marginalia

読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『情事の終り』 グレアム・グリーン

第二次世界大戦中のロンドン。作家のモーリス・ベンドリクスは官吏のことを書いた小説の取材のため、パーティーで知り合ったばかりのヘンリ・マイルズの妻、セアラに近づく。しきりと夫のことを知りたがる小説家に好感を抱いたセアラと、文学や映画についての話ができることを喜んだモーリスは一気に恋に落ちる。戦時下、国内安全省に勤務するヘンリの目を盗んで情事に耽る二人だったが、一九四四年六月のある日を境に突然セアラはモーリスの前から姿を消してしまう。

小説は二年後の一九四六年一月の夜から書き出される。一杯飲もうと家を出たベンドリクスは、雨の中ずぶ濡れになって公園を横切るヘンリを見かけ声をかける。誘われて寄ったヘンリの家で近頃よく家を空ける妻の素行を疑っていることをヘンリは洩らす。似た者同士の境遇にほだされたのとセアラに別の男ができたことに嫉妬したベンドリクスは、気が進まないヘンリに代わり探偵事務所を訪ねることに。一方、再会したモーリスとセアラは二年ぶりに昔よく通った店で食事をする。セアラはセアラで近頃夫の様子がおかしいことを心配していた。

女中を手なずけた探偵は、セアラの書き損じの手紙をベンドリクスに届ける。そこには自分以外の男に寄せる激しい愛の言葉が書かれていた。セアラの新しい恋の相手は誰なのか。二年前の六月、なぜ彼女は姿を隠したのか。探偵の調査によって、少しずつ事の真相が明らかになる。そこには、神ならぬ身の想像もつかない、愛ゆえの神秘が隠されていた。愛とは何か。憎しみとは何か。神は果たして存在するのか。カトリック作家グレアム・グリーンでなければ書き得なかった傑作。

V1号ロケットによる空襲に見舞われる戦時下のロンドンは死と背中合わせの毎日。セアラは爆撃で倒壊した扉の下敷きになったモーリスのために祈った。セアラはそれまで神を信じていなかった。愛する者を奪われないためなら、存在を信じられない神にでも人は祈る。英国においてカトリックの信者はごく上層部の者か、あるいは下層階級の一部に限られる。中産階級に属する大部分の英国人は英国国教徒だ。聖体拝領や洗礼、告解などといったカトリック独特の信仰には一歩距離を置いている。

主人公で語り手の小説家ベンドリクスも、高級官吏のヘンリもその妻セアラもあまり信仰心を持っていない。イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』もそうだが、恋愛を描いた小説において、カトリックが問題になるのは、離婚が許されないということだ。夫のある女が、いくら別の男を愛そうと、離婚できない以上、その男と結婚することができない。真に愛していればいるだけ悩ましいディレンマとなるわけだ。セアラはそれまでもほかの男と関係があったが、モーリスとの恋愛はそれらとはちがっていた。

愛するものの命を救うため、神に祈ったら、神がそれに応えたかのように、男が生還した。神はいるのか?セアラは、公園で神など虚偽だと説くリチャードの家に通い、自分の誓いを守る必要がないことを証明しようとするが、教理問答を続ければ続けるほど、セアラの信仰は強まってゆく。一人称視点の小説であるからセアラの心理の推移は、セアラ自身の口から語ってもらうしかない。作者は探偵が手に入れたセアラの日記をベンドリクスが読むという形で、神への愛とモーリスへの愛に引き裂かれるセアラの苦悩と葛藤の日々を明らかにする。

グリーン自身を思わせる自意識過多な作家が、自己の小説作法を滔々と論じつつ、友人の妻との恋愛事情を語るという、べたな展開に見えた小説は、セアラの日記によってその趣きを変えてしまう。このあたりの急旋回は見事というしかなく、技巧しか取り得がないようにうそぶくベンドリクスの冒頭の独白が思い出されて、グレアム・グリーンという作家の人の悪さに舌を巻くばかりだ。伏線の張り方といい、自己言及的な語りといい、読者を翻弄する作家の手並みの鮮やかさは群を抜いている。

信仰とは無縁に思えた主人公が、神と対話する最後の場面に至るまで、信じられないような「偶然の一致」が顕現し、登場人物を驚かせ、畏怖させる。それまでリアリズム小説、それも主題が不倫というだけに、エンタテインメントに近いものを感じつつ読んでいた読者は、ここに至って一挙に居ずまいを正して読むように迫られる。いやはや、畏れ入った。新訳もあるらしいが、訳者が永川礼二氏とあるので、あえてこれを選んだ。こなれた訳で実に読みやすい。機会があれば新訳のお手並みは意見といきたいところだ。