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読んだ本の話や一緒に暮らす猫のこと、それと趣味ではじめた翻訳の話など。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(1)

<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「大評判をとる」

【訳文】

回転するサーチライトは 霧を纏った青白い指で、船の百フィートかそこら先の波をかろうじて掠めていた。体裁だけのことだろう。とりわけ宵の口のこの時刻とあっては。賭博船のいずれか一方の売り上げ金強奪を企むとしたら大勢の人数が必要だ。襲撃は朝の四時頃になる。その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ、乗組員も疲れでぐったりしている。それでも金儲けの手段としては悪手だ。一度試した者がいる。
 水上タクシーが旋回して浮き桟橋に横づけし、客を降ろして岸の方へ戻っていった。レッドはサーチライトの光の届かない位置で、快速艇をアイドリングさせていた。もし面白半分に数フィートばかり持ち上げられたら―しかしそんなことは起きなかった。光は気怠げに単調な水を照らして通り過ぎた。快速艇は光の通り道を横切り、船尾から伸びる二本の太い錨綱をすり抜けて、張り出し部分の下にすばやく潜り込んだ。そして、船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように。
 両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった。それは手が届かないほど高く、もし手が届いたとしても、開けるには重すぎるように見えた。快速艇はモンテシートの古ぼけた側面をこすり、足の下ではうねる波がひたひたと船底を叩いていた。傍らの暗闇に大きな影が浮かび上がり、巻かれたロープが滑るように空中を上がっていき、何かに引っかかり、端が落ちて水しぶきを上げた。レッドは鍵竿で釣り上げ、しっかりと引っ張って、端をエンジンのカウリングのどこかに固定した。霧が立ち込めて、何もかもが非現実的に思えた。湿った空気は愛の燃え殻のように冷たかった。
 レッドが私の方に屈みこみ、息が私の耳をくすぐった。「船体が高く上がり過ぎている。強い波が一撃すればスクリューがまる見えだ。それでもこの鉄板を上っていくしかない」
「待ち切れないな」身震いしながら、私は言った。
 彼は私の両手を舵輪に置き、望む通りの位置まで回し、スロットルを調節し、ボートを今の状態で保つように言った。鉄板の近くに鉄の梯子がボルト留めされていた。船体に沿ってカーブし、横桟は油塗れの棒のように滑りやすいだろう。
 そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた。レッドは、ズボンに手を強くこすりつけてタールをつけた。それから梯子に手を伸ばし、静かに体を引っ張り上げた。うなり声一つ立てなかった。スニーカーが金属の横桟に引っかかった。そして体をほとんど直角にして踏ん張った。もっと牽引力を得るためだ。
 サーチライトの光は今では我々から遠く離れた場所を掃照していた。光が水に跳ね返り、私の顔を炎のように揺らめかせたが、何も起きなかった。頭上で蝶番が軋む重く鈍い音がした。黄味を帯びた光がほんの僅か霧の中に漏れ出てやがて消えた。搬入口の輪郭が半分見えた。内側から掛け金がかけられていなかったらしい。どうしてなのか、訳が分からない。
 囁き声が聞こえた。意味をなさないただの音だった。私は舵輪から手を離して上り始めた。それは今までやった中で最も辛い旅だった。息を切らし、喘ぎながら着いたのは、饐えた臭いのする船倉で、荷造り用の箱や樽、巻かれたロープ、錆びた鎖の塊などが散乱していた。隅の暗がりで鼠が甲高い声を上げた。黄色い光は向こう側の狭いドアから漏れていた。
 レッドが私の耳に唇を近づけた。「ここをまっすぐ行くと、ボイラー室の狭い通路に出る。補助動力の一つに蒸気を焚いてるんだ。このおんぼろ船にはディーゼルがないからな。船倉にいるのは多分一人だけだ。乗組員は甲板に上がって一人何役もこなしている。胴元、監視人、ウェイター等々。誰もが船の乗組員らしく見えなきゃならない、そういう契約なんだ。ボイラー室からは格子の嵌っていない通風孔にご案内だ。そこからボート・デッキに行ける。ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」
「船に親戚でも乗ってるみたいだな」私は言った。
「もっと妙なことがいくらでも起きてるよ。すぐに戻ってくるかい?」
「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」と言って、私は財布を取り出した。「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」
「あんたはもうこれ以上俺に借りはない」
「帰りの運賃を払っておこうというのさ。たとえ使うことがなくてもな。泣き出して君のシャツを濡らす前に取ってくれ」
「上で手助けはいるか?」
「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
「金はしまっておけ」レッドは言った。「帰りの料金は支払い済みだ。怖いんだろう」彼は私の手を取って握った。その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた。「怖いのは分かる」彼は囁いた。
「乗り越えてみせるさ」私は言った。「何とかして」

【解説】

「賭博船のいずれか一方の」は<one of these gambling boats>。清水訳は単に「賭博船」。村上訳は「この二隻の賭博船の」だ。<one of these>は「どちらか一つ」の意味なので、両氏の訳は正しくない。

「その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ」は<when the crowd was thinned down to a few bitter gamblers>。清水訳は「客が減り」と<a few bitter gamblers>はスルーしている。村上訳は「その時刻には客の数も減って、せいぜい数人の負けっぷりの悪い連中だけになっている」と訳している。<bitter>を「負けっぷりの悪い」と噛みくだいてみせるところはさすがだが<gambler>はプロの賭博師のことだ。一般客と同じように扱うのはどうだろう。

「船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように」は<We sidled up to the greasy plates of the hull as coyly.as a hotel dick getting set to ease a hustler out of his lobby>。清水氏は「船体の油だらけの鉄板が、ホテルの探偵がゆすり(傍点三字)に来た男をロビイに入れまいとするように、私たちのすぐ眼の前にあった」と訳している。

村上訳は「そしてまるでホテルの探偵がロビーから売春婦にお引き取り願おうとするときのように、船体についた油だらけの何段かの平板(ひらいた)にさりげなくにじりよった」。<hustler>には「やり手、詐欺師、街娼」などの意味がある。ここは<coyly>(はにかんで、恥ずかしそうに)が鍵になる。強請りに来た男を追い払うのに「恥ずかしそうに」する探偵はいない。清水氏は<We sidled up>を読み飛ばしたのだろう。<sidle up>は「にじり寄る」という意味だ。

「両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった」は<Double iron doors loomed high above us>。清水氏は例によって「眼をあげると、二重の鉄の扉が見えた」とやっている。開いてもいないのに二重だと分かるわけがない。村上訳は「両開きの鉄扉が頭上に見えた」。<loom>は「(闇などから)ぬっと現れる,ぼんやりと大きく見えてくる」という意味だ。この場合は霧の中から、突然現れたのだろう。

「そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた」は<Going up it looked as tempting as climbing over the cornice of an office building>。清水訳は「ビルディングの壁を登るのと同じようなものだ」。「軒蛇腹」(cornice)というのは、雨仕舞のためにつけられた古典建築の建物の最上部に突出した庇状の部分のこと。壁の一部ではあるが、壁ではない。村上訳は「その梯子を上っていくことは、高層ビルについたでっぱりを越えるのと同じくらい心をそそった」。

「それは今までやった中で最も辛い旅だった」は<It was the hardest journey I ever made>。清水訳は「一時間もかかったような努力だった」。どうしてこういう訳にしたのか、その意図が分からない。村上訳は「それは私がこれまで辿った道のりの中で、最も困難をきわめた代物だった」。洒落た言い回しだが、原文はもっと直截的だ。

「このおんぼろ船にはディーゼルがないからな」は<because they don't have no Diesels on this piece of cheese>。清水訳は「ディーゼル・エンジンはないんだ」と<on this piece of cheese>をスルーしている。村上訳も「この船にはディーゼル・エンジンがついていないからね」とチーズについては知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。

<like a piece of Swiss cheese>という例文がある。「スイスチーズのように(穴だらけ)」から転じて「(激しい銃撃を受けて)ハチの巣状態に、ボコボコにされて」という意味。貨物船のおんぼろ具合を揶揄っているのだろう。

「ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」は<the boat deck is out of bounds. But it's all yours-while you live>。清水訳は「ボート・デッキは立入禁止になっているんだが、そこまで出られれば何とかなるだろう。それまで生命(いのち)があればだが……」。<it's all yours>も<while one lives>も、よく使われる言い方だ。前者は「すべては君のものだ」つまり「どうぞご自由に」という意味。後者は「息のあるうちに、目の黒いうちに」の意味。

村上訳は「(パイプは船の甲板に通じていて、)そこは客には立入り禁止になっている。しかしあんたはそこを自由に歩くことができる。つまり生きているあいだは、ということだがな」。村上氏は「ボート・デッキ」(端艇甲板)をただの「甲板」と訳している。その前の<play decks>も同じく「甲板」だ。船にはいくつもの甲板がある。きちんと訳し分けないと、客の立入り禁止になっている場所で賭け事が行われていることになる。さすがにそれはまずいだろう。

「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」は<I ought to make a good splash from the boat deck>。清水訳は「ボート甲板(デッキ)から先がうまくゆけば……」。村上氏はここにいたっても「ボート・デッキ」を無視し「海に放り込まれたら耳に届くはずだ」と訳している。<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「あっと言わせる、大評判をとる」など、多くの人々に注目されたり、強い印象を与えたりすることを意味するイディオムだ。

「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」は<I ought to make a good splash from the boat deck, I think this rates a little more money. Here. Handle the body as if it was your own>。清水訳は「約束の料金では安すぎる。この中の要るだけ取ってくれ」と、後半をカットしている。村上訳は「そうなると、余分の手間賃が必要だろう。受け取ってくれ。自分の死体だと思って丁重に扱ってくれよな」

「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
は<All I need is a silver tongue and the one I have is like lizard's back>。清水訳は「舌さえあればいいんだ。しかし、自信はないね」。<silver tongue>というのは「弁舌の立つこと、雄弁」の意味。銀食器のような滑らかさをいうのだろう。村上訳は「必要としているのは、銀の滑らかな舌なんだが、あいにく、持ち合わせているのはトカゲの背中みたいな代物だ」。

「その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた」は<His was strong, hard, warm and slightly sticky>。清水訳は語順を入れ替え「かたくて、温かくて、強そうな手だった」とし、コールタールのべたつきを訳していない。こういう細かなところに神経を使うのがチャンドラーという作家なのだが。村上訳は「彼の手は強くて、硬くて、温かくて、僅かにべたべたしていた」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(2)

<get done with>は「(仕事などを)片付ける」という意味。

【訳文】

「連中の思惑は分かる」レッドは言った。「警官の問題は、頭が足りないとか、腐りきってるとか、荒っぽいとか、そんなことじゃない。警官になれば今まで手にしたことがない何かが手に入ると考えるところだ。昔はそんなこともあったかもしれないが、今はちがう。上には頭の切れるやつが腐るほどいるんだ。そこで、ブルネットの話になる。彼が市政を動かしてるわけじゃない。彼は煩わされたくないんだ。市長選の資金を提供したのは自分の水上タクシーに口出しされたくなかったからだ。もし、彼が特別に便宜を図ってほしいと思ったら、その通りになる。以前、彼の友人弁護士が飲酒運転で逮捕されたことがある。飲酒運転は重罪だ。ブルネットは容疑を無謀運転に引き下げさせた。警察はそのために事件記録簿を改竄したが、それもまた重罪だ。一事が万事この調子だ。やつの生業は賭博だが、この頃じゃいろんな稼業が結びついている。そうなると、マリファナも扱ってるかも知れないし、誰かにやらせてあがりを取っているかもしれない。ソンダーボーグを知っていたかどうか、たしかなことは言えない。しかし、宝石強盗はハズレだ。連中の儲けが八千ドルだったとしよう。そんな仕事にブルネットが関係してるというのはお笑い草だ」
「そうだな」私は言った。「人が一人殺されてるんだ。覚えているか?」
「それも彼はやってない。やらせてもいない。もし、ブルネットがやったなら死体は見つからなかったろう。服に何が縫い込まれているか分かったもんじゃない。そんな危ない橋を渡るもんか。なあ、俺は二十五ドルであんたのために動いている。ブルネットはその金で何をするんだ?」
「人を殺させることはないのか?」
 レッドはしばらく考えていた。「あるかもな。おそらくあるだろう。しかし、彼は強面じゃない。あの手のギャングは新種なんだ。彼らのことを考えるとき、つい一昔前の強盗やヤク中のチンピラのように思いがちだ。警察本部長は、やつらはみんな臆病者だとラジオで大口を叩いている。女や赤ん坊を殺し、警官の制服を見たら、命乞いをするってな。たわごとを世間に広めるような馬鹿な真似はやめるべきだ。臆病な警官もいれば、気の弱い殺し屋もいるだろうが、どちらもごく少数だ。それに、ブルネットのようなトップにいる連中は、人を殺してその地位に就いたわけじゃない。知恵と度胸でのし上がったんだ。彼らにないのは警察の持つ一致団結した勇気だ。しかし、何よりもまず彼らはビジネスマンだ。金のために動く。他のビジネスマンと同じさ。時には邪魔になる男が出てくる。オーケイ、消しちまおう。しかし、それをやる前にじっくり考える。やれやれ、俺は何のためにこんな講釈を垂れてるんだ?」
「ブルネットのような男はマロイを匿ったりしない」私は言った。「人二人殺した後では」
「しないね。金以外にこれといった理由がない限り。引き返したくなったか?」
「いや」
 レッドは舵輪に置いた手を動かした。ボートは速度を上げた。「勘違いするな。俺が連中寄りだなどと」彼は言った。「奴らの根性が嫌いなんだ」

【解説】

「市長選の資金を提供したのは自分の水上タクシーに口出しされたくなかったからだ」は<He put up big money to elect a mayor so his water taxis wouldn't be bothered>。清水訳は「市長の選挙に大金を使っているからだ」と、水上タクシーを端折っている。村上訳は「彼は市長選に多額の金を出した。運営している水上タクシーについてうるさいことを言われないようにね」。

「ブルネットは容疑を無謀運転に引き下げさせた。警察はそのために事件記録簿を改竄したが、それもまた重罪だ」は<They changed the blotter to do it, and that's a felony too>。清水氏はここを「ブルネットが口ぞえしたんで、ただのスピード違反ですんじゃった」としている。村上訳は「ブルネットはもっと軽い違反に変更させた。逮捕記録を改竄させたんだ。こいつもまた重罪だ」としている。<They>という主語がなくなることで、ブルネットだけが悪いように読める。この<too>は警察のやったことも「重罪」だと言っているのに。

「ブルネットはその金で何をするんだ?」は<What would Brunette get done with the money he has to spend?>。<get done with>は「(仕事などを)済ませる、終わらせる、やり終える、片付ける」という意味。清水訳は「ブルネットが金を使えば、どんなことをさせられると思う?」。村上訳は「ブルーネットが金を積めばどれほどのことができると思う?」。ほぼ旧訳のままだ。

レッドは、わずか二十五ドルで危険を冒している。それでは、もしブルネットが大金を払ってまで処理しなければならないことがあるとしたら、それはどういうトラブルなんだ、という、レッドの反語的な問いかけと、ここはとるべきではないのだろうか? だからマーロウは、人を使って殺しをやらせることはないのか、と聞いているのだ。

「彼らのことを考えるとき、つい一昔前の強盗やヤク中のチンピラのように思いがちだ」は<We think about them the way we think about old time yeggs or needle-up punks>。清水訳は「ブルネットにかぎらないが、彼らを昔のギャングのように考えるのがまちがいなんだ」と<needle-up punks>をカットしている。村上訳は「俺たちはやつらについて考えるとき、どうしても昔ながらの強盗やら、薬物中毒のちんぴらを思い浮かべる」。

「警察本部長は、やつらはみんな臆病者だとラジオで大口を叩いている。女や赤ん坊を殺し、警官の制服を見たら、命乞いをするってな。たわごとを世間に広めるような馬鹿な真似はやめるべきだ」は<Big-mouthed police commissioners on the radio yell that they're all yellow rats, that they'll kill women and babies and howl for mercy if they see a police uniform. They ought to know better than to try to sell the public that stuff>。

清水氏は「彼らはみんな卑怯もので、女でも子供でも殺すし、警官の姿を見ると、ちぢみ上がって命乞いをすると思っている。警察が国民にそう思わせているんだ」と、かなり原文と異なる。村上訳は「でかい口をきく警察のコミッショナー連中はラジオに出演して、やくざなんてみんな臆病な連中で、女や子供ばかり殺し、制服の警官が現れたら泣いて慈悲を乞うみたいなことを威勢よく言い立てている。そんな与太話を大衆に売り込むよりもっと大事なことがあるだろうにな」。<ought to know better than to>は「もっと分別をもってしかるべき」といういみ。

「奴らの根性が嫌いなんだ」は<I hate their guts>。清水訳は「俺は彼奴らの度胸が嫌いなんだ」と、原文通りに訳している。ところが、めずらしいことに村上氏は「あいつらは許せん」と勝手な言葉に替えている」。ここは何度も出てくる<guts>をきちんと訳すべきところではないのだろうか。清水氏は「度胸」と訳しているが、嫌うなら「根性」の方が座りがいい、と思う。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(1)

波に、親しい波と「よそよそしい波」があるものだろうか?

【訳文】

街灯の列が遠ざかり、小さな遊覧車の立てる音や警笛が遠くなり、揚げ油とポップコーンの匂いが消え、子どもの甲高い声と覗きショーの呼び声も聞こえなくなると、その先には海の匂い、突然顕わになった海岸線、小石を巻き上げる波が泡立ち騒ぐ他に何もなかった。あたりに人影はなく、背後の騒音は消えていた。どぎつくいかがわしい街灯りは手探りするほどの光になりつつあった。やがて、灯りひとつない暗い桟橋が沖合いの闇に指を突き出しているのが見えた。これがそれだろう。私はそちらに歩き出した。
 桟橋の先頭の杭を背にした空き箱からレッドが立ち上がり、上にいる私に声をかけた。「ここだ」彼は言った。「先に行くと乗船用階段がある。俺は彼女を迎えに行ってウォームアップさせておく」
「河岸の刑事が尾けてきた。ビンゴ・パーラーにいた男だ。足止めを食った」
「スリ係のオルソン。腕利きだ。ときどき財布を掏っては別人のポケットに滑り込ませる癖さえなけりゃな。自分の逮捕記録を維持するためさ。いささか腕利きすぎるのかもな?」
「ベイ・シティなら上出来な部類だ。行こう。風が出てきた。霧が晴れてほしくない。大したことはなさそうだが助けにはなる」
「サーチライトを誤魔化すには充分だ」レッドは言った。「甲板の上にはトミー・ガンが待ってる。先に桟橋に行っててくれ。俺は後から行く」
 彼は闇の中に溶けた。私は魚脂でぬめる板張りの床を滑るようにして、暗い桟橋を歩いた。桟橋の先端に汚い低い手すりがあった。一組の男女が片隅に倚りかかっていた。男の方が悪態をついて、二人はどこかに行った。
 十分間、水が杭を叩く音を聞いていた。夜鳥が暗闇の中を旋回し、微かな灰色の翼が視界を横切り、そして消えた。上空を行く飛行機の爆音がした。それから遥か遠くでモーターが雄叫びを上げた。それは吠えたて、咆哮し続けた。半ダースのトラックのエンジンが立てるような音だ。しばらくすると音は和らいで小さくなった。それからぱたりと止んだ。
 また何分かが過ぎた。私は階段まで戻り、濡れた床を行く猫のように注意して下りた。暗い影が夜を抜けだし、ごつんと何かがあたる音がした。声が聞こえた。「用意ができた、乗れよ」
 私はボートに乗り込み、彼の隣の風防の下に座った。ボートは水の上を滑るように走った。今は排気音はしなかったが、船体の両横から激しく泡立つ音が聞こえた。再び、ベイ・シティの街灯りは、外洋の波のうねりに見え隠れする微かな光となった。再び<ロイヤル・クラウン>のけばけばしい明りが片側に消え、船は回るお立ち台上のファッションモデルのように得意気に見えた。そして再び、あの恵み深きモンテシート号の乗船口が漆黒の太平洋から姿を現し、サーチライトがゆっくりとむらなくその周りを灯台の光のように掃照した。
「怖いんだ」私は突然言った。「震えあがるほど」
 レッドが出力を落とし、ボートはうねりに揺られるままになった。まるで同じ場所に留まりながら、その下を水だけが動いているようだった。彼は振り返って私を見つめた。
「死と絶望が怖い」私は言った。「昏い水と溺死者の顔、眼窩が空いた頭蓋骨が怖い。死ぬのが怖い、無駄働きが、ブルネットという名の男を見つけられずに終わるのが怖い。
 彼はくっくと笑った。「うっかり間に受けるところだった。あんたは自分に活を入れてるだけなんだな。ブルネットがどこにいるかは分からない。どちらかの船、自分の所有するクラブ、東部か、リノか、自宅でくつろいでいるか。ブルネットに会えれば気は済むのか?」
「マロイという名の男を見つけたい。巨漢の荒くれ者だ。銀行強盗で八年間オレゴン州立刑務所に食らい込んでいて、最近出所した。 そいつがベイ・シティに隠れていたんだ」私はその話をした。 言わずもがなのことまで話した。 彼の眼がそうさせたに違いない。
 聞き終わると、ひとしきり考えてから、彼はゆっくり口を開いた、彼の言葉には霧の名残りが纏わりついていた。口髭についた滴のように。 それで、いかにも分別臭く聞こえたのかもしれない。そうでないかもしれない。
「筋の通っているところもある」彼は言った。「通らないところもある。俺の知らないこともあるし、分かることもある。もし、このソンダーボーグが犯罪者用の隠れ家を経営し、マリファナ煙草を売り捌いていて、野性的な眼つきの金持ち女から宝石を奪うためにギャングを送り込んでいたとしたら、市のお偉方と通じていたと考えるのは筋が通っている。しかし、それはお偉方が彼の行動をすべて知っていたことを意味しないし、すべての警官が彼が内部と通じていたことを知っていたわけでもない。ブレインは承知していて、あんたがヘミングウェイと呼ぶ男は知らないのかもしれない。ブレインはワルだが、もう一人の男はただのタフな警官で、良くも悪くもない。正直でもないが腹黒くもない。度胸はあるが、目端が利かない。俺と同じで、警官でいることは食うための方便と割り切ってるのさ。霊能者の男はどちらでもない。彼は自分を護る手立てを、それにうってつけの市場、ベイ・シティで購い、必要な時に使用した。そんなやつが何を企んでいるのか分かりっこない。何を気にかけているのか、何を怖れているのか、分かったものじゃない。彼もまた人の子で、時に客に惚れることもあったかもしれない。リッチな年増は、紙人形より細工しやすい。ソンダーボーグ屋敷滞在の件だが、俺の勘ではこうだ。ブレインは、あんたの素性が知れたらソンダーボーグが怖気づくことが分かってた。おそらく、ソンダーボーグにはあんたに話したのと同じことを話してる。意識混濁でふらついていたので連れてきた、とかなんとか。出て行かせるか、始末するか、ソンダーボーグはさぞかし不安だったろう。ブレインはそのうちふらっと立ち寄って賭け金を吊り上げるつもりだった。それだけのことだ。たまたまあんたを利用することができ、やつらはそうした。ブレインはマロイのことも知っていたかも知れない。あいつならそれくらいのことはやりかねない」
 私は話に耳を傾けながら、ゆっくり辺りを掃くように照らしだすサーチライトと、遥か右手を行き来する水上タクシーを見ていた。

【解説】

「街灯の列が遠ざかり」は<Beyond the electroliers>。清水氏はこの冒頭部分をカットし「小さな遊覧電車の終点を過ぎると」と書き出している。それまでのところでも<electrolier>を「色電球」と訳していて、「電気シャンデリア」とは訳していない。意味不詳だったのだろう。村上訳は「やがて街灯の列が終わり」。

「突然顕わになった海岸線」は<the suddenly clear line of the shore>。清水氏はここもカットしている。村上氏は「突然現れたまっすぐな岸辺」と訳しているが、<clear>に「まっすぐな」という意味はない。ここは「はっきり、くっきり」見える、という意味だろう。

「これがそれだろう」は<This would be the one>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「それが大男の話していた桟橋らしい」と、噛みくだいている。

「半ダースのトラックのエンジンが立てるような音だ」は<like half a dozen truck engines>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「まるで半ダースのトラックが一斉にエンジンをかけているような音だ」。

「今は排気音はしなかったが、船体の両横から激しく泡立つ音が聞こえた」は<There was no sound from its exhaust now but an angry bubbling along both sides of the shell>。清水氏は「エンジンは規則的に小さな音を立てているだけだった」と書いているが、正しくない。村上訳は「今はもう排気音は聞こえなかったが、船体の両側からは怒ったようなぶくぶくという音が上がっていた」。

「再び、ベイ・シティの街灯りは、外洋の波のうねりに見え隠れする微かな光となった」は<Once more the lights of Bay City became something distantly luminous beyond the rise and fall of alien waves>。清水訳は「再び、ベイ・シティの灯火が遠ざかっていった」だが、ずいぶんとお手軽な訳しぶりだ。村上訳は「ベイ・シティ―の灯火は再び、よそよそしい波間に見え隠れする遠い、仄かなきらめきになった」。読点の打ち方もおかしいが「よそよそしい波間」というのがわからない。波に親しい波とよそよそしい波があるだろうか。二隻の船が領海内にいないことを踏まえて「外洋」と訳してみた。

「船は回るお立ち台上のファッションモデルのように得意気に見えた」は<the ship seeming to preen itself like a fashion model on a revolving platform>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「その船は、まるで回転するプラットフォームに立ったファッションモデルみたいに、きれいにしな(傍点二字)を作っていた」。<preen oneself>は「おしゃれをする、めかす、着飾る、得意になる」の意。村上氏はよく、カタカナ表記で英語をそのまま外来語扱いするが「プラットフォーム」という言葉はファッション業界で日常的に使用されているのだろうか。

「野性的な眼つきの金持ち女から宝石を奪うためにギャングを送り込んでいたとしたら」は<sending boys out to heist jewels off rich ladies with a wild look in their eyes>。清水訳は「金持ちの女たちの宝石を狙っていたとすれば」。<with a wild look in their eyes>はどこへ行ったのだろう。村上訳は「ギャングを使って身持ちの良くない金持ち女から宝石を奪う段取りをしていたとしたら」だが、どういうところから「身持ちの良くない」という訳が出てくるのか。

「リッチな年増は、紙人形より細工しやすい」は<Them rich dames are easier to make than paper dolls>。清水訳は「金持ちの女を自由にするのは、紙人形を作るよりも易しいんだ」。村上訳は「金持ちの女なんて落とすのは簡単だからな」。<make>には俗語で「異性をものにする」という意味がある。それと紙人形を「作る」ことをかけている。<dame>は「年配女性」のこと。

「あいつならそれくらいのことはやりかねない」は<I wouldn't put it past him>。清水氏はここをカットしている。<I wouldn't put it past him to do>は「あの人なら~しかねない」という意味。村上訳は「それくらいのことはやりかねないやつだ」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(3)

<One way?>と尋ねたのは、レッドか、マーロウか?

【訳文】

 微かな微笑みは顔に留まっていた。立て続けに三回ビンゴが出た。この店のサクラは仕事が速かった。男は背が高く、鷲鼻で土気色の頬はこけ、皺の寄ったスーツを着ていた。私たちのそばに歩み寄り、壁に寄りかかった。こちらを見ようとはしなかった。レッドはそっとそちらに身を屈めて訊いた。「俺たちに何か用かい、相棒?」
 長身で鷲鼻の男はにやりと笑い、歩き去った。レッドはにやりと笑い、建物を震わせるようにどすんと壁にもたれかかった。
「君を倒せる男に会ったことがある」私は言った。
「そんな奴がもっといるといいな」彼はいかめしく言った。「大男は何をするにも金がかかる。物事が身の丈に合っていない。食い物も、着る物も。寝るときもベッドから足が出る。話をするのにいい場所だと思えないかもしれないが、それはちがう。説明しよう。サツのタレコミ屋なら顔は見知ってるし、他の連中は数字以外は目に入らない。俺は水中排気できるボートを持ってる。まあ、借りられるってことだ。ここを真っ直ぐ行ったところに明かりがついていない桟橋がある。俺はモンティの荷役口を知っているし、開けることができる。時々そこへ荷物を運んでるからな。甲板の下には人があまりいない」
「サーチライトがあるし、見張りがいる」私は言った。
「何とかなるさ」
 私は財布から二十ドル札と五ドル札を抜き出し、腹の上で小さく折り畳んだ。紫の瞳が理解できないというように私を見た。
「片道なのか?」
「十五と言ったはずだったが」
「相場が急騰したのさ」
 タールで汚れた手が札を呑み込んだ。男は静かに歩み去った。そして、ドアの外の熱い暗闇の中に消えた。鷲鼻の男が私の左側に現れてそっと言った。
「あの船員服の男は友達かい? どこかで見た気がするんだが」
 私は壁から身を離して立ち、何もいわずに傍を離れてドアの外に出た。それから相手をそこに残し、百フィート先を電気シャンデリアの街灯から街灯へと歩いて行く飛び抜けて高い頭の後を追った。二分ばかりして、私は二つの売店売店の間を折れて空き地に入った。鷲鼻の男が、地面を見ながらぶらぶら歩いて姿を見せた。私は進み出て彼の横に立った。
「こんばんは」私は言った。「二十五セントで君の体重をあてて見せようか?」私は彼の方に身を傾けた。皺の寄った上着の下に銃があった。
 彼の眼は私を見ても何の感情もなかった。「しょっぴかれたいのか? 私は法と秩序を維持するためにこの区間に配置されている」
「今まさに誰がそれを破ってるというんだ?」
「あんたの友だちの顔に見覚えがある」
「そのはずさ。あいつは警官だ」
「ふん」鷲鼻の男は辛抱強く言った。
「じゃあ、そこで見かけたんだろう。お休み」
 彼は踵を返してもと来た方へぶらぶら歩いて行った。長身の男は視界から消えていた。私は心配しなかった。あの男のことを気遣う必要はなかった
 私はゆっくり歩き続けた。

【解説】

「立て続けに三回ビンゴが出た。この店のサクラは仕事が速かった」は<Three bingoes were made in a row. They worked fast in there>。清水訳は「つづけざまに三回、ビンゴがやられた。彼らがやることはすばやかった」。村上訳は「三つのビンゴが一列に並んだ。ここの店はなかなか段取りが早い」だ。<in a row>は、「一列に」という意味もあるが、「連続的に」の意味もある。村上氏はビンゴを知っているのだろうか。また、<They>だが、「彼ら」や「この店」では、何のことかわからない。これは前述の<the house players>を指している。

<「片道なのか?」「十五と言ったはずだが」「相場が急騰したのさ」>は<“One way?” “Fifteen was the word.” “The market took a spurt.”>。清水氏はここを<「片道かね?」私はうなずいた」としている。とんでもない改変だ。村上訳は「片道料金のつもりだったのか?」と私は尋ねた。「十五ドルでいいって言ったぜ」「相場が上がったのさ」>と、初めの台詞をマーロウの言葉だと解している。

<he said>も<I said>も省かれているので、誰が言ったかは前後から見当をつけるしかない。一つめの台詞の前にあるのは<The purple eyes watched me without seeming to>。<without seeming to>は「~していると見えない(分からない)ように」という意味だ。<The purple eyes>は当然レッドのことだから、次の台詞は二十五ドルの意味を計りかねているレッドの言葉だと取るのが普通だ。

レッドは十五ドルの仕事と考えていたから、二十五ドルに驚いたのだろう。もし、相手が往復料金と考えていたなら三十ドル出すはずだ。そこで初めて片道料金と気づいて、帰りはどうするつもりなのかを計りかねて訊ねたのだ。もし、村上氏の訳が正しいなら、マーロウはこの危険な仕事にレッドを巻き込むことを当然視していることになる。私の知ってるマーロウは決してそんな真似をしない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(2)

<I wouldn't be surprised>が「楽しそうだ」になるのが村上流。

【訳文】

 いかつい赤毛の大男が、凭れていた手すりから身を起こし、無雑作に体をぶつけてきた。汚れたスニーカーに、タールまみれのズボン、破れた青い船員用ジャージの残骸に身を包み、頬には黒い筋があった。
 私は足をとめた。相手にするには大き過ぎた。私より三インチは背が高く、三十ポンドは重かった。しかし、私としては、そろそろ誰かの歯に一発お見舞いする頃合いだった。たとえそのせいで腕が義手になったとしても。
 灯りは暗く、ほとんど男の背後にあった。
「どうかしたかい、相棒?」彼は物憂げに言った。「地獄船に乗り損ねたのか?」
「シャツを繕った方がいい」私は言った。「腹が見えている」
「もっと酷い目に遭ってたかもしれない」彼は言った。「そのふくらみはハジキだ。おまけにそんな細身のスーツときてる」
「いらぬ詮索だ。何か思うところでもあるのか?」
「とんでもない。ただの好奇心さ、気を悪くしないでくれ」
「いいから、人の邪魔をするな」
「いいとも。俺はここでひと休みしているだけさ」
 彼は微笑んだ。生気のない疲れた微笑みだ。夢でも見ているようにソフトな声で、大男にしては驚くほど繊細だった。それは私に、何故か好意を感じている、もう一人のソフトな声の大男を思い起こさせた。
「あんたはアプローチの仕方を間違ったのさ」彼は悲しげに言った。「俺のことはレッドと呼んでくれ」
「そこをどいてくれ、レッド。優秀な人間にも間違いはある。そいつが背中を這い上がるのを感じる」
 彼は用心深くあたりを見回し、浮桟橋の待合所の隅に私を連れて行った。我々の他には誰もいないようだった。
「あんたはモンティに乗りたいんだろう? 力になるぜ。何か理由があるのか?」
 派手な服を着て陽気な顔をした人々が我々を通り抜けてタクシーに乗り込んだ。私は彼らが行ってしまうまで待った。
「その理由はいくらだ?」
「五十ドル。ボートに血を流したら、あと十ドル」
 私は男を避けて歩き出した。
「二十五」彼はそっと言った。「十五でいい。もし友達を連れてきてくれたら」
「友達などいない」私はそう言って歩き去った。彼は止めようとしなかった。 
 私はセメントの歩道を右に曲がった。小さな電気自動車が、妊婦でも驚かないような小さな警笛を鳴らしながら、がたごとと行き交っていた。最初の桟橋のたもとには、すでに人でいっぱいの派手なビンゴ・パーラーがあった。私は中に入り、賭けをする人々の後ろの壁にもたれて立った。そこには大勢の客が立って、席が空くのを待っていた。
 私はいくつかの数が電光掲示板に表示されるのを眺め、進行係がそれを読み上げるのを聞き、店のサクラを見つけようとしたが、無理だった。それで店を出ようと振り向いた。 
 タールの匂いがする大きな青みが私の傍に形をとった。「金がないのか―単にケチなだけか?」静かな声が私の耳に囁いた。
 私はもう一度男を見た。何かで読んだことはあるが、このような眼を見るのは初めてだった。菫色の眼だ。ほとんど紫と言っていい。少女のような眼だ、それも美少女の。皮膚は絹のように柔らかく、軽く赤みを帯びていたが、日灼けはしない。繊細過ぎるのだ。彼はヘミングウェイより大きく、かなり若かった。ムース・マロイほどには大きくなかったが、足は速そうだった。髪は金色にきらめく赤の色合いを帯びていた。しかし、眼を除けば、地味な農夫のような顔で、芝居がかった美貌の持ち主ではなかった。
「仕事は何だ?」彼は訊ねた。「私立探偵か?」
「答える義理はない」私は声を荒げた。
「そうじゃないかと踏んだんだ」彼は言った。「二十五では高すぎるか? 必要経費で落ちるんだろう?」
「いや」
 彼は溜め息をついた。「どうせ思いついたのはひどい代物だった」彼は言った。「あんたはずたぼろにされてしまうだろう」
「そう聞いても驚かないね。何で食ってるんだ?」
「こちらで一ドル、あちらで一ドルさ。警官だったこともある。追い出されたんだ」
「なぜそんなことまで打ち明けるんだ?」
 彼は驚いたようだった。「事実だからさ」
「きっと、相手構わず、ため口をきいていたんだろう」
 彼はかすかに微笑んだ。
「ブルネットという名の男を知っているか?」

【解説】

「いかつい赤毛の大男」は<A big redheaded roughneck>。清水訳は「赤い髪の人相がよくない男」。村上訳は「見るからにタフそうな赤毛の大男」。<roughneck>は石油採掘用の井戸を掘る掘削リグで働く労働者のことを指す言葉だが、転じて「乱暴者、荒くれ者」の意味となる。いずれにせよ「人相」は関係しない。現に後の方で清水氏はこの男のことを「平凡な百姓の容貌(かお)だった」と訳している。

「汚れたスニーカーに、タールまみれのズボン、破れた青い船員用ジャージの残骸に身を包み」は<in dirty sneakers and tarry pants and what was left of a torn blue sailor's jersey>。清水訳は「薄いゴム底の靴を履きよれよれのズボンにみすぼらしい船員の青い制服を着た」。「スニーカー」という言葉が一般的になる前の、時代を感じさせる訳である。<tarry>は「タールで汚れた」という意味で、「よれよれの」というのとは違う。村上訳は「汚れたスニーカーに、タールのシミの付いたズボン、船乗り用の青いジャージー服の残骸のようなものを身にまとい」。

「しかし、私としては、そろそろ誰かの歯に一発お見舞いする頃合いだった。たとえそのせいで腕が義手になったとしても」は<But it was getting to be time for me to put my fist into somebody's teeth even if all I got for it was a wooden arm>。清水訳は「しかし、たとえ、腕がしびれるような目にあおうとも、黙ってはいられない気持だった」。村上訳は「しかし私としては、もしたとえそのおかげで義手をつける境遇になったとしても、誰かの口元に一発食らわせずにおくものかという気分だった」。

「灯りは暗く、ほとんど男の背後にあった」は<The light was dim and mostly behind him>。村上氏は「明かりは暗く、おおむね私の背後にあった」と訳している。単純なミスだ。校閲係は何をしてたのか。清水訳は「灯火はうすぐらく、ほとんど彼の背後にあった」。

<「シャツを繕った方がいい」私は言った。「腹が見えている」>は<“Go darn your shirt,” I told him. “Your belly is sticking out.”>。清水氏はここを<「止してくれ!」と私はいった。「お前の知ったことじゃなかろう」>と作文している。村上訳は<「シャツをつくろってこいよ」と私は言った。「腹が丸見えだぜ」>。

「そのふくらみはハジキだ。おまけにそんな細身のスーツときてる」は<The gat's kind of bulgy under the light suit at that>。清水氏はここをカットしている。前に銃に関する言及をカットしたからだろう。ずいぶん後を引いている。村上訳は「そんなぴたりとしたスーツじゃ、ハジキをつけてるのは丸わかりだ」。

「あんたはアプローチの仕方を間違ったのさ」は<You got the wrong approach>。清水氏はここを「誤解しないでくれ」と訳しているが、ここは船に乗るやり方を言っているので、自分に対する接触の仕方ではない。村上訳は「あんた、やり方が間違っていたんだ」。

「浮桟橋の待合所の隅に私を連れて行った」は<He had me into a corner of the shelter on the float>。清水氏はここを「そして、私の前に立ちはだかった」と訳している。あまり調子がよくなかったのかもしれない。真剣に訳す気が感じられない。村上訳は「そして、浮き桟橋の端に私を追い込んでいった」。こちらは<the shelter>をトバシている。

「芝居がかった美貌の持ち主ではなかった」は<with no stagy kind of handsomeness>。清水氏は「芝居に出てくるような親しみのある容貌(かお)ではなかった」と訳している。<stagy>は「芝居がかった、わざとらしい」の意味で「親しみのある」というのとは違うと思うのだが。村上訳は「派手さはないが、顔立ちは整っている」と、「素朴な農夫の顔」という割に、ずいぶん好意的な見解である。

「どうせ思いついたのはひどい代物だった」は<It was a bum idea I had anyway>。清水訳は「余計なお世話かも知れないが」。これも決まり文句を流用しているだけで訳とはいえない。村上訳は「いずれにせよ、無謀な試みだ」。<It was>と単数扱いされている<a bum idea>を「いずれにせよ」というのはおかしい。この<a bum idea>は、レッド自身の考えを意味している。<It was a bum idea that I had anyway>と、省略されている<that>を補えば意味がはっきりする。

「そう聞いても驚かないね」は<I wouldn't be surprised>。清水訳は「そんなことはわかってる」。これなら分かる。村上訳は「楽しそうだ」。これはやり過ぎというものだろう。翻訳の域を越えて、マーロウに好き勝手をしゃべらせる権利は訳者にはないはずだ。

「きっと、相手構わず、ため口をきいていたんだろう」は<You must have been leveling>。清水氏はここと、その後の<He smiled faintly>をカットしている。村上訳は「きっと本当のことを言い過ぎたんだろう」。<leveling>は「高さを均すこと」。上の気に入らないことまで、平気で口に出していたことをいうのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(1)

<gangster mouth>だが、「やくざっぽい口元」とはどういうものか?

【訳文】

《二十五セントにしては長い航海だった。古いランチを塗り直し、全長の四分の三にガラスを張った水上タクシーは、碇を下ろしたヨットの間を通り抜け、防波堤の端に広く積み上げた石の周りをすり抜けた。何の前触れもなく波がうねり、ボートはコルクのように跳ねた。しかし、宵のうちでもあり、船酔いをする余地はたっぷりあった。一緒に乗っていたのは三組のカップルと、ボートを運転する強面の男だけだ。右の尻ポケットに黒い革のヒップホルスターを入れているため、左の尻で座っていた。岸を離れるやいなや、三組のカップルは互いの顔にかじりつきはじめた。
 私はベイ・シティの街灯りを見つめ返し、食後の胃に負担をかけないようにした。散らばった光の点を繋げると、夜のショーウィンドウに飾られた宝石入りの腕輪になった。やがて輝きは薄れ、柔らかなオレンジ色の光となって波間に見え隠れした。白い波頭の立たない長く滑らかなうねりで、夕食のバーでウィスキー漬けにならなかったことを嬉しく思わせるのにちょうどいいうねりだった。タクシーはうねりに乗って上に下に滑った。コブラが踊るように、悪意ある滑らかさで。肌寒かった。船乗りの関節から出て行くことのない湿気を帯びた寒さだ。<ロイヤル・クラウン>の輪郭を描いていた赤いネオンの光の束が左へと消えていき、彷徨える灰色の幽霊のような海霧にかすんで、それからまた、新しいビー玉のような輝きを取り戻した。
 我々は船から十分な距離を取った。遠くから見るとなかなか素敵に見えた。微かな音楽が海を渡ってきた。海から聞こえてくる音楽ほど蠱惑的なものはない。<ロイヤル・クラウン>は桟橋に係留しているのと同じくらいしっかり四本の大綱で固定されていた。浮き桟橋は劇場の入口を飾る庇のようにライトアップされていた。やがてそれらのすべてが遠くへと消えていき、別の、古びた、小さなボートが夜の中をこっそりこちらに近づいてきた。あまり見映えはよくなかった。錆と汚れの目立つ改装された海上貨物船で、上部構造が甲板の高さまで切り取られ、切り株のような二本のマストは無線アンテナの高さに間に合う長さに切られていた。<モンテシート>にも明かりがともり、音楽もまたじめじめした暗い海を漂ってきた。いちゃついていたカップルは互いの首から舌を離し、船を見てくすくす笑った。
 水上タクシーは、大きなカーブを描いて、乗客に適度なスリルを味わわせる程度傾き、速度を緩めて乗船用の台についた麻の防舷材に船体を寄せた。タクシーはエンジンをアイドリングさせ、バックファイアーが霧の中に響いた。探照灯が船から五十ヤードほどのところを気だるげに円を描いて掃照していた。
 タクシーの男が乗船用の台に船を繋ぐと、金釦のついた青いメス・ジャケットを着た黒い眼の男が、明るい笑顔とやくざっぽい口調で娘たちに手を貸してタクシーから船に上げた。私が最後だった。私を見る目のさりげなさが彼について物語っていた。さりげなく私のショルダー・ホルスターを触る手つきがさらに多くを物語った。
「だめだ」彼は穏やかに言った。「だめだ」
 なめらかなハスキーな声だった。ならず者が無理して上品さを気取っている。彼は水上タクシーの男に顎をしゃくった。タクシーの男は短い鋼索を係柱に掛け、少し舵輪を回し、乗船用の台に上った。そして、私の後ろにやってきた。
「銃の持ち込みは禁止されてる。すまないが、そういうことだ」メス・ジャケットが喉を鳴らした。
「預けてもいい。これは私の服の一部みたいなものだ。私はブルネットという男に会わなきゃいけない、仕事なんだ」
 彼は少しばかり興が乗ったように見えた。「聞いたことのない名だな」彼は微笑んだ。「お帰りはあちらだ」
 タクシーの男が私の右腕に手首をひっかけた。
「ブルネットに会いたいんだ」私は言った。声は弱弱しかった。老婦人のような声だった。
「議論の余地はない」黒い目の男は言った。「ここはベイ・シティでもなけりゃ、カリフォルニアでもない。信頼できる筋によれば、合衆国でさえない。帰るんだな」
「ボートに戻ろう」タクシーの男が私の背中でうなるように言った。「二十五セントの借りだ、行こう」
 私はボートに戻った。メス・ジャケットは無言で人あたりの良い微笑を浮かべてこちらを見ていた。私はそれがもはや微笑でなくなるまでずっと見続けていた。それは顔でさえなくなり、ただの乗船用の灯りを背に受けた暗い人影でしかなくなった。それを見ているうちに腹がすいてきた。帰りは長く感じられた。私はタクシーの男に話しかけなかったし、男も話しかけてはこなかった。桟橋に着いた時、彼は二十五セントを私に手渡してくれた。
「諦めるんだな」彼はうんざりしたように言った。「何度行っても放り出されるだけだ」
 中に入るのを待っていた六人ほどの乗客が彼の言葉を聞き、私を見つめていた。私はその間を通り抜け、浮き桟橋の小さな待合室の戸を抜けて、陸地の端にある浅い階段に向かった。》

【解説】

「船酔いをする余地はたっぷりあった」は<there was plenty of room to be sick>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ボートはがらがらだったから、船酔いしてもそれほど面倒はなさそうだ」。

「船乗りの関節から出て行くことのない湿気を帯びた寒さだ」は<the wet cold that sailors never get out of their joints>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「船乗りの関節にしみ込んで消えることのない、じっとりとした冷気だ」。

「<ロイヤル・クラウン>の輪郭を描いていた赤いネオンの光の束が左へと消えていき、彷徨える灰色の幽霊のような海霧にかすんで、それからまた、新しいビー玉のような輝きを取り戻した」は<The red neon pencils that outlined the _Royal Crown_ faded off to the left and dimmed in the gliding gray ghosts of the sea, then shone out again, as bright as new marbles>。

清水氏はここを「ロイヤル・クラウン号の赤いネオンが新しいオハジキのように光っていた」と訳しているが、いくらなんでも手抜きが過ぎる。村上訳は「ロイヤル・クラウン号の輪郭を彩っているネオンの光束が左の方に消えていき、流離(さすら)う海の幽霊のごとき霧の中にぼんやりかすんだが、やがてまた現れ出て輝き、真新しいおはじきのように目映く光った」と、例によって美文調だが<red>を抜かしているのが惜しい。

「我々は船から十分な距離を取った」は<We gave this one a wide berth>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「我々はこの船とのあいだにたっぷりと距離を置いた」。

「四本の大綱で固定されていた」は<on its four hawsers>。清水氏はここもカット。村上訳は「四本の太綱によって」。<hawser>は「(停泊・曳航用などの)大綱、大索

「タクシーの男が乗船用の台に船を繋ぐと」は<The taximan hooked to the stage>。清水氏はどうかしたんだろうか、ここもカットしている。村上訳は「水上タクシーを操縦していた男が、乗船用の台に船を繋ぐと」。

「金釦のついた青いメス・ジャケットを着た黒い眼の男が、明るい笑顔とやくざっぽい口調で娘たちに手を貸してタクシーから船に上げた」は<a sloe-eyed lad in a blue mess jacket with bright buttons, a bright smile and a gangster mouth, handed the girls up from the taxi>。清水氏は「金ボタンの青色のタキシードを着た眼の鋭い若者が女たちに手を貸して、タクシーから引っぱり上げた」。村上訳は「つり上がった目の若者がやってきて、娘たちが水上タクシーから乗り移るのに手を貸した。紺の上級船員服に目映いボタンをつけ、きらきらした目と、やくざっぽい口元をしていた」だ。

「メス・ジャケット」とは「夏の略式フォーマルとして用いられる上着の一つで、燕尾服の下部を切り落としたような短い丈のジャケット」のこと。タキシードではないし、船員服でもない。<gangster mouth>だが、村上氏のいう「やくざっぽい口元」というのはどういうものか今一つよく分からない。

「私を見る目のさりげなさが彼について物語っていた。さりげなく私のショルダー・ホルスターを触る手つきがさらに多くを物語った」は<The casual neat way he looked me over told me something about him. The casual neat way he bumped my shoulder clip told me more>。清水氏は「彼はなにげなく私に一瞥をくれた。私は彼の眼つきが気に入らなかった」と二つ目の文をスルーしている。村上訳は「さりげなく抜かりのない目で私を検分する様子で、この男の素性はおおよそ見当がついた。私の肩の拳銃クリップを探しあてるときの、さりげなく抜け目のない手つきから更に多くがわかった」。

「ならず者が無理して上品さを気取っている」は<a hard Harry straining himself through a silk handkerchief>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「強面(こわもて)のやくざものが、上品な装いの裏に牙を隠している」だ。<strain oneself>は「気張る、力む」の意味だ。<harry>には「うるさく悩ます、執拗に攻撃する、蹂躙する」等の意味がある。そういえば<Dirty Harry>という映画があった。

「これは私の服の一部みたいなものだ」は<It's just part of my clothes>。前の部分でホルスターを吊るストラップのさわりをカットしたために、清水氏はここをカットしなければならなかった。村上訳は「こいつは服装の一部みたいなものなんだ」。

「彼は少しばかり興が乗ったように見えた」は<He seemed mildly amused>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「彼はいくらか興に入ったような顔をした」。

「信頼できる筋によれば」は<by some good opinions >。清水氏はここをカットしている。村上訳は「という意見も捨てがたくある」。

「メス・ジャケットは無言で人あたりの良い微笑を浮かべてこちらを見ていた」は<Mess-jacket looked at me with his silent sleek smile>。清水氏はここで「タクシーの男は冷やかに笑って私を見つめていた」と人違いをやらかしている。タクシーの男は傍にいるので、黒い点にはならないはずだ。村上訳は「船員服の男は愛想の良い無言の微笑みを浮かべて私を見ていた」。

「ただの乗船用の灯りを背に受けた暗い人影でしかなくなった。それを見ているうちに腹がすいてきた」は<no longer anything but a dark figure against the landing lights. I watched it and hungered>。清水訳は「彼のからだぜんたいが一つの黒い点になった」だ。一文が抜け落ちているし、余韻もない。よほど調子が悪かったのだろう。村上訳は「乗船用灯火を背景にして立つ暗い人影でしかなくなってしまった。それを見つめているうちに腹が減ってきた」。

「諦めるんだな」(略)「何度行っても放り出されるだけだ」は<Some other night,(略)when we got more room to bounce you>。清水氏は「諦めな」(と彼は熱のない声で言った。)「ためにならねえぜ」。村上氏は珍しく一文にまとめて「あんた、これくらいで済んで幸運だったと思った方がいいぜ」。原文通りに訳しても意味が通じないからだろう。

「陸地の端にある浅い階段に向かった」は<towards the shallow steps at the landward end>。清水訳は「海岸へ通じている桟橋を渡って行った」と、かなり意味がちがう。村上訳は「陸地の端についている浅い階段の方に向かった」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第34章(2)

<Play the hunch>は「直感で行動する」の意味だ。さてどう訳す?

【訳文】

《私がその男を見つけたのは白いバーベキュー・スタンドだった。長いフォークでウィンナーを突っついていた。まだ春先だというのに彼の商売は繁盛しているようだ。彼の手が空くまでしばらく待たねばならなかった。
「遠くの方にいるのは何という名なんだ?」私は鼻先で示して訊いた。
「モンテシート」彼は落ち着いた表情で私を見た。
「それなりの金さえあれば、あそこで時間を潰すことができるだろうか?」
「何をして潰すんだね?」
 私は冷ややかに笑った。とてもタフに。
「ホットドッグ」彼は売り声をあげた。「旨いホットドッグだよ、みんな」彼は声を落とした。「女かね?」
「いや、考えてるのは、気持のいい海風の入る部屋、美味い食事、誰にも煩わされることのない。ある種の休暇だ」
 彼は身を引いた。「何を言ってるのかさっぱりわからんね」彼はそう言い、また売り声をあげはじめた。
 また客が現れた。何故この男にかかずらっているのか分からなかった。ちょうどそんな顔をしていたということだ。ショーツ姿の若いカップルがホットドッグを買って、ぶらぶら歩いて行った。男の腕が女の背中に回され、互いに相手のホットドッグを食べていた。
 男が一ヤードばかり近寄ってきて私の方をじっと見た。「まさに今、『ピカルディの薔薇』の口笛でも吹いているべきなんだろう」彼は言った。そして少し間を置いてから、彼は言った。「それには金がかかるよ」
「いくらだ?」
「五十だな。それ以下じゃ無理だ。あちらがあんたに用でもなけりゃな」
「かつて、ここはいい街だった」私は言った。「頭を冷やすにはもってこいだった」
「今でもそうだと思っていた」彼は間延びした声で言った。「けど、なんで俺に訊いたんだ?」
「特にわけはない」私は言って、一ドル札をカウンターにほうった。「貯金箱に入れておくさ」私は言った。「でなきゃ、口笛で『ピカルディの薔薇』でも吹いてな」
 男は札をひったくり、縦に二つに折り、横に二つに折り、もう一度折った。それをカウンターの上に置き、中指を曲げて親指の裏にあてて弾いた。折り畳まれた札は軽く私の胸にあたり、音もなく地面に落ちた。私は屈んでそれを拾い、素早く振り返った。刑事らしきものは私の後ろにはいなかった。
 私はカウンターに凭れ、一ドル札をもとのように置いた。「誰も私に向かって金を投げない」私は言った。「みんな手渡してくれる。そうしてもらえないだろうか?」
 彼は一ドル札を取って、広げ、伸ばし、エプロンで拭いた。レジスターを叩いて開け、その中に札を落とし入れた。
「金は臭わないっていうよな」彼は言った。「時々疑わしくなる」
 私は何も言わなかった。何人か客が来てホットドッグを買って帰っていった。夜は急に冷えてきた。
「俺なら<ロイヤル・クラウン>はやめとくね」男は言った。「あれは善良な小市民相手の船だ。せっせと溜め込んだ小金が狙いだ。俺の見るところ、あんたは刑事だ。きっと、何か企んでるんだろう。泳ぎが上手いことを祈るよ」
 そもそも、なぜあの男のところに行ったのだろうと首をひねりながら、彼のもとを去った。カマをかけろ。カマをかけて返り討ちに遭った。そのうち、目が覚めたら口の中がカマだらけになってることだろう。コーヒー一杯注文するにも、眼をつむってメニューを指さなきゃいけない破目になる。カマをかけろ、か。
 私は辺りを歩き回って、誰か後をつけてそうな様子がないか探ってみた。それから揚げ油の匂いのしないレストランを探した。そして紫のネオンがつき、葦のカーテンの後ろにカクテル・バーがある一軒を見つけた。ヘナで髪を染めた優男が小型のグランド・ピアノにしな垂れかかり、淫らに鍵盤をまさぐり、踏板の半分が抜け落ちたような声で『星への階段』を歌っていた。

 私はドライ・マティーニをぐっとやり、急いで葦のカーテンを通り抜けて食堂に戻った。
 八十五セントの夕食は捨てられた郵便袋みたいな味がした。給仕してくれたウエイターときたら、二十五セント出せば私を殴りつけ、七十五セントなら喉を裂き、一ドル五十セントに消費税をつけたらコンクリートの樽に詰めて海に放り込みそうな男だった。》

【解説】

「誰にも煩わされることのない」は<nobody to bother me>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「誰にも邪魔されない」。「ちょうどそんな顔をしていたということだ」は<He just had that kind of face>。清水氏はここもカット。村上訳は「ひとくせある顔をしていたからだろう」。<that kind of face>を「ひとくせある顔」と訳すのはちょっと無理がある。男の顔について話者はは一言も触れていない。マーロウの勘でしかないからだ。

「まさに今、『ピカルディの薔薇』の口笛でも吹いているべきなんだろう」は<Right now I should be whistling Roses of Picardy>。清水氏は「いま、"ピカデリーのバラ″を口笛で吹いてなきゃいけないのだが」と訳している。村上氏は「素知らぬ顔で、口笛で『ピカルディのバラ』(一九一六年に作曲されたヒット曲、フランスの地名)でも吹いているべきなんだろうな」と詳しく註を入れている。「ピカデリー」なら綴りは<Piccadilly>。

「かつて、ここはいい街だった」は<This used to be a good town>。清水氏はこの部分を地の文扱いで「静かな落ちついた街だった」とし、語順を入れ替え、その後でマーロウに「この街はいい街だった」と言わせている。単なるミスだろう。村上氏は「ここは昔はいい街だった」。それに続く<A cool-off town>を「ほとぼりをさますのにいいところだった」と訳している。

「今でもそうだと思っていた」は<Thought it still was>。清水氏も「いまでもそうだろう」と訳している。ところが、村上訳では「古い話をされても困る」となっている。どう読んだら、そういう訳が出てくるのだろう。

「男は札をひったくり、縦に二つに折り、横に二つに折り、もう一度折った」は<He snapped the bill, folded it longways, folded it across and folded it again>。清水訳は「彼は紙幣を拾って、細くたたみ」と短い。村上訳は「彼は札をつかみ、縦に二つに折った。それを横に二つに折り、もう一度折った」だ。

「あれは善良な小市民相手の船だ。せっせと溜め込んだ小金が狙いだ」は<That's for good little squirrels, that stick to their nuts>。清水訳は「あの船に行くのは、しろうと(傍点四字)の旦那衆ばかりなんだ」。<squirrel>は「リス」のこと。そこから「(金などを)たくわえる」という意味がある。村上訳は「あっちの船は小物相手だ。小遣い銭を巻き上げるだけさ」。

「きっと、何か企んでるんだろう」は<but that's your angle>。清水氏は「ロイヤル・クラウン号に用があるはずはない」と訳している。村上訳は「でもまああんたなりの心づもりがあるんだろう」だ。<What's your angle>は「何を企んでるんだ」という意味の決まり文句だ。

「カマをかけろ」と訳したところは<Play the hunch>。「直感で行動する」ことを意味する定型句だ。清水氏は「勘で当ってみるんだ」と訳している。村上訳は「勘に頼っただけだ」と微妙にニュアンスが異なる。清水氏は<Play the hunch>を肯定的に、村上氏は否定的に捉えている。

「カマをかけて返り討ちに遭った。そのうち、目が覚めたら口の中がカマだらけになってることだろう」は<Play the hunch and get stung. In a little while you wake up with your mouth full of hunches>。清水氏はここをカットしている。それはそうだろう。<get stung>は「(ハチなどに)刺される」の意味だが、俗に「(詐欺師などに)だまされる」ことを言う。とても肯定的には受け取れない。村上訳は「勘に頼ってしっぺ返しをくらわされたんだ。そのうちに、朝目が覚めたら、口の中が勘でいっぱいだったというようなことになるかもしれない」。

「コーヒー一杯注文するにも、眼をつむってメニューを指さなきゃいけない破目になる。カマをかけろ、か」は<You can't order a cup of coffee without shutting your eyes and stabbing the menu. Play the hunch>。清水訳は「眼をつぶって、メニューを突き出しただけでは、コーヒーを註文することはできない。勘で当ってみるのだ」。<stab>を、氏は「突き出す」と取っているが、ここは「指さす」と取らないと意味が通じない。村上訳は「目を閉じて、盲めっぽうにメニューを指ささないことには、コーヒーひとつ注文できなくなる。何ごとも勘がいちばんというわけだ」。

「ヘナで髪を染めた優男が小型のグランド・ピアノにしな垂れかかり、淫らに鍵盤をまさぐり」は<A male cutie with henna'd hair drooped at a bungalow grand piano and tickled the keys lasciviously>。清水訳は「女のような優男(やさおとこ)がグランドピアノを弾きながら」と細部をカットしている。村上訳は「髪を赤茶色に染めたやさ男が、小型のグランドピアノにかがみ込んで、思い入れたっぷりに鍵盤を撫で回し」。<bungalow grand piano>はアパート・サイズの小振りのグランドピアノのこと。

「踏板の半分が抜け落ちたような声で『星への階段』を歌っていた」は<sang Stairway to the Stars in a voice with half the steps missing>。清水訳は「力のない声で“星への階段”をうたっていた」。村上訳は「『星への階段(きざはし)』を歌っていた。声に不足があり、その階段は半分ほど段が失われていた」だ。