marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(1)

<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」

【訳文】

 ベイ・シティのグレイル家に電話を入れたのは十時頃だった。彼女を捕まえるには遅すぎるかと思ったが、そうでもなかった。メイドや執事相手に悪戦苦闘したあげく、やっと彼女の声を聞けた。快活な声で、夜会への準備万端整っているようだった。「電話すると約束していたので」私は言った。「少し遅くなったけど、いろいろと忙しくてね」
「また、すっぽかすつもり?」彼女の声が冷やかになった。
「それはないと思う。運転手はこんなに遅くても働いてるかい?」
「私が言いさえすれば遅くても働くわ」
「なら、車を回して拾ってくれないか? 卒業式用の服に体を押し込んでいるところでね」
「ご親切なこと」彼女は物憂げに言った。「本当に私が出向かなきゃいけないの?」アムサーは、彼女の言語中枢の分野で確かに素晴らしい仕事をしていた―もし、そこに問題とやらがあったとすればだが。
エッチングを見せたいんだ」
「たった一枚のエッチングのために?」
「一間のアパートなんでね」
「そんなものがあることは聞いている」また物憂げに言った。それから声音を変化させた。「焦らすのも程々にして。好い男だというのは認めるわ。もう一度住所をお願い」
 私はアパートの番地を教えた。「ロビーのドアは鍵がかかってる」私は言った。「でも、下に降りて掛けがねを外しておく」
「結構ね」彼女は言った。「かな梃子持参は御免だから」
 彼女は電話を切った。実在しない誰かと話したような不思議な感覚を残して。
 私はロビーに降りて掛けがねを外し、シャワーを浴び、パジャマを着てベッドに横たわった。一週間分眠れそうだった。それから再びベッドから身を引きはがし、忘れていたドアの錠をかけた。深い地吹雪の中を歩くようにしてキチネットに行き、グラスと本当に高級な相手を引っかけるときのためにとっておいたスコッチのボトルをセットした。
 私はもう一度ベッドに横になった。「祈るんだ」私は大声で言った。「祈るより他にすることはない」
 私は眼を閉じた。部屋の四方の壁には船の鼓動がこもっていた。静まり返った空気が霧を滴らせ、海風に戦ぐようだった。使われていない船倉の饐えた臭いがした。エンジンオイルの匂いがし、裸電球の下で祖父の眼鏡をかけて新聞を読んでいる紫色のシャツを着たイタリア人が見えた。換気坑の中を登っては登った。ヒマラヤに登って頂上に立つと、マシンガンを手にした男たちに取り囲まれた。何だかとても人間的な黄色い眼の小柄な男と話をした。恐喝や強請、多分もっと悪いことに手を染めている男だ。菫色の眼をした赤毛の大男のことを思った。今まで出会った中でおそらく最も親切な男だ。
 私は考え事をやめた。閉じた瞼の裏で光が動いた。私は混乱していた。私は空しい冒険から生還した極め付きの愚か者だった。一ドル時計を値踏みする質屋のようなしけた音を立てて爆発するダイナマイトの百ドルパッケージだった。市庁舎の壁を這い登るピンクの頭の虫だった。
 私は眠っていた。
 不本意ながら、ゆっくり目を覚まし、天井に反射した電灯の光を見つめた。部屋の中を何かがそっと動いていた。
 その動きは、こそこそして、静かで、重かった。私は耳を澄ました。それから、ゆっくり振り返り、ムース・マロイを見た。そこは陰になっていて、彼は暗がりの中で以前と同じように音を立てずに動いていた。手にした銃には黝ずんだ油性の無機質な光沢があった。黒い巻き毛の上に帽子をあみだにかぶり、猟犬のように鼻を鳴らしていた。
 彼は私が目を開けたのを見た。そっとベッドの端に立つと、私を見下ろした。
「ことづけを受け取った」彼は言った。「家は調べさせてもらった。周りにも警官の姿はなかった。もしこれが罠だったら、二人ともあの世行きだ」
 ベッドの上で少し身をよじると、彼は素早く枕の下を探った。相変わらず大きな顔は青白く、くぼんだ眼はどこかしら優しげだった。今夜はオーバーコートを着込んでいた。どこもかしこもぴちぴちだった。片方の肩の縫い目がほつれていた。おそらく着ただけでほつれたのだろう。店で最も大きいサイズだったにせよ、ムース・マロイにはまだ足りなかった。
「待ってたんだ」私は言った。「警察は関与していない。君に会いたかったのは私だけだ」
「続けろよ」彼は言った。

【解説】

「快活な声で、夜会への準備万端整っているようだった」は<She sounded breezy and well-primed for the evening>。清水訳は「機嫌がいいらしく、明るく晴れやかな声だった」。村上訳は「夜のこの時間にしては彼女の声はすがすがしく勢いがあった」だ。まず、清水訳には<the evening>への言及がない。そして、村上氏は「夜のこの時間にしては」と訳しているが、<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」の意味だ。デートへの誘いだから<the evening>はただの「夜」の意味ではない。食事には遅すぎるが、ナイトクラブで酒とダンスを楽しむには、いい頃合いだろう。

「卒業式用の服に体を押し込んでいるところでね」は<I'll be getting squeezed into my commencement suit>。<squeeze into>は「(小さめの服に)体を無理に押し込む」こと。<commencement>は「学位授与式、卒業式」。清水訳はあっさりと「それまでに服を着かえておく」だ。村上訳は「若き日の一張羅のスーツに身体を押し込んで待っているよ」と噛みくだいているが、少々くどい。

「忘れていたドアの錠をかけた」は<set the catch on the door, which I had forgotten to do>。清水訳は「忘れていたドアの錠を外し」と、逆になっている。<catch>(ドアの留め金)をセットするのだから、ここは「錠をかける」でなければならない。村上訳も「ドアの錠をかけた。それを忘れていたのだ」となっている。

「私は混乱していた」は<I was lost in space>。清水訳は「私のからだが宙に浮んだ」。村上訳は「私は空白の中に迷い込んでいた」。後に続く文を読めば、マーロウのからだは宙に浮いているわけでもなく、全くの空白の中に迷い込んだのでもないことが分かる。マーロウは馬鹿になったり、ダイナマイトになったり、虫になったりしている。つまり、自分が何なのかが分からなくなっていたのだ。<space>は会話で「(人が)内にこもる自由」を意味する。夢の中で迷子になっていたのだろう。

「手にした銃には黝ずんだ油性の無機質な光沢があった」は<A gun in his hand had a dark oily business-like sheen>。清水訳は「手に持ったピストルが黒く光って、無表情の光沢を見せていた」。村上訳は「彼が手にしている拳銃には油が引かれ、黒々としたビジネスライクな光沢があった」だ。何度も使用され、そのたびにガン・オイルを使って手入れされてきた愛用の銃なのだろう。「ビジネスライクな光沢」は翻訳になっていない。

「相変わらず大きな顔は青白く」は<His face was still wide and pale>。清水氏はここを「相変わらずおおらかな表情を浮かべ、顔色は蒼白く」と訳している。村上訳は「彼の顔は相変わらず横幅があり、青白く」だ。マロイの顔については、第二十六章の新聞をかぶっている場面で「大きな顔」という言及がなされている。<wide>は体に見合った顔の大きさと考えるべきではないか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(4)

<The things I do>は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」だろうか?

【訳文】

 彼はしばらくじっと坐っていた。それから身を乗り出して机越しに銃を私の方に押してよこした。
「俺がやっているのは」彼はまるでその場に独りでいるみたいに物思いにふけった。「街を仕切り、市長を当選させ、警官を買収し、麻薬を売り捌き、悪党を匿い、老婦人の首から真珠を奪いとることか。時間がいくらあっても足りない」彼は短く笑った。「何とも忙しいことだ」
 私は銃に手を伸ばし、脇の下に押し込んだ。ブルネットは立ち上がった。「何も約束はしない」彼は私に目を据えて言った。「でも、君を信じるよ」
「約束までは期待していない」
「これだけのことを聞くために、大層な運試しをしたものだな」
「そうだな」
「さてと」彼は意味のない動きをして、机越しに手を差し出した。
「お人好しと握手してくれ」彼はそっと言った。
 私は握手した。手は小さく、硬く、少し熱かった。
「どうやって搬入口のことを見つけたのか、言う気はないんだな?」
「できないが、教えてくれたやつは悪党ではない」
「言わせることはできる」彼はそう言ってから首を振った。「いや、一度君の言うことを信じたからには、それも信じよう。そこに座ってもう一杯やっていてくれ」
 彼はブザーを押した。後ろのドアが開いて、見た目のいいタフガイの一人が入ってきた。
「ここにいて、酒が切れたらお代わりを用意しろ。手荒な真似はなしだ」
 殺し屋は腰をおろして私の方を見て静かに微笑んだ。ブルネットは急いで部屋を出て行った。私は煙草を吸った。酒を飲み終えると、殺し屋がお代わりを作ってくれた。私はそれも飲み干し、もう一本煙草を吸った。
 ブルネットが戻って来て部屋の角で手を洗い、また机の向こうに腰をおろした。殺し屋に顎をしゃくった。殺し屋は黙って部屋を出て行った。
 黄色い眼が私を検分していた。「君の勝ちだ、マーロウ。私は百六十四人の男を乗員リストに載せているんだが―」彼は肩をすくめた。「君はタクシーで帰ることができる。誰にも邪魔はされない。メッセージの件だが、心当たりをいくつか当ってみよう。お休み。君の実地教授に礼を言うべきだろうな」
「お休み」私はそう言って立ち上がり、部屋を出た。
 乗船用の台には別の男がいた。岸まで別のタクシーに乗った。私はビンゴ・パーラーに足を運び、人混みに紛れて壁にもたれた。
 数分もすると、レッドがやってきて、私の隣で壁にもたれた。
「簡単だったろう?」番号を読み上げる男の重くはっきりした声に逆らうように、レッドがそっと言った。
「礼を言わなきゃな。彼は乗ってきた。気にしていたよ」
レッドは周囲を見わたして、唇をもう少し私の耳に近づけた。「男は見つかったのかい?」
「いや、しかし望みはある。ブルネットがメッセージを伝える方法を探してくれる」
 レッドは首を振り、またテーブルの方を見た。欠伸をし、壁から離れて背を伸ばした。鷲鼻の男がまたやってきた。レッドは彼の方に足を踏み出して言った。「よう、オルソン」そう言って、男を突き飛ばすようにしてその前を通り過ぎた。
 オルソンは苦々しく後ろ姿を見送ったが、やがて帽子をかぶり直した。それから忌々し気に床に唾を吐いた。
 彼が行ってしまうと、私は店を出て、車を停めておいた線路沿いの駐車場に引き返した。
 私はハリウッドに引き返し、車を置いて、アパートに上がった。
 靴を脱ぎ、靴下だけになり、足指で床を感じながら歩きまわった。今でも、たまに痺れることがある。
 それから、壁から引き下ろしたベッドの端に腰をおろし、時間を計ろうとした。できない相談だった。マロイを見つけるには多くの時間や日数が掛かるにちがいない。警察に逮捕されるまで見つからないかもしれない。いつか警察が逮捕するとして―生きてるうちに。

【解説】

「俺がやっているのは」は<The things I do>。清水訳は「俺がしていることは……」。村上訳は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」。村上訳は、そのあとに二回繰り返される<What a lot of time (I have)>のほうだろう。氏は二回目の<What a lot of time>のほうも「おかしいねえ」と訳を変えている。時々、こうして小説家としての顔をのぞかせるところが興味深い。

「見た目のいいタフガイの一人が入ってきた」は<one of the nice-tough guys came in>。清水訳は「用心棒の一人が入って来た」と、男を特定していない。多分、これは、前に出てきた<One of the velvety tough guys>と同一人物だろう。もう一人の方は「ゴリラ」と呼ばれているいかつい男だ。村上訳は「なりの良いタフガイの一人が中に入ってきた」だ。

「殺し屋は腰をおろして私の方を見て静かに微笑んだ」は<The torpedo sat down and smiled at me calmly>。清水訳は「用心棒は椅子に腰をおろし、私の方を向いて微笑した」。村上訳は「用心棒は腰をおろし、私に穏やかに微笑みかけた」。<torpedo>は「魚雷」のことだが、<米俗>では「プロのガンマン、殺し屋』を意味する。マーロウは、この男をブルネットに命じられたら殺しも辞さない男だと見ている。「用心棒」では役不足ではないか。

「殺し屋がお代わりを作ってくれた」は<The torpedo made me another>。清水訳は「用心棒がまたハイボールを作ってくれた」となっている。原文にはこの酒のことは<drink>としか書かれていないが、清水氏は一貫して「ハイボール」説をとっている。それには訳がある。<mix>、<make>という語が使われているので、ただ注いでいるだけでないことが分かるからだ。村上訳は「用心棒がお代わりを作ってくれた」で、酒の種類は特定していない。何しろ相手はプロのガンマンだ。作るとしてもウィスキー・ソーダくらいだろうが、それはそれで、ちょっといい気分かも知れない。

「彼が行ってしまうと、私は店を出て、車を停めておいた線路沿いの駐車場に引き返した」は<As soon as he had gone, I left the place and went along to the parking lot back towards the tracks where I had left my car>。清水氏は「私は店を出て駐車場から車を出しハリウッドへ戻った」と、次の文とひとまとめに訳している。村上訳は「彼が行ってしまうと、私はそこを出て、車を停めた線路近くの駐車場に向かって歩いた」。

「警察に逮捕されるまで見つからないかもしれない。いつか警察が逮捕するとして―生きてるうちに」は<He might never be found until the police got him. If they ever did-alive>。清水訳は「もし、警察の手で捕えることができたとしても、死んでいるかもしれないのだ」。村上訳は「その前に、警察に捕まるかもしれない。もし彼らに捕まえられれば――それも生きて捕まえられれば、ということだ」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(3)


<desk>が<table>に化けるわけ

【訳文】

 ドアが開いて、もう一人が帰ってきた。メス・ジャケット姿のギャングっぽい口をきくあの男が一緒だった。私の顔を一目見たとたん、男の顔は牡蠣のように白くなった。
「こいつは通していません」彼は唇の端を捲りあげて早口で言った。
「銃を持っていた」ブルネットはそう言って、レター・オープナーで銃を押しやった。「この銃だ。ボート・デッキの上で私の背中に突きつけたも同じだ」
「通していませんって、ボス」メス・ジャケットはやはり早口で言った。
 ブルネットは顔を上げ、黄色い眼で微かに私に微笑んだ。「どうしようか?」
「掃いて捨てろ」私は言った。「どこかで押しつぶせ」
「タクシーの男が証明してくれます」メス・ジャケットが声を上げた。
「五時半からずっと持ち場を離れなかったか?」
「一分たりとも離れていません、ボス」
「それは答えになっていない。一大帝国も一分で滅びることがある」
「一秒たりともです。ボス」
「なのに、そいつは通れた」私は言って、笑った。
 メス・ジャケットは滑らかなボクサーのステップを踏んで、拳を鞭のようにしならせた。もう少しで私の顎に届くところだった。鈍い音がした。拳が空中で溶けたようだ。彼は横倒しになり、机の角を引っ掻いて、仰向けに転がった。誰かが殴られるのを見るのは、いい気分転換になる。
 ブルネットは微笑み続けていた。
「君が彼を不当に扱っていないことを願うよ」ブルネットは言った。「甲板昇降口のドアの件が残っている」
「たまたま開いていたんだ」
「他の理由は思いつかないのか?」
「こんなに大勢に囲まれていては無理だ」
「なら、二人きりで話そう」ブルネットは私だけを見て、そう言った。
 ゴリラがメス・ジャケットの脇に手を入れて抱え上げ、床を引きずった。相棒が内側のドアを開けた。彼らは出て行き、ドアが閉まった。
「これでいい」ブルネットは言った。「君は誰だ。何が望みだ?」
「私立探偵だ。ムース・マロイと話がしたい」
「私立探偵だと証明できるものを見せろ」
 私は見せた。彼は紙入れを机越しに投げ返した。潮風に灼けた唇には微笑みが浮かび続けていたが、その微笑は芝居がかっていた。
「殺人事件の調査中だ」私は言った。「先週の木曜日の夜、あんたのベルヴェデア・クラブ近くの崖の上でマリオットという男が殺された。この殺人は、偶々別の女の殺人事件と関連している。それをやったのが銀行強盗の前科があるマロイという無敵のタフガイだ」
 彼は頷いた。「私にどうして欲しいのか、まだ聞いてなかったが、いずれは話してくれるだろう。どうやって船に乗ったかを教えてくれないか?」
「もう話した」
「それは事実じゃない」彼はおだやかに言った。「マーロウだったな? それは事実ではない、マーロウ。知ってると思うが。乗船用の台にいた若いのは嘘を言っていない。私は慎重に部下を選んでいる」
「ベイ・シティのどれだけかはあんたの物だ」私は言った。「どこまでかは知らないが、やろうと思えば何でもできるくらいは掌握している。ソンダーボーグという男がベイ・シティで隠れ家をやっている。そいつはマリファナ煙草や強盗、犯罪者を匿うのが仕事だ。当然のことながら、コネがなければやれないことだ。あんたを通してないとは考えられない。マロイはそこに匿われていた。そのマロイがいなくなった。七フィートもあろうかという大男のマロイは人目に立つ。賭博船なら隠れるにはもってこいだと思ってね」
「単純な男だな」ブルネットは優しく言った。「私が彼を匿おうと思ったとしよう。どうして危険を冒してまでここに運び入れなきゃならない?」彼は酒を啜った。「結局のところ、私には別の仕事がある。支障なく良好なタクシー営業を続けていくのは一仕事だ。悪党が身を隠すところは世間にいくらでもある。金さえあれば。もっとましなことを考えられないのか?」
「できないこともないが、うんざりだ」
「お役には立てそうもないな。それで、どうやってこの船に乗ったんだ?」
「言うつもりはない」
「残念だが、そうなると、無理にでも吐かせることになる。マーロウ」彼の歯が真鍮の船舶用ランプの光を受けてぎらりと光った。「詰まるところ、そういうことだ」
「もし話したら、マロイに言伝が頼めるか?」
「何と言うんだ?」
 私は札入れに手を伸ばし、机の上に名刺を取り出して裏返した。札入れをしまって、その代わりに鉛筆を手にした。五つの単語を名刺の裏に書いて机越しに押しやった。ブルネットは書かれた文字を読んだ。「何が何やらさっぱりだ」彼は言った。
「マロイには分かる」
 彼は椅子の背に深く凭れ、私をじっと見た。「解せないやつだな。命がけでやって来て、見ず知らずのチンピラに名刺を手渡せという。正気の沙汰じゃない」
「もしあんたが彼を知らないなら、そういうことになる」
「どうして銃を陸に置いて、普通に乗船しなかったんだ?」
「ついうっかりしてね。出直したところであのメス・ジャケットのタフガイは乗せてくれそうにない。そしたら、別の乗り方を知ってるやつにぶつかったんだ」
 彼の黄色い眼が新たな焔を帯びた。黙って微笑を浮かべていた。
「この男は悪党じゃないが、日がな海辺にいて聞き耳を立てている。あんたの船の荷物搬入口には内側から鍵がかかってないし、換気坑の格子は外されている。ボート・デッキに出るには男を一人倒す必要があるがね。乗員のリストをチェックした方がいい。ブルネット」
 彼は唇をそっと動かした。一つを別の上に重ねた。もう一度名刺に目をやった。
「この船にマロイという名の男は乗っていない」彼は言った。「しかし、搬入口の話が本当だったら、その話に乗ろう」
「行って見てくるといい」
 彼はまだ名刺を見ていた。「もし伝手があれば、マロイに伝言してやるよ。どうしてそんな気になるのか分からんが」
「搬入口を見てこいよ」

【解説】

「掃いて捨てろ」「どこかで押しつぶせ」は<Sweep him out><Squash him somewhere else>。<sweep>は「掃く」、<squash>は「ぺしゃんこにする」の意味。ゴミ扱いだ。清水訳は「やめさせたらいいだろう」。村上訳は「役に立たない男は邪魔なだけだろう」。

「なのに、そいつは通れた」は<But he can be had>。清水訳は「しかし、のされちまえば、同じことさ」。この訳にした意味がよく判らない。村上訳は「目にかすみがかかっていたのかもな」。一秒たりとも目を離さなかったはずなのに、阻止したはずの男が目の前にいる。それを揶揄うマーロウのセリフだ。そのまま訳しても意味は分かる。

「それをやったのが銀行強盗の前科があるマロイという無敵のタフガイだ」は<done by Malloy, an ex-con and bank robber and all-round tough guy>。清水訳は「銀行強盗の前科者のマロイが」となっていて<all-round tough guy>がカットされている。村上訳は「銀行強盗の前科がある元服役囚で、なにしろ腕っぷしの強いやつだ」。

「彼の歯が真鍮の船舶用ランプの光を受けてぎらりと光った」は<His teeth glinted in the light from the brass ship's lamps>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「真鍮の船舶用ランプの明かりを受けて、彼の歯がぎらりと光った」。

「五つの単語を名刺の裏に書いて机越しに押しやった」は<I wrote five words on the back of the card and pushed it across the desk>。清水訳は「その裏に鉛筆で文字を五つしるし、彼の眼の前においた」。<five words>は「五文字」ではなく「五語」だ。村上訳は「そして名刺の裏に単語を五つ書いた。それをテーブルの向こうに差し出した」。村上氏の頭の中ではマーロウはテーブルの前にいるから、こうなる。でも、ブルネットはデスクの向こう側にいるので、名刺はたぶん届かない。面白い。

「どうしてそんな気になるのか分からんが」は< I don't know why I bother>。清水訳は「方法がなければ、仕方がない」となっているが<bother>は「煩わされる」の意味。これでは訳になっていない。村上訳は「なんで俺がそんなことをしなくちゃならないのか、もうひとつ解せないが」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(2)

<director's chair>をわざわざ「重役用の椅子」と訳すのは変だ。

【訳文】

 我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた。降りたところに厚いドアがあった。彼はドアを開け、錠を調べた。彼は微笑し、頷いて、私を通すためにドアを支えた。私は中に入り、銃をポケットにしまった。
 ドアが閉まり、我々の後ろでカチリと音を立てた。彼は言った。
「静かな夜だ。今までのところは」
 目の前には派手に飾り立てたアーチがあり、その向こうに賭博場があった。混みあってはいなかった。どこにでもある賭博場のようだった。突き当たりには短いガラスのバー・カウンターとストゥールがあった。中央に下に降りる階段があり、膨れ上がっては萎んでゆく音楽が上がってきた。ルーレット盤が回る音がした。一人の男が一人の客とフェローの勝負をしていた。部屋には六十人ほどの客がいるばかりだ。フェロー・テーブルには銀行でも始められそうな金貨証券が積まれていた。プレイヤーは初老の白髪の男だった。ディーラーに対して儀礼上の注意を払っていたが、それ以上の関心はなかった。
 ディナージャケット姿の二人の物静かな男がアーチをくぐり、ぶらぶらやってきた。周りには目を向けなかった。お待ちかねの相手だ。二人はぶらぶらとこちらに向かっていた。連れの背の低い痩せた男がそれを待っていた。彼らはアーチをくぐる前から、ポケットに手を入れた。もちろん煙草を探して。
「ここからは少し込み入った話になる」背の低い男は言った。「気にしないだろう?」
「あなたがブルネットだな」私は突然言った。
 彼は肩をすくめた。「当然だ」
「タフには見えないな」私は言った。
「そうでないことを願うよ」
 二人のディナージャケットの男は穏やかに私に近づいてきた。
「こっちだ」ブルネットは言った。「気楽に話せる」
 彼はドアを開け、私は被告席に連れ込まれた。
 その部屋は船室のようでもあり、船室のようでなかった。真鍮のランプが二つ、木でなく、多分プラスチックの暗い机の上にぶら下がっていた。部屋の奥には木目塗りの寝棚があった。低い方はベッド・メイク済みだったが、上の方には数枚のレコード・ジャケットが積まれていた。ラジオと一体型になった大きな蓄音機が隅に置かれていた。革製の大きな肘掛けソファ、赤い絨毯、灰皿スタンド、煙草とデキャンタ、グラスの載った小テーブル、寝棚の対角線にあたる隅には小さなバーがあった。
 「座ってくれ」ブルネットはそう言って、机の向こう側に回り込んだ。机の上には事務的な書類がたくさん置かれ、簿記会計機で打たれた数字がたくさん並んでいた。彼は背の高いディレクターズ・チェアに腰かけると、少し後ろに傾けて私を検分した。それからまた立ち上がり、オーバー・コートとスカーフをとって傍らに投げ、座り直した。ペンを掴んで片耳の耳朶に軽く触れた。彼は猫の微笑を浮かべたが、私は猫が好きだ。
 若くもなく年寄りでもなく、太っても痩せてもいなかった。海上か、海の傍で多くの時間を過ごしたことで健康的な顔色をしていた。髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていたが、海ではウェーブがより強く出ていた。額は狭く賢そうで、どこかしら脅すようなところのある眼は黄味を帯びていた。美しい手をしていた。個性を欠くほど手をかけてはいないが、手入れが行き届いていた。ディナー・ジャケットはミッドナイト・ブルーだろう。黒以上に黒く見えた。真珠は少し大きすぎるように思うが、やっかみかもしれない。
 彼はたっぷりと私を見てから口を開いた。「彼は銃を持っている」
 ビロードのような手触りのタフガイの一人が何かを手に私の背骨の真ん中あたりに凭れかかった。多分釣り竿ではないだろう。探るような手が銃を抜き取り、他の得物を探した。
「他には何か?」声が訪ねた。
 ブルネットは首を振った。「今はいい」
 銃使いの一人が私のオートマティックを机の上に滑らせた。ブルネットはペンを置き、レター・オープナーをつかんでデスク・パッドの上で銃を軽く弄った。
「やれやれ」彼は静かに言い、私の肩越しに視線を投げた。
「指図されなければ動けないのか?」
 取り巻きの一人が素早く外に出てドアを閉めた。もう一人はあまりに静かで、いないも同然だった。長い穏やかな静寂があった。それを破るものといっては、遠くから聞こえてくる、がやがやいう人声と深みのある音色の音楽、それとどこか下の方でするほとんど気づかないような鈍い振動音だった。 
「飲むか?」
「ありがたい」
 ゴリラのような男が小さなバーで、二つの飲み物を作った。その間、グラスを隠そうともしなかった。彼は黒いガラスの敷物の上に載せたグラスを机の両端に置いた。
「煙草は?」
「いただこう」
「エジプト煙草だが、それでいいか?」
「けっこうだ」
 我々は煙草に火をつけ、酒を飲んだ。上等のスコッチのような味だった。ゴリラは飲まなかった。
「私の用というのは―」私は話し始めた。
「申し訳ないが、その前に片づけておくことがあるだろう?」
 ソフトな猫のような微笑と気だるげに半ば閉じられた黄色い眼。

【解説】

「我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた」は<We moved Indian file across the deck. We went down brassbound slippery steps>。清水訳は「私たちは看板を横ぎり、真鍮のすべる階段を降りた」。村上訳は「我々は縦に前後になって甲板を進んだ。枠を真鍮で固めた滑りやすい階段を降りた」。

<Indian file>とは「一列縦隊」のこと。たった二人でそういうのもなんだから清水氏はカットし、村上氏はこう訳したのだろう。<brassbound>には「(家具やトランクなどの枠を)真鍮で補強した、頑丈な、壊れにくい、融通が利かない、厚かましい、図々しい」というは派生的な意味が辞書には載っている。船の階段を真鍮で作ったり、枠をわざわざ真鍮で固めたりするだろうか。

「目の前には派手に飾り立てたアーチがあり」は<There was a gilded arch in front of us>。清水訳は「私たちの眼の前に電灯で飾られた入口があって」。村上訳は「我々の正面には派手な装飾をしたアーチがあり」。<gilded>は「金メッキした、金ぴかの、うわべを飾った、裕福な」等の意味がある。暗い船内だから、電灯が灯っていても不思議ではないが、金でごてごてと飾り立てたアーチのような気がする。

「突き当たりには短いガラスのバー・カウンターとストゥールがあった」は<At the far end there was a short glass bar and some stools>。清水訳は「突き当りに小さなスタンドがあって、数脚の椅子がおいてあった」。村上訳は「突き当りにはガラスでできた短いバーがあり、スツールがいくつか置かれていた」。「ガラスでできた短いバー」というのはイメージ化が難しい。<short>というところからカウンターについての言及ではないかと考えた。

「中央に下に降りる階段があり、膨れ上がっては萎んでゆく音楽が上がってきた」は<In the middle a stairway going down and up this the music swelled and faded>。清水訳は「部屋の中央から階段が階下に通じていて、音楽が階下(した)から聞こえてきた」と<swelled and faded>をトバしている。村上訳は「中央には下に降りる階段があり、その階段を抜けて音楽が上がってきた。その音は膨らんだり、か細くなったりしていた」。

「ディーラーに対して儀礼上の注意を払っていたが、それ以上の関心はなかった」は<who looked politely attentive to the dealer, but no more>。清水訳は「親のカードの配る手をじっと見つめていた」。村上氏は「ディーラーに対して儀礼的に注意を払っていたが、特にゲームにのめりこんでいるようには見えなかった」と噛みくだいて訳している。

「ここからは少し込み入った話になる」は<From now on we have to have a little organization here>。直訳すれば「小さな組織を持つ必要がある」だが、清水訳は「この二人にも来てもらわなければならん」。村上訳は「これから先はちっと固い話になってくる」だ。両氏の訳は力点の置きどころがちがう。<organization>には「体系的思考力」という意味がある。ブルネットは状況の全体を見通す能力が必要になる、と言っているのだ。

「私は被告席に連れ込まれた」は<they took me into dock>。清水訳は「私はその部屋へ入った」。村上訳は「私は奥の部屋へ導かれた」。<dock>には船のドックの他に「被告席」の意味がある。また、<in dock>なら「入院中」の意味になる。場所が船の中ということもあり、いろいろな意味を掛け合わせているのだろう。

「真鍮のランプが二つ、木でなく、多分プラスチックの暗い机の上にぶら下がっていた」は<Two brass lamps swung in gimbels hung above a dark desk that was not wood, possibly plastic>。この<gimbels>が分からない。清水訳は例によって分からない部分はトバして、ランプについては言及していない。村上訳は「真鍮のランプが二つ、暗いデスクの上にさがって揺れていた」とやはりトバしている。

船舶用の吊りランプは船が揺れたときにぶつかって割れないように、電球のまわりに金属製の枠がついていることがある。それを言っているのではないかと思うが<gimbels>で調べてもそういう意味は見つからない。<gimbals>なら、船の羅針盤などを水平に保つ装置なので分かるのだが、わざわざランプをそんなものに入れるとも思えない。これについては保留にしておく。

「彼は背の高いディレクターズ・チェアに腰かけると」は<He sat in a tall backed director's chair>。清水訳は「彼は背の高い重役椅子に腰をおろして」。村上訳も「彼は高い背もたれがついた重役用の椅子に座り」だ。<director>には、たしかに「重役」の意味があるが<director's chair>は映画監督が使う座面等に帆布などを私用した折り畳み可能な椅子のことだ。

「髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていたが、海ではウェーブがより強く出ていた」は<His hair was nut-brown and waved naturally and waved still more at sea>。清水訳は「髪の色は胡桃(くるみ)色で、自然に波打ち」と<waved still more at sea>をカットしている。村上訳は「髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていた。海がより多くのウェーブを与えたかもしれない」。

「ビロードのような手触りのタフガイの一人が何かを手に私の背骨の真ん中あたりに凭れかかった」は<One of the velvety tough guys leaned against the middle of my spine with something>。清水訳は「一緒に部屋に入ってきた男の一人が、私の背骨のまん中にからだを押しつけた」。村上訳は「身なりはよいが中身はタフな男たちの一人が、私の背骨の真ん中あたりに何かを突きつけた」だ。

<lean against>は「もたれかかる」という意味。タフガイではあっても手荒な真似をしないで、そっと銃を突き付けている様子を描写している。背後から来た男について、マーロウは背中に触れた触覚を頼りにするしかない。両氏のように訳すと、マーロウに見えているように読めてしまう。手触りの良さを意味する「ビロードのような」<velvety>という語はぜひ使いたいところ。

「彼は黒いガラスの敷物の上に載せたグラスを机の両端に置いた」は<He placed one on each side of the desk, on black glass scooters>。清水訳は「彼はグラスを黒いガラスの皿にのせてデスクの両側においた」。村上訳は「彼はひとつをデスクのわきに置いた。ひとつを黒いガラスのテーブルの上に置いた」。

村上氏はどうしてこんな訳にしたのだろう? <on each side ~>は「~の両側に」の意味だということくらい知っているだろうに。<scooters>に戸惑ったからではないだろうか。船室の中に「スクーター」があるはずがない。ガラスでできた物といえば、前述のグラスの載った小さなテーブルしか思いつかない。それでこうなったのだろう。<scoot>には「ちょっと移動する」というような意味がある。コースターをそう呼んだのかもしれない。

<gimbels>といい、<scooters>といい、よく判らない名詞が出て来るので、ここの訳には手を焼いた。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(1)

<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味

【訳文】

 冷たい空気が換気口から勢いよく流れ込んできた。天辺までは遠いようだった。一時間にも思える三分間が過ぎ、喇叭のように開いた口からおそるおそる頭を突き出した。近くの帆布を張った救命ボートが灰色のぼやけた物のように見えた。低い声が闇の中で何かつぶやいた。サーチライトの灯りがゆっくりと円を描いた。光はずっと上から来た。おそらく途中で切られたマストに据えられた手すり付きの台座の上だろう。そこにはトミーガン片手の若い者もいるにちがいない。軽いブローニングも持ってるかもしれない。ぞっとする仕事だ。誰かが親切心で搬入口を開けっ放しにしておいてくれても、何の慰めにもならない。
 かすかに聞こえる音楽は、安物のラジオのようなわざとらしい低音が耳についた。頭上には檣頭のライト。そして高い霧の層を通して、冷たい星が幾つか睨みをきかせていた。
 私は換気口から這い出し、肩のホルスターから三八口径を抜き、肋骨に巻きつけるようにして袖で隠した。忍び足で三歩歩いて耳を澄ました。何も起きなかった。ぶつぶつという話し声は止んだが、私のせいではなかった。今では判っていた。声がしたのは二隻の救命ボートの間だ。そして不思議なことに、夜や霧の中から、要るだけの光が集まってきて焦点を一つに絞り、高い三脚に据えられて手すりの上からぶら下がった機関銃の暗く硬い筒先を照らした。傍らに立つ二人の男は、身じろぎもせず、煙草も吸わず、またぶつぶつと話しだした。言葉になることのない静かなささやき声だった。
 そのささやき声に耳を傾けすぎた。背後から別の声がはっきり聞こえた。
「申し訳ありません。お客様はボート・デッキには出られないことになっています」
 急ぐ素振りを見せず振り返り、相手の手を見た。ぼんやり浮かんだ両手は空っぽだった。
 頷きながら脇に身を寄せると、ボートの端が我々を隠した。男は静かに私の後についてきた。湿った甲板に靴音は立たなかった。
「どうやら、迷ったようだ」私は言った。
「そのようですね」若々しい声で、厳しく叱責する声ではなかった。「しかし、甲板昇降口の階段にはドアがあります。ばね錠がついていて、よくできた錠前です。以前は階段は開放されていて、真鍮の看板をかけた鎖が張られていました。それでは元気のいい客なら跨ぎ越えるだろうと気づきましてね」
 彼は長いあいだしゃべっていた。客あしらいなのか、何かを待っているのか、どちらか分からなかった。私は言った。「誰かがドアを閉め忘れたようだ」
 陰になった頭が頷いた。私より背が低かった。
「とはいえ、こちらの立場も察してください。もし誰かの閉め忘れだったら、ボスは放って置かないでしょう。誰かの閉め忘れでないなら、どうやってここに来られたのか知りたい。あなたならご存知のはずだ」
「いい考えがある。下に行ってボスと話そう」
「お友だちと一緒に来られたのですか?」
「とても愉快な連中だ」
「お友だちと一緒にいるべきでしたね」
「言わずもがなだが―振り返ったら他の男が彼女に飲み物をおごってるんだ」
 彼はくすくす笑った。それから顎をかすかに上げ下げした。
 私は身を低くして横っ飛びに飛んだ。静まり返った空気の中をブラックジャックが長い溜め息をついた。そばにあるブラックジャックはみんな自動的に私に向かって振り下ろされることになっているみたいだ。
 背の高いのが悪態をついた。
 私は言った。「かかってこいよ。ヒーローになれ」
 私はカチリと派手な音を立てて安全装置を外した。
 つまらない芝居でも時には大当たりをとることがある。背の高い方は根を生やしたみたいに立ちすくんだ。手首にブラックジャックが揺れているのが見えた。さっきまで話していた方の男は慌てることなく何やらじっと考えていた。
「その手には乗らないよ」彼は重々しく言った。「あなたが船を降りることはないだろう」
「それについても考えたが、君は気にしてないだろうと思ってたよ」
 あいかわらずのさえない芝居だ。
「望みは何だ?」彼はおだやかに訊いた。
「私は派手な音のする銃を持っている」私は言った。「だが、騒ぎ立てたいわけじゃない。ブルネットと話がしたいだけだ」
「仕事でサンディエゴに行っている」
「彼の代役と話そう」
「たいした度胸だ」話の分かる男は言った。「下に降りよう。ドアを通る前に銃をひっこめてくれ」
「ドアを通り抜けることができたら、銃はひっ込めよう」
 彼はかすかに笑った。「持ち場に戻れ、スリム。ここは俺に任せろ」
 男は私の前でのらりくらりと動いた。背の高い男は暗がりに消えたようだ。
「それじゃあ、ついて来るがいい」

【解説】

「おそらく途中で切られたマストに据えられた手すり付きの台座の上だろう」は<probably a railed platform at the top of one of the stumpy masts>。清水訳は「おそらく、マストの頂上から照らしているのであろう」と詳しい説明を省いている。村上訳は「おそらく途中まで断ち切られたマストの上につけられた手すり付きの台座に据えられているのだろう」。

「ぞっとする仕事だ。誰かが親切心で搬入口を開けっ放しにしておいてくれても、何の慰めにもならない」は<Cold job, cold comfort when somebody left the loading port unbolted so nicely>。清水氏はこの一文をまるまるカットしている。<cold comfort>は「少しも慰めにならないもの」という意味。<cold job>との語呂合わせだろう。村上訳は「おっかない話だ。誰かさんが荷物積み入れ口を親切に開けたままにしておいてくれたところで、さして慰めにはならない」。

「かすかに聞こえる音楽は、安物のラジオのようなわざとらしい低音が耳についた」は<Distantly music throbbed like the phony bass of a cheap radio>。清水訳は「音楽が安っぽいラジオの音楽のようにかすかに聞こえていた」と<throbbed like the phony bass>をきちんと訳していない。村上訳は「遠くから流れてくる音楽は、安物のラジオの低音みたいにぼそぼそと聞こえた」。<throb>は「鼓動する」の意味で、どきどき、ずきんずきん、と規則的に響いてくる動きのこと。「ぼそぼそと」というのとは違う。

「冷たい星が幾つか睨みをきかせていた」は<a few bitter stars stared down>。清水訳は「心細い星がいくつか光っていた」。村上訳は「いくつかの星が凍てつくように光っているのが見えた」。<bitter>には「苦い、つらい、厳しい、冷酷な」のような意味があるが「心細い」というのはない。文末の<stare down>は「見下ろす」という自動詞の他に、「にらみ倒す、おとなしくさせる」という他動詞としての用法がある。「心細い」のは星ではなく、誰の助けも得られないマーロウの方だ。

「そして不思議なことに、夜や霧の中から、要るだけの光が集まってきて焦点を一つに絞り、高い三脚に据えられて手すりの上からぶら下がった機関銃の暗く硬い筒先を照らした」は<And out of the night and the fog, as it mysteriously does, enough light gathered into one focus to shine on the dark hardness of a machine gun mounted on a high tripod and swung down over the rail>。

清水訳は「そして夜が暗く、霧が立ちこめていたにもかかわらず、そこに一台の機関銃が据えられ、銃口を海面に向けているのが見えた」。実にあっさりしたものだ。村上訳は「そして夜の霧の中で、何かしら神秘的な成り行きによって、光がほどよく集まってひとつに焦点を結び、機関銃の黒々とした硬い銃身をぎらりと光らせた。機関銃は高い三脚の上に据えられ、手すりの上から周囲を睥睨(へいげい)していた」。いくら「神秘的な成り行き」にせよ、夜霧の中で銃身が「ぎらりと」光ったりするものだろうか。

「若々しい声で、厳しく叱責する声ではなかった」は<He had a youngish voice, not chewed out of marble>。清水訳は「彼は若々しい声でいった」と、後半をトバしている。村上訳は「若々しい声だった。大理石から切り出したようないかつい声ではない」。これは誤訳だろう。<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味の俗語だ。<marble>には「冷たい」という意味がある。

「そばにあるブラックジャックはみんな自動的に私に向かって振り下ろされることになっているみたいだ」は<It was getting to be that every blackjack in the neighborhood swung at me automatically. The tall one swore>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「手近にあるブラックジャックはすべて、自動的に私に向かって振り下ろされるように設定されているのかもしれない」。

「つまらない芝居でも時には大当たりをとることがある」は<Sometimes even a bad scene will rock the house>。清水訳は「まずい演出の場合でも、観客にうけることがある」。村上訳は「ときには月並みな台詞が馬鹿にできない力を発揮することもある」だ。村上氏は<scene>を「台詞」と解しているが、<scene>には安全装置を外した音を聞かせることも含めているのではないか。

「その手には乗らないよ」は<This won't buy you a thing>。清水訳は「騒いでも、何にもならない」。村上訳は「よく考えた方がいい」だ。<won't buy ~>は「~に騙されない」という意味だ。この男はマーロウに対して何かを命じているわけではない。こちらとしてはあなたを信じる気はない、と言っているのだ。

「それについても考えたが、君は気にしてないだろうと思ってたよ」は<I thought of that. Then I thought how little you'd care>。清水訳は「それは、わかってる。だが、どう出て来るか、試してみたかったんだ」。村上訳は「考えても詮ないことは考えないようにしているのさ」。両氏の訳が全く異なる。村上氏は一つ前の「よく考えた方がいい」を受けた訳になっているのだろう。しかし、原文とはかなり異なる訳になっている。

「男は私の前でのらりくらりと動いた」は<He moved lazily in front of me and the tall one appeared to fade into the dark>。清水氏はこの部分を「ついて来たまえ」の後に動かし「優しい声の小男はそういって歩き出した」と訳している。村上氏は「彼が私の前であきらめたように身体の向きを変えると」と訳している。<move lazily>は「のろのろと動く」の意味だ。「歩き出」したり「身体の向きを変え」たりはしていない。スリムと呼ばれた男が自分の言う通りに動くかどうか確かめるため時間を稼いでいたのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(2)

<Sometimes a guy has to>は「男はつらいよ

【訳文】

 彼は奇妙な表情を浮かべながら目を背けたが、そこの光では読み取れなかった。私は彼の後について、箱や樽の間を抜け、ドアについた高い鉄の敷居を乗り越え、船の臭いのする長く薄暗い通路へと入っていった。そこを抜けると鉄格子の足場に出て、油でつるつるになり、つかまりにくい鉄梯子を降りた。オイル・バーナーのゆっくりしたシューッという音が今やあたりを満たし、他のあらゆる音を覆い隠していた。我々は物言わぬ鉄の山間を縫って音のする方に向かった。
 角を回ると、紫色のシルクのシャツを着た薄汚れたイタリア系の小男が見えた。針金で補強した事務用椅子に座り、天井からぶら下がった裸電球の下で、黒い人差し指と、おそらく彼の祖父のものだったろう金属縁の眼鏡の助けを借りて夕刊を読んでいた。
 レッドは忍び足で背後に回り、そっと声をかけた。
「やあ、ショーティ、子どもたちは元気にしてるか?」
 イタリア人はカクンと口を開け、紫のシャツの開口部に手を伸ばした。レッドは男の顎の角を殴り、倒れようとするところを支えた。その体をそっと床に寝かし、紫のシャツを引き裂きにかかった。
「これは間違いなくこいつを拳骨より痛い目に合わせるだろう」レッドは優しく言った。「だが、換気口の梯子を上ろうとすれば下に派手な音を立てる。上には何も聞こえない」
 彼は手際よくイタリア人を縛り、猿ぐつわをかませると、眼鏡を畳んで安全な場所に置いた。それから我々は格子のはまっていない換気口に歩を進めた。私は上を見上げたが、暗くて何も見えなかった。
「じゃあな」私は言った。
「もしかしたら、少し助けが必要なんじゃないか」
 私は濡れた犬のように身震いした。「本当は海兵隊一個中隊を必要としている。しかし、一人でやるか、やらないでおくかのどちらかだ。それじゃ」
「どれくらいいるつもりだ?」彼の声はまだ心配そうだった。
「一時間以内だ」
 彼はじっと私を見て唇を噛んだ。それから頷いた。「男はつらいよ」彼は言った。「暇ができたら、ビンゴ・パーラーに顔を出してくれ」
 彼はそっと歩き去った。四歩歩いたところで戻ってきて「あの開けっ放しの搬入口」彼は言った。「何かの時の役に立つかもしれん。使うといい」そう言うと、さっさと行ってしまった。

【解説】

「彼は奇妙な表情を浮かべながら目を背けたが、そこの光では読み取れなかった」は<He turned away from me with a curious look I couldn't read in that light>。清水訳は「レッドは不思議な眼つきを見せて、私からはなれていった。光線が暗く、私は彼の眼を読むことができなかった」。村上訳は「レッドはわけありげな顔をしてあちらを向いたが、貧弱な明かりの下では、細かい表情までは読めなかった」。原文のどこにも暗さについての新たな言及はない。

「そこを抜けると鉄格子の足場に出て、油でつるつるになり、つかまりにくい鉄梯子を降りた」は<We came out of this on to a grilled steel platform, slick with oil, and went down a steel ladder that was hard to hold on to>。清水訳は「通路を出たところは、油でツルツルすべる鋼鉄の床で、私たちはそこから、鉄梯子を降りた」。床が「格子状」であること、梯子がつかみにくいことがが抜け落ちている。

村上訳は「通路を出ると、格子状の鉄でできた床になっていた。オイルでつるつるしている。そこから下に降りる鉄の梯子は、手でしっかりつかんでいるのが難しかった」。新旧訳ともに<slick with oil>を<platform>を修飾するものと解釈しているが<hard to hold on>とあるので、同じ鉄製の梯子も油で滑りやすくなっている、と取るべきだろう。

「オイル・バーナーのゆっくりしたシューッという音が今やあたりを満たし、他のあらゆる音を覆い隠していた」は<The slow hiss of the oil burners filled the air now and blanketed all other sound>。清水訳は「重油の燃える音が、その他のすべての音を消していた」。村上訳は「オイル・バーナーのしゅうっという緩やかな鋭い音が今ではあたりに満ちて、他のすべての音を圧倒していた」。

「オイル・バーナー」というのは「水蒸気の力で油を霧状にし,空気流中に噴射して燃焼させる」装置なので、意味としては清水訳の通りなのだが、残念ながら、どんな音かが分からない。<hiss>は村上訳の通り<しゅうっという>音なのだが、「緩やかな鋭い音」というのは、一体どんな音なのだろう。「ヒス音」からの連想でつい「鋭い」と入れたのだと思うが、かえってどんな音か分からなくしてしまっている。

「我々は物言わぬ鉄の山間を縫って音のする方に向かった」は<We turned towards the hiss through mountains of silent iron>。清水訳は「私たちは鋼鉄の林のあいだを抜けて、その音のする方へ歩いて行った」と、「山」を「林」に替えている。村上訳は「むっつりとそびえ立つ鉄の塊のあいだを抜けて、我々はその鋭い音に向けて進んだ」と「塊」に替えている。何分にも比喩なので、目くじらを立てるところではないが、参考までに。

「角を回ると、紫色のシルクのシャツを着た薄汚れたイタリア系の小男が見えた」は<Around a corner we looked at a short dirty wop in a purple silk shirt >。清水訳は「角をまがると、紫色のシャツを着た薄汚い小男」。村上訳は「角をまがったところに、紫色のシャツを着たすすけた(傍点四字)イタリア系の小男がいた」と、両氏とも<silk>を忘れている。清水氏が訳していない<wop>はラテン系、特にイタリア人を指す蔑称。<short dirty wop>と続けたところに差別意識が強く出ている。

「天井からぶら下がった裸電球の下で、黒い人差し指と、おそらく彼の祖父のものだったろう金属縁の眼鏡の助けを借りて夕刊を読んでいた」は<under a naked hanging light, and read the evening paper with the aid of a black forefinger and steel-rimmed spectacles that had probably belonged to his grandfather>。清水訳は「裸の電灯の下で、祖父の代から伝わっているような鉄ぶちの眼鏡をかけて夕刊を読んでいた」。

村上訳は「真っ黒な人差し指と、金属縁の眼鏡の助けを借りて、裸電球の下で夕刊を読んでいた。その眼鏡はおそらく彼の祖父がかつて使っていたものだろう」。清水訳は<with the aid of a black forefinger>が抜けている。また両氏とも<hanging>を訳し忘れている。頭上近くにぶら下がった裸電球の光で、指で文字をたどりながら新聞を読む男のイメージは絵に描いたようではないか。

「やあ、ショーティ、子どもたちは元気にしてるか?」は<Hi, Shorty. How's all the bambinos?>。<shorty>は「背が低い」ことを意味する。日本語なら「ちび」だ。清水訳はここもそれを使わず「こんばんは。どうだい、今日のレースは?」。新聞を見ていることから<bambinos>.(赤ん坊)を馬と解したのだろう。村上訳は「よう、ショーティー。子供たちは元気かね?」。

「これは間違いなくこいつを拳骨より痛い目に合わせるだろう」は<This is going to hurt him more than the poke on the button>。清水訳は「頭を殴りつけるより、この方がきくんだ」。村上訳は「こんなことをされるのは、顎に一発食らうよりも、こいつにとってはこたえるはずだ」。<poke>は俗語で「殴る」の意味。<on the button>は「(言ったことが)まったく正しい」という意味だ。清水氏は頭より顎を殴ったことが男にとって効いた、と取っているようだが、この場合の<this>は、シルクのシャツを裂かれることだろう。

男はつらいよ」と訳したのは<Sometimes a guy has to>。意味としては「時には男は(したくなくても)しなければならない(ことがある)」。清水氏はここをカットしている。いい文句なのに。村上訳は「男であるというのは時としてきついものだ」。マーロウのセリフなら、このきざったらしい文句もありだろうが、レッドの口から出るとしたら、もっとくだけた文句にしたい。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(1)

<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「大評判をとる」

【訳文】

回転するサーチライトは 霧を纏った青白い指で、船の百フィートかそこら先の波をかろうじて掠めていた。体裁だけのことだろう。とりわけ宵の口のこの時刻とあっては。賭博船のいずれか一方の売り上げ金強奪を企むとしたら大勢の人数が必要だ。襲撃は朝の四時頃になる。その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ、乗組員も疲れでぐったりしている。それでも金儲けの手段としては悪手だ。一度試した者がいる。
 水上タクシーが旋回して浮き桟橋に横づけし、客を降ろして岸の方へ戻っていった。レッドはサーチライトの光の届かない位置で、快速艇をアイドリングさせていた。もし面白半分に数フィートばかり持ち上げられたら―しかしそんなことは起きなかった。光は気怠げに単調な水を照らして通り過ぎた。快速艇は光の通り道を横切り、船尾から伸びる二本の太い錨綱をすり抜けて、張り出し部分の下にすばやく潜り込んだ。そして、船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように。
 両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった。それは手が届かないほど高く、もし手が届いたとしても、開けるには重すぎるように見えた。快速艇はモンテシートの古ぼけた側面をこすり、足の下ではうねる波がひたひたと船底を叩いていた。傍らの暗闇に大きな影が浮かび上がり、巻かれたロープが滑るように空中を上がっていき、何かに引っかかり、端が落ちて水しぶきを上げた。レッドは鍵竿で釣り上げ、しっかりと引っ張って、端をエンジンのカウリングのどこかに固定した。霧が立ち込めて、何もかもが非現実的に思えた。湿った空気は愛の燃え殻のように冷たかった。
 レッドが私の方に屈みこみ、息が私の耳をくすぐった。「船体が高く上がり過ぎている。強い波が一撃すればスクリューがまる見えだ。それでもこの鉄板を上っていくしかない」
「待ち切れないな」身震いしながら、私は言った。
 彼は私の両手を舵輪に置き、望む通りの位置まで回し、スロットルを調節し、ボートを今の状態で保つように言った。鉄板の近くに鉄の梯子がボルト留めされていた。船体に沿ってカーブし、横桟は油塗れの棒のように滑りやすいだろう。
 そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた。レッドは、ズボンに手を強くこすりつけてタールをつけた。それから梯子に手を伸ばし、静かに体を引っ張り上げた。うなり声一つ立てなかった。スニーカーが金属の横桟に引っかかった。そして体をほとんど直角にして踏ん張った。もっと牽引力を得るためだ。
 サーチライトの光は今では我々から遠く離れた場所を掃照していた。光が水に跳ね返り、私の顔を炎のように揺らめかせたが、何も起きなかった。頭上で蝶番が軋む重く鈍い音がした。黄味を帯びた光がほんの僅か霧の中に漏れ出てやがて消えた。搬入口の輪郭が半分見えた。内側から掛け金がかけられていなかったらしい。どうしてなのか、訳が分からない。
 囁き声が聞こえた。意味をなさないただの音だった。私は舵輪から手を離して上り始めた。それは今までやった中で最も辛い旅だった。息を切らし、喘ぎながら着いたのは、饐えた臭いのする船倉で、荷造り用の箱や樽、巻かれたロープ、錆びた鎖の塊などが散乱していた。隅の暗がりで鼠が甲高い声を上げた。黄色い光は向こう側の狭いドアから漏れていた。
 レッドが私の耳に唇を近づけた。「ここをまっすぐ行くと、ボイラー室の狭い通路に出る。補助動力の一つに蒸気を焚いてるんだ。このおんぼろ船にはディーゼルがないからな。船倉にいるのは多分一人だけだ。乗組員は甲板に上がって一人何役もこなしている。胴元、監視人、ウェイター等々。誰もが船の乗組員らしく見えなきゃならない、そういう契約なんだ。ボイラー室からは格子の嵌っていない通風孔にご案内だ。そこからボート・デッキに行ける。ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」
「船に親戚でも乗ってるみたいだな」私は言った。
「もっと妙なことがいくらでも起きてるよ。すぐに戻ってくるかい?」
「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」と言って、私は財布を取り出した。「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」
「あんたはもうこれ以上俺に借りはない」
「帰りの運賃を払っておこうというのさ。たとえ使うことがなくてもな。泣き出して君のシャツを濡らす前に取ってくれ」
「上で手助けはいるか?」
「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
「金はしまっておけ」レッドは言った。「帰りの料金は支払い済みだ。怖いんだろう」彼は私の手を取って握った。その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた。「怖いのは分かる」彼は囁いた。
「乗り越えてみせるさ」私は言った。「何とかして」

【解説】

「賭博船のいずれか一方の」は<one of these gambling boats>。清水訳は単に「賭博船」。村上訳は「この二隻の賭博船の」だ。<one of these>は「どちらか一つ」の意味なので、両氏の訳は正しくない。

「その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ」は<when the crowd was thinned down to a few bitter gamblers>。清水訳は「客が減り」と<a few bitter gamblers>はスルーしている。村上訳は「その時刻には客の数も減って、せいぜい数人の負けっぷりの悪い連中だけになっている」と訳している。<bitter>を「負けっぷりの悪い」と噛みくだいてみせるところはさすがだが<gambler>はプロの賭博師のことだ。一般客と同じように扱うのはどうだろう。

「船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように」は<We sidled up to the greasy plates of the hull as coyly.as a hotel dick getting set to ease a hustler out of his lobby>。清水氏は「船体の油だらけの鉄板が、ホテルの探偵がゆすり(傍点三字)に来た男をロビイに入れまいとするように、私たちのすぐ眼の前にあった」と訳している。

村上訳は「そしてまるでホテルの探偵がロビーから売春婦にお引き取り願おうとするときのように、船体についた油だらけの何段かの平板(ひらいた)にさりげなくにじりよった」。<hustler>には「やり手、詐欺師、街娼」などの意味がある。ここは<coyly>(はにかんで、恥ずかしそうに)が鍵になる。強請りに来た男を追い払うのに「恥ずかしそうに」する探偵はいない。清水氏は<We sidled up>を読み飛ばしたのだろう。<sidle up>は「にじり寄る」という意味だ。

「両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった」は<Double iron doors loomed high above us>。清水氏は例によって「眼をあげると、二重の鉄の扉が見えた」とやっている。開いてもいないのに二重だと分かるわけがない。村上訳は「両開きの鉄扉が頭上に見えた」。<loom>は「(闇などから)ぬっと現れる,ぼんやりと大きく見えてくる」という意味だ。この場合は霧の中から、突然現れたのだろう。

「そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた」は<Going up it looked as tempting as climbing over the cornice of an office building>。清水訳は「ビルディングの壁を登るのと同じようなものだ」。「軒蛇腹」(cornice)というのは、雨仕舞のためにつけられた古典建築の建物の最上部に突出した庇状の部分のこと。壁の一部ではあるが、壁ではない。村上訳は「その梯子を上っていくことは、高層ビルについたでっぱりを越えるのと同じくらい心をそそった」。

「それは今までやった中で最も辛い旅だった」は<It was the hardest journey I ever made>。清水訳は「一時間もかかったような努力だった」。どうしてこういう訳にしたのか、その意図が分からない。村上訳は「それは私がこれまで辿った道のりの中で、最も困難をきわめた代物だった」。洒落た言い回しだが、原文はもっと直截的だ。

「このおんぼろ船にはディーゼルがないからな」は<because they don't have no Diesels on this piece of cheese>。清水訳は「ディーゼル・エンジンはないんだ」と<on this piece of cheese>をスルーしている。村上訳も「この船にはディーゼル・エンジンがついていないからね」とチーズについては知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。

<like a piece of Swiss cheese>という例文がある。「スイスチーズのように(穴だらけ)」から転じて「(激しい銃撃を受けて)ハチの巣状態に、ボコボコにされて」という意味。貨物船のおんぼろ具合を揶揄っているのだろう。

「ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」は<the boat deck is out of bounds. But it's all yours-while you live>。清水訳は「ボート・デッキは立入禁止になっているんだが、そこまで出られれば何とかなるだろう。それまで生命(いのち)があればだが……」。<it's all yours>も<while one lives>も、よく使われる言い方だ。前者は「すべては君のものだ」つまり「どうぞご自由に」という意味。後者は「息のあるうちに、目の黒いうちに」の意味。

村上訳は「(パイプは船の甲板に通じていて、)そこは客には立入り禁止になっている。しかしあんたはそこを自由に歩くことができる。つまり生きているあいだは、ということだがな」。村上氏は「ボート・デッキ」(端艇甲板)をただの「甲板」と訳している。その前の<play decks>も同じく「甲板」だ。船にはいくつもの甲板がある。きちんと訳し分けないと、客の立入り禁止になっている場所で賭け事が行われていることになる。さすがにそれはまずいだろう。

「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」は<I ought to make a good splash from the boat deck>。清水訳は「ボート甲板(デッキ)から先がうまくゆけば……」。村上氏はここにいたっても「ボート・デッキ」を無視し「海に放り込まれたら耳に届くはずだ」と訳している。<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「あっと言わせる、大評判をとる」など、多くの人々に注目されたり、強い印象を与えたりすることを意味するイディオムだ。

「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」は<I ought to make a good splash from the boat deck, I think this rates a little more money. Here. Handle the body as if it was your own>。清水訳は「約束の料金では安すぎる。この中の要るだけ取ってくれ」と、後半をカットしている。村上訳は「そうなると、余分の手間賃が必要だろう。受け取ってくれ。自分の死体だと思って丁重に扱ってくれよな」

「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
は<All I need is a silver tongue and the one I have is like lizard's back>。清水訳は「舌さえあればいいんだ。しかし、自信はないね」。<silver tongue>というのは「弁舌の立つこと、雄弁」の意味。銀食器のような滑らかさをいうのだろう。村上訳は「必要としているのは、銀の滑らかな舌なんだが、あいにく、持ち合わせているのはトカゲの背中みたいな代物だ」。

「その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた」は<His was strong, hard, warm and slightly sticky>。清水訳は語順を入れ替え「かたくて、温かくて、強そうな手だった」とし、コールタールのべたつきを訳していない。こういう細かなところに神経を使うのがチャンドラーという作家なのだが。村上訳は「彼の手は強くて、硬くて、温かくて、僅かにべたべたしていた」。