もともとは表題作の短篇がきっかけとなってできた長篇小説。同じ町に暮らし、それぞれがどこかで関わりを持ちながら、それとは気づかない複数の人物が入れ替わり立ち替わり現われては、一つの短篇の主人公を演じてゆき、綯い合わされた幾筋もの糸が縺れあい捩りあって、最後にはもとの人物のところに戻って完結する。シュニッツラーの戯曲『輪舞』に由来するロンド形式で書かれている。複数の人物に焦点が当たることにより、様々な社会階層で暮らす人々を描くことができ、互いの絡み合う利害は時には生死に関わることもある。人は思わぬところで他者とつながり、また傷つけ合っているものだ。
舞台となるのはハイチ共和国にある海沿いの町ヴィル・ローズ。携帯電話が普及し、ポルトープランスが首都として機能しているところからみると、2010年の大地震の少し前あたりか。「海の光のクレア」(クレア・リミエ・ランメ)は、絡まりあう物語の起点となる少女の名。貧しい漁師の娘である。誕生時に母が死に、幼い頃から他家に預けられ、今は父と暮らすが、親しい漁師仲間の死を見て不安になった父はクレアを養女に出そうとする。無学な自分と暮らしていてもこの先娘は一生かかっても幸せになれない、と考えたのだ。養子に出す先は、事故で娘を亡くした織物屋。大人同士の話はまとまるが、娘は逃げ出す。これが複数の筋を綯ってできた輪投げの輪のような物語の繋ぎ目となる。
視点人物が変わるたびに、語り手は時間を行きつ戻りつしながら、関係者に降りかかった災難を物語る。第二話は時間を少し遡る。織物屋の女主ガエルに起きるのは娘の出産当日に夫がラジオ局で殺されるという悲劇だ。第三話はそのラジオ局に勤める青年バーナード。第四話はバーナードの親友で学校を経営するマックス・シニアの息子ジュニア。続いて、ラジオ局のパーソナリティ、ルイーズとマックス・シニア、ガエルとマックス・シニアの関係が露わになり、物語は男女関係、親子関係が複雑に絡まりあった愛憎劇の様相を呈するように。
ギャングの抗争があり、裏切りがあり、その復讐としてゴシップのすっぱ抜きがあり、同性愛に悩む青年がマチスモの虚勢を張るためのレイプありという、とことん俗悪で、救いようのない人々の悲喜劇が繰り返されるなかで、唯一の救いは少女クレアと亡き母、その夫ノジアスの家族愛である。人々の思惑が右往左往し、葛藤が高まり悲劇が極限に達するところで、物語はカタルシスを迎える。お定まりのようだが、これでなくては救われない。
いかにもラテン・アメリカらしい、善意も悪意も上辺を取り繕うところがなく、あけっぴろげできわめて人間的。貧困と富裕、黒人と白人、スノッブと下層民の対立があるところにマチスモの文化が立ちはだかる。そこへむけて、ハイチならではの政治経済上の混乱が輪をかけて問題を複雑化する。やりきれない世界を浄化するのは、ヴィル・ローズという架空の町の前に広がる海だ。かつての灯台跡に点される海難事故の死者を悼む灯り、子どもたちが輪になって踊るときに歌う歌、人間関係の緊張と対立をほぐすかのように、リリカルな情景が挿入される。
一話完結でもいけそうな短篇を、人物同士の相関関係でつなぎ、連作短篇集もどきの群像劇に仕立てた作者の努力は買うのだが、それぞれの事件をあまりに都合よく繋ぎ合わせることで、作者が「神の手」を持つように見え、大事な登場人物が操り人形めいて、近代リアリズム小説ではなくロマン主義時代の小説のように見えてしまう。いくつもある主題のなかで、権力を有する大人の権謀術策が、汚れを知らない若者の芽を摘むという主題が、清冽な悲哀を感じさせるだけに、複数のエピソードを平均的に並べるのではなく、中心となる主題を選び、もっとメリハリをつけて描くことはできなかったのか、という憾みが残る。
そんななかで、個人的には、学というものを持たず、ひたすら愚直に妻や娘を思う木偶の坊のような漁師ノジアスの姿が、誰よりも印象深かった。他の近代的な人間が身にまとう処世術から発する胡散臭さから最も遠い、太古から変わらない神話的な人間像の描出に成功しているようだ。長篇執筆の契機となった短篇「海の光のクレア」には、それだけの力があった、ということなのだろう。