ジャーナル紙の記事を受けて、スプリンガー地方検事は記者会見を開き、公式見解を発表する。ジャーナル紙の編集長ヘンリー・シャーマンは検事の発言をそのまま紙面に掲載するとともに、署名入りの記事ですばやく反論する。モーガンが心配して電話をかけてくるが、果たしてその夜、マーロウ宅に招かれぬ客が訪れる。
この章の前半は、地方検事と新聞の舌戦の紹介で、明らかに清水氏はあっさりすまし、いかにもハード・ボイルド探偵小説らしい展開を見せる後半に重きを置いている。清水訳でカットされているところをいくつかあげてみよう。
まず、スプリンガーの風貌を紹介する文章だが、眉毛の色が清水訳では分からない。
“He was the big florid brack-browed prematurely gray-haired type that always does so well in politics.”
清水訳「スプリンガーは血色のよい大男で、若いときから白髪が多く、政治家として成功する型のからだつきだった」
村上訳「血色のよい大柄の男で、眉毛は黒いが、髪は早々と白くなっている。政界では常にこの手の風貌が好まれる」
次に、スプリンガーは、アイリーンの精神状態が尋常でなかったことにして、告白の信憑性に疑問を付すのだが、対句表現で表された心身の身の方が清水訳には抜けている。
“then I say to you that she did not write them with a clear head,nor with a steady hand. ”
清水訳「とにかく正常な思考力のもとに書かれたものでないことはいうまでもありません」
村上訳「彼女は混濁した意識のもとにそれを書いておりますし、筆跡も定かではありません」
また、細かいところだが、ジャーナル紙が何故そんなに早く反論を発表することができたかということの説明に、チャンドラーは筆を割いているのだが、清水氏は、そこもとばしている。
“The Journal printed this guff in its early edition (it was around-the-clock newspaper) and Henry Sherman, the Managing Editor, came right back at Springer with a sighned document.”
清水訳
「《ジャーナル》はこのばかげた談話をそのまま掲載して、編集長ヘンリー・シャーマンが書名つきの文章でスプリンガーに応戦した」
村上訳
「『ジャーナル』紙はこのたわごとを早版に掲載した(この新聞は一日のうちに何度も版を重ねる)。編集長であるヘンリー・シャーマンは、スプリンガーに対して、署名入りの記事ですかさず反撃した」
スプリンガーは、大向こうの受けをねらってか、意識の混濁したアイリーンをオフェリアに見立て、シェイクスピアの『ハムレット』から有名な台詞を引用してみせるのだが、実はその台詞はオフェリアについて言われたものではなく、オフェリア自身の台詞だった。シャーマンは、その誤りを正すとともにクローディアスの台詞を引用して大見得を切っている。欧米では如何なる場合も、聖書とシェイクスピアについての知識の有無がステイタスになっているのだ。
“You must wear your rue with a difference.”
清水訳「そなたは分別をこえて悲しみの衣をまとわねばならぬ」
村上訳「あなたは違うかたちの悲嘆を身にまとわなくてはね」
“rue” には「後悔・悲しみ」という語とは別に、「ヘンルーダ(芸香)」という毒性を持つミカン科の花の意がある。『ハムレット』の中で狂ったオフィーリアは花束を手に花言葉の意味を説きながら花を手渡してゆく場面があるが、狂気を言い訳にして、王や王妃に対して嫌味を言っているわけである。村上氏は括弧書きで、そのことについて詳しく触れている。ただ、王妃に対する嫌味と村上氏は記しているが、王妃には「不実の茴香と姦通の苧環」、そして王と自分にお似合いなのが「ヘンルーダ(芸香)」ではないだろうか。オフィーリアには「悲嘆」、そして兄を殺した王にとっては「後悔」という、違ったかたちの“rue”が。有名な台詞なので、欧米の読者にはそのまま通じるのだろうが、日本人である我々には説明があるほうが親切というものだ。無論あまり深入りしすぎると、ハード・ボイルド調ではなくなってしまうが。
“difference”が、清水氏の訳ではアイリーンが「分別を失って」悲嘆の衣をまとったという、スプリンガー一流の解釈になるわけである。それに比べて、村上氏の訳では「違うかたちの」という言葉の方に力点が置かれていて、それに続く「私の政敵はこのようなかたちの違う(傍点六字)点をことさら誇張して、政争の具とするかもしれません」を導き出すための引用と採っているわけで、このあたりの翻訳の“difference”は、非常に興味深い。ところで、辞書には名詞に続けての“with a difference”には、(ほめて)「特別な・並はずれた」という意味があるという。それなら、「あなたは選りぬきの芸香(後悔)を身にまとわねばならない」という訳も可能ではないだろうか。だとすれば、スプリンガーの“Eileen Wade wore her rue with a difference.”という言葉には、言外に「死者に口なしという、特別な道を採ってくれた」という意味が含まれているのかもしれない。もちろん、シェイクスピアはよく知っていたように、フランス語の“rue”には、「通り・道」という意味がある。
ジャーナル紙の反論から、『ハムレット』がらみで、次のクローディアスの台詞も引用しておこう。
a good thing that happend to be said by a bad man: “And where the offence is let the great axe fall.”
清水訳
「その台詞はたまたま悪人によっていわれた台詞である―“そして、罪のあるところへ大きな斧をふりおろすがよい”」
村上訳
「この善き台詞はあろうことか一人の悪しき人間によって語られたものだ。『罪のあるところに、大斧を振り下ろせ』」
原文の“a good thing”と“a bad man”は、言わずもがなの対句なので、村上訳のように対句表現で訳してほしいところだ。
午後二時ごろ、リンダ・ローリングから電話がかかる。
About two in the afternoon Linda Lorring called me. “No names, please,” she said.
清水訳 「今日は悪口を言わないでくださいね」と彼女はのっけ(傍点三字)に言った。
村上訳 「名前は口にしないでちょうだいね」と彼女は言った。
村上訳の「名前は口にしないで」というのは、どうだろう。何か意味があるのだろうか。“call someone names”には、「悪口を言う」という意味がある。マーロウとリンダは顔を合わせれば口喧嘩ばかりしている仲だ。清水氏の訳の方が、文脈的にふさわしい気がする。
電話の中でリンダは夫のことを“almost ex-husband”と呼ぶので、マーロウが訊ねる。
“What do you mean. almost ex-husband?”
清水訳「どういう意味です―前の夫というのは?」
村上訳「ほとんど『前の夫』になっている人というのは、どういう意味なのだろう?」
実のところ、ローリング医師はまだ「前の夫」になってはいない。だから、リンダは“almost”と言っているのだ。村上訳の原文に忠実なところは、この「ほとんど」によく現われている。
リンダは、父が怒っていることを告げ、マーロウに身をかくすよう忠告するが、マーロウは耳を貸さない。そんなマーロウにリンダが言う台詞。
“You’re not fooling anyone but yourself, Marlowe.”
清水訳「もっと自分のことを考えるべきよ、マーロウ」
村上訳「自分に向かってふりはできるかもしれないけど、他人には通用しないのよ、マーロウ」
村上氏の訳だが、“not A but B”という構文と見て、通常使われるように「他人はだませても自分をだますことはできない」という意味になるのではないだろうか。清水氏の方は“be a fool to oneself” (親切にしてばかを見る)という意味を採用しての意訳だろう。リンダとしては、「馬鹿なまねばかりしていないで、もっと自分のことを考えて」と言いたいのだろう。清水訳でいいのでは。
そして、いよいよ強面の男たちの登場シーンである。自宅に帰ってきたマーロウが屋内に尋常でないものを感じる、その理由を列挙するところで、清水氏は次の部分をばっさりカットしてしまっている。
“Perhaps on a warm still night like this one the room beyond the door was warm enough not still enough.”
村上訳
「このようなしん(傍点二字)とした温かな夜なのに、ドアの向こうはそれほど温かくもなく、それほどしんとしていなかったのかもしれない」
あるいは次のようなところも。何故か、すこぶる重要な最後のところをカットしている。
“Cadillacs with red spotlights belong to the big boys, mayors and police commissioners, District Attorneys, perhaps hoodlums.”
清水訳
「赤いスポットライトがついているキャディラックは市長、警察本部長、あるいは地方検事というような大物が使うのだった」
村上訳
「赤いスポットライトのついたキャディラックを乗り回すのは市長か、市警察本部長か、あるいは地方検事。さもなくばやくざか」
部屋の中で椅子に腰掛けた男を描写した部分。
“A man was sitting across the room with his legs crossed and a gun resting sideways on his thigh.”
清水訳
「部屋の向こうの端に一人の男が足を組んで腰をおろしていて、膝の上に拳銃がのっていた」
村上訳
「一人の男が部屋の奥に足を組んで座り、その腿には銃が横向きに置かれていた」
“thigh”は、膝ではなく腿だろう。洋服で腿の半ばまでの丈を表すのに「ミッド・サイ・レングス」という語がある。それに、いくらなんでも膝の上に拳銃というのは、落っこちそうで落ち着きが悪い。ライフルのような銃と考える方が絵柄がいい。それに、ギャングたちが脅しに撃つのが、“machine pistol”と、こちらはガンでもよさそうなのに、わざとピストルを使っているところから見ても、ここは銃と訳したほうが無難であろう。