スマイリー三部作をはじめとして、ル・カレの小説は再読を強要する。一読して分からないというのではない。時間や場所、登場人物の異なる複数のストーリーが並行して展開する小説は少なくないし、もっと大量の人物が交錯する小説も何度も読んできている。文章が難解というのでもない。平易な語り口で会話も多用されている。それでは、どうしてこうも読み返したくなるのだろう。
その秘密は、プロットにある。物語なら「王が死に、それから王妃が死んだ」と語られる。これがストーリー。小説になると「王が死に、悲しみのあまり王妃も死んだ」と、王妃の死の原因らしきものが述べられる。これがプロット。「王が死に、続いて王妃が死んだ。人々はそれを怪しんだが、王妃は夫の死を悲しんで死んだのであった」というのがより高級なプロット、というのはE・M・フォスター(『小説の諸相』)。
それからどうなるのか、というストーリー展開で話を読ませる書き手とちがい、プロットに重きを置く作家は「なぜ、そうなったのか」という点に重点を置いて小説を構成していく。結末でその謎を解いて、読者をあっといわせるわけだ。ル・カレの場合、結末まで読んでも解かれない謎がいくつも残っている。「あれは、いったいどういうことなのか」という解決されない疑問を追って、読者は再読を迫られるのである。
ル・カレの小説にはめずらしく若い女性が主人公。チャーリィはイギリス人。スポンサーの招待で芝居仲間とギリシャのミコノス島に滞在中、ジョゼフという男にくどかれ、仲間と別れ一緒にギリシャを旅行することになる。あちこち連れまわされた果てに誘拐され、尋問を受ける。相手はイスラエルの情報部員で、当時ヨーロッパで頻繁に起きていた爆弾テロの犯人を追っていた。ところが、首謀者と思われるハリールという男だけは写真一枚の手がかりも得られず捜査は行き詰っていた。
リーダーのクルツは、爆弾を運ぶ役に必ず若い女を使うハリールの手口を逆手にとり、仲間を敵の組織内に潜入させる計画を立てる。役者で、反シオニストの集会に何度も参加し、ハリールの弟の講義も聞いたことのあるチャーリィは、その役にうってつけだったのだ。リクルートされたチャーリィは、ハリールの弟の恋人を装い、プラスチック爆弾を満載した車ごと国境を越えることで、まんまとテロリストグループの仲間入りを果たす。しかし、レバノンで訓練を受けるうち、チャーリィの心のうちに変化が生じる。「土地なき民」であるユダヤ人がパレスチナにイスラエルという国家を建設したことから起きるパレスチナ難民の悲劇。念願の中東問題を主題にしたル・カレ渾身の一作である。
無関係の市民を巻き込む爆弾テロは許されない。しかし、イスラエル軍による爆撃でパレスチナの子どもや老人が何人死んだか。かつて自ら住む土地を奪われ離散を経験したユダヤ人が故国と呼べる地を希求する気持ちは理解できる。しかし、その結果がパレスチナ人から故郷を奪うことになるのは矛盾でしかない。相反するイデオロギーの対立を回避するのではなく、イスラエル人、パレスチナ人、在外ユダヤ人、ドイツ人、イギリス人、強制収用所経験者、戦後世代と、さまざまな立場に身を置く人々のポリフォニックな声を響かせながら、中東問題を考えさせる、作者も認める啓蒙的な書となっている。
ル・カレ自身の来歴にまつわるアイデンティティの不確かさというテーマも健在で、チャーリィは、男出入りの乱脈さから放校処分となったのに、父親が詐欺罪で刑に服したためやむなく学校をやめたなどと、嘘で固めたプロフィールをエージェントにかたっている。過激な思想に肩入れし、集会にもたびたび参加するが、その実はマリファナとフリーセックス目あてである。この自己同一性というものを持たないチャーリィがジョゼフという演出家を得て、劇場における芝居ではない「現実劇場」に足を踏み入れることにより、覚醒し、自らを発見し、真実の愛を得るという、しごく健全なテーマが一本通っているところが、単なるエンタテインメント小説と一線を画している。
ジョゼフがリクルートする前のチャーリィは、愛すべき女性ではあるが、自分で自分を扱いかねている。役者という職業は、いろいろな人間に扮することができる。しかし、それは、逆に自分が何者でもないことをカモフラージュする言い訳にもなる。ジョゼフが、チャーリィに与えた、パレスチナ人の恋人の死を契機にテロリストとなる悲劇の主人公というフィクションを演じることは、それまで真剣に見つめてこなかった世界というものを再発見することになる。チャーリィはフィクションを生きることで、生まれてはじめて自分の生を実感するのだ。
ジョゼフにとって、彼の操作で思うように動く素人スパイのチャーリィは、いわば人形のようなもの。しかし、しだいに彼は人形に恋をするようになる。それと同時に、これまで命じられるままに動いてきた自分を逸脱し始める。自分を持たなかった女がはっきりした人格を所有し、他者に対し心を開くことのなかった男が人を愛するようになる。『リトル・ドラマー・ガール』は、ピグマリオンのテーマをエスピオナージュの世界に置き換えた愛の物語でもある。
ひとが自分というものを理解し、愛することができるようになるためには、他者を必要とすること。他者を愛することで、そういう自分を発見し、自分をも愛せるようになっていくということを、チャーリィとジョゼフという二人の人物の姿を借りて説いている。『純情でセンチメンタルな恋人』という恋愛小説もものしたことがあるル・カレ。不評でスパイ小説にもどったというが、案外心の底に秘められた恋愛願望があったのかもしれない。