marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『逆光』トマス・ピンチョン

前作『メイスン&ディクスン』の刊行から九年後になる2006年に発表された。原題は“Against the Day”。「the Day」には、聖書の「裁きの日」の意味が付随する。それが、何故「逆光」という邦題になるかと言えば、dayをday(light)の意味に取る用法があるからだと訳者あとがきにある。たしかに、光と闇の対立という主題は作品の中で何度も言及されている。興味深いことに、通常主人公は光の側に位置するものだが、この作品では光は戦争の最終兵器の扱いを受け、ヒーローたちは、常に森の奥深くや夜の闇、或いは地下深くで活躍する。まさに、光に逆らっているのだ。

前作でもそうであったが、ピンチョンは歴史的できごとを物語の中に組み入れることを愉快に感じるタイプらしい。本作でもマヨネーズその他歴史の中に初登場する事象を巧みに配置し、読者を飽きさせない。では、その時代とは、1893年から第一次世界大戦直後に至る時代、アメリカ西部においては「辺境(フロンティア)」が消滅していく時代であり、都市部では大量の失業者があふれ、炭坑では組合が結成され弾圧の嵐が吹き荒れた時代である。

H・G・ウェルズの『タイムマシン』やジュール・ヴェルヌの『気球に乗って五週間』や『地底旅行』の時代でもあり、実際にスヴェン・ヘディンのさまよえる湖「ロプ・ノール」の発見は1893年から97年にかけての中央アジア探検においてであった。

寄席芸にお題拝借というのがある。客があげた題を素材に即興で話をしたり紙を切ったりするものだが、ピンチョンが歴史という素材を扱う手際はそれを壮大なスペクタクル・ショーに仕立てたようなものだ。彼が使うのは、当時世界を騒がしていた話題、例えば「大工場、鉄道、探検、SF、映画、気球、奇術、西部の喪失、劣悪な労働条件、労働組合に対する弾圧、強欲、無政府主義、テロ」等々。

よくもまあこれだけのネタを惜しげもなく一作の中に注ぎ込むものだという読者の呆れ顔を無視し、矢継ぎ早に場面転換し、新しい人物を登場或いは再登場させ、アメリカからバルカン半島、さらには中央アジアへと舞台を移しながら描くのは、ひと言で言えば父を殺された一家の男たちの復讐譚。

炭坑で働くウェブ・トラヴァースには、労働組合を弾圧する資本家に対抗する手段としてのテロ活動を行うダイナマイト爆発魔「珪藻土キッド」の顔があった。家族に知られることなく活動していたウェブだったが、資本家スカーズデール・ヴァイブが放った殺し屋の手にかかって無惨な最期を遂げる。残された兄弟たち、リーフ、フランク、キットは、散り散りになりながらも父を殺した犯人とそれを命じたスカーズデール・ヴァイブを追いつめるのだった。

こう書いてしまうと、いかにも時代がかったどろどろの復讐譚のように思いがちだが、そこはピンチョン。男たちの復讐を縦軸にしつつ、第一次世界大戦前夜のヨーロッパという時代背景を活かして、各国のスパイ合戦を横軸に絡ませ、潜行艇やら気球、果ては潜砂艇などというSFチックなアイテムまで繰り出して破天荒な物語を紡ぎ出した。スパイ物といえば妖艶な美女がお決まりだが、次々に登場する美女たちは、単なる飾り物にあらず、実に魅力的に創造されている。魅力的な男と女がいればそこに愛が生まれるのも必然。同性愛、異性愛を問わず多種多様な性愛が描かれているのも作者のサービスか。

無政府主義という、今となってはいささか時代がかった思想にずいぶん肩入れした作品である。9.11以来、国家の威信をかけてテロとの戦いを合い言葉にするアメリカにあって、あえて爆弾テロを行う男とその家族を主人公にしたピンチョンの意図はともかく、厖大な資本力を背景にやりたい放題の権力に単身で拮抗しようとする男や女の姿は哀感を帯びて実に美しく読む者の胸に迫る。

とかく文章が難しいと思われがちなピンチョンだが、本作に限って言えば長さを別にすれば、訳文も読みやすく冒険小説を読む感覚で読み続けられる。難解な数学理論が頻出するのは文系には辛いが、理系の読者には面白いかもしれない。きわどい描写もあるので、一概には勧めることはできないが、仲間や家族のために果敢に渦中に飛びこんでいく主人公たちの心意気に共感できるのは、本当は若者だけかもしれない。若い読者にこそ読んでもらいたい小説である。
逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説) 逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)