marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『大いなる眠り』註解 第十三章(2)

《カーメンは声を上げて私の横を通り、ドアから駆けだした。坂を下る彼女の足音が急速に消えていった。車は見なかった。多分下の方に停めたのだろう。私は言いかけた。「一体全体どうなってるんだ――」
「放っておけよ」エディ・マーズはため息をついた。「ここは何か変だ。それが何なのか調べてみないとな。腹から弾丸を摘出されたかったら、邪魔してみるんだな」
「これは、これは」私は言った。「タフガイなんだ」
「必要な時だけさ。ソルジャー」彼は二度と私を見なかった。私のことなど気にせず、眉をひそめながら部屋中を歩き回った。私は正面玄関の壊れた窓枠越しに外を見た。植え込みの上に車の屋根が見えた。アイドリングしていた。
 エディ・マーズが机の上の紫色の大瓶と二個の金の縞模様のグラスを見つけた。彼は片方のグラスを嗅ぎ、それから大瓶の方を嗅いだ。彼はうんざりしたような笑みを浮かべ、唇に皺を寄せた。「薄汚い周旋屋」彼は感情を込めずに言った。
 彼は二冊の本を見て、唸り、机の周りをまわってカメラのついたトーテム・ポールの真ん前に立った。彼はそれを調べ、その前のフロアに視線を落とした。小振りの敷物を足で動かし、さっとかがんだ。体に緊張が走った。彼はそのまま灰色の膝を床につけた。机が彼の体の一部を隠していた。短い叫び声がした。彼は再び立ち上がった。彼の腕がさっとコートの下に入り、手には黒いルガーが現れた。彼は長い褐色の指でそれを掴んでいた。銃口は私の方にも、誰の方にも向いていなかった。
「血だ」彼は言った。床の上に血の跡がある。敷物の下だ。かなり大量の血だ」
「本当に?」 私は興味深げに言った。
 彼は机の後ろの椅子に滑り込み、マルベリー色の受話器を手前に引き寄せ、ルガーを左手に持ち替えた。彼は電話に向かって険しく眉をひそめ、灰色の厚い眉を互いに近づけた。そして鉤鼻の上の灼けた皮膚に深い皺を刻んだ。「警察に連絡したほうがよさそうだ」彼は言った。
 私はガイガーが横たわっていた場所に敷かれた敷物を検分し、それから蹴とばした。「これは古い血だ」私は言った。「乾いている」
「同じことだろう。警察を呼ばなければ」
「好きにすればいい」私は言った。
 彼の目が細められた。顔から虚飾が剥がれていた。ルガーを持った身なりの良いならず者だけが残った。彼は私が同意したのが気に入らなかったのだ。
「いったい、お前は何者なんだ。ソルジャー」
「名前はマーロウ。探偵だ」
「聞いてないな。娘は誰だ?」
依頼人。ガイガーは彼女を強請っていた。話をしに来たが、彼はいなかった。ドアが開いていたんで入って待っていた。それについてはもう話したか?」
「都合のいいことだ」彼は言った。「ドアが開いていた。お前が鍵を持っていないときに」
「そうだ。あんたはどうやって鍵を手に入れたんだ?」
「それがお前の稼業と何か関係あるのか。ソルジャー?」
「仕事にすることもできる」
 彼は硬い笑みを浮かべ、灰色の帽子を灰色の髪の後ろへ押しやった。「なら、俺もお前の仕事をおれの仕事にするかもな」
「それはないだろう。儲けが少なすぎる」
「慧眼だな。いいだろう。ここは俺の持ち家で、ガイガーは借り手だ。それで、お前はこれをどう見る?」
「あんたは、たいそういじらしい連中とお知り合いなんだな」
「来る者は拒まずさ。いろんな奴がやってくる」彼はルガーに目を落とし、肩をすくめて脇の下にしまい込んだ。「何か名案でもあるのか。ソルジャー」
「いくらでもある。誰かがガイガーを撃った。誰かがガイガーに撃たれた。あるいは他に二人仲間がいた。それとも、ガイガーはカルト教団を主宰していて、トーテム・ポールの前で生贄の血の儀式を行ったか。もしくは、晩餐用のチキンを居間で殺すのが好きだったとか」
 灰色の男は私をにらみつけた。
「お手上げだ」私は言った。「ダウンタウンからお仲間を呼んだ方がいい」
「どうも腑に落ちない」彼は言い返した。「お前がここで何をしていたのかが分からん」
「さあ、警察を呼んだらどうだ。これであんたにも一波乱ありそうだ」
彼は身じろぎせず、考えていた。唇が歯に押し当てられた。「分からんな。どちらも」彼は固い声で言った。》

「腹から弾丸を摘出されたかったら、邪魔してみるんだな」は<If you want to pick lead out of your belly, get in my way>。双葉氏「腹に弾丸を食らいたくなけりゃおれといっしょにやれよ」。村上氏「もし腹から鉛玉を取り出すのがお好みなら、俺に逆らうってのは良い方法だぜ」。弾丸の方向が逆になっているが、<pick lead out >なので、「鉛を取り出す」が正しい。もっとも取り出すためには、先に撃ち込む必要があるので、どちらも間違ってはいない。<get in my way>は「邪魔をする」の意味だから、「おれといっしょにやれよ」は、おとなしすぎるかも。簡単にいえば、「撃たれたくなかったら邪魔をするな」だ。チャンドラーの小説に出てくる強面連中は、持って回った言い方がお好きだ。

<soldier>を双葉氏は「あんちゃん」、村上氏は「兄さん」(にソルジャーのルビを振っている)。村上氏は二度目からは、「ソルジャー」を使用。「三下」とか「下っ端」とか、あてはまりそうな言葉はいくらでもあるが、任侠映画の臭いが染みついていて、カリフォルニアの乾いた空気になじまない。エディーマーズの口癖と考え、あえて訳さず、村上流に「ソルジャー」で通すことにした。

「それがお前の稼業と何か関係あるのか。ソルジャー?」は<Is that any of your business, soldier?>。<any of your business>は、「余計なお世話だ」と訳されることが多い決まり文句だ。双葉氏は「おまえさんの知ったこっちゃない」と、定番の訳だ。村上氏は「それはおたくに関係のないものごと(ビジネス)だろう、ソルジャー」と、わざわざルビを駆使して訳している。それには訳がある。

ここから二人の間で、<business>という単語を使った会話が繰り返される。<business>は、ビジネス、つまり職業や仕事のことだが、否定的に使われるときは「干渉(するな)、権利(はない)」などのように用いられる。当然、エディ・マーズは、その意味で言っている。マーロウは、それに対して<I could make it my business.>と返している。つまり、相手の使った常套句の<business>を、一般的な意味の「仕事」と、受け取ってみせるのだ。やりようによっては、これも仕事のうちだ、というような意味だろう。

だから、双葉氏のように定石どおりに訳してしまうと、あとの「仕事」(ビジネス)が唐突な感をあたえることになる。そこで、前もってエディ・マーズの言葉の中に、仕事をにおわせる言葉を入れておく必要がある。それが、村上氏のルビの工夫であり、拙訳の場合、「稼業」の一言の挿入である。例によって双葉氏は、このマーロウの台詞を丸ごとカットしている。それでいて、次のエディ・マーズの台詞は「だが、おまえさんの仕事をおれの仕事にしてやってもいいぜ」と、しゃあしゃあと訳している。

自分の頭の中では繋がっているのだろうが、訳としてはやはり、唐突の感があるのは免れない。村上氏は、マーロウに「それを私のビジネスにすることもできる」と、「ビジネス」を使ってつないでいる。エディ・マーズもマーロウの言葉をそのまま使って、<And, I could make your business my business.>「おたくのビジネスをうちのビジネスにすることもできる」と返している。これでこそ、言葉のキャッチボールが成立する。双葉氏の場合、ボールが途中で落ちてしまっているのだ。

「慧眼だな。いいだろう。ここは俺の持ち家で、ガイガーは借り手だ。それで、お前はこれをどう見る?」は<All right, bright eyes. I own this house. Geiger is my tenant. Now what do you think of that?>。双葉氏は「まァいい。おれはこの家の持ち主だ。ガイガーは借り手さ。どう思うね?」。村上氏は「まあいいだろう。この家の家主は私だ。ガイガーは私の借家人だ。それでいかがかな?」と訳している。双葉氏がカットするのは慣れているが、村上氏が<bright eyes>をカットした訳が分からない。まさか忘れたわけではないだろう。こういうちょっとしたところまで目を届かせるのが村上氏なのだが。

「彼はルガーに目を落とし、肩をすくめて脇の下にしまい込んだ」は<He glanced down at the Luger, shrugged and tucked it back under his arm.>。双葉氏は「彼はリューガーに目をやり、肩をすくめるとそれを肩の下へしまった」だ。「リューガー」がいい。あの独特の形状が目に浮かんでくるではないか。村上氏は「彼は手にしたルガーを見下ろした。肩をすくめ、それを脇のホルスターに戻した」だ。わざわざホルスターを付け加えているところがミソだ。後で出てくるのかもしれないが、ここではそこまで詳しく補説する必要があるとも思えない。

「さあ、警察を呼んだらどうだ。これであんたにも一波乱ありそうだ」は<Go ahead, call the buttons. You’ll get a big reaction from it.>。双葉氏は「さァ、ご遠慮なさらずポリ公を呼べよ。大事になるぜ」。村上氏は「さっさと警察を呼べばいいさ。君が一枚噛んでいるとなると、みんな色めきたつだろうね」。<buttons>は金ボタンが並んでいることから、ホテルのボーイやレストランの給仕を指す言葉。制服を着て、電話一本で駆けつける警官も給仕と同じということか。二つ目の文は、「あなたはこの一件で大きなリアクションを得るだろう」という意味だから、村上氏のような訳にもなる。マーロウがエディ・マーズにはったりを利かせているところだ。