marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『五月の雪』クセニヤ・メルニク

五月の雪 (新潮クレスト・ブックス)
作者の生まれたマガダンという町。ロシア北東部といっても、広大なロシア連邦のことだ。どこだろうと思って地図を開くと、意外に日本に近い。オホーツク海に面した港湾都市カムチャッカやアラスカという地名がよく出てくるはずだ。マガダンにはソ連時代に収容所があった。流されてきた文化人や芸術家が釈放後もそのまま居つくことがあって、地方都市ながら、極北の地ではあっても、文化的には恵まれていたのだろう。

医師となった祖母オルガ、父を捨てて地方の文化人であった男と出て行った母マリーナ、航空関係の仕事に就き、まずはアラスカへ移動、今はロサンジェルスで引退生活を送る父トーリク、有名なテノール歌手の支援者でもあった祖父、といった家族の一人一人を視点人物にして、作家自身と思しいソーニャの家族とそれを取り巻く友人、知人を含む一種のファミリー・ヒストリーを、短編連作小説風に仕立て上げたのが、『五月の雪』だ。

連作と書いたが、人物も時間も直接的につながっているわけではない。しかし、よく読んでゆくと、ああ、これはあの作品に出てきた彼女のことだな、と分かるように書かれていて、再読時には、あれやこれやがつながって完全なジグソー・パズルの絵柄が浮かび上がってくる仕掛けだ。

例えば、スキーの事故で骨折したトーリクが黒海沿岸の保養所に出かけたとき、出会ったのがマリーナ。回想視点で書かれた、この時の話が「皮下の骨折」(2012)にある。現時点で父と母は別居はしているがよりは戻っている。一方、上階に住むテノールの歌手のことを祖父が回想する「上階の住人」(1997)では、母は家を出、映画監督に部屋で同居中だ。父が何かとそれについて愚痴るのだが、相手の男は腐しても、母のことはまだ恋しいらしく、何やらおかしい。

時間の順序が前後しているので、初読時は人物相互の関係がよく分かっていない。全く関係のない別の短編のつもりで読んでいる。むしろ、そう読んでもらいたくて、この並び方にしたように思われる。というのも、作家の分身であるソーニャはまだ若く、物心ついた時にはアメリカに移住している。語るべき素材は、家族から伝え聞くロシア時代の暮らしがほとんどである。しかも、母方の祖母には祖母の、父方の祖父には祖父の別の暮らしがあり、語るべき事柄は無数にある。

外国文学を読む面白さの一つに、自分の国とは異なる自然や食物、料理といった日常生活の細かなあれやこれやにふれる喜びがある。近くて遠い国という言葉があるが、ロシアもその一つだろう。しかも、社会主義時代のソヴィエト連邦は「鉄のカーテン」が敷かれていて、暮らしはおろか、何も知ることができなかった。同じように中国からアメリカに渡ったイーユン・リー、あるいは、著者が影響を受けたジュンパ・ラヒリら移民としてアメリカに渡った作家の作品には、故国に対する割り切れない感情が滲む。

クセニヤ・メルニクには、リーに見られるほど政治的な問題意識は感じられない。収容所の存在も、どちらかといえば懐古的に語られる。それよりも問題は物不足の方だ。「イタリアの恋愛、バナナの行列」(1975)は、そのものずばり。モスクワの叔母を訪ねたターニャが、飛行機で乗り合わせたイタリアのサッカー選手に誘われたデートに出かける途中、見つけたバナナの行列に並び、時間に遅れてしまう。そのバナナも空港で見失うという、花より団子、虻蜂取らずの両主題をそつなくまとめた一篇。

一線を退いたダンス教師が、一人の若い生徒に才能を見出し、夢中になることで、失いかけていた若さや情熱を再び手にする姿を描く「ルンバ」(1996)も、ファミリー・ヒストリーの周縁に位置する物語。若い才能に入れあげた教師の思いが、思春期の娘の反抗心や好奇心に翻弄される滑稽さを描く、古典的といってもいいストーリーだが、ルンバのラテン的な情熱が、どちらかといえば沈滞し、陰鬱なロシアの極東地帯の田舎教師を一時的にせよ、奔騰させる。その娘アーシャの母が、ソーニャの父トーリクの親友トーリャンの初恋の人、というから、スピン・オフを見ているような気分だ。

ソーニャが主人公として活躍する唯一の作品が「夏の医学」(1993)。おばあちゃんのような医師になりたいという夢を持つソーニャは、ある夏のこと仮病を使って祖母のいる大病院に入院する。好奇心剥き出しの少女が、仮病のばれていることも知らずに、医師や看護師との間で繰り広げるやり取りが、何とも狂騒的で、なるほど作家になるような少女というのはこんなことを考えているものなのだな、と納得させられた。

余談だが、ロシア人は本当にボルシチが大好きなのだな、と改めて思った。何かというとボルシチが出てくるからだ。やはり、寒さゆえだろう。アメリカに来てもパーティとなると大鍋でボルシチを作る。まあ、アメリカといってもアラスカのフェアバンクスだから、ロシアと緯度は何ほども変わらないのだが。結婚してアメリカに移住した娘の家を訪れた母が娘夫婦に感じる違和感を描いた「クルチナ」(1998)は、移民として母国以外の国に暮らす娘を思う親心を描いて胸に迫るものがある。

親の願いでピアノの前に縛りつけられている少年の胸中を描く「絶対つかまらない復讐団」、医者でも直せない偏頭痛を直してもらうために魔女に家を訪ねる少女の思いをつづった「魔女」と、子どもの気持ちを描かせると俄然文章に生き生きしたものが宿るのは、著者が1983年生まれ、とまだ若いせいか。しかしながら、祖父母の世代、父母の世代の考え方や感情の揺れなど、巧みな筆使いで描き分ける力量も備えている。将来が楽しみな書き手の登場である。