marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『ブッチャーズ・クロッシング』ジョン・ウィリアムズ

ブッチャーズ・クロッシング
ジョン・フォード監督に『シャイアン』という映画がある。いつもの白人の視点ではなく、不毛な居留地に閉じ込められたインディアン側に寄り添った一味違う西部劇だ。約束を守らない白人に業を煮やしたシャイアンの部族全員が故郷に帰る決断をする。苦労を重ねた末にたどり着いたそこには、彼らの生活の糧となるはずのバッファローの白骨が散乱していた。白人がコート用の毛皮を得るために狩りつくしていたのだ。

インディアンは皮だけでなく、肉は食料に骨はナイフや矢じり、針とバッファローを使い切る。それを白人は毛皮だけのためにほぼ全滅させた。何よりそれがネイティブ・アメリカンの命脈を断ったのだ。『ブッチャーズ・クロッシング』は、そのバッファロー狩りを主題に描いたものである。それも極端にミニマムの視点で、一人の猟師が一シーズンにどれだけの数のバッファローを殺すことができるのかを克明に記す。

チームの人数は最小構成で四人。猟師(ハンター)が一人、皮剥ぎ職人が二人、料理その他を取り仕切るキャンプ係が一人。彼らは獲物がいる場所まで来る日も来る日も旅をする。猟場に着いて肉が手に入るまでは、豆とベーコンとコーヒーという食事。川筋から離れ平原に入ると水すら飲めなくなる。用意した水が切れるまでに次の水場に着けるかどうかがリーダーの能力にかかっている。だから、リーダーの指示には絶対に服従しなければならない。

この小説でリーダーを務めるのはミラーという猟師だ。他の流れ者や南軍くずれとちがい、彼はこの地方をよく知る本物の猟師である。人を雇って猟をさせ、毛皮を鞣して売る商人マクドナルドは彼を雇いたがるが、彼は自分のやり方で猟をすることにこだわり、首を縦に振らない。狩猟隊を組むには元手が必要だ。獲った毛皮を運ぶ荷車とそれを牽く連畜、銃と火薬、食料に馬等々、一介の猟師には手が出ない金額になる。だから、ミラーは獲物の大群がいる場所を知りながら、ここ十年狩猟隊が組めていない。

そこに、語り手の青年がボストンからやってくる。カレッジを三年で中途退学し、ラルフ・ウォルド・エマソンの思想にかぶれ、自然の中で自分の生き方を見つけたいとおじの遺産を胴巻きに入れて、はるばるブッチャーズ・クロッシングにやって来たのだ。この地で皮商人を営むマクドナルドはボストンにいた頃、ユニテリアン派の在俗司祭を務める父の教会に顔を出していた。父の紹介状を手にしたウィリアム・アンドリューズは、ホテルに着くと真っ先にマクドナルドをたずねる。

商人は若者の軽はずみをいさめるが、気のはやる若者は聞く耳を持たない。そこで、マクドナルドが紹介したのがミラーだ。自分のいうことは聞かない男だが、誰よりもこの地方をよく知る男で、古い知人の息子を委ねる相手としては彼をおいて他にないと判断したからだ。ミラーと会って話を聞くうちにアンドリューズは狩猟隊を結成するのに自分の所持金を提供することを決める。その代わり自分も一緒に連れていってほしいという。

ミラーがバッファローの大群を見つけたのは、カンザスから二週間ほどかかるコロラド準州。ビーバーを狩りに入った山で偶然に見つけた。山間に隠れた谷の下に広がる平地で、多分白人は誰も知らないが、四、五千頭はいるという。猟の方法は、猟師が一日がかりで仕留めたバッファローを一晩中かけて皮剥ぎ職人が皮を剥ぐ。キャンプ係はその間に料理したり、牛や馬の世話をしたりする。単調な作業の繰り返しだ。アンドリューズはシュナイダーという皮剥ぎ職人に教えてもらいながら皮剥ぎを手伝う。

三部構成で、一部と三部はブッチャーズ・クロッシング、第二部がバッファロー狩りの旅が舞台。第二部が小説の中心だが、刊行当時ウェスタン扱いされたこの小説は不評だったという。さもあらん。舞台こそ西部だが、これはその手のウェスタンとはちがう。終始一貫してバッファロー狩りだけを追う、ある意味、ノンフィクションのような味わいがある。無論、人物同士の葛藤や、猛威を奮う大自然との格闘があって、スリルやサスペンスに溢れていて、面白さは格別だ。

特にミラーという猟師の人物像が魅力的だ。誰にも頼らず、自分の足で好きなところに行き、好きなように生きる。それも大都会ではなく、道などない手つかずの大自然の中だ。携行する道具は最小限。狩りに使う弾丸も自分で金属を熔かし、火薬を詰めて作る。雪に降り込められたら、避難小屋も建て、猛吹雪の中で獲物の毛皮を細工して寝袋も作る。沈着冷静にして穏やかだが、一度これと決めたら譲らない頑固さもある。アメリカ人の理想のような男である。

ところが、至極頼りになるこの男が豹変する場面がある。バッファローの大群に一人で立ち向かう時だ。リーダーを殺されたバッファローは、うろたえ怯えるばかりでうまく逃げることもできない。その相手を、Y字型の木の枝を支えにして、狙いをつけては心臓か眉間の間を撃つ。銃が熱を持つと交換し、一日中撃ち続ける。これはもう、狩猟というよりただの大量虐殺である。必要十分な数の毛皮を得ても猟をやめて帰ろうとしないミラーにシュナイダーが噛みつくが、撃てる限りのバッファローを撃ち殺すまで、ミラーはやめない。

ふだんは頼りがいのある有能なリーダーなのに、銃を手にすると人が変わったようになる。相手が、自分たちと同じ「人間」ではないからだ。ミラーはその猟場のことを「遠い昔にインディアンが来たかもしれないが、人間(傍点二字)はまだだ」と発言している。つまり、彼の眼にはインディアンは「人間」として見えていないのだ。ならば、相手がインディアンだろうが、黒人だろうが、黄色人種だろうが、ミラーにとってはバッファローと変わらないのではないだろうか。

法が支配する町では出来ないことも、西部のフロンティアなら可能だ。力さえあれば土地も獲物も金も思い通り手に入れることができる。アメリカ人の頭からはこの考え方が抜けきらない。ヴェトナム戦争時代に書かれたというが、湾岸戦争でもイラク戦でも、現在のシリア情勢でも銃を手にしたアメリカという国の振る舞いにはミラーを思わせるところがある、と思うのはうがちすぎだろうか。

シュナイダーの忠告を聞こうともしないミラーは、そのために重大な判断ミスを犯す。雪が降りはじめるのだ。大量の毛皮を積んだ荷車を牽いて雪山を出ることは到底不可能。四人は人里を遠く離れた山中で雪が融ける春まで越冬しなければならなくなる。無論シュナイダーはミラーと険悪になるし、以前雪山で凍傷になり、片手を失ったキャンプ係は正気を失いかける。攻める時は果敢だが退き時を誤り、大きな被害を被る点もミラーはアメリカに似る。

大自然の中での経験が主人公の人間的な成長を描くことが主眼と思えるのだが、訳者あとがきで、エマソンの思想に触れて、訳者はアンドリューズが赴いたコロラドのような大自然バックカントリーといい、エマソンのいうカントリーとは、都市の周辺に残る人間に管理されたフロントカントリーのことだという。自然に触れる中で本来の自分を見つけようとした若者が、触れるべきでない大自然に飛び込んでしまった結果、何を得て何を失ったのだろう。馬に乗って町を出る青年の遠ざかる背中を見つめ、そう思った。