marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(2)

―指輪がフィンガー・ブレスレットを連想させた、その理由―

【訳文】

《艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せ細ったアジア風の顔をした女だ。耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた。月長石や銀の台に嵌めたエメラルドは本物かもしれないが、どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた。手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった。
 女が話し出した。聞き覚えのある声だった。「ああ、ミースタ・マーロウ、よおこそいらっしゃいました。アムサーがとっても喜ぶでしょう」
 私はインディアンがくれた百ドル札を机の上に置いた。後ろを振り返ると、インディアンはもうエレベーターで下に降りていた。
「ご厚意は有難いのだが、こいつは受け取れない」
「アムサー、彼はあなたを雇いたがっている、ちがいますか?」彼女はまた微笑んだ。唇がティッシュペーパーのような音を立てた。
「まず、その仕事がどんな仕事かを知る必要がある」
 彼女は肯き、ゆっくり席から立ち上がった。人魚の皮膚のようにタイトなドレスが私の前で衣擦れの音を立てた。いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら。
「ご案内します」彼女は言った。
 彼女が鏡板についたボタンを押すと、ドアが音もなく開いた。その向こうは乳白色に輝いていた。私は通り抜ける前に彼女の笑顔を振り返った。今やそれは古代エジプトより年古りていた。私の背後でドアが静かにしまった。
 部屋には誰もいなかった。
 床から天井まで黒いヴェルヴェットで覆われた八角形の部屋だった。高く離れた黒い天井も、ヴェルヴェットかもしれない。真っ黒な光沢のない絨毯の中央に、二人が肘を載せるのに程よい大きさの八角形の白いテーブル。その真ん中に黒い台の上に載せられた乳白色の球体が置かれている。光はそこから漏れていた。仕掛けは分からない。テーブルの両側にテーブルを小さくした八角形の白いスツールがあった。壁の向こうに、もう一つ同じようなスツールがある。窓はなかった。部屋には他に何もない。壁には照明器具さえついていなかった。どこかに別のドアがあるとしても見つけることができなかった。振り返ってみても、自分の入ってきたドアも見つけられなかった。
 おそらく十五分ほど突っ立っていた。誰かに見られているような気がしていた。どこだか分からないが、たぶん、どこかに覗き穴があるはずだ。私は探してみようともしなかった。自分の息遣いが聞こえた。部屋があまりに静かで、鼻を通る息の音さえ、小さなカーテンがそよぐ音のように優し気に聞こえた。
 見えないドアが部屋の奥に開き、一人の男が入ってきた。ドアが後ろで閉まった。その男はうつむいたまま真っ直ぐテーブルまで歩き、八角形のストゥールに腰を下ろし、手をさっと動かした。初めて目にするような美しい手だった。
「どうぞおかけください。私の真向かいに。煙草を吸ったり、そわそわしたりしないで。リラックスするよう心がけてください。さて、どういうご用向きでしょう?」
 私は腰を下ろし、煙草を口にくわえ、唇のあいだで転がしたが、火はつけなかった。私は男を観察した。痩せて背が高く、背筋は鉄の棒でも入れたように真っすぐだった。これ以上はない白さと細さを併せ持つ白髪だった。絹のガーゼで漉したようだ。皮膚は薔薇の花弁のようだった。三十五歳、もしかしたら六十五歳かもしれない。年齢不詳だ。髪は、往時のバリモアを思わせる端正な横顔から、真っすぐ後ろに撫でつけられていた。眉毛は壁や天井、床と同じように漆黒だった。眼はあまりに深過ぎ、底が知れなかった。薬づけにされた夢遊病者の眼だ。前に読んだ井戸の話を思い出す。古い城にある、九百年前の井戸。そこに石を落として待つ。耳を澄ませ、待ちくたびるほど待ち、やがてあきらめて笑いながら立ち去ろうとしたとき、井戸の底から、微かな水音が帰ってくる。信じられないほど、小さく、遥か彼方から。
 男の眼はそれくらい深かった。また、およそ感情や魂を欠いていた。ライオンが人を食いちぎるのを見ても動じず、体の自由を奪われた男がまぶたを切り裂かれ、熱い太陽の下で叫び声を上げていても見続けていられる眼だった。
 ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた。虚ろな目は私の指先を眺めていた。
「どうか、落ち着いて」彼は言った。「波動が壊れ、集中力を妨げるので」
「氷を溶かし、バターを溶かし、猫を鳴かせる」私は言った。
 彼は世界一微かな微笑を浮かべた。「減らず口をきくために来たわけじゃないだろう」
「なぜ私がここに来たのか、お忘れのようだ。それはともかく、百ドルは秘書に返しておいた。私が来たのは、覚えているかもしれないが、煙草の件だ。マリファナが詰まったロシア風煙草で、吸い口に君の名刺が丸めて詰められていた」》

【解説】

「艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せこけたアジア風の顔をした女だ」は<She had sleek coiled hair and a dark, thin, wasted Asiatic face>。カーラーで巻いたカーリー・ヘアだと思うのだが、両氏とも、全く異なる訳になっている。清水氏は「彼女は髪をぐるぐる頭にまいて、アジア人種らしい浅ぐろい顔をしていた」と訳している。<coiled hair>を「ぐるぐる巻き」と解釈したわけだ。村上訳は「彼女の髪は艶やかにウェイブしていた。顔立ちはアジア風で、浅黒くこけて、やつれた趣きがあった」だが、コイル状にした髪をウェイブとは言わないだろう。

「耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた」は<There were heavy colored stones in her ears and heavy rings on her fingers>。清水氏は「耳には毒々しい色彩の大きな宝石をたらし、指には大きな指輪をいくつもはめていた」と訳している。村上氏は「耳には派手に彩色した飾りがつき、手の指には重い指輪がはまっていた」と訳している。<colored stone>は「ダイヤモンド以外の天然宝石」のことだが、村上氏はそうはとっていないようだ。また、いつもは単数、複数にこだわる村上氏が、二つの<s>を無視しているのも訳が分からない。

「どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた」は<but somehow managed to look as phony as a dime store slave bracelet>。清水氏は「どういうわけか、十セント・ストアのまがいものののように見えた」と訳している。村上訳は「それをわざと量販店で売られる安物の腕輪に見せかけているみたいにも見える」だ。清水氏は知らぬ顔を決め込んでいるが、<slave bracelet>というのは、ベリー・ダンスのダンサーがつけているような、指から手の甲にかけてチェーンでつないだブレスレットのことをいう。「腕輪」にはちがいないが、単なるブレスレットとは形状が異なる。

「手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった」は<And her hands were dry and dark and not young and not fit for rings>。清水氏は「手は黒く、かさかさした感じで、指環にそぐわなかった」と、語順を入れ替えることで<not young>をカットしつつ、感じは伝えようとしている。それに対し、村上氏は「手はかさかさして浅黒く、若さがうかがえず、指輪はサイズが合っていなかった」と訳している。

主語は<her hands>であって、指輪ではない。指輪に手のサイズが合わないというのは本末転倒だが、チャンドラーはそう書いている。貧相な手の方が本物の宝石に負けている、と言いたいのだ。訳者が勝手に変えるべきではない。これは想像だが、潤いのない痩せた指にはまった大き目の指輪が<slave bracelet>を連想させたのではないだろうか。指輪が何故フィンガー・ブレスレットに繋がるのか、それで分かったような気がする。もしかしたら、村上氏は<slave bracelet>の形状をご存じなかったのかもしれない。

「いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら」は<and showed that she had a good figure if you like them four sizes bigger below the waist>。清水氏は「美しい線を見せていた。腰から下の線が特に魅力的だった」と訳している。訳者の好みを主人公に押しつけてはいけない。村上訳は「彼女がとても素晴らしい身体をしていることが見て取れた。腰から下が、上より四サイズばかり大きいところがお気に召せばだが」。

「今やそれは古代エジプトより年古りていた」は<It was older than Egypt now>。初対面の時の彼女の印象に触れた「手が触れたら粉々になってしまいそうな、からからに干からび、こわばった微笑」を踏まえた、いわば駄目押しである。清水氏はここをカットして「私は彼女の微笑をもう一度見なおしてから、中に入った」と書いている。これでは、マーロウが女の微笑を、どう受け止めたのか分からない。村上氏は「今ではそれは古代エジプトよりも過去のものになっていた」と訳している。「過去のもの」という訳では、女がもう笑っていなかったようにも読める。そうではない。エジプトのミイラのように干からびた微笑の乾燥度がより強まった、と言っているのだ。

「ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた」は<He wore a double-breasted black business suit that had been cut by an artist>。清水訳は「ダブル・ブレストの地味な服を着ていたが、画家がデザインをしたようにからだに合っていた」。村上訳は「ダブルの黒いビジネス・スーツを着ていた。芸術的なまでに美しくカットされたスーツだ」。<artist>ときたら、画家・芸術家という訳は考えものだ。その道の名人・達人という意味もある。一流のテイラーなら立派な<artist>である。