量を持ち合わせちゃいない」

彼はそこに座って耳を傾け、私の顔を見た。そして不機嫌そうににやりと笑った。「いいスピーチだった」と彼は言った。「さて、たわごとを吐き出してもらったところで、陳述をしてもらおうか。一問一答で行くか、それともおまえが好きなように話すか?」

「小鳥に話してただけだ」私は言った。「そよ風が吹くのを聞いてたのさ。私はどんな陳述もするつもりはない。あんたは法律屋だ。私にそんな義務がないことを知ってるはずだ」

「その通り」彼は冷やかに言った。「法律は知っている。警察の仕事ぶりも。おまえに身の潔白を明かす機会を与えてやろうというのさ。その気がないなら、それはそれでいい。明朝十時に予備審問を開いて罪状認否を問うこともできる。保釈が認められるかもしれないが、簡単に通す気はない。覚悟しておくことだな。おまけに金もかかる。まあ、それも一つの方法ではある」

彼は机の上の一枚の紙に目をやり、読んで裏返した。

「容疑は何だ?」私は訊いた。

「三十二条、事後従犯。重罪だ。クエンティンで五年は食らうだろう」

「レノックスの逮捕が先だろう」私は探りを入れるように言った。グレンツは何かを握っている。その態度から感じる。どれくらいかはわからないが、たしかに何かを知っている。

彼は椅子にもたれかかり、ペンを手に取り、両の掌の間にはさんでゆっくり転がした。 それからにやりと笑った。 楽しんでいるのだ。

「レノックスは身を隠すのには不向きな男だよ、マーロウ。大抵の場合写真が必要になる。それも鮮明な写真が。顔の片側のほとんどが傷に覆われている男の場合は別だ。三十五歳をこえていないのに白髪ということもある。目撃者が四人もいる。まだ増えるかも知れない」

「何の目撃者だ?」口の中にグレゴリアス警部に殴られたときのような胆汁の苦さを感じた。それが首の痛みを思い出させた。私はそっとさすった。

「とぼけるなよ、マーロウ。サン・ディエゴ高裁の判事夫妻がたまたま飛行機に乗る息子夫婦を見送りに来ていたんだ。四人全員がレノックスを見ているし、判事の妻は彼が乗って来た車と誰が一緒だったかも見ている。万事休すだ」

「そいつはすごい」私は言った。「どうやって見つけたんだ?」

「ラジオとテレビでニュース速報を流したのさ。レノックスの特徴を説明するだけでよかった。判事が電話してきた」

「いいね」と私は公平を期して言った。「だが、もう少し必要だ、グレンツ。彼を捕まえて、彼が殺人を犯したことを証明しなければならない。そして、私がそれを知っていたことを証明しなければならない」

彼は電報の裏を指ではじいた。「一杯やらせてもらうよ」と彼は言った。「夜勤のし過ぎだ」彼は抽斗を開け、ボトルとショット・グラスを机の上に置いた。グラスの縁までなみなみと注ぐと一息に呷った。「これでよくなった」と彼は言った。「さっきよりずっとよくなった。悪いがあんたにはお勧めできない。拘留中の身だからな」彼はボトルに栓をして遠くに押しやったが、手が届かないほどではない。「そうそう、あんた言ってたな、おれたちが何かを証明しなきゃならんと。そのことだが、もしかしたらすでに自白してるかもしれんぞ。がっかりしたか?」

細く、ひどく冷たい指先が背筋を上から下までつたっていった。凍えた虫が這うみたいに。

「それなら、どうして私の供述を欲しがる?」

彼はにやりと笑った。「びしっとした記録が好きなんだよ。いずれレノックスは連れ戻されて裁判にかけられる。手に入れられるものならすべてほしい。あんたから得たいものはそんなに多くない。あんたはほとんど口をつぐんでいてもやり過ごせる――協力しだいでな」

私は彼を見つめた。手は電報を弄っていた。椅子の上で尻をもぞもぞさせ、ボトルに目をやったが、そちらに手を伸ばさないように意志の力を総動員する必要があった。

「あんたは多分、どういう筋書きになっていたのか、すべて知っておきたいんだろう?」いわくありげな目つきをして突然言った。「いいだろう、自惚れ屋。こちらの手の内をさらしてやろう。かついでいるんじゃないってことを分らせてやるよ。こういうことさ」

私が机の上に身を乗り出すと、ボトルに手を伸ばしたとでも思ったのか、彼はボトルをひったくって抽斗に戻した。私はただ煙草の吸い殻を灰皿に落としたいだけだったのだが。私がまた椅子の背に凭れ、もう一本の煙草に火をつけると、彼は早口にしゃべりだした。

「レノックスはマサトランで飛行機を降りた。飛行機の乗り継ぎに使われる人口三万五千人ほどの町だ。彼はそこで二、三時間ほど姿を消した。やがて、長身で黒髪、浅黒い肌をし、顔に無数のナイフの傷痕のある男が、シルヴァノ・ロドリゲスという名でトレオン行きの便を予約した。流暢なスペイン語ではあったが、その名に見合うほど上手くはなかった。それに、そんな浅黒い肌のメキシコ人にしては背が高すぎた。パイロットは空港に彼のことを報告した。トレオンでの警官の対応は後手を踏んだ。メキシコの警官は概して意気軒高とは言えない。彼らの得意技は銃を撃つことだ。警官が署を出た頃、男は飛行機をチャーターして小さな山間の町に向かっていた。湖のあるひなびた避暑地、オタトクランだ。チャーター機パイロットは、テキサスで戦闘機のパイロットとして訓練を受けていた。彼は英語が堪能だった。レノックスは彼が言ったことを聞き取れないふりをした。

「もしそれがレノックスだったとしたらだ」私は口をはさんだ。

「なあ、ちょっと待てよ。それはまちがいなくレノックスだった。さて、彼はオタクトランで降り、今度はマリオ・デ・セルヴァという名でホテルにチェックインする。彼はモーゼルの七・六五口径の銃を身に着けていたが、銃を持つことなどメキシコでは珍しくもない。しかし、チャーター機パイロットはどこかうさん臭さを覚え、地元の警察に連絡した。彼らはレノックスを監視下に置いた。メキシコ・シティーに確認し、それから踏み込んだ。

グレンツは定規を手に取り、それに視線を沿わせたが、それは私を見ないようにする意味のないジェスチャーだった。

私は言った。「なるほど、何とも気が利くパイロットだ。客に対する心配りも申し分ない。いかにも胡散臭い話だ」

彼は急に私を見上げた。「我々は」と彼は素っ気なく言った。「裁判を早く終わらせたい。第二級殺人を認めるならそれでいい。あまり踏み込みたくない領域もある。結局のところ、あの一族はかなりの影響力を持っているからな」 

「ハーラン・ポッターのことか?」

彼はかるく頷いた。「おれに言わせりゃ、すべてが見立て違いなのさ。スプリンガーはこの一件で大成功を収めることもできたはずだ。セックス、スキャンダル、金、美しくもふしだらな妻、その夫は戦争で負傷した英雄ときた ―― あの傷は戦地で負ったとおれは見ている ―― 何週間も新聞の一面トップを飾るだろう。国じゅうの新聞がこぞって取り上げるだろう。だから我々としちゃ、さっさと片づけてしまいたい。彼は肩をすくめた。「いいさ、地方検事がその気なら、好きにすりゃいい。陳述の方はどうなってる?」彼は録音機を振り返った。それはライトを点灯させながら、ずっと小さな鼻歌を歌っていた。

「切ってくれ」と私は言った。

彼は振り向きざまに、私に悪意のある眼差しを向けた。「刑務所が好きなのか?」

「それも悪くない。相手が悪かったな、けど好き好んで検察側の証人になりたいやつがいるか? 道理をわきまえろよ、グレンツ。あんたは私をタレコミ屋にしようとしているんだ。私は頑固かもしれないし、感傷的かもしれない、だが現実的でもある。もしあんたが私立探偵を雇わなければならないとしたら......ああ、そんなことを考えるだけで虫唾が走るのはわかっているが、それが唯一の解決法だったとしたら、友だちを売るようなやつを選ぶか?」

彼は憎らしそうに私を見つめた。

「ほかにもある。あんたは、レノックスの逃げ方が少々見えすいていやしないか、と思わなかったのか? もし彼が捕まりたかったら、そんなに苦労する必要はなかった。 もし捕まりたくなかったら、メキシコでメキシコ人になりすますなんてことはしない。彼はそんな馬鹿じゃない」

「何が言いたいんだ?」グレンツはもう唸り声になっていた。

「つまり、あんたはただ大量の戯言をでっちあげ、私に詰め込んでいるだけかもしれない。オタトクランには髪を染めたロドリゲスもマリオ・デ・セルヴァもいなかった。レノックスがどこにいるのか、あんたは海賊黒ひげの宝の在り処と同じくらい知らないということさ」

彼はまたボトルを取り出してグラスに一杯注ぎ、前と同じように一気に飲み干した。 次第に緊張がほどけてきた。彼は椅子の上で体の向きを変え、録音機のスイッチを切った。

「おまえを裁判にかけてやりたいよ」と彼は苛立たし気に言った。 「小賢しい野郎だ。おまえみたいなやつは徹底的にしぼりあげてやりたくなる。 今回の容疑はこれからもずっとおまえにかけられたままだ。歩いてるときも、食べてるときも、寝ているときもいっしょだ。それで、この次おまえがちょっとでもおかしな真似をしてみろ、死ぬほどしぼりあげてやる。さてこれから、はらわたがねじくれるようなことをしなきゃならん」

彼は机の上に手を伸ばし、伏せてあった紙を手もとに引き寄せ、表に向けてサインした。ひとが自分の名前を書いているときは、いつもわかるものだ。特別な動き方をするからだ。そして、彼は立ち上がり、机を回り込み、彼の靴箱サイズのオフィスの扉を開けて大声でスプランクリンを呼んだ。

太った男が例の臭いとともに入ってきた。グレンツは男に書類を渡した。

「おまえの釈放命令書にサインした」彼は言った。「これでも公僕でね、ときには意に添わぬ命令にも服さにゃならん。なぜおれがサインしたか知りたいか?」

私は立ち上がった。「話したいなら」

「レノックスの事件はもう終わったからだよ、ミスタ。レノックス事件なるものはもうどこにも存在しない。彼は今日の午後ホテルの部屋にすべてを告白した文書を残して拳銃自殺した。さっき言ったオタクトランでな」

私はそこに呆然と立ち尽くしていた。眼には何も見えていなかった。視界の端にグレンツがゆっくりと後ずさりするのが見えた。まるで私が殴りかかろうとしているとでも思ったかのように。その時、私はよほど険悪な顔をしていたにちがいない。やがて、彼はまた机の後ろにおさまり、スプランクリンが私の腕をつかんだ。

「さあ、行くんだ」とスプランクリンは哀れっぽい声で言った。「人ってのは、たまには夜、家に帰りたくなるものだ」

私は彼といっしょに外に出てドアをそっと閉めた。今誰かがそこで死んだばかりの部屋を後にするかのように。

【解説】

二〇二三年五月に市川亮平氏による新訳『ザ・ロング・グッドバイ』(小鳥遊書房)が刊行されたので、これで邦訳は四冊となった。そこで、タイトルを「五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む」と変更することにした。折を見てこれまでの分も見直していきたい。

“He wanted to put in eight easy hours and he looked as if almost anything would be easy down his street..”(何事もなく八時間をやり過ごすことが望みで、たいていのことは卒なくこなしているように見えた)

文末の “down his street” だが、村上訳、田口訳では「(自分の)受け持ち区域」と訳されている。清水訳は「無事に八時間がすぎることだけが望みで、そのほかには何も屈託がないようだった」と敢えて触れていない。最新の市川訳は「八時間、大過なく勤めるのが望みで、人生は全て平穏無事であると思っているように見える」となっている。“up (down) one’s street”は「好みに合って、お手のもの」という意味の口語表現。この男がものごとに波風を立てないようにして生きることを信条にしていることを言っているだけのことで、「受け持ち区域」は関係がない。

“There were a couple of used paper towels in the trash bucket and a small wad of toilet paper on the edge of the washbasin.”(ゴミ箱には使用済みのペーパータオルが数枚、洗面台の縁には小さくまるめて水栓代わりにしたトイレットペーパーの塊があった)。この“small wad”だが、清水訳で「トイレットペイパーを巻いたの」と訳されていたのを、村上訳では「トイレット・ペーパーを水栓代わりに小さく丸めたもの」と補われ、田口訳もトイレットペーパーを丸めて栓がわりにしたもの」と踏襲されていた。ところが、市川訳では「小さなトイレット・ペーパーのロール」と先祖返りしている。

“wad”は辞書では、「(柔らかいものを丸めた)詰め物、当て物、パッキング (荷造り・穴ふさぎなどに用いる)」(名詞)。動詞の場合でも「〈穴などを〉(詰め物などで)ふさぐ」という意味だと書かれている。留置場内では、洗面台のゴム栓をつないでいるチェーンも、何らかの道具に使われることを懸念して外されているのだろう。この”wad”をわざわざ「ロール」に変える意味がわからない。

地方検事局のグレンツはケチな権力をひけらかす小心者だ。対抗姿勢をあらわにしたマーロウは、相手の言葉に構わず椅子に座り、煙草を取り出す。

“I got a loose cigarette out of my pocket and stuck it in my mouth.”(ポケットからばらで持っていた煙草を取り出し口に咥えた)。この“loose cigarette”だが、清水訳では「よれよれ(傍点四字)のタバコ」。村上訳は「ばら(傍点二字)で持っている煙草」。田口訳では「剥き出しで持っていた煙草」になっていた。市川訳では「巻きの緩んだタバコ」になっている。“loose”には「ゆるい」の意味もあるが「ばらの、包装されていない」の意味もある。収監時に所持品検査でパッケージごと取り上げられたものの、何本かはお目こぼしに預かったのでは、と推察される。ポケットから取り出すときに「巻きの緩んだ」と認識するのはいくらマーロウでも難しかろう。

マーロウの胆の据わっているのを見て、グレンツはお気に入りの決め科白を吐く。“They're all sizes and shapes when they come in here, but they all go out the same size--small. And the same shape--bent."(ここにやってくるやつはサイズも形も色々だが、出て行くときには同じサイズだ。小さくなってる。形も一緒だ。背を丸めている)。グレンツは“They're all sizes and shapes when they come in here”とだけ言っており、具体的な格好やサイズには触れていない。これまでの訳は「サイズも恰好もいろんな(清水)」、「格好も違えば、サイズも違っている(村上)」、「サイズも形も様々だ(田口)」。

ところが、市川訳ではこうなっている。「ここには色んな奴が来る、でかいの細いの、威勢のいいの、しぶといの。だがな、出てくときにはみんなおんなじ大きさになる――ちっこくな。そしてみんなおんなじ格好だ――うなだれてな」。下線を施した部分は原文にはない。訳者の創作である。市川訳は一見こなれた訳に見えるが、随所に訳者の補説が入る。これまでの訳者は、それなりに原作に忠実に訳そうとしてきた。かなり噛みくだいた訳に見える村上訳でも、そこは変わらない。原文にないものを翻訳者がつけ加えることをどこまで許容するのかは議論が分かれるところだが、分かりづらい部分を解きほぐすのと、勝手に文章をつけ加えるのはわけがちがう。ここに、市川氏が挿入した文が必要かどうか。私見ではさして必要とも思えない。訳者としての分をわきまえるべきではないだろうか。

"Hard little men in hard little offices talking hard little words that don't mean a goddam thing.”(熱心な小者連中が、殺風景な小部屋で、小耳にはさんだそらごとをしゃべり散らすことにさ)は、チャンドラーお得意の同じ言葉を使って異なる意味を表現するレトリックだ。“hard”も“little”も、よく使われる形容詞なので、三度繰り返されるここをどう訳すかは訳者の腕が問われるところだ。

清水訳は「殺風景な部屋でくだらない人間がくだらないことをしゃべることさ」と例によってあっさり意訳してすませている。これもありかも知れない。

村上訳は「きりきりしたちっぽけなオフィスに、きりきりしたちっぽけな男がいて、きりきりしたちっぽけな言葉で、中身のない話をすることにだよ」

田口訳は「めんどうくさいけちなオフィスで、めんどうくさいけちな男たちに、めんどうくさいけちなたわごとを聞かされることにだ」

市川訳は「不愉快な小物共に不愉快な小部屋で空っぽで不愉快な話をだらだらと聞かされることにだ」

清水氏以外の訳者は“hard little”を、それぞれ「きりきりしたちっぽけな」、「めんどうくさいけちな」、「不愉快な小~」と、あくまで一続きの二語を三度使うことに固執しているが、翻訳の文章は言葉そのものよりも文意を大事にするべきだ。“little”は後に来る名詞の大きさを表しているので、あまり無理のない訳になっているが、“hard”は、後に続く名詞によって訳し方を変える必要がある。村上訳の「きりきりした(ちっぽけな)オフィス」も田口訳の「めんどうくさい(けちな)オフィス」も、じつのところどんなオフィスなのかよくわからない。解釈を読者に委ねている、というより訳者としての仕事の放棄ではないか。市川訳の「不愉快な」は、訳語を練ること自体を放棄しているとしか思えない。

グレンツの話のなかに、レノックスらしき人物が英語がわからないふりをした、というくだりが出てくる。マーロウがすかさず口をはさむ。"If it _was_ Lennox,"と。これだけのところが市川訳だとこうなる。「もしその男がレノックスなら「ふり」というのは正しい」。「『ふり』というのは正しい」とありもしないマーロウの科白をつけ加える必要があるだろうか? こういうのを蛇足という。

もうひとつ、市川訳は、これまでの訳で踏襲されてきた地名、人名などの固有名詞をいくつも改変している。たとえば、レノックスが飛行機を降りた町の名は、これまで「オタトクラン」(Otatoclán)だったが、市川訳では「オクトクラン」になっている(一度きりではないので、単なる誤植ではない)。また「シルヴァノ・ロドリゲス(Silvano Rodriguez)」(村上、田口訳ではシルバノ・ロドリゲス)が、「シルビオ・ロドリゲス」になっている。市川氏が参考にしたと書いているブラック・リザード版で確認したが、原文は上記の綴りになっている。改変のわけが知りたいところだ。

まだある。拳銃のことだ。「訳者あとがき」で市川氏は村上訳と田口訳を参考にしたと記している。実はレノックスがメキシコに逃亡する際に持っていた拳銃は原文では“Mauser 7.65”と書かれている。しかし、後にハーラン・ポッターがこの銃のことを「PPK」と呼んでいることから、これはモーゼルではなくワルサーだったことが明らかだ。村上訳までは原文通り「モーゼル」となっていたのを、原著者の誤りだとし、「ワルサー」に書き換えたのが田口訳だった。ところが、市川氏はそれを元に戻し、あろうことか、原文にあった「PPK」という表記のほうを削除してしまった。村上訳には「PPK」という記述が残っている。これは、原作者の誤りは誤りとしてそのままにしたということだろう。銃器に詳しい読者なら、これは「ワルサー」のことだとわかる。しかし、「PPK」を削除してしまったら、それさえ分からなくなる。訳者として不誠実な態度ではないか。

録音機を切ってくれ、というマーロウに、グレンツは"You like it in jail?"(刑務所が好きなのか?)と訊き返す。それに対するマーロウの答えが"It's not too bad. You don't meet the best people, but who the hell wants to?” 清水訳は「それほど居心地はわるくないからね。たしかにりっぱな人間には会えないが、りっぱな人間なんかに会いたいとは思わない」。村上訳は「とくに悪くはない。立派な人間に会える機会はまずないが、今更立派な人間に会ってどうなるっていうんだ?」。田口訳は「ああ、悪くはない。この上ない善人には会えないが。しかし、誰がそんなやつらに会いたがる?」と、ほぼ同じ訳だ。

市川訳ではこうだ。「それもいいかもな。私は言いなりになる証人なんかじゃない。誰がおいそれと検察の言いなり証人になんかなるもんか」。“best people”を「立派な人間」と捉えるか、「(誰かにとって)最適な人間」と捉えるかのちがいだ。“not too bad”は「捨てたもんじゃない」という意味の常套句。話はそこで終わり、そこから話題はグレンツがほしがっているマーロウの陳述についてに移っている、というのが市川氏の解釈だ。コンテクストというものがある。「文脈」でもいい。ここで、留置場での人との出会いに話を持っていく必要はない。それより、検察側の証人としての自分の不適格性について語るほうが文脈上よほど自然だ。

腹の虫の収まらないグレンツの最後の恨み節。“This rap will be hanging over you for a long long time, cutie.”(今回の容疑はこれからもずっとおまえにかけられたままだ)。清水訳では「この事件はいつまでもお前にくっついてまわるぞ」。村上訳は「この容疑はこれから長い間、あんたの頭の上に剣のようにぶらさがることになる」。田口訳は「今回の容疑はこれからもずっとおまえの首にかけられたままになる」だ。市川訳では「ここでの会話はお前にいつまでも付きまとう」と新しく「会話」の語をあてているが、“rap "は「おしゃべり」の意味もあるが「犯罪容疑」等を指す俗語でもある。容疑者死亡で幕引きとなってはいるものの、マーロの事後従犯容疑は限りなく黒に近い。ここは「容疑」でいいのでは。蛇足ながら、“hang over”は「(事態・状態・問題などが)以前からそのまま残っている、未決のままである、持ち越される」の意味。「剣」だの「縄」だのという物騒な言葉を持ち出す必要はないように思う。

マーロウを迎えに来たスプランクリンの科白。"Man likes to get to home nights once in a while."(人ってのは、たまには夜、家に帰りたくなるものだ)。“likes”と三人称単数現在の“s”がついていることからわかるように、この”Man”は、人間一般のことである。清水訳は「おれもたまには家で夜をすごしたいからな」と「人間一般」をスプランクリン自身に引き寄せている。村上訳も「たまには人間らしく家に帰って眠りたいんだ」と同様。田口訳は「人間はたまには夜、家に帰りたくなるもんだ」と人間一般という解釈。市川訳は「たまには家に帰らなくっちゃ」と、主語をはっきりさせない。一晩中明かりが灯る部屋を出るにあたり、スプランクリンは「(仕事中毒のグレンツとちがって、おれたち普通の)人間は」と言いたかったのだろう。

第九章だけを見ても、最新の市川訳がかなり大胆な改訳を試みていることがわかる。いかにもプロといった田口訳が出たことで、これが今後の定本かと思ったものだったが、面白い展開になってきた。新訳に対する評価はともかく、もう一度あらためて原文を読み直す機会を与えてくれたことには礼を言いたいと思う。