marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

第39章

検死審問は不発に終わった。事件は自殺という形で幕を閉じた。オールズは、その幕引きに納得がいかず、ポッター老の関与を疑い、マーロウに毒づくが、思い直してオフィスを訪れ、自分の胸のうちを語る。彼は、夫人を疑っていたが、動機が見つからないのだった。オールズが帰ると同時に電話がかかった。ニュー・ヨークのスペンサーからだった。
「さっきは悪かった。忘れてくれ」というオールズに、「なぜ忘れるんだ。傷口を広げようじゃないか」とやり返すマーロウ。そのあとのオールズの台詞の二人の訳が微妙に異なる。
“ Suits me. Under the hat, though. To some people you’re a wrong gee. I never knew you to do anything too crooked. ”
清水訳「おもしろいが、まあよしておこう。世間には君とそりが合わない人間もいるが、おれはわざと意地わるくするほど君をよく知らないんだ」
村上訳「俺の方はかまわんぜ。ただし、おおっぴらにはできない。一部の人間にとっては、君は下手に手出しできない存在になっている。しかし君が裏工作するようなケチなやつだとは知らなかったね」
村上訳はいいとして、「まあよしておこう」という清水訳は意味がよく分からない。“ keep ( ) under one’s hat ” には、「()を秘密にしておく」という意味があるから、「かまわんよ。しかし、ここだけの話だぜ」のように、内密の話なら乗り気だ、という意味でないと、わざわざ別れてすぐに電話をかけて事務所を訪ねてくるオールズの意図がわからなくなる。後半の文については、どうしてこんな訳になるのかまったく分からない。“ gee ” が“ Jesus ” をはばかっての言いかえと考えると、「触らぬ神にたたりなし」というように「下手に手出しできない存在」という村上訳が妥当だろう。最後の文は、そのまま訳せば「君がそんな曲がったことをしようとは思わなかった」の謂。オールズはポッター老の関与についての疑惑をほのめかしているのだ。地方検事の下で働いていたときからマーロウをよく知っているオールズのことだ。「おれはわざと意地わるくするほど君をよく知らないんだ」は、おかしい。「君がそんなことをする奴だとは知らなかった」の意味で訳すほうが、マーロウが裏から手をまわしたと考えている意味が通じる。ひとつ訳をとりちがえてしまうと、それに引きずられて後の訳までまちがえてしまう例だ。
もうひとつ、小さなことだが、オールズが事件についての疑問点を語りだしたところだ。
“ I leaned back and watched the tight sun wrinkles around his eyes. ”
清水訳「私は椅子の背によりかかって、彼の眼が光るのをながめた」
村上訳「私は後ろにもたれかかり、 彼の両目のまわりの日焼けじわがぎゅっと締まるのを観察した」
マーロウが見たのは、眼なのか、そのまわりの皺なのか。「日焼けじわ」という言葉は初耳だが、眼のまわりの皺であることは“ wrinkles around his eyes ” から分かる。
その少し前のところで、オールズが自分の手の甲に浮き出ている大きな茶色の斑点を眺めながら、自分の老いについて慨嘆する場面がある。マーロウが古い友人の眼のまわりの皺を見つめるのは、そこからのイメージの連鎖ではないだろうか。
“ I’m an old cop and an old cop is an old bastard. ”
清水訳「おれは古い警官だ。警官も古くなると、どこでもいやがられる」
村上訳「俺は薹(とう)の立った警官だし、薹の立った警官ってのはしつこい野良犬みたいなものだ」
本来は五十を過ぎないとでてこない角化症による斑点が、おそらくまだ四十代後半であろうオールズの手の甲に出てくるのは現職警官の劇務が原因だろう。自分の好みで仕事が選べる私立探偵とはちがう。マーロウもたしかに手ひどい挨拶を受けるし、痛い目にも合わされるが、暇なときも多い。マーロウに「アカみたいだ」と揶揄される青臭い正義感を持ちながら、汚職や不正まみれの組織に背を向けず、現職警官を続けるこのバーニー・オールズという男が好きになってくる。おそらく、眼のまわりに刻まれたしわの谷になった部分は日焼けせずもとの肌の色を保っていて、目を細めたとき、その日に焼けた部分だけがぎゅっとしわ寄るのを見ているのだろう。マーロウもまた、この男が好きなのだ。