短篇小説の名手ウィリアム・トレヴァーの作品を一冊の短篇集として日本に紹介した初めての試みが、2007年刊のこの『聖母の贈り物』ではなかったか。知らないということは恐ろしいもので、初めて読んだとき、何だか嫌な人間ばかり出てくる小説だな、と感じたのを覚えている。おそらく巻頭に置かれた「トリッジ」の印象が強かったのだろう。
若島正が『乱視読者の英米短篇講義』のなかで、「学校時代に、ポリッジ(つまり粥のこと)とあだ名をつけられ、同級生の笑い者になっていた男が、後にささやかな同窓会の席に突然現れて、過去の同性愛の習慣を家族たちの前で暴露するという筋書きの作品」と評しているのがそれだ。「人間の弱さという主題を引き出す物語装置として機能しているのが、「陰謀」及び「復讐」といった筋運び」と若島の言う通り、偽善で固められた共同体が一気に瓦解してゆく様は慄然とする。
これが日本のサスペンス劇場なら、過去のいじめに対する復讐は殺人という短絡的な手段をとるところだが、トレヴァーはそんな手は使わない。「ドライな微笑みとタップダンサーの身のこなしで、過去のイメージを見事に裏切りながら、誰よりも過去に忠誠を尽くしたやつがそこにいた。中年になった今、そいつは勝ち誇っているように見えた」。この「誰よりも過去に忠誠を尽くした」がどういう意味かは読んだ者にしか分からない。初読時には迂闊なことに読み飛ばしていた。例えるなら、自分自身を復讐の道具に使うという高等手段。これを書くのに読み直してうなった。
「マティルダのイングランド」三部作は、両大戦間のイングランド、チャラコム屋敷を舞台に、一人の少女が大人になるまでを描く。若島は「トレヴァーは、あらゆる登場人物に対して、分け隔てなく、ほとんど等距離の位置を保って書くのだ。(略)一瞬ある人物の心理に分け入ったかと思うと、すうっと出ていき、そしてしばらくすると今度は別の人物の心理にこっそり入り込む。その輪舞を見るような動きが絶妙」と評しているが、それはこの「マティルダのイングランド」にも当てはまる。
チャラコム屋敷の当主ミセス・アッシュバートンは八十一歳。マティルダの住む家と農場はかつては屋敷の直属農場だったが、第一次世界大戦後、経営が怪しくなり、農場は売りに出され父が購入した。マティルダは、何故か老婦人に気に入られ、テニス・コートの整備を頼まれる。夫人は往時のようにテニス・パーティーを開き近隣の人々を招き歓待した後没する。幸福感に満ちた第一部、これが序にあたる。
夫人亡き後、空き家となったサマーハウスは、恋人たちの逢引きの場所となる。マティルダは、そこで戦争で夫を亡くした母が後に継父となる男といるのを見てしまう。男には従軍中の妻がいた。姉のベティーは母に翻意を促すが、母は男を家に入れる。これが第二部。転調を示す破にあたる。第三部は1951年。グレガリーという家族が、チャラコム屋敷を買い取ることから話は始まる。
チャラコム屋敷に魅入られたようにマティルダは、愛してもいないグレガリー家の息子ラルフィーと結婚する。まさに「急」展開。この物語は一人屋敷に残るマティルダの回想録であることが明らかになる。それまで、マティルダに寄り添っていた視点がここで、ラルフィーの視点と重なり、夫の側から見た妻の異常さが明らかになる。喧嘩の後、ラルフィーは家を出てしまう。この視点の転換による物語の読み替えという手法はトレヴァーの独壇場。読者は唖然としながら事態を見つめるしかない。
小さい頃に刷り込まれた価値観が少女の心を支配する。まるで老婦人が乗り移ったかのようにふるまうマティルダの姿が異様で、読者はマティルダを離れた視点で主人公を見るように仕向けられる。すると、それまでの事態の推移がまるで別様に見えてくるから不思議だ。この技法は、禁断の技ではないのか。人間関係の深淵を覗くようで、ただ畏れるしかない。
辺鄙な丘の上の耕作地を受け継ぐ独り者の嫁探しを描く「丘を耕す独り身の男たち」もまた、いかにもトレヴァーらしい、寡黙で運命に従容と従う男の姿を描いて神話的な深まりを見せる。他に、独居老人の台所の壁を塗り替えるプロジェクトに巻き込まれた老婆の困惑を描く不条理劇にも似た「こわれた家庭」。不倫カップルが、ホテルのバスルームを使って密会を重ねるバックにプレスリーやビートルズのヒット曲が流れる「イエスタデイの恋人たち」。夭折した娘に恋した男のちょっと変わった恋愛模様を描く「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」他四編を含む。