《しばらくして私は言った。「重さに気をつけてくれよ。そいつは半トンまでしか試してないんだ。その代物、どこに運ぶんだ?」
「ブロディ。405号室だ」彼はうなった。「あんた管理人か?」
「そうだ。戦利品の山みたいだな」
彼は白目がちの薄青い眼で私をにらみつけた。「本だ」彼はうなるように言った。「一箱百ポンド。心配には及ばんよ。俺は七十五ポンド余分に背負ってるが」
「いいだろう。重さには気をつけてくれよ」私は言った。
彼は六個の箱と一緒にエレベーターの中に入って扉を閉めた。私は階段を上り、ロビーに引き返して通りに出ると、待たせていたタクシーでダウンタウンにある私のオフィスに帰った。私は新顔の青年に余分に金を渡した。彼は使いこんだ名刺をくれた。私は今回に限り、エレベーターの横にある砂の入ったマヨルカ焼の壺の中に捨てなかった。
私は裏通りに面した七階に広すぎる部屋を持っていた。その半分をオフィスにし、二つに仕切ることで応接室を設えたのだ。他に何も書かず名前だけ掲げた。名前があるのは応接室だけだ。鍵はいつもかかっていない。依頼人が来たときのためだ。依頼人が座って待とうと思ったときのために。
依頼人が一人待っていた。》
「白目勝ちの薄青い眼で」は<pale white-rimmed eyes>。双葉氏はずばり「三白眼みたいな目で」と書いている。村上氏は「縁が白くなった淡青色の目で」と訳している。白目に対して虹彩部分が比較的小さいのだろう。村上氏の訳では虹彩部分の縁が白くなっているように読める。
「一箱百ポンド。心配には及ばんよ。俺は七十五ポンド余分に背負ってるが」は<A hundred pounds a box, easy, and me with a seventy-five pound back.>。これを双葉氏は「一箱百ポンド、おれが乗っても、七十五ポンド余る。安心しな」と訳している。100ポンドが約45キログラムとして、六箱で270キログラム。75ポンドを34キログラムとすると、304キログラムだ。500-304=196。マーロウの体重が86キログラムである。男の体重が二百キロ弱というのはあり得ない。
村上氏は「一箱当たり五十キロ弱だから、問題ないさ。俺はそこに三十五キロばかり肉が余分についているが」だ。今回ばかりはキログラム換算してくれている村上訳がありがたい。トンというキログラム単位とポンドがごっちゃに出てくるとお手上げだ。<back>の訳し方で、こうも訳がちがってくるという見本。村上訳なら男の体重は85キログラムで、ほぼマーロウと同じだ。
「彼は使いこんだ名刺をくれた」は<he gave me a dog-eared business card>。双葉氏は何故か<dog-eared>を飛ばして、「彼は商売用の名刺をくれた」と訳している。村上氏は「彼は角の折れた名刺をくれた」と訳している。業務用にポケットに突っこんでいるので端が折れてしまっているのだ。そんなもの、いつもは捨ててしまうのだが、今回は共に苦労したので、すぐに捨てるには忍びなかったのだろう。マーロウのこういうところが好きだ。
「私は裏通りに面した七階に広すぎる部屋を持っていた」は<I had a room and a half on the seventh floor at the back.>。双葉氏は「私は七階の裏側に一部屋半の事務所を持っていた」。村上氏は「そのビルの七階の、通りに面していない側に、私は一部屋半のオフィスを構えていた」。私は、この「一部屋半」が気になって仕方がなかった。双葉氏の続きを読んでみよう。「半というのは、一部屋を半分に仕切って応接室にしてあるからだ」。村上氏も同じく「半分というのは、待合室として使えるように、一つのオフィスを真ん中から二つに区切ったものだ」と説明している。
原文は<The half-room was an office split in two to make reception rooms.>だ。直訳すれば、「半分の部屋(という訳)は、オフィスを応接室を作るために二つに割った(からだ)」だ。半分の部屋を二つ合わせても、元の一部屋で、一部屋半ということの説明にはならない。では、両氏ともなぜ「一部屋半」などという半可通な広さを持ち出したのか?もちろん、問題になるのは<room>の後に< and a half >がくっついているからだ。
実はこの< and a half >だが、<and> の前に<a> つきの名詞が来ると「 大きな、 すばらしい」の意味になる。例えば、<a car and a half>「( 大きな、すばらしい)車」というように「称賛」の意味が加わるのだ。また、逆にけなして「多すぎて、非常に大量の、超がつくほど.の」という意味にもなる。
原文をよく見てみよう。ちゃんと<a room and a half >と書いてある。まさか、例文を「一台半の車」と訳す翻訳家はいまい。でもいたんですねえ。なんと二人も。おそらく村上氏は双葉氏の訳に引きずられたんだろう。私の場合、まずは辞書を頼りに自力で訳すことにしている。それでも無理なときはお二人の訳を参考に見るようにしている。今回は、どう考えても計算の合わないのが気になった。そこで、< and a half >で検索してみると、上記の説明に出くわした。双葉氏の時代には電子辞書はなかったろうから無理もないが、村上氏は電子辞書をお使いのようだ。魔が差したのだろう。(第十章了)