「祝詞(のりと)」にはじまって、中井久夫の「私の日本語雑記」に終わる、これは「特定の文学作品ではなく、さまざまな文体と日本語に関する考察を集め」た、いわば全集における「雑纂」である。その内容は、漢詩・漢文や仏典、キリスト教文書に加え、琉球語、アイヌ語、それになんとケセン語まで含んでいる。それらは読んでいて楽しいし、何より日本語の持つ豊かさに驚かされる。
まず、「祝詞」、「六月晦大祓(むなづきのつごもりのおほはらへ)」を、声に出して読んでみることをお勧めしたい。心配はいらない。ほとんどの漢字にはルビが振られている。意味など考えず、早口言葉を唱えるみたいにひたすら読んでいるうちに妙に楽しくなってくるから不思議だ。少しずつ変化しながらよく似た言葉が繰り返されることから来る呪文のようなリズム感がワクワク感を引き出す。これはクセになる。
「般若心経」は、高校時代、倫理社会か何かで習ったとき、ノートの表紙に全文書き写して暗記したくらいで、今でも空で唱えられるが、ここでは伊藤比呂美による現代語訳がよくできている。終わりのほう、羯諦羯諦(ぎゃーてい。ぎゃーてい)というサンスクリット語そのままで唱える部分の前のところ「是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多。即説呪曰。」を伊藤はこう訳す。なんとありがたいお経であることか。
これは つよい まじないで ある。
これは つよくて あきらかに きく まじないである。
これは さいこうの まじないである。
これは ならぶものの ない まじないなのである。
どんな 苦も たちまち のぞく。
ほんとうだ。 うそいつわりでは けっして ない。
だから
おしえよう この ちえの まじないを。
さあ おしえて あげよう こういうのだ。
聖書は文語訳がいい、というのはよく聞くが、「マタイによる福音書」の訳文六種類を並べて見せるなかで、最もありがたく聞こえてくるのが、山浦玄嗣によるケセン語訳だ。気仙沼地方の方言を独自に作った文字を使用して筆記しているので、引用ができないのが惜しい。
第九章「政治の言葉」のなかの鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」がおもしろい。オリンピックの時期になると、よく「日本」と書いて「ニホン」と読むのか「ニッポン」と読むのかという論議が起きるが、それについて鶴見はこう書いている。そういえば確かにそうだ。
要するに儀式めいた時、元気な時、侵略思想を広げようとする時には、日本という漢字は「にっぽん」と発音される。だから、日本が五・一五事件や二・二六事件のような暗殺さわぎをへて「非常時」に入り、大戦争に深入りするにしたがって、「にっぽん」が、「にほん」をしのいでつかわれるようになったのもあたりまえだといえよう。
現行憲法は外国語を訳したものだから文章がよくない、という論がある。丸谷才一は「文章論的憲法論」(講演)の中でいう。悪文であることは認めるとしても、英語の翻訳だから意味は通っている。明治憲法のように意味を伝達する機能を持たない文章でできているものよりよほどいい、と。さらに、大江健三郎が『暮しの手帖』に書かれている手順で料理すると、自分でもできる、と話していたことを例に挙げ、それは花森安治が「文章といふものが何よりもまづ意味を伝達する手段だ」ということをよく認識していたからだ、という。
日本語は、個人的、情緒的なものを表すには適しているが、公的、観念的、論理的なものを書くときにはうまくゆかない。なぜかというと、西洋のように長い間かかって積み上げてきた共同財産である実用的な文章を持たない日本では、急いで散文の文体を作らねばならなかった。それをやったのが小説家だったから、後者のような文章を書くための日本の散文はいまだ確立されていない、という。さらに続けて
明治憲法と対比して、現行憲法のいちばん貴重なところは、国民の人権を大事にするといふ精神で貫かれてゐることだと私は思ひますが、その精神はゆつくりと日本の社会の中に滲透して、かなりの成果をあげてゐる。そのかなりの成果の一つとして、現代日本人の共通の財産であり道具である日本の散文は、いまやうやく確立しようとしかけてゐるのではないでせうか。
だから、この大事な憲法を捨ててしまうというのは、まことに了解に苦しむ、と結んでいる。法的な視点からでなく、文章論的な護憲論として、これを超えるものを私は知らない。
第十章「日本語の性格」所収の「意味とひびき――日本語の表現力について」を書いた氷川玲二は英文学者。丸谷才一、高松雄一とともにジョイスの『ユリシーズ』の共訳者でもある。日本人が、大和言葉と漢文脈を器用に使い分けてきたことで得たものと失ったものを分析してみせる手際の鮮やかなこと。中井久夫の「私の日本語雑記」とともに、文学全集を締めくくるにふさわしい文章である。ぜひ熟読玩味されたい。