《私はドアポケットから懐中電灯を取り出すと、坂を下って車を見に行った。パッカードのコンバーティブルで、色はえび茶か、こげ茶色。左側の窓が開いていた。免許証ホルダーを探って、明かりをつけた。登録証は、ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレッセント3765番地、カーメン・スターンウッド。私は再び車に戻り、座り直した。幌から雨が膝に落ち、胃の腑はウィスキーで灼けていた。それ以上車は丘を上ってこなかった。車を停めた前の家に明かりが灯ることはなかった。悪い癖を招き入れるにはもってこいの界隈のようだった。》
双葉氏は最後の<It seemed like a nice neighborhood to have bad habits in.>を訳していない。訳し忘れたのか、省略したのか判然としない。村上氏は「悪しき習慣を持ち込むには、格好の環境であるようだ」と訳している。もったいぶった訳し様だが、何やら意味深な文だ。カットしてしまうには惜しい文に思えるのだが。
《七時二十分、夏の稲光のように激しく白い光がガイガーの家を一閃した。暗闇がそれを包み喰い尽くさないうちに、細く甲高い叫び声があたりに響き、雨に濡れた木々の中に消えた。その響きが消える前に、私は車を出てそちらに向かっていた。》
何故か双葉氏は「七時三十分」と訳しているのが不思議だ。原文の表記は数字ではなく<seven-twenty>で、間違えようがない。版を組む時、原稿の漢字の「二」が「三」に見えでもしたのだろうか。次の部分は意味は分かるのだが、一つの事態と別の事態の間の時間の関係が分かりづらく、文としてまとめるのが難しかった。光が消えるのは早いが、音の方はもっと長くその場にとどまる。マーロウの動きの素早さをどう表すか、ということだ。
《悲鳴に恐怖はなかった。愉快さの混じった驚きの調子、酔ったような怪しい呂律、真性な白痴の上げる高音。不快な響きだった。私は、白衣の男たち、格子の入った窓、手首と足首を縛る革帯がついた固く狭い寝台を思い浮かべた。私が生垣の隙間を見つけ、玄関を隠している角を回った時には、ガイガーの隠れ家は元のようにひっそりと静まり返っていた。ドアにはライオンの口に鉄の環の通ったノッカーがついていた。私はそれを掴もうと手を伸ばした。ちょうどその時、合図を待っていたかのように、家の中で三発、銃声が轟いた。長くざらついた溜息のような声が聞こえ、それから鈍く歪んだ何かのぶつかる音。次いで家の中に慌ただしい足音――逃げてゆく。》
チャンドラーの情景描写は感情が必要以上にまぶされた語句が使われている。それが畳みかけるように、次から次へと読者に浴びせかけられる。土砂降りの闇の中に聞こえた悲鳴から精神病院を思い浮かべるマーロウ。マーロウのとる行動とガイガーの家から聞こえてくる物音が並行して同時に語られる。
「私が生垣の隙間を見つけ、玄関を隠している角を回った時には、ガイガーの隠れ家は元のようにひっそりと静まり返っていた」は、<The Geiger hideaway was perfectly silent again when I hit the gap in the hedge and dodged around the angle that masked the front door.>。双葉氏は、文を二つに区切り、「私は生垣のすき間に飛び込み、玄関のほうへまわった。家は完全な沈黙にかえっていた」としている。その際<the angle that masked>の部分をカットしている。生垣の迷路がよほど目障りだったのだろうか。村上氏は「私が生け垣の隙間に飛び込み、玄関の目隠しになっている角を曲がったとき、ガイガーの隠れ家は完全な沈黙に包まれていた」と訳している。その前に何度も言及されている目隠しの生垣だ。これを省略してはいけないだろう。
<I hit the gap in the hedge>を、両氏とも「生垣(生け垣)のすき間(隙間)に飛び込み」と訳しているが、<hit>という動詞に「飛び込む」という訳語がある訳ではない。「ぶつける」という訳語の意訳だろうが、隙間に飛び込むというのは「ぶつける」ことになるだろうか。相手は隙間である。それにまともにぶつかることなんかできない。どうも的をはずしているようで、これでは<hit>という語の語感にぴったり来ない気がする。<hit>には、他に「見つける、行き当たる」という用例がある。ここは日本語にもなっている「ヒットする」の出番ではないだろうか。
村上氏の訳文をよく読めば、マーロウは、意を決して生け垣の隙間に飛び込んでおきながら、わざわざ「玄関の目隠しになっている角を曲がっ」たりしている。そんなに慌てた様子ではない。ましてや、ドアロッカーに手を伸ばすのだから、正式訪問のつもりである。生け垣を傷めてしまったり、自分のスーツに引っかき傷を作ったりする危険を冒すとも思えない。ハード・ボイルド小説の探偵といってもマーロウはそれほどのタフガイではない。あまり気負わないほうがいいのではないか。