生者と死者を分かつ境界を、人は苦悩にかられて思いつめる行為を通して越えることができるのだろうか。触法精神障碍者の施設にいる夫からの手紙にあった、死んだ子どもが別の次元に存在するという言葉に動揺する妻を描いた「次元」。マンローの短篇ではお馴染みの、若い相手と夫の浮気というモチーフに植物毒と逃亡中の殺人犯とを絡ませ、ミステリ・タッチに仕立てた「遊離基」。「訳者あとがき」によれば、マンローの作品をアメリカの「南部ゴシック」にひっかけて「南部オンタリオ・ゴシック」と呼ぶらしいが、この短篇集に限っていえば、その呼び名に相応しい作品が揃っている。
人の心の奥底に潜む暗い衝動や、無邪気に見える少女の笑顔の裏に隠された惨酷さ、平穏な日常のなかに突然表出する深い亀裂と、短篇ならではの凝縮された人間ドラマが続出するが、それだけに、苦い後味を残すものも少なくない。いつもと比べ、「悪意」の表出が露骨であるような気がする。自伝的な『林檎の木の下で』が最後の本と表明した作家が、それ以降に書いたものを集めた作品集である。ふっきれた、とでもいうところだろうか。
そんななかで、「小説のように」が、作者ならではの独特の余韻を感じさせる。夫の心変わりで一度は傷つきながら、歳月を経て再婚し、美しく才能に溢れ、周りに羨まれる自分を取り戻した女性が、突然現われた若い女性によって過去を振り返ることを余儀なくさせられる話。自分の中では、整理がつき、すでに終わっていた物語が、新しい人物の登場によって、別の角度から照明を当てられ、全く異なる物語が立ち現われる、という仕掛けだ。新しい人物というのが、自分を捨てた夫が愛した女の連れ子で、今は小説家となっている。その小説の中に、かつての自分が描かれているのだ。
誰にでも自分を贔屓目で見ることはある。ましてや、人並み優れた美貌や才能、知性に恵まれていたらなおさらだ。そんな自分が、どう見たって自分より下だと思える者に配偶者を奪われたら、自分に非があると思えるだろうか。夫も賢く夫婦に問題がなかったらなおのこと。主人公は、潔く身を引き、家を明け渡した。文句のつけようのない処し方である。そして今の自分がある。その優位は崩れない、はずだった…。傷つけられた自尊感情、長い恢復期、癒やされて一層高まったそれが揺さぶられ、打ちのめされる様を、主人公はさながら作家のような視線で見続ける。訳者が短篇集の邦題に「小説のように」を選んだのがよく分かる、心に響く一篇。
個人的には、林地で薪にするための木を伐る男が陥る危機を描いた「木」がお気に入りだ。丸太小屋を建てるために、主人公のように独り携帯もつながらない山林に入り、チェーンソウと手斧で木を伐った経験がある。誰もいない場所で窮地に陥ったらどうしようもないのだが、危険と隣り合わせの澄明な孤独感には他の何物にも変えがたい魅力がある。まして妻が欝気味とあれば、林地での単独行動は、息抜きでもあっただろう。他の作品とちがい、読後に残る後味がすがすがしい。この短篇集における一服の清涼剤の感がある。
原著は著者にはめずらしい実在の人物に材を採った「あまりに幸せ(Too Much Happiness)」を表題としているが、姉が、あのドストエフスキー作『白痴』に登場するアグラーヤのモデルだったという数学者で小説家のソフィア・コワレフスカヤを主人公にした一篇は、素材としての面白さはあるが、マンローの作品としては普通の出来。邦訳の表題となった「小説のように」の方が、格段に面白く、アリス・マンローらしさに溢れている。もっとも、原題は、“Fiction”と素っ気ない。短篇集の題が『小説』というわけにもいかないだろう。訳者の苦労がしのばれる邦題である。