marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(4)

―どんなドレスを着たら、裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろう―

【訳文】

《「ニュートンはいいでしょう」私は言った。「ギャングとつるむようなタイプじゃない。当て推量に過ぎませんが。フットマンについてはどうですか?」
 彼女は考え、記憶を探った。それから、首を振った。「彼は私を見ていない」
翡翠を身につけてほしい、と誰か言いませんでしたか?」
 彼女の眼は瞬く間に用心深くなった。「そんな手に引っかかると思う」彼女は言った。
 彼女はおかわりを注ごうと私のグラスに手を伸ばした。まだ残っていたが、したいようにさせておいて、その美しい頸の線を研究した。
 彼女が二つのグラスを満たし、二人がまた手にしたとき、私は言った。「記録をはっきりさせてから、あなたに話したいことがある。あの晩のことを詳しく聞かせてください」
 彼女は腕時計を見ようとして長い袖を手繰り寄せた。「そろそろ、行かないと―」
「彼なら、待たせておけばいい」
 彼女の眼が光った。私はその眼が気に入った。
「あけすけに言えないこともあるものよ」彼女は言った。
「この稼業でそれは通用しません。あの晩のことを話すか、私を叩き出すか、どっちか決めるんですね」
「私の隣に来て座ったら」
「長い間考えてたんです」私は言った。「正確には、あなたが脚を組みだしてからずっと」
 彼女はドレスの裾を引っ張り下ろした。「つまらないことを気にするのね」
 私は黄色い革張りのチェスターフィールドに行き、彼女の隣に腰を下ろした。「あなた、手が早いんじゃないの?」彼女はそっと訊いた。
 私は答えなかった。
「こういうことをよくするの?」彼女は横目で訊いた。
「ほとんどありません。暇な時の私はチベットの僧です」
「暇な時がないだけよね」
「本題に入りましょう」私は言った。「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について。いくら払うつもりです?」
「ああ、それは問題ね。あなたは私のネックレスを取り戻すだろうと思ってたんだけど。少なくともやってはみる、と」
「仕事は自分の流儀でやることに決めてます。このように」私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった。空気も少し飲み込んだ。
「そして、殺人犯を挙げる」私は言った。
「そんなの関係ない。警察の仕事でしょう?」
「その通り。ただ哀れな男が百ドル出して護衛を頼んだのに、護ってやれなかった。気が咎める。泣きたいくらいだ。泣きましょうか?」
「飲みましょう」彼女は二人のグラスにまたスコッチを注いだ。酒は彼女に少しも影響を与えないようだった。ボールダー・ダムに水を注ぐようなものだ
「さてと、どこまでだったかな?」グラスのウィスキーをこぼさないように気遣いながら私は言った。「メイド抜き、運転手抜き、執事抜き、フットマンも抜き。次は洗濯も自分たちですることになりそうだ。ホールドアップはどのようにして起きたか? あなたのヴァージョンにはマリオットが与えてくれなかった細部があるかもしれない」
 彼女は前屈みになり、頬杖をついた。真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった。
「私たちはブレントウッド・ハイツのパーティーに行った。その後でリンが、<トロカデロ>で少し飲んでダンスでもどうか、と言った。それでそうした。帰りのサンセット・ブルヴァードは工事中でひどい埃だった。それで、リンはサンタモニカ・ブルヴァードへ引き返した。うらぶれたホテルの前を通り過ぎた。つまらないことを覚えているようだけど、ホテル・インディオという名。通りの反対側にビアホールがあって、前に車が一台停まってた」
「たった一台、ビアホールの前に?」
「そうよ、たった一台。薄汚れた店。その車が動き出して私たちの後をついてきた。もちろん、私は何も気にしなかった。気にする理由もないし。その後、サンタモニカ・ブルヴァードからアルゲロ・ブルヴァードに入ろうというところで、リンが、他の道から行こう 、と言って、道が曲がりくねった住宅街に入った。すると突然、後ろの車が突進してきて追い抜きざまにフェンダーをかすめ、路肩に寄せて停車した。コート姿にスカーフ、帽子を目深にかぶった男が謝罪のために引き返してきた。白いスカーフが盛り上がっているのが私の目を引いた。それがあの男に関する印象のすべて。背が高くて痩せてたことの他には。男は近づくとすぐに―今思えば、こっちの車のヘッドライトを避けて歩いていた―」
「当然だ。ライトを浴びたいやつがいるわけがない。一杯やろう、今度は私がつくる」
 彼女は前屈みになって、細い眉をひそめて考えていた。眉は描かれたものではなかった。私は飲み物をふたつつくった。彼女は続けた。》

【解説】

「彼は私を見ていない」は<He didn't see me>。そのままだが、清水氏は「きっと、頸飾りを見ていないわ」と訳している。清水氏は「下男」、村上氏は「召使い」と訳しているが、フットマンというのは、ただの下男や召使いとは異なり、仕事が決まっている。制服を着て食事や酒の給仕などをする職種だ。当然、その仕事以外で主人に会うことはない。外出用の服に着替えた夫人を見る機会はない。村上訳は「彼は私の姿を見なかった」だ。

「あけすけに言えないこともあるものよ」は<There's such a thing as being just a little too frank>。清水訳では「ずいぶん遠慮がないのね」とマーロウの物言いに対する非難のように訳されている。村上訳は「率直には話せない種類のものごともあるわ」と自分自身の態度についての言い訳になっている。この解釈をとることで、次のマーロウの<Not in my business>という決め科白が引き出される仕掛けだ。清水氏は「ぼくの稼業(しょうばい)は、遠慮をしていてはできない」と訳すことで話を繋げている。

「つまらないことを気にするのね」は<These damn things are always up around your neck>。清水氏の訳は「すぐ、まくれてしまうので……」。村上氏の訳は「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」だ。いったい、どんなドレスを着たら、ドレスの裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろうか。ここに限らず、村上氏は清水氏の訳を土台にして自分流に訳文を作っている。それがまちがいのもとだ。

<around one's neck>には、「重荷(足手まとい)になる」という意味がある。マーロウは二度、夫人の脚の組み方に言及している。しどけなく投げ出された脚が気になって近くに座ることをためらっていた。夫人は、そんなつまらないことを気にして、そばに来ることを躊躇していたなんて、という意味でドレスの裾を引っ張ったのだ。

「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について」は<Let's get what's left of our minds- or mine-on the problem>。清水氏は「われわれの……とにかく、ぼくの心を問題からそらさないで」と訳している。その前の<Let’s focus>を「話をそらさないで」と訳したことからくる流れだろう。村上訳は「お互い残っている正気をかきあつめて、その問題について考えてみましょう。少なくとも私はがんばってかきあつめる必要がありそうだ」。村上氏ならではの解きほぐす訳なのだろう。でも、シンプル極まる原文を、こんなに持って回った訳文にする必要があるのだろうか。

「私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった」は<I took a long drink and it nearly stood me on my head>。清水氏は「私はグラスを一気に飲みほした」と、後半部分をカットして、あっさり訳している。<stand on my head>は「逆立ちをする」という意味。村上訳は「私は息も継がずに一口でぐいと酒を飲んだ。頭にずん(傍点二字)とこたえるきつい一杯だった」と「頭」を使って訳している。

「彼女は前屈みになり、頬杖をついた」は<She leaned forward and cupped her chin in her hand>。清水氏は「彼女は両手を顎にあてて、からだを前にかがめた」と訳しているが、手は<hands>ではない。村上氏は「彼女は前屈みになり、顎に片手をやった」と訳している。前屈みになったのは肘をつく必要があるからだ。<cup one's chin in one's hand>は「頬杖をつく」という意味。ここは頬杖をついたと考えるべきだ。

「真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった」は<She looked serious without looking silly-serious>。清水氏は後半をカットして「真剣な顔つきだった」と訳している。これだと微妙なニュアンスを欠いている。村上訳は「真剣な顔に見えたが、それはほどほど(傍点四字)という程度の真剣さだった」。