marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『あなたはひとりぼっちじゃない』アダム・ヘイズリット

あなたはひとりぼっちじゃない 新潮クレストブックス
原題は<You Are Not a Stranger Here>。「異邦人」や「よそ者」を意味するストレンジャーよりも、「ここで」を意味する<here>が気になる。その「ここ」とはどこだろう。それは、この短篇集の中なのではないだろうか。ここには、現代アメリカやイギリスだけではない、世界のどこにあっても身の置き所のないマイノリティ、端的にいえば同性愛者や精神疾患を患う者がよそ者ではないと感じられる世界がある。

メリーランド州ボルチモア生まれの七十五歳の老人が遺書を書き終えた後、親類縁者の家に立ち寄りながら最愛の息子の住むカリフォルニアまで旅に出る。途中アリゾナに住む姪に借りたサーブを駆って大陸横断の旅だ。一見するといい話のようだが、とんでもない。工学博士号を有し、二十六もの特許を取得したこの老人、実は精神を病んでおり、国税庁の調査対象者であり、親類縁者の鼻つまみ者である。もちろん車も返す気など毛頭ない。

何しろ傲岸不遜。医者を敵視し、周りの人間は完全に自分よりばかだと見下している。だが、息子だけは愛している。当のグレアムもまた父を愛してはいる。ただ、四年ぶりに再会した父の奇行には手を焼く。ドン・ペリをダースで注文したり、一泊六百八十ドルもするスイートに宿泊したりと、やることがぶっ飛んでいる。しかもその間、新しいアイデアについて声高に語り、グレアムに「ゲイであることはどんなものなんだね?」と質問したりする。

話者は完全にこの躁状態の人物の中にいて事態を物語るから、ドライブのかかった文章が猛スピードで駆け抜け、じっくり落ち着いて考える暇がない。そう。読者の立場は息子の立場と同じなのだ。父と暮らしたかったのに置き去りにされた。やっとのことで自分の思いを打ち明けた息子は泣きながら寝入ってしまう。実は息子も精神を病んでいて、自殺の恐怖に怯えている。息子の寝顔にやっと父親らしい感情を見せるラストが切ない。

狂騒的なユーモアが炸裂する巻頭の「私の伝記作家へ」、やはり精神を病んだ青年のインタビューを書き起こした「父の務め」、殴られても蹴られても相手を振り向かせるために向かってゆく被虐的なゲイの少年の破れかぶれの愛をハードにつづった「悲しみの始まり」をはじめ、いずれも尋常でない世界に生きる人々の日常を描き出す。その中で、姉弟の過ごす初夏の一日を慈愛の眼差しで見守る「献身的な愛」は澄明な光に溢れた愛すべき佳篇。

ロンドンの法律事務所に勤めるオーウェンは、早くに両親に死なれ、自分を守るために五十歳半ばまで独身を通してきた姉を愛している。ヒラリーもまた、母親の首吊り死体を見せないように弟を抱き寄せて以来ずっと愛してきた。二人の間にベンが現れるまでは。アメリカの新聞社に勤めるベンは取材を通じて出会ったオーウェンと親しくなり、姉弟の家やウィンダミア湖の別荘を訪ねるようになる。

ベンもまた早くに親を亡くしており、男と暮らした経験もあるバイだった。今は妻子とアメリカに暮らしているが、かつての日々オーウェンはベンを愛していた。ベンから姉に書かれた求愛の手紙を隠したのも嫉妬からだ。そのベンから会議で渡英したので、二人の家を訪ねたいと連絡があり、六月の日曜日、ヒラリーは朝から料理に飾りつけに忙しい。オーウェンはそんな姉にいつ真実を打ち明けようか、と悩んでいた。

隣人の不意の訪問の途中、ベンから電話がかかってくる。会議が長引き、訪問できなくなったという。オーウェンがとり、姉に渡す。すっかり日の落ちた庭に出て、二人で夕食を取った後、後片づけをする弟を一人残し、姉は部屋にこもる。静かな嗚咽が漏れてくる。姉の泣き声を聞きながら、オーウェンはベンからの手紙の束を姉に渡すことを決める。

姉を案じて田舎で暮らす弟。その気持ちを嬉しく思いながらも、妻子ある男を愛していることを隠そうともしない姉。二人の互いを思いやる気持ちがイギリスの田舎の庭に咲く花々や、樹々を通してくる光の中にやさしく差し出される。姉は弟が手紙を隠していたことに早くから気づいていた。姉を愛するあまり、ゲイとして気ままな独身生活を送ることのできるロンドンを諦めた弟の気持ちを思うと、怒りはすぐに消えた。

自身がゲイでもある作家はゲイであることの生きづらさを真摯に語る。エイズによる死が登場したばかりのイギリスにあって、ゲイであることの恐怖と、しかし、おのれの性向を如何ともしがたいオーウェンの気持ちが痛いほど伝わってくる。エイズは怖ろしい。しかし、むしろ作家は、弟の生き方を批判も非難もせず、やさしく見守る姉と弟の静かな生活を語る。このまま二人で静かに年老いていく。その諦念に満ちた日の送り方を見つめる作家の目の何と老成していることか。

他に、患者の語る話に圧倒され為す術もない精神科医の無力感を描く「名医」。鬱の自分が妻のためにならないと自殺を考える男が、死を間近にした少年に王の話を語ることで生きる意味を見出してゆく「戦いの終わり」。兄の死の夢に怯える少年を描く「予兆」。エイズを発症し、近づく死を前にしてプラグを抜くように生きる痕跡を消してゆく男の日々を描く「再会」。初体験に臨む少年と自分の中に棲みついた亡霊と闘う老女の心の交流を描く「ヴォランティア」の全九篇。故知らず平凡な人生から外れた人々の、世に棲む日々を静かな筆致で刻みつけるように書いた短篇集である。