marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

“mourning dove”は、ただの「鳩」ではなく「ナゲキバト」

19

【訳文】

噛みしだかれてちぎれた紐みたいに寸足らずな気分で車を走らせ、ハリウッドに戻った。食事をするには早すぎたし暑すぎた。オフィスの扇風機をつけた。それで涼しくはならなかったが、空気が少し爽やかに感じられるようになった。外の大通りでは車の騒音が鳴りやまなかった。頭の中では蠅取り紙の上の蠅のように様々な思いがくっつきあっていた。

三発撃って、三発はずれ。私がしていたのは、やたらと医者に会うことだけだ。

ウェイドの家に電話した。メキシコ訛りの声が、ミセス・ウェイドは家にいないと答えた。ミスタ・ウェイドはいるかと訊いた。ミスタ・ウェイドも同じように留守だという。私は名前を告げた。それで通じたようだ。自分はハウスボーイだと彼は言った。

カーン協会のジョージ・ピーターズに電話した。他にも医者を知っているかもしれない。留守だった。私は適当な名前と正しい電話番号を伝えた。一 時間が病気のゴキブリのようにのろのろと過ぎていった。私は忘却の砂漠に横たわる砂粒だった。弾丸を撃ちつくしたばかりの二挺拳銃のカウボーイだった。三発撃って三発はずれ。二度あることは三度、というのが嫌いだ。ミスタ・A を訪ねる。成果なし。ミスタ・B を訪ねる。成果なし。ミスタ・C を訪ねる。同じく。一 週間後、ミスタ・Dを訪ねるべきだったとわかる。そんなやつのいることすら知らず、知ったときには、依頼人の気が変わり、調査は打ち切りとなる。

ドクター・ヴカニックとヴァーリーの二人はリストから外れた。ヴァーリーはアル中患者に手を出すほど金に不自由してない。ヴカニックは自分の診察室で静脈注射を打つようなちんぴらだ。助手は知っているはずだ。少なくとも患者の何人かは知っているにちがいない。何かで腹を立てた男が電話の一本もすれば一巻の終わりだ。酔っていようと素面であろうと、ウェイドは近づかなかっただろう。彼は世界一聡明な男ではないかもしれない――-成功者の多くは天才とはほど遠い――が、ヴカニックに関わるほど馬鹿ではない。

可能性があるのはドクター・ヴァリンジャーだけだ。彼は人里離れたところに施設を持っている。辛抱強さもありそうだった。しかし、セパルヴェダ・キャニオンはアイドル・ヴァレーから遠く離れている。二人の接点がどこにあったのか、どうやって知り合ったのか、ヴァリンジャーが土地の所有者で、もう買い手が決まっているのなら、まもなく大金を手にするはず。そこで一つ思いついた。土地の状況を調べるために、登記調査会社にいる知り合いに電話した。誰も出なかった。会社はその日の業務を終えていた。

そこで、私も店仕舞いすることにして、ラ・シエナガのルディーズ・バーベキューまで車を走らせた。給仕長に名前を告げ、眼の前にウィスキーサワーを置き、マレク・ウェーバーのワルツに耳を傾けながら、バー・ストゥールの上で大事な瞬間を待った。しばらくしてヴェルベットのロープをくぐり抜けて中に入り、ルディーの「世界的に有名な」ソールズベリーステーキを食べた。これは、焦げた板の上にハンバーグを載せて、周りに焼き色のついたマッシュポテトを添えたもので、フライドオニオン・リングとミックス・サラダが添えられていた。このサラダ、男性がレストランではまったく従順に食べるが、家で妻が食べさせようとしたら叫び出すであろう類の代物だ。

その後、私は車で家に帰った。玄関のドアを開けると、電話が鳴り出した。

「アイリーン・ウェイドです、ミスタ・マーロウ。何か御用でしたか」

「そちらに何か進捗があったか知りたかっただけです。こちらは一日中医者と会っていて、結局誰とも親しくなれず仕舞いです」

「そうですか、残念です。彼はまだ戻りません。もう気が気じゃなくて。それでは、あなたの方も何も進展はなかったということね」彼女の声は低く、元気がなかった。

「ここは人でごった返している郡(カウンティ)ですよ、ミセス・ウェイド」

 「今夜で丸 四 日になります」

 「ええ、でもそんなに長くはない」 

「私には長い」 彼女はしばらく黙っていた。「ずっと考えていたの、何か思い出せないかと」彼女は続けた。「何かあるはず。手がかりになるヒントなり記憶なりが。ロジャーは、いろんなことをそれはたくさん話すんです」

「ヴァリンジャーという名前に何か心当たりはありませんか、ミセス・ウェイド?」

「いいえ、残念ながら。私の知ってる人?」

「以前、ミスタ・ウェイドが、カウボーイ姿の背の高い若い男に連れられて帰宅した、とおっしゃいましたね。その背の高い男をもう一度見たら分かりますか?」

「分かるかもしれない」彼女はためらいがちに言った。「条件が同じなら。でもちらっと見ただけです。彼の名前がヴァリンジャーなの?」

「いや、ミセス・ウェイド。ヴァリンジャーはがっしりとした体格の中年男で、セパルヴェダ・キャニオンで滞在型牧場のようなものを経営している、正確に言うと、経営していた。そこにアールという着飾るのが大好きな若いのが働いている。そして、ヴァリンジャーはドクターを自称している」

「素晴らしい」と彼女は温かく言った。「正しい方向に向かっているという気がしないの?」

「全くの見当はずれかもしれません。何か分かったら電話します。ロジャーが家に帰ってきてないか、あなたが何かはっきりしたことを思い出していないかを確かめたかっただけなので」

「あまりお役に立てなかったようで申し訳ありません」と彼女は悲しそうに言った。「どんなに遅くなっても、いつでも電話してください」

そうすると言って電話を切った。今回は銃と電池三本入りの懐中電灯を携行した。銃はタフで小さな短銃身の三二口径。装弾はフラットポイント。ドクター・ヴァリンジャーのところのアールは、ブラスナックルの他にも玩具を持っているかもしれない。持っていたらそれで遊びかねない程度の間抜けだ。

再び高速道路に出て、全速力で車を走らせた。月のない夜で、屋敷の入り口に着く頃には暗くなっていた。暗闇こそが私が必要とするものだった。

門はチェーンと南京錠で施錠されたままだった。その前を通り過ぎ、ハイウェイからかなり離れた場所に車を停めた。木陰にはまだ光が残っていたが、長くは続かないだろう。私はゲートをよじ登り、丘の中腹までハイキング用の小径を探しに行った。谷のはるか奥で鶉の鳴き声が聞こえた気がした。一羽のナゲキバトが人生の悲惨さを訴えていた。ハイキング用の小径はなかった。あるいは見つけることができなかったのかもしれない。仕方がないので道路に戻り、砂利道の端を歩いた。ユーカリの木がオークに取って代わられ、尾根を越えると、遠くにちらほら明かりが見えた。プールとテニスコートの裏手、道の端にある本館を見下ろせる場所まで四十五分かかった。本館はライトアップされ、そこから音楽が聞こえてきた。さらにその奥の木立の中にも、明かりが灯った小屋があった。木々のあちこちに小さな暗い小屋が点在していた。小径を進んでいくと、突然、本館の裏手で投光器が点灯した。私は思わず凍りついた。投光器は何かを探しているわけではなかった。まっすぐ下を向き、裏のポーチとその向こうの地面に広い光だまりを作った。するとドアが音立てて開き、アールが出てきた。それで自分がうってつけの場所にいることを知った。

今宵のアールはカウボーイだった。ロジャー・ウェイドを家に連れ帰ったのもカウボーイだった。アールはロープをくるくる回していた。白のステッチが入った黒っぽいシャツを着て、水玉模様のスカーフをゆるく首に巻いていた。銀の飾りがたっぷりついた幅広の革のベルトに型押しされた一対の革のホルスターをつけ、その中には象牙のグリップの拳銃が二挺収まっていた。エレガントな乗馬ズボンを履き、白のクロスステッチが施されたブーツは新品のように輝いていた。頭の後ろには白いソンブレロ、シャツの下には銀で編まれた紐のようなものが結ばれることなく、だらんと垂れ下がっていた。

彼は白い投光照明の下にひとり佇み、からだの周りにロープをくるくる回しながら、ロープの輪の中を出たり入ったりしていた。観客のいない役者、背が高く、細身で、ハンサムなめかし込んだ牧童が、たったひとりでショーを披露し、その一分一秒を楽しんでいた。二挺拳銃のアール、コチース郡の恐怖。電話番の女の子までが乗馬ブーツを履いて出勤するような、とんでもなく馬好きな連中が集まるそんな観光牧場が彼には似つかわしかった。

突然、彼は何かの音を聞いた、あるいは聞いたふりをした。ロープが地に落ち、両手はホルスターから二挺の銃を引き抜き、水平に構えたときには鈎状に曲げた親指が撃鉄の上にあった。彼は暗闇を覗き込んだ。私は動く勇気がなかった。銃に弾丸が込められているかもしれない。しかし、投光器の光で目がくらみ、何も見えなかったはず。彼は銃をホルスターに戻し、ロープを大雑把に掻き集め、家の中に戻った。照明が落ち、それを潮に私も席を立った。

樹々の間を縫って、丘の斜面に建つ小さな明かりのともる小屋に近づいた。そこからは何の音も聞こえなかった。私は網戸のはまった窓にたどり着き、中を覗いた。明かりはベッド脇のナイトテーブルの上のスタンドのものだった。男はベッドに仰向けにしどけなく横たわり、パジャマ姿の両腕を布団の外に出し、大きく見開いた眼で天井を見つめていた。大柄な男だ。顔の一部は影になっていたが、顔色が悪く、髭を剃る必要があることが見て取れた。髭の伸び具合を見る限り、計算が合う。両手の指は開いたままベッドの外でぴくりとも動かなかった。まるで何時間もそうしているように見えた。

小屋の向こう側の小径を歩いてくる足音が聞こえた。網戸がきしみ、ドクター・ヴァリンジャーが姿を現した。トマトジュースらしきものが入った大きなグラスを持っていた。彼はフロアランプのスイッチを入れた。アロハシャツが黄色く光った。ベッドの男は彼を見ようともしなかった。

ドクター・ヴァリンジャーはグラスをナイトテーブルに置き、椅子を引いて座った。片方の手首に手を伸ばし、脈を取った。「ご気分はいかがですか、ミスタ・ウェイド?」彼の声は優しく、気遣いが窺われた。

ベッドの男は返事もせず顔を見もしなかった。ずっと天井を見つめていた。

「さあ、さあ、ミスタ・ウェイド。機嫌を直して。脈拍がいつもより少し速いだけです。弱っているようですが、それ以外は――」

「テジー」とベッドの上の男が突然言った。「具合がわかっているなら、わざわざ尋ねる必要はない、とこのクソ野郎に言ってやれ」声は明瞭だったが、口調は辛辣だった。

「テジーというのは誰のことかな?」ドクター・ヴァリンジャーは辛抱強く言った。

「私の広報係だ。あそこの隅にいる」

ドクター・ヴァリンジャーは上を見上げた。「小さなクモがいる」彼は言った。「芝居はやめるんだ。ミスタ・ウェイド。そんな真似は必要はない」

「テジェナリア・ドメスティカ、普通のハエトリグモだよ。クモは好きだ。アロハシャツなど着ないからな」

ドクター・ヴァリンジャーは唇を湿らせた。「私にはふざけてる暇などない、ミスタ・ウェイド」

「テジーにおふざけは通じない」 ウェイドは重いものでも動かすかのように頭をゆっくりと回し、ドクター・ヴァリンジャーを軽蔑の眼差しで見つめた。「テジーは真剣そのものだ。そっと忍び寄ってくる。あんたがよそ見をしているとき、音もなくひょいと跳ぶ。しばらくすると、すぐ傍に来ている。そして最後のジャンプをする。あんたは吸い尽くされるんだ、ドクター。テジーはあんたを食べはしない。ただ汁を吸い、皮膚だけが残る。そのシャツを着続けるつもりなら、ドクター、遠からずそういう目に遭うことになる」

ドクター・ヴァリンジャーは椅子の背に凭れかかった。「五千ドル要るんだ」彼は穏やかに言った。「いつになったら調達できる?」

「六百五十ドル払ったはずだ」ウェイドは意地悪く言った。「手持ちの小銭も。この売春宿では一体いくらかかるんだ?」

「はした金だ」ドクター・ヴァリンジャーは言った。「料金は上がったと言ったはずだ」

「ウィルソン天文台まで跳ね上がったとは聞いていない」

「はぐらかすんじゃない、ウェイド」とドクター・ヴァリンジャーは素っ気なく言った。「きみはそんな横柄な態度に出られる立場じゃない。それに、きみは私の信頼を裏切った」

「そんなものがあんたにあったとは知らなかった」

ドクター・ヴァリンジャーは椅子の肘掛をゆっくりと叩きながら「きみは真夜中に電話してきた」彼は言った。「絶望的な状態だった。私が来なければ自殺すると言った。私は気が進まなかった。知っての通り、私はこの州で医師免許を持っていない。元も子もなくす前に私はここを処分しようと考えている。アールの面倒も見なければならないし、あの子にはそろそろ悪い兆候が現れてきている。大金がかかると言ったはずだ。それでもどうしてもと言うから、私は行ったんだ。五千ドル欲しい」

「私はひどく酔っぱらっていた」ウェイドは言った。「そんな状態で交わした約束で人を縛ろうとしても無理だ。金ならもう充分払った」

「それに」ドクター・ヴァリンジャーはゆっくりと言った。「きみは奥さんに私の名前を言った。私がきみを迎えに来ると」

ウェイドは驚いたようだった。「そんなことはしていない」彼は言った。「彼女とは顔を合わせてもいない。彼女は眠っていた」

「なら、別のときだろう。私立探偵がきみのことを訊きに来ている。誰かに教えられない限り、ここを探し当てられるはずがないんだ。追い払いはしたが、またやって来るかもしれない。きみは家に帰るべきだ、ミスタ・ウェイド。しかし、まずは五千ドル払ってもらおう」

「あんたは世界一賢い男でもないようだな、ドク? もし私の居場所を妻が知っていたら、なぜ彼女は探偵を雇う? 自分で来たらいいじゃないか。それほどおれのことを気にかけているならな。キャンディを連れて来たらいい。うちのハウスボーイでね。キャンディなら、あんたの秘蔵っ子を千切りにしてしまうだろうよ。あんたの秘蔵っ子が、今日の主演映画はどれにしよう、と思案している間に」

「ずいぶん下卑た口をきくじゃないか、ウェイド。それに心も下卑ている」

「下卑た五千ドルも持ってるぜ、ドク。とってみたらどうだ」

「小切手を書くんだ」ドクター・ヴァリンジャーはきっぱり言った。「今すぐ。それから服を着ろ、アールに家まで送らせる」

「小切手?」ウェイドは吹き出しそうになった。「いいだろう、小切手を渡すよ。上等だ。で、どうやって換金するんだ?」

ドクター・ヴァリンジャーは静かに微笑んだ。「支払いを止めるつもりだろう、ミスタ・ウェイド。しかしきみはそうしない。断言してもいい、そうはしない」

「このでぶの悪党め」ウェイドは怒鳴った。

ドクター・ヴァリンジャーはかぶりを振った。「ある点ではそうだが、それがすべてではない。私の中にはいろいろな性格が混在している。ほとんどの人と同じようにね。アールが家まで送ってくれるだろう」

「いやだね、あいつを見るとおぞ毛が立つ」

ドクター・ヴァリンジャーはそっと立ち上がり、ベッドの上の男の肩に手を伸ばして軽く叩いた。「私にとってアールは全く無害だ、ミスタ・ウェイド。私は彼の扱い方を心得ている」

「ひとつ挙げてみてくれ」と新たな声が聞こえ、ロイ・ロジャースの衣装で決めたアールがドアから入ってきた。ドクター・ヴァリンジャーは笑顔で振り返った。

「そのキ印をどこかへやってくれ」とウェイドは叫んだ。はじめて恐怖をあらわにした。

アールは装飾が施されたベルトに手をかけた。彼の顔は無表情だった。歯と歯の間から軽い口笛のような音がした。彼はゆっくりと部屋に入った。

「それは禁句だ」とドクター・ヴァリンジャーは慌てて言い、アールの方を向いた。「いいんだ、アール。ミスタ・ウェイドは私に任せておけ。着替えは私が手伝う。車を回してきてくれ、できるだけ小屋の近くまで。ミスタ・ウェイドはかなり弱っている」

「これからもっと弱るだろうな」アールは口笛みたいな声で言った。「どけよ、でぶ」

「ほら、アール」彼は手を伸ばし、ハンサムな若者の腕をつかんだ。「カマリロには戻りたくないだろう? 私がひとこと言えば...」

そこまでだった。アールは腕を振りほどき、右手を振り上げた。ブラスナックルが一閃し、装甲された拳がドクター・ヴァリンジャーの顎を一撃した。彼は心臓を撃ち抜かれたかのように倒れた。その衝撃で小屋が震えた。私は走り出した。

ドアに手を伸ばし、勢いよく開けた。アールはくるりと振り返り、少し身を乗り出して、こちらを見たが、私だとは気づかなかったようだ。唇から泡立つような音がした。私に向かって足を速めた。

私は銃を引き抜いてかざした。何の意味もなかった。彼の銃には弾が入っていなかったのか、あるいは銃のことなぞ忘れていたのか。ブラスナックルさえあれば事足りるというわけか。どんどん近づいてきた。

私はベッドの向こうの開いた窓に向けて撃った。狭い部屋で聞く銃声は、思いのほか大きかった。アールの動きが止まった。頭を巡らし、窓の網戸の穴を見た。そして私の方を振り返った。ゆっくりと顔に生気が戻り、にやりと笑った。

「何があった?」彼は明るく訊いた。

「ナックルを捨てろ」私は彼の眼を見ながら言った。

彼は驚いて自分の手を見下ろした。彼はその手にあったものをそっと外し、何気なく隅に投げた。

「次はガンベルトだ」私は言った。「銃には触れるな、バックルだけだ」

「弾は入っていない」空は微笑みながら言った。「銃ですらない、ただの小道具だ」

「ベルトだ。急げ」

彼は短銃身の三二口径を見た。「それ、本物? そうにちがいない。網戸が。そうだよ。網戸が」

ベッドの男はもうベッドの上にはいなかった。アールの後ろにいた。彼は素早く手を伸ばし、輝く銃を一挺抜いた。アールはそれが気に入らなかった。彼の顔にはそれが表れていた。

「手を出すな」私は怒って言った。「元に戻すんだ」

「こいつの言った通りだ」ウェイドは言った。「これは玩具だ」彼は後退りしてきらきら光る銃をテーブルの上に置いた。「くそっ、からだにまるで力が入らない」

「ベルトを外せ」私は三度(みたび)言った。アールのようなタイプと何かを始めたら、最後までやり遂げなければならない。シンプルに、そして考えを変えないように。

彼はようやく言われた通りにした。それもきわめて友好的に。それからベルトを持ってテーブルまで歩いていき、もう 一挺の銃を取り出してホルスターに収め、すぐにベルトを締め直した。私はしたいようにさせておいた。そのときになって初めて、彼はドクター・ヴァリンジャーが壁に凭れるようにして床に倒れているのに気づいた。彼は心配そうな声をあげ、急いで部屋の反対側のトイレに行き、ガラスの水差しを持って戻ってきた。彼はドクター・ヴァリンジャーの頭に水をかけた。ドクター・ヴァリンジャーは咳き込むようにぶつぶつ言いながら身をよじり腹ばいになった。それからうめき声をあげ、顎に手を当て、起き上がろうとした。アールが手を貸した。

「ごめんよ、ドク。相手が誰か分からず、キレちまったみたいだ」

「もういい、骨は折れていない」とヴァリンジャーは言い、彼を振り払った。「車をまわしてくれ、アール。下の南京錠の鍵も忘れずに」

「車だね、すぐとってくる。南京錠の鍵。わかった。すぐやるよ、ドク」

彼は口笛を吹きながら部屋を出て行った。

ウェイドはベッドの端に座っていた。震えているようだ「あんた、あいつの言っていた探偵か?」と訊いてきた。「どうやって見つけた?」

「聞いて回っただけだ。この手のことに詳しい連中に」と私は言った。「家に帰りたいなら、服を着たほうがいい」

ドクター・ヴァリンジャーは壁にもたれながら顎をさすっていた。「手伝うよ」彼はしゃがれ声で言った。「人助けをしては、泣きを見ている」

「よく分かる、その気持ち」と私は言った。

私は外に出た。あとはふたりに任せた。

【解説】

第19章では、ついにマーロウがウェイドを見つけ出す。その冒頭に有名な直喩が出てくる。

I drove back to Hollywood feeling like a short length of chewed string.(噛みしだかれてちぎれた紐みたいに寸足らずな気分で車を走らせ、ハリウッドに戻った)

“a short length of chewed string”は、直訳すれば「噛みしだかれた短い紐」のことだ。アメリカ小説における比喩を論じた本の中に、チャンドラーのこの文がよく出てくる。有名な比喩らしい。「くちゃくちゃに嚙んで繊維がもろくなって切れてしまった紐のような気分」というのがどんなものなのか正確に説明できる者はいないだろうが、何となくその気分は分かるような気がする。

他動詞“chew”は「(〜を)かむ」ことだが、形容詞“chewed”には「打ちのめされた、疲れた(米俗)」という意味がある。“(be) chewed (out)”だと「(人)にかみつかれる(非難される)(米俗)」の意味になる。また“string”には「紐、糸」の他に「(引き続いて起きる)一連の出来事」という意味がある。一日のうちに三人の医者を慌ただしく訪問し、三人ともに罵倒され、結局徒労に終わった。さすがに労多くして益少なしといった気分を“feeling like a short length of chewed string”と喩えたのではないか。

因みに清水訳は「私は車を走らせて、ハリウッドへもどった」と比喩のところをトバしている。せっかくの凝った比喩が勿体ない。村上訳は「くたびれ果てた身体で」と比喩はなし。田口訳は「すり切れたひもみたいにくたびれて」と原文を活かした直喩だ。市川訳は「気分はまるで猫に散々噛まれて短くなった猫じゃらしの紐のようだった」だ。「猫じゃらしの紐」というのは面白いが、これではマーロウの気分を何に喩えているのかよくわからない。

I turned on the fan in my office. It didn't make the air any cooler, just a little more lively.

暑いので扇風機をつけたが、空気が涼しくなったわけではなく、少し“lively”になっただけだったという部分。清水訳は「ただ動いただけだった」。村上訳は「空気が多少かきまわされただけだった」。市川訳は「だが動くものがあることだけでも少しはましだ」と、チャンドラー一流の皮肉な言い回しにつられた感がある。“lively”には「(空気・風などが)さわやかな、すがすがしい」という意味がある。田口訳では「空気がさわやかに感じられるようにはなった」と肯定的に訳されている。外の通りでは車の騒音が止まらないが、マーロウは考え事に集中している。オフィス内は外より快適なようだ。これでいいのでは。

アイリーン・ウェイドから電話があり、進捗のないことを告げる。ウェイドは戻っておらず彼女も元気がない。マーロウが慰めるように言う台詞。

"It's a big crowded county, Mrs. Wade."(ここは人でごった返している郡(カウンティ)ですよ、ミセス・ウェイド)

田口訳は「アメリカは広くて人口の多い国ですからね(後略)となっている。“county”を“country”と読み違えたのだろうか? 清水訳では「郡はひろいし、人間も大勢いるんですよ、奥さん」と正しく訳されていた。村上訳で「広くて人口の多い土地なのです(略)」と曖昧にされたことが誤読を招いたのだろうか。市川訳は「そう気落ちしないで。探す範囲はえらく広く、人はやたらと多い。奧さん」となっている。なぜ“county”をぼかすのだろう。“county”は“state”(州)の下位の行政区画のことで、アラスカ、ルイジアナ以外の州では“county”が用いられている。

ドクター・ヴァリンジャーの牧場でカウボーイ姿の背の高い男を見たというマーロウに、アイリーンは喜びの声を上げる。「正しい方向に向かっているという気がしないの?」と訊くアイリーンにマーロウが答えるのが、

"I could be wetter than a drowned kitten."(全くの見当はずれかもしれません)

直訳すれば「溺れさせられた仔猫よりもっとぐっしょり濡れているかもしれない」だ。”drown a kitten”(仔猫を溺れさせる)というのは「悪い結果を予期して、議論や討論を止めること」をいうスラング。ヴァリンジャーを追及することは、ひょっとしたら墓穴を掘る結果になるかもしれない。それは予測可能である。つまりすでに、この計画は中止するべきだ。そのうえで、追及をやめないのは「溺れさせられる仔猫」よりもっとずぶ濡れ(より悪い)ことになるかもしれない、とマーロウは考えている。

清水訳は「まだわからんのです」。村上訳は「まったくの見込み違いだったということになるかもしれません」。田口訳は「いや、まったくの空振りということもありうる」。市川訳は「そう言われるともう一度調べる気になってきました。でも無駄に折った骨をまた折ることになりそうです」。やはり、「溺れさせられる仔猫」という言葉はうまく訳せないということなのだろうか。

夜闇の中をヴァリンジャーの牧場に向かうマーロウの耳に鳥の鳴き声が聞こえてくる。

Far back in the valley I thought I heard a quail. A mourning dove exclaimed against the miseries of life.(谷のはるか奥で鶉の鳴き声が聞こえた気がした。一羽のナゲキバトが人生の悲惨さを訴えていた)

この“mourning dove”だが、ただの「鳩」ではなく、悲しげな鳴き声で知られる米国の野生の鳩「ナゲキバト」のことだ。ところが、これまでの訳ではただの「鳩」になっている。視覚のきかない闇の中で情景描写をしようと思えば音やその他の感覚を用いるほかない。ナイチンゲールはじめ小説によく登場する鳥には鳴き声にそれぞれ特徴がある。ところが、市川訳ではその前の“quail”(ウズラ)までが「ツグミ」と誤訳されている。名詞“quail”は「ウズラ」だが、動詞の“quail”には「おじけづく、ひるむ、気後れする」等の意味がある。深読みかも知れないが「嘆き、死への哀悼」の意味を持つ“mourning”と重ねることで、勝算のない賭けに出ている私立探偵の寄る辺ない思いが伝わってくるようだ。