marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ジェラルドのパーティ』ロバート・クーヴァー

ジェラルドのパーティ
主人公ジェラルドの家で開かれたパーティーの最中、ロスという女が殺される。ロスは男なら誰でも寝てみたくなるような相手で、事実多くの男と寝ていた。ジェラルドもその一人だ。夫のロジャーはロスに夢中で彼女が女優をやることに反対だった。パーティには、舞台関係者や美術関係者、法曹界、映画界の人間、それに招かれざる客として警視正と警官二人、毀れた便所の配管を修理するために呼ばれた二人の鉛管工、その他大勢の隣人や知人、またその知人といった客が七、八十人も入れ替わり立ち替わり登場する。

クーヴァーをご存知なら、このミステリ仕立てではじまった小説が、すんなりと犯人探しを中心に展開してゆくとははなっから予想もしないだろう。まさにそのとおりで、パニックに襲われるロジャーをよそに、パーティ客は死体のことは警察にまかせ、宴は続けられる。それどころではない。居合わせた舞台監督はロスの死体を使って撮影を始めるし、バスタブで血で汚れたドレスを洗う画家や、便器に跨ってお漏らしで汚れた体を洗ってもらうモデルで塞がったバスルームへ尿意を催した客が次々押し寄せる。キッチンでは妻が客に出す料理の世話で大忙し、というシュールなタッチですべりだす。

「三一致の法則」を意識したのだろうか、場所はジェラルドの家、時間は一夜、筋としては殺人事件(死者が複数だが)と、きわめて古典劇に忠実な規則を遵守しながら、その実体はといえば、いつもながらのスラップスティック・コメディ。妻の死で取り乱し、暴れたロジャーは警官に撲殺、画家はバスタブで溺死し、親友のヴィックは過って娘の処女を奪いかけたジェラルドをフォークで刺そうとして警官に銃で撃たれるというドタバタぶり。その間隙を縫うように、ソーセージやら、アヴォカドのディップやら、ヴェルモットやオールド・ファッションドとパーティにつき物の食事と酒、女たちのドレスや、男たちの白い麻のスーツやアスコットといったファッションが羅列され、アメリ中流生活のうわべの華やかさが派手に演出されるが、ドレスは血まみれ、美女は糞まみれ、男と女は誰彼かまわず暗がりや空き部屋を見つけてはセックスに励んでばかりというトンでもない在り様。

殺人が起きていながら、事件の方はそっちのけで、主題は専らジェラルドの恋愛遍歴だ。今宵も、夫同伴で出席しているかねてから意中の美女アリスンと情を交わしたいという欲望をたぎらせながら、次から次へと押し寄せる客の波を乗り切ろうと躍起になる姿を追う。その合間合間に妻と何気なく会話を交わし、ホスト役を務め、親友の娘の挑発をかわし、義母の冷たい視線を気にしながら眠れない息子の世話をし、何とか困難な一夜を乗り切ろうと悪戦苦闘するさまを、作家はジェラルドに寄り添いながらユーモアを忘れず、最後まで付き合う。

カーニヴァルめいた俗悪な騒ぎが引きもきらず主人公に襲いかかる。その狂騒の切れたとき、ふと触れ合った女たちの肌との接触が甘美な郷愁に似た過去の女たちとの思い出をジェラルドの脳裏によみがえらせる。あるいは、思索に耽りがちだった父が、時折り息子相手にもらした、今となっては身に重い箴言の数々。この喧騒と静謐のえもいわれぬ対比が絶妙な効果を生んでいる。

ロバート・クーヴァーといえば「血と糞とセックスの横溢するラブレー風な哄笑」で有名だが、「ポストモダンアメリ中流生活を風刺するドタバタ喜劇」の厚塗りの化粧から透けて見える等身大の人間の抱く哀歓もまたつけ加えたい魅力の一つだ。とはいえ、それは果てしもなく続く乱痴気騒ぎの果てに、ようやく一息つくようなものであって、汗を流し、息を切らせた藪こぎの途中で垣間見る稜線の向こうの青空のようなもの。束の間爽やかな風が吹いたかと思っても、すぐに誰と誰が何のことで会話しているのか見当もつかない会話や、息もつかせぬきわどい描写が待っている。ところどころに挿まれる地口や洒落が、ちょうどよい息抜きになっているが、あまり見事な日本語になっているので、原文の言葉遊びがうかがえないのがちょっと残念。