marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第15章

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【訳文】

《女の声が答えた。乾いたハスキーな声で外国なまりがあった。「アロー」
「アムサーさんとお話ししたいのだが」
「あのう、残念です。とってもすみません。アムサー電話で話すことありません。わたし秘書です。伝言をお聞きしましょう」
「そこの住所はどうなってる? 会いたいんだが」
「ああ、あなたアムサーに仕事で相談したいですか? 彼とっても喜ぶでしょう。でも、彼とっても忙しい。いつ会いたいですか?」
「今すぐに。今日のうちにでも」
「ああ」残念そうな声だった。「それ無理です。たぶん来週なら。予定表を確かめます」
「いいかい」私は言った。「予定表はいいんだ、鉛筆はあるかい?」
「もちろん鉛筆ならあります、が―」
「書き留めてくれ。名前はフィリップ・マーロウ。住所はハリウッド、カフェンガ・ビルディング六一五。ハリウッド・ブルヴァードのアイヴァー・アヴェニュー付近だ。電話番号はグレンビュー七五三七」難しい綴りを教えて、待った。
「イエス。ミースタ・マーロウ。書き留めました」
「マリオットという男のことで会いたい」これも綴りを教えた。「大至急。人の生き死にがかかっている。急いで彼に会いたい。い―そ―い―で―急いで。言い換えれば、至急。分かったかね?」
「あなたのしゃべり方、とっても変です」外国訛りの声が言った。
「大丈夫」私は電話の架台を握りしめて振った。「調子は上々だ。私はいつもこんなふうにしゃべるんだ。これはちょっと奇妙な一件でね。ミスタ・アムサーはきっと会いたがるはずだ。私は私立探偵なんだが、警察に行く前に彼に会っておきたいんだ」
「ああ」声がカフェテリアの定食のように冷たくなった。
「あなた警察のひと、ちがう」
「あのねえ」私は言った。「私は警察のひと、ちがう。私は私立探偵。内密の話。しかし、急いでるのは同じだ。君は折り返し電話する。いいか? 電話番号、持ってる?」
「シ。電話番号、持ってる。ミースター・マリオットの具合、悪い」
「まあね。ピンピンしてはいない」私は言った。「君は彼を知ってるのか?」
「いいえ。あなた、生き死にがかかっていると言った。アムサー多くの人を助けます」
「今回に限って彼の出番はない」私は言った。「電話を待ってる」
 私は電話を切り、オフィス用のボトルに手を伸ばした。肉ひき機の中を通ったような気分だった。十分が過ぎた。電話が鳴り、その声が言った。
「アムサー、六時にお会いします」
「それはよかった。住所はどこだ?」
「車を回します」
「車は持っている。教えてくれれば―」
「車を回します」声は冷たかった。電話の切れる音がした。
 もう一度時計に目をやった。昼食の時間を過ぎていた。さっきの一杯で胃が焼けていた。腹はすいていなかった。煙草に火をつけた。配管工のハンカチのような味がした。私はオフィス越しにミスタ・レンブラントにうなずき、帽子をとって外に出た。エレベーターまで半分ほど来たところで、あることに思い至った。理由も意味もなく思い浮かんだ。煉瓦が落ちてくるみたいに。私は足をとめ、大理石の壁に凭れ、帽子を引っ被り、いきなり笑い出した。
 エレベーターから降りて、仕事に戻る途中の女の子が前を通り過ぎ、振り返って一瞥をくれた。ひとの背骨をストッキングに走る伝線みたいに感じさせずにおかないその手の視線だった。私は手を振ってこたえ、オフィスに戻り、電話機をつかんだ。不動産の土地台帳を担当している知り合いに電話した。
「住所だけで所有者は見つけられるものかい?」
「もちろん。相互参照というものがあるからな。何が知りたい?」
「西五十四番街一六四四番地。所有者がどうなっているのかちょっと知りたいんだ」
「折り返し電話するよ。何番に掛ければいい?」
 およそ三分後に電話がかかってきた。
「鉛筆を用意しろ」彼は言った。「それは、メイプルウッド第四造成地、キャラディ拡張部、十一区画の八番だ。ある種の条件つきだが、記録上の所有者はジェシー・ピアース・フロリアン、未亡人となっている」
「それで、どんな条件がついてる?」
「税金下半期分、十年間道路改修公債二期分、雨水排水査定公債一期分、これも十年間、これらのどれも延滞している。それに最初の信託証書二千六百ドルも未納だ」
「つまり、通告後十分以内に売却可能ってことか?」
「そうすぐには無理だが、担保物件よりは速いだろうな。金額以外には変わったところはない。近所に比べて高額すぎるんだ。新しい家でもないくせに」
「かなり古い家で、ろくに修理もしていない」私は言った。「買うとしたら千五百ドルくらいだろう」
「これは普通じゃないな、四年前に抵当権が肩代わりされたばかりだ」
「それで、誰が持ってるんだ。どっかの投資会社か?」
「いや、個人だ。男の名前はリンゼイ・マリオット。独身。これでいいか?」
 私は忘れてしまった。何を言ったのか、何と礼を言ったのかを。何か言葉のように聞こえたはずだ。私はそこに座ってただ壁を見つめていた。
 急激に胃の調子が戻った。空腹を覚えた。私は下に降りてマンション・ハウスのコーヒーショップで昼食をとり、うちのビルディングの隣の駐車場から車を出した。
 南西に走り、西五十四番街に向かった。今回は手土産にどんな酒も用意しなかった。》

電話口に出た秘書はきついなまりがある。h音を発音しなかったり、r音を巻き舌風に発音する様子が原文から分かるのだが、清水氏は特にそれを伝えようとはしていない。「アロー」の後の台詞、清水訳は「お気の毒ですけれど、アムサーは電話には出ないのです。私は彼の秘書です。ご用件をお聞きしましょう」と、流暢に話している。

村上訳では「ああ、申し訳ありません。まことにすみません。アムサーは電話では話をしないのです。わたし彼の秘書です。伝言をわたしうけたまわります」と後半少したどたどしい。因みに原文は<Ah no. I regret. I am ver-ry sor-ry. Amthor never speaks upon the telephone. I am hees secretary. Weel I take the message?>。<ver-ry sor-ry>や<hees><weel>が訛りを強調しているところだ。

こういうところをどこまで翻訳で生かすかは訳者の考え次第だろう。ただ、チャンドラーはかなりしつこく、この秘書の口調をまねている。そこは訳文でも伝えたいところだ。たとえば「ああ、あなたアムサーに仕事で相談したいですか? 彼とっても喜ぶでしょう。でも、彼とっても忙しい。いつ会いたいですか?」のところ。

原文は<Ah, you weesh to consult Amthor professionally? He weel be ver-ry pleased. But he ees ver-ry beesy. When you weesh to see him?>。清水訳は「アムサーは喜んでお会いしますけれど、とても忙しいので……。いつお会いになりたいんですの?」。村上訳は「ああ、あなたはアムサーに相談があるのですか、彼の仕事として? それはアムサーの喜びとするところです。しかし彼、とーても忙しいです。あなた、いつがご都合よろしいでしょうか」だ。苦心の作だとは思うが「とーても」は、やり過ぎではないか。

「残念そうな声だった」は<the voice regretted>。清水氏は同じ人物の「が続けて話す場合の会話と会話の間に入る<○○said>を省略することが多い。単に<she said>なら、略してもあまり変わりはないだろうが、そこに話し手の感情なり意志なりが表現されている場合、簡単にカットすべきではないと思う。村上訳は「とその声は残念そうに言った」。

「ハリウッド・ブルヴァードのアイヴァー・アヴェニュー付近だ」は<That's on Hollywood Boulevard near Ivar>。清水氏は「ハリウッド・ブールヴァードだ」と<Ivar>をカットしている。後で、迎えの車を回すという話が出てくるので、ここは詳しく書いておく必要があると思う。村上訳は「ハリウッド・ブールヴァードのアイヴァー通りの近くにある」だ。

「イエス。ミースタ・マーロウ。書き留めました」は<Yes, Meester Marlowe. I 'ave that>。清水訳は「書きましたわ、マーロウさん」と、ふつう。村上訳は「はい、ミースタ・マーロウ。書き留めました」。「イエス」と訳したのはわざと。次に出てくる「シ(スペイン語で「はい」の意味)」との類比のためだ。

「これも綴りを教えた」は<I spelled that too>。清水氏はここをカットしている。氏はその前のマーロウの台詞に続く<I spelled the hard ones and waited>をカットしているので、必然的にここもカットせざるを得ない。こういったどうでもいいような細部を大事にすることで、<Marriott>のスペルをまちがえるとアムサーに通じないだろうという、マーロウの老婆心が伝わらない。村上訳は「私はその綴りも教えた」だ。

「急いで彼に会いたい。い―そ―い―で―急いで。言い換えれば、至急。分かったかね?」は<I want to see him fast. F-a-s-t-fast. Sudden, in other words. Am I clear?>。清水氏はここもカットしている。どうも、こういう部分を煩雑だと感じて切り捨てているようだ。ハードボイルドとはいえ、ミステリなんだから、どうでもいいと思えるような些末な事実が後で効いてくることもある。勝手な省略は避けるべきだ。村上訳は「急いでミスタ・アムサーに会わなくてはならない。い・そ・い・で。わかるね。別の言葉でいえば、すぐさま(傍点四字)だ。話、通じたかな?」と丁寧に訳している。

「あなたのしゃべり方、とっても変です」は<You talk ver-ry strange>。清水氏はここを「妙なことおっしゃるのね」と訳しているが、これは誤訳と言っていいと思う。ここで秘書が変だと感じているのは、話の内容でなくマーロウのしゃべり方の方だ。会話の中でのくだくだしいやり取りを無用なものと切って捨てたために、清水氏はこの発言の意味を取り違えたのだろう。村上訳は「あなたのしゃべり方、とーても変です」だ。

「調子は上々だ。私はいつもこんなふうにしゃべるんだ」は<I feel fine. I always talk like that>。清水氏は「ちっとも妙じゃないんだ」と無理やり訳しているが誰が読んでもしゃべり方のことだと分かる。村上氏は「おかしなところはない。私はいつもこんなしゃべり方をするんだ」と、話題になっていうのがしゃべり方であることを強調している。

「帽子をとって外に出た」は<then I reached for my hat and went out>。清水氏はここを「帽子をかぶって廊下に出た」と訳している。実はこの帽子が後でもう一度出てくる。しかし、清水氏は例によってそこをカットしている。それは<and pushed my hat around on my head>の部分だが、村上訳だと「帽子をしばらく頭に馴染ませ」となっている。

<push around>は「乱暴に扱う、こき使う」の意味で、「頭に馴染ませる」というよりは、もっと乱暴な扱いをされたはず。マーロウはそれまで手にしていた帽子をここでかぶったのだろう。おそらく帽子の上からも頭を叩いたにちがいない。何か大事なことを思いついた頭に対してよくやったというように。すでに帽子をかぶらせていた清水氏は帽子の扱いに困ってここをカットした。そんなところだろう。

「ひとの背骨をストッキングに走る伝線みたいに感じさせずにおかないその手の視線だった」は<gave me one of those looks which are supposed to make your spine feel like a run in a stocking>。この背筋がぞわぞわっとする卓抜な比喩を、清水氏は「不思議そうに私を見つめた」と訳してしまう。女性のストッキングから伝線というものが消えた今となっては、是非記憶にとどめておきたい表現だろうに。村上氏は「人の背骨をストッキングの伝線のように思わせてしまうような視線だった」と、淡々と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第14章(2)

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【訳文】(2)

《電話のベルが鳴り、上の空で電話に出た。冷静で非情な、自分を優秀だと思い込んでいる警官の声。ランドールだ。決して声を荒らげることはない。氷のようなタイプだ。
「通りすがりだったんだよな、昨夜ブルバードで君を拾ってくれた娘は? そこまで君は歩いて行った。よくそんな嘘何かがつけるもんだな。マーロウ」
「君に娘がいたとしよう。茂みから飛び出してきたニュース・カメラマンにフラッシュを浴びせられたくはないだろう」
「君は私に嘘をついた」
「お役に立ててよかった」
 彼はしばらく黙ったままでいた。何かを決めかねているように。「いいだろう。なかったことにしよう」彼は言った。「彼女に会ったよ。やってきて自分の知ってることを話していった。私がリスペクトしている人の娘だ」
「彼女は君に話した」私は言った。「そして、君は彼女に話した」
「ほんのさわりだけだ」彼は冷たく言った。「理由があってね。電話したのも同じ理由だ。隠密捜査になりそうだ。宝石ギャングを壊滅するいい機会なんでね。そうするつもりだ」
「一夜明けたらギャングの殺人事件になったわけだ。なるほどね」
「それはともかく、あれはマリファナの屑だったよ。おかしな煙草入れに入ってた―龍がついていたやつだ。そこから出して吸うところを君が見ていないのは確かだな?」
「間違いない。私の前では別の煙草を吸っていた。とはいえ始終目の前にいた訳じゃない」
「なら、いい。それだけだ。昨夜私が言ったことを忘れるな。この件に首を突っ込んだりしないことだ。だんまりを決め込むに限る。さもなければ―」
 彼は間を置いた。私は受話器に向かってあくびをした。
「聞こえたぞ」彼は咬みついた。「たぶん君は私に手が出せないと思ってるんだろう。やるさ。ひとつでも何かやらかしてみろ、重要参考人として逮捕する」
「この事件についちゃ、新聞は蚊帳の外ということかい?」
「殺人の件は漏らすさ―しかし、背後について知ることはないだろう」
「君だって同じだろうに」私は言った。
「君に警告するのは今ので二度目だ」彼は言った。「三度目はないぞ」
「おしゃべりが過ぎる」私は言った。「切り札を握る男に向かって」
 電話は話の途中で一方的に切れた。オーケイ。もううんざりだ。好きにさせておくさ。
 私は頭を冷やすためにオフィスの中を歩き回った。軽く一杯ひっかけながら、時計をまた見たが時間は確かめなかった。それからもう一度机の前に座った。
 ジュールズ・アムサー、心霊顧問医。ご相談は要予約。金と時間をたんまり与えれば、妻に飽いた夫からイナゴの大量発生まで何でもござれ。性生活の欲求不満、孤閨を託つ女、便りの途絶えた息子や娘たち、財産の処分は今か一年後か、その役はファンの期待を裏切ることになるのか、逆に芸域を広げるのか、といった悩みの専門家だ。男たちもこっそりやってくる。オフィスではライオンのように吼える強い男もベストの下に弱音を隠しているものだ。しかし、顧客の大半は女性だろう。ぜいぜいと喘ぐ肥った女、ぷりぷりした痩せた女、夢見る老いた女、エレクトラ・コンプレックスを疑う若い女、サイズも体型も歳も様々な女たちに一つだけ共通点がある―金(かね)だ。ジュールズ・アムサー氏は木曜日に郡立病院で診察しない。支払いは現金。牛乳代をケチる金持ち女でも即金で支払うだろう。
 筋金入りのいかさま師、鳴り物入りの宣伝屋、マリファナ煙草の中に名刺を忍ばせていた男。その名刺が死体と一緒に発見された。
 こいつは渡りに船だ。私は電話に手を伸ばし、交換手にスティルウッド・ハイツの番号を告げた。》

【解説】

「お役に立ててよかった」は<It was a pleasure>。清水訳は「楽しかったよ」。村上訳は「痛快だった」。両氏ともに直訳だ。<It’ a pleasure to ~>というのは、「あなたに~してうれしい」などというときの挨拶の冒頭につける決まり文句だ。嘘をついたことを責めている相手に対して、いけしゃあしゃあとこういう科白を吐いてみせるのがマーロウという男なのだ。

「切り札を握る男に向かって」は<for a guy that holds cards>。清水氏はここをカットして「口だけは、達者なんだな」と訳している。<guy>をどちらにするか迷ったんだろう。村上氏は<for>を「~に対して」という意味にとって「切り札を持っている人間にしちゃ」と訳している。その前に「まるであんたは何があるか知ってるみたいじゃないか」と言わせているところから見て、これをマーロウの挑発と捉えているようだ。果たして切り札を握っているのはどちらなんだろう。

「その役はファンの期待を裏切ることになるのか、逆に芸域を広げるのか」は<will this part hurt me with my public or make me seem more versatile?>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「その役柄がファンの抱いているイメージを損なうのか、あるいは逆に多芸さを評価されることになるのか」だ。新しい役どころをオファーされた俳優の躊躇だ。

「こいつは渡りに船だ」は<This was going to be good>。清水氏は例によってここをカットしている。訳しがいがありそうなところなのに。村上氏は「脈がありそうじゃないか」と訳している。いずれにしても内言で、マーロウが心の中で発したひとり言である。「しめしめ、しめこの兎」あたりを使いたいところだが、あまりやり過ぎてもいけない。「渡りに船」くらいでお茶を濁しておいた。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第14章(1)

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【訳文】

《私はロシア煙草の一本を指で突っついた。それからきちんと一列に並べ直し、座ってた椅子をきしませた。証拠物件を捨ててはいけない、というからには、こいつは証拠品だ。しかし、何の証拠になる? 男がときどきマリファナ煙草を吸っていて、何であれ異国風なものに目がないようだった、そんなものだ。一方で多くのタフガイがマリファナをやっている。バンド・ミュージシャンや高校生、良い子をあきらめた娘たちだって。大麻由来のハシシ。草(マリファナ)はいたるところで蔓延る。今では法律で栽培が禁じられている。アメリカのように大きな国にとってそれがどれだけ重要な意味を持つことか。
 私はそこに座ってパイプをくゆらせながら、壁の向こうから聞こえるタイプライターの音とハリウッド・ブルバードの信号が変わる音、そして春めいたささめきに耳を澄ませていた。まるで紙袋がコンクリートの舗道を風に吹かれていくような。
 かなり大きな煙草だ。が、ロシア煙草の多くがそうだし、マリファナはきめの粗い葉だ。インド大麻アメリカ製ハシシ。証拠。やれやれ、何という帽子をかぶるんだか。頭がずきずきする。いかれてるよ。
 ペンナイフを取り出し、小さく鋭い刃先を出した。パイプ掃除用でない方の刃だ。それから煙草を一本手にとった。警察の鑑識のやり方が役に立つ。手始めに真ん中に細い切れ目を入れ、顕微鏡で中身を調べる。何か異常が見つかるかもしれない。そうそうあることではないが、どうってことはない。それで月給をもらってるのだ。
 一本を二つに切り裂いた。吸い口部分は切りにくかった。まかせておけ。私はタフガイだ。何がなんでも切り裂く。止められるものなら止めてみろ。
 吸い口から光る物が出てきた。丸まった薄い紙の切れ端のようだ。巻きがほどけた部分に何か印刷されていた。私は椅子に真っ直ぐ座り直し、切れ端をつまみあげた。机の上で順序良く広げようとしてみたが、机の上を滑ってしまう。他の煙草をつかんで吸い口の中をのぞき込んだ。それからポケットナイフの刃をちがった角度で働かせた。煙草を吸い口が始まるところまでおさえた。紙はやたら薄くて下にある物の肌理が感じられるほどだ。慎重に吸い口を切り落とし、さらに気をつけて吸い口を縦に切った。切り過ぎない程度に。口を開けた下から別の紙片が出てきた。くるくると巻かれ、今度は無傷だった。
 そっと開いた。男の名刺だ。薄く淡いアイヴォリー、まさにオフ・ホワイト。その上に微妙な陰を帯びた文字列が彫り込まれている。左下の隅にはスティルウッド・ハイツの電話番号。右下の隅には「要予約」の説明書き。中央には、やや大きめだが、充分慎ましやかに「ジュールズ・アムサー」。その下に小さい字で「心霊顧問医」とあった。
 私は三本目の煙草を手にとった。今度はかなり苦労して、どこも切らずに紙片を探り当てた。同じ物だった。それは、もとあったところに戻した。
 私は時計に目をやり、灰皿にパイプを置いた。それからもう一度時刻を確かめるために時計を見なければならなかった。自分が切った二本の煙草と名刺の細片を一枚のティッシュ・ペーパーに、名刺が入ったままの完品は別のティッシュ・ペーパーにくるみ、二つの小さな包みを机に仕舞って鍵をかけた。
 私は座って名刺を眺めた。ジュールズ・アムサー、心霊顧問医、要予約、スティルウッド・ハイツの電話番号、住所は書いてない。三枚とも同様に三本のマリファナ煙草の中に丸められ、擬甲の枠がついた中国か日本の絹製の煙草入れにおさまっていた。そんな物は東洋の輸入雑貨を扱う店ならどこでも三十五から七十五セントの値で置いている。フーイ・プーイ・シンだとか、ロン・シン・タンとかいう店で、「アラビアの月」という香は<フリスコ・セイディー>の休憩室にいる娘のような匂いがする、なんてことを言うと、作法を心得た日本人が愛想笑いを浮かべて、シーッと言う、そんな店だ。
 そして、これらすべて永遠の眠りに着いた男のポケットに入っていたが、当人は別に本物の高価な煙草入れを持っており、その中には実際に吸っていた煙草が入っていた。
 きっと忘れていたにちがいない。でないと辻褄が合わない。おそらく自分の持ち物ではなく、どこかのホテルのロビーで拾いでもしたのだろう。ポケットに入れていることを忘れ、届け出るのを忘れてた。ジュールズ・アムサー、心霊顧問医。》

【解説】
 
「私はロシア煙草の一本を指で突っついた。それからきちんと一列に並べ直し」は<I poked at one of the long Russian cigarettes with a finger, then laid them in a neat row>。清水氏は「私は三本のロシア・タバコをデスクの上にならべて」と端折っている。村上訳は「私はロシア煙草のひとつを指でつついた。それから隣り合わせにきれいに一列に並べた」と訳している。<neat row>は「一列に、列をなして」の意。清水訳では、並び方が目に浮かんでこない。せめて「一列に」くらいは入れておくべきだろう。

「証拠物件を捨ててはいけない」は<You just don't throw away evidence>。ミス・アンが口にした台詞そのままだ。清水氏は「彼女は、証拠を捨ててはいけないといった」。村上訳は「証拠品を捨てることができないと彼女はいう」と訳している。両氏とも、間接話法を採用することで先述の訳文とは訳し方を変えている。その方がわかりやすいという判断だろうが、原文を大切にするという意味で、可能な限り同じ訳文を使いたい。工夫次第で何とかかるものだ。

「男がときどきマリファナ煙草を吸っていて、何であれ異国風なものに目がないようだった、そんなものだ」。けっこう長い文だが、清水氏は「麻薬タバコを吸っているものは少なくない」と訳している。これでは意訳どころか、全く別の文になっている。村上訳は「一人の男がときどき大麻煙草を吸っていたということ、一人の男が何によらず異国風のものに弱かったらしいということ。その程度だ」と例によって丁寧だ。

「良い子をあきらめた娘たちだって」と訳した部分は<and nice girls who had given up trying>。清水氏はここをカットしている。村上訳では「良い子であることを放棄した良家の娘たちも」となっている。

大麻由来のハシシ」としたのは<American hasheesh>。清水氏はこれを「インド大麻の葉から作るのだ」とわざわざかみくだいて訳している。ハシシは大麻の葉から取り出した樹脂(幻覚物質)で作られる物なので、説明としてはまちがっていない。当時としては説明がいると考えたのだろうか。村上氏は次の文に合わせて「大麻草」と訳している。しかし、通常「ハシシ」は樹脂あるいはペースト状に製品化されたものをいい、草そのものではない。

「草(マリファナ)はいたるところで蔓延る」は<A weed that would grow anywhere>。<weed>は「雑草」のことだが、マリファナを指す俗語でもある。清水訳では「インド大麻は、どこにも生えている」。村上訳は「その草はいたるところですくすくと育つ」だ。両氏とも<weed>を植物の草と解釈してるようだが、ここは製品でもあるマリファナ煙草とのダブル・ミーニングと捉えるべきところ。

アメリカのように大きな国にとってそれがどれだけ重要な意味を持つことか」は<That meant a lot in a country as big as the U.S.A>。<meant a lot>は「大きな意味がある」という意味だが、含みのある表現だ。アメリカのような大国では、法の目の届かないところはいくらもある。雑草の繁茂と不法薬物の蔓延の二つを重ねている。清水訳は「アメリカのような広い国で、麻薬タバコを取り締まることはむずかしい」。村上訳は「しかし、アメリカみたいな広々とした国では、そんな規制などほとんど有名無実だ」。清水氏は後者、村上氏は前者の意味に訳しているようだ。

「ハリウッド・ブルバードの信号が変わる音、そして春めいたささめきに耳を澄ませていた。まるで紙袋がコンクリートの舗道を風に吹かれていくような」のところ、清水氏は「ハリウッド・ブールヴァードの雑音に耳を傾けていた。春の風が部屋の空気をゆるがせた」と作文している。原文は<and the bong-bong of the traffic lights changing on Hollywood Boulevard and spring rustling in the air, like a paper bag blowing along a concrete sidewalk>。<in the air>だが、文字通り「空気中に」という訳もあるが、ここは「〈雰囲気などが〉漂って、気配がして、そこはかとなくある」という用例を採りたい。

村上氏は「ハリウッド・ブールバードの信号がぼこんぼこんと音を立てて変わるのに耳を澄ませた。紙袋がコンクリートの歩道を吹かれていくのに似た、さわさわ(傍点四字)という春のささやきに耳を澄ませた」と訳している。古い映画には残っているかも知れないが、当時の信号の立てる音の記憶がない。滞米経験のある村上氏がそう書いているのだから「ぼこんぼこん」という音なのだろうが、音の聞こえ方には個人差がある。本当の音を聴いてみたいものだ。

「インド大麻アメリカ製ハシシ。証拠。やれやれ、何という帽子をかぶるんだか。頭がずきずきする。いかれてるよ」は<Indian hemp. American hasheesh. Evidence. God, what hats the women wear. My head ached. Nuts>。マーロウの心の中で発せられる言葉、所謂「内言」。清水氏は「インド大麻。証拠。女はなんて帽子をかぶるんだ。頭のしん(傍点二字)が痛んだ。なんてこった」と<American hasheesh>だけトバしている。

村上氏は「大麻。そこから作られるハシーシ。証拠品ときた。まったく、もう、女というのは、なんだってあんな変てこな帽子をかぶらなくちゃならんのだ。私の頭は痛んだ。どうかしている」と訳している。ハシシが大麻から作られることをここで説明している。インド、アメリカと経由してきた国名を並べるところがミソなのだが、両氏ともそれはあまり気にしていないようだ。

「まかせておけ。私はタフガイだ。何がなんでも切り裂く。止められるものなら止めてみろ」は<Okey, I was a tough guy. I slit it anyway. See if can you stop me>。清水氏は「なんとか、割くことができた」と愛想がない。村上氏は「しかし私は名にしおうタフガイだ。なんとか負けずに最後までやり通すことができた。昔からあきらめの悪い性分である」と清水訳を踏襲しながら訳している。しかし、ここも内言。他人には聞こえていない、自分を奮い立たせるためのひとり言だ。少々大げさな口ぶりにしたい。

少し長いが「自分が切った二本の煙草と名刺の細片を一枚のティッシュ・ペーパーに、名刺が入ったままの完品は別のティッシュ・ペーパーにくるみ、二つの小さな包みを机に仕舞って鍵をかけた」は<I rolled the two cut cigarettes and the cut card in part of the tissue paper, the one that was complete with card inside in another part of the tissue paper and locked both little packages away in my desk.>。

清水氏は「私ははじめの二本のタバコと細かく割かれた薄い紙とをもとの紙に包み、完全な一本のタバコを別の紙に包んでデスクの中にしまい、鍵をかけた」と訳している。これに対して、村上氏は「私はカットした二本の煙草と、カードが入ったままの無傷の煙草を別々のティッシュ・ペーパーに包み、その二つの小さな包みを机の抽斗に入れ、鍵をかけた」と訳している。村上氏の訳では、初めに切り割いてしまったカードの行方が分からなくなっている。<and the cut card>を読み落としたものと思われる。丁寧に訳す村上氏にしては珍しいことだ。

「私は座って名刺を眺めた」は<I sat looking at the card>。簡単な文だが、清水氏の訳では「私はデスクの下の名刺のような薄い紙を眺めた」になっている。「デスクの上」ならまだしも、下としたのはなぜなのか、単なるミスにしては訳が詳しすぎる。ちょっとした謎だ。村上訳は「私は座ってそのカードを眺めた」だ。

「「アラビアの月」という香は<フリスコ・セイディー>の休憩室にいる娘のような匂いがする、なんてことを言うと、作法を心得た日本人が愛想笑いを浮かべて、シーッと言う、そんな店だ」も、少し長い。原文は<where a nice-mannered Jap hisses at you, laughing heartily when you say that the Moon of Arabia incense smells like the girls in Frisco Sadie's back parlor>だ。

清水氏は「そういう店では、<アラビアの月>という香(こう)がフリスコ・セイディーの部屋の裏にいる女の子のような匂いだというと、行儀のいい日本人が歯をあらわして笑った」と訳している。村上氏は「物腰の低い日本人が耳障りな英語を話し、「ムーン・オブ・アラビア」というお香は、「フリスコ・セイディー」の裏部屋の女たちみたいな匂いがするとあなたが言うと、いかにも面白そうに笑ってくれるような店だ」と訳している。

チャンドラーのアジア人蔑視が濃厚な箇所で、訳していても気が滅入るのだが、それはそれとして、清水氏は<hisses at you>をトバしている。<hiss at>は「~に対してシーッと言う」という意味だ。小言を言う、とか追い払うとかの意味も付随するが、村上氏の言う「耳障りな英語」というのは<hiss noise>からの連想だろう。それを「耳障り」と訳してしまうのは、作家のアジア人蔑視が訳者にものりうつっているのではないか。

「フリスコ・セイディー」だが「フリスコ」は俗語でいうサンフランシスコのことで「セイディー」は人名だろう。問題は<back parlor>の方だ。<parlor>は、今ではあまり使われなくなったが、大邸宅の中にあって、客をもてなすために使われる応接間や娯楽室を意味する単語。「奥座敷」という和訳があるが、あまりにも日本的過ぎて、そのまま用いるのは躊躇する。<'s>がついているところから見て、ショーか何かを見せる店の楽屋裏みたいなものと考えて訳してみた。

トリミング

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昨日、トリミングしてもらったばかりのニコ。長く伸びたフリルや指の間から伸びた毛を短くカットしてもらって、ひと回り小さくなった。

二階ホールの手摺子の前で、ちょっとおすまし。寒い間、寝室のベッドの上や陽のあたる南向きの窓ばかりにいたニコが、陽気がよくなってきたからか、ここ何日かの間によく書斎にやってくるようになった。

写真のニコの後ろに少し扉が開いている部屋が書斎。書斎の窓は北向きで、窓の下は坂道が西に向かって下っている。窓の下に置いた書棚の上から外を見るのがお気に入りだ。夕暮れ時には西の山に陽が沈んだ後、見事な夕映えが臨める。

もっとも、ニコが気になるのは、その頃になると山の方から下りてきて、近くの電線にとまるカラスの方かもしれない。泣き声が大きいのが怖いのか、カーテンの陰からそっと覗いている。どうもカラスは苦手らしい。

一階にいるときは、掃き出しの前をチョンチョンと歩いて行くセキレイに気がつくと、定位置のクッションの上にきて、さも見張りをしているというふうに眺めているのだが。

昨日はトリミングから帰った途端、珍しく声を出して、ちゅーるを催促した。ふだんは、めったに声を出さない子なのに。トリミング自体はどうかはしらないが、二、三時間、自分一人にされるのが嫌なのだろう。我慢したんだからいいでしょう、という甘えが何ともかわいい。久しぶりにちゅーるをもらい、ご満悦のニコだった。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第13章(5)

《見るたびに好ましくなる顔だ。目の覚めるようなブロンドなら掃いて捨てるほどいる。しかし、この娘の顔は見飽きるということのない顔だ。私はその顔に微笑んだ。
「いいかい、アン。マリオット殺しはつまらんミスだ。今回のホールドアップの背後にいるギャングは決してこんなことはしない。ヤクで頭がいかれた奴の仕業だ。連中が連れていった用心棒が泡を食ってやったに決まっている。マリオットがへまをやり、どこかのちんぴらが殴り殺した。咄嗟の出来事で止める手立てがなかった。宝石とそれを身につける女性についての内部情報を持つ組織された集団がいる。穏当な価格で買戻しを要求し、約束は守る。路地裏の殺人など連中の流儀に合わない。私の見るところ、やった男が誰であれ、とうに足首に錘をつけられて、太平洋の底に沈んでいる。翡翠は死体と一緒に沈んだか、さもなければ、連中が本当の値打ちを知っててどこかに隠しているかだ。ほとぼりが冷めるまで―長い間、ひょっとしたら数年も。もしそれができるくらい大きな組織なら、地球の向こう岸に姿を現すかもしれない。八千ドルという要求額は、翡翠の本当の値打ちを知っていたならちょっと安すぎる。まあ、売るのは難しいだろうが。ひとつ確かなことは、連中は誰も殺したりしないということだ」
 アン・リオーダンはかすかに唇をひらき、うっとりした表情を顔に浮かべながら耳を傾けていた。まるでダライ・ラマを前にしているかのように。
 それから、ゆっくり唇を閉じ、一度うなずいた。「あなたって素晴らしい」彼女は優しく言った。「でも、いかれてる」
 彼女は立ち上がり、バッグを手もとに引き寄せた。「会いに行く気はあるんでしょう?」
「ランドールの出る幕じゃない―依頼人が彼女なら」
「わかった。私は他社の社交欄の編集者を捜してグレイル家についての情報を漁ってみるつもり。彼女の知られざる性生活について。ひとつくらいはありそうじゃない?」
 鳶色の髪に縁どられた顔は物憂げだった。
「誰にだってあるんじゃないのか?」私は皮肉った。
「私には、あんまりないの」
 私は手を伸ばして口をふさいだ。彼女は私に鋭い一瞥をくれて、ドアの方に向かった。
「何か忘れていないか」私は言った。
 彼女は足をとめて振り向いた。「何?」彼女は机の上を見回した。
「よく分かってるはずだ」
 彼女は引き返し、真剣な面持ちで机越しに身を乗り出した。「そんなに手を汚したくない人たちが、なぜマリオットを殺した男を殺すの?」
「いったん捕まったとなったら、ヤクを取り上げられた途端、ぺらぺらしゃべり出しそうなタイプだったからさ。言いたかったのは、連中は客を殺したりしないってことだ」
「殺した男がヤクをやってたことは確かなの?」
「そいつは分からない。言ってみただけのことだ。大方のちんぴらはやってる」
「そう」彼女は背を伸ばし、うなずいて微笑んだ。「これのことを言ってるのね」彼女はそう言うと、バッグの中から手早く小さなティッシュの包みを取り出して机の上に置いた。
 手にとってゴムバンドをほどき、注意深く紙を開けた。長くて太いロシア煙草が三本出てきた。紙の吸い口つきだ。私は黙って彼女を見た。
「持ってきてはいけないことは知ってる」彼女は息を継ぐ間を置かずに続けた。「でも、マリファナ煙草だと気づいた。普通はただの紙巻きだけど最近ベイシティ界隈に出回ってるのはちょうどそんな具合。何度か見たことがある。哀れな男が死体で発見された挙句、ポケットからマリファナ煙草まで出てくるのは、ちょっと気の毒かなと思ったの」
「ケースごと持ってくるべきだったな」私は言った。「中に細かな屑が残っていた。空っぽだと疑いを抱かせるもとになる」
「できなかった―そこにあなたがいたので―私、私はもう少しで戻ってそうしようとした。でもそうするだけの勇気がなかった。あなたの立場が悪くなったんじゃ?」
「いや」私は嘘をついた。「そんなことはない」
「それならよかった」彼女は物憂げに言った。
「なぜ捨ててしまわなかったんだ?」
 彼女はそれについて考えた。小脇にバッグを抱え、ばかばかしいほど大きな帽子のつばの陰で片目を隠すようにして。
「たぶん私が警官の娘だから」彼女はようやく言った。「証拠物件を捨ててはいけない」彼女の微笑みは脆く、後ろめたそうで、頬があからんでいた。私は肩をすくめた。
「そうね―」言葉は窓を閉じた部屋の中の煙のように宙吊りにされた。そう言ったあと唇は開いたままだった。私は放っておいた。頬に差した赤みが深くなった。
「ごめんなさい、やるべきじゃなかった」私はそれもやり過ごした。
 彼女はそそくさとドアに向かい、立ち去った。》

「掃いて捨てるほどいる」を、清水氏はそのまま「一ダースでダイム(十セント)だったが」と訳している。<a dime a dozen>は「簡単に手に入る、ありふれたもの」という意味で使われる表現だ。村上氏は「一束いくらで手に入る」と訳している。

「この娘の顔は見飽きるということのない顔だ」は<that was a face that would wear>。清水氏は「この顔はちがっていた」と、<wear>をきちんと訳していない。村上氏は「この娘の顔は歳月に耐えるようにできている」だ。<wear>の意味のひとつである「使用に耐える、もつ」を採ったのだろう。ここは、俗にいう「美人は三日見たら飽きる」の逆を言っているのだろう。会うたびに違った印象を見せるのは、内面からにじみ出るものがあるからだ。アンはそういう娘である。

「ヤクで頭がいかれた奴の仕業だ」は<was that some gowed-up run>。<gow>は「麻薬、マリファナ煙草」を表す名詞。清水氏はここをカットしているので、その後唐突に麻薬の話が出てくるのが不自然に思える。村上氏は「ヤクで頭がいかれて」と訳している。

「まあ、売るのは難しいだろうが」は<But it would be hard to sell>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「実際に捌くのはかなり難しいにしてもだ」と訳している。つまり、当初の目的は八千ドルだったが、手違いで翡翠が手元に残ってしまった。すぐに売りさばくには名が売れすぎていて足がつく恐れがある。そういう次第で、翡翠はしばらくは表舞台には出てこない、とマーロウは考えているわけだ。

「彼女の知られざる性生活について」は<About her love life>。清水訳だと「夫人の恋愛生活について」。村上訳だと「彼女の男性交友関係についてね」。<love life>は、どの辞書を引いても一番に上がってくるのは「性生活」という訳語だ。「恋愛生活」だとか「男性交友関係」というのは、忖度が過ぎる訳語というものではないだろうか。それともう一つ、村上訳の「男性」という語は不要だろう。男性側の同性愛傾向についてはあけすけに書かれている。女性の場合だけ異性愛に限定するのはフェアじゃない。

「私には、あんまりないの」は<I never had. Not really>。清水氏は「私は経験がないのよ。ほんとうに」、村上氏は「私にはそんなものひとつもなかったわ。ほんとに」と訳している。<love life>をどう解釈するかで、訳し方も変わってくるところだが、<Not really>の訳が気になる。<not really>は「あんまり、それほどでもない」という意味だ。<I never had>と、強く否定した後でつけ足していることから考えても「ほんと(う)に」という訳語は相応しくないように思う。

「彼女は背を伸ばし、うなずいて微笑んだ」は<She straightened up and nodded and smiled>。清水氏は「といって彼女はうなずいた」。村上氏は「彼女は身体をまっすぐに伸ばし、微笑んだ」。清水氏は<straightened up>と<smailed>、村上氏は<nodded>を訳していない。アンが隠匿した証拠の品を見せることになる大事な一幕だ。一つ一つの動作に意味がある。簡単に略すべきではない。

「長くて太いロシア煙草」は<long thick Russian cigarettes>。清水氏は「長いロシア・タバコ」。村上氏は「長くて中身の詰まったロシア煙草」。<thick>には、「(頻度が)詰まった」という意味がある。しかし、第十一章で、そのロシア煙草のことを「古いものらしくからからになって、中身が緩んでいた」と書いたのは当の村上氏である。アンが隠し持っていたものが同じ煙草である以上、突然中身が詰まったりしないはずだが、どうなっているのだろう。ついでながら、同じ個所で、村上氏は「吸い口」ではなく「マウスピース」と、書いていた。このあたりの訳語の不統一が目立つところも気になる点だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(4)

《ブロンドだった。司祭がステンドグラスの窓を蹴って穴を開けたくなるような金髪だ。黒と白に見える外出着を着て、それにあった帽子をかぶっていた。お高くとまっているように見えるが、気になるほどではない。出遭ったが最後、相手を虜にせずには置かない女だ。おおよそ三十歳ぐらいだろう。
 手早く酒を注ぎ、一息に飲み干した。咽喉が焼けるようだった。「持ち帰ってくれ」私は言った。「跳ねまわり出しそうだ」
「あなたのために持ってきてあげたのに。彼女に会いたくないの?」
 もう一度写真を見直し、それからデスクマットの下に滑り込ませた。「今夜十一時ではどうだい?」
「ねえ聞いて、これはジョークのネタってわけじゃないの、ミスタ・マーロウ。電話しておいた。あなたに会うそうよ。仕事でね」
「仕事からはじまる、というのもいいかもな」
 彼女がいらついた素振りをしたので、ふざけるのをやめ、使い古したしかめっ面に戻った。「何の用があって私に会いたいんだ?」
「ネックレスのことよ、もちろん。こういうことなの。彼女に電話したんだけど、当然のことになかなか取り次いでもらえなかった、でも結局は話せた。それで私はブロックの人の好い支配人にやったような話をでっち上げたんだけど乗ってこなかった。声の感じでは二日酔いみたいだった。彼女はそういうことは秘書に言って、と言ったんだけど私は電話口に食い下がって、本翡翠のネックレスをお持ちというのは事実ですか、と訊いた。しばらくしてから、彼女はイエスと言った。私は見せてもらうことはできますか、と訊いた。彼女は何のために、と言った。私はもう一度さっきの話をしたけど、最初のときと同じで相手にされなかった。聞こえたのは彼女の欠伸と外にいる誰かに電話を代われと怒鳴る声だけ。そこで、私はフィリップ・マーロウに仕えている者です、と言ったの。彼女は言ったわ、それがどうかして? そう言ったのよ」
「驚いたね。しかし、この頃では上流階級の女性も娼婦みたいな口をきくからな」
「よくは知らないけど」ミス・リオーダンは楽しそうに言った。「おそらくその中の何人かは娼婦よ。それで、他所に繋がっていない電話はないか、と訊いたの。そうしたら、私の知ったことじゃない、と言われた。でも、変なのよ、それでも電話を切らないの」
「彼女は翡翠のことを考えていて、君の前振りに気づかなかったのだろう。それとも、前もってランドールに聞かされていたか」
 ミス・リオーダンはかぶりを振った。「いいえ、私が電話で話すまで彼は誰がネックレスを持っているのか知らなかった。私が探し出したのですっかり驚いていた」
「今に慣れるさ」私は言った。「慣れなくてどうする。それから?」
「だから私はミセス・グレイルに言った。『まだ取り戻したいですよね?』と、あっさり。ほかに言い方を知らないから。何かびっくりさせることを言う必要があったの。効果覿面。あわてて別の電話番号を教えてくれた。その回線を使って、お目にかかりたいと言った。向こうは驚いたようだった。それで、話をして聞かせなければならなかった。話はお気に召さなかった。でも、マリオットが何も言って来ないのは変だと感じてた。きっと金や何かを持って南へ逃げたと思ったのね。二時に彼女に会う。その時に話すつもり。あなたがどれほど親切で控えめで、機会さえもらえればネックレスを取り戻す手助けができる人かを。彼女すでにその気でいるわ」
 私は何も言わず、彼女を見つめた。傷ついたようだった。「どうかした? 間違ったことはしてないでしょう?」
「知ってるはずだろう。今やこれは警察の事件で、私は関わるなと警告されているんだ」
「ミセス・グレイルにはあなたを雇う権利がある。もしそうしたいと思ったら」
「何をするためにだ?」
 彼女はもどかしそうにバッグの留め金を締めたり外したりした。「どう言えばいい―あの手の女で―美貌の持ち主で―分からないの―」彼女は言葉に詰まって唇を噛んだ。「マリオットというのはどんな男なの?」
「よくは知らない。同性を好みそうなところがあった。好感は持てなかった」
「女を楽しませることのできそうな男?」
「ある種の女は。それ以外は唾を吐きたくなるだろう」
「まあ、ミセス・グレイルの目には魅力的に映ったのかもしれない。よく連れ歩いていたもの」
「多分百人の男を連れ歩いていただろう。今となってはネックレスを取り戻す機会はほぼ失われた」
「なぜ?」
 私は立ち上がってオフィスの端まで歩いて行き、平手で強く壁を叩いた。隣の部屋でカタカタ鳴っていたタイプライターを叩く音がしばらく止んだ。それから、また鳴り始めた。私は開いた窓越しに自分の建物とマンションハウス・ホテルの間に開いた細長い空間を見下ろした。コーヒー・ショップの香りは濃厚でその上にガレージが建てられそうなほどだ。私は机まで戻り、ウィスキーのボトルを深い抽斗の中に落とし抽斗を閉め、再び腰を下ろした。パイプに、これで八回目か九回目になる火をつけ、半分曇ったグラス越しにミス・リオーダンの真面目で正直な小さな顔を注意深く見た。》

「出遭ったが最後、相手を虜にせずには置かない女だ」は<Whatever you needed, wherever you happened to be-she had it>。清水氏は「男の望むものはなんでも持っている女だった」。村上氏は「どのような男であれ、男たるものが求める一切を不足なく備えている女だ」と訳している。意味としては「相手が誰で、どこにいたとしても、(その男が)必要としているものなら何でも、彼女は持っていた」か。両氏とも<happen to>(たまたま~する)を訳していない。というより、村上訳は単に清水訳を勿体ぶって訳してみせただけのように見える。

「デスクマット」は以前にも出てきた<blotter>だ。清水氏は「吸取紙」、村上氏は「下敷き」と訳している。写真を隠すのだから、紙あるいは板状のものと考えられる。マーロウは、この日オフィスに入ったばかりなので、机の上に書類や簿冊は出ていないはず。だとすれば、机上に出しておいても問題のない下敷やデスクマット類と考えるのが妥当だろう。

「使い古したしかめっ面に戻った」は<got my battle-scarred frown back on my face>。清水訳は「まじめな顔を見せた」。村上訳では「歴戦の傷跡を残したタフな面相に戻った」だ。<battle-scarred>は、村上氏が訳しているように「戦傷を受けた」の意だが、「(衣類、道具などが)使い古されて傷んだ」という意味で使われる場合もある。若い娘相手にはしゃいでいたマーロウがいつもの表情に戻ったという意味だ。

「それで私はブロックの人の好い支配人にやったような話をでっち上げたんだけど乗ってこなかった」は<Then I gave her the song and dance I had given the nice man at Block's and it didn't take>。清水氏はここをまるまるカットしている。村上氏は「それで私は、ブロックの人の良いマネージャーを相手にやったのと同じ手を使ってみたんだけど、相手にもされなかった」と訳している。<song and dance>は「長々しい言い逃れ、ごまかしの説明」を表す口語表現。

「聞こえたのは彼女の欠伸と外にいる誰かに電話を代われと怒鳴る声だけ」は<I could hear her yawning and bawling somebody outside the mouthpiece for putting me on>。清水氏はここも一文丸ごとカットしている。村上氏は「彼女が受話器を手で塞いであくびをし、受話器を渡すための誰かを呼ぶ声が聞こえた」と訳している。この「受話器を手で塞いで」が意味不明だ。ふつう、受話器を手で塞いだら、相手の話し声は聞こえないものだ。<put on>は「(人を)電話に出す」という意味。これを「受話器を手で塞いで」と読んだのではないか。

「と、あっさり。ほかに言い方を知らないから。何かびっくりさせることを言う必要があったの。効果覿面」は<Just like that. I didn't know any other way to say. I had to say something that would jar her a bit. It did>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「単刀直入に切り出したわけ、ほかにどういう言い方をすればいいのかわからなかったから。相手がいくらか動揺するようなことを言う必要があったの。そしてそれはうまくいった」と訳している。

「その時に話すつもり」は<Then I'll tell her>だが、清水氏は「それから、あなたのことを話したわ」と、過去形を使って訳している。これは誤り。村上氏は「そこであなたのことを彼女に話すつもり」と訳している。

「同性を好みそうなところがあった」は<I thought he was a bit of a pansy>。清水訳は「にやけた二枚目だ」。村上訳は「なんとなくなよなよ(傍点四字)した男だ」。また<pansy>が出てきた。「にやけた男」という意味もあるが、そのものズバリ「同性愛の男」の意味もある。おそらく後者の意味で使っていると考えられるのだが、両氏ともそこをはっきりさせたくはないらしい。

「その上にガレージが建てられそうなほどだ」は<was strong enough to build a garage on>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「(匂いはとてもきつくて強固で)その上にガレージを建てることだってできそうだ」と、言葉を重ねて強調を加えている。匂いが「きつい」のはわかるが「強固」というのはどうだろう。

「ミス・リオーダンの真面目で正直な小さな顔を注意深く(見た)」は<Miss Riordan's grave and honest little face>。清水氏は「ミス・リアードンのまじめな顔つき(を見つめた)」と、あっさり訳している。村上氏は「ミス・リオーダンの小振りな、生真面目で率直な顔を注意深く(見た)」と小顔であること、注意深く見たことを略さずに訳している。これに続く部分で再度、顔に言及していることから見ても、ここは丁寧に訳すべきところだ。村上氏はチャンドラーの書くものを単なるハードボイルド小説とみなしていない。そういう視点があればこその丁寧な訳なのだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(3)

《彼女は煙草をもみ消した。口紅はついていなかった。「こうやってあなたを煩わせているのは、私としては警察とうまくやる方が手間が省けると言いたいだけ。昨夜言っておくべきだったわね。それで今朝、事件の担当者を探し当てて会いに行ってきた。初めは、あなたに少し腹を立てていたわ」
「だろうね」私は言った。「たとえ、あったことを洗いざらい話しても、信じなかっただろうさ。やることといえば、とりとめもないことをくどくど話すばかりで」
 娘にはこたえたようだった。私は立って行って別の窓を開けた。通りを行き交う車の騒音が波のように押し寄せてきて船酔いのように胸がむかついた。机の深い抽斗を開け、オフィス用のボトルを取り出して自分用に一杯注いだ。
 ミス・リオーダンは非難がましくこちらを見つめた。もはや私は身持ちの堅い男ではなかった。彼女は何も言わなかった。私は一息で飲み干し、ボトルを片づけ、腰をおろした。
「私には勧めないのね」彼女は冷やかに言った。
「すまない。まだ十一時かそこいらだ。君は飲みそうなタイプには見えなかったのでね」
 目尻に皺が寄った。「それはお世辞かしら?」
「私の仲間うちでは、そうだ」
 彼女はそれについて考えていた。彼女には何の意味もなかった。私も考えてみたが、私にとっても何の意味もなかった。でも、酒のせいで気分はかなりよくなっていた。
 彼女は机の方に身を乗り出し、手袋でゆっくりガラスを擦った。「助手を雇う気はないのよね? コストといっても時々優しい言葉をかけるだけで済むんだけど」
「ないね」
 彼女はうなずいた。「そう言うだろうと思った。情報を伝え終わったら、家に帰った方がよさそう」 
 私は何も言わなかった。パイプにまた火をつけた。そういう仕種はたとえ何も考えていなくても当人を思慮深く見せるものだ。
「まず考えたのは、そんな博物館級の翡翠のネックレスなら、よく知られていただろう、ということ」彼女は言った。
 私は燃えるマッチを手にしたまま、焔が指に這い寄ってくるのを見ていた。それから、そっと火を吹き消し、灰皿に捨てて言った。
翡翠のネックレスのことを口にした覚えはない」
「そうね、でもランドール警部補は話してくれた」
「誰か、彼の顔にボタンを縫い付けてやるべきだな」
「父の知り合いなの。誰にも言わないと約束した」
「私に話してるじゃないか」
「あなたは知ってるじゃない、馬鹿ね」
 あたかも口を抑えるかのように上がった片手が、途中でゆっくり下りたところで両眼が大きく見開かれた。名演だったが、生来の美質が芝居の邪魔をしているのが見て取れた。
「知ってたわよね?」彼女は声をひそめた。
「ダイヤだと思っていた。ブレスレットが一個、イヤリング一組、ペンダントが一個、指輪が三個、そのうち一つにはエメラルドがついていた」
「洒落にならない」彼女は言った。「だいいち、らしくない」
「本翡翠。逸品。六カラットの細工した玉が六十個繋がっている。八万ドルの価値がある」
「あなたはそんな素敵な茶色の眼をしている」彼女は言った。「それでいて、自分はしたたかだと思ってるのね」
「それで、持ち主は誰で、どうやって知ったんだ?」
「見つけるのはとっても簡単だった。考えたの、街一番の宝石商なら知ってるんじゃないかと。それで<ブロック>の支配人に会いに行った。珍しい翡翠についての記事を書きたいので、お話を伺いたいと言って―得意の手よね」
「それで、支配人は君の赤毛と抜群のプロポーションを信じたって訳だ」
 彼女はこめかみまで赤くなった。「まあ、いろいろと教えてくれた。持ち主はベイ・シティに住む裕福な女性、ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイル。屋敷はキャニオンにある。夫は投資銀行家か何かで資産二千万ドルという途方もない金持ち。以前はビヴァリー・ヒルズのKFDKという放送局のオーナーだった。夫人はそこで働いてたの。二人は五年前に結婚した。彼女はうっとりするような金髪。ミスタ・グレイルはご年配で肝臓の薬が欠かせなくて家から出られない。その間、夫人はいろんなところで大いに羽を伸ばしてる」
「そのブロックの支配人」私は言った。「ずいぶん顔が広いようだ」
「まさか、全部支配人から聞いた訳じゃない、馬鹿ね。ネックレスの件だけ。残りはギディ・ガーティー・アーボガストから聞いたの」
 私は深い抽斗の底に手を伸ばし、オフィス用ボトルをまた取り出した。
「小説に出て来る酔いどれ探偵の仲間入りをしようとしてるんじゃないでしょうね?」彼女は心配そうに訊いた。
「いけないか? 連中は汗ひとつかかないで、いつも事件を解決してる。話を続けてくれ」
「ギディ・ガーティーは『クロニクル』の社交欄の編集長で、古くからの知り合い。体重二百ポンドでヒトラー髭を生やしてる。編集部のファイルを漁ってグレイル家の資料を見つけてくれた。見て」
彼女はバッグに手を伸ばし、一枚の写真を机の上に滑らせた。インデックス・カード大の光沢のある写真だ。》

「こうやってあなたを煩わせているのは、私としては警察とうまくやる方が手間が省けると言いたいだけ」は<The only reason I'm boring you with this is that it makes it easy for me to get along with policemen>。清水氏は「私がこんな話をするのは、父の代わりに手伝いをしたいからなのよ」と、一歩踏み込んだ訳になっている。村上氏は「私がこんな打ち明け話をしてあなたをうんざりさせているのは、私にとっては、警察とうまくやっていく方が容易いんだということが言いたいからよ」と、ほぼ直訳している。

「やることといえば、とりとめもないことをくどくど話すばかりで」は<All he will do is chew one of my ears off>。清水氏はここをカットしている。<chew one of my ears off>にとまどったのだろう。村上訳では「どうせ私の耳を片方食いちぎるつもりでいるんだから」と、訳している。<chew one's ear off>は「とりとめもないことをぺらぺら喋る、くどくどと話す」という意味のイディオムだが、村上氏はご存じなかったようだ。

「目尻に皺が寄った」は<Her eyes crinkled at the corners>。清水氏はここをカット。村上氏は「目の端っこにしわがよった」と直訳している。「目尻にしわを寄せる」は、日本語の慣用句だ。わざわざ「目の端っこ」と表現しなければならないほどの意味がここにあるのだろうか。

「名演だったが、生来の美質が芝居の邪魔をしているのが見て取れた」は<It was a good act, but I knew something else about her that spoiled it>。清水氏は「うまい芝居だったが、彼女にはそぐわなかった」と意訳している。村上氏は「なかなか見事な演技ではあったが、彼女の中にある何か特別なものがその効果を損なっていることが私にはわかった」と訳している。 <something else>には「何かほかのもの」という意味のほかに「格別にすばらしいもの(あるいはその逆)」という意味がある。まだるっこしく訳すより、ずばり「美質」とした方がわかりよい。

「洒落にならない」、「だいいち、らしくない」は<Not funny>、<Not even fast>。清水氏は「駄目だわ。そんなこといってしらばっくれても」と間にある<she said>を抜いて、一文にしている。村上訳では「冗談はよして」、「だいいいち面白くもないわ」。<not even~>は「~でさえない」の意味だ。<fast>には「速い」のほかに、いくつもの意味があって、その中のどれを採るかで全く意味が変わってくる。しかし、村上氏のいう「面白い」にあたる意味はない。氏は<Not funny>の意味を敷衍しているだけだ。

ここは適当なことを言ってお茶を濁そうとしたマーロウを、彼女が手厳しくやりこめているところだ。まず、思い違いという言い逃れでは冗談にもならない、というのが一つ。次に、マーロウという人間は簡単に本当のことは言わないが、適当な嘘をいう人間ではない、という彼女なりのマーロウという人間に関する人間観がある。それにも該当しない、というのが二つ目だ。とすると、この場合の<fast>は「(主義・主張・信念などが)固く、しっかりと」している、という意味ではないか。だから、そう言われたマーロウは、すぐに本当のことを話すのだ。

「得意の手よね」は<you know the line>。清水氏は「……」とぼかしている。村上氏は「やり方はわかるでしょう」と訳している。この場合の<line>は議論や活動の「筋道」というくらいの意味。<you know>は文字通り「わかるでしょう」と訳すこともできるが、同意や念押しの意味で使う「ね、よ、さ」と考える方が自然。

「連中は汗ひとつかかないで」は<they never even sweat>。先に出てきた<not even>をより強めた言い方で「決して~でない」という意味だが、清水氏はこの部分をカットしている。村上氏は「連中は涼しい顔をして」と訳している。否定形を肯定形で訳す典型的な訳例になっている。小説の中で痛い目にあわされることの多いマーロウとしては、他のハードボイルド小説の探偵が難なく事件を解決するのが不満のようだ。チャンドラーの皮肉だろう。

「編集部のファイルを漁ってグレイル家の資料を見つけてくれた」は<He got out his morgue file on the Grayles. Look>。清水氏は「グレイル夫人の写真をもらってきたのよ」とずいぶんあっさりと訳している。村上訳では「グレイル家の参考資料を引っ張り出してきてくれた」となっている。村上訳ではギディー・ガーティーは、社交欄担当記者になっているが、原文では<editor>。「編集者」の意だが新聞社なら「編集長、主幹」の扱いではないか。で<morgue>だが、<file>が後につくと新聞社の保存資料のこと。

「インデックス・カード大の光沢のある写真だ」は<a five-by-three glazed still>。清水氏は「写真」とだけ。村上氏は「十二センチ×八センチの光沢のある写真だった」と、例のごとくセンチメートルに換算して記述している。こういうところの律義さは見習いたいくらいのものだ。ただし、5×3は「情報カード」という名で通っているカードの大きさのひとつ。梅棹忠雄氏が『知的生産の技術』で世に知らしめた京大型カードがそれにあたる。わざわざメートル法で換算するのもアリだが、通用しているものを使うのも手だろう。