marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『イラクサ』アリス・マンロー

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)
書き出しは謎のような箴言のような一節ではじまる。あるいは、真空管があたたまって回路がつながったラジオから聞こえてくる会話のような。そんな切れ端だけでは、なんともつかみがたい見知らぬ他人の人生の中に土足で入り込んだような落ち着かない気持ちのまま、おずおずと物語のなかに招じ入れられるのだ。心してかからなければならない。見かけから伝わってくる印象ほど、理解するのは容易ではないのだ。今しがた足を踏み入れた場所は、他人には見せたことのない隠れ場所のようなものだから。整ってもいないし、快適でもない。積りつもった塵埃や湿気でぼろぼろになった古証文が散らばったままの地下室みたいなものだ。

アリス・マンローの短篇小説を読むのは心躍る行為だ。そこには、他の作家の見せてくれる世界とは確かに異なる光景が用意されている。北米大陸カナダを舞台にしてはいるが、飛び抜けて酷薄な自然があるわけでも、信じられないような事件が起きるわけでもない。読者が入り込むことを期待されているのは、誰にでもあって、どこにでも起こりうる、ごく普通の家族や親類縁者、友人知人の間にある長きにわたる交流だ。誰にだって、一人や二人噂話のタネになりそうな知り合いはいる。笑い話にされたり愚痴の対象であったりするが、世間というのはきっと、そういう人が潤滑油となって機能しているのだ。

一口で言えばゴシップである。誰それがどうした、こうしたという、主婦が台所で友だちと洗い物をしながら話したり、パーティー会場の片隅で声を潜めて語ったりするような仲間うちでの打ち明け話。有り体にいえば、小説というのは、それを読者という他者に開放してみせたものだ。アリス・マンローの凄いところは、難易度の高い手術を短時間にし遂げる外科医に似ている。たぶん傍で見ている者には、そこで何が行われているのか見当もつかないくらいの速度で事態が処理されている。特に現在と複数の過去の時間の処理。速い時には段落単位、高速度で切り替わるので、慣れない読者は面食らうにちがいない。馴れるとやみつきになるのだが。

素材となるのは自分とその周りにいた人物が主だ。人物に憑依したかと思えるほど、心の奥底に閉じこめ、誰にも見せなかったであろう思いを、腹腔鏡でも使うように適切な部位を過不足なく摘出してみせる。他の誰にもない、というのはそこである。他者を扱うなら思う存分メスでも何でも振るえばいい。しかし、どんな名手でも自分相手となればそうはいかない。躊躇が、逡巡が目を曇らせ、手を震えさせる。自分を自分ではない赤の他人のように冷静に、時には悪意さえ感じられるほど酷薄に見つめ、意識の深奥部に沈めてしまったであろう過去の記憶を探査し、掘り起こし、切り捌く、その手際に魅了されるのだ。

訳者によるマンローの邦訳としては初めてのもの。考え抜かれた選択だったろう。いかにもアリス・マンローという作品が並ぶ。いつも最後の文章に魅かれるのだが、父のいとこの思い出を語る「家に伝わる家具」の「なかに入って、コーヒーを飲んだ。コーヒーは沸かしなおしで、黒くて苦く――薬みたいな味がした。まさにわたしが飲みたかったものだった」がいい。マンローの書く自伝風短篇の味を語り尽くしている。今ひとつあげるなら、「ポスト・アンド・ビーム」か。

大学教授の妻になって二人の子を持つ年若いローナを訪ねて、実家から幼なじみのポリーがやってくる。そりが合わない夫とポーラの間に立って苦慮するローナはポリーを突き放すかたちで家を空ける。留守中絶望したポリーが自殺するのではという妄想に、ローナは神との取引を思いつく。自分の大事な何かを手放す代わりに、自殺を思いとどまらせて、と。神様との取引という民話によくある話を夫の教え子との「姦通」願望にからませ、幼な妻の揺れ動く心に迫る一篇。その思いがけない結末は神慮なのか、それとも思いなしか。読み方ひとつでどうにでもとれる、オープン・エンドもまたマンローの得意とするところ。表題作の「イラクサ」、「浮橋」も「人生の苦さと思い出の甘やかさ」を湛えて詩情あふれる佳篇。