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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第27章(2)

「怪物博士」とは、ボリス・カーロフ知名度も落ちたものだ。

【訳文】

「ここを出たら、すぐに逮捕される」彼は厳しく言った。「君は警察官によって正式に収監されたんだ―」
「警察官にそんなことはできない」
 それは彼を動揺させた。黄色味を帯びた顔に変化が生じた。
「いい加減、吐いたらどうだ」私は言った。「誰が連れてきたんだ。なぜ、どうやって? 今夜は気分がうずうずする。汗まみれになって踊りたい。バンシーの叫び声が聞こえる。一週間というもの誰ひとり撃っていない。しゃべるんだ。ドクター・フェル。古風なヴィオラをかき鳴らして、優しい音楽を響かせてくれ」
「君は麻薬中毒で苦しんでいる」彼は冷やかに言った。「危うく死ぬところだった。ジギタリスを三度も投与しなければならなかった。君は暴れて、叫んだ。拘束しなければならなかった」言葉が矢継ぎ早にぴょんぴょんと撥ね飛んで出てきた。「今の状態で病院から出たりしたら、深刻なトラブルに見舞われることになる」
「ドクターだと言ったな。医者なのか?」
「もちろん。私はドクター・ソンダーボルグ。言ったとおりだ」
「人は麻薬中毒で暴れたり叫んだりしない。ただ昏睡するだけだ。ハズレ。やり直しだ。私の知りたいのはたった一つ。あんたの非公式の気ちがい病院に私を送り込んだのは誰だ?」
「しかし―」
「しかしもくそもない。ひっつかんで、マームジー・ワインの樽に入れて溺れ死にさせてやろうか。いっそ自分が溺れ死ぬためのマームジー・ワインの樽が欲しいよ。シェイクスピアだ。彼は酒とも昵懇の仲だったからな。こちらも気つけ薬を飲ろう。私は彼のグラスに手を伸ばし、お互いのグラスに酒を注いだ。「さっさとやれよ、カーロフ」
「警官が連れてきたんだ」
「どこの警官だ?」
「当然、ベイシティの警官だ」彼の落ち着かない黄いろい指がグラスを弄んでいた。「ここはベイシティだ」
「ところで、その警官に名前はあるのか?」
ガルブレイス巡査部長だったと思う。正規のパトロールカー警官ではなかった。金曜の夜、彼ともう一人の警官が放心状態で家の外をうろついている君を見つけた。ここへ運んだのは近かったからだ。中毒患者が麻薬を過剰摂取したと思ったのだが、どうやら、ちがっていたようだ」
「よくできた話だが、嘘だと証明できない。しかし、どうして私を引き留めるんだ?」
 彼は落ち着きのない手を広げた。「何度も言ったはずだ。君はひどく具合が悪かった。それは今も同じだ。いったい私にどうしろと言うんだ?」
「私には支払い義務があるという訳だ」
 彼は肩をすくめた。「当然だ。二百ドルだ」
 私は少し椅子を引いた。
「激安だな。とってみろよ」
「もしここを出たら」彼はとげとげしく言った。「すぐ逮捕されることになる」
 私は机に倚りかかり、彼の顔に息を吹きかけた。「ただ出て行きはしないよ、カーロフ。壁の金庫を開けるんだ」
 彼はさっと立ち上がった。「これはやり過ぎだ。もう充分だろう」
「開けないつもりか?」
「絶対開けない」
「私が銃を持っているのに」
 彼はかろうじて苦々し気に微笑んだ。
「大きな金庫だ」私は言った。「それに新しい。この銃は高性能だ。開ける気はないか?」
 彼は顔色を変えなかった。
「くそっ」私は言った。「銃をつきつけたら、何でも相手の言う通りにするものだ。うまくいかないもんだな?」
 彼は微笑んだ。サディスティックな喜びの微笑だった。私は後ろによろけた。へたり込みそうだった。
 私は机で体を支えた。彼は待っていた。彼の唇がわずかに開いた。
 私は長い間そこに倚りかかり、彼の両眼を見つめていた。それからにやりとした。微笑が彼の顔から汚れたぼろ屑みたいに落ちた。その額には汗が浮かんだ。
「じゃあな」私は言った。「君のことは私より汚い手に任せるよ」
 私はドアまで戻り、それを開けて外に出た。
 玄関の扉に鍵はかかっていなかった。屋根付きのポーチがあり、庭には花が咲き乱れていた。白い囲い柵と門があった。家は角地に建っていた。しっとりした涼しい夜で、月は出ていなかった。
 街角の標識はデスカンソ通りを示していた。街区に並ぶ家々には灯りが点っていた。私はサイレンの音に耳を済ませた。何も聞こえない。もう一つの標識は二十三番街。私は二十五番街まで歩き、八百番台の街区に向かった。八一九番がアン・リオーダンの番地だった。サンクチュアリだ。
 長い間歩いてきてまだ銃を手にしていることに気づいた。サイレンは聞こえなかった。
 歩き続けた。外気を吸って気分は良くなったが、ウィスキーの効き目が切れかけ、切れてくると身悶えした。その街区には樅の木が繁り、煉瓦造りの家が並んでいた。南カリフォルニアというよりもシアトルのキャピトル・ヒルのようだ。
 八一九番地にはまだ灯りが点っていた。高い糸杉の生垣に押しつけられるように、とても小さな白い屋根つきの車寄せがあった。家の前には薔薇の茂みがある。そこまで歩いて行った。呼び鈴を押す前に耳をすませた。まだサイレンは聞こえてこなかった。ベルが鳴り、しばらくすると、玄関のドアに鍵をかけたままで話ができるようになっている一種の電気装置から声が聞こえてきた。
「何のご用ですか?」
「マーロウだ」
 彼女は息を呑んだようだった。もしかしたら、電気装置が切れるときの音かも知れない。
 ドアが大きく開かれ、薄緑のスラックスーツを着たアン・リオーダンが私を見て立っていた。眼は大きく開かれ怯えていた。玄関灯の眩しい光を受けた顔が見る見る蒼ざめた。
「どうしたの」彼女は叫び声をあげた。「あなた、まるでハムレットの父親みたい!」

【解説】

「汗まみれになって踊りたい。バンシーの叫び声が聞こえる。一週間というもの誰ひとり撃っていない」は<I want to go dance in the foam. I hear the banshees calling. I haven't shot a man in a week>。清水氏はここを「何をするかわからないんだぜ」と訳している。まあ、突然「バンシー」が登場しても何が何やら分からないだろう。村上訳は「血にまみれてダンスをしたくてたまらない。バンシー(死人がでることを泣き叫んで予告する妖精)の叫びが聞こえる。それにこの一週間まだ誰も殺してないんだ」。<in the foam>を「血にまみれて」と訳すのは少し無理があると思う。

「ドクター・フェル。古風なヴィオラをかき鳴らして、優しい音楽を響かせてくれ」は<Dr. Fell. Pluck the antique viol, let the soft music float>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ドクター。時代物のヴァイオリンを手にとって、麗しい音楽を奏でてくれ」だ。<viol>は厳密には「ヴィオラ・ダ・ガンバ」。「ドクター・フェル」といえばディクスン・カーの名探偵「フェル博士」を思い出すが、ここで使われているのは、その意味から考えて『マザー・グース』の「フェル先生 僕はあなたが嫌いです」(I do not like thee, Doctor Fell)ではないだろうか。どちらにせよ、註なしでは理解しにくいので両氏とも略したのだろう。

「ドクターだと言ったな。医者なのか?」は<Did you say you were a doctor-a medical doctor?>。清水氏は「君は医者だといったね?」と訳し、その後を「いかにも医師ソンダーボーグだ」と訳している。村上氏は「あんたドクターって言ったね。医学博士ということか?」「もちろんだ。ドクター・ソンダボーグ。そう言ったはずだ」だ。「ドクター」はふつう医師のことだが、博士号取得者なら「ドクター」を名のることができる。「医者(medical doctor)か?」と訊いているのに、「ドクター」としか答えていないところがいかにも胡散臭い。清水訳ではそこのところが伝わらない。

「ハズレ。やり直しだ。私の知りたいのはたった一つ」は<Try again. And skim it. All I want is the cream>。清水訳は「ごまかそうと思っても無駄だよ」。村上訳は「いい加減なことを言うのはよした方がいい。私が知りたいのは真実だ」。<skim>は「すくい取る」こと。<the cream>には「(話の)妙所」の意味がある。両氏の訳からは<Try again>の意味が抜け落ちている。マーロウは同じ問いを繰り返しているのだ。

「あんたの非公式の気ちがい病院」と訳したところは<your private funny house>。清水氏は「化物屋敷」と訳しているが、<funny house>は「面白い家」ではなく「精神病院の蔑称」だ。村上訳は「気違い病院」。マーロウは、この屋敷のつくりや、いかにもな診察室、ドクターと称する相手の医学的知識のいい加減さから、この屋敷が私設の収容所のようなものだと見破っている。<private>には「私立、民間」の意味があるが、ここでは表沙汰には出来ないという意味を込めて「非公式」と訳しておいた。

「さっさとやれよ、カーロフ」は<Get on with it, Karloff>。清水氏は「さあ、話してくれ、カーロフ(ボリス・カーロフ、怪奇映画専門の俳優)」と註をつけて訳している。村上訳は「さあ、一杯やれよ、怪物博士」。ボリス・カーロフといえば、フランケンシュタインの怪物を演じた役者で、一般的なイメージの原型になっている。どちらかといえば、いつもは逐語訳に近い村上氏がこのような訳語を使うのはめずらしい。註をつけても、ボリス・カーロフの名前を知らない読者が一般的になったということか。

「彼の落ち着かない黄いろい指がグラスを弄んでいた」は<His restless yellow fingers twisted his glass>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「落ち着きのない黄色い指がグラスをねじっていた」と、ここは逐語訳だ。

「ただ出て行きはしないよ、カーロフ」は<Not just for going out of here, Karloff>。.清水氏は「ここを出て行くだけで、捕縛されるというのはおかしいぜ、カーロフ」と訳している。<not just>を「正当でない(おかしい)」と解したのだろうが、これではその後に続く<Open that wall safe>にうまく結びつかない。<not just>は「だけでなく、に限らず」という意味だ。村上訳は「ここから出て行くっていうだけじゃないぜ、先生」と、ここも、やはり通じないと見たのか「カーロフ」を使うのを避けている。

「八一九番がアン・リオーダンの番地だった。サンクチュアリだ」は<No. 819 was Anne Riordan's number. Sanctuary>。清水氏はここを「八一九番地はアン・リアードンのアパートだった。そこにまさる避難所はない」と訳しているが、後に出てくるアンの家は一戸建てだ。村上訳は「八一九番地にはアン・リオーダンが住んでいる。そこまで行けば安全だ」。「聖域」を意味する「サンクチュアリ」が「自然保護区」を意味することは、現在では、知られているのではないか。もう一つ、清水氏は<porte-cochere>を「ギャレージ」としているが、これは「屋根付きの車寄せ」のことで、村上氏もそう訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第27章(1)

ものをいうとき、舌を外に出すだろうか?

【訳文】

《そこは診察室だった。狭くもなく、広くもない、簡便で実務的な作りだ。ガラス扉の中に本がぎっしりつまった書架。壁には応急処置用の薬品棚。消毒のすんだ注射針と注射器がずらりと並ぶ、白いエナメルとガラスの殺菌消毒キャビネット。大きな平机の上には、吸取り器、ブロンズのペーパーナイフ、ペンセット、スケジュール帳を除けば、他にはほとんど何もない。両手に顔を埋めて考え事に耽っている男の肘があるばかりだ。
 広げた黄色い指の間から濡れた茶色い砂色の髪がのぞいていた。とても滑らかで、頭蓋骨に描いたように見える。私はあと三歩前に出た。机越しに私の靴の動くのが見えたにちがいない。彼は頭を上げ、私を見た。落ちくぼんで生彩を欠いた眼が羊皮紙めいた顔の中にあった。彼は両手を放してゆっくりと後ろにもたれ、無表情に私を見た。
 それから、困ったような非難するような仕種で両手を広げ、下ろすときに一方の手を机の隅近くに置いた。
 私はもう二歩進み、ブラックジャックを見せた。彼の人差し指と中指が机の隅に向かって動いていた。
 「ブザーなら」私は言った。「今夜はもうお役御免だ。見張りは寝かしつけた」
 彼の目は眠そうになった。「君はひどく具合が悪いようだった。重篤だった。まだ起きて歩きまわるのはお勧めできないね」
 私は言った。「右手だ」。私はブラックジャックで相手の右手をぴしゃりと打った。手は傷ついた蛇のように丸まった。
 私は意味のない笑いを浮かべ、机の向こうに回った。もちろん銃は抽斗に入っていた。銃はいつも抽斗に入っている。仮に手にしたところで、いつも手遅れだ。私は銃を取り出した。三八口径のオートマチック、スタンダードモデルで、私の銃ほど良くないが弾は使える。抽斗には他に弾はなさそうだった。私は彼の銃から弾倉を抜き出そうとした。
 彼はかすかに体を動かした。眼は落ちくぼんだままで、悲しげだった。
「絨毯の下にもブザーがあるのかもな」私は言った。「本署の署長室に通じているのかもしれない。押すんじゃないぞ。ここ一時間ばかりの私はひどくタフガイだ。誰であれ、あのドアを開けたが最後、そいつは棺桶の中に足を突っ込んでいる」
「絨毯の下にブザーなどない」彼は言った。声にはほんの少し外国訛りがあった。
 弾倉から取り出した弾を自分の空っぽの弾倉に入れ替えた。彼の銃の薬室にあった弾をはじき出し、そのままにしておいた。自分の銃の薬室に弾を装填して机の向こう側に戻った。
 ドアにはばね錠がついていた。私は後ずさりしてドアを押して閉め、錠のかかる音を聞いた。掛け金もあった。それも掛けた。
 私は机のところに戻り、椅子に腰かけた。それで最後の力を使い果たした。
「ウィスキー」私は言った。
 彼は両手を動かし始めた。
「ウィスキーだ」私は言った。
 彼は薬品棚のところへ行き、緑色の収入印紙が貼られた平たい瓶とグラスを手にとった。
「グラスは二つ」私は言った。「おたくのウィスキーを前に試したことがあってね。カタリナ島までとばされそうになった」
 彼は小さなグラスを二つ手にとって封印を切り、二つのグラスを満たした。
「お先にどうぞ」私は言った。
 彼はかすかに微笑み、グラスのひとつを揚げた。
「君の健康を祝して、残り物のね」彼は飲んだ。私も飲んだ。私は瓶に手を伸ばし、近くに置き、胸の中が熱くなるのを待った。心臓がどきどきし始めたが、再び胸の中に戻ってきた。靴ひもでぶら下がったりしていなかった。
「うなされていた」私は言った。「馬鹿げた妄想だ。夢を見たんだ。ベッドに縛られ、いやというほど麻薬を打たれ、鉄格子のついた部屋に監禁された。ぼろぼろだった。ただ眠った。何も食べていない。まるきりの病人だ。頭に一発食らわされ、したい放題できる場所に連れ込まれたんだ。ずいぶん手間をとらせたものさ。私はそんな大物じゃない」
 彼は何も言わなかった。私を見ていた。私がどれだけ生きていられるのか行末を推し測っているみたいな目をして。
「目を覚ましたら部屋中煙っていた」私は言った。「ただの幻覚さ。視神経過敏とか何とかいうのだろう、業界用語じゃ。ピンクの蛇の代わりに煙が見えた。叫び声を上げたら、白衣を着た逞しいのがやってきて、ブラックジャックをちらつかせた。それを取り上げる準備をするのにけっこう手間をかけたんだ。鍵を手に入れ、自分の服はもちろん、男のポケットから自分の金まで取り返した。だからここにいる。完全に回復した。何か言ったか?」
「発言していない」彼は言った。
「発言の方がしてもらいたがっている」私は言った。「やつらは言われるのを待ってたむろしている。こいつは―」私はブラックジャックを軽く振った。「いい働きをする。私は男から借りなければならなかった」
「それをすぐに渡しなさい」彼は微笑を浮かべながら言った。人をその気にさせる微笑だ。死刑執行人の微笑みに似ている。絞首台の落とし戸が過たず開くよう、体重を測る目的で監房を訪れるときの微笑だ。少しばかり人懐っこく、少しばかり父親めいてはいるが、少しばかり用意周到でもある。もし、何かしら生き延びるための手立てがあったなら、きっと気に入るだろう。
 私は彼の手のひらにブラックジャックを落とした。左の手のひらだ。
「さあ、銃も」彼は優しく言った。「君はずっと具合が悪かったんだ。ミスタ・マーロウ。ベッドに戻るべきだ」
 私はじっと彼を見た。
「私はドクター・ソンダーボルグ」彼は言った。「茶番劇は好きではない」
 彼はブラックジャックを目の前の机の上に置いた。彼の微笑は凍った魚のように固まっていた。長い指は死にかけた蝶のような動きをしていた。
「銃を渡すんだ」彼は優しく言った。「悪いことはいわない―」
「今、何時かな? 刑務所長」
 彼は少し驚いたように見えた。私は腕時計をしていたが、発条が切れていた。
「そろそろ深夜だが、それがどうかしたかね?」
「今日は何曜日だ?」
「何を言うかと思えば―日曜の夜さ、もちろん」
 私は机に凭れて考えようとした。銃は彼が獲ろうとするなら取れる位置に握っていた。
「四十八時間以上になる。発作が起きてもおかしくない。誰が私をここに連れて来た?」
 彼は私をじっと見据え、左手が銃に向かってじりじりと動きはじめた。彼は「這いまわる手協会」会員だった。きっと何人もの娘たちが共に時間を過ごしたにちがいない。
「手荒な真似はしたくない」私は鼻を鳴らした。「美しいマナーと完璧な英語を失わせるような真似をさせないでくれ。どうやってここに来たかを教えてほしい」
 彼は勇気があった。銃をひったくろうとした。が、手を伸ばした先に銃はなかった。私はゆったりと椅子に座り、銃を膝の上に置いた。
 彼は真っ赤になってウィスキーの瓶をつかみ、もう一杯自分で注ぎ、素早く飲み干した。それから大きく息を吸って身震いした。彼は酒の味が好きではなかった。ヤク中は決まってそうだ。》

【解説】

「そこは診察室だった」は<It was an office>。清水氏も村上氏も「そこはオフィスだった」と訳している。それを訳とは言わない。無論、会社その他なら「オフィス」という訳語をあてる場合はある。しかし、その後の展開を見れば、ここが単なるオフィスではなく、医者が診療に使う「診察室」であることは自明だ。英語の<office>は、単に「事務室」だけではなく、多種多様の場所を指す。だから、<It was an office>とひとまずは説明しておいて、そこが何の部屋か、詳しく描写をしているのだ。

「消毒のすんだ注射針と注射器がずらりと並ぶ」は<with a lot of hypodermic needles and syringes inside it being cooked>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「熱処理された皮下注射用の針と注射器がたっぷり入っている」と訳している。ここまで書いて、ここを「オフィス」と訳すのは変だと思わなかったのだろうか。

「大きな平机の上には、吸取り器」と訳したところは<A wide flat desk with a blotter on it>。清水訳では「低くて、大きなデスク。その上には吸取紙」となっている。「低い」ことはどこから分かるのだろう? 村上訳は「平ったい大きな机の上には下敷き」だ。やれやれ、また<blotter>の登場だ。村上氏は一貫して「下敷き」説をとる。清水氏は「吸取紙」説だ。当方はといえば臨機応変。今回は、ペンセットやペーパーナイフ、スケジュール帳と筆記具が出揃っているので「吸取り器」説を採用した。弧を描いた底面に吸取り紙をセットした小振りの道具で、書いたばかりの字から余分なインクを吸い取るのに用いる。これまでにも何回も登場しては頭を悩ませてくれる困った小道具である。

「とても滑らかで、頭蓋骨に描いたように見える」は<so smooth that it appeared to be painted on his skull>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「それはあまりにも滑らかにぺちゃっとしていて、まるで頭蓋骨の上に筆で描かれたもののように見えた」だ。

「落ちくぼんで生彩を欠いた眼が羊皮紙めいた顔の中にあった」は<Sunken colorless eyes in a parchment-like face>。清水氏はここもカットしている。それでいながら「しばらく何もいわなかった」という原文にない一文をつけ加えている。村上訳は「羊皮紙でできたような顔に、落ちくぼんだ色のない瞳があった」だ。<colorless>は「無色」という意味だが、「色のない瞳」というのはないだろう。ここは「特色のない、つまらない」という意味にとるのが普通ではないだろうか。

「彼の人差し指と中指が机の隅に向かって動いていた」は<His index and second finger still moved towards the corner of the desk>。清水訳は「彼の人さし指と中指とが静かにデスクの隅の方に動いていた」。村上訳は何故か「彼の人差し指はなおも机の隅に向かって動いていった」と<second finger >をカットしている。読み飛ばしたのだろうか。

「私は意味のない笑いを浮かべ、机の向こうに回った」は<I went around the desk grinning without there being anything to grin at>。清水氏はここを「私はデスクをまわっていって」と訳していて、マーロウの表情にはふれていない。村上訳は「私は笑みを浮かべ、デスクの向こうに回り込んだ。笑みを浮かべる要素などどこにもなかったのだが」。

「銃はいつも抽斗に入っている。仮に手にしたところで、いつも手遅れだ。私は銃を取り出した。」は<They always have a gun in the drawer and they always get it too late, if they get it at all. I took it out>。清水氏はここをカットしている。洒落た文句なのに。チャンドラーのファンはこういう言い回しを好む。村上訳は「いつも抽斗には拳銃が入っているし、いつもそれを取り出すのが遅すぎる。もし取り出すことができればだが。私がそれを取り出した」。<get it>の繰り返しを「取り出す」の繰り返しで表現したのだろうが、間怠い。

「彼の銃の薬室にあった弾をはじき出し、そのままにしておいた。自分の銃の薬室に弾を装填して」は<I ejected the shell that was in the chamber of his gun and let it lie. I jacked one up into the chamber of mine>。清水氏はここをカットしている。弾倉がそのまま薬室になっているリヴォルヴァーとちがい、オートマチックは弾倉を抜き出しても薬室には弾が一発入っているのが普通だ。ここをカットすると、相手の拳銃に弾が残ることになる。村上訳は「彼の銃の薬室にはいっていた弾丸をはじき出した。はじき出された弾丸はそのままにしておいた。自分の拳銃の薬室に一発送り込み」。

「私は後ずさりしてドアを押して閉め」は<I backed towards it and pushed it shut>。清水訳は「私は後ずさりをしながら、ドアを強く押して閉めた」。村上訳は「私はドアのところに行って、それを押し込み」だ。<back toward>には「後ろ向き」の意味がある。つまり、マーロウは相手に銃を向けながら、背中か尻でドアを押して閉めたのだろう。だから、ドアを見ておらず、錠のかかり具合を耳で確かめたにちがいない。村上訳ではそれがよく分からない。

「掛け金もあった」は<There was also a bolt>。清水訳は「閂(かんぬき)もあった」。村上訳は「ボルト錠もついていた」。その後に<I turned that>とあるので「掛け金」と訳した。回転させて留金具に掛けるタイプの錠だと思うが、ひとつ前の「ばね錠」<spring lock>といい、案外ぴったりくる訳語が見あたらない。村上氏は「スプリング・ロック」のままにしている。清水氏は「バネ仕掛けの錠」だ。

「心臓がどきどきし始めたが、再び胸の中に戻ってきた。靴ひもでぶら下がったりしていなかった」は<My heart began to pound, but it was back up in my chest again, not hanging on a shoelace>。清水氏はここもカットしている。あやふやな箇所はトバすことにしているらしい。村上訳は「心臓がどきどきし始めた。しかし心臓は元通り胸の中に収まっていた。靴ひもでどこか別のところにぶら下げられたりしていない」。

「うなされていた」は<I had a nightmare>。清水訳は「俺は悪夢を見ていたんだ」。村上訳は「悪い夢を見ていた」。間違いではないが<have a nightmare>は「うなされる」だ。「馬鹿げた妄想だ」は<Silly idea>。清水訳は「ばかばかしい夢さ」。村上訳は「つまらん夢さ」。両氏とも<idea>を「夢」と訳している。<nightmare>と、すぐ後に続く<I dreamed>に引きずられているのだろう。ここでマーロウが言っているのは、詳細に記述された幻覚症状のことだと考えられる。そう言っておいて「夢を見たんだ」云々が続くのだ。

「ピンクの蛇の代わりに煙が見えた」は< Instead of pink snakes I had smoke>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「桃色の蛇の替わりに、私には煙が見えた」だ。酒などの幻覚によって現れる動物として<pink elephants>というのがある。マーロウの言っているのはそれのことだろう。

「それを取り上げる準備をするのにけっこう手間をかけたんだ」は<It took me a long time to get ready to take it away from him>。清水氏は「奴の棍棒を取りあげるのは容易なことじゃなかった」と訳している。村上氏は「それを彼から奪いとれるところまで回復するのに、けっこう時間がかかった」と訳している。<to get ready to take it away>(それを取り上げる準備をするのに)というところから、マーロウはベッドのスプリングを外していた辛い作業のことを思い出していたにちがいない。

「やつらは言われるのを待ってたむろしている」は<They have their tongues hanging out waiting to be said>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼らは外に舌を出して、言葉にされるのを待ち受けているんだよ」だ。迷訳というべきか。<tongue>は、舌そのものを指すだけでなく、「言葉、話し、談話」などを意味している。<have one’s tongue>は「しゃべる」くらいの意味だ。また、<hang out>は「(お気に入りの場所に)出入りする、たむろする」という意味。だいたい、ものをいうとき、舌を外に出したりしない。

「彼は「這いまわる手協会」会員だった。きっと何人もの娘たちが共に時間を過ごしたにちがいない」は<He belonged to the Wandering Hand Society. The girls would have had a time with him>。清水氏は「よく手を動かす男だった」と略している。<wandering hand>は「女性の体に触りたがる」男を意味する古いスラング。現在なら立派なセクハラである。村上氏は「彼は「そろそろ伸びる手クラブ」の会員なのだろう。娘たちは彼ときっと愉しいひとときを持てたはずだ」と訳している。「愉しいひととき」は逆説ととっておこう。

「美しいマナーと完璧な英語を失わせるような真似をさせないでくれ」は<Don't make me lose my beautiful manners and my flawless English>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「この優雅な物腰と、この隙のない英語を損なわせるようなことを、私にさせないでくれ」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第26章

―訳者には自分の解釈を読者に押しつける権利などない―

【訳文】

《クローゼットの扉には鍵がかかっていた。椅子は持ち上げるには重すぎた。がっしりしているのは訳があったのだ。シーツとベッドパッドを剥ぎとり、マットレスを片側に引っ張った。下は網状のスプリングになっており、黒いエナメルを塗った九インチほどの金属コイルばねで上と下に固定されていた。その中のひとつを外しにかかった。こんなに辛い仕事はしたことがなかった。十分後、二本の指が血を流し、一本のばねが緩んでいた。振ってみた。いいバランスだった。重かった。鞭のようにしなった。
 そこまで済ませてから、ウィスキーの瓶が目に留まった。それで事足りたのに、すっかり忘れていた。
 もう少し水を飲んだ。剥き出しになったスプリングの横に座って、ほんの少し休んだ。それからドアのところまで行って、ヒンジ側に口をあてて大声をあげた。
「火事だ! 火事だ! 火事だ!」
 あっという間だったが、待つのは愉快だった。男は外の廊下を必死で走ってきて、乱暴に鍵穴に鍵を差し込み、強く回した。
 ドアが勢いよく開いた。私は開口部側の壁にべたりと張りついていた。男は今度は棍棒を手にしていた。長さ五インチ、編んだ茶色の革で被われた、洒落た道具だ。男の目は裸に剥かれたベッドに飛びつき、それから振り向こうとした。
 私は忍び笑いを漏らし、男を殴った。側頭部をコイルばねで打ちのめされ、男は前によろめいた。相手を膝まずかせ、もう二発殴った。うめき声が聞こえた。ぐったりした手から棍棒を取り上げると、哀れっぽい声を出した。
 男の顔を膝で蹴った。膝が痛かった。相手の顔が痛かったかどうかは聞いていない。男がまだうめいている隙に、棍棒を使って気絶させた。
 ドアの外側に差しっ放しになっていた鍵を抜き、内側から鍵をかけ、男を調べた。男は他にも鍵を持っていた。そのうちのひとつがクローゼットの鍵だった。私は自分のポケットを探った。財布から金が消えていた。白衣の男のところに戻った。仕事に見合わない金を持ち過ぎていた。自分の持っていた金を取り返し、男をベッドに持ち上げ、手首と足首を縛り、半ヤードのシーツを口に詰め込んだ。彼の鼻はつぶれていた。息ができるかどうか確かめるために、しばらく待った。
 かわいそうなことをした。どこにでもいる働き者の男が、週給の小切手にありつこうと必死で仕事にしがみついていただけのことだ。たぶん妻子持ちだ。気の毒に。そして、彼が頼みとするのは棍棒だけだった。不公平に思えた。私は混ぜ物入りのウィスキーを彼の手の届くところに置いた。もし、彼の手が縛られていなかったら、だが。
 私は男の肩を叩いた。憐れで泣きたいくらいだった。
 服は全部、クローゼットのハンガーにかかっていた。ショルダー・ホルスターには銃まで入っていた。ただし弾丸はなかった。縺れる指で服を着た。欠伸が止まらなかった。
 男はベッドの上で静かにしていた。私は男をあとに残し、鍵をかけた。
 広い廊下は静まり返っていた。三枚あるドアはみな閉まっていて、どこからも音は聞こえてこなかった。廊下の中央には葡萄酒色の絨毯が敷き詰められ、他の部屋と同じくらい静まり返っていた。突き当りで廊下は湾曲し、そこから直角に別の廊下が、ホワイトオークの手摺がついた大きな昔風の階段の降り口に通じていた。それは優雅な曲線を描いて下の薄暗い廊下まで下りていた。下の廊下の突き当りはステンドグラスが嵌った二枚の中扉で仕切られていた。モザイク状の廊下には厚い敷物が敷かれ、ドアのわずかな隙間から光がこぼれていた。しかし、音は聞こえてこなかった。
 年代物の屋敷だ。かつてはこぞって建てられたものだが、今では建てられることはない。おそらく静かな通りに面し、横手に薔薇をはわせた東屋を配し、正面には色とりどりの花々が咲きこぼれているにちがいない。晴朗なカリフォルニアの陽光を浴びて、品よく涼しげで物静かに。誰が中のことを気にかけよう。あまり大声を出させないことだ。
 階段を降りようと足を踏み出したとき、咳が聞こえた。あたりを窺うと、突き当りから延びた方の廊下沿いに半開きのドアがあった。つま先立ちで絨毯の上を歩いた。私は半分開いたドアに近寄って待機した。中には入らなかった。楔状の光が絨毯の上の私の足に落ちた。咳がまた聞こえた。厚い胸から出た、深みのある咳だった。いかにも平和でやすらかに響いた。私には関係のないことだった。私の仕事はここから出ることだ。しかし誰であれ、この家でドアを開け放しにできる人物に興味が湧いた。帽子をとって敬意を表すに相応しい地位にいる人物だろう。私は楔状の光の中にそっと踏み込んだ。新聞ががさがさと音を立てた。
 部屋の一部は見て取れた。普通の部屋のように家具調度つき、独房には見えない。黒っぽい衣装箪笥の上に帽子と雑誌が何冊か。窓にはレースのカーテン、絨毯もそれなりの品だ。
 ベッドのスプリングが軋んだ。咳に見合う大男だ。指先をドアに伸ばして一インチか二インチほど押した。何も起こらなかった。これ以上はできないほどゆっくり、首を伸ばした。やっとのことで部屋の中が見えた。ベッドがあり、その上に男がいた。灰皿に山と積まれた吸殻が溢れ出し、ナイト・テーブルから絨毯の上にこぼれ落ちていた。一ダースほどの皺くちゃの新聞紙がベッドの上に散らばっていた。そのうちの一枚が大きな手で大きな顔の前に広げられていた。緑色の紙の端から髪の毛がのぞいていた。ほとんど真っ黒と言っていいふさふさした縮れ毛の下に白い肌が線になって見えていた。新聞が少し動いた。私は息を殺した。ベッドの男は顔を上げなかった。
 彼は髭を剃る必要があった。常に髭を剃る必要があるのだ。私はかつてセントラル・アヴェニューにある<フロリアンズ>という黒人専用の安酒場で彼に会っている。そのときは白いゴルフボールのついた派手なスーツを着てウィスキー・サワーを手にしていた。彼が握ると玩具に見えるコルト・アーミーを手に、素知らぬ顔で壊れたドアから出てきた。仕事ぶりはそのときいくつか拝見したが、相変わらずの手並みのようだ。
 彼はまた咳をしてベッドの上で尻を転がし、大きな欠伸をすると、ナイトテーブル上の皺くちゃになった煙草の箱に手を伸ばした。そのうちの一本を口に咥えた。親指の端で火が揺らめいた。鼻から煙が出てきた。
「ああ」彼は言った。新聞が再び顔の前に持ち上がった。
 私は彼をそこに残し、廊下伝いに戻った。ミスタ・ムース・マロイは手厚いもてなしを受けているようだ。私は階段に戻り、そこを下りた。
 わずかに開いたドアの向こうでくぐもった声が聞こえた。返事する声を待った。何も聞こえなかった。電話の会話だ。ドアが閉まっていることを確認し、聞き耳を立てた。呟きに似た低い声だった。話の中身は聞き取れなかった。最後にかちりと乾いた音がした。そのあと部屋の中は沈黙に包まれた。
 遠くへ立ち去る潮時だった。そういう訳で、私はドアを押し開け、静かに入り込んだ。》

【解説】

「シーツとベッドパッドを剥ぎとり、マットレスを片側に引っ張った」は<I stripped the sheets and pad off the bed and dragged the mattress to one side>。清水氏は「私はベッドのシーツを剥ぎとって、マットレスをめくった」と訳している。マットレスを「めくる」ことができるかどうかはさておき、<pad>が忘れられている。村上氏も「私はシーツをはぎ取り,ベッドを裸にし、マットレスを片側に引っ張った」と詳細な割にパッドは無視している。パッドなしではスプリングが体を刺戟して寝心地が悪かろうに。

「そこまで済ませてから、ウィスキーの瓶が目に留まった。それで事足りたのに、すっかり忘れていた」は<And when this was all done I looked across at the whiskey bottle and it would have done just as well, and I had forgotten all about it>。清水訳にこの二文は見当たらない。村上訳は「そこまで作業を終えたところで、部屋の向こうにあるウィスキーの瓶に(ママ)目にとまった。こんな面倒なことをしなくても、それひとつあれば用は足りたのだ。やれやれ、瓶のことをすっかり忘れていた」だ。

「男は今度は棍棒を手にしていた。長さ五インチ、編んだ茶色の革で被われた、洒落た道具だ」は<He had the sap out this time, a nice little tool about five inches long, covered with woven brown leather>。清水氏は何と思ったか、ここを「彼はこんどは、ピストルを手に持っていた」と訳している。これ以降も、ずっとピストルで通すという間違いを犯している。後にも出てくるが、男の手にしていたのが拳銃なら、マーロウはあそこまで同情を感じただろうか。

村上氏は「今回は男は棍棒を手にしていた。十五センチほどの長さで、茶色の手縫いの革カバーがかぶせてある。洒落た道具だ」と訳している。<woven brown leather>を「茶色の手縫いの革カバー」としたのは写真か実物を見たり、手にとったりしたのだろうか。確かに周りに縫い目のある茶色の革の棍棒がネットで売買されている。一方、編んだ黒い革で覆われた棍棒もある。<weave>という語からは革で編んだものを思い浮かべてしまうのだが。

「そして、彼が頼みとするのは棍棒だけだった。不公平に思えた」は<And all he had to help him was a sap. It didn't seem fair>。清水氏はここも「彼を助けるのはピストルだけだ。公平とはいえなかった」としている。たしかに、不意をつかれたら、ピストルでも棍棒でも同じかもしれないが、いくら仕事熱心でも、無防備だと分かっている相手にピストルを持ち出す男に涙を流しそうになるほど同情するだろうか。

村上訳は「おまけに彼が頼みにできるのは一本の棍棒だけだ。報われた人生とはとても言えない」。後半の<fair>を「申し分のない、完全な」の意味と解釈してのことだろう。どうしてここに「人生」が出てくるのか、今一つよく分からない。誰だって日銭を稼ぐのにあくせくしている。ある程度の年齢の男なら妻子もいるだろう。一体だれが自分以外の誰かを頼りにできるのだ。棍棒一本でもあればましな方だ。

ここは、「タフガイ」の私立探偵マーロウに対して、棍棒を手にして闘うしかなかった素人の小男に対する憐みではないのか。何もこうまで打ちのめす必要はなかった。相手は凶悪なギャングの片割れなどではなく、ただの勤め人であることにようやく気がついたからだ。おまけに手にしていたのは棍棒だけだった。あまりに傷めつけられていたために正常な判断力を失っていたのだろう。ふだんのマーロウらしくない振る舞いだった。

「欠伸が止まらなかった」は<yawning a great deal>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「何度となく生あくびが出た」。その次の「私は男をあとに残し、鍵をかけた」は<I left him there and locked him in>。清水訳は「私は彼をそこに残して部屋を出て、ドアに鍵をかけた」となっている。ところが、村上訳では「男を後に残し、私は部屋を出た」で終わっている。なんと、鍵をかけ忘れている。めずらしいこともあるものだ。

「突き当りで廊下は湾曲し、そこから直角に別の廊下が、ホワイトオークの手摺がついた大きな昔風の階段の降り口に通じていた」は少し長いが<At the end there was a jog in the hall and then another hall at right angles and the head of a big old-fashioned staircase with white oak bannisters.>。清水訳では「廊下が尽きると、はばの広い降り口になっていて、廊下はそこで直角に曲がっていた」となっていて、装飾的な部分がばっさり切り捨てられている。

村上訳は「廊下の突き当りにはちょっと広くなったところがあり、そこから直角をなして別の廊下があり、古風で大振りな階段の降り口に通じていた。白いオーク材の手すりが…」と、次の文に続いている。名詞の<jog>に「ちょっと広くなったところ」という意味はない。複数の辞書に<there was a jog in the road>という例文が載っていて「湾曲部が道にあった」と訳されていた。米語で<jog>は「でこぼこ」や「急激な方向転換」を表すらしい。また<white oak>は「ホワイトオーク」というブナ科に属する落葉広葉樹。多く北米に分布し、家具材や樽材に用いられる。「白いオーク材」はないだろう。

「横手に薔薇をはわせた東屋を配し」は<with a rose arbor at the side>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「バラの大きな茂みを脇に配し」となっている。その後の「誰が中のことを気にかけよう。あまり大声を出させないことだ」は<And inside it who cares, but don't let them scream too loud>。清水訳は「しかし、建物の内部のことについては、誰も知らないであろう」と後半をトバしている。村上訳は「その内側がどうなっているかなんて誰も気にかけない。しかし大声で悲鳴を上げられたりすれば、やはりまずいことになる」といつものように言葉を補って訳している。

「楔状の光が絨毯の上の私の足に落ちた」は<A wedge of light lay at my feet on the carpet>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「くさび形の光が、カーペットの私の足元に落ちた」。「帽子をとって敬意を表すに相応しい地位にいる人物だろう」は<He would be a man of position, worth tipping your hat to>。清水氏はここもカット。村上訳は「中にいるのは責任のある地位に就いている人間かもしれない。ひとこと挨拶をしておく必要があるかもしれない」。

段落の終わりの「ベッドの男は顔を上げなかった」は<the man on the bed didn't look up>。清水氏はここもカット。村上訳は「ベッドの上の男は顔を上げなかった」。

「彼が握ると玩具に見えるコルト・アーミーを手に、素知らぬ顔で壊れたドアから出てきた。仕事ぶりはそのときいくつか拝見したが、相変わらずの手並みのようだ」は<And had seen him with an Army Colt looking like a toy in his fist, stepping softly through a broken door. I had seen some of his work and it was the kind of work that stays done>。清水氏はこの長い文章の後半をばっさり切り落とし、「そして彼の手に握られた軍隊用の拳銃(コルト)がおもちゃ(傍点四字)のように小さく見えた」と訳している。

村上訳は「たたき壊されたドアから、のっそり出てきたその男の手に握られた軍用コルト拳銃は、まるで玩具のように見えた。彼の腕力のほどはそのときにひととおり目にしたし、それはまさに唖然とさせられる代物だった」だ。<stay>は「…のままでいる」という意味で使われていると思うのだが、村上氏の訳からはその感じが伝わってこない。マロイの小事にこだわらない磊落な気性が変わっていないことを言っているのに、腕力と訳していることからもそれが分かる。この文章のどこから腕力が見えてくるのだろう。

「わずかに開いたドアの向こうでくぐもった声が聞こえた」は<A voice murmured behind the almost closed door>。清水氏は「突き当りの部屋から、低い話し声が洩れていた」と訳している。少し前の、一階を描写したパラグラフの中で、清水氏は仕切り扉がわずかに開いていたことをトバし「ドアの下からかすかな光が廊下に流れていた」と訳している。辻褄を合わせるためにこういう訳になったのだろう。村上訳は「僅かに隙間のあいたドアの奥で、ぼそぼそという声が聞こえた」。

「遠くへ立ち去る潮時だった。そういう訳で、私はドアを押し開け、静かに入り込んだ」は<This was the time to leave, to go far away. So I pushed the door open and stepped quietly in>。清水訳を見てみよう。「いまを措いて機会はない。私はドアを押して、静かに部屋に入っていった」。これでは、初めから部屋に入る気満々のように読めてしまい、原文にあるイロニーが消えてしまう。まさか、本当に誤読したのだろうか。

村上訳は「こんなところは一刻も早く立ち去り、できるだけ遠くに離れるべきなのだ。ところが私はドアを開けて、静かに中に入った。それが私という人間だ」。前の文を後ろの文が裏切っていることを、逆接の接続詞を使うことで、分かりやすくしている。そこまでは許せるのだが、最後の「それが私という人間だ」という一文は原文にはない。たしかにマーロウにそういうところがあるのは認めるとしても、これは訳者の解釈でしかない。訳者には自分の解釈を読者に押しつける権利などない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第25章(2)

「バラの葉」と「薔薇の花弁」どちらが美しいベッドの材料になる? 

【訳文】

《私は酔っぱらいのようによろよろと歩き出した。二つの格子窓の間、小さな白いエナメルのテーブルの上にウィスキーの瓶があった。いい形をしていた。半分以上残っている。私はそちらに向かった。世界にはいい人がたくさんいる。朝刊のあら捜しをし、映画館で隣の席の男のすねを蹴り、嫌な気持ちになり、がっかりし、政治家を鼻で笑うこともあるが、それでも世界にはいい人がたくさんいる。あのウィスキーを半分残してくれた男がそうだ。メイ・ウエストのヒップの半分はあろうかという、大きなハートの持ち主だ。
 手を伸ばし、ほとんど麻痺している両手をウィスキーの瓶の上に置き、口のところまで持ち上げた。ゴールデン・ゲート・ブリッジの端を持ち上げるくらい、汗をかきながら。
 だらだらと時間をかけて飲んだ。それから注意深く瓶を下ろした。顎の下に垂れた分をなめようとした。
 ウィスキーは妙な味がした。妙な味に気がついた時、壁のコーナーにある洗面台が目に入った。なんとか間に合った。ぎりぎりのところだった。吐いた。ディジー・ディーンでもこれより速く投げたことはなかった。
 時は流れた―胸はむかつき、足もとはふらふら、頭はぼうっとして、洗面台の端にしがみつき、助けを求めて獣のような声を挙げている間に。
 ようやく落ち着いた。私はよろよろとベッドに戻り、再び仰向けになり、息を切らしながら寝たまま、煙を見ていた。煙はぼんやりしていた。あまりリアルではなかった。眼の奥にある何かかもしれない。すると、急に煙は消え、天井に取り付けた磁器の灯りが部屋をくっきり照らし出した。
 私は上体を起こした。ドア近くの壁にがっしりした木製の椅子があった。白衣の男が入ってきたドアとは別の扉があった。たぶんクローゼットの扉だ。私の服はそこに入っているのかもしれない。床には緑と灰色の方形のリノリウムが張られていた。壁は白く塗られていた。清潔な部屋だ。私が腰かけているベッドは狭い鉄製の病院用ベッドで、通常のものより低く、両側にバックルのついた厚い革製ストラップが取り付けられていた。人の両手首、両足首がくるあたりだ。
 気の利いた部屋だった―外に出たい、という気にさせる。
 全身の感覚が戻ってきた。頭に喉、それに腕がひりひりした。どうして腕が痛むのか、覚えがなかった。綿のパジャマめいた物の袖をまくり、見るともなく見た。肘から肩にかけての皮膚は、針を刺した痕だらけだった。その周りが変色し、ちょうど二十五セント硬貨くらいの小さな斑点になっていた。
 麻薬だ。おとなしくさせるのに、大量の麻薬を打たれたのだ。おそらく自白させるためのスコポラミンも。時間の割に麻薬の量が多すぎて、幻覚を見ていたのだ。見るのもいれば、見ないのもいる。要は本人がどれだけしっかりしているかにかかっている。それが麻薬だ。
 それで説明がつく。煙、天井灯の縁の小さな頭、声、馬鹿げた考え、ストラップ、格子、痺れた指や脚のすべてが。ウィスキーは、おそらくアルコール中毒治療二日間コースの一部だろう。私が見過ごさないことを見越して、わざと残しておいたのだ。
 立ち上がると、あやうく目の前の壁に腹をぶつけそうになった。それで、横になって、かなり長い間、つとめて静かに呼吸していた。体中がちくちくし、汗をかいていた。小さな汗のしずくが額をゆっくり滑り、慎重に鼻の脇を通って口の端に落ちるのが分かった。愚かなことに舌はそれをなめた。
 私はもう一度上体を起こし、足を床に着け、立ち上がった。
 「オーケイ、マーロウ」私は歯の間から声を絞り出した。「お前はタフガイだ。身長六フィートの鉄の男だ。剥き身で百九十ポンド、洗顔済み。筋肉は引き締まり、顎は打たれ強い。お前ならできる。お前は二度ダウンを奪われ、チョーク攻めにあい、失神しかけるほど顎を銃身で連打された。大量の麻薬を打たれ、頭の中で二匹のネズミがワルツを踊りだすまで監禁された。これがいったい何を意味するのか? お定まりの仕事だ。では、そろそろ本気でタフな仕事にとりかかろうか、ズボンを穿くというのはどうだ」
 私は再びベッドに横になった。
 また時が過ぎた。どれだけかは分からない。時計をしていなかった。とにかく時計で計れるような時間ではなかった。
 私は上体を起こした。いささか飽きが来ていた。立ち上がって歩きはじめた。歩くのは楽しくない。神経質な猫みたいにどきどきする。横になって眠った方がましだ。しばらくのんびりするさ。調子が悪いんだよ、あんた。オーケイ、ヘミングウェイ。私は弱ってる。花瓶をひっくり返すこともできない。爪ひとつ切れやしない。
 とんでもない、お断りだ。私は歩き続ける。私はタフだ。私はここから出て行く。
 もう一度ベッドに横になった。
 四度目はいくらかましになった。部屋を二度、往復した。洗面台まで行き、きれいに洗い流し、そこに寄りかかって、掌から水を飲んだ。吐かなかった。少し待ってから、もう少し飲んだ。かなり良くなった。
 私は歩いた。私は歩いた。私は歩いた。
 半時間ほど歩いたら、膝が震えだしたが、頭はすっきりした。もっと水を飲んだ。うんざりするくらいの水を。飲んでいると、あやうく洗面台に向かって泣き出すところだった。
 歩いてベッドに戻った。愛らしいベッドだった。薔薇の花弁で作られていた。世界一美しいベッドだ。キャロル・ロンバードから譲ってもらった。彼女には柔らかすぎたのだ。そこに横たわり、二分ばかり休むことができるなら、残りの人生をくれてやってもいい。美しく柔らかなベッド。美しい眠り。美しい瞳は閉じられ、睫毛が落ち、静かな息遣いが聞こえ、闇が訪れる。そして、枕に深く沈み込んで眠るのだ。
 私は歩いた。
 彼らは数多のピラミッドを建てたが、ついには飽きた。そこでそれらを取り壊し、石を砕いてコンクリートを作り、それでボールダー・ダムを築き、陽光降りそそぐ南の地に水を送り、それを満たした。
 私はその間ずっと歩き通した。何があっても動じなかった。
 私は歩くのをやめた。誰かと話す用意ができていた。》

【解説】

この章も、清水氏は大胆にカットしている。まず「いい形をしていた」<It looked like a good shape>。次に「私はそちらに向かった」<I walked towards it>を訳していない。村上訳は「素敵な形をしていた」、「私はそちらの方に歩いていった」。訳さなくても構わないと判断したのだろう。どんな形のボトルなのか、気になる。第十八章で、ヘイグの名前が出ていたので「ピンチ」(ディンプル)かと思ったが、この時代にはまだ発売されていないようだ。

「ゴールデン・ゲート・ブリッジの端を持ち上げるくらい、汗をかきながら」は<sweating as if I was lifting the end of the Golden Gate bridge>。清水氏は「サン・フランシスコのゴールデン・ゲート橋のはしを持ち上げるように重かった」と訳している。村上訳は「ゴールデン・ゲート・ブリッジの片方を持ち上げているみたいに汗をかきながら」。蛇足ながら「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」は「金門橋」と呼ばれていたこともある。字数が少なくて有難いが、今となってはさすがに賞味期限切れか。

「洗面台の端にしがみつき、助けを求めて獣のような声を挙げている間に」は<clinging to the edge of the bowl and making animal sounds for help>。清水氏は、この部分をどうしたことか「洗面台の端につかまる手と動物のような声で助けを求める手」と訳している。村上訳は「洗面台にしがみつき、獣のようにうなって助けを求めていた」。

「息を切らしながら寝たまま」は<lay there panting>。「眼の奥にある何かかもしれない」は<Maybe it was just something back of my eyes>。清水氏はこの二か所もカットしている。村上訳は「はあはあ息をつきながら」と、こちらも<lay there>は訳していない。その前に「仰向けに寝ころび」と書いたことで略したのだろう。後者は「あるいは私の目の奥にあるものなのかもしれない」と訳している。

「人の両手首、両足首がくるあたりだ」は<about where a man's wrists and ankles would be>。清水氏はここを「バックルのついた厚い革紐が二ヵ所についていた」と書いている。原文の引用箇所の前に<there were thick leather straps with buckles attached to the sides>とあるので「二ヵ所」と訳したのだろうが、「両手首、両足首」なので、合計すると四か所になる。やはり、軽々にカットしたりすると痛い目を見る。村上訳は「ちょうど人の両手首と両足首のくるあたりに」。

「肘から肩にかけての皮膚は、針を刺した痕だらけだった」は<It was covered with pin pricks on the skin all the way from the elbow to the shoulder>。清水氏は「肘から肩にかけて、桃色の斑点ができていた」と訳している。<pin pricks>を<pink>と見まちがえたのだろう。村上訳は「肘から肩にかけての皮膚には、一面に針のあとがついていた」。

「麻薬だ。おとなしくさせるのに、大量の麻薬を打たれたのだ。おそらく自白させるためのスコポラミンも。時間の割に麻薬の量が多すぎて、幻覚を見ていたのだ。見るのもいれば、見ないのもいる。要は本人がどれだけしっかりしているかにかかっている。それが麻薬だ」は<Dope. I had been shot full of dope to keep me quiet. Perhaps scopolamine too, to make me talk. Too much dope for the time. I was having the French fits coming out of it. Some do, some don't. It all depends how you are put together. Dope>。

清水訳「熟睡させるための注射だった。私が暴れたからかもしれなかった。あるいは、口をきかせるためのスコポラミンかもしれなかった。それは麻薬だ。私のからだに影響があった。からだによって、影響がちがうのだ。麻薬」。

村上訳「麻薬だ。おとなしくさせておくために、しこたま麻薬を打たれたのだ。自白を引き出すためにおそらくスコポラミンも打たれたはずだ。短時間に大量の麻薬が投与された。私は薬物による幻覚を見ていたのだ。そういうのを見るものもいるし、見ないものもいる。体質によって症状は違ってくる。しかしとにかく麻薬だ」。

清水氏のはちゃんとした訳になっていない。<too>とあるのだから「あるいは」ではない。その後はまったく訳されていない。「からだによって」の部分<put together>。村上氏は「体質によって」と訳している。「まとめる。組み立てる」という意味だが、<be~>で「(人)が有能である、しっかりしている」という意味もある。

「それで説明がつく。煙、天井灯の縁の小さな頭、声、馬鹿げた考え、ストラップ、格子、痺れた指や脚のすべてが」は<That accounted for the smoke and the little heads around the edge of the ceiling light and the voices and the screwy thoughts and the straps and bars and the numb fingers and feet>。清水氏は「煙もそのせいだった。指のしびれも、からだ全体の疲労感も、ベッドにとりつけられた革バンドもそれで説明ができる」と省略している。逆に村上氏は多量に言葉を補って訳している。「それでいろんなことの説明がつく。煙やら、天井灯の縁からのぞいているたくさんの小さな頭やら、聞こえてくる声やら、浮かんでは消える妄想やら、革のストラップやら、窓の鉄格子やら、手の指と脚の痺れやら」。帯に短し襷に長し、という感じだ。
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「ウィスキーは、おそらくアルコール中毒治療二日間コースの一部だろう」は<The whiskey was probably part of somebody's forty-eight hour liquor cure>。清水氏は「ウィスキーはおそらく、同じ目的のために用いられたものであろう」と訳しているが、これはおかしい。原文には<liquor cure>と書かれている。村上訳は「ウィスキーはたぶん四十八時間アルコール中毒治療のための道具のひとつなのだろう」。

「剥き身で百九十ポンド、洗顔済み」は<One hundred and ninety pounds stripped and with your face washed>。清水訳は「百九十ポンド」とだけ。村上訳は「服を脱いで顔もきれいに洗って、体重が八十五キロある」。ここは、ボクシングのリングアナウンサーのスタイルをまねた、マーロウの台詞だろう。試合前の体重測定のことをいっているのだと思うが、どうだろう。

「大量の麻薬を打たれ、頭の中で二匹のネズミがワルツを踊りだすまで監禁された。これがいったい何を意味するのか? お定まりの仕事だ」は<You've been shot full of hop and kept under it until you're as crazy as two waltzing mice. And what does all that amount to? Routine>。清水訳は「そして、注射で眠らされた」と大幅カット。村上訳は「薬物漬けになり、頭はたが(傍点二字)が外れて、ワルツを踊っている二匹のネズミみたいな有様だ。さて、私にとってそれは何を意味するのだろう? 日常業務(傍点四字)だ」。<keep under>は「(暴動などを)抑える、監視する」の意味だが、村上訳からはそのニュアンスが伝わってこない。

「では、そろそろ本気でタフな仕事にとりかかろうか、ズボンを穿くというのはどうだ」
は<Now let's see you do something really tough, like putting your pants on>。清水訳は「さあ、このへんで、何とか、眼にもの見せてくれないか」。自虐的なユーモア.がすっぽり抜け落ちてしまっている。村上訳は「よろしい、そろそろ掛け値なしにタフな仕事に取り組もうじゃないか。たとえばズボンを履くとか」訳はいいのだが、「履」という漢字は、履物に使うのではなかったか。下半身に身に着ける場合は「穿く」だと思うのだが。

「私は上体を起こした。いささか飽きが来ていた」は<I sat up. This was getting to be stale>。清水氏はここをカットしている。この<I sat up>は、これで三度目。次に「四度目」と出てくるので、一回分、抜いたことになる。これはマズい。村上氏は「私は身を起こした。うまく力が入らない」と訳している。<stale>は「新鮮でない、古くなった」という意味だ。氏はからだの状態と解釈しているようだが、この<this>は、上体を起こして歩く行為を指しているのではないだろうか。

「神経質な猫みたいにどきどきする」は<Makes your heart jump like a nervous cat>。清水氏はここもカット。村上訳は「神経質になった猫みたいに心臓がばくばくする」だ。<make someone's heart jump>は「(人)の心を刺激する」という意味。

「花瓶をひっくり返すこともできない。爪ひとつ切れやしない」は<I couldn't knock over a flower vase. I couldn't break a fingernail>。清水氏は二つ目の文をカットして「花瓶を倒すこともできないんだ」としている。村上氏は「花瓶をノックアウトすることもできない。爪を折ることだってむずかしそうだ」と訳している。<knock over>はただ「ひっくり返す」という意味。手をすべらせるだけのことで、わざわざ「ノックアウト」する必要はない。また、爪は「切る」もので、カセットテープでもなければ、折ったりはしない。

「洗面台まで行き、きれいに洗い流し、そこに寄りかかって、掌から水を飲んだ」は<I went over to the washbowl and rinsed it out and leaned on it and drank water out of the palm of my hand>。清水氏は「私は洗面台へ行って口をすすぎ、水を手のひらに掬(すく)って飲んだ」と訳している。たしかに<rince out>は「うがいする」ことだが、<rinsed it out >の間に挟まっている<it>は、その前の<washbowl >でしかありえない。村上訳は「洗面台まで行って、それをきれいに洗い、身を屈め、手のひらで水をすくって口に入れた」。ちなみに<lean on>は「もたれる、寄りかかる」の意味で「前屈みになる」は<lean forward>だ。

「歩いてベッドに戻った。愛らしいベッドだった」の後からこの章の終わりまでの清水訳は「私はベッドに戻った。歩きまわった後だったので、寝心地のいいベッドだった。カロル・ロンバードから手に入れたようだった。しかし、今は眠っている時ではない。何とかして、この部屋から抜けださなければならないのだ」で終わっている。これでは「超訳」だ。清水氏は、こういう部分は単なる文飾だと思って訳出しなかったのだろう。村上訳が出るまで、日本の読者はこの部分の存在を知らずに小説を読んでいたわけだ。

その意味で、村上氏による新訳が出たのはとても有意義だった。閑話休題。「薔薇の花弁で作られていた」は<It was made of roseleaves>。村上氏は「それはバラの葉で作られている」と訳している。<roseleafe>には村上氏が訳したように「バラの葉」の意味がある。しかし、同様に「バラの花弁」という意味もある。<the most beautiful bed in the world>(世界一美しいベッド)を喩えるとしたら、果たして、どちらが最適だろうか。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第25章(1)

―動いていないはずの煙に、なぜ<up and down>が使われるのか―

【訳文】

《部屋は煙でいっぱいだった。
 あたりには煙が本当に漂っていた。小さな透明のビーズでできたカーテンのように真っ直ぐな細い列になって。突き当りの壁にある窓は二つとも開いているようだが、煙は動かなかった。部屋に見覚えはなかった。窓には鉄格子がはまっていた。
 頭がぼんやりして何も考えられなかった。まるで一年間眠っていたみたいだ。だが、煙は煩わしかった。仰向けに寝転んで、それについて考えた。しばらくして、大きく息を吸ったら肺が痛んだ。
私は叫んだ。「火事だ!」
 それが私を笑わせた。何がおかしいのかも分からず、笑い出した。ベッドの上に寝たままで笑った。笑い声が気に入らなかった。頭の螺子が緩んだ笑いだった。
 一声叫べば充分だった。部屋の外で足音がして、鍵が錠に差し込まれ、ドアが勢いよく開いた。男が横っ飛びで入って来て、すぐドアを閉めた。右手が尻にのびた。
 ずんぐりした小男で白衣を着ていた。奇妙な眼で、黒くて薄っぺらい。両の目尻に灰色の皮膚が膨らんでいた。
 私は固い枕の上で振り返り、欠伸をした。
「本気にするなよ。口がすべったんだ」私は言った。彼は顔をしかめて立っていた。右手は右の尻の上あたりをさまよっていた。蒼ざめた悪意に満ちた顔、薄っぺらい黒い眼、灰白色の皮膚、貝殻のような鼻。
「もう少し拘束衣を着ていたいみたいだな」彼はせせら笑った。
「大丈夫。いい気分だ。昼寝のし過ぎで、夢でも見たらしい。ここはどこだ?」
「お前がいるべきところさ」
「いい場所のようだ」私は言った。「感じのいい人々、いい雰囲気、もうひと眠りしよう」
「それがいいだろう」彼はつっけんどんに言った。
 男が出て行き、ドアが閉まった。鍵がかかった。足音が消えていった。
 男は煙の役には立たなかった。それはまだ部屋の真ん中に居座っていた。部屋中至る所に、カーテンのように。消えてもゆかず、流れもせず、動きもしなかった。部屋に空気があることは、顔で感じられた。しかし、煙は空気を感じていなかった。それは千匹の蜘蛛が張り巡らした灰色の蜘蛛の巣だった。どうやって蜘蛛に協力させたのだろう。
 綿フラノのパジャマ。郡病院で着るような代物。前開きではなく、必要以上の縫い目のない、手触りの粗い生地。首回りが喉をこする。喉はまだ痛む。あれこれと思い出した。手を伸ばして喉の筋肉を触ってみた。まだ痛かった。インディアンをたった一人、バン。オーケイ、ヘミングウェイ。探偵になりたいって? いい金になるよ。九つの簡単なレッスン。バッジ進呈。五十セント追加で腕木付き。
 喉はまだ痛んだが、触ってる指の方は何も感じない。ずっとバナナの房になっていたという方が当たっている。見てみた。一応指のように見える。不良品だ。通信販売の指だ。バッジや腕木と一緒に送られてきたにちがいない。証書付きで。
 夜だった。窓の外の世界は黒い世界だった。天井の真ん中から三本の真鍮の鎖でガラス磁器の鉢が吊るされている。中に灯りがついている。縁にオレンジとブルーの小さな塊りが交互についていた。私はそれをじっと見つめた。煙にうんざりしていた。じっと見ていると、小さな塊りは舷窓のように開き始め、頭が飛び出してきた。小さな頭だが、生きていた。小さな人形のような頭だが、生きていた。ジョニー・ウォーカーの鼻をしたヨット帽子の男、飾りのついたつば広帽子の浮ついた金髪女、それにボウタイの曲がっている痩せた男。まるで避暑客を待ち受けるレストランの給仕のようだ。男は冷笑口調で言った。「ステーキはレアになさいますか、それともミディアムで? サー」。
 眼をしっかり閉じ、強く瞬いてから開けると、それは三本の真鍮の鎖のついた、ただの紛い物の磁器の鉢だった。
 しかし、煙は動く空気の中でじっとしていた。痺れた指でごわごわしたシーツの端をつかんで顔の汗をぬぐった。九つの簡単なレッスンと半額を前払いした後で通信教育講座から送られてきた例の指だ。アイオワ州シーダー・シティ、私書箱2468924。戯言だ。全くの戯言。
 ベッドの上に座り、しばらくすると床に足を着けられるようになった。両足とも裸足で中に画鋲や針が詰まっていた。日用雑貨は左です、マダム。特大の安全ピンは右です。足が床を感じ始めた。立ち上がった。直立には程遠かった。つんのめり、荒い息をし、ベッドのはしを握った。ベッドの下から聞こえてくるらしい声が、何度も何度も繰り返し言った。「禁断症状だ…禁断症状だ…禁断症状だ」》

【解説】

「あたりには煙が本当に漂っていた。小さな透明のビーズでできたカーテンのように真っ直ぐな細い列になって」は<The smoke hung straight up in the air, in thin lines, straight up and down like a curtain of small clear beads>。清水氏は「煙は細い糸のように、まっすぐ立ち上(のぼ)っていた」と訳している。これではまるで線香の煙のようだ。村上氏は「煙は何本もの細い筋になり、部屋の中空に直立するように浮かんでいた。小さな透明のビーズでできたカーテンみたいにまっすぐに上下している」と訳している。これもおかしい。

というのも、この後何度も出てくる煙は、そよとも動いていないのだ。この煙はマーロウが見ている幻覚で、本当は存在しない。だから、風にあたっても動かない。ではなぜ、ここだけ、「立ち上っていた」り、「上下して」いたりするのか。実は<straight up>には「本当に、正直に言うと」の意味がある。<hung in the air>は「漂う」という意味だ。マーロウは自分の感覚を信じて「本当に」という意味の<straight up>を挿入したのだろう。

また<straight up and down>は「垂直方向に真っ直ぐに」という意味で、別に「上下動」を意味していない。ちょっと辞書を引けば、例文がいくつでも出てくる。<up and down>には、上下だけでなく「あちこちに、至るところ」という意味があるので、<straight up and down>を使ったのだろう。それは<like a curtain of small clear beads>と直喩していことからも分かる。煙をビーズ・カーテンに喩えているのだ。誰も動かさなければ、カーテンは上下したりしない。

「ずんぐりした小男で白衣を着ていた。奇妙な眼で、黒くて薄っぺらい」は<He was a short thick man in a white coat. His eyes had a queer look, black and flat>。清水氏は「背の低い小男で、白い服を着ていた。眼が異様に輝いていた」と訳している。小男というのは、もともと背が低いものだし、後半は完全な作文だ。村上訳は「がっしりとした小男で、白い上っ張りを着ていた。目はどことなく奇妙だった。真黒で奥行きがない」。

「蒼ざめた悪意に満ちた顔、薄っぺらい黒い眼、灰白色の皮膚、貝殻のような鼻」は<Greenish malignant face and flat black eyes and gray white skin and nose that seemed just a shell>。清水訳は「青白い顔。うつろな黒い眼。灰色の皮膚。貝殻のような鼻」で<malignant>をトバしている。<greenish>を「青白い」と訳したのは<turn greenish>(人が青ざめる)から、そう訳したのだろう。村上訳の「悪意に満ちた緑がかった顔と、奥行きのない黒い瞳と、白っぽい灰色の皮膚と、殻でつくられたみたいな鼻」と比べると、いつものことながら、旧訳のこなれた訳しぶりに好感が持てる。「緑がかった顔」では、辞書そのままで工夫の跡が見えない。

「カーテンのように。消えてもゆかず、流れもせず、動きもしなかった。部屋に空気があることは、顔で感じられた。しかし、煙は空気を感じていなかった」は<Like a curtain. It didn't dissolve, didn't float off, didn't move. There was air in the room, and I could feel it on my face. But the smoke couldn't feel it>。清水氏はここを大幅にカットして「少しも揺れることなく、千匹の蜘蛛が編んだ灰色の網のように立ち上っていた」とまとめている。

参考までに、村上訳では「カーテンがかかっているみたいだ。消えることもないし、どこかに流されていくこともないし、動きもしない。部屋には空気の動きがあった。それを顔に感じることができた。それなのに煙はちっとも動じない」となっている。

「探偵になりたいって? いい金になるよ。九つの簡単なレッスン。バッジ進呈。五十セント追加で腕木付き」は<So you want to be a detective? Earn good money. Nine easy lessons. We provide badge. For fifty cents extra we send you a truss>。清水氏は「なんだって? 君、探偵になりたいのかね。いい金になるぜ。鑑札も世話してやるぜ」と訳している。村上訳は「私立探偵になりたいんですか? いい稼ぎになりますよ。九つの教科をとってください。バッジを差し上げます。五十セントの追加で飾り用の台もおつけします」と丁寧。

「縁にオレンジとブルーの小さな塊りが交互についていた」は<It had little colored lumps around the edge, orange and blue alternately>。清水氏はここを「小さな色電球がぐるりととりまいていて、オレンジとブルーが一つおきになっていた」と訳している。<lump>を<lamp>と見まちがえたのだろう。村上訳は「そのボウルの縁には色つきの小さな塊があしらわれていた。オレンジとブルーが替わりばんこになっている」。

「九つの簡単なレッスンと半額を前払いした後で通信教育講座から送られてきた例の指だ。アイオワ州シーダー・シティ、私書箱2468924。戯言だ。全くの戯言」は<the numb fingers the correspondence school had sent me after the nine easy lessons, one half in advance, Box Two Million Four Hundred and Sixty Eight Thousand Nine Hundred and Twenty Four, Cedar City, Iowa. Nuts. Completely nuts>。清水氏は全部カットしている。

村上訳は「それらの指は、九回の簡単なレッスンと半金の前払いが終わった後に、通信教育講座から送られてきたものだった。住所はアイオワ州シダー・シティー私書箱2468924。やれやれ、何を言ってるんだ。意味をなさないことを口にしている」。お得意の「やれやれ」が利いている。

「禁断症状だ」は<You've got the dt's>。清水氏は「精神錯乱だ」、村上氏は「そいつは酒毒の幻覚だ」と訳している。<dt's>は「振戦せん妄」のことで「アルコール中毒による急性せん妄状態」を意味している。「せん妄」とは意識混濁に加え、幻覚、錯覚などを見る状態のこと。アルコール中毒者は酒が切れてニ、三日たつと、そういう状態に陥るらしい。マーロウはふだんから自分でも酒を飲みすぎることを気にしているのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第24章

―<backseat>には、「つまらない地位」という裏の意味がある―

【訳文】

《エレベーターで下まで降り、狭い廊下を抜け、黒いドアから外に出た。外気は爽やかに澄みきっていた。海霧も流れてこない高さだった。私は深く息を吸った。
 大男はまだ私の腕をつかんでいた。車が停まっていた。平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている。
 大男がフロント・ドアを開け、ぼやいた。「階級を上げ過ぎたよ、あんた。一息入れたら元気も出るさ。大丈夫かい? 俺たちも、あんたの気に入らないことはしたくないんでね」
「インディアンはどこだ?」
 彼は軽く首を振り、私を車に押し込んだ。私はフロントシートの右側に乗り込んだ。「ああ、インディアンか」彼は言った。「あいつを射ちたけりゃ弓矢を使うこった。それが決まりだ。車の後ろにいる」
 私は車の後ろを見た。空っぽだ。
「変だな、どこにもいない」大男は言った。
「誰かがさらっていったにちがいない。ロックしてない車には何も置いておけないな」
「早くしろ」口髭の男がそう言って、バックシートに乗り込んだ。ヘミングウェイは回り込んでその逞しい腹をハンドルに押しつけた。車は向きを変え、静かに野生のゼラニウムに縁どられた私道を下りていった。冷たい風が海から吹いてきた。遥か遠くに星が見えた。彼らは押し黙っていた。
 私道の端から、コンクリート舗装の山道に入り、道に沿ってゆっくり走った。
「どうして車がないんだ?」
「アムサーが迎えを寄越したんだ」
「そりゃまたどういう訳で?」
「私に会いたいからに決まってるだろう」
「こいつは大丈夫だ」ヘミングウェイは言った。「物事を理解してる」。窓からぺっと唾を吐いて、きれいにカーブを切り、エンジンを回しながら丘を下った。「あいつが言うには、あんたに電話で強請られかけたので、考えたんだそうだ。もし取引することになるなら、先に取引相手をざっと見ておきたい、と。それで自分の車を寄越したのさ」
「知り合いの警官に電話するつもりでいたから、帰りの車は要らなかった」私は言った。「そういうことだ、ヘミングウェイ
「ああ、またそれだ。まあいい。テーブルの下にディクタフォンがついていた。録音した分を秘書が書き起こす。俺たちが来たとき、ミスター・ブレインに読み直してたのがそれだ」
 私はミスタ・ブレインを振り返った。彼は葉巻を吸っていた。スリッパでも履いているかのようにくつろいで。こちらを見ようともしなかった。
「まず、それはない」私は言った。「こんなときのために用意した修正済みの文書ファイルがあるのさ」
「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」ヘミングウェイがそれとなく持ちかけた。
「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」
「おっと、俺たちはその手の警官じゃない」大きなジェスチャーをまじえて彼は言った。
「なあ、君はアムサーをよく知っているんだろう、ヘミングウェイ?」
「ミスタ・ブレインはよく知ってる。俺はただ言われた通りにするだけだ」
「ミスタ・ブレインというのは何者だ?」
「バックシートの紳士だ」
「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」
「意味が分からん、ミスタ・ブレインを知らない者はいない」
「もういい」私は言った。急にどうでもいいという気分になってきた。
 しばらく静寂が続いた。カーブが続き、曲がりくねったコンクリートの道が続き、闇が続き、痛みが続いた。
 大男が言った。「今は野郎だけで、女はいない。何であんたがあそこに戻ってきたのかはどうでもいいが、このヘミングウェイという戯言には本当のところ、うんざりしてるんだ」
「ギャグさ」私は言った。「大昔のギャグだ」
「そのヘミングウェイとかいうのは誰なんだ?」
「同じことを何度も繰り返して言う男だ。こちらがその通りだと信じるようになるまで」
「それにはえらく長い時間がかかるにちがいない」大男が言った。「私立探偵にしちゃ、あんたはたしかに、少しばかりとりとめのない頭の持ち主だ。まだ自前の歯は残ってるか?」
「ああ、いくつか詰め物はあるが」
「まあ、ツキが回ってたってとこだ、あんた」
 バックシートの男が言った。「ここでいい。次を右折だ」
「了解」
 ヘミングウェイは、狭い未舗装路にセダンを突っ込んだ。山の側面に沿って延びる道を、ざっと一マイルほど走った。むせかえるようなセージの匂いが鼻をついた。
「ここでいい」バックシートの男が言った。
 ヘミングウェイは車を停め、サイド・ブレーキを引いた。私のからだ越しに屈みこみ、ドアを開けた。
「知り合えてよかったよ、あんた。けど、戻ってくるんじゃないぜ。少なくとも仕事絡みではな。出るんだ」
「ここから歩いて帰るのか?」
バックシートの男が言った。「早くしろ」
「ああ、あんたはここから歩いて帰る。それでいいか?」
「結構だ。考え事をまとめられる。例えば、君たちはL.A.の警官じゃない。しかし、どちらかは警官だ。たぶん二人ともだろう。見たところ、ベイ・シティの警官のようだ。分からないのは、どうして管轄外に出張ってきたかだ」
「証明するのは難しいんじゃないか?」
「おやすみ、ヘミングウェイ
 彼は返事しなかった。二人とも何も言わなかった。私は車を降りようとし、ステップに足をかけて、前にのめった。まだ少し眩暈がした。
 バックシートの男が電光石火の動きを見せた。眼で見るのではなく、気配で感じた。足元には漆黒の夜より深く闇だまりが広がっていた。
 私はその中にダイブした。闇の底が抜けた。》

【解説】

「海霧も流れてこない高さだった」は<high enough to be above the drift of foggy spray from the ocean>。清水訳では「海に近い(さわやかな空気を深く吸い込んだ)」となっているが、水平方向では海に近くても、垂直方向では海から離れているので、原文からかなり意味が変わっている。村上訳は「遥か高いところにあるので、海の飛沫を含んだ霧も漂ってはこない」と原文に忠実だが「海の飛沫を含んだ霧」は少々くどい。

「平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」は<a plain dark sedan, with private plates>。清水氏は「黒塗りのセダンが一台(駐っていた)」と、ナンバープレートについて触れていない。どう見ても警官らしい二人が個人のナンバーをつけた車で来ている不自然さについて書いているのだ。カットするべきではない。村上訳は「地味な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」。

「階級を上げ過ぎたよ、あんた」は<It ain't really up to your class, pally>。清水氏は「お前さんのような奴にはもったいない」と訳している。何が勿体ないのだろう。車のことだろうか? 村上氏は「実力以上に欲をかきすぎたんだよ」と訳している。強請るにしても闘うにしても相手が悪かった、というような両義的な意味にとれる訳だ。「階級」と訳したのは、ボクシングでいえば、ヘビー級<the heavyweight class>の意味。ヘミングウェイの言葉の後にマーロウがインディアンのことを訊いていることから見て、この<class>は、格闘技における階級差を意味しているのだと思う。

「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」は<Maybe you would like to tell us why you wanted to see this guy>。この<this guy>が曲者だ。清水氏は「なぜ、お前の顔を見たかったのか、わかっているかね?」と訳している。つまり<this guy>をヘミングウェイ本人と解釈しているのだ。しかし、その前に<tell us>と言っているので、ヘミングウェイは自分たちを二人組と考えていることが分かる。村上訳は「どうしてあの男に会いたかったのか、あんた、俺たちにその理由を説明したいんじゃないのかな」だ。

会話の場合、問いかけの訳をまちがえると、答えの方もおかしくなる。「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」の原文は<You mean while I still have part of my face?>。清水訳では「こんな形になる前の顔かね?」となっている。村上訳は「まだ私の顔に少しでも見られるところが残っているうちにということかな?」。

「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」は<And besides being in the back seat who the hell is he?>。清水訳は「それはわかってる。どういう人間なんだ?」。村上訳は「後ろの席のことは別にして、いったい誰なんだ?」。<take a backseat>という成句がある。「一目置く、二の次になる」の意味だ。自動車の後部座席に座ることが「目立たない位置、つまらない地位」を指している。マーロウは、それを仄めかしているのだが、ヘミングウェイにはそれが通じていない。註でもつけないと伝わらないので、両氏とも無視しているのだろう。しかし、そこを理解しないと、この後マーロウが急にやる気が失せる原因が理解できない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第23章

―いくらタフでも、喉が「肉挽機」を通ったら、元に戻りそうにない―

【訳文】

《「おい」大男が言った。「そろそろ潮時だ」私は目を開けて、体を起こした。
「河岸を変えようじゃないか、なあ」
 私は立ち上がった。まだ夢見心地だった。我々はドアを通ってどこかへ行った。それから私は、そこが周囲を窓に囲まれた待合室だと気づいた。外はもう真っ暗闇だった。
 場違いな指輪をした女が机の前に座っていた。その隣に男が立っていた。
「ここに座るといい」
 彼は私を強引に座らせた。快適な椅子だった。背凭れは真っ直ぐだが座り心地は良かった。もっとも、そんな気分ではなかった。女が机の向こうで手帳を開き、声に出して読み上げていた。背の低い、灰色の口髭を生やした年配の男が無表情にそれを聴いていた。
 アムサーは部屋に背を向けて窓辺に立ち、静かな水平線を眺めていた。遥か遠く、桟橋の明かりの向こう、この世界の向こうを、まるで愛しいものでも見るように。彼はちらりと私方を見た。顔の血は洗い落とされていたが、鼻が最初に見た鼻と違っていた。二サイズ以上大きかった。思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた。
「お愉しみのようだな、相棒?」
 私は声の主を見た。眼の前にいる、私をここまで連れてきた相手を。二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男で、シミの浮いた歯とサーカスの呼び込みのような蕩ける声の持ち主だ。タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない。毎晩のお祈り代わりに愛用のブラックジャックを唾で磨くタイプの警官だが、ユーモラスな眼をしていた。
 両脚を開いて眼の前に立ち、私の札入れを開いて手に持っている。物を傷つけるのが好きだとでもいうように革を引っ掻いている。もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう。
「覗き屋かい? 大きな悪い街からお出でなすって? ちっとばかし強請りでもってか?」
 帽子をあみだにかぶっていた。額にかかった埃っぽい茶色の髪が汗で黝ずんでいた。ユーモラスな眼は血管で赤く斑になっていた。
 咽喉が水絞り機にかけられたようだった。手を伸ばして触ってみた。インディアンだ。鋼鉄の工具のような指の持ち主だ。
 浅黒い女が読み終えた手帳を閉じた。灰色の口髭を生やした年配の小柄な男が肯いて、私に話しかけている男の後ろにやってきた。
「警官か?」私は顎をさすりながら訊いた。
「どう思うね?」
 警官のユーモアだ。小柄な男の片目は斜視で、半ば見えていないようだった。
「L.A.じゃないな」私は彼を見て言った。「その眼じゃ、ロサンジェルスでは勤まらない」
 大男は札入れを私に渡した。調べてみた。金も名刺もそのままだった。これには驚いた。
「何か言えよ」大きい方が言った。
「俺たちがあんたのことを好きになれそうな何かをさ」
「銃を返してくれ」
 彼は少し前屈みになって考えた。私には考えているように見えた。痛いところをついたようだ。「銃が欲しいのか?」彼は横目で灰色の口髭の方を見た。「こいつは銃を欲しがってる」彼は言った。彼はまた私の方を向いた。「また何のために銃が欲しいんだ?」
「インディアンを撃ちたいんだ」
「へえ、あんた、インディアンが撃ちたいんだ」
「ああ、インディアンを一人、バンと」
 彼は口髭の男をまた見た。
「タフな野郎だ」彼は言った。「インディアンが撃ちたいそうだ」
「いいか、ヘミングウェイ、私の言うことをいちいち繰り返すな」私は言った。
「こいつは気が変だ」大きいのが言った。「俺のことをヘミングウェイと呼ぶ。変だと思わないか?」
 口髭の男は葉巻を噛んで、何も言わなかった。窓際の長身の優男はゆっくり振り向いて静かに言った。「おそらく、少し情緒不安定なのだろう」
「俺のことをヘミングウェイなんて呼ぶ意味が全然分からない」大きいのが言った。「俺の名前はヘミングウェイなんかじゃない」
 年寄りの男が言った。「銃は見なかった」
 彼らはアムサーを見た。アムサーが言った。「中にある。私が預かっている。君に渡すよ、ミスタ・ブレイン」
 大男が腰をかがめ、膝を少し折って私の顔に息を吹きかけた。
「なんで俺のことをヘミングウェイと呼ぶんだ?」
「レディの前だよ」
 彼は背を伸ばした。「これだもんな」彼は口髭の方を見た。口髭の男は肯いて後ろを向き、部屋を横切った。スライド・ドアが開いた。彼は中に入り、アムサーが続いた。
 沈黙が落ちた。浅黒い女は机の上を見下ろし、眉をひそめた。大男は私の右の眉毛を見て、首をゆっくり左右に振った、訳が分からないとでも言いたげに。
 再びドアが開き、口髭の男が戻ってきた。彼はどこかから帽子を取り出し、私に手渡した。ポケットから私の銃を取り出し、私に手渡した。重さで弾倉が空だと分かった。それを脇の下に収め、立ち上がった。
 大男が言った。「さあ、行こう。外の空気を吸ったら少しは頭がはっきりするだろう」
「オーケイ、ヘミングウェイ
「こいつ、まだ言ってる」大男は悲しげに言った。「女の前だからって、俺のことヘミングウェイと呼ぶ。下品な冷やかしか何かのつもりなのか?」
 口髭の男は言った。「急ぐんだ」
 大男は私の腕を取り、我々は小さなエレベーターに向かった。エレベーターが上がってきて、我々は乗り込んだ。》

【解説】

「そろそろ潮時だ」は<You can quit stalling now>。清水氏は、その前の<all right>とくっつけて「さあ、起きろ」と訳している。村上氏も同じ扱いで「おい、そんなところで気を失われちゃ困るんだ」と訳している。<stall>は「(畜舎の)一頭用の仕切り」のこと。競馬のスターティングゲートを意味する場合もある。それが転じて<stalling>は「エンストなどの失速、急停止」、「口実、言い逃れ、ごまかし、時間稼ぎ」を意味することになった。

「場違いな指輪をした女」は<The woman with the wrong rings>。清水氏は「大きすぎる指環をはめた女」、村上氏は「サイズの合わない指輪をつけた女」と訳している。女の指輪については第二十一章(2)で言及済み。

「彼はちらりと私を顧みた」は<He half turned his head to look at me once>。清水氏は「顔を私の方にむけたときに」と訳している。村上氏は「一度だけ顔を半分こちらに向けて私の様子をうかがった」と訳している。<half turn>は、文字通り「半回転」のことで、「顔」ではなく、「頭」を百八十度回転することである。つまり、海を見ていたアムサーは、部屋の方にくるりと振り返ったのだ。だから、鼻が大きくなっていたことに気がついたのだ。格好をつけて海を見ていた男の鼻が、膨れ上がっていたら、さぞおかしかったことだろう。

「思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた」は<That made me grin, cracked lips and all>。清水氏は「私は裂けた唇をまげて苦笑した」。村上氏は「私は思わずにやりとし、唇を開かないわけにはいかなかった」。アムサーの鼻を見た結果として、にやりと笑ってしまったマーロウ。その笑いが切れかけていた唇の傷を開いたのだろう。

「二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男」は<He was a windblown blossom of some two hundred pounds>。清水氏は「二百ポンドもありそうな大男」と<windblown blossom>をカットして訳している。村上氏は「百キロ近い体重の、風に吹きさらされた花のような男」と訳しているが、<blossom>を「花」と訳してしまうと風に吹かれる野の花のようで可憐すぎ、二百ポンドとなじまない。林檎のように実をつける果樹は可憐な花をつけるから、多分そういう花のことだと思うが、分かりづらい比喩だ。

「タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない」は<He was tough, fast and he ate red meat. Nobody could push him around>。清水氏はここをすべてカットしている。村上氏は「タフで、俊敏で、赤身の肉を食べる。彼をこづくような真似は誰にもできない」と訳している。頭はどうか知らないが、腕力には長けている、一度これと決めたら動じない、現場で力を発揮するタイプの警官というところか。カットするには惜しいところだろうに。

「もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう」は<Little things, if they were all he had. But probably faces would give him more fun>。清水訳は「それが彼の持っていたすべてでも、小さなことだ。だが、たぶん、顔の方が興味があるのだろう」。村上氏は「ほかに何もなければ、小さな何かを傷つける。しかし、彼としては誰かの顔を傷つける方がもっと愉しいはずだ」と、例によって噛みくだいて訳している。

「咽喉が水絞り機にかけられたようだった」は<My throat felt as though it had been through a mangle>。清水氏は「私の咽喉は皺のばし機械を通ってきたような感じだった」と訳している。村上訳は「肉挽機を通り抜けてきたみたいな具合だった」だ。<mangle>は、動詞の場合「切ったり叩いたりして、ぐちゃぐちゃにする」という意味があるが、名詞の場合は「(ローラーを使った)皺のばし機、洗濯物手動絞り機」を指す。昔の洗濯機についていた二本のローラーの間に洗濯物を入れるあれだ。インディアンの手で押しつぶされたことをいうのだから「肉挽機」はちがうだろう。

「痛いところをついたようだ」は<It hurt his corns>。清水氏は例のごとく、ここをカットしている。村上氏は「それはどうやら苦手なことのようだ」と訳している。解釈としてはその通りだろう。<tread(step, trample) on one's corns>というイディオムがある。<~の感情を害する>のような意味で使う。<tread、step、trample>は「踏みつける、踏みにじる」の意味で<hurt>は「傷つける」の意味だから、それを踏まえているのだろう。