marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』第六章(1)

《雨は排水溝を溢れ、歩道の外れでは膝の高さまではねていた。雨合羽を銃身のように黒光りさせた長身の警官たちが、笑い声をあげる少女たちを抱いて水たまりを渡らせるのを楽しんでいた。雨は激しく車の幌をたたき、バーバンク革の屋根が漏れはじめた。車の床には水たまりができ、足は浸かったままだ。秋だというのにこんな雨は早過ぎる。私は体をトレンチ・コートにこじ入れて一番近くのドラッグストアに駆け込み、ウィスキーを一本買った。車に戻り、体温と気力を保つため、そいつを存分に活用した。駐車時間を超過していたが、警官たちは女の子を運ぶのと笛を吹くのに忙しく、それを気にする暇はなかった。》

十月半ばのロサンジェルスに、こんな雨が降るのか。マーロウの車はコンバーチブルなので、天気のいい日には快適だが、雨の日には往生する。手許の辞書にも出ていない<burbank top>を、両氏とも知らぬ顔の半兵衛を決め込んで略している。今では、ネットが使えるから、村上氏は知っていてわざと省いているのだろうが、ちゃんと出ている。それも、使用例に引かれているのはチャンドラーのこの本だ。気になっている人が質問したのに対し、回答者が答えている。この場合のバーバンクは地名ではなく、車の幌に使用された防水性のしっかり織られた布を指す。革に擬したタイプの物をバーバンク・レザーと呼ぶこともあったらしい。今となっては死語で、アメリカでも覚えている人は少ないようだ。ヴィンテージ・カー愛好家のために省略せず残しておくことにした。

マーロウが買ったウィスキー。村上氏は「ウィスキーの瓶」。双葉氏は「ウィスキーの二合びん」と訳している。原文は<a pint of whiskey>。1パイントの量は英国と米国ではちがいがあり、英国の方が少々多い。英国は500ミリリットルのペットボトルより多く、米国は少し足りない。さすがに「二合びん」は、今では使えないだろう。ただ、小瓶というには量がある。パイントの韻を響かせて「ウィスキーを一本」と訳してみた。

《雨にもかかわらず、それとも雨のおかげだろうか、ガイガーの店は賑わっていた。見てくれのいい車が絶えず店の前に停まり、見栄えのする人々が紙包みを抱えて出入りした。そのすべてが男というのではなかった。》

をどう訳すか。村上氏は「高級車が何台も」、「いかにも高級そうな人々が」。双葉氏は「すこぶるすばらしい車がつぎつぎに」、「すこぶるいい身装(みなり)の連中が」、とどちらも同じ語を二度使うことで原文を生かそうとしている。ほめているように見せながら皮肉を利かすチャンドラー一流のレトリックだが、問題は車に付いている複数を表す<s>をどうするかだ。さすがに両氏ともうまく処理している。

《彼が現れたのは四時頃だ。クリーム色のクーペが店の前に停まり、そこから出た男は雨を避けるように店の中に入った。丸顔にチャーリー・チャン風の口髭がちらっと見えた。無帽でベルトのついた緑色の革のレインコートを着ていた。距離があるのでガラス製の義眼は見えなかった。長身に革の胴着を着たやたらかっこいい若者が店から出てきて、クーペを運転して角を曲がり、歩いて帰ってきた。ぴかぴか光る黒い髪が雨で貼りついていた。》

双葉氏が「ジャンパー」、村上氏が「革ジャンパー」と訳しているは、その昔『男の服飾図鑑』(メンズクラブ編)という本で読んだのを覚えている。イラスト入りだったので記憶に残っているのだが、袖のない昔の胴着風のデザインだった。「ジャーキン」では註が必要になると考えたのかもしれない。しかし、「ジャーキン」はファッション用語として今でも生きている。それでも気になるなら、別の訳語を考えるしかないだろう。

安易に革ジャンパーに変更するとのイメージがステレオタイプのものになってしまうような気がする。車や服装には人物像を補う意味がある。読者に誤ったイメージを抱かせるような訳語は避けるべきだろう。蛇足ながらを、村上氏は「とてもハンサムな」、双葉氏は「すごく美男の」と若者の面貌に注目して訳している。<a tall and very good-looking kid in a jerkin>を、あえて顔だけにこだわらず、その服装にまで広げてとらえることはできないだろうか。そう思って「長身に革の胴着を着たやたらかっこいい若者」としてみた。